つれづれに:ハーレム(2022年6月24日)
HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:ハーレム
ハーレムにも来たし、ションバーグで雑誌も確かめられたし、大満足だった。折角来たのだから、通りを歩いてみることにした。ライトのものを読んでいて、アメリカの歴史を知る必要性を感じていたし、何かいいものが見つかるかも知れない。Liberation Bookstore(↑)という本屋さんが目に入った。中に入ってみた。そう広くなかったが、ぎっしりと本が並んでいた。アフリカ系アメリカとアフリカの専門店らしい。ライトで修士論文を書く身には、まさに宝庫である。店先には音楽のカセットテープが置いてあった。
後で知ったが、かつてのハーレムは公民権運動の舞台で黒人音楽のメッカだった。黒人教会ではマルコムXが講演していたし、通りでストリートミュージシャンのソウル音楽が流れ、ソウルフードが売られていた。ナイトクラブではルイ・アームストロング(↑)が渋いだみ声で歌い、トランペットを吹いていた、とこれも後で知った。まだカセットテープの時代だったのでルイ・アームストロングのテープを何本か買った。
中でも最大の堀り出し物は、Malcolm X on Afro-American History(↑)とThe Struggle for Africa(↓)の2冊である。その時はわからなかったし、英語で本を書くとは夢にも思わなかったが、その後、大学で英語の授業をする時や英文書(Africa and Its Descendants (Yokohama: Mondo Books, 1995)、Africa and Its Descendants 2: Neo-colonial Stage 、1998)を書く時に、骨子となった稀有な図書である。
「当時ハーレムは犯罪率の高い危険な街と言われていた」(→「ハーレム分館」、6月23日)のには、もちろん訳がある。あとで知ることになるが、無茶苦茶な話である。1620年にメイフラワー号に乗ってやってきたイギリス人たちは、元住んでいた人たちを蹴散らし土地を奪って定住し始めた。アフリカから帆船で奴隷を運んで来て、大農園で扱き使った。奴隷貿易と奴隷制で貯め込んだ資本で機械を作り、産業化に腐心した。ヨーロッパでは労働力と原材料を求めてアフリカとアジアで植民地化が激化し、国内では産業資本家と大農園主の二つの利害が対立した。とうとう、奴隷制を巡って利害が対立し市民戦争が勃発、殺し合いを始めた。それが南北戦争である。共和党を創った資本家に担がれたリンカーンが大統領になったが、制度は揺るがず、実質的な奴隷制は1950年代の公民権運動まで続いた。1908年にミシシッピで生まれたライトが、1927年にメンフィスに、その後1937年にニューヨークに行ったのも珍しい話ではなかったわけである。南北戦争で法的には解放されたはずの元奴隷には住む家もなく、財産もなく、実際には現物支給の小作人として働くしか選択肢はなかった。北部に行こうとしても、元奴隷主に雇われた貧乏白人の監督やKKKの団員に厳重に監視され、暴力を振るわれ、リンチされて殺された。(↓)それがようやく動いたのが1890年代から1920年代、北部を約束の地、「ミシシッピで知事になるよりはむしろシカゴで街燈柱でいる方がいい」と信じて、たくさんの黒人が北部にどっと流れ込んだ。
しかし、北部は冷たかった。押し寄せた南部の黒人たちは土地制限条約(Restrictive Covenants)に縛られて他では住めず、シカゴならサウスサイド、ニューヨークならハーレム、ロサンジェルスならワッツに押し込められた。旧白人街は流れ込む黒人で溢れて、当然スラムと化す。元白人街のぼろアパートで家主の白人に高い家賃を払わされて暮らさざるを得なかった。もちろん、仮に仕事にありつけても、奴隷と何ら変わらない社会の底辺で、安い賃金で扱き使われただけだった。(↓「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」、1986年)そんなハーレムの図書館に行ったわけである。
次回は、ラ・ガーディアで、か。