つれづれに:宮崎へ(2022年8月14日)
HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:宮崎へ
私は非常勤ばかりだったので特別に挨拶の必要もなく、先輩に報告するだけでよかったが、妻はやっと家の近くの自分の通っていた高校(↑)に異動出来た一年目で退職することになって、それなりの挨拶もあった。子供も二人あり、異動先近くの父親の家に同居している人がまさか一年目で退職すると考える人はいなかったようで、他の教員とはうまく行かないが頼りにされ始めていた同じ国語科の男性教員が、特にがっくりとしていたらしい。異動した年に県立高校からは珍しく県代表で野球部のチームが甲子園に行った。中学校から、普通なら特待生として私学に引き抜かれる投手二人が入学して来たらしく、あれよあれよろいう間に甲子園に行くことになった。私も妻も高校野球に関心があったわけではないが、担任した生徒は大喜び、当日は子供二人も担任の生徒に混じって応援に行ったようだ。そんなこともあって、ときどき学校帰りに生徒が家に寄ってくれたりしていた。引っ越し前にはわざわざ何人かが挨拶に来てくれた。宮崎に来てからも、何年かは年賀状が届いていた。宮崎の話がなければ、高校を辞める理由もないので、そのまま続けていた可能性は高い。私の大学の口以外は、充分にそれぞれが楽しく過ごしていたわけである。
本人は二人の出産に家事に育児に、その上私の母親の借金までが重なって大変な毎日、元々体も弱かったので、客観的に見てもそのまま続けるには負荷がかかり過ぎていた。若さと母親の自覚だけで持っていたので、「再び広島から」電話があって「宮崎決まってんて」と話したとき「ほんと、わたし辞めてもいいの?」が第一声だった。また妻の父親が一人暮らしになるが「熊本の人やから九州には馴染みもあるし、気軽に宮崎に来られるから、パパは大丈夫よ」とも言っていた。妻の父親は上3人が男の子で、妻がずいぶん年が行ってから生まれた初めての女の子だったこともあり、ずいぶんの可愛がりようだったらしい。しかし、当の本人はそれほどでもなく、父親が結婚相手の身上調査でもしようものなら「家を出て行くで」と3番目の人に脅されて、父親が私の身上調査を断念したと聞く。一番目の時は実際に調査を依頼して反対をしたが、結局は押し切られたらしい。娘の小学校(↑)と息子の幼稚園にも挨拶を済ませた。
なかなか大学の職が決まらず、やっと決まった先が遠い宮崎になってしまったが、単身赴任は考えたことはない。4人がいっしょの方がいいと親二人は考えていたし、子供二人は特に反対もしなかった。問題はないと子供の意向について考えもしなかったが、一言聞いておくのが自然だったかも知れない。普段から、親と子もたまたまの縁で、元々別の人間やからと言っていたのだから、尚更である。飛行機で事故にでも遭ったらと心配した妻の意向で、列車で行くことにした。3月28日の朝、西明石駅(↑)から新幹線に乗った。妻の父親と弟夫婦と甥が見送りに来てくれた。小倉で日豊本線の特急(↓)に乗り換え、宮崎に着いた。
宮崎に着いたのは夕方でまだ明るかったが、雨模様で肌寒かった。知り合いに任せていた宿泊先は国家公務員宿舎だったが、これがよくなかった。トイレと浴場が共用、それに食事がお粗末過ぎたし、建物自体も古くて饐(す)えた臭いもして、侘しい感じが漂っていた。学校が終わってから遅くまで引っ越しの荷造りが続いていたし、荷物を出した後も前の晩まで何やかやと大変だった。当日も朝早くから起きて出る間際までいろいろ出発準備に追われていたし、新幹線はまだしも、小倉からの特急の5時間が特に長かった。宿泊所に着いた時は、ほっとして余計にどっと疲れが出始めていた。元気なら一日くらいは何とか我慢できたかも知れないが、強行日程のあとの妻には酷だった。それに南国だからという思い込みで、3月末の宮崎の寒さへの備えも不十分だった。色んな要素が重なり過ぎたのである。すぐにホテルを探し回って何とか近くのホテル(↓)をみつけて移ったが、辺りはすでに真っ暗で、雨も降り続いていた。何とも後味の悪い、最悪の宮崎初日だった。
次は、借家に、か。