つれづれに:自転車で(2022年8月17日)
HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:自転車で
引っ越してきて「借家に」入ったのは、大学を推薦してくれた人の家を借りたからである。国家公務員なので大学の近くに職員宿舎も二つあったようだが、家探しはしなかった。最初から一軒家を借りて住むつもりだったので、何かの話から「住むところどうしますか?」と聞かれたとき、そのことを伝えた。そのとき「ちょうど、前に住んでいた家が空いてますので、住んでもらっていいですよ」と言われた。場所を聞いて大学から遠い気もしたが、大学の人と会わなくて済むし、人目を気にしなくていいのでかえっていいかも知れない、と考え直した。妻にその話をしたら賛成してくれたので、その家を借りることにした。敷金や礼金なども要らずに、不動産屋さんを通さずに相場の家賃で貸してもらえることなった。宮崎神宮駅(↑)の少し西側辺りに県立図書館などの文化施設があり、その近辺に旧宮崎大学教育学部と農学部と工学部の別々のキャンパスがあるらしかった。推薦してくれた人は元々農学部にいたので、通勤圏内に分譲されていた新築の家を購入したわけである。宮崎医科大学(↓)に異動した時に、通勤圏内の南宮崎駅近くに新築の分譲住宅を新たに購入して、まだ処分せずに空き家にしたままだった。
昔は街の中心部が南宮崎駅辺りだったようだが、その時は宮崎駅や市役所のある橘通が中心になっていたようだった。橘通の近くにデパートが3つあり、近辺の商店街もまだに人通りがあった。宮崎神宮の大祭の神武さまは宮崎神宮(↓)から橘通をパレードする。医科大は郊外の清武町に創られた。政治的な思惑もあったのだろう。地方は政治家と建設業者の持ちつ持たれつが多いので、大学の建設は政治家の一大行事でもある。組合の強かった旧宮崎大学は文部省からは敬遠されて、予算も国立大学の中では最も少ない大学の一つだった。だから新設の医科大学には地元選出の3人の国会議員の介入が強かったようで、組合もない文部省のいいなりの大学になった。当然大学の建設にも口を挟んだだろう。国からの大型予算を地元に振り分けて、次の選挙での地盤を固める、大事な戦略である。
家からの交通手段は自転車なので、行動範囲は概ね自転車で行ける範囲が多かった。少し北の海側に市民の森があり、西側には宮崎神宮と平和台があった。家族でよく出かけた。市民の森まで行けば、少し足を延ばせば一ッ葉海岸があり、時々砂浜にまで行った。買い物は私の役目でデパートや大学の途中の量販店や、宮崎神宮と江平の八百屋さんなどに自転車で通った。最初は驚くほどメロンが安く八百屋さんにあったので、いろいろ世話になった人に送り届けた。今なら宮崎観光ホテルのバイキングに家族ででかけることが多かったと思うが、まだバイキング形式のレストランはなく、デパートや一番街の中華料理店や大淀川にかかる橋を渡った先の中華料理店、それに大淀河畔(↓)のレストランに四人で出かけた。平和台にもレストランがあったようだが、みんなで行ったことはない。
市民の森は案内板には阿波岐原森林公園と書いてある広い公園である。自転車で20分くらいで行けた。引っ越して来てからしばらく経った頃に、花菖蒲園に花が咲き出し、妻は麦わら帽子とランニングと短パンの恰好で、毎日自転車に乗って花菖蒲(↓)を描きに行っていた。後に装画を頼まれて、この頃の絵が本(↓)に残っている。
→上田進『琴線にふれる教育を求めて』(1993/3/20)
1月の終わりから2月にかけては梅(↓)だった。暁方に梅の実を拾いに行ったこともある。ウェブで調べると「阿波岐原森林公園の中にあり、約210本の紅梅、白梅」の樹が植わっていたようである。梅の絵が手製カレンダーに残っている。(↓)
→「小島けい2006年私製花カレンダー2006 Calendar」2月
明石は坂道も多く、地面そのものが少なかった。昔は山や畑ばかりだったようだが、神戸や大阪のベッドタウンになってからは須磨、垂水、舞子、朝霧、明石、西明石と西へ、西へと開発先が延びて行った。非常勤を頼まれた神戸学院大学(↓)も1966年に創られた時は周りは畑だったようである。自転車で急な坂を登って土曜日に3コマの授業に通った。最初はレベルも高くなかったが、薬学部が出来てから評価も上がったようである。専任の話は一切なかったが、学生はおとなしく、可もなく不可もなくという印象が残っている。他の非常勤のように満員電車や大阪梅田の地下街の混雑で疲れなくて済んだのは何よりだった。もちろん、宮崎には満員電車も地下街の混雑も存在しない。電車も1時間か2時間に一本で、別世界である。
こちらに来て長いのでずいぶんと慣れてしまったが、先日鹿児島から来た人が「今頃稲刈りですか?」とびっくりしていた。「台風の前に刈り入れをする超早場米ですよ」と言ったら「鹿児島にはありませんね」と言っていた。「台風銀座は同じなのに、対処の仕方がずいぶんと違うが、どうしてなんだろう?」と一瞬考えた。「なんでやろ?」
次は、黒人研究の会シンポジウム、か。