つれづれに:旅番組(2024年4月15日)

つれづれに

つれづれに:旅番組

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

 独り言や面接で英語が勝手に口から出て来るようになったあと、たくさん英語を聞いた。ちょうどその頃にNHKの衛星放送を利用できたのが大きかった。家でも研究室でも利用できた。研究室ではかなりの量の映像を録画した。宮崎ではNHK以外に民放が2局しかなく、2か国語放送もほとんどない時代である。赴任した当時、講師の私以外に日本人の助教授とアメリカ人の外国人教師の同僚がいた。普通は英語教師なら同僚に外国人がいて有難いと思うのかも知れないが、戦後すぐの生まれの故でか、戦争に負けて無条件降伏を飲まされた相手国の人たちの話す英語が苦手だった。なぜか、反発を覚えた。1980年代に何度かアメリカに行って、ここにはここの良さがあるとは思ったが、過度のアメリカ化には強く反発を覚えたままだった。(→「シカゴ」)日本人の同僚は温厚な人で、アメリカ人の外国人教師と接すると問題が起きますから、何なら私が中に立ちますよと言ってくれた。日本で働くのだから日本語を使うのが自然と考えていたこともあって、有難く助言に便乗させてもらった。従って、英語が使えるようになるには自分でやるしかなかった。

道路の縁石に腰かけてパレートをながめたミシガン通り

 同僚は東京外大を出たそうだから、私とは違って英語が好きなようで、こともなげに、英語の授業ですから英語でやるのが自然ですね、と言っていた。事実、授業は全部英語でやっていた、ようである。宮崎に限らず東京から遠く離れた田舎では、東京に出るのは一番手の集団だから、その人もよく出来る人だったんだろう。私のように受験勉強が出来ずに行くところがなくて夜間に行き、大学の職場も見つからずに地方に流れて来た人種とは造りが違う。ある日その人に、どうやって英語をやってるんですかと聞いたら、もっぱらNHKの「大草原の小さな家」の2か国語放送と、ラジオの短波放送ですよ、と言っていた。筋金入りの独学の人だった。

東京外大

 衛星放送で英語放送を利用できるようになったのは、幸運だった。ニュ-ス番組も色々録画して繰り返し聞いた。ニュースの次は旅番組だった。十数年ほどの間にかなりの量の映像を録画したが、大抵は1箇所が20分程度で3か所を紹介する番組が多かった。視聴率が悪ければ番組が続かないから、欧米の観光地が主体である。中にはオーストラリア製作の番組もあった。欧米に人気の北アフリカのモロッコなどもあった。旅番組は気楽で楽しいので、耳にも入りやすい。行ったことのある場所だと、親しみもわく。二人で案内しているものなら、二人の会話が楽しめる。会話の場合は、ニュースよりも早口で喋(しゃべ)る。一番のお気に入りは、アメリカ行で最初に行った→「サンフランシスコ」と、行ったことはないがジャズフェスティバルで有名なニューポートである。ゴールデンゲートブリッジやケーブルカーも映っていたし、ジャズの軽快な演奏も紹介されていた。聞き取りのレベル2と言ったところか。

ジャズフェスティヴァルのルイ・アームストロング