つれづれに:一大搾取機構(2024年7月27日)

つれづれに

つれづれに:一大搾取機構

 →「金とダイヤモンド」をめぐって→「オランダ人」と→「イギリス人」は殺し合いをしたが、結局はアフリカ人から絞り取るという妥協点を見つけて国を創った。1910年の南アフリカ連邦である。87パーセントのアフリカ人抜きの選挙でどちらも過半数を取れなかったので、南アフリカ連邦は連合政権だった。第2次世界大戦後の1948年の総選挙で誕生したアパルトヘイト政権は、アフリカーナの国民党の単独政権である。

金とダイヤモンドの発見で南アフリカが国内外で大きな変貌を遂げていた同じ頃に、日本でも、アメリカに大砲で脅されて開国し、欧米に追いつけ追い越せの産業化の道をまっしぐらに走り始めていた。当然のように、近隣の大国中国とロシアと衝突し、1894に日清戦争で、1904年に日露戦争で勝利した日本は、次はアメリカと衝突するまで軍事路線を突っ走る。南アフリカとは違う形で、日本の社会も、急激に大きく変貌していたのである。

浦賀に来たペリー

 アフリカもアフリカ人も神から授かったものと考える押しの強いアフリカーナーと狡猾で計算高いイギリス人はダイヤモンドや金を利用して最大限の利益を上げるために協力した。最初はそれほど緻密なものではなかったようだが、アパルトへイト政権が出来た頃には、87パーセントのアフリカ人の安価な労働力を基礎に、14ケ月の短期雇用を繰り返す効率のいい雇用形態を確立していた。短期契約の非常勤の雇用形態は日本でもよく見かけるようになっているので、人ごとではない。国内では課税された税金を払うために、働き盛りの男性は仕事のある都市部に出稼ぎに出た。住居費や食費を可能な限り抑えるために粗末なたこ部屋に集団で寝泊まり、安い粗末な食事だった。家族と離れた侘しい生活を強いられた。

南アフリカ最大の都市となったヨハネスブルグ近くの金鉱山

 鉱山での一大採取機構は、大農場や様々な製造業の工場や、白人家庭にも援用された。アフリカ人は食えるか食えないかの短期契約の賃金労働者として経済の歯車にされたのである。南アフリカに最初に来たオランダ系のアフリカーナーとあとから来たイギリス人が産業化の過程で、無尽蔵の安価なアフリカ人労働者を、鉱山で、大農場で、工場で、そして白人家庭で扱(こ)き使うシステムを築いたというわけである。白人家庭ではメイドやボーイが、いわゆる召使(domesitic servants)として、白人の女性がすべき炊事、洗濯、掃除、育児などをさせられた。すべて出稼ぎの男女で、女性は自分の子供を田舎に置いて他人の子供の世話をし、男性は侘しい一人暮らしが当たり前だった。アパルトヘイト政権下では、あらゆる法律で縛られていたので、白人の法律下で屈辱的な不自由な生活を強いられたわけである。ある日やって来たヨーロッパ人に土地を奪われ、課税され、安価な賃金労働者として絞り取られ続けたのだから、何ともやるせない話である。

オレンジ自由州キンバリーのダイヤモンド鉱山