2010年~の執筆物

概要

「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。

前回から、2冊目の英文書『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)について書いています。

『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』

前回は2冊目の英文書『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)を書いた経緯を書きました。今回は本の半分を割いて書いた第二次戦後に再構築された制度について詳しく書いています。

本文

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度③制度概要

発展途上国と先進国の経済格差は長年の奴隷貿易や植民地支配によって作られたもので、と過去のことのように捉えられがちですが、実は経済格差は今も是正されていないどころかますます広がっている、つまり形を変えて今も搾取構造が温存されているということです。奴隷貿易や植民地支配のようにあからさまではありませんし、巧妙に仕組まれていますので、ついだまされそうになりますが、少し冷静になって考えてみればすぐにわかります。

第二次世界大戦の殺し合いで総体的な力を落としたヨーロッパ社会は荒廃した国土を立て直しながら、あらたな搾取態勢の構築に向けて余念がありませんでした。発展途上国の力が上がったわけではありませんが、ヨーロッパ社会の力の低下に乗じてそれまで虐げられ続けて来たアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ社会は、欧米で学んで帰国した若き指導者たちに先導されてたたかい始めました。1955年のバンドンでのアジア・アフリカ会議後の独立運動、南アフリカのクリップタウンでの国民会議後のアパルトヘイト撤廃に向けての闘争、1954年の合衆国最高裁での公立学校での人種隔離政策への違憲判決の後に続く公民権運動など、世界中で解放に向けての闘いが勢いを増して行きました。

先進国に住んでいる大半が持ち合わせている先進国と発展途上国の関係についての意識と、実際は大きく違います。先進国の繁栄が発展途上国の犠牲の上に成り立っているのに、入学してくる大学生の大半は、アフリカは遅れている、貧しいから日本が援助してやっている、と考えています。(それほど日本の教育制度が「完璧」、ということでしょう。)

今年の後期の授業では最初に「アフリカの蹄」の冒頭の場面を見てもらいました。主人公の作田医師のアフリカについての意識が、大半の学生の意識と似ているからです。

「アフリカの蹄」は2003年2月にNHKで放映されたもので、帚木蓬生原作、矢島正雄脚本、大沢たかお主演のドラマです。原作にも映画にも、南アフリカの実名は出てきませんが、アパルトヘイト体制下の話です。

「アフリカの蹄」文庫本の表紙

(あらすじ:大学病院で医局の教授と衝突して南アフリカに飛ばされた医師作田信は、少年を助けたことがきっかけでアフリカ人居住区に出入りするようになり、有能な医師や教師に出会い、極右翼グループの天然痘によるアフリカ人せん滅作戦に巻き込まれていきます。白人の子供たちだけにワクチンを接種して、天然痘菌をばらまきアフリカ人の子供に感染させてせん滅をはかるという作戦です。子供たちの間に感染が広まり始めた時、細菌学者から国立衛生局に残されていたワクチンを分けてもらいますが、当局の妨害にあってワクチンが入手出来なくなり、事態を打開するために、天然痘菌を作田が国外に持ち出して世界保健機構や国連の助けでワクチンを国内に持ち帰り、その陰謀を阻止する、という内容です。)

映画の中で、作田医師がアフリカ人居住区の診療所で反政府活動家の青年ネオ・タウに突然殴られる場面がありますが、その時の作田信とネオ・タウの認識は、どう違っていたのでしょうか。

作田は大学の上司とそりが合わずに偶々南アフリカに飛ばされた優秀な心臓外科医ですが、作田が当時持ち合わせていた南アフリカについての知識は、一般の日本人と大差はなく、動物の保護区や豪華なゴルフ場、ケープタウンやダーバンなどの風光明媚な観光地、世界一豪華な寝台列車、くらいではなかったでしょうか。おそらく、作田にとっての南アフリカは、「日本から遠く離れた、アパルトヘイトに苦しむ可哀想な国」にしか過ぎなかったと思います。しかし、ネオにとっての日本は違います。日本は、1960年のシャープヴィルの虐殺事件以来、アパルトヘイト政権を支えてアフリカ人を苦しめ続け、貿易で莫大な利益を貪ってきた経済最優先の国であり、その日本からやって来た作田は、貿易の見返りに「居住区に関する限り白人並みの扱いを受ける」名誉白人の一人で、無恥厚顔な日本人だったのです。

作田役を演じる大澤たかお

世界の経済制裁の流れに逆行して、1960年に「国交の再開と大使館の新設」を約束した日本政府は、翌年には通商条約を結び、以来、先端技術産業や軍需産業には不可欠なクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属やその他の貿易品から多くの利益を得て来ました。石原慎太郎などが旗を振った「日本・南アフリカ友好議員連盟」や、大企業の「南部アフリカ貿易懇話会」などにも後押しされて、日本は1988年には南アフリカ最大の貿易相手国となり、国連総会でも名指しで非難されています。

当初、作田にもその理由はわかりませんでしたが、天然痘事件にかかわるなかで、ネオが本当に殴りつけたかった正体が、南アフリカと深く関わり利益を貪り続けながら、加害者意識のかけらも持ち合わせていない一般の日本人と、その自己意識であったことに気づきます。ネオには、作田もそんな日本人の一人に他ならなかったのです。

先進国と発展途上国の関係は日本と南アフリカとの関係、先進国と発展途上国の人たちの意識は日本人医師と南アフリカ人青年の意識と重なります。

第二次世界大戦後、戦争で被害がなくヨーロッパに金を貸しつけたアメリカと、ヨーロッパ諸国は、それまでの植民地支配に代わる搾取機構として、多国籍企業による経済支配の制度を確立して行きました。機構を守るのは国際連合、金を取り扱うのは世界銀行、国際通貨基金で、名目は低開発国に援助をするという「開発と援助」でした。

1章では発展途上国が解放を求めてたたかった典型的な例として、ガーナとコンゴを取り上げました。次回はガーナの場合、です。

次回は「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度④」です。(宮崎大学医学部教員)(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2014年

収録・公開

「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度③制度概略1」(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に掲載されなかった分です。

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2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」("A Short History of Black Americans")の「公民権運動、その後」について書ました。

(『アフリカとその末裔たち1』1刷)

前回までジンバブエに行ったあとに書いた英文書「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)に沿って、アフリカ史、南アフリカ史、アフリカ系アメリカ史を12回に渡って紹介してきましたが、今回からは、2冊目の英文書「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)の紹介をしようと思います。

1冊目は簡単なアフリカとアフロアメリカの歴史の紹介でしたので、2冊目は、アフリカについては

①第二次世界大戦後に先進国が再構築した搾取制度、開発や援助の名目で繰り広げられている多国籍企業による経済支配とその基本構造、

②アフリカの作家が書き残した書いた物語や小説、

③今日的な問題に絞り、

④アフロアメリカについてはゴスペルからラップにいたるアフリカ系アメリカ人の音楽

に絞って、内容を深めました。①が半分ほどを占め、引用なども含めて少し英文が難しくなっています。医学科の英語の授業で使うために書きました。

『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』

本文

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度①概略

書くための時間がほしくて30を過ぎてから大学を探し始め、38の時に教養の英語担当の講師として旧宮崎医科大学に辛うじて辿り着いたのですが、大学は学生のためにありますから、当然、教育と研究も求められます。元々人間も授業も嫌いではないようで、研究室にもよく学生が来てくれますし、授業も「仕事」だと思わないでやれるのは幸いだったように思います。

宮崎医科大学

戦後アメリカに無条件降伏を強いられて日常がアメリカ化される生活を目の当たりにして来た世代でもありますので、元々アメリカも英語も「苦手」です。学校でやらされる英語には全く馴染めませんでした。中学や高校でやらされる「英語」は大学入試のためだけのもので、よけいに馴染めなかったようです。高校で英語をやらないということは、今の制度では「いい大学」には行けないということですので、今から思えば、嫌でも英語をやった方が楽だったのかも知れません。

したがって、大学で医学科の学生に英語の授業をするようになっても、最初から「英語をする」という発想はありませんでした。するなら、英語で何かをする、でした。

何をするか。

最初は一年生の担当で、100分を30回の授業でした。一回きりならともかく、30回ともなると、相当な内容が必要です。学生とは多くの時間をともにしますし、一番身近な存在の一つでもあります。学生の一人一人と向き合ってきちんと授業をやることは、自分にとっても大きなことでした。

おのずと答えは出てきました。自分がきちんと向き合って考えてきたことを題材にする、でした。それは、リチャード・ライトでアフロアメリカの歴史を、ラ・グーマでアフリカの歴史をみてゆくなかで辿り着いた結論でもあります。過去500年あまりの西洋諸国による奴隷貿易や植民地支配によって、現在の先進国と発展途上国の格差が出来、今も形を変えてその搾取構造が温存されている、しかも先進国に住む日本人は、発展途上国から搾り取ることで繁栄を続けていい思いをしているのに、加害者意識のかけらも持ち合わせていない、ということです。

リチャード・ライト(小島けい画)

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

将来社会的にも影響力のある立場になる医者の卵が、その意識のままで医者になってはいけない、という思いも少しありました。

それと英語も言葉の一つですから、実際に使えないと意味がありません。そこで、できるだけ英語を使い、実際の英語を記録した雑誌や新聞、ドキュメンタリーや映画など、いろんなものを題材にして、学生の意識下に働きかける、そんな方向で進んできたように思えます。

二冊の英文書も、その延長上で書きました。実際には、アメリカに反発して英語をしてこなかった僕が、授業で英語を使えるようになるのも、英文で本を書くのも、授業で使ういろんな材料を集めるのも、作ったりするのも、なかなか大変でした。ま、今も大変ですが。

今の大学に来て27年目で、今年度末の3月で定年退職です。まもなく最後の半期が始まります。

次回は「アフリカとその末裔たち 2 (2) 戦後再構築された制度②」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

      2014年

収録・公開

編集の手違いで収録されていませんので、元原稿からここに収載しています。

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「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度①」

2010年~の執筆物

概要

前回から、2冊目の英文書『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)について書いています。

『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』

アフリカについては1冊目で簡単な歴史書きましたので、2冊目では、本の半分を割いて、「第二次世界大戦後に先進国が再構築した搾取制度、開発や援助の名目で繰り広げられている多国籍企業による経済支配とその基本構造」を詳しく書きました。その概略の後半です。

本文

アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度②執筆の経緯

医学科で授業を始めた当初「学生の意識下に働きかける」ために選んだ題材は、中高ではあまり取り上げられないアフロ・アメリカと南アフリカの歴史や文学や音楽でした。それらは「自分がきちんと向き合って考えてきたこと」でもありましたし、一般教養の時間に考える材料として相応しいと考えたからでした。
リチャード・ライトの作品を理解するために辿ったアフロ・アメリカの歴史は、公教育の場で教えられる歴史、勝者の側からの歴史とは違っていました。詩人ラングストン・ヒューズが「黒人史の栄光」(1958年)で書いたように

「何千ものアフリカ人が無理やりアメリカに連れて来られて綿や米、とうもろこしや小麦の栽培をやらされ、道路を造り森を切り開き、初期のアメリカを作ることになるほとんどすべての厳しい仕事をやらされました。」

大学用テキスト「黒人史の栄光」

現代のアメリカの繁栄はそういう人たちの犠牲の上に成り立っていたわけです。アレックス・ラ・グーマの作品を理解するために辿った南アフリカの歴史では、ヨーロッパ人入植者が南部アフリカ一帯に作り上げた一大搾取機構によって絞り取られ続けるアフリカ人の構図が浮かび上がって来ました。日本も白人入植者のよきパートナーで、現代の日本の繁栄はそういった第三世界の犠牲の上に成り立っていたわけです。

1992年にジンバブエの首都ハラレに滞在してからは、アフロ・アメリカと南アフリカに加えて、アフリカ全般の歴史、特に第二次世界大戦後の基本構造について話す時間が増えました。ジンバブエ大学の学生に案内されて行った寮での最初の質問が「日本の街ではニンジャが走ってるの?」でしたし、行く前に「ライオンに気をつけてね」と何度も言われたからで、これではお互いの理解はあり得ないと実感しました。ミシシッピ大でのライトのシンポジウム(1985年)に参加したり、サンフランシスコでの学会(1987年)やカナダでのラ・グーマの記念大会(1988年)で発表したりもしましたが、一番身の回りの人の深層に語りかけられなくてどうする、という思いの方が強くなり、今に至っています。

ジンバブエ大学学生寮ニューホール

日本でもアメリカでも学会での関心は専ら自分の業績にあって、アフリカそのものにはないように感じられましたし、ジンバブエでは加害者側の後ろめたさのせいだったのでしょうか、終始息苦しく感じられて、それ以降何度も機会はあったのですが、なかなか第三世界に出かけて行く気にはなれないまま、歳月が過ぎてしまいました。
(→「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」、→「セスゥル・エイブラハムズ -アレックス・ラ・グーマの伝記家を訪ねて-」ライトのシンポジウム

アフロ・アメリカの映像題材には、アレックス・ヘイリーの『ルーツ』を元に作られたテレビドラマ「ルーツ」(1977年)や映画「招かれざる客」(1968年)など、南アフリカに関してはドキュメンタリー「ディンバザ」(日本反アパルトヘイト委員会制作、制作年不詳)、「教室の戦士たち~アパルトヘイトの中の青春」や映画「ガンジー」(1982年)、「遠い夜明け」(1987年)など、アフリカに関しては、英国誌タイムズの元記者で後にたくさんの歴史書を書いた英国人バズル・デヴィドスンが案内役の「アフリカシリーズ」(1983年、NHK)などを使いました。(→「アフリカ史再考②『アフリカシリーズ」』」)、「モンド通信」No.49. 2012年9月10日)(宮崎大学医学部教員)

(写真:「ルーツ」30周年記念DVD表紙)

執筆年

  2014年

収録・公開

  →「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度①」(「モンド通信」No. 72、2014年11月1日)

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「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度①」

続モンド通信・モンド通信

1 私の絵画館:「誕生(リープ)」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要(玉田吉行)

1 私の絵画館:「誕生(リープ)」(小島けい)

 

この前の日曜日、<奇跡のレッスン>という番組を見ました。それは、いろいろなスポーツをしている普通の子供たちのところに、世界で活躍する一流の選手やコーチがやってきて1週間指導する。そうして子供たちがどのようにかわっていくかを追う、というものです。

以前、フィギアスケートをとりあげた時にちらっと見たことがあったのですが、今回はハンドボールでした。

私自身が特に好きな球技というわけではありませんが。高校生の時同じ高校のハンドボール部が急に強くなりました。ハンドボールに詳しい体育の先生が来たかららしいということでしたが、強くなるためにはいったい何が必要なのだろう?とちょっと知りたくなりました。

指導を受けるのはある中学校のクラブで、そこにデンマークから有名な選手がやってきました。彼は、まず普段の練習を見ることから始めました。

最初はグラウンドを走る。その時、日本では珍しくありませんが、かけ声をかけながらみんなで走ります。彼は通訳の人に、彼等は何故声を出して走るのか?と聞き、あれはかけ声ですと教えられます。それに対し、歌っているのかと思った!とまずビックリ。

そして、次々と整然と練習がこなされていきます。この段階では、技術的にはかなりできている、と彼は判断していました。

ところが、試合形式に入った途端生徒たちの動きがバラバラになり、得点にむすびつきません。決まった練習では見せていた能力が、全く発揮されないのです。

その理由は、少し前に行われた試合のビデオを見てはっきりしました。実はこの部活動の指導は、ねっからの体育系と思われる女の先生がされています。生徒たちは試合中も、その先生の指示の声を聞きながら動いていたのです。瞬時に判断して動くスピードが必要とされる試合に、これでは動きがまにあいません。

さらに、声を出せ!声が出てない者が失敗するんだ!とゲキが飛びます。そうなるとまだ上手とはいえない生徒たちはますます萎縮して、動きがさらにぎこちなくなってしまいます。

ここでコーチの指導がいよいよ始まりました。まずやったことは、デンマークではよく使われているというゲーム感覚を取り入れた練習です。自分でドリブルをしながら、同時にスキを見て他の人間のボールをはじき飛ばすというものです。遊びのようですが、いつもまわりを見ながら動く練習になっています。

子供たちは初めての練習に、楽しそうに取り組み始めました。いつもの決まった練習では見せなかった笑顔や笑い声もおこります。

次々と展開されていく練習も、あくまで実践に即した内容が続きます。

こうしたなかで、それまで怒られるのが恐くてクラブをやめたいなあと思っていた生徒や、試合では決して使えないと先生に思われていた生徒たちが、予想外の能力を発揮していきます。

ほめられたことのなかった子がほめられて自信をつけたり、今回はまだ前編でしたが、様々な変化が子供たちにおこっていました。

後編では、前回負けたチームと再び対戦するということです。どうなるか予想もつきませんが。

コーチが生徒たちに伝えたかった大切なこと。

その1は、楽しむということ。その2は、その時どう動くかを、自分で考え判断すること。だったのではないかと思いました。

楽しんでやれば、これまで出せなかった声も出せ、他のメンバーとのコミュニケーションもとれるようになるでしょうし、すばやく判断して行動すれば、得点にもつながっていくはず。

ハンドボールで強くなるために必要なもの、だったはずですが。ふり返るとこの2つは、ハンドボールという1つの球技だけに限られたものではないような。

そんなことに気付かされた夜となりました。

子馬の名はリープ。何年か前のうるう年の2月に生まれました。名前はその<leap year>からつけられました。

子馬はふつう生まれてまもなく、自分の力で立ちあがります。ところがリープは、なかなかそれができませんでした。

ちょうど私が牧場に行った時も、リープは立とうとしてはバタッ!と倒れ、を何回も繰り返していました。

立つことができないとお乳を飲むことができず、子馬は生きていくことができません。そのためオーナーのメグさんが、必死で世話をしておられたのです。

そのかいあって、まもなくリープは見事に立ちあがり、元気に育つことができました。

今はちがう牧場でほがらかにすごしていると、少し前に教えてもらいました。

2 アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要(玉田吉行)

「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」で、文部科学省科学研究費(平成30~34年度基盤研究C、4030千円)の交付を受けました。今回はその概略です。4年前に定年退職したとき、もう「研究」せんでもええんかな、とちらっと思いましたが、元々書いたり読んだりする空間が欲しくて30を過ぎてから修士号を取って大学を探し始めただけですから、厳密な意味で「研究」するとかしないとかの概念そのものが僕には元々ないんだったと思い直しました。

辛うじて38歳で宮崎医科大学に教養の英語学科目等の担当の講師として不時着、医学部では運営は教授だけで、それ以外は研究に専念をという方針のようで、書いたり読んだりするための理想的な空間でした。それでも大学では授業と「研究」は避けられません。幸いなことに、人も授業も嫌いではなかったですし、修士課程と非常勤講師の7年間ですでにたくさん書きためていましたので、「研究」のふりは出来そうでした。科研費も1年目に申請し、単年でしたが「1950~60年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」(平成元年度一般研究C、1000千円)が交付されました。実際にはアパルトヘイト政権と手を組んで甘い汁を吸いながら、表向きは人権侵害反対のポーズを取る国の方針に忠実な文部省には、反アパルトヘイトを掲げて闘った南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ関連のテーマは許容範囲内だったのでしょう。門土社(横浜)のおかげで印刷物が多かったのも決め手の一つだったかも知れません。

今回申請書を出すとき、「学術的背景、核心をなす学術的『問い』」の欄には次のように書きましたが、それが「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」お概要です。

 

定年退職で時間切れと諦めていましたテーマで、再任により申請出来るようですので、機会を有り難く使わせてもらおうと思います。(語学教育センター特別教授二年目、一年毎の更新、最長十年)広範で多岐に渡るテーマですが、アフリカ系アメリカ人の歴史・奴隷貿易と作家リチャード・ライト、

ガーナと初代首相クワメ・エンクルマ、

南アフリカの歴史と作家アレックス・ラ・グーマとエイズ、

ケニアの歴史とグギ・ワ・ジオンゴとエイズ、

アフリカの歴史と奴隷貿易、とそれぞれ10年くらいずつ個別に辿って来ましたので、文学と医学の狭間からその系譜をまとめようと思います。

ライトの作品を理解したいという思いでアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り始めてから40年近くになります。その中でその人たちがアフリカから連れて来られたのだと合点して自然にアフリカに目が向きました。大学に職を得る前に黒人研究の会でアフリカ系アメリカとアフリカを繋ぐテーマでのシンポジウムをして最初の著書『箱船21世紀に向けて』(門土社、1987)にガーナへの訪問記Black Power(1954)を軸に「リチャード・ライトとアフリカ」をまとめて以来、南アフリカ→コンゴ・エボラ出血熱→ケニア、ジンバブエ→エイズと広がって行きました。

辿った結論から言えば、アフリカの問題に対する根本的な改善策があるとは到底思えません。英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが指摘するように、根本的改善策には大幅な先進国の経済的譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩の兆しも見えないからです。しかし、学問に役割があるなら、大幅な先進国の譲歩を引き出せなくても、小幅でも先進国に意識改革を促すように提言をし続けることが大切だと考えるようになりました。たとえ僅かな希望でも、ないよりはいいのでしょうから。

文学しか念頭になかったせいでしょう。「文学のための文学」を当然と思い込んでいましたが、アフリカ系アメリカの歴史とアフリカの歴史を辿るうちに、その考えは見事に消えてなくなりました。ここ五百年余りの欧米の侵略は凄まじく、白人優位、黒人蔑視の意識を浸透させました。欧米勢力の中でも一番厚かましかった人たち(アフリカ分割で一番多くの取り分を我がものにした人たち)が使っていた言葉が英語で、その言葉は今や国際語だそうです。英語を強制された国(所謂コモンウェルスカントリィズ)は五十数カ国にのぼります。1992年に滞在したハラレのジンバブエ大学では、90%を占めるアフリカ人が大学内では母国語のショナ語やンデベレ語を使わずに英語を使っていました。ペンタゴン(The Pentagon、アメリカ国防総省)で開発された武器を個人向けに普及させたパソコンのおかげで、今や90%以上の情報が英語で発信されているとも言われ、まさに文化侵略の最終段階の様相を呈しています。

ジンバブエ大学教育学部

聖書と銃で侵略を始めたわけですが、大西洋を挟んで350年に渡って行われた奴隷貿易で資本蓄積を果たした西洋社会は産業革命を起こし、生産手段を従来の手から機械に変えました。その結果、人類が使い切れないほどの製品を生産し、大量消費社会への歩みを始めました。当時必要だったのは、製品を売り捌くための市場と更なる生産のための安価な労働者と原材料で、アフリカが標的となりました。アフリカ争奪戦は熾烈で、世界大戦の危機を懸念してベルリンで会議を開いて植民地の取り分を決めたものの、結局は二度の世界大戦で壮絶に殺し合いました。戦後の20年ほど、それまで虐げられていた人たちの解放闘争、独立闘争が続きますが、結局は復興を遂げた西洋諸国と米国と日本が新しい形態の支配体制を築きました。開発や援助を名目に、国連や世界銀行などで組織固めをした多国籍企業による経済支配体制です。アフリカ系アメリカとアフリカの歴史を辿っていましたら、そんな構図が見えて来て、辿った歴史を二冊の英文書Africa and Its Descendants(Mondo Books, 1995)とAfrica and Its Descendants 2 – The Neo-Colonial Stage(Mondo Books, 1998)にまとめました。

奴隷貿易、奴隷制、植民地支配、人種隔離政策、独立闘争、アパルトヘイト、多国籍企業による経済支配などの過程で、虐げられた側の人たちは強要されて使うようになった英語で数々の歴史に残る文学作品を残して来ました。時代に抗いながら精一杯生きた人たちの魂の記録です。

作品を理解したいという思いから辿った歴史ですが、今度は歴史に刻まれた文学作品から歴史を辿りながら侵略の基本構造と侵略のなかで苦しめられてきた人々の姿を明らかにするのが今回の目的です。その過程で先人から学び取り、将来の指針となる提言の一つでも出来れば嬉しい限りです。(宮崎大学教員)