続モンド通信・モンド通信

1 私の絵画館:「梅とぴのこ―2019―」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜3:「クロスセクション」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「梅とぴのこ―2019―」(小島けい)

のら猫だったアリスは、家につれて帰って24日後に子猫を産みました。もうすぐ11年になります。
5匹生まれた子猫のうち、気の弱い男の子のジョバンニと生まれつき胃腸が弱いといわれた女の子ぴのこを家に残しました。
先生の見立て通り、ぴのこは少食で、ほんの少しでも多く食べるとその瞬間にもどしました。量だけでなくほんの少し固い物もダメ。大きさも5mmくらいでも固い物が混じるとアッというまに出しました。
それは大人になっても変わりませんでした。
2年前の秋、あまりにももどしてしまうので、病院で調べてもらいましたが、レントゲンで見る限り異常はありません。
ただ異常は見つからないといっても、すぐもどしてしまうわけですから、何とかもどさずおいしく食べてもらえるようにするしかありません。
そこで一大決心をしてアレコレ試行錯誤をくり返すこと半年余り、ようやくぴのこがもどさず喜んで食べてくれる食事が完成しました。
まず自家製野菜スープ(液体)をペットボトルのキャップ一杯。もち麦のおかゆを小さじ一杯。野菜のペーストを小さじ半分。ひきわり納豆を小さじ3分の1。
そこにぴのこの好きな魚のカンづめをつぶして小さじすり切れ1枚。さらに消化器系のカリカリをミキサーで粉状にしたものを小さじすりきれ2杯。
このご飯をあげるようになってから、生まれて初めてぴのこは<食>の楽しさに目覚めました。
今では、そんなに早食いだったかしらん?!というスピードで自分のご飯を食べてしまい、お母さんのアリスやジョバンニのところに走り、気の強さでは誰にも負けないため、残りをたいらげてしまいます。
食べてくれるのはいいのですが、一定量を少しこえただけでももどすのは、変わっていません。そこで同じケージのなかで食べるアリスとの間は、食事の度に段ボールの屏風(?)で仕切ります。
魚アレルギーのジョバンニは、別のケージのなかで食べていますが、ぴのこが入って押しのけてしまわないように、扉をきっちり閉めることにしました。
そのため、自分の分を食べ終えたぴのこは扉のまん前に座り込み、待つことになります。その距離の近さと迫力にジョバンニはしばしば負けて、少し残っていても食べるのを止めてしまうほどです。
ほんとうはこんなにも食べることが好きだったのに、もっと早くに食事の大改革をすればよかったと、ぴのこには申し訳ない思いで一杯です。
ただ、よく食べるようになってくれたぴのこですが、細い身体はそのままで、今でも一歳くらいの頃と変わりません。
<梅とぴのこ>は1枚目も、2枚目も、それぞれ猫好きの方のお家に行って手元にありませんので、もう一度描きたいと思い3枚目の<梅とぴのこ―2019―>を描きました。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜3:「クロスセクション」

初めてアメリカに行ったのは1981年で、高校教員のままで通った大学院一年生の夏です。修士論文の軸となるリチャード・ライト(Richard Wright)の「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)が収められている雑誌「クロスセクション」(Cross-Section, 1944)のフォトコピーがニューヨーク公立図書館ハーレム分館にあるとわかったからです。

「地下に潜む男」は教科書(青山書店、1969)も出ていましたし、『八人の男』(晶文社、1969, Eight Men; World Publishing, 1961)にも収められていましたので原作は手元にありましたが、作品の収載されている雑誌が見たかったのだと思います。それに、アメリカのことをするのに、アメリカに一度も行ったことがないのも気が引けるなあという気持ちもあったような気がします。

生まれたのは1949です。第二次大戦直後に生まれた世代は、否応なしにそれぞれのアメリカ化を経験しているような気がします。神戸から電車で西に一時間ほどの小さな町に住んでいましたが、高校の頃に若い宣教師が自転車に乗っているのを家の二階からたまたま見かけるまで外国人を見た記憶がありません。小学校の頃にテレビが普及し始め、ハリウッド映画からエンパイアステートビルディングやナイアガラの滝、ゴールデンゲイトブリッジなどの映像が流れてどっと「アメリカ」が生活に入り込む一方、洗濯機や炊飯器、掃除機などの電化製品でどんどん生活が「便利に」なって行きました。その頃自覚していたとは思えませんが、便利さや快適さから来るアメリカへの憧れと、敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発が妙に入り混じっていたように思えます。

入学した大学が外国語大学でもあったせいか留学に気持ちが傾いた時期もありますが、ずっと1ドル360円でしたし、学費も生活費も自分で都合しないといけない中では経済的に実際は無理だったと思います。休学してスウェーデンに遊学したクラスメイトもいましたから、それほど行きたい気持ちが強くなかったということでしょう。そのクラスメイトは、滞在中にお金やパスポートなど一切合切を盗られて2年も余計にスウェーデンにいることになった、と帰ってから話をしていました。

ライトが移り住んだコース(生まれたミシシッピ州→10年ほど住んだシカゴ→ベストセラーを生み出したニューヨーク→アメリカを見限って移住したパリ)のうち、今回はシカゴ→ニューヨーク→(セントルイス経由で)ミシシッピ州ナチェツ(生まれた所)、までを辿ってみようと計画を立てました。コピーしたファーブル(Michel Fabre)さんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright)の巻末の参考文献目録を旅行鞄に忍ばせ、サンフランシスコに何泊かしてからシカゴとニューヨークに行きました。1ドル280円台だったと記憶しています。

ナチェツ空港

5年間高校で英語の教員をしていましたが、「敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発」もあって、英語は聞かない、しゃべらない、と決めていましたので、英語はまったく聞き取れませんでした。日本ではなぜか、英語がしゃべれなくても英語の教員は「勤まり」ます。

目的は図書館での文献探しでしたが、結局はニューヨークの古本や巡りになってしまいました。今から考えるとおかしな話ですが、ライトの『アメリカの息子』(Native Son, 1940)の初版本はありませんかと出版元まで訪ねて行ったのですから。もちろんあるはずもありませんが、訪ねてみるもんですね。大量の本を古本屋に流していますので、タイムズスクエアーのこの古本屋に行くとひょっとしたら、と言われました。1985年のI Love New Yorkキャンペーンでその辺り一帯がきれいにされる前でしたから、古本屋やポルノショップなどが溢れていました。

教えてもらった古本屋に『アメリカの息子』の初版本はさすがにありませんでしたが、『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)、『ブラック・パワー』(Black Power, 1954)など主立った本はもちろんのこと、スタインペッグの『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1939)やハーパー・リーの『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird, 1960)なども難なく見つかりました。そして何より、「地下に潜む男」の掲載された「クロスセクション」(CROSS SECION)の現物が手に入ったのです。雑誌と言っても559ページもあるハードカバーの立派な本でした。見開きにはCROSS-SECTION A NEW Collection of New American Writingとあります。

日本でも神戸や大阪の古本屋には何度もでかけていましたが、ニューヨークで古本屋巡りをするとは思ってもみませんでした。本をぎっしり詰めた旅行バックが肩に食い込んだ重さの記憶が残っています。今ならVISAカードで簡単に処理したんでしょうが、何箱か船便で送ったら、持って行っていたお金がほぼなくなってしまって、経由地のセントルイスまでは辿り着いたものの、そこから予定を変更して戻って来るはめになりました。

初めてのアメリカ行きでもあったので、サンフランシスコではゴールデンゲイトブリッジに行き、シカゴではミシガン通りでパレードを眺め、ニューヨーク州ではナイアガラの滝を見て、エンパイアステートビルディングにも昇りました。元々人が多いのは苦手でエンパイアステートビルディングも入り口に列が出来ていなかったら昇ってなかったと思いますが、入り口には人がまばらで。しかし、途中で乗り換えがあって、そこでは人が溢れかえっていて、何だか騙された気分になりました。

ミシガンストリートで3時間ほどパレードを眺めていた時に、アメリカにもアメリカのよさがある、と何となく感じました。ニューヨークのラ・ガーディア空港では日本語が通じずにカウンターでついに大きな声を出してしまいましたが、ちょっとお待ち下さい、言葉のわかる者を連れて来ますので、と言われて待っていましたら、人が現われて、ゆっくり英語をしゃべってくれました。

通じないもどかしさを何度も味わいましたが、それでも帰って来て、英語をしゃべりたいとは思いませんでした。

「地下に潜む男」を読んだのは大学の英語の購読の時間で、青山書店のテキストです。大学に入ったのは学生運動が国家権力にぺちゃんこにされた翌年の1971年で、浪人しても受験の準備が出来ないまま結局はうやむやに心の折り合いをつけて、家から通える神戸市外国語大学のえせ夜間学生になりました。

えせは、神戸市役所や検察庁などの仕事を終えてから授業に出る前向きな「同級生」に比べて、という意味です。検察庁の「同級生」は「神戸の経済を二度失敗した」末に入学したそうですが、「ワシ、今日はやばいねん、昨日取り調べたやーさんに狙われるかも知れへんから」と帰り道に言っていました。高校も定時制(4年間)だった別の「同級生」は住友金属で働く好青年で、何百万か貯めて着実に生活している風に見えました。若くに人生を諦めてしまって大学の空間を余生としか考えていない身には、ずいぶんと希望に満ちた大人に見えました。もちろん、僕と同じようなえせ夜間学生で、定職は持たず、昼間の運動部に混ざって練習をしている同類も僅かながらいましたが。

学費は年間12000円(昼間は18000円)、月に1000円、定期代も国鉄(現在のJR)と阪急(電鉄)を合わせても1500円ほど、朝早くに1時間ほど配っていた牛乳配達が月に5000円ほど、学費はそれで充分にまかなえていたように思います。もっとも自分から進んでやった牛乳配達ではなく、母親がやっていたのを見兼ねてやるようになっただけでしたが。

神戸市外国語大学全景(上)、木造学舎(下)大学HPより

入学した年、中央以外では学生運動の残り火が燻っていたようで、神戸大でも神戸外大でもヘルメットを被った学生が拡声器を持って「われわれは・・・・」と、がなり立てていました。僕には入学式も無意味なので通常なら出ることはないのですが、一浪したあとよほど気持ちが縮こまっていたようで、つい入学式に出てしまいました。奇妙な入学式で、図書館の階段教室で始まって学長という人が挨拶を始めたとたん、合唱部とおぼしき人たちが初めて聞く校歌らしき歌を歌い始め、違うサイドでは拡声器を持った学生が「われわれは・・・・」とまくし立て始めていました。座っている学生は僕のようにへえーと感心しているものもいれば、四方に野次を飛ばしているものもいました。

その後、授業はなく毎日のようにクラス討議なるものが強要され、ある日学生がバリケードをして学舎を封鎖しました。しばらくして機動隊が突入して「正常化」されたようでした。70年安保の学生運動では国家体制の再構築というような理想論が取りざたされたようですが、覚えている限り、マイクから聞こえて来て耳に残っているのは、たしか、学生食堂のめしが不味いから大学当局と交渉して勝利を勝ちとろう、そんな内容だったと思います。中央では負けたので、地方では部分闘争をということだったんでしょうか。

バリケード封鎖された学舎

昼間のバスケット部といっしょに練習をしていましたが、運動部はバリケードが張られているときも、中に入れて練習もやっていました。マネージャーの女子学生も、ヘルメットを被って封鎖に参加している学生の一人で、後に退学したようなことを聞きました。

学生側についた七人の教員は、最後まで学生側についていたようです。後にゼミの担当者になった教授もその中の一人で、共産党員のようでした。その人は十年ほどかかって仕上げた翻訳原稿を投げ入れられた火炎瓶で焼かれたそうですが、また同じ年月をかけて翻訳出版したという話も聞きました。その担当者の追悼文が僕の記事の第一号です。→<a href="https://kojimakei.jp/tama/topics/works/w1970/282“>「がまぐちの貯金が二円くらいになりました-貫名美隆先生を悼んで-」</a>(「ゴンドワナ」3号、1986年)

神戸市外国語大学ホームページの「大学のあゆみ(沿革)」によれば、1946年に設立された神戸市立外事専門学校が1949年に神戸市外国語大学に昇格(外国語学部に英米・ロシア・中国の3学科設置)しています。僕が入学した夜間課程が設置されたのは1953年、その年に語学文学課程、法経商課程の2コースが設置されています。

学生の時はよくは知りませんでしたが、語学文学課程を担当した教員の中には、おそらく1950年、60年代のアメリカの公民権運動やアフリカの独立運動の影響もあったと思いますが、それまであまり取り上げられなかった分野、アフリカ系アメリカ人やアフリカの歴史や文学や言語などの研究をしていた人たちが少なからずいたようです。小西友七という人の黒人英語などもそんな分野の一つで、他にも西洋のバイアスがかかっていないアフリカ系アメリカやアフリカの名前を学内ではよく見かけたように思います。

そのようなアフリカやアフロアメリカに関心のある人たちの何人かが核になって、1956年に黒人研究の会を作り、研究会や研究誌の発行など、精力的に活動をしていたようです。修士号を取って高校の教員をやめたあと暫く研究会に入って、会誌や会報の編集などを手伝っていましたが、会誌や会報を見ながら、勢いあるなあと感心したのを覚えています。60年代70年代の神戸外大の紀要「外大論叢」の書かれたものの中には今読んでも勢いが感じられる論文が少なからずあります。

自分が意識していたかどうかにはかかわらず、おそらくそんな流れの中で、英語の購読の時間にアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトの「地下に潜む男」の教科書を読むことになり、修士論文の軸にクロスセクション誌に載った短編を据えることになったのだと思います。

夜間にしろ大学には空間が欲しくて行っただけで、英米学科にもかかわらず英語はしませんでした。学生だと学割が使えるし、という極めて「不純な動機」で修士の試験は受けましたが、案の定「玉田クン、26人中飛び抜けて26番やったね」と好きな新田さんから言われてしまいました。それではと、新田さんにアメリカ文学で読むべき本を聞き、文学史や言語学や英作文の必須図書を自分で探して揃え、一年間目一杯準備をして二度目を受けた時も、結局は書いたものを消して出てきました。大学には行かないという思いの方が、その時は強かったのでしょう。

でも、七十路(ななそじ)足らずの春秋を送れる間に、「世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ」、ですね。その後、書くための空間を求めて大学を探し始めたわけですから。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の2回目で、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマのラ・グーマの2作目の物語『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)の一場面、ケープタウン遠景と会話体の翻訳などについてです。

本文

ほんやく雑記の2回目です。

前回はサンフランシスコを取り上げましたが、今回は南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの生まれたケープタウンです。そこを舞台にした物語『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)の一場面:ケープタウン遠景です。(写真1:ラ・グーマ)

まるで映画の撮影のように、北側の大西洋から徐々にケープタウンの街に近付き、雨が降り始める街の様子を描きながら、物語が始まります。

ヨーロッパ人に土地を奪われ課税された田舎の人たちは、税金を払うためには仕事を求めて大都会に出るしかなかったのですが、アパルトヘイトによって居住区を定められていましたので、郊外の砂地にスラムを作って不法に住むしか他に道はありませんでした。

「国道沿いや線路脇や、郊外の砂地に立てたブリキ小屋やおんぼろ小屋の住人は、空をじっと見つめ、山の向こうに湿気をはらんだ雲がかかっている北西の方角を見やりました。雨が急にざあーっときて、屋根に雨音が激しくなりだすと、働いていた男たちは、屋根を補強するために、くすねてきた段ボール箱や、ごみの山から拾ってきた錆びた鉄板やブリキ缶を抱えながら、家路を急ぎました。継ぎはぎだらけの屋根や差し掛け屋根には、風が強くなった時に飛ばないように、重い石が何個も載せられていました。」「子供たちは素足の爪先をぴちゃぴちゃ鳴らしながらぬかるみに入り、水たまりや泥んこの中で遊んでいます。」

今回は、そのあとの以下の文章の翻訳についてです。

And: Man, I struck a luck, man – got a tin of bitumen for five bob. Over the wall. Bitumen is all right for keeping out the water. Soak old sacking in it and stuff it into the cracks and joints. Reckon it’s going to rain bad this year? I reckon so, man. Old woman is complaining about her rheumaticks awready, man. Say, give me my can of red on a cold day, and it can rain like a bogger, for all I care. Listen, chommy, I remember one time it rain one-and-twenty days in a row nonstop. Arwie is going to bring home some tar. He works mos by the Council. Look there, I don’t like that hole there. Johnny, you must fix it, instead of sitting around doing blerry nothing. Rain, rain, go away, come back another day, the children sang.

会話体を地の文に埋め込んだ形式です。急に雨が降り出してきたので家路を急ぐ、たぶん中年くらいの男が、雨漏りの補修に材料を運良く安く手に入れたと大声で話している。ビチューメン(bitumen)は道路の舗装に使う黒い液体、tinは缶なので、缶に入った材料のことで、粗い麻布にその液体を染みこませて割れ目や裂け目を埋める。これから長雨になりそうなのは、婆さん(奥さん)のリュウマチが悪くなりかけているので予測出来る。雨が降って寒くても、酒(缶売りのワイン)さえあれば、気にしない。いくらでも降ればいい。3週間も降りっぱなしの時があったなあ。市役所(Council)で働いているアーウィが(ビチューメンよりはましな材料)コールタールを手に入れてくれた、ジョー二ーはぶらぶらしていないで、屋根の補修をしろよ。流れはそんなところでしょうか。

bobは(英国流の)シリング。like a boggerはひどく。chommyは俗語でchommie=friend。mos はアフリカーンス語で強調する時に使う言葉。blerry はケープタウン独特の俗語で、bloodyがなまったもの。rがdに訛るようで、物語の中にDarra(Daddy)も出て来ます。

通して翻訳すると、

「あんた、俺は運がよかった。ピッチを一缶、五シリングで手に入れたよ。壁用のさ。ピッチは防水用にぴったりなんだ。古い麻布をその中に浸けて、そいつを割れ目や継ぎ目に突っこむんだよ。今年はひでえ雨になりそうかって。そうだと思うね、おまえさん。うちの婆さんがもうリュウマチが痛いのなんのと愚痴をこぼす始末さ。おい、寒い日にゃ、俺に赤ワインをたっぷりくれねえかい。そうすりゃ雨なんぞ、いくら降ったって俺の知ったことかい。なあ、おい、昔、二十と一日、たて続けに雨が降り続いたことがあったなあ。休みなしに、だ。アーウィはタールを家に持って帰るところだよ。奴は、なんてったって、市役所に雇われて仕事をしているんだからな。ほら、あそこを見ろよ。俺はそこんとこのあの穴はどうも好かんよ。ジョー二ー、ろくなこともせずにぶらぶらばっかりしていないで、それを修繕くらいしろや。雨、雨、行っちまえ、こんどは一昨日(おととい)降ってこい、と子供らが歌った。」

といったところでしょうか。

ラ・グーマはアパルトヘイト政権からは「カラード」(Coloured)と分類されていました。ケープタウンには「カラード」の人たちが特に多く、「ケープカラード」と呼ばれていました。最初来たヨーロッパ人はオランダ人でしたが、後にイギリス人が来てオランダ人から主権を奪ってケープ植民地を作りました。権力闘争に敗れたオランダ系の富裕層は内陸部に移動してアフリカ人と新たな衝突をくり返しました。ケープに残ったオランダ人はイギリス人に一方的に奴隷を解放されたとき、オランダの植民地マレーシアとインドネシアから労働力を輸入しました。ラ・グーマもインドネシアと白人の血が混じっていたそうです。

最初オランダ人が使っていた言葉にアフリカやアジアの言葉が混じってアフリカーンス語になっています。ラ・グーマの物語にもアフリカーンス語がたくさん出て来ます。

翻訳をするとき、そういった歴史背景や言葉の歴史を知っておく必要もあります。今回のように、物語の中に埋め込まれた会話体を翻訳するのも、会話の主体を誰に想定するかでずいぶんと違ってきます。中年の男性を想定して翻訳しましたが、60か70くらいの男性なら、翻訳もずいぶんと違うでしょう。

物語の舞台は添付の地図の中のケープタウン空港(Cape Town airport)近くの黒塗りの箇所(squatter camp, township)の一つです。(写真2:南アフリカ地図)

次回は「ほんやく雑記(3)ソウェトをめぐって」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」(「モンド通信」No. 92、2016年4月3日)

ダウンロード

2016年4月用ほんやく雑記2(pdf 358KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の1回目で、HNKBS(衛星放送)で放映された旅番組のなかで案内されたサンフランシスコの観光地「漁夫の波止場」(Fisherman’s Wharf)の一場面を取り上げ、①日本語と英語の違いを理解してどう表現するか、②抽象的な内容をどう表現するか、について書きました。

本文

ほんやく雑記を始めます。

英語から日本語のほんやくについて書きたいと思います。毎回ある場面を取り上げて、あれこれを気軽に書いていきたいと思っています。

今回はサンフランシスコの名所漁夫の波止場(Fisherman’s Wharf)の一場面で、①日本語と英語の違いを理解してどう表現するか、②抽象的な内容をどう表現するか、です。(写真1:漁夫の波止場1)

1990年頃にNHKの衛星放送で録画したオーストラリアの放送局制作の旅番組からです。毎回3つの街をそれぞれ7~8分程度で紹介する旅シリーズで、医学部の英語の授業で使うために録り始めました。

1980年代に何度かアメリカに行ったとき、毎回サンフランシスコに何泊かして東部か南部に移動しましたので、冒頭に紹介されているゴールデンゲートブリッジ(金門橋)や、坂やケーブルカー、漁夫の波止場やチャイナタウンなど、記憶の断片と照らし合わせながら楽しめました。

1950年代に普及し始めたテレビにはハリウッドなどの「アメリカ」がどっと押し寄せ意識のなかに染みこんで来て、一度はゴールデンゲートブリッジやナイアガラの滝やエンパイアステイトビルディングに行ってみたいと漠然と思っていたようです。ゴールデンゲートブリッジは一度歩いて渡ったことがあります。45分ほどかかったような気もしますが、30年以上も前のことですのでいささか怪しいです。

トニー・ベネット(Tony Bennett)の「思い出のサンフランシスコ」(I left my heart in San Francisco)の歌とともにゴールデンゲートブリッジが映し出されたあと、案内役の男性が漁夫の波止場を訪れて次のように解説します。

These are the first sounds of a perfect morning. The dawn chorus from Pier 39, sealions defending territory. You have to be early to catch this dreamy mood, because in a couple of hours, Fisherman’s Wharf changes dramatically.

Each day sees an invasion. Ten and a half million come each year to Pier 39 alone to walk, eat or just gawk at the buskers.

Some are good, others well.., but it doesn’t matter. This is a city where there is no cardinal sin and tolerance is the virtue.

  • 日本語と英語の違いを理解してどう表現するか

まずは”Each day sees an invasion.”をどうほんやくするかです。日本語と英語の構造的な違いを示す好例です。日本語ではEach dayは無生物ですからseeの主語にはなりません。構造的にはWe see an invasion each dayの方がしっくりときます。invasionは一般的には侵入という意味ですが、ここでは他から(人が)やって来るという意味でしょう。もちろんそれは次のTen and a half million comeから容易にわかります。これは映像ですから、その内容を音声や映像から瞬時に推し量る必要があるわけです。オーストラリア流にdayがダイ、invasionがインヴァイジョンと発音されていますので、実際には少し慣れないととっさには理解出来ない可能性もあります。それらを考えに入れると「毎日外からたくさんの人がやって来ます。」くらいのところでしょうか。

  • 抽象的な内容をどう表現するか

次は”tolerance is the virtue.” toleranceは一般的には忍耐ですが、ここでは寛容、(心が)寛いという意味でしょう。virtueは美徳、ここでは判断の基準くらいでしょうか。色んな人がいますが(Some are good, others well..,)、誰も気にしません。(it doesn’t matter.)世俗的な罪(cardinal sin)などない街ですから。それに続く文章です。映像では街芸人(buskers)の演技を人々がぼんやりと見ながら楽しんでいる(gawk)、自由きままで何でもありなんですよ、この街は、とそんなところです。

「何でも許されます、それがこの街の良さですから。」くらいでしょうか。

ほんやくするには、二つの言語の違いを認識する、前後の文脈から推し測かる、その文章が何のために書かれたか、などを考えに入れる必要があるようです。

気軽に楽しむ旅番組ですので、楽しめるほんやくもこの場合、必要でしょうね。

医学科6年生はカリフォルニア大学のアーバイン校で1ヶ月の臨床実習に行っています。英語分野ではそのための英語講座(EMP, English for Medical Professionals)を担当していますが、渡米直前に聴き取りの練習をしたとき、この映像を使いました。その授業にいた一人が「昨日・一昨日とサンフランシスコに行って来ました。先生が授業でお話されていた所ですよね。」と写真を二枚送ってくれました。実習でもお世話になりホームステイもさせてもらっている小児科医のペニー・ムラタさんに連れて行ってもらったようです。今回はその写真を使っています。(写真2:漁夫の波止場2)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記①「漁夫の波止場」」(「モンド通信」No. 91、2016年3月22日)

ダウンロード

2016年3月用ほんやく雑記1(pdf 310KB)

 

ビジネス英語 I-2(2)

13回目の分で書きましたが、ファイル3つは各自の感想を添えて印刷物の形で出して下さい。

清家くんからメールで発表のファイルが送られて来たんで、「ブログに書いたように、それぞれの感想を添えて印刷物で出してくれへんかな。」と返事したら、「感想は英語ですか?日本語ですか?あと、パワーポイントに感想を書いて印刷して提出すれば大丈夫ですか?」と返事があり、「感想は英語でも、日本語でも。
パワーポイントに感想を書いてでもええし、他の紙でも。印刷してでも手書きでも。」と書きました。

あさって28日(月)が最終日なんで、その日に出してくれると一番やけど、週の終わり2月1日(金)までに出してくれれば成績をつけて登録しときます。

ファイルを出してもらえれば、トーイックのスコアと合せて成績を出すのはそう時間がかからないと思う。大きなクラスは少し時間がかかりそうやけど、今年は地域→医学科→大きいクラス、の順で成績をつけて、成績が出たらすぐに登録しようと思っています。家からは登録出来ないの、研究室に行かんとあかんけど、そう遠くないんで。

いよいよみんなと授業で会うのは、あさってが最後やな。

あさって、また。

何年か前に植えた藪椿が今年はようさん花をつけています。奥さんの椿を見て長崎のオムロプリントという広告会社がカレンダーを出しませんかと行ってくれたのが2008年、もう十年以上前になるなあ。最初の年は東急ハンズや旭屋や紀伊國屋という大きいところに置いてもらったけど、カレンダーは商売にはならんみたいで。2、3年は長崎の小さな企業が採用してくれてたけど、今は宣伝もかねて、猫や犬や馬の注文を受けたえも入れて、毎年自分用のカレンダーを作っています。

2009年のカレンダーの藪椿

2019年のカレンダです ↓

● これまでのカレンダー→「今までのカレンダー」