2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の2回目で、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマのラ・グーマの2作目の物語『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)の一場面、ケープタウン遠景と会話体の翻訳などについてです。

本文

ほんやく雑記の2回目です。

前回はサンフランシスコを取り上げましたが、今回は南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの生まれたケープタウンです。そこを舞台にした物語『まして束ねし縄なれば』(And a Threefold Cord)の一場面:ケープタウン遠景です。(写真1:ラ・グーマ)

まるで映画の撮影のように、北側の大西洋から徐々にケープタウンの街に近付き、雨が降り始める街の様子を描きながら、物語が始まります。

ヨーロッパ人に土地を奪われ課税された田舎の人たちは、税金を払うためには仕事を求めて大都会に出るしかなかったのですが、アパルトヘイトによって居住区を定められていましたので、郊外の砂地にスラムを作って不法に住むしか他に道はありませんでした。

「国道沿いや線路脇や、郊外の砂地に立てたブリキ小屋やおんぼろ小屋の住人は、空をじっと見つめ、山の向こうに湿気をはらんだ雲がかかっている北西の方角を見やりました。雨が急にざあーっときて、屋根に雨音が激しくなりだすと、働いていた男たちは、屋根を補強するために、くすねてきた段ボール箱や、ごみの山から拾ってきた錆びた鉄板やブリキ缶を抱えながら、家路を急ぎました。継ぎはぎだらけの屋根や差し掛け屋根には、風が強くなった時に飛ばないように、重い石が何個も載せられていました。」「子供たちは素足の爪先をぴちゃぴちゃ鳴らしながらぬかるみに入り、水たまりや泥んこの中で遊んでいます。」

今回は、そのあとの以下の文章の翻訳についてです。

And: Man, I struck a luck, man – got a tin of bitumen for five bob. Over the wall. Bitumen is all right for keeping out the water. Soak old sacking in it and stuff it into the cracks and joints. Reckon it’s going to rain bad this year? I reckon so, man. Old woman is complaining about her rheumaticks awready, man. Say, give me my can of red on a cold day, and it can rain like a bogger, for all I care. Listen, chommy, I remember one time it rain one-and-twenty days in a row nonstop. Arwie is going to bring home some tar. He works mos by the Council. Look there, I don’t like that hole there. Johnny, you must fix it, instead of sitting around doing blerry nothing. Rain, rain, go away, come back another day, the children sang.

会話体を地の文に埋め込んだ形式です。急に雨が降り出してきたので家路を急ぐ、たぶん中年くらいの男が、雨漏りの補修に材料を運良く安く手に入れたと大声で話している。ビチューメン(bitumen)は道路の舗装に使う黒い液体、tinは缶なので、缶に入った材料のことで、粗い麻布にその液体を染みこませて割れ目や裂け目を埋める。これから長雨になりそうなのは、婆さん(奥さん)のリュウマチが悪くなりかけているので予測出来る。雨が降って寒くても、酒(缶売りのワイン)さえあれば、気にしない。いくらでも降ればいい。3週間も降りっぱなしの時があったなあ。市役所(Council)で働いているアーウィが(ビチューメンよりはましな材料)コールタールを手に入れてくれた、ジョー二ーはぶらぶらしていないで、屋根の補修をしろよ。流れはそんなところでしょうか。

bobは(英国流の)シリング。like a boggerはひどく。chommyは俗語でchommie=friend。mos はアフリカーンス語で強調する時に使う言葉。blerry はケープタウン独特の俗語で、bloodyがなまったもの。rがdに訛るようで、物語の中にDarra(Daddy)も出て来ます。

通して翻訳すると、

「あんた、俺は運がよかった。ピッチを一缶、五シリングで手に入れたよ。壁用のさ。ピッチは防水用にぴったりなんだ。古い麻布をその中に浸けて、そいつを割れ目や継ぎ目に突っこむんだよ。今年はひでえ雨になりそうかって。そうだと思うね、おまえさん。うちの婆さんがもうリュウマチが痛いのなんのと愚痴をこぼす始末さ。おい、寒い日にゃ、俺に赤ワインをたっぷりくれねえかい。そうすりゃ雨なんぞ、いくら降ったって俺の知ったことかい。なあ、おい、昔、二十と一日、たて続けに雨が降り続いたことがあったなあ。休みなしに、だ。アーウィはタールを家に持って帰るところだよ。奴は、なんてったって、市役所に雇われて仕事をしているんだからな。ほら、あそこを見ろよ。俺はそこんとこのあの穴はどうも好かんよ。ジョー二ー、ろくなこともせずにぶらぶらばっかりしていないで、それを修繕くらいしろや。雨、雨、行っちまえ、こんどは一昨日(おととい)降ってこい、と子供らが歌った。」

といったところでしょうか。

ラ・グーマはアパルトヘイト政権からは「カラード」(Coloured)と分類されていました。ケープタウンには「カラード」の人たちが特に多く、「ケープカラード」と呼ばれていました。最初来たヨーロッパ人はオランダ人でしたが、後にイギリス人が来てオランダ人から主権を奪ってケープ植民地を作りました。権力闘争に敗れたオランダ系の富裕層は内陸部に移動してアフリカ人と新たな衝突をくり返しました。ケープに残ったオランダ人はイギリス人に一方的に奴隷を解放されたとき、オランダの植民地マレーシアとインドネシアから労働力を輸入しました。ラ・グーマもインドネシアと白人の血が混じっていたそうです。

最初オランダ人が使っていた言葉にアフリカやアジアの言葉が混じってアフリカーンス語になっています。ラ・グーマの物語にもアフリカーンス語がたくさん出て来ます。

翻訳をするとき、そういった歴史背景や言葉の歴史を知っておく必要もあります。今回のように、物語の中に埋め込まれた会話体を翻訳するのも、会話の主体を誰に想定するかでずいぶんと違ってきます。中年の男性を想定して翻訳しましたが、60か70くらいの男性なら、翻訳もずいぶんと違うでしょう。

物語の舞台は添付の地図の中のケープタウン空港(Cape Town airport)近くの黒塗りの箇所(squatter camp, township)の一つです。(写真2:南アフリカ地図)

次回は「ほんやく雑記(3)ソウェトをめぐって」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」(「モンド通信」No. 92、2016年4月3日)

ダウンロード

2016年4月用ほんやく雑記2(pdf 358KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の1回目で、HNKBS(衛星放送)で放映された旅番組のなかで案内されたサンフランシスコの観光地「漁夫の波止場」(Fisherman’s Wharf)の一場面を取り上げ、①日本語と英語の違いを理解してどう表現するか、②抽象的な内容をどう表現するか、について書きました。

本文

ほんやく雑記を始めます。

英語から日本語のほんやくについて書きたいと思います。毎回ある場面を取り上げて、あれこれを気軽に書いていきたいと思っています。

今回はサンフランシスコの名所漁夫の波止場(Fisherman’s Wharf)の一場面で、①日本語と英語の違いを理解してどう表現するか、②抽象的な内容をどう表現するか、です。(写真1:漁夫の波止場1)

1990年頃にNHKの衛星放送で録画したオーストラリアの放送局制作の旅番組からです。毎回3つの街をそれぞれ7~8分程度で紹介する旅シリーズで、医学部の英語の授業で使うために録り始めました。

1980年代に何度かアメリカに行ったとき、毎回サンフランシスコに何泊かして東部か南部に移動しましたので、冒頭に紹介されているゴールデンゲートブリッジ(金門橋)や、坂やケーブルカー、漁夫の波止場やチャイナタウンなど、記憶の断片と照らし合わせながら楽しめました。

1950年代に普及し始めたテレビにはハリウッドなどの「アメリカ」がどっと押し寄せ意識のなかに染みこんで来て、一度はゴールデンゲートブリッジやナイアガラの滝やエンパイアステイトビルディングに行ってみたいと漠然と思っていたようです。ゴールデンゲートブリッジは一度歩いて渡ったことがあります。45分ほどかかったような気もしますが、30年以上も前のことですのでいささか怪しいです。

トニー・ベネット(Tony Bennett)の「思い出のサンフランシスコ」(I left my heart in San Francisco)の歌とともにゴールデンゲートブリッジが映し出されたあと、案内役の男性が漁夫の波止場を訪れて次のように解説します。

These are the first sounds of a perfect morning. The dawn chorus from Pier 39, sealions defending territory. You have to be early to catch this dreamy mood, because in a couple of hours, Fisherman’s Wharf changes dramatically.

Each day sees an invasion. Ten and a half million come each year to Pier 39 alone to walk, eat or just gawk at the buskers.

Some are good, others well.., but it doesn’t matter. This is a city where there is no cardinal sin and tolerance is the virtue.

  • 日本語と英語の違いを理解してどう表現するか

まずは”Each day sees an invasion.”をどうほんやくするかです。日本語と英語の構造的な違いを示す好例です。日本語ではEach dayは無生物ですからseeの主語にはなりません。構造的にはWe see an invasion each dayの方がしっくりときます。invasionは一般的には侵入という意味ですが、ここでは他から(人が)やって来るという意味でしょう。もちろんそれは次のTen and a half million comeから容易にわかります。これは映像ですから、その内容を音声や映像から瞬時に推し量る必要があるわけです。オーストラリア流にdayがダイ、invasionがインヴァイジョンと発音されていますので、実際には少し慣れないととっさには理解出来ない可能性もあります。それらを考えに入れると「毎日外からたくさんの人がやって来ます。」くらいのところでしょうか。

  • 抽象的な内容をどう表現するか

次は”tolerance is the virtue.” toleranceは一般的には忍耐ですが、ここでは寛容、(心が)寛いという意味でしょう。virtueは美徳、ここでは判断の基準くらいでしょうか。色んな人がいますが(Some are good, others well..,)、誰も気にしません。(it doesn’t matter.)世俗的な罪(cardinal sin)などない街ですから。それに続く文章です。映像では街芸人(buskers)の演技を人々がぼんやりと見ながら楽しんでいる(gawk)、自由きままで何でもありなんですよ、この街は、とそんなところです。

「何でも許されます、それがこの街の良さですから。」くらいでしょうか。

ほんやくするには、二つの言語の違いを認識する、前後の文脈から推し測かる、その文章が何のために書かれたか、などを考えに入れる必要があるようです。

気軽に楽しむ旅番組ですので、楽しめるほんやくもこの場合、必要でしょうね。

医学科6年生はカリフォルニア大学のアーバイン校で1ヶ月の臨床実習に行っています。英語分野ではそのための英語講座(EMP, English for Medical Professionals)を担当していますが、渡米直前に聴き取りの練習をしたとき、この映像を使いました。その授業にいた一人が「昨日・一昨日とサンフランシスコに行って来ました。先生が授業でお話されていた所ですよね。」と写真を二枚送ってくれました。実習でもお世話になりホームステイもさせてもらっている小児科医のペニー・ムラタさんに連れて行ってもらったようです。今回はその写真を使っています。(写真2:漁夫の波止場2)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記①「漁夫の波止場」」(「モンド通信」No. 91、2016年3月22日)

ダウンロード

2016年3月用ほんやく雑記1(pdf 310KB)

 

ビジネス英語 I-2(2)

13回目の分で書きましたが、ファイル3つは各自の感想を添えて印刷物の形で出して下さい。

清家くんからメールで発表のファイルが送られて来たんで、「ブログに書いたように、それぞれの感想を添えて印刷物で出してくれへんかな。」と返事したら、「感想は英語ですか?日本語ですか?あと、パワーポイントに感想を書いて印刷して提出すれば大丈夫ですか?」と返事があり、「感想は英語でも、日本語でも。
パワーポイントに感想を書いてでもええし、他の紙でも。印刷してでも手書きでも。」と書きました。

あさって28日(月)が最終日なんで、その日に出してくれると一番やけど、週の終わり2月1日(金)までに出してくれれば成績をつけて登録しときます。

ファイルを出してもらえれば、トーイックのスコアと合せて成績を出すのはそう時間がかからないと思う。大きなクラスは少し時間がかかりそうやけど、今年は地域→医学科→大きいクラス、の順で成績をつけて、成績が出たらすぐに登録しようと思っています。家からは登録出来ないの、研究室に行かんとあかんけど、そう遠くないんで。

いよいよみんなと授業で会うのは、あさってが最後やな。

あさって、また。

何年か前に植えた藪椿が今年はようさん花をつけています。奥さんの椿を見て長崎のオムロプリントという広告会社がカレンダーを出しませんかと行ってくれたのが2008年、もう十年以上前になるなあ。最初の年は東急ハンズや旭屋や紀伊國屋という大きいところに置いてもらったけど、カレンダーは商売にはならんみたいで。2、3年は長崎の小さな企業が採用してくれてたけど、今は宣伝もかねて、猫や犬や馬の注文を受けたえも入れて、毎年自分用のカレンダーを作っています。

2009年のカレンダーの藪椿

2019年のカレンダです ↓

● これまでのカレンダー→「今までのカレンダー」

続モンド通信・モンド通信

1 私の絵画館:「トラちゃんとキタローと昼咲き月見草」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜2:着想と展開(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「トラちゃんとキタローと昼咲き月見草」(小島けい)

1年くらい前から、台所に立つ時、私はいつもスマップの歌を聞いています。理由は簡単。新しく作ってもらったCDにスマップが入っていたから、それだけです。ただ、今までほとんど聞いたことのなかったスマップでしたが、なかなかいいなあと思うようになりました。

実は6年前の春、桜の花を描きすぎて血圧があがってしまいました。もちろんそれだけの理由ではなかったのですが、それ以来、シーンとしたなかで何かを一生懸命していると、神経が自身の内側へ内側へと入り込んでいくのを感じました。

これはいけない!と考え、絵を描く時と台所に立ってお料理を作る時には、毎回必ずバックグラウンドミュージックをかけるようになりました。

けれどCDを作るなどという面倒なことを自分でできるわけもなく、いつも娘に頼んでいます。そして、たまたま今回はスマップの曲だった、というわけです。

2枚のCDのうちの1枚は、あまり知っている曲もなく<たいしたことないかなあ>とあなどっていたのですが。2枚目にはダンスの教室で踊った曲やよく知っている曲も入っていて、<スマップもよくがんばっていたのだなあ・・・・>と改めて思うようになりました。

音楽というのは不思議なもので、曲が流れるとそれを聞いていた時代も同時によみがえったりします。その頃しんどい出来事があったりすると、そのことまで思い出されてしまうので、どんな曲をバックに流すのかは、私にとって結構難しい面もあるのです。

その点、スマップの曲は基本的に明るくて、踊るのに適しているので、軽く聞き流すにはうってつけです。おまけに<ナンバー1にならなくてもいい、もともと特別なオンリー1>などと歌われると、ほんとうにそうだよねえ、と納得してしまいます。なかにはちょっと深刻な歌詞の歌もありますが、あの人たちが歌うとヘンに重たくならず、素直に心に入ってきます。もしかしたらそのあたりが、グループが長年続いた理由の一つかもしれないなあと、今頃になって気付いたりしました。

<ずうっとおんなじ曲やなあ>とひかえめなイヤ味を言われながらも、これから当分私のスマップの時代は続きそうです。

二匹の猫の手前にいるのがトラちゃんです。13歳の時ひどい糖尿病で逝くまでは、大きな病気もなく、よく食べよく遊ぶ、手のかからない子だったそうです。病院の猫でしたので、何度も献血をして他の猫を助けたということでした。

ちょうど飼い主さんのお兄様と同じ時期に糖尿病がわかり、トラちゃんが亡くなった後、お兄様はすっかり回復されたとか。トラちゃんが兄の病気も背負っていってくれたのではないかと思ってしまいます、というお話でした。

病院のなかでとても仲のよかったキタローくんもいっしょに描いて下さいとのご希望でしたので、前々からいつか絵にしたいと思っていた昼咲き月見草の野原のなかの二匹を描きました。

キタローくんは<子ネコの時にひどい風邪の状態で病院にてくてくと自分ひとりで歩いてきて、玄関の前に座りこんだ>という伝説(?!)の猫です。

病院にやってきた時から足が悪く、ずっと高いところには登れませんが、今も元気に福岡の動物病院で暮らしています。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜2:着想と展開

前回は「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の概要でしたが、今回は着想に至った経緯と今後の展開についてです。

<着想に至った経緯>

アフロアメリカの作家リチャード・ライトの小説を理解したいという思いで歴史を辿り始めたのですが、アフリカ系アメリカ人は主に西アフリカから連れて来られたのだと初めてアフリカに目が向きました。まだアパルトヘイトがあった時代で、アメリカで研究発表をしたり、反アパルトヘイト運動の一環で講演を頼まれてやっているうちに、次第に世界と日本、第三世界と先進国の関係が見えて来ました。おぼろげに見えて来たのは、次のような構図です。

イギリスを中心にした西欧諸国のこの五百年余りの侵略で、人類は二つの大きなものを変えました。生産手段と武器です。それを可能にしたのは1505年のキルワの虐殺に始まる西欧の略奪とそれに続く大西洋で繰り広げられた奴隷貿易によって蓄積された資本です。その資本で産業革命が可能になり、生産の手段を手から機械に変えました。人類は捌き切れないほど大量の工業生産品を作り出せるようになったわけです。あとは金持ちの論理で進んで行きます。さらなる生産のための安価な原材料と労働力が植民地戦争を産み、二度の世界大戦で殺し合いをしてもめげずに、開発と援助の名の下に多国籍企業による経済支配に制度を再構築して搾取構造を温存し、現在に至っています。その体制を維持するために剣から銃、終にはミサイルや原爆まで開発し、武器産業が「先進国」の重要な産業にもなっていて、在庫がだぶつくとアメリカは世界のどこかで戦争を起こして来ました。

 

1992年の在外研究は一つの転機になりました。国立大学の教員は国家公務員で、アパルトヘイト政権と密な関係にありながら、国は表面上、文化交流の禁止措置を取っていましたので、申請書を出した1991年には南アフリカのケープタウンには行けないと却下されました。かわりに、アメリカ映画「遠い夜明け」(Cry Freedom, 1987)のロケ地でもあり、南アフリカと制度のよく似た国ジンバブエに行き、奪う側、奪われる側の格差を実感しました。それまでいろいろ頭の中で考えていたものが、現実だったわけです。

しかしながら、加害者であるにもかかわらず、アフリカは可哀相だから助けてやっている、と考えている人が実際には大半です。以来、大学の教養に役目があるなら、意識下に働きかけて自分や社会について考える機会を提供することだと考えるようになりました。授業では出来るだけ英語を使い、映像や資料も集め続け、「概要」で紹介した英文書を二冊と、編註書A Walk in the Night(Mondo Books、1988)とAnd a Threefold Cord(Mondo Books、1991)、翻訳書『まして束ねし縄なれば』(門土社、1992)も出版しました。

医学生は教養を軽視する傾向があるうえ、馴染みのないアフリカだと拒否反応を示す人も多く、自然と医学と関連させる工夫をするようになりました。その中からエイズのテーマ「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが―」(平成15年度~17年度基盤研究C、2500千円)と「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(平成21年度~平成23年度、基盤研究C、3900千円)も生まれました。

旧宮崎大学と統合後は、教養が全学責任体制になって「南アフリカ概論」や「アフリカ文化論」なども担当し、『アフリカ文化論Ⅰ』(門土社、2007)も書きました。今も学士力発展科目「南アフリカ概論」や「アフロアメリカの歴史と音楽」などを担当、この3年間半で3400人を担当しました。

今回のテーマも、そんな「研究」と授業の中から、自然と生まれました。

<今後の展望>

奪う側、持てる側(The Robber, The Haves)は富を享受出来て快適ですが、奪われる側、持たざる側(The Robbed, The Haves-Not)はたまったものではありません。理不尽な思いを強いられたり、悔しい思いを味わった多くの人たちが文学や自伝や評論に昇華して、後の世に残しています。特にアングロ・サクソンに搾り取られできたアフロアメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの系譜を辿り、文学と医学の狭間からその系譜を見てゆきたいと思います。それぞれの手がかりとする作品と明らかにするテーマは以下の通りです。

<アフロアメリカと人種隔離政策>

歴史とライトの自伝的スケッチ"The Ethics of Living Jim Crow, 1937″、小説Native Son(1940)、歴史的スケッチ12 Million Black Voices(1941)、自伝Black Boy(1945)、ミシェル・ファーブルさんのライトの伝記The Unfinished Quest of Richard Wright(1973?)、マルコムのMalcolm X on Afro-American History(1967)

<ガーナと独立>

ライトのガーナ訪問記Black Power(1954)とクワメ・エンクルマの自伝The Autobiography of Kwame Nkrumah(1957)と自伝Africa Must Unite(1963)

<コンゴの独立・コンゴ危機とエボラ出血熱>

トーマス・カンザの評論The Rise and Fall of Patrice Lumumba(1981)とリチャード・プレストンの小説Hot Zone(1995)、バズゥル・デヴィドスン(写真 ↓)のAfrican Series (NHK, 1983)

<ケニアと新植民地支配とエイズ>

グギの評論Writers in Politics(1981)、ワグムンダ・ゲテリアのエイズの小説Nice People(1992)、メジャー・ムアンギのエイズの小説The Last Plague(2000)

<南アフリカとアパルトヘイトとエイズ>

ラ・グーマのAnd a Threefold Cord(1964)、セスゥル・エイブラハムズのラ・グーマの伝記・作品論Alex La Guma(1985)、ベンジャミン・ポグルンドのロバート・マンガリソ・ソブクエの伝記Sobukuwe and Apartheid (1991)、レイモンド・ダウニングの評論As They See It – The Development of the African AIDS Discourse(2005)、メイ・ポン編The Struggle for Africa(1983)

アングロ・サクソン中心の奪う側、持てる側(The Robber, Haves)が如何に強引に、巧妙に支配を続けていて、アフロアメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの奪われる側、持たざる側(The Robbed, Haves-Not)が如何に辱められ、理不尽を強いられて来たか、文学作品とエイズやエボラ出血熱―文学と医学の狭間から見えるその基本構造と実態を明らかにしたいと思います。

最初は歴史を辿って行って結果的に作品に出会ったという流れでしたが、今回は作品から「アングロ・サクソンの系譜」を浮かび上がらせたいと考えています。

「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の次の申請が可能なら、アフロアメリカのところで手に入れて手つかずのままの奴隷体験記An American Slaveの41巻と、エイズのところで集めて消化仕切れていないアフリカのエイズ小説19冊を元に、違う形でのアングロ・サクソン侵略の系譜を辿ろうと思っています。奴隷貿易がおそらく、この500年余りの歴史の中で最も後の世に影響を及ぼした出来事で、エイズが人類史上でおそらく最大の被害と利益を生んでいる病気だからです。

それと、また科研費の交付があり得るのか、を確かめてみたいという気持ちも、ほんの少しだけあるようですから。(宮崎大学教員)