続モンド通信・モンド通信

1 私の絵画館:「誕生(リープ)」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要(玉田吉行)

1 私の絵画館:「誕生(リープ)」(小島けい)

 

この前の日曜日、<奇跡のレッスン>という番組を見ました。それは、いろいろなスポーツをしている普通の子供たちのところに、世界で活躍する一流の選手やコーチがやってきて1週間指導する。そうして子供たちがどのようにかわっていくかを追う、というものです。

以前、フィギアスケートをとりあげた時にちらっと見たことがあったのですが、今回はハンドボールでした。

私自身が特に好きな球技というわけではありませんが。高校生の時同じ高校のハンドボール部が急に強くなりました。ハンドボールに詳しい体育の先生が来たかららしいということでしたが、強くなるためにはいったい何が必要なのだろう?とちょっと知りたくなりました。

指導を受けるのはある中学校のクラブで、そこにデンマークから有名な選手がやってきました。彼は、まず普段の練習を見ることから始めました。

最初はグラウンドを走る。その時、日本では珍しくありませんが、かけ声をかけながらみんなで走ります。彼は通訳の人に、彼等は何故声を出して走るのか?と聞き、あれはかけ声ですと教えられます。それに対し、歌っているのかと思った!とまずビックリ。

そして、次々と整然と練習がこなされていきます。この段階では、技術的にはかなりできている、と彼は判断していました。

ところが、試合形式に入った途端生徒たちの動きがバラバラになり、得点にむすびつきません。決まった練習では見せていた能力が、全く発揮されないのです。

その理由は、少し前に行われた試合のビデオを見てはっきりしました。実はこの部活動の指導は、ねっからの体育系と思われる女の先生がされています。生徒たちは試合中も、その先生の指示の声を聞きながら動いていたのです。瞬時に判断して動くスピードが必要とされる試合に、これでは動きがまにあいません。

さらに、声を出せ!声が出てない者が失敗するんだ!とゲキが飛びます。そうなるとまだ上手とはいえない生徒たちはますます萎縮して、動きがさらにぎこちなくなってしまいます。

ここでコーチの指導がいよいよ始まりました。まずやったことは、デンマークではよく使われているというゲーム感覚を取り入れた練習です。自分でドリブルをしながら、同時にスキを見て他の人間のボールをはじき飛ばすというものです。遊びのようですが、いつもまわりを見ながら動く練習になっています。

子供たちは初めての練習に、楽しそうに取り組み始めました。いつもの決まった練習では見せなかった笑顔や笑い声もおこります。

次々と展開されていく練習も、あくまで実践に即した内容が続きます。

こうしたなかで、それまで怒られるのが恐くてクラブをやめたいなあと思っていた生徒や、試合では決して使えないと先生に思われていた生徒たちが、予想外の能力を発揮していきます。

ほめられたことのなかった子がほめられて自信をつけたり、今回はまだ前編でしたが、様々な変化が子供たちにおこっていました。

後編では、前回負けたチームと再び対戦するということです。どうなるか予想もつきませんが。

コーチが生徒たちに伝えたかった大切なこと。

その1は、楽しむということ。その2は、その時どう動くかを、自分で考え判断すること。だったのではないかと思いました。

楽しんでやれば、これまで出せなかった声も出せ、他のメンバーとのコミュニケーションもとれるようになるでしょうし、すばやく判断して行動すれば、得点にもつながっていくはず。

ハンドボールで強くなるために必要なもの、だったはずですが。ふり返るとこの2つは、ハンドボールという1つの球技だけに限られたものではないような。

そんなことに気付かされた夜となりました。

子馬の名はリープ。何年か前のうるう年の2月に生まれました。名前はその<leap year>からつけられました。

子馬はふつう生まれてまもなく、自分の力で立ちあがります。ところがリープは、なかなかそれができませんでした。

ちょうど私が牧場に行った時も、リープは立とうとしてはバタッ!と倒れ、を何回も繰り返していました。

立つことができないとお乳を飲むことができず、子馬は生きていくことができません。そのためオーナーのメグさんが、必死で世話をしておられたのです。

そのかいあって、まもなくリープは見事に立ちあがり、元気に育つことができました。

今はちがう牧場でほがらかにすごしていると、少し前に教えてもらいました。

2 アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要(玉田吉行)

「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」で、文部科学省科学研究費(平成30~34年度基盤研究C、4030千円)の交付を受けました。今回はその概略です。4年前に定年退職したとき、もう「研究」せんでもええんかな、とちらっと思いましたが、元々書いたり読んだりする空間が欲しくて30を過ぎてから修士号を取って大学を探し始めただけですから、厳密な意味で「研究」するとかしないとかの概念そのものが僕には元々ないんだったと思い直しました。

辛うじて38歳で宮崎医科大学に教養の英語学科目等の担当の講師として不時着、医学部では運営は教授だけで、それ以外は研究に専念をという方針のようで、書いたり読んだりするための理想的な空間でした。それでも大学では授業と「研究」は避けられません。幸いなことに、人も授業も嫌いではなかったですし、修士課程と非常勤講師の7年間ですでにたくさん書きためていましたので、「研究」のふりは出来そうでした。科研費も1年目に申請し、単年でしたが「1950~60年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」(平成元年度一般研究C、1000千円)が交付されました。実際にはアパルトヘイト政権と手を組んで甘い汁を吸いながら、表向きは人権侵害反対のポーズを取る国の方針に忠実な文部省には、反アパルトヘイトを掲げて闘った南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ関連のテーマは許容範囲内だったのでしょう。門土社(横浜)のおかげで印刷物が多かったのも決め手の一つだったかも知れません。

今回申請書を出すとき、「学術的背景、核心をなす学術的『問い』」の欄には次のように書きましたが、それが「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」お概要です。

 

定年退職で時間切れと諦めていましたテーマで、再任により申請出来るようですので、機会を有り難く使わせてもらおうと思います。(語学教育センター特別教授二年目、一年毎の更新、最長十年)広範で多岐に渡るテーマですが、アフリカ系アメリカ人の歴史・奴隷貿易と作家リチャード・ライト、

ガーナと初代首相クワメ・エンクルマ、

南アフリカの歴史と作家アレックス・ラ・グーマとエイズ、

ケニアの歴史とグギ・ワ・ジオンゴとエイズ、

アフリカの歴史と奴隷貿易、とそれぞれ10年くらいずつ個別に辿って来ましたので、文学と医学の狭間からその系譜をまとめようと思います。

ライトの作品を理解したいという思いでアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り始めてから40年近くになります。その中でその人たちがアフリカから連れて来られたのだと合点して自然にアフリカに目が向きました。大学に職を得る前に黒人研究の会でアフリカ系アメリカとアフリカを繋ぐテーマでのシンポジウムをして最初の著書『箱船21世紀に向けて』(門土社、1987)にガーナへの訪問記Black Power(1954)を軸に「リチャード・ライトとアフリカ」をまとめて以来、南アフリカ→コンゴ・エボラ出血熱→ケニア、ジンバブエ→エイズと広がって行きました。

辿った結論から言えば、アフリカの問題に対する根本的な改善策があるとは到底思えません。英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが指摘するように、根本的改善策には大幅な先進国の経済的譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩の兆しも見えないからです。しかし、学問に役割があるなら、大幅な先進国の譲歩を引き出せなくても、小幅でも先進国に意識改革を促すように提言をし続けることが大切だと考えるようになりました。たとえ僅かな希望でも、ないよりはいいのでしょうから。

文学しか念頭になかったせいでしょう。「文学のための文学」を当然と思い込んでいましたが、アフリカ系アメリカの歴史とアフリカの歴史を辿るうちに、その考えは見事に消えてなくなりました。ここ五百年余りの欧米の侵略は凄まじく、白人優位、黒人蔑視の意識を浸透させました。欧米勢力の中でも一番厚かましかった人たち(アフリカ分割で一番多くの取り分を我がものにした人たち)が使っていた言葉が英語で、その言葉は今や国際語だそうです。英語を強制された国(所謂コモンウェルスカントリィズ)は五十数カ国にのぼります。1992年に滞在したハラレのジンバブエ大学では、90%を占めるアフリカ人が大学内では母国語のショナ語やンデベレ語を使わずに英語を使っていました。ペンタゴン(The Pentagon、アメリカ国防総省)で開発された武器を個人向けに普及させたパソコンのおかげで、今や90%以上の情報が英語で発信されているとも言われ、まさに文化侵略の最終段階の様相を呈しています。

ジンバブエ大学教育学部

聖書と銃で侵略を始めたわけですが、大西洋を挟んで350年に渡って行われた奴隷貿易で資本蓄積を果たした西洋社会は産業革命を起こし、生産手段を従来の手から機械に変えました。その結果、人類が使い切れないほどの製品を生産し、大量消費社会への歩みを始めました。当時必要だったのは、製品を売り捌くための市場と更なる生産のための安価な労働者と原材料で、アフリカが標的となりました。アフリカ争奪戦は熾烈で、世界大戦の危機を懸念してベルリンで会議を開いて植民地の取り分を決めたものの、結局は二度の世界大戦で壮絶に殺し合いました。戦後の20年ほど、それまで虐げられていた人たちの解放闘争、独立闘争が続きますが、結局は復興を遂げた西洋諸国と米国と日本が新しい形態の支配体制を築きました。開発や援助を名目に、国連や世界銀行などで組織固めをした多国籍企業による経済支配体制です。アフリカ系アメリカとアフリカの歴史を辿っていましたら、そんな構図が見えて来て、辿った歴史を二冊の英文書Africa and Its Descendants(Mondo Books, 1995)とAfrica and Its Descendants 2 – The Neo-Colonial Stage(Mondo Books, 1998)にまとめました。

奴隷貿易、奴隷制、植民地支配、人種隔離政策、独立闘争、アパルトヘイト、多国籍企業による経済支配などの過程で、虐げられた側の人たちは強要されて使うようになった英語で数々の歴史に残る文学作品を残して来ました。時代に抗いながら精一杯生きた人たちの魂の記録です。

作品を理解したいという思いから辿った歴史ですが、今度は歴史に刻まれた文学作品から歴史を辿りながら侵略の基本構造と侵略のなかで苦しめられてきた人々の姿を明らかにするのが今回の目的です。その過程で先人から学び取り、将来の指針となる提言の一つでも出来れば嬉しい限りです。(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

門土社(横浜)には大変お世話になりました。

社長の關さんにお会いしたのは1983年か4年だったと思います。当時住んでいた明石から新幹線で横浜に行き、駅の近くでお会いしたように思います。

大学のゼミの貫名さんの追悼号に何か書きませんか、とお誘いを受けて会いに行った、ようなそうでないような。それが原稿第一号になりました→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」

その後、本を7冊、雑誌ごんどわな、ゴンドワナ、復刊ゴンドワナなど、いろいろ書く機会を下さいました。

雑誌を出すのが難しくなってからは、メールマガジン「モンド通信」。

一番たくさん書かせてもらいましたので、気持ちを継続させて、僕のブログで「続モンド通信」を始めることにしました。1号は小島けいの「私の絵画館」と玉田吉行の「ほんやく雑記」未掲載の原稿から始めます。

出来るだけ、月に一度は配信する予定です。記事や執筆者も増えそうな気がしています。

配信をご希望の方はtamadayoshiyuki@gmail.comにお申し込み下されば、毎号ご案内致します。

2018年12月19日  玉田吉行

 

 

2010年~の執筆物

門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信」にNo. 63 (2013年11月)からNo. 71 (2014年7月)まで連載したAfrica and Its Descendants (Mondo Books, 1995)の解説(英文・日本語訳も)です。↓

<1>→「アフリカ小史前半」

<2>→「アフリカ小史後半」

<3>→「南アフリカ小史前半」

<4>→「南アフリカ後半」

<5>→「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」

<6>→「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」

<7>→「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」

<8>→「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」

<9>→「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」

アフリカ人とアフリカ系米国人の歴史を虐げられた側から捉え直した英文書で、英語の授業でも使いました。アフリカとアフロ・アメリカの歴史を繋いで日本人が英語で書いたのは初めてだと思います。

一章では、西洋人が豊かなアフリカ人社会を破壊してきた過程を、奴隷貿易による資本の蓄積→欧州の産業革命→植民地争奪戦→世界大戦→新植民地化と辿りました。

二章では南アフリカの植民地化の過程と現状を詳説しました。全体の半分を占めています。

三章では奴隷貿易→南北戦争→公民権運動を軸に、アフリカ系アメリカ人の歴史を概観しました。

『アフリカとその末裔たち』

 

2010年~の執筆物

概要

前回は『アフリカとその末裔たち』(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」("A Short History of Black Americans")の④で、第二次世界大戦後、法的に解放されながら基本的には余り変わらなかったアフリカ系アメリカ人が立ち上がって闘った公民権運動ついて書きました。今回は公民権運動のその後についてです。

本文

公民権運動、その後

公民権法が成立して半世紀が立ちました。私は戦後まもなくの1949年に生まれましたから、その頃アメリカでは、変革の嵐が吹き荒れようとしていたわけです。1954年の最高裁判決から1963年のワシントン大行進、翌年の公民権法成立まで怒濤のような日々が続きました。

ワシントン大行進で手を振るマーチン・ルーサー・キング牧師

同じ頃、無条件降伏を受け入れた日本では、占領政策により、日常に「アメリカ」がどっと押し寄せて来ていました。学校ではアメリカの言葉が偏重され、小学校の頃にはテレビが普及し始めてハリウッド映画が流れ、食事も洋食が増えていきました。一度は独立を果たした大抵のアフリカ諸国が軍事独裁政権の名の下に暗黒の時代に突入して行くのを尻目に、日本はオリンピックを機に高度経済成長期にどっと流れ込んで行きました。田舎の隅々まで道路が整備され、新幹線も開通して速度を増して行きました。

公民権運動が終わった1970年代の初めに大学に入って、始めてリチャード・ライトの作品を英語の授業で目にしました。70年安保、安田講堂の攻防があった翌年です。学生運動は国家に完璧に押さえ込まれたのに、地方の大学ではまだ残り火がくすぶっていました。火炎瓶を脇に置き、ヘルメットを被った学生がマイクを手にがなり立てていました。

神戸市外大旧学舎のバリケード封鎖、1971年(大学ホームページより)

そのころ神戸三宮の場末の映画館で再上映されていた、シドニー・ポワチエの「招かれざる客」(“Guess Who’s Coming to Dinner”) や「いつも心に太陽を」(“To Sir, with Love,” 1967)を観ています。ことを起こした張本人の責任は棚に上げて、白人アメリカは公民権運動を支持しているぞと、ハリウッドから全世界に発信して大儲けするところは如何にもアメリカらしいと思いますが。

「招かれざる客」「いつも心に太陽を」の主人公シドニー・ポワチエ

もちろん持てるものがそう簡単に既得権益を手放すわけがありません。公民権法が成立したとはいえ、経済格差や長年かかって根付いた人種的な偏見がそう簡単に是正されることはあり得ません。公民権運動を検証するドキュメンタリーがたくさん放映されてきましたが、「キング牧師の遺産~いま アメリカ黒人社会は~」(英テムズTV、1988年)もその一つです。アラバマ州の白人街ラウンデスボロに黒人が移り住む場合にどうなるか、市長のT・リンガムが「ここでは前例のない話ですし、他の地区でもそんな話は聞いたためしがありません。だから、どうなることやら引っ越して来たとしても翌朝までその家が無事かどうか。引っ越して来るのは自由ですが、保証はし兼ねます。」とインタビューに応じています。

マーチン・ルーサー・キング牧師

またアラバマ州フォーサイスで行なわれた黒人デモ(1987年)では「帰れ、ニガー」などの罵声とともに白人の激しい憎悪が向けられていました。ジョージア州ストーンマウンテンで行なわれた反黒人団体キュークラックスクランの集会では「警察が腑抜けなら我々が制裁を!ジョージアのクランは法を超越する。聞け、ニガーども!我々を甘く見るな。もっと大声でホワイとパワー!」と白人青年が絶叫していました。

1954年の判決後人種共学の「草分け」としてサウスカロライナ州のグリーンズボロ高校を卒業したジョセフィンブラッドレーさんは白人生徒たちに卵やトマトを投げつけられ、卒業式にはやじと怒号を浴びせられ、父親の食堂も焼かれたそうで、半世紀後に「いったい何の役にたったのか」とやりきれない思いを語っています。(「人種共学阻む経済力」読売新聞、2005年12月)

公立学校の人種共学に続いて、人種的少数派への優遇措置「アファーマティブ・アクション」(積極的差別撤廃措置)も広がりましたが、90年代に入り経済力のある白人が私立学校に子供を入れるようになり、人種隔離は60年代と同程度にまで再び拡大しています。1978年には「逆差別」だと主張した白人学生の入学を認める判決が下され、1966年にはカリフォルニア州で措置を廃止する住民投票も成立しています。もっとも、その時期に南カリフォルニアに在外研究に行っていた同僚の話では、実際に優遇措置をなくして入試をしたところ黒人の入学者がいなくなり、これはやばい、暴動の恐れがあるぞと、その次の年に元の入試に戻したということでした。ロサンゼルスの暴動で韓国系アメリカ人が襲われた恐怖が大きかったということでしょう。

最近ミズリー州ファーガソンで起こった黒人(アフリカ系)射殺事件も、多数派の黒人社会と、白人中心の警察との日頃からの隔絶が表面化したもので、背景には貧困や人種の壁が厳然とあり、全米に共通した問題でもあります。

2002年の74回アカデミー賞授賞式で、「49年間追い続けたシドニーと同じ夜に授賞できました。今まであなたの後を追い続けて来ました、あなたの足跡を追い続けてきました。これ以上の感謝の言葉もありません。」とトロフィーを高々と掲げながら名誉賞を受けたシドニー・ポワチエに語りかけたデンデル・ワシントンの祝辞は、苦難を強いられてきたアフリカ系アメリカ人の思いを代弁していたのかも知れません。悪の限りを尽くすサンフランシスコ市警を演じた「トレイニング デイ」( “Training Day,” 2001)での二度目の主演男優賞です。(宮崎大学医学部教員)

デンデル・ワシントン

アフリカ系アメリカ小史④では、「闘いは続く」("STUGGLE CONTINUES")について、英文で書きました。日本語訳もつけた全文は→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis9.docx(画面上に出てくるZimHis9.docxです。)アドレスをクリックすれば “A Short History of Black Americans” in Africa and Its Descendants「アメリカ黒人小史」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995; 2009; Chapter 3) のワードファイルをダウンロード出来ます。

『アフリカとその末裔たち』

執筆年

     2014年7月10日

収録・公開

 →「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」(No. 71  2014年7月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

 「アフリカ系アメリカ小史⑤」