2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した15回目の「ジンバブエ滞在⑮ ゲイリーの家」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ゲイリーの家

作りかけの教室の足しにでも使って下さいと校長に寸志を手渡して、ルカリロ小学校を後にし、私たちは再びゲイリーの家に戻りました。

ゲイリーの家でも、大歓迎を受けました。両親や兄弟やその家族を紹介してもらいましたが、少々人が多過ぎて、両親以外は誰が誰だかわかりませんでした。

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ゲイリーの家族・親族

最初に案内された小屋風の建物は、みんなが集まって寛ぐ場所のようですから、さしづめ居間に相当するインバでしょう。円形の室内は、外から見る以上に天井が高くて広い感じです。周りの壁の一部には、座るのにちょうどいい高さに、ベンチとでも言うべき腰掛け台が設けられ、真ん中に掘られた囲炉裏には、火が入っています。ここで食事をしたり、団欒の時を過ごすのでしょう。採光や換気が充分でないと感じるのは、今の私が都会の生活に慣れてしまっているせいでしょうか。

ゲイリー夫妻のインバにも連れていってもらいました。セメントと土を混ぜて塗ったと思われる床はぴかぴかに光り、隅々にまで手入れが行き届いています。室内には清潔感が漂っていました。フローレンスがどうぞと、さっと床にザンビアを広げてくれました。ルカリロ小学校で録音したテープを聞こうということになって、テープレコーダーを回し始めましたら、だんだんと人の数が増えてきました。

妻は、ゲイリーのインバをスケッチしたいと外に出ました。たちまちの人だかりです。ゲイリーは、向こうにいる女性陣が歌って踊りたいと言っているので、録音しませんかと言っています。何らかの形で歓迎の意を伝えようとして下さっているのでしょう。

ゲイリーとフローレンスの寝室の前で

最後に、ゲイリーは家の墓に案内してくれました。家のすぐ傍の樹の下に、何個か大きな石が置いてあって、石には「……モヨ」という先祖の名前が刻まれています。前の日に用意しておいた36枚撮りのフィルムもあと僅かとなっていましたが、ゲイリーのたっての希望により、墓の写真を何枚かフィルムに収めました。

墓石の前に立ち、向こうに見える小高い山を見つめながら、あの山の麓までがモヨ家の土地なんですよと何気なくゲイリーが言いました。

何も遮るものがない向こうの山の麓まで、2、3キロはあるでしょうか。いや、もっとあるかも知れません。何ということでしょう。こんなに広い土地がありながら、家族と一緒にここで暮らせないなんて。

渇いた大地の中にゲイリーと並んで立ち、激しく吹きつける風を我が身に受けながら、これがアフリカの現実だとしみじみ思いました。おそらく、目の前の墓に眠っているゲイリーのひいおじいさんの世代までは、豊かな家畜の群れを持ち、日の出とともに起き、陽が沈む頃に休むという自給自足の生活を享受していたはずです。

対象が大きすぎて、当事者のゲイリーには把握する術もなく、あまりにも厳しい現実に、考える余裕すら持てないのが本当の所だと思いますが、「先進国」がアフリカ人の安価な労働力を食い物にしている搾取の縮図が、まさに目の前に広がっていました。

この国に本格的に西洋人が侵入して来たのは、19世紀の終わりで、わずか100年前のことです。金を掘り当てるのが目的でした。

最初に南アフリカにやって来たのは、オランダ系の入植者アフリカーナーですが、イギリス人はそのアフリカーナーを内陸部に追い遣って、次第に南アフリカの主導権を握るようになっていました。

1854年ころまでには、豊かで肥沃な海岸部のケープとナタールの2州をイギリス人が占有し、内陸部のオレンシ自由州とトランスヴァール州をアフリカーナーの自治領としてイギリス人が認める形で覇権が確立されていました。他のヨーロッパ列強の進出を阻むために南アフリカを押さえておく必要性がありましたが、イギリスにとって南アフリカ自体はまだそれほど重要性を持つ国ではありませんでした。

南アフリカの地図

しかし、1886年に、現在の南アフリカ最大の都市ジョハネスバーグがあるヴィットヴァータースラント(ラント)地方に金が出てから、状況が一変します。ジンバブエへのイギリス人の侵略は、このラントでの金の発見と密接に関係しています。

金が出たラントは、イギリス人がアフリカーナーに自治領として認めたトランスヴァール州内にありました。のちに金の採掘権をめぐって、2国間で壮絶な第2次アングロボーア戦争(1899年~1902年)が繰り広げられますが、豊かな金を産出するラントの出現は、それまでアフリカ南部の覇権を誇っていたイギリスにとっての脅威となりました。

ジンバブエへの進出を積極的に推し進めたのは、すでにケープ植民地で権力を手にしていたセシル・ローズやその取り巻きです。ローズは、1868年にオレンジ自由州キンバリー付近でダイヤモンドが発見されてから南アフリカに渡って来た入植者の一人です。17歳の若さながら、次々と採掘権を奪いながら、次第に財力をつけ、やがて90年にローズはケープ植民地の首相になりました。

ダイヤモンドの採掘(「アフリカシリーズ」)

ラントの出現により優位を脅かされると懸念したイギリス政府はローズらを後押して89年にイギリス南アフリカ会社(BSAC)を設立させ、第2のラントを求めて、本格的に北部への進出を開始しました。翌年の6月には、武装したBSACの私設軍500人と入植者200人が、ローズの庇護をもくろむ350人のグワト人を従えて、北部のベチュアナランド(現在のボツワナ)からマショナランド(現在のジンバブエの北部)に侵入し、9月には現在のハラレに、入植者がイギリスの国旗を翻しました。

入植者は、その地をソールズベリと名付けました。のちに国はローズにちなんで、ローデシアと呼ばれるようになります。ケープタウンとエジプトのカイロを結ぶ一大帝国を築く野望を持っていたローズにとって、この北部進出は一つの足掛かりでもありました。

相当の土地と金の採掘権とを約束されていた入植者は直ちに金探しに没頭しましたが、期待したほどの成果は得られませんでした。その土地が第2のラントにはならなかったわけです。

予め専門家に金鉱脈の調査を依頼していたローズは、94年に調査結果の報告を受け、南部のマタベレランドに少しは金が出るものの、ラントほど豊かな鉱脈をどこにも期待出来ないことを知りました。そして、ローズとBSACは、金の採掘に代わる手段として、その地に住むアフリカ人から富を奪う道を模索し始めます。北部のマショナランドと南部のマタベレランドを合わせて南ローデシアと呼び、ローズやBSACに守られた入植者は、そこに住むンデベレ人とショナ人から家畜と土地を奪います。その後、強制労働や税金を強要して貨幣経済に巻き込み、アフリカ人を安価な労働力として最大限に利用出来る搾取構造を、系統的に打ちたてていくのです。

セシル・ローズ(「アフリカシリーズ」)

税金をかけられて払えない村人には、働ける者が現金収入を求めて都会に出ていくしか術はありません。都会では、家族を養えるだけの賃金も得られずに重労働を強いられ、劣悪な環境の中での惨めな生活を余儀なくされました。搾取構造がしっかりしている限り、白人側には絶えずアフリカ人の安価な労働力が確保されています。アフリカ人が貧しくなればなるほど、搾取する側はますます豊かになって行く仕組みです。

ゲイリーのお爺さんも、お父さんも、そんなイギリス人による侵略の波をもろに受け、歴史の巨大な流れの中で苦しんで来た筈です。そしてゲイリーも今、こんなに広大な土地を田舎に持ちながら、1年の大半を家族と一緒に過ごすことも出来ず、僅か170ドルで24時間拘束されて、いいように扱き使われています。

渇いたゲイリーの土地を遠くに眺めながら、残酷な歴史と厳しい現実に押しつぶされてしまいそうな気持ちになりました。

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子供たち、ゲーリーたちの土地を背に

1980年の独立を機に、ローデシアはジンバブエに、ソールズベリはハラレに、入植地を記念して名付けられたセシルスクウェアはアフリカンユニティスクウェアにそれぞれ改名されました。アフリカンユニテスクウェアは、ミークルズホテルや国会議事堂や英国国教会に囲まれた街の中心地にあり、今は市民の憩いの場として親しまれています。学生のアレックスが記念撮影の名所ですよと教えてくれました。公園の真ん中にある噴水の前で、私たちも何度かシャッターを切りました。

アフリカンユニティスクウェアで

大変な1日でしたが、暗くならないうちにゲイリーの家をあとにしました。別れ際に、車の陰で、2番目のメリティが泣きたい気持ちを必死に堪えようとしているのが目に入って来ました。別れが妙に切なく思えました。(宮崎大学医学部教員)

メリティと長女

執筆年

  2012年9月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在⑮ゲイリーの家」(No.49  2012年9月10日)

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  「ジンバブエ滞在記⑮ゲイリーの家」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した14回目の「ジンバブエ滞在⑭ ルカリロ小学校」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ルカリロ小学校

お別れ会では甥の友達に車を頼もうという話になっていましたが、ゲイリーは信用していなかったようで、新聞広告に出ているレンタカー会社に直接電話をして、予め1人で手続きに行く日を決めていました。私たちを連れて子供たちに会いに行きたいという思いが、それだけ強かったのでしょう。

出発日の3日前に、タクシーを呼んでゲーリーと2人でレンタカー会社に出かけました。VISAカードを保証金代わりに使って、手続きは簡単に済みました。車を返す時に、ガソリン代や超過料金も含めて精算するそうです。運転手つき10人乗りのミニバスだそうで、契約書では、運転手に35ドル支払うようになっています。全体で1000ドル程です。ゲイリーには大変な額ですが、運転手付きで終日契約ですから、約2万5000円は高くはないと思いました。

9月17日木曜日、予定より40分ほど遅れて車が到着しました。白の新しいワンピースを着たフローレンスは身も心も軽そうで、ゲイリーもネクタイを締めていつになくきめています。2人は明らかに小学校を訪れる保護者の装いです。メイビィも新品のワンピースを身につけ、赤い靴を履いてすましています。

私たちの方は、ウォルターとメリティに会い、うまく行けば2人のクラスに顔でも出せればという軽い気持でしたので、普段着のままでした。

運転手はケニーという青年でした。車はISUZUの10人乗りのワゴン車で、タクシーとは違って新しく、エアコンやカーステレオまでついています。

記念撮影のあと、車は快調に走り出しました。一番奥に陣取ったゲイリーとフローレンスの顔からは笑みがこぼれています。街中を抜けて、渇いた大地が続きます。所々に、土か煉瓦造りの壁に草葺き屋根の小屋が見えます。さっそくカメラを構えました。そばではゲイリーがにやにやと笑っています。

ショナ語では小屋風の建物はインバ(IMBA)と呼ばれています。日本や西洋で言う一軒の家(HOUSE)ではなく、両親の寝室用のインバ、居間用のインバ、子供用のインバなどのような、それぞれの独立した建物を指すようです。ジンバブエの名前は、非常に大きなと言う意味のジ(ZI)とこのインバと石を意味するブエ(BE)が集まったもので、大きな石の建物という意味だそうです。

インバ(小島けい画)

南アフリカでは都市部のアフリカ人居住地区をタウンシップ、田舎の居住地区をロケイションと呼んでいるようですが、この国では、都市部のアフリカ人居住地区がロケイションと呼ばれ、タウンシップは田舎地方で商店が集まった1区画を指すようです。

途中で1度、そのタウンシップに立ち寄って、みんなの飲み物を買いました。ゲイリーは家に持って帰る食料や飲み物などを買いこんでいたようです。

出発後1時間半ほどして、ゲイリーの家に着きました。ウォルターとメリティをハラレまで迎えにきたゲイリーのお母さんをはじめ、10数人の縁者と思しき人たちが出迎えて下さいました。よく見ますと、ゲイリーの家も小屋風の建物(インバ)でした。
道理で写真を撮っている時に、ゲイリーがにやにやしていたはずです。こういうことなら、走る車の中から何もわざわざ写真など撮らなかったのに、ゲイリーも人が悪い。

予定より遅れ気味ですからとゲイリーに急かされて、みんなを乗せたワゴン車は、急いでルカリロ小学校に向かいました。

そんな筈ではなかったのに……。車のドアを開けたら、人だらけでした。外に出ると小学生のかわいい黒い手が次々と差し出されています。握手攻めです。横を見ますと、妻も子供たちも初めての経験に戸惑いながら、まんざらでもなさそうな顔つきで握手の求めに応じています。1日皇室を引き受けたら、こんな感じでしょうか。

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ルカリロ小学校の子供たち

教師と思われる人が現われて、子供たちを蹴散らしています。そんなに乱暴に扱わなくてもいいものをと眺めていましたら、校長らしい人物が登場して、丁寧な歓迎の挨拶を受けました。見れば、全校生徒のお出迎えです。300人以上はいるでしょうか。

初めに校長室に案内されました。床土がむき出しの狭い部屋で、ムガベ大統領の写真が掲げられています。例によって、先ずは記念撮影です。

校長室に案内されて

そのあと、校舎の中を回りました。建てかけの煉瓦造りの建物があります。資金不足でこれ以上は作業が進まないのだそうです。一通り、教室などを見て回りました。もちろん教室にも電気はありませんし、地面の床はでこぼこで、全体にみすぼらしい感じです。白人地区の小学校に比べれば、すべての施設がはるかに見劣りします。政府の予算が都市部の開発に集中して、農村部にあまり回らないのは、ジンバブエでも他のアフリカ諸国と同じ状況のようです。

そのあと案内された所は、運動場に設けられた来賓席でした。授業をやめて、私たちを迎えて全校あげての大歓迎会を計画したというわけです。

私たちがこの村ムレワにとっての初めての外国人訪問客だったのは光栄の至りですが、木陰には両親や村の人たちまで、たくさんの人たちが集まっています。まるで村のお祭りです。もう一度、こんな筈ではなかったのだがと思ってはみましたが、今となっては後の祭りです。今更、来賓席から逃げ出すわけにも行きません。観念して来賓席に座りました。校長から短かい挨拶があったあと、さっそく歓迎会が始りました。

来賓席で

太鼓を抱えた5人の女の子がさっと前に出て、棒切れを使って太鼓を鳴らし始めました。くり抜いた大きな木に、獣の皮を張りつけた手製の太鼓で、皮は牛か山羊でしょうか。ひょうたんで作った打楽器オーショを手に持っている生徒もいます。軽快なリズムと巧みな手さばきが独特です。太鼓を合図に、体育の教師に先導された体操服の生徒が弾むように入場して来ました。4年生か5年生あたりでしょうか、全員裸足です。女の子による太鼓と教師の笛に合わせて、体操演技が繰り広げられました。リズム感があって、腰の切れがなかなかです。小さい頃から、踊る機会も多いのでしょう。広大なサバンナによく似合っています。

手製の太鼓で

今度は、きれいな音楽の教師に先導された6年生がしとやかに入って来ました。ウォルターが神妙な顔をしています。来賓席には、日本の友だちと両親、それに自分の両親と妹が座っていますので、やや緊張気味です。澄んだコーラスを聞かせてくれました。さすがに上級生です。

音楽の教師に先導されて

各学年の出し物が続きます。歌や踊りの他に、英語の詩の暗唱というのもありました。1人ずつ交替で前に進み出て、マザーイズクッキング……アイアムルッキングなどとやるのですが、小さな頃から英語をたたき込まれているようです。声が小さな生徒は、校長から「もう一度」の声がかかります。見るからに人の良さそうな校長も、この時ばかりは怖そうです。中には生れつき声の小さな人だっているはずなのに、どうして無理やり大声を出させるのだろう、見ていて、気の毒になってきました。

乾燥しきった大地に、烈しい風が吹いています。木陰に座っていますと、寒いほどです。強い風にあおられた砂埃のせいで、喉がいがいがします。生徒は地べたに座って演技に見入っています。近づいて写真を撮るときに気づいたのですが、鼻をぐすぐすさせたり、空咳をしている生徒が予想外に多く、洟を垂らしている生徒もいます。暖かいのにと以外な感じもしましたが、貧しい暮らしの中では、充分な衛生状態を維持するのも難しいのでしょう。

演技は2時間ほど続きました。来年1年生になるプリスクールの生徒まで登場して歌を歌ってくれました。終わり頃に、来賓と職員だけに貴重品のファンタやコーラが配られました。全校生徒の目が一斉に飲み物の瓶に集中します。たくさんの大きな目に下から見つめられて飲むのも勇気が要るものです。妻も子供たちも、申し訳程度に口をつけています。全く口をつけないのも失礼だし、かと言って全部飲むのも気がひけるし、となかなか難しい状況でした。

何を思い着いたのか、校長は体育の教師を呼び付けて、もう一度体操演技をやれと言い出しました。歓迎の意を更に表してというつもりなのでしょうが、最初の場面からの再現です。

体操演技

体操演技の途中で、感極まったのでしょか、木の下の保護者席から聖歌隊用の赤い服をきたおばさんが飛び出してきました。踊りながら、若い体育の教師に10ドル紙幣をプレゼントしようとしています。観衆からは、やんやの喝采です。体育の教師は照れながらその10ドルを受け取りました。後で聞いたところでは、その青年は教育実習生で、間もなく大学に戻るということでした。

すべての演技が終わりました。

歓迎会の終わりは、生徒、職員、保護者、村の人など、参加者全員による大合唱でした。音楽の教師の指揮でイシェコンボレリアフリカの大合唱が始まりました。映画の中の集会の場面でコシシケレリアフリカの大合唱を聴いたことはありますが、目の前でその同じ曲が聴けるとは夢にも思っていませんでした。400人の大合唱はさすがに迫力があります。ゆったりとしたメロディーが、広々とした大地に木霊しました。

保護者、村の人など

それから校長が壷を抱えて立ち上がりました。私たちへの贈り物です。中には、木の実で作ったネックレスが入っています。相当に大きな壷です。壷の首の部分に、鮮やかな色の模様が描かれています。

こんな予定ではなかったのですが、手持ちのボールペンや鉛筆などの文房具とキャンディをお返しに手渡しました。17人いると聞いていた教員とウォルターとメリティのクラスの人たちにと用意してきた贈り物です。もう少し余計に用意しておけばよかったと思いましたが、今更どう仕様もありません。

そのあと400人の視線が一斉に私に向けられました。

マシィカティと私は大声を張り上げました。「こんにちは」と言うショナ語です。残念ながら、その後をショナ語では続けられません。こんなことなら、ショナ語を教えてもらっている学生のアレックスに頼んで準備しておくんだったなあ、折角の機会だったのに。

何をしゃべったのか正確には覚えていませんが、歓迎へのお礼や、子供たちがウォルターとメリティの大の仲良しだということや、教師に苛められて長女が学校を辞めた経緯や、道で会った心優しいショナの人たちなどの話をしたあと、白人に侵略され、負の遺産を背負わされた現状は厳しいでしょうが、優れた歴史や民族性に誇りを持って下さい、と締めくくったような気がします。最後のあたりはもう、日本国を代表しての演説です。少々お世辞も混じっていた感じもしますが、あんなにたくさんの目が一心に注がれる中で、しかも母国語では話せなかったのですから、あれが精一杯だったような思もします。

やっと終わったと思いましたが、それからがまた大変でした。ゲイリーが得意げに請け負ったのでしょう。各クラスの記念写真をと、それぞれのクラスが準備を始めています。全校生の19クラスに父兄、プリスクールの3クラス、職員、学校の教会の聖歌隊と続きます。あまり経験がなさそうなので無理もありませんが、たいていのクラスが太陽を背に勢揃いです。

クラス集合写真

逆光の説明も英語ではなかなか骨が折れます。暗い室内で並んでいるクラスもあります。電池の残りがあとわずかでしたので、大部分のクラスは外に並んでもらいました。前の日に街で電池を買ってはいましたが、すぐに使えなくなってしまうのです。もっと大量に買いこんでおけばよかったのですが、買う時にはまさか写真屋さんになるとは思ってもいませんでしたから。

後で焼き増しをして判ったのですが、暗い室内で撮ったのが1番映りがいいのです。黒い肌の人を撮るには、外の光では強すぎたようで、現像された写真を見ますと、光が反射し過ぎるか色が濃すぎるかで、顔がわかりにくい場合が多いのです。日本人と同じように考えていつものように何気なく写真を撮ったのですが、写真の光で肌の色の違いを改めて知ったのは新発見でした。

最後に、みんなで1枚撮ってくれと言います。みんなで1枚と気軽に言われても、300人もの人を一体どうやって1枚の写真に収めるというのでしょう。辺りを見回しました。あそこしかないでしょう。造りかけの教室の煉瓦の壁の上です。登ってみれば、1枚に収められるかも知れません。ちょうど足場も組まれたままです。ここまできたら、登るしかないでしょう。二階の高さほどの煉瓦の上に立って全校生を眺めおろしながらカメラを構える姿は、どこから見てもプロのカメラマンでした。(宮崎大学医学部教員)

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ルカリロ小学校の約300人の人たち

執筆年

2012年8月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在⑭ルカリロ小学校」(No.48)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエ滞在記⑭ルカリロ小学校」

英語 Rb2(3)

12月20日

僕の今年の授業は今日で終わりで、ほっとしてるけど、今日中に書いとかないとね。

先週の13日(木)は休講いさせてもらったんで、あと1月に4回。

今日はトーイックのリーディングの過去問を坂元さんにやってもらってそれで終わってしもうたね。解答のこつや、派生語や語法などの解説を丁寧にやると、結構時間がかかるねえ。

それに、生き方のことなど、いろいろ。今日話をしたトーイックの『金のフレーズ』のテキストを薦めてくれた英語科の事務の長友さんの、共働きしながら子供を産んで育てる話も、近い将来、参考に人もいそうやね。年明けに話に来てくれると思うんで、その時はよろしくね。

あと4回で、南部戦争→占領政策→反動→公民権運動と話を進めて、出来れば映画を一本観てもらえたらと思っています。もちろん、ゴスペル、ブルース、ジャズ、アメリカンポップスは何曲か聴いてもらうつもりです。

また、年明けに。

南アフリカ概論(後期用)

12月20日

僕の今年の授業は今日で終わりで、ほっとしてるけど、今日中に書いとかないとね。

先週の13日(木)は休講いさせてもらったんで、あと1月に4回。それで、先にアパルトヘイト政権の成立を話したと、アパルトへイトの時代の白人とアフリカ人の生活を描いた「教室の中の戦士たち」を見てもらい、そのあと僕の小さい頃から高校生、大学生の頃の話、高校の教員の時の話、それから修士課程に行った兵庫教育大学の話、修士のテーマに選んだリチャード・ライトが生まれたミシシッピの話や、1985年のライトのシンポジウムで憧れのファーブルさんに会った話、そこで出会った伯谷さんに誘われてサンフランシスコの会議で発表したことや、会議のテーマに選んだ南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマのことを聞きにカナダに行ったこと、大阪工大の非常勤講師などをしながら、1988年に宮崎医科大学に来たことなどを話をしました。最後にちらっと、セスルに誘われて1988年のラ・グーマの記念大会でラ・グーマの奥さんのブランシ夫人に会ったことなどを話をして時間切れになりました。

次回はハラレの話と、「アフリカの蹄」を観てもらおうと思います。

書いたものに追ってリンクを貼るんで、読んでや。取り敢えず、ここまで書いときます。

今日牧浦さんにやってもらえなかった英文の日本語訳もあとで貼っておきます。

余裕がなくて、英文の②や他の資料のプリントを用意出来なかったけど、年明けには用意しときます。

課題については読んで全体の講評が早う書けるとええと思うけど、2回目のために、個人的な講評を聞きたい人はいつでも時間を取るし、メールでも講評を言えるんで、遠慮無く。

折角の機会、明確な仮説を立てて、客観的に論証するという課題を自分のためにやれるとええね。

今日も、生き方の話をしたけど、僕らは学生がいて雇用されているから、やっぱり学生のために出来ることはやる、それが自然やと思う。課題をようさん読むのも大変やけど、読むのは嫌いやないみたいやし。来年70になるけど、気持ちもやることもそうかわらんみたいです。