2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した9回目の「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

それから5日のちに、ゲイリーの家族がやって来ました。奥さんはフローレンス、男の子はウォルター、女の子は上がメリティ、下がメイビィと言います。すべて、英語の名前です。どうしてショナの名前ではないのでしょうか。メイビィは「多分」という意味なのでしょうか、名前としては初耳です。

ウォルターとメイビィ

フローレンスは鼻筋が通って、涼しそうな顔つきです。フローレンスも子供たちもどことなく緊張した面持ちですが、私たちの子供たちは、同じ敷地内に住むのだから毎日一緒に遊べるぞと、早くもわくわくしています。ゲイリーの子供たちはショナ語しか話せないと言いますし、二人の方も日本語しか話せません。これから遊ぶのはいいとして、どんな言葉を使って遊ぶのでしょうか。

フローレンス

歓迎の意味も込めて、一緒に写真を撮ろうと子供たちが言い出しました。早速カメラの用意です。ゲイリーたちはと見ますと、部屋に帰りかけています。どうするの?と聞きましたら、写真を取るんですから一帳羅に着替えて来ますという返事がかえって来ました。

ゲイリーたち

庭で二家族の写真を撮りました。お決まりのチーズなどと言ってはみましたが、顔はどことなく硬張ったままです。撮り終わったよと言ってからカメラを動かさずによそ見をしながら連続でシャッターを切ってみましたが、それでも笑顔はあまり見られませんでした。初めてですから、仕方がないのかも知れません。

しかし、日本から持ってきたフィルムが足りなくなってカメラ屋に行き、24枚撮りのフィルム1本が38ドルで、その焼増し料金が100ドル近くもすると知ったとき、気軽に笑えなかったはずだと思わずにはいられませんでした。写真を撮るのは、一大事なのです。今のこの国の状況では、自分でフィルムを買ってカメラを自由に使える人はそう多くはないでしょう。

子供たちが一緒に遊べるボールを探しに行きました。大学のコートで使う予定のバスケットボールはすでに持っていましたので、新たにバレーボールを買ってきました。ゲイリーには何となく気がひけて言えませんでしたが、バレーボールは169ドル99セント、ゲイリーの給料とほぼ同額です。ゴムのバスケットボールの方は189ドル99セントで優にゲイリーの月給を超えていました。

総じて、生活必需品でない品物は値段が高く、何日かのちにスーパーで質の悪いサッカーボールを買いましたが、それでも50ドルもしました。硬式用のテニスボールを1個下さいと言って、店員の白人青年ににゃっと笑われてしまいましたが、1個35ドルでした。それでも、どのボールも充分に元が取れるほど子供たちには役に立っていたと思います。なかでもサッカーボールは、ウォルターと長男をむきにさせてしまうだけの魔力を秘めていたようです。ボールをはさんだとき、子供たちに言葉は要らないようで、大人の心配をよそに、連日楽しそうにボールを追いかけていました。

画像

いっしょにボールを蹴る子供たち

子供たちにとって、広い庭先をかけ回る毎日は本当に楽しかったようです。日本からの2人にとっては最高の夏休み、ジンバブエのウォルター、メリティ、メイビィにとっては忘れられない冬休みとなりました。日曜日以外は英語やアート教室がありましたので、午前中こそ遊べませんでしたが、午後からは庭に出て5人入り乱れて遊んでいました。投げたり、蹴ったりのボール遊びが多かったようですが、鬼ごっこや木登りなどもやっていました。
相撲好きの長男は、日本の国技のアフリカでの伝授に成功したようで、長男とメリティが取り組み合っている横で、末っ子のメイビィが大きな声でノコッタ、ノコッタと囃子たてていました。

ウォルターはゲイリーに似て穏やかな性格で、笑顔の素敵な少年です。精悍な体つきで身のこなしが素早く、サッカーボールを追いかける姿が堂に入っていました。

メリティは、はにかみ屋さんです。表面に感情を表わしませんが感受性が強く、いつも人の陰にそっとかくれているような少女でした。お互いに感ずるところがあったのでしょうか、長女と一番近かったように思います。

メリティと長女長女

メイビィは茶目っ気たっぷりです。陽気でいつも周りを明るい気持ちにさせてくれました。愛敬もたっぷりで「メイービィッ」という掛け声とともに始まるオリジナルの踊りは、腰が入った本格派です。みんなが手拍子を取ると、歌いながら得意そうに何度もその踊りを披露してくれました。写真を撮るときは、必ずカメラを意識してポーズを取ります。いくらみんなが笑わせようとしても、最後までそのポーズを崩さず、表情はいつも真剣そのものでした。

メイビィ

ゲイリーもそうでしたが、初めから家族も控えめでした。その態度は最後まで渝りませんでした。何かをせがまれた記憶はありません。ゲイリーの子供たちの方も、自分たちの方から言い出せない場合が多く、いつも2人が庭に出てくるのを心待ちにしているようでした。

私たちがいなくても、好きなように庭の広い所で遊んで下さいとゲイリーには言ってありましたが、3人は部屋の中に居るか、部屋のすぐ前の小さな空き地で遊ぶか、南西に広がっている数メートルのマルベリーの木に腰を掛けているかでした。

最初は気づきませんでしたが、部屋の近くを離れない大きな原因はデインだったようです。子供たちを見ると、いつも大きな声で吠えるからです。陽気なメイビィも、自分よりもはるかに大きな犬に吠えられて青ざめていました。ウォルターなどは、脱兎の如く部屋に逃げ込んでいました。

よく観察していますと、デインは白人には吠えないで、アフリカ人を見ると吠えるのです。滞在した期間中に、ゲイリーの親戚や知人などたくさんのアフリカ人が家に来ましたが、慣れているゲイリーとグレイス以外は、誰に対しても必ず吠えていました。ですから、ゲイリーか私たちが出ていかない限り、恐がって門から入って来る人はいませんでした。訪ねて来てくれた学生の一人は、追いかけられて気の毒なくらいでした。

偵察(?)にきた中年女性やおばあさんを訪ねてきた男性や、家主の妹さんやそのお孫さんらしき人は吠えられませんでした。最初から吠えられなかった私たちはデインの目の中では白人に分類されているのかも知れないとふと考えました。

南アフリカには、英語と並ぶ公用語アフリカーンス語を話すアフリカーナーと呼ばれるオランダ系の人たちが圧倒的に多い地域があります。アパルトヘイト政権を支えるその人たちのアフリカ人に対する態度は非常に強硬で高圧的、その地域では飼い犬もアフリカーンス語で吠えるとさえ言われるほどです。犬を借りてその偏狭性を表現したものでしょう。

デインを見ていると、そんな南アフリカの話を連想します。仔犬の時から、アフリカ人を見たら吠えるように訓練されてきたのではないかとさえ思えてきます。子供たちが5人で遊んでいる時でも、時折り急に吠え始めたりする場合があって、その都度みんなで叱りつけました。そのせいでしょうか、休みが終わるころには、5人が遊んでいても顔を前脚に乗せて、うっとおしそうに目を閉じて昼寝を続けるようになりました。

ゲイリーとデイン

トランプなどのゲームや絵を描いたりして、室内で遊ぶ日もありました。日本から持っていった色鉛筆や画用紙を使って、お互いの似顔絵や自分たちの学校の絵を一心に描いていました。色鉛筆や画用紙を買う経済的な余裕などはゲイリーにはないでしょうから、街で買ってウオルターたちにプレゼントしましたら、自分たちの部屋でも絵を描く時間が増えたようです。描いた絵をよく見せに来てくれるようになりました。

長女は日本で使っている中学2年生用の英語の教科書を持ってきて、6年生のウォルターと一緒に声を出して読んでいました。長男はメリティとメイビィにショナ語を教えてもらっています。象の絵を描いてンゾウと言えば、象のショナ語が相手に分かる訳です。長男は教えてもらったショナ語を忘れないように、よくメモをとっていました。言いたいことが相手に通じないもどかしさを感じたときには、大人が通訳として引っ張り出されることもありましたが、大体はお互いの気持ちが通じ合っているようでした。

ジンバブエでもサッカーが盛んです。ウォルターのボールの蹴り方を見ても、そのサッカー熱が伝わって来ます。人々の関心も想像以上に高く、大多数の人たちが食べるだけで精一杯の毎日ですから、せめて観て楽しもうと思うのも無理はないと思いました。
サッカーのナショナルチームに託す人々の思いも強く、観て楽しめるプロスポーツがそうあるわけではないようですので、外国との対抗試合はさながら国民のお祭りです。

ウォルター

8月16日の日曜日、国立競技場で南アフリカとの対抗試合が行なわれました。マンデラの釈放以来、南アフリカは徐々に国際社会にも復帰出来るようになって、今回のサッカーチームも、22年振りに国際試合への参加が叶い、アフリカカップのEグループの予選に飛行機で乗りこんできたというわけです。

その朝、ゲイリーとフローレンスが仲良く手をつないで台所の入り口に現われました。今日は南アフリカとのサッカーの試合があるので、テレビを見せてもらえないかと言っています。お安い御用で、さっそく二人を居間に案内し、どうぞと言って私は部屋を後にしました。

最初、ゲイリーは居間に入るとき、靴を脱ごうとしました。そんな必要はないよと言いましたら、にっこり笑ってそのまま上がってきました。今まで家に入る時は必ず靴を脱ぐように言われていたのでしょう。

ある日、テレビがあるのにどうして見ないのかとゲイリーから聞かれました。映りが悪いせいもありましたが、2局しかない国営放送は放映時間も短かく、内容が硬くてあまりおもしろくなかったからです。黒人霊歌やジャズに馴れている耳には、テレビから流れてくる音楽がどれも同じような曲に聞こえたせいもあります。それにテレビを見ている時間的な余裕もありませんでしたし。しかし、テレビがありながら見ようとはしない状況が、テレビやラジオなどの楽しみさえかなわないゲイリーには、納得出来ないようでした。

2時間ほどしてから部屋を覗いてみると、2人は黙って音の出ないテレビをじっと見つめていました。どうしたのと聞くと、色々やってみましたが音が出ないんですと言います。ずっと音なしで見ていたのと尋ねると、こっくりとうなずきました。そろそろ終わりも近いようで、ジンバブエが南アフリカを4対1で下したようです。ゲイリーもフローレンスも高揚しています。私は手を差し出して、ゲイリーとがっちりと握手しました。何もジンバブエが南アフリカに勝ったからといって、私までが喜ぶ理由は何も見当りませんが、ことの成り行きです。

この勝利によって、ザンビアなど他のチームとの得失点差次第で、94年にチュニジアで開催されるアフリカカップに代表として出場出来る可能性が大きくなったと、翌日の新聞で大々的に報じられていました。

フローレンスはスカートの上から、鮮やかな色の布を巻いています。洗って少し色が落ちているようですが、色といい鳥の図柄といい、なかなかアフリカ的な感じがします。それは何ですかと聞きましたら、手を拭いたり、座る時に広げて下に敷いたりする綿の布ですよとゲイリーが教えてくれました。エプロンや割烹着などの類です。赤ん坊を背中にくくり着けるのに使う時もあるようで、フローレンスがはずして見せてくれました。もともと北隣のザンビアやマラウィで使われていたらしく、ザンビアとかマラウィとか呼ばれているそうです。

ある日、妻がザンビアを着たフローレンスに絵のモデルになってもらえないかなと言い出しました。短期間の滞在でもありますし、子供と一緒なので何かと大変でしょうから、花のスケッチでも出来れば大満足と当初は考えていたようですが、フローレンスを見て、描いてみたいという気持ちが湧いてきた感じでした。スケッチした絵は毎日のようにゲイリーたちに見せに行っていましたので、フローレンスの方も絵には関心があったらしく、モデルになってくれませんかという依頼にまんざらでもなさそうな様子でした。

フローレンス(小島けい画)

体調が整わなかったりもして、フローレンスのスケッチを始めたのは、8月の終わりに近い頃でした。1週間のちには新学期が始まりますので、子供たちを田舎に連れて帰らなければいけませんとフローレンスは言います。お礼に10ドルを渡しました。日本ではとてもそんな値段でモデルさんには来てもらえませんが、この国では1日「メイド」をして働いてももらえない額なので、それで許してもらいました。時間給10ドルのモデルフローレンスの誕生です。

初めての経験ですので、フローレンスは相当緊張していましたが、慣れてくるに従って硬さも取れていきました。時折り通りすがりに私にからかわれてポーズを崩し、スケッチが中断される時もありましたが、二人とも真剣な様子でした。1日に1時間前後しか時間は取れませんでしたが、それでも予期せぬ幸運で有り難いことでした。

画像

フローレンス(小島けい画)

8月の最終土曜日に、お別れ会を計画しました。9月から学校が始まるとはいえ、子供たちにとっても遊び友達がいなくなるのは何よりもさびしいことです。お客様好きの子供たちが招待状を作り、前の日の夕方に4人でゲイリーの部屋まで届けに行きました。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2012年3月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」(No.43 )

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  「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した8回目の「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

グレートジンバブエ

長女と長男、遺跡を背に

ハラレに来る前は、折角ジンバブエまで来たのだから、有名なヴィクトリアの滝と石造りの遺跡くらいは観に行こうという気持ちが少しはありましたが、いざ住み始めてみると、わざわざ無理をしてまで観光にでかけるのが億劫になってしまい、親の方は遠出は止めようと言い出しました。しかし、子供たちの好奇心を押しとどめる術もなく、結局子供たちに押し切られ、どちらか一方という妥協案を出して、重い心を引きずりながら、一人で街中の旅行会社に出かけました。

遺跡グレートジンバブエもヴィクトリアの滝もハラレからは相当な距離があります。遺跡は南に300キロほど、滝は西に900キロ近くも離れています。今は乾期ですから、遺跡の方は大丈夫のようですが、滝の方はザンベジ川の流れる湿地帯にありますので、マラリアの危険がないわけではありません。入院する事態を想像すると、ますます億劫になります。結局、今回は遺跡に関心の高い長男の意見を優先して、グレートジンバブエ行き日帰り旅行に落ち着きました。

飛行機と車の料金に昼食付き税金込みで、3733ドル、1人約933ドル、23000円あまりです。高いと思うのは、ハラレに少し馴染んできたせいでしょうか。しかし、1000ドル近いお金を出して、日帰り旅行に出かけるアフリカ人がそういるとは思えません。

ジンバブエの地図

9月からは子供たちの学校も始まりますので、8月の半ばの土曜日に行くことにしました。予約を済ませて料金は払ったものの、いざ行くとなると空港までの行き帰りも大変です。家から空港まで20キロはあります。初めてでもありますので、8時過ぎの便に乗るには、6時くらいには家を出た方がよさそうです。タクシーの予約もしなければいけませんが、アフリカ時間が気にかかります。電話には慣れてきてはいましたが、飛行機に乗り遅れるとあとの手続きも面倒ですので、今回は念には念をいれて、ゲイリーに予約を頼むとしましょう。電話でゲイリーがどんな言い回しをするかにも興味があります。今後の参考にさせてもらおうと思います。

出発の朝です。アフリカ時間の心配は杞憂に終わりました。予定の6時きっかりにタクシーが来て、滑り出しは順調です。土曜日でもあり朝が早いこともあって、タクシーは市街地を快調に飛ばして、半時間後には空港に着きました。ただ、タクシーの窓ガラスが割れており、隙間から冷たい風が入ってくるとは、予想もしていませんでした。隙間といってもこぶし大はあります。石でも当たったのでしょうか。ぎざぎざの穴を中心に、後部の窓ガラス全体にひびが入っています。今にも砕け落ちるのではないかと気が気ではないのですが、運転手の方は別に気にしている様子もありません。穴の前に座った妻は風に弱いので、中央に身を寄せウィンドブレイカーの衿を立てて震えています。

この車に限らず、タクシーは全般に、料金が安い代わりに辛うじて運転出来ればいいという状態の車が多く、ドアの把手が取れていたくらいで驚いていてはいけません。その場合は運転手が気を遣って、開けるのにコツがあってねと言いながら開けてくれます。タイプは違いますが、一応は運転手による自動開閉式です。

国際空港もぱっとしませんでしたが、国内線の方は、更にぱっとせず、行けるのかなあと不安になるほどでした。しばらくすると、小さな黒板に出発便の掲示が出て、無事チェックインを済ませました。

空港内で、日本からと思われる団体客を見かけました。ヴィクトリアの滝へ行くようです。ズック靴に、リュックを背負い、首からカメラを下げて、右手に風呂敷包みを持ったおばあさんがいました。添乗員と思われる若い女の人に大きな声で、何か日本語でしゃべりかけています。4人は思わず顔を見合わせて、ヴィクトリアの滝へ行かなくてよかったとしみじみ思いながら、同時に深い溜め息をつきました。

さあ、いよいよ出発です。飛行機は12人乗りの小型のプロペラ機で、機体にはユナイテッドエアと書いてあります。パイロットもアメリカ人のようで、乗客は12人、すべて外国人で、私たち以外は白人です。飛行機に弱い長男は前の席を希望しましたが、座席は向こうが決めるらしく、真ん中の席でした。すでに、長男は酔わないかと身構えています。

画像

プロペラ機の前で

飛行機は飛び立ちました。小さいので音が大きく、会話も難しい状態です。目的地は南へ300キロのマシィンゴ空港です。

厳しい太陽が照りつける大地はからからに渇いていました。ハラレの市街地を出ると、時折り集落が目に入って来ますが、湖や川などは一切見当りません。空港に着くまでの一時間ほど、同じ赤茶けた大地が続いていました。今世紀最大の旱魃といわれる光景が眼下に広がっている、そんな感じでした。一体、この渇ききった中で、人々はどうやって暮らしていけるのだろうか。窓越しの大地を見ながら、そんな疑問が頭を離れませんでした。

1時間でマシィンゴ空港に着きました。出迎えの車が2台待っていましたが、自家用車です。小型バスの都合がつかなかったから、自家用車3台で運ぶ、追って1台来るので待って欲しいと言われました。

小さな空港です。時間もあるし、記念に写真でも取ろうかとカメラを出したら、空港の建物は撮影禁止になっていると注意されました。飛行機ならいいですよというので、飛行機と一緒に子供をフィルムに収めました。よく事情はわかりませんが、今、軍隊のある社会主義の国にいるのだ、そんな思いがかすかに頭をかすめました。

10分ほどして、白人のおばあさんが迎えに来ました。渇いた大地の中の舗装した道路を、猛スピードをあげて車は進みます。道路脇両側の舗装されていない細い道をアフリカ人が歩いています。大抵は、大きな荷物を頭に乗せて歩いていました。グレートジンバブエまで28キロと案内書には書いてありましたが、あっという間に、遺跡近くのホテルに着きました。

外国人向けのホテルは、小綺麗に整備されていて、さっそく、給仕のアフリカ人が飲み物の用意をしてくれました。子猿がいる!と子供たちがカメラを出しました。

一息ついたあと、グレートジンバブエに出発しました。運転手が若い女性に変わっています。名前をターニャと言い、休暇を利用して南アフリカから手伝いに来ており、ここから車で3時間ほどの所に住んでいるとのことでした。南アフリカは地続きだから、車で行ける、それにしても3時間とはえらい近いなあ、そんな思いが頭をかすめました。ここでは外国から来ても、必ずしも「海外から」とは言えないわけです。

遺跡

しばらくして、遺跡に着きました。小高い丘に、石造りの建造物があります。想像していたほどの威圧感は感じませんでした。アフリカ人男性のガイドが英語で説明してくれましたが、説明を聞いてもあまりわからない3人は、ガイドから付かず離れずの別行動です。

ガイドの男性

建物は、大きさは煉瓦の数倍、厚さは半分くらいの石を積み重ねて作られています。この辺りには、このような遺跡が150ほどもあり、ここが最大級のものだそうで、日本でも時たま特集番組で報じられたりしています。最初、ヨーロッパ人移住者がここに来た時には、その威容に圧倒されたそうです。その人たちが金銀財宝を我先に持ち帰ったので、遺跡の研究は最初から、足をすくわれてしまったと言われます。それでも、遺跡の中で発見された陶磁器から、ヨーロッパ人が入植する以前から、遠くインドや中国との国交があったと推測されています。イスラム商人が仲買人だったようで、その交易網は、カイロを軸に、駱駝を巧みに操るトワレグ人によって西アフリカとも繋がり、西アフリカと南アフリカで取れる質のよい金を交換貨幣に、黄金の交易網がはりめぐらされていたとも言われます。

はっきりとは断定出来ませんが、13世紀から15世紀あたりに作られたのではないかとガイドの人が説明しています。当時、外敵から身を守る必要性も内戦の脅威もなかったので、おそらく国王の威信を高めるために、石が高く積み上げられたのだろうと言われています。

画像

長女、遺跡を背に

ひと通り見学し終わり、ホテルに帰って昼食を終えたあと、近くにあるカイル湖に案内されました。普段なら水量豊かだという湖が、干上がって底を見せています。大きなダムの近くに辛うじて水が溜まっているばかりです。山羊だ!と長男が大声をあげました。しかしよく見てみますと牛です。この旱魃で、痩せ衰えているのです。新聞で同じような写真を見てはいましたが、山羊と間違えるとは思いませんでした。予想以上です。

湖からホテルに戻って一休みしている間に、巨大な車を見かけました。ダンプカーよりもはるかに大きく、荷台で上半身裸の白人が大声で何やらしゃべっています。梯子がついて高い柵のようなものが荷台を囲っているところをみると、多分サファリ用の車で、野性動物を追いかけながら、サファリパークの中をこの巨大な車で走り回るのでしょう。その並はずれた大きさに、好奇心の強さと飽くなき欲望の激しさを見たような気がしました。

夕方、暗くなる頃にハラレ空港に戻りましたが、帰りの足がありません。この時間帯には利用客がないからでしょう、タクシーが見当りません。うろうろしていたら、シェラトンの赤い制服を着たアフリカ人が、どうしましたかと声をかけてくれました。事情を話すと、タクシーは多分見つからないでしょうからホテルの車にどうぞと言ってくれましたので、有り難く便乗させてもらいました。その人が専用バスを運転して、宿泊客をホテルまで送り届けるらしく、大助かりです。しかし愛想のよかったその人が、別のホテルの泊まり客である若い白人の女性には割りと冷たい態度で接していました。降りる時に料金を聞くと要らないですよと言われましたが、運転手の気遣いが嬉しくて、料金に相当するだけのお金をそっと渡してバスを降りました。ホテルでタクシーに乗り換えた時は、辺りはもう真っ暗でした。(宮崎大学医学部教員)

遺跡

執筆年

  2012年2月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」(No.42  2012年2月10日)

ダウンロード・閲覧

  「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」

英語 Ma2(4)

12月19日

新たに組んだ4回の日程の1回目。5章の筆記試験とエイズ。

エイズに関しては最初に解説。HIVの増幅のメカニズム→抗HIV製剤→エイズの歴史→エイズへの包括的アプローチとアフリカ問題の順で簡単にプリントを見ながら解説しました。プリントは最低限読んで欲しいです。

次回は、“9.10 Immune deficiency: The special case of AID"(和田くんが準備してくれてたのに、やってもらえなくて申し訳ないことをしました。次回よろしく頼みます。)→"Disrupting the Assembly Line"を読んだあと、AZTをめぐるERの映像(ERII2B、1994年にエイズ=死であったころにAZTを使うしかなかった小児科医の苦悩を描いた場面)を見てもらえたらと思っています。映像のtranscriptionに目を通しておくとよりわかりやすいと思います。

“Disrupting the Assembly Line"は一般向けにScience Writerが書いた記事。専門的には問題ありそうやけど、一般の人には結構わかりやすいみたい。誰かやらへんか。短いので正確な訳、やろな。

この前も書いたけど、このブログの掲示板に3種類の動画をリンクしてあります。それぞれわかりやすく英語も聞きやすいです。transcriptionも作っています。必要ならメールしてくれたら、ファイルを送ります

HIVに関しての動画のアドレスです

How HIV Causes Disease

HIV life cycle: How HIV infects a cell and replicates itself using reverse transcriptase

How HIV attacks human

ゴアとブッシュの大統領選のNatureの記事を紹介したとき、南北戦争や公民権運動の話をしたけど、流れを少し掻い摘んで書いときます。すでに配って、読むつもりだったA Short History of Black Americansを読んでもらえるとわかります。そういう背景がないとNatureの記事も肝心なところがわからないと思うよ。

三つの大きな山

①(イギリス人入植者の繁栄の基礎となった)奴隷貿易と(大農園主=寡頭勢力を潤した)奴隷制1:イギリス人入植者の繁栄の基礎となった奴隷貿易と2:奴隷制

②南北戦争(北部の産業資本家と南部の寡頭勢力の妥協が生み出した奴隷解放と北部の先導で強行した再建期と寡頭勢力の巻き返しの反動

③(実質的な権利を求めた)公民権運動とその後

南部の大荘園主と、奴隷貿易で潤った資本で産業化の結果生まれた北部の産業資本家が奴隷制を巡って起こした市民戦争=南北戦争の話と、3%の支配階級=大荘園主が奴隷所有者と大半の労働者階級=奴隷と貧乏白人の間にカラーライン(人種隔離政策)を引いて人種差別(賃金格差)を利用した話。

北部(共和党)が担いだリンカーン(↑)が大統領になって南北合一のために戦争はしたものの経済力が拮抗していたために最終的な決着はつかずに、北部の自由な黒人の参戦の見返りに出した奴隷解放令だけが残り、元奴隷にとっては体制が変わる(賃金が上がる)ことはなく、奴隷が小作という名前に変わっただけ。

北軍の占領政策は行われたものの北軍が去ったあとの南部の寡頭勢力の反動は凄まじく、1896年の隔離すれども平等という最高裁の判決を引き出してしまいました。

カラーラインを維持するために、奴隷制で貧乏白人を奴隷狩りや奴隷の調教師に雇ったように、貧乏白人を利用してリンチやKKKで元奴隷を締め付け続けました。

奴隷解放宣言が実質的なものでなかったので元奴隷は小作人に名前が変わったまま、第二次世界大戦が終わるまで、厳しい人種隔離体制が続きます。大戦でのヨーロッパの総体的な力が落ちたとき、それまで抑えつけられていたアジア・アフリカ諸国の独立運動が始まります、アメリカでは公民権運動、南アフリカではアパルトヘイト廃止を掲げた解放闘争です。

最初に見てもらったカーターはあつらえた白衣を着てたし、彼女ともうまく行かず、前から漠然と抱いていた思いを現実にしてコンゴにボランティアに行ってたけど、奴隷貿易で富を築いた大富豪の家に生まれた人にしかわからない苦悩があったんかもねえ。そう考えると、元奴隷の息子、くそ生意気なベントンが元奴隷主の息子、あつらえた白衣を着てくる貴公子というのも、結構、微妙な皮肉かもな、と見るといつも僕なんかは思うけどね。

また、年明けに。

<課題について>

今日までに課題を全部読めなかったけど、何人かの勘違い(調べたものを列記=レポート、仮説を立てての論証分ではない)もあるけど、2回目はしっかりと仮説をたてて、きっちりと論証して提出してや。

課題を見ながら講評も時間を取るし、メールで問いあわせてくれれば返事も出来ると思います。

 

英語 Ma2(3)

12月19日

新たに組んだ4回の日程の1回目。5章の筆記試験とエイズ。

エイズに関しては最初に解説。HIVの増幅のメカニズム→抗HIV製剤→エイズの歴史→エイズへの包括的アプローチとアフリカ問題の順で簡単にプリントを見ながら解説しました。プリントは最低限読んで欲しいです。

次回は、“9.10 Immune deficiency: The special case of AID"→"Disrupting the Assembly Line"を読んだあと、AZTをめぐるERの映像(ERII2B、1994年にエイズ=死であったころにAZTを使うしかなかった小児科医の苦悩を描いた場面)を見てもらえたらと思っています。映像のtranscriptionに目を通しておくとよりわかりやすいと思います。“Disrupting the Assembly Line"は一般向けにScience Writerが書いた記事。専門的には問題ありそうやけど、一般の人には結構わかりやすいみたい。

この前も書いたけど、このブログの掲示板に3種類の動画をリンクしてあります。それぞれわかりやすく英語も聞きやすいです。transcriptionも作っています。必要ならメールしてくれたら、ファイルを送ります

HIVに関しての動画のアドレスです

How HIV Causes Disease

HIV life cycle: How HIV infects a cell and replicates itself using reverse transcriptase

How HIV attacks human

ゴアとブッシュの大統領選のNatureの記事を紹介したとき、南北戦争や公民権運動の話をしたけど、流れを少し掻い摘んで書いときます。すでに配って、読むつもりだったA Short History of Black Americansを読んでもらえるとわかります。そういう背景がないとNatureの記事も肝心なところがわからないと思うよ。

三つの大きな山

①(イギリス人入植者の繁栄の基礎となった)奴隷貿易と(大農園主=寡頭勢力を潤した)奴隷制1:イギリス人入植者の繁栄の基礎となった奴隷貿易と2:奴隷制

②南北戦争(北部の産業資本家と南部の寡頭勢力の妥協が生み出した奴隷解放と北部の先導で強行した再建期と寡頭勢力の巻き返しの反動

③(実質的な権利を求めた)公民権運動とその後

南部の大荘園主と、奴隷貿易で潤った資本で産業化の結果生まれた北部の産業資本家が奴隷制を巡って起こした市民戦争=南北戦争の話と、3%の支配階級=大荘園主が奴隷所有者と大半の労働者階級=奴隷と貧乏白人の間にカラーライン(人種隔離政策)を引いて人種差別(賃金格差)を利用した話。

北部(共和党)が担いだリンカーン(↑)が大統領になって南北合一のために戦争はしたものの経済力が拮抗していたために最終的な決着はつかずに、北部の自由な黒人の参戦の見返りに出した奴隷解放令だけが残り、元奴隷にとっては体制が変わる(賃金が上がる)ことはなく、奴隷が小作という名前に変わっただけ。

北軍の占領政策は行われたものの北軍が去ったあとの南部の寡頭勢力の反動は凄まじく、1896年の隔離すれども平等という最高裁の判決を引き出してしまいました。

カラーラインを維持するために、奴隷制で貧乏白人を奴隷狩りや奴隷の調教師に雇ったように、貧乏白人を利用してリンチやKKKで元奴隷を締め付け続けました。

奴隷解放宣言が実質的なものでなかったので元奴隷は小作人に名前が変わったまま、第二次世界大戦が終わるまで、厳しい人種隔離体制が続きます。大戦でのヨーロッパの総体的な力が落ちたとき、それまで抑えつけられていたアジア・アフリカ諸国の独立運動が始まります、アメリカでは公民権運動、南アフリカではアパルトヘイト廃止を掲げた解放闘争です。

最初に見てもらったカーターはあつらえた白衣を着てたし、彼女ともうまく行かず、前から漠然と抱いていた思いを現実にしてコンゴにボランティアに行ってたけど、奴隷貿易で富を築いた大富豪の家に生まれた人にしかわからない苦悩があったんかもねえ。そう考えると、元奴隷の息子、くそ生意気なベントンが元奴隷主の息子、あつらえた白衣を着てくる貴公子というのも、結構、微妙な皮肉かもな、と見るといつも僕なんかは思うけどね。

また、年明けに。

<課題について>

今日までに課題を全部読めなかったけど、何人かの勘違い(調べたものを列記=レポート、仮説を立てての論証分ではない)もあるけど、2回目はしっかりと仮説をたてて、きっちりと論証して提出してや。

課題を見ながら講評も時間を取るし、メールで問いあわせてくれれば返事も出来ると思います。