1976~89年の執筆物

概要

英米文学の同人誌に寄せた随想です。

本文

8月半ばに、カナダのセイント・キャサリンズというところに行く。セスゥル・エイブラハムズという人に会うためだ。南アフリカの人で、6月までビショップ大学におられたが、7月からブロック大学という所に移られた、くらいしかその人については知らない。今年に入って、南アフリカのアレックス・ラ・グーマという人のものを読み始めていたら、ある日、ミシシッピの本屋のリチャードさんが、『アレックス・ラ・グーマ』という新刊書を送ってくれた。その著者がエイブラハムズさんだった。

だいたい、やり出すと止まらない方だから、日本でやってる人もあまりないし、資料もなかなかすぐには手に入らないし、ということで、会って下さいと手紙を書いたら、どうぞ、ということになったのだ。北アメリカに着いてから電話することになっている。

リチャード・ライトの場合もそうだった。ライトはミシシッピに生まれて、メンフィス、シカゴ、ニューヨーク、パリと移り住んだそうだから、とりあえず、今回はパリを除いて反対にずっーと辿ってやろう、と思って出かけたのだが、シカゴと二ユーヨークで本を買いすぎて、セント・ルイスあたりで金がなくなってしまった。そのときは結局、南部へは行けずじまい。はじめての外国行きだった。

85年の春先に、一通の手紙が舞い込んだ。秋にミシシッピで、ライトの死後25周年を記念する国際シンポジウムがあるというのだ。パンフレットの豪華な顔ぶれを見て、すごいなあと思ったが、まさか自分が行くとは考えなかった。

アメリカ語なんかやらないぞ、と思っていた人間が、国際シンポジウム会場の一番まん前で、英語を聞いている。まったくおかしな話だ。

会場ミシシッピ大のキャンパスで、マーガレット・ウォーカーがひとりなのを幸いに、サインをたのんだ。自分のためなら舌をかんでも頼まないが、なんて考えたのがいけなかった。断られた。マーガレット・ウォーカーなんか大キライ。『ジュビリー』も読んでやらない。あのときは、まだ出ていない本の出版記念会などやってたけど、前払いで2冊分注文した『リチャード・ライトの鬼才』、送られて来ないよ。ウォーカーさん、一体どうなってんの。

ライトのことで知り合った人から、アメリカの学会で発表してみませんか?

この先、一体どうなって行くんでしょう。

小説を書く、と10代のはじめから漠然と考えていたが、10代の後半にわづらった「挫折病」のおかげで、その思いは募っていった。はや20年、その思いはいまだ渝っていないらしい。がんばろっと。

あぢさい、かげに浜木綿咲いた     我鬼子

執筆年

1987年

収録・公開

「英米文学手帖」 24号 123-124ペイジ

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あぢさい、かげに浜木綿咲いた(23KB)

1976~89年の執筆物

概要

アパルトヘイトをめぐる日本とアメリカの状況を論じたもので、国際的に反アパルトヘイト運動が展開される中での日本の状況と、滞在したアメリカでの状況を述べました。

コートジボワール人学者リチャード・サミン氏が1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在中のラ・グーマに行なった《アレックス・ラ・グーマヘのインタビュー》を日本語訳した時に書きました。翻訳のあとに、この文章が掲載されています。

本文)

「南ア黒人組織へ直接援助外相がANC議長に表明医療・教育に40万ドル」「ANC議長首相と会談」-そんな新聞の見出しを見ても、どうも素直に喜べない。

当時のANC議長オリバー・タンボ

去年の夏、私はアメリカにいた。「マンデラ」「南ア経済制裁」「ツツ主教」など、そのときはさほど気にもとめなかったが、南ア報道がいやに多かった。あとでわかったのだが、私の着いた翌日7月18日はマンデラ氏の63度目の誕生日だった。1962年来獄中にいる前ANC議長の大きな写真が各紙に載り、釈放を求める写真人りのポスターが街のあちこちで見受けられた。テレビのブラウン管には、ケーキを抱、えたウィニー夫人の姿が映し出された。ツツ主教とタンボANC議長、それに多分UDFのブーサック師だったと思うが、三氏による同時衛生中継というのもあった。中でも、某上院議員が、南ア制裁を渋るレーガン大統領に「あなたが大統領であるこの国に生まれて、私は恥ずかしい」と切々と訴えていた姿が忘れ難い。南ア貿易額ナンバーワンのアメリカを弁護する気は毛頭ない。それでも、報道や文化レベルでの日米の目に見えない格差を、やはり、肌で感じざるを得なかった。

「マンデラ」

ムファレレ氏のいたノースウェスタン大学やブルータス氏のいたテキサス大学では、数々のアフリカ関係の書物が出版されている。南アの人で現在カナダのビショップ大学教授セシル・エイブラハムズ氏が会長を務めるアフリカ文学研究会などを中心に地道な活動を続ける研究団体、本文に引用された「アフリカン・スタディーズ・レビュー」など定期的に刊行されている雑誌や、教壇に立つアフリカ人も多い。大学院レベルでも、アフリカ史、アフリカ文学の講座をもつ大学も少なくない。

セシル・エイブラハムズ氏

この翻訳に際して、朝日、毎日新聞などにも報道されなかったラ・グーマ氏の死について確かめたのは、アフリカ文学研究会の機関紙 ALA BULLETIN (Fall 1985)だったし、引用された「アフリカン・スタディーズ・レビュー」の記事については、日本で唯一所蔵の国立民族博物館に出かけて確かめざるを得なかった。

1985年10月、政府は南アに対して実施していたスポーツ、文化、教育の交流制限措置のうち、教育交流の分野を一部緩めて黒人の留学生を受け入れる方針を打ち出したが、現実は果たしてどうか。悲しいことに、教壇に立つアフリカ人はおろか、大学でのアフリカ史、アフリカ文学の講座すら皆無に等しい。経済面での出版が突出しているいびつさはよく指摘されるところだが(片岡寺彦氏「日本のアフリカ研究」(1985年2月13日朝日新聞夕刊参照)、もうそろそろ欧米一辺倒はやめて、アフリカ人を招いてアフリカ史やアフリカ文学を講じてもらう、は現実に高望みとしても、せめて大学で、アフリカ史、アフリカ文学の講座を設けるくらいのことは、すべき時期に来ているのではないか。

1984年、日本は飢餓キャンペーンに湧いた。高級料亭常連の国会議員が節食ランチを、などと言い出し、白衣の天使果柳徹子がやせ細った黒人の子供を抱き上げて、まあかわいそうに、と言った。「1億5000万人の飢え?もしかしたら、いまブームではないですか。ブームだったら、やがては冷める」(朝日新聞1984年11月5日夕刊)と言ったムアンギ氏の言葉は、残念ながら、現実のものとなった。そんな意味では、アラン・ブーサック牧師の関西講演集会のパンフレットに載せられた、来日を前にしての「日本へのメッセージ」は、ずしりと重い。「われわれを追い回し、連行する車はトヨタ、ニッサン車だ。それを日本は知ってほしい。1985年、私が拘留された際に乗せられた車も日本製だった。英国、西ドイツは自己の立場を弁明するためにこう言っている。「われわれが撤退すれば日本がやってくる。日本の反アパルトヘイト運動は微々たるもので、日本企業は世論の圧力を気にしないですむからだ……」(東京集会、メーデー集会に参加、早朝に山谷を訪れたあと、5月6日の総選挙にからむ緊急事態が発生したために、ブーサック師は急遽帰国。従って5月2日の大阪集会は講演主不在となったが、ビデオでの師のメッセージ、最近の南ア情勢を鮮烈に伝える映画「燃えあがる南アフリカ!-南ア解放組織UDFの記録」や東京で終始ブーサック師と行動を共にした楠原彰氏の話を中心に行なわれた。ブーサック師の力強い演説は50年、60年代アメリカを揺るがした黒人公民権運動の指導者故M・L・キング師をほうふつとさせ、南ア情勢の急を告げていた。)

アフリカを本当に理解するには、日本の文化レベルの現状はあまりにも貧しすぎる。タンボ議長と首相、約20分の対談、僅か40万ドルの支援などと、国際世論をを気づかっての見せかけの対応より、厳しい経済制裁の断行、アフリカ人の受け入れ、などは勿論のこと、文化交流での地道な活動を支えて行く姿勢を持つ方が、はるかに大切だろう。

4月29日(大阪工業大学嘱託講師)

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」 7号 24-25ペイジ

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アフリカ・アメリカ・日本(25KB)

1976~89年の執筆物

概要

編集を担当した「黒人研究の会会報」24号の「あとがき」です。

1954年に創立された黒人研究の会に、81年の秋から、7年ほど入って例会に出たり、月例会の案内やら、会誌や会報の編集のお手伝いをしていました。

黒人研究の会の例会があった旧神戸市外国語大学(大学ホームページより)

会報24号は、創設者の貫名さんの追悼号で、編集をして次のような<あとがき>を添えました。

本文

会報24号をお届け致します。原稿をお寄せ下さった方々に厚くお礼申し上げます。

アフリカ初のノーベル文学賞を受けられたショインカ氏の朗報、会の未来を担う20代、30代の方々からの会員・新会員だより、それに〈特別寄稿>。それぞれが、お亡くなりになられた貫名さんへの、何よりの供養だと信じています。

貫名さん

送年会で、奥さまがお話しされるのを聞きながら、伝えたい、と思いました。特に、苦しいはずの病床での毅然としたご様子や、丸坊主をしいられた先生が軍事教練のあった日には決って蒲団の中で咽んでおられたお姿について、奥さまがしみじみと語られたとき、その思いは高まりました。

快く原稿をお寄せ下さいました奥さまに重ねてお礼申し上げます。

夏のアメリカでは、南アフリカ制裁の問題が、連日マスコミに取り上げられていました。南アフリカ制裁に反発するレーガン大統領にむかって「あなたが大統領をするアメリカに生まれて、私は恥しい」と激しく訴えていたある上院議員の気魂に、偶々旅行中だった私は、激しく心を動かされました。

折しも、中曽根失言。「あのような事を実際いつも思っているからこそ口に出るのだと思います……日本人ももっとまねだけしないでがんばらなくてはいけませんね」というお手紙が、ケント州立大学教授の伯谷嘉信さんから届きました。

創立33年目をむかえる黒人研究の会も、学問のためだけに活動するのではなく、国際交流も含めて、もっと社会に還元されるように活動をする必要がありそうです。

執筆年

1986年

収録・公開

「黒人研究の会会報」 24号 12ペイジ

「黒人研究の会会報」 24号

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「黒人研究の会会報」「あとがき」(28KB)

1976~89年の執筆物

概要

アメリカ南部をまわった時の紀行文で、英米文学の同人誌に寄せたものです。

本文

ニュー・オリンズから、僅か5人の乗客を載せたプロペラ機が着いたところは、空港と呼ぶには、あまりにもイメージが違いすぎていた。もし、飛行機さえなければ、れんが造りの閑静な佇まいは、小さな郡役所と呼ぶ方が適しい。

ナチェズ空港

リチャード・ライトの生まれた1908年のナチェズが再現されるわけではないが、いつか、ライトが生まれたというナチェズの地に、立ってみたかった。小さな空港の、入口の扉を押し開いたところに「ナチェズ」が広がっていた。ポールに星条旗の掲げられたむこうに、馬が数匹、のんびりと草を食べている。背景は深い森だ。美しく、牧歌的な光景だった。

ナチェズ空港前

「私たちの耕す土地は美しい・・・・・・」で始まる一節を思い出した。かつて、アフリカ大陸から連れて来られた黒人たちの数奇な運命を綴った『千二百万の黒人の声』の一節である。ライトは、苛酷な白人社会と、美しく豊かな風土とを対比させることで、理不尽な白人社会の苛酷さを、読者の心に鮮明に焼きつけた。「風土が美しければ美しいほど、読者の目には白人社会が、より苛酷なものに映る」とある雑誌に書いたが、心のどこかで、その豊かで美しい風土をこの目で確かめたかったのかも知れない。ライトは、たしかに文学的昇華を果たしていた、という思いが深まって行く。

最近、「アーカンソー物語」というビデオ映画を見た。リトル・ロックの町でおきた事件を扱ったドキュメンタリー風の映画である。黒人の高校生を受け入れまいとする、白人の側の愚かしさが浮彫りにされていた。

キング牧師が、白人の警官に首根っこを押えつけられている写真、木に吊るされている黒人青年を取り囲む十数人の白人男女の異様な写真など、次から次へとその残像が目に蘇って来る。すべて、この美しく豊かな土地の上で展開されたのか。

今は夜中だが、ホテルの中庭のプールでは黒人、白人の男女若者が入り交って、楽しげに騒いでいる。喧噪に誘われて廊下に出ると、へイッ、ヨシ!という威勢のよい声が飛んで来た。昼間立ち話をした陽気な黒人育年である。頭のてっぺんにだけ円く髪を残した髪型が、似合っている。会う度ごとに、大声で気軽に声をかけてくれるのは、うれしいが、そんなに早口にまくしたてられても、相変らず慣れぬ耳が素早く応じてはくれない。にこにこと笑うしか能がない自分が、少々もどかしい。そのくせ、変に焦らないのも又なぜかおかしい。アメリカへ来るのが、これで3度目になるせいかも知れない。

昨年の11月に、ミシシッピ州立大学でリチャード・ライトのシンポジウムが行なわれた。あるセッションの終わりに、高校で教員をしているという若い白人の女の人が立ち上がり、州は華やかな国際シンポジウムに協力はしても、担任しているあの子たちに何もしてやっていないと訴えた。担任している生徒の95パーセントは黒人であるという。

通りすがりの旅行者にしかすぎない私には、本当の現実の姿は、見えない。

人の営みとは無関係に、歳月だけは過ぎ去って行く。第3次世界大戦の前夜。最近の世の中の動きは不穏にすぎる。「人は歴史から何も学んではいない」と鋭く指摘したのは、たしか加藤周一氏だったか。歴史から何かを学ぶために、私は今、一体、何をすればよいのだろうか。

今回は7人に増えた乗客を載せたプロペラ機は、俄かに降り出した雨の中を、ライトが少年時代を過ごしたという州都、ジャクソンに向かう。(1986年7月25日)

執筆年

1986年

収録・公開

「英米文学手帖」 24号 72-73ペイジ

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ミシシッピ、ナチェズから(89KB)