1990~99年の執筆物

概要

医学科1年生の授業の初めに配った僕の英語の「エセイ」です。

本文

I Like Michel           TAMADA Yoshiyuki

My mind is still out of balance since my two and a half month stay in Harare, Zimbabwe. The devastating situation has left me speechless. I cannot find suitable words for expressing myself. One day I wrote to Michel Fabre, a professor of English at the Sorbonne, Paris, I’m sorry I can’t write soon. After coming back home from Africa, my mind is out of balance, I’m afraid. I sometimes feel too reluctant to write to anybody. Now ‘I’m sorry I write too late.’ has become one of my mottoes.” The reply came as follows: “It is always a pleasure to hear from you. But do not apologize if you are behind in your correspondence. Friends are people with whom one need not apologize because they like you for what you are and accept you as you are.”

ソルボンヌ大学を背景に家族と

  I met him first in 1985 at an international symposium at the Mississippi State University. He was one of the speakers. I had come to know his name through his writings. I was lucky enough to spend one night with him in the dormitory, but I was not able to make myself understood in English. I had long rejected English speaking and listening because the overbearing American influence on Japan.

 ライトのシンポジウムで、ミシシッピ大学にて

I keenly felt that I wanted to share feelings with him. That motivation led me to polish my English speaking and listening.

I was glad to find that I was talking freely with him in Paris when I dropped in on our way home from Zimbabwe in 1992. He taught my children how to play domino in English. They enjoyed the play though they understood few English words.

When I called him Mr. Fabre, he said, “I call you Yoshi. You call me Mr. Fabre. It’s not fair. Call me Michel.”

Outside the country I am called Yoshi. I was called Tama by my basketball teammates. When I was a high-school teacher, I was called Tama-san. Some students called me Tama, like a cat. I don’t like to be called sensei. Maybe I cannot identify with that word. In the same way that I like to say “Michel," I hope you call me Tama-san, not sensei.

April, 1995

Tama.

1990年の医学科一年生の英語のクラス、研究室で撮影

 

執筆年

1995年

収録・公開

未出版

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I Like Michel(33KB)

1990~99年の執筆物

概要

1992年のジンバブエ大学への在外研究のあと、教務・厚生委員会から依頼があって書いたものです。

本文

海外研修記

アフリカは遠かった       英語講師 玉田吉行

渇いた大地

アフリカの大地は渇いていた。8月のある日、石で造られた遺跡グレート・ジンバブエを訪れる機会があったが、行き帰りにプロペラ機の上から眺めた赤茶けた大地は、一体どこに人が住めるのだろうと思えるほど、からからだった。あとで知り合った学生に、あんな渇いた所でどうやって生きているのかと尋ねてみたら、昔から、生きる術を知っているのです、ということだった。

リチャード・ライトの生まれたミシシッピを見たくなって、7年前に出かけたように、今回は、南部アフリカに住むことが出来ればと考えて、在外研究先にジンバブエの首都ハラレを選び、7月の半ばから3ヵ月足らず、家1軒を借りて、家族で住んできた。

ハラレは、近郊も含めると100万人の人口を抱える大都市である。シェラトンもあり、「欧米並み」に、1泊170米ドルもする。大統領官邸だってある。緯度から言えば、北半球なら北ベトナム辺りなのに、1500メートルの高地にあるので、極めて過ごしやすい。宮崎から猛暑と冬を除いたくらいの気候である。庭には、マンゴウやパパイヤがなっていた。行く前に、ライオンに食べられないようにと気遣ってくれた人もいたが、日本の街中に「ニンジャ」が走っていないように、ついぞライオンにお目にかかることはなかった。

大学と子供の学校に近く、自転車で、という条件で家を探してもらった。不動産事情が恐ろしく悪いので、ホテル住まいになるかも知れませんと言われていたが、新聞広告が効いて、家が見つかりましたと、連絡があった。出発の2週間前だった。

アレクサンドラ・パーク

その家は、アレクサンドラ・パークという白人街にあった。500坪ほどあって、大きな番犬と「庭番」のゲイリーが「付いて」いた。家賃は2ヵ月半で2000米ドル(月額10万円ほど)、住み込みで24時間拘束されるゲイリーの月給が170ジンパブエドル(Z$/4200円ほど)、番犬の餌代が150Z$だった。

ゲイリー

家には大きなジャカランダの樹が生えていた。「遠い夜明け」の白人街である。両隣の家にはプールがあった。片方の家には、敷地内に2、30メートルの樹が繁っている。2軒隣の家には、夜間照明付きのテニスコートがあって、番犬が何匹も飼われていた。

ショナの人々

ゲイリーとは、すぐ仲良しになった。正直で、優しい人だった。10日ほどして、冬休み(日本の夏休み)を一緒に過ごすために、奥さんと3人の子供たちがやってきた。2人の子供たち(14歳の女の子と10歳の男の子)と3人の子供たちとは、すぐ仲良しになった。同じ敷地内に、2家族が同居した経験のない私の子供たちには、うれしい毎日だった。学校にも行かなくていい。勉強もしなくていい。来る日も来る日も、ポールを追い掛けたり、相撲をとったり、花を摘んだり、子供たち全員が「今までで一番の夏休みだ」と叫んでいた。しかし、毎日蹴っていたボールの値段が140Z$……何とも複雑な気持だった。

ジンンバブエ大学で知り合ったアレックスに子供たちが英語を、僕がショナ語を教えてもらった。アレックスは、今年12月にジンパブエ大学を卒業して、高校の教師をしながら、修士号を取る予定の英語科の学生である。自分のいる寮に案内してくれた時、アイスクリームのお礼にと、金もないのに、礼儀だと言って、アレックスはコーラをおごってくれた。75セントの出会いだった。食べること自体が難しい大半のショナの人々にとって、3度の食事を保障してくれる3年間の大学生活は「パラダイス」であるらしかった。

アレックス

英語科の教員ツォゾォさんは、ショナの人々のためにショナ語で教科書や小説や劇などを書いている。今度の本で、22冊目になった、と喜んでいた。いつか、ツォゾォさんのショナ語の本を日本語に翻訳出来たらと、ひそかにもくろんでいる。

ツォゾォさん

大使館や大学との折衝、予防接種など、行く前から「アフリカは遠かった」が、乗り換えも入れてヨーロッパまで15時間、それからまた10時間の飛行機の旅は、やはり遠かった。社会主義の国だったことも、遠かった原因の一つだったかも知れない。大阪空港に着陸した飛行機の中で、下の男の子が「僕には長い旅だった」とつぶやいた一言は、機内にいる間、吐き続けていただけに、真実味があった。

短い滞在だったが、一生続くと思える人々に巡り合えた旅であった。

執筆年

1993年

収録・公開

宮崎医科大学「学園だより」 第47号 10-11ペイジ

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海外研修記『アフリカは遠かった』(32KB)

「学園だより」 第47号

1990~99年の執筆物

概要

1992年のジンバブエ大学への在外研究のあと、庶務課から依頼があって書いたものです。

本文

海外滞在日誌

ジンバブエの旅          英語講師 玉田吉行

ジンバブエ

南部アフリカジンバブエの首都ハラレに行って来ました。ここ何年間かは、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ (1925-1985) を紬に、南部アフリカについて考えてきましたから、色々な意味で、その地で生活出来ればと願っていました。本当は、ラ・グーマの生まれ育った南アフリカのケープ・タウンが一番よかったのですが、在外研究を申請した時点では、まだ文化・教育交流が禁じられていましたし、国内が独立に向けての混乱期でもあるので、南アフリカは次回に、ということにしました。初めてのアフリカ行きでもあるので、どこにしようかと少し考えましたが、現在は四国学院大学にいるケニア人のサイラス・ムアンギさんの薦めもあって、アフリカ各地から人が集まって活気があるうえ、治安も比較的いいというジンバブエに行くことにしました。

ジンバブエ大学

ジンバブエ大学の構内

ジンパブエは、南アフリカの第5州としての道は選ばず、移住したイギリス人は本国から孤立した独目の路線を取ったために、南アフリカとはやや異なった歩みをしたのですが、少数派白人による多数派アフリカ人支配という基本的な構図は、南アフリカと非常に似通っています。1980年に独立は果たしたものの、経済力を完全に白人に握られているので、本当の意味での独立は果たしていません。1963年に独立を果たしながら、経済力を握られて改革もままならず、上層部にいる少数のアフリカ人が私利私欲にふけるというケニアの跡を、現在、ジンバブエは着実に追いかけています。体制の批判者は、たとえぱケニアでは、作家グギ・ワ・ジオンゴのように国外に亡命することを強いられた状態が続いていますが、ジンバブエでは、批判する前に厳しい検閲制度がもうけられていて、批判もかないません。従って、ジンバブエには本当の意味での体制を批判出来る作家が、現在は存在し得ませんが、それでも、政治的なテーマではなく、社会問題を通して、白人支配の下で、いかにアフリカ人固有の伝統社会が崩壊させられていったかをアフリカ人自身に問いかけ、これからの問題を提起している作家はいます。ジンバブエ大学文学部英語科のトンプソン・クンビライ・ツォゾォさんもそのような作家のひとりですが、今回の受入先の科長代行をしていたツォゾォさんと親しく接する機会を持つことができたのは幸いでした。個人的なインタビューや、演劇、小説、映画などに関する講義などを通じて、示唆を受けた点は多かったと思います。ジンバブエ大学は、ハラレの白人街にある広いキャンパスをもった総合大学で、学生数は約1万、今は70パーセントがアフリカ人(大半がショナ人)だそうです。農学部に小象がいたりして広々としていますが、施設の方は日本のようにはいきません。体育館もなく、図書館の蔵書も貧しかったように感じました。それでも、大半の学生が教科書を買えず、試験前には本が取り合いになるということでした。コピーの設備もほとんどないし、かりにあったとしても経済的に利用するのは難しいので、学生は、授業の間、質の悪い紙のノートに、ボールペンを走らせるばかり、そんな印象が強く残っています。新聞では、毎日のように、30年ぶりの大早魅で死者多数、などと報じられていましたが、広々とした芝生の上では散水器が勢いよく回っていました。

トンプソン・クンビライ・ツォゾォさん

ロンドン・パリ

ジンパブエには、行きはロンドンを、帰りはパリを経由しました。

ロンドンでは、アレックス・ラ・グーマ夫人と、パリでは、ソルボンヌ大学のミシェル・ファーブルさんと再会しました。

ロンドンに亡命中のブランシさんと家族で

ソルボンヌ大学を背景にファーブルさんと家族で

85年に、ラ・グーマがキューパで亡くなって以来、ブランシ夫人は一人でロンドンに住んでいらっしゃるのですが、66年に亡命してから、未だ祖国に帰れぬ現実に、南アフリカの厳しい現状を思わずにはいられませんでした。

3ヵ月の短い旅でしたが、色々な人に巡り合えてよかったと思います。ただ、搾取する側にいる人間としては、搾取される側の歪みばかりが感じられて、重く、しんどい旅でもありました。

執筆年

1993年

収録・公開

宮崎医科大学「学報」 第50号 18-19ペイジ

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海外滞在日誌『ジンバブエの旅』(32KB)

1990~99年の執筆物

概要

 南アフリカの白人ジャーナリスト、ルス・ファーストの自伝『南アフリカ117日獄中記』(117 Days, 1965)をもとに、娘のショーン・スロボが脚本を書き、クリス・メンゲスが監督したイギリス映画『ワールド・アパート』の映画評です。『遠い夜明け』に続いて上映されました。アパルトヘイトによって傷つけられた母娘の切ない相克に焦点をあてています。

(117 Days, 1965)

本文

A WORLD APART 『ワールド・アパート』 愛しきひとへ

ゴンドワナ18号 (1991) 7-12ペイジ

「ワールド・アパート」

『ワールド・アパート』は、ダイアナとモリー母娘の悲しいもの語りである。全体を通して流れる抑制のきいた音楽と美しく色鮮やかな南部アフリカの風土が、二人の悲しさを切なく映しだす。

今は異国に逃れた夫に宛てて、届くとも知れぬメッセージを聖書に書き付け、自らの命を断とうとするしかなかった母親ダイアナ。二人だけしか知らない隠し場所で見つけ出した母親の遺書の中に、自分の名前を見い出せなかった娘モリー。二人の悲しみは、すれ違う。

子供を持つ中年女性の毅然とした美しさを漂わせるダイアナ役バーバラ・ハーシー。自分を構ってくれない母親に反発しながらも、必死で理解しようと努める少女のひたむきさを演じるモリー役ジョディ・メイ。二人の、決して多くはない言葉の、心憎いばかりのやりとりは、表面こそ互いに平静を装ってはいるものの、その実、ぐらぐら揺り続けるそれぞれの微妙な心の綾を、悲しい音楽にのせて伝えてくれる。

1988年度カンヌ国際映画祭で上映され、同年10月に日本でも封切りされたこのイギリス映画は、それまでに公開された、南アフリカ問題を取り扱った『アモク!』と『遠い夜明け』より、味わいが深かった。

『ワールド・アパート』は、南アフリカの白人ジャーナリスト、ルス・ファーストが1965に亡命先のロンドンで出版した 117 Days[野間寛二郎訳『南アフリカ117日獄中記』(理論社、1966)がある]をもとに、娘のショーン・スロボが脚本を書き、クリス・メンゲスが監督した映画である。1963年の南アフリカを舞台にしたこの映画は、搾取構造を温存してあくまで白人の権益を守ろうとする白人勢力と、南アフリカに住むすべての人間がその富を享受出来る民主国家を実現しようとする黒人勢力が激しく衝突する当時の緊迫した状況を、13歳の少女の目を通して鮮明に映し出している。

ショーン・スロボがクリス・メンゲスの反対を押し切ってつけたタイトル「ワールド・アパート」は、父親ジョー・スロボの発案によるものだが、「それぞれの世界」、「別個の世界」という含意のタイトルは、子供/大人の世界、黒人/白人の世界、体制/反体制の世界など、さまざまな「それぞれの世界」を想起させるだけでなく、その「それぞれの世界」が、見る者の心に、南アフリカの問題を超えたもっと大きな問題を投げかける。

母から娘へ

(挿画小島けい画)

両親の活動を少しでも理解したい、何でもいいから関わりたいと願うモリーの心情をダイアナも知っていた。だからこそ、早朝の黒人のデモ行進に連れて行ってとせがまれたとき、迷いはしたが、敢えて連れて行くことにしたのであろう。しかし、せめて子供たちだけは、自分たちの闘いの渦の中に巻き込みたくはなかった。それが、母親として愛しい者たちにしてやれる唯一のことだと考えたからである。

拠点となった自宅にはよく人が訪れる。ソロモンをはじめ、出入りする人たちは皆一様に優しかったが、結局は誰も何も教えてくれない。大好きな父親でさえ、真夜中に忍んで別れを言いに来てはくれたが「国外に逃亡するの?」と尋ねたとき、「モリー、もういい」と人差し指で唇を押さえ、行き先も教えてくれずに出ていってしまった。

偶然街で目にした黒人の自転車事故の話を母親に持ちかけてみても、忙しそうにして、なぜか取り合ってくれない。机の隠し場所という二人だけの秘密をやっと分かち合えたと思ったのに「中に何を隠してるの?」とたずねてみたら、返ってきたのは「モリー、もういいわ」という父親と同じ言葉だった。

家族での食事中に「誰か喋った奴が居る……」とやって来たジャーナリストの同僚ハロルドが帰ったあと、モリーがダイアナに尋ねる。

「誰なの、お母さん?」

「誰って、何のこと?」

「誰が喋ったの?」

「誰でもないわ」

「ハロルドはなんてったの?」

「べつに」

「…………」

「…………」

「今日、校長先生がお父さんのこと、質問したわ」

「どんな質問だったの……あなたは何て言ったの?」

「べつに」

弁護士の父親とジャーナリストの母親、二人は黒人たちのために、国の正義のために必死に闘っているのだから、と自らに言いきかせるモリーの、母親に対する精一杯の言葉での抵抗だった。

なんとか嵐に巻き込むまいとする大人たちの思惑とは裏腹に、母親の目を盗んで事務所のパンフレットをそっとセーターの下に忍ばせるモリー。両親の世界を知りたいと願う子供心からだが、事態のただならぬ気配は感じ取れても、13歳の少女が理解するには「南アフリカ共和国」の現実は理不尽に過ぎた。

そこには、母と娘の世界を遥かに超えた体制/反体制という「それぞれの世界」が存在していたのである。

体制と反体制

舞台となった1963年。この年が南アフリカの歴史の一つの大きな分岐点になろうとは、吹き荒ぶ嵐の只中にいたダイアナには、おそらく思いも及ばなかっただろう。

シャープヴィル事件以来の国際世論の高まりや、激しくなる地下武力抵抗組織の破壊活動などにより危機感を増した白人政権は、62年6月に一般法修正令、俗に言う破壊活動法を強行した。共産主義弾圧法、不穏集会法、非合法団体法など、それまでの人種差別法や抑圧法などをまとめて改悪したものである。8月にはANCの最高指導者ネルソン・マンデラを逮捕したが、それでも破壊活動の火は鎮まらなかった。いよいよ追い詰められた政府は、一般法修正令を更に改悪した一般法再修正令、別名90日間無裁判拘禁法を急きょ成立させて、厳しい弾圧に乗り出した。共産主義弾圧法や破壊活動法などに触れる者だけでなく、それらに係わる情報を持つと思える者なら誰でも、逮捕状、裁判もなしに逮捕・拘禁できる権利を警察幹部が持つという驚異的な法律であった。63年5月初めのことである。

シャープヴィルの虐殺

63年中に少なくとも594名がその法律の餌食になったと言われている。ダイアナ(ルス・ファースト)が白人女性第1号として117日間の孤独拘禁を強いられたのも、この法律による。

ダイアナが強いられた、運動が許される30分を除く23時間半に及ぶ孤独拘禁が如何に非人道的なものであったか。『国連特別委員会報告』(1963年度~1969年度)の、南アフリカの精神科医その他から出された反対意見からもうかがえる。

外部からの刺戟をうばわれた者が、変調をきたし、完全な精神病になることをわれわれは実験によって知っている。……彼は、何でも信じ、何でもいう状態にはいる。……孤独拘禁の1~3日間に、拘禁者は当惑、落胆の兆候をしめし、誰とでもつきあおうとし、3~10日間の拘禁後は、無意識行動をおこなう傾向をしめす。その後は幻覚をおぼえ、現実と虚構を識別するのが困難になる。数ヵ月の拘禁ののちには、被拘禁者は意気沮喪して、しばしば自殺をする状態になる……野間寛二郎著『差別と叛逆の原点』(理論社、1969年)276ペイジ頁。

『差別と叛逆の原点』

ダイアナが、90日後に釈放されて、すぐ再逮捕されたのは、90日という期限が名目に過ぎず、90日という命令を繰り返しすことによって、政府が個人を無期限に拘禁できると指示したからである。その精神構造は、尋常ではない。

先に住んでいたアフリカ人から土地を奪い、一方的に国を宣言したヨーロッパ人。その侵略を正当化するためには、白人/黒人の「それぞれの世界」が必要だった。そして、奪い取った権益を守るためには、その「秩序」を乱すものは、ダイアナのようにたとえ同胞の白人であっても、体制は反体制分子として社会から排除しなければならなかったのである。

メイドとマダム

ソロモンの拷問死の報せを受けて悲嘆にくれるエルシーは、ダイアナが慰めようとして肩にかけた手を払いのけた。体制に弟を奪われたばかりのエルシーにとって、南アフリカの解放を願って闘うダイアナさえも、体制に守られながら、召使を雇い、プールつきの邸宅に住む白人でしかなかった。ダイアナがいくら良い人であっても、タウンシップに住む家族を養うために、白人の家で、来る日も来る日も、洗濯や掃除をやり、料理を作り、子供の世話をしなければならないエルシーの現実は変わらない。また、いくらモリーが母親のように慕ってくれても、遠く離れたわが子に会えるのは、仕事が休みのわずかな時間でしかない。所詮、ダイアナは「マダム」であり、エルシーは白人居住区域に住むことを許された「メイド」なのである。

「あらゆる可能なところで南アフリカというものを表わさなければいけない」と考えたクリス・メンゲスの意図どおり、色々な場面で黒人/白人の世界が登場する。ダイアナの事務所の階段を掃く黒人と階段を降りるモリー。「ランド・デイリー・メイル」を配る黒人少年とモリー。広い庭の手入れをする黒人と男友達とプールで戯れるイボンヌ。パーティで給仕をする「ボーイ」とプールサイドで踊ったり、ワインを手に談笑する白人……。 社会の隅々にまで、黒人/白人の世界は浸透しており、アパルトヘイト体制が続くかぎり、その状況は、基本的に変わることはない。

娘から母へ

冒頭に記されているように、この映画は「事実に基づいて」作られたものであるが、厳密な意味では「事実に基づいて」はいない。

ショーン・スロボが、母親の自殺未遂について知ったのは、ロンドンで母親の獄中記を読んだ時である。したがって、この映画のクライマックス、ダイアナとモリーの和解の場面は、現実にはなかったことになる。

「聞いて、お願いだから聞いて。母さん、本当に心が砕けてしまいそうだったのよ。そんな状態で一体あなたに何がしてあげられたって言うの……恐かった、恐かったのよ、他の人を危険なめにあわせてしまうんじゃないかって……」

「どの人たちよ」

「母さんの友だち、ハロルドのような人たちよ」

「お母さんの友だち、友だち、お母さんの仕事、みんなお母さんのやってること……」

「そう、母さんの友だち、母さんの仕事、でもみんなのやってることはすべてこの国のためよ……」

「あたしのことは?」

「あなたはここで暮らせる、ここで食べていける。でも、エルシーの子供たちはどう?」

「あたしはエルシーの子供じゃない、あたしはお母さんの子よ」

「いい?エルシーは子供たちと一緒に住めないわ、それも理由は黒人というだけ。シャープヴィルではたくさん撃ち殺された、うしろから撃たれたわ、逃げてるところを撃たれたのよ。それにソロモン、あの人だって殺された……」

「そんなこと、私だって知ってるわ。子供扱いはやめてよ」

「いいわ、そうね、知ってるでしょうとも。あんたが知ってるってこと、母さんも知ってるわ。でも母さん、あんたがどれくらいわかるかってことも知ってるのよ、もしあなたさえ自分を……」

自らの選択を弁明するダイアナと、自分にさよならも告げずに死のうとした母を詰るモリー。なぜ自ら命を断とうとするしかなかったのかを懸命にわが子に諭そうとする親心と親に捨てられた、と感じる悲しみを全身で母親にぶつけようとする子供心の、切ない相克である。

「あたしは一体何が起ってるかなんにも知らないわ。お母さん、あたしに何も教えてくれない……」

「みんなの間でもお互い話し合ったりしないわ。安全じゃないもの」

「あたしは父さんの居場所だってしらない、それに、お父さんが出てった理由だって……ずるいよ。いつだって母さん、あたしと一緒にいてくれないし……そんなのずるい……」

「そうね。ずるい……ずるいわね……ほんとにごめんね、ずるいわね……あなたにお母さんがいて当然ね。そう、お母さんはいるのにね、あなたの理想どうりじゃないけれどね。モリー、大切に思ってるわ。父さんだって、ね。母さんもお父さんの居場所は知らない。でもね、マンデラやシスルと一緒に闘ってるの、お父さんは逃亡したけれど、もしそうしてなかったら、おそらく終身刑だったかもしれないわね。大変な時代になってきたわ。モリー、大切に思っているのよ」

(挿画小島けい画)

「私が成長し、母親の活動をようやく理解し、いろんな話ができるようになったとたん、母は突然、断ち切られるように暗殺されました。この悔しさをどこかにぶつけたくて、このシナリオをいっきに書き上げました。母が生きているときに、私は何もできなかったのです」とショーン・スロボが言うように、モリーの叫びは、小包爆弾によって、1982年にモザンビークのエドゥアルド・モンドラーネ大学で殺された母親ルス・ファーストへのスロボ自身の叫びに違いなかった。そして、モリーが、ソロモンの葬式で母親に続いて、ためらいがちに挙げたこぶしは、解放を願いながら闘った母親を奪った体制へのスロボ自身の怒りでもあるが、同時に、生きている間に理解し合えなかった母親への、哀しい鎮魂歌ではなかったか。

「私が映画の世界に入ったのは、反アパルトヘイト運動に没入していった両親に対する反発からでした。その作品が、反アパルトヘイト映画になったというのは、一つの皮肉かもしれません」とショーン・スロボは述懐する。

誰もが大勢の人々の中で、大声を出しながら力強くこぶしを挙げなくてもいい。帰れない異郷の地で、独りためらいがちに挙げる「アマンドラ」があってもいい。

*「シネスイッチ」(ヘラルド・エース発行)という雑誌が1988年10月の5号で、この映画の特集を組んでおり、映画はレンタル・ビデオで見ることが出来る。(4月には、日本衛生放送でも、放映されたようである)

映画そのものは、残念ながら、宮崎では上映されなかった。後に封切りされたユーザン・パルシー監督の『白く渇いた季節』(1989年制作)もオリバー・シュミッツ監督の『マパンツラ』(1990年制作)も、九州でも福岡までは来たようだが、いつものように、日豊本線を下って来ることはなかった。

1991年8月             宮崎にて

執筆年

1991年

収録・公開

「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ

「ゴンドワナ」 18号

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『ワールド・アパート』 愛しきひとへ(42KB)