1976~89年の執筆物

概要

アパルトヘイトをめぐる日本とアメリカの状況を論じたもので、国際的に反アパルトヘイト運動が展開される中での日本の状況と、滞在したアメリカでの状況を述べました。

コートジボワール人学者リチャード・サミン氏が1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在中のラ・グーマに行なった《アレックス・ラ・グーマヘのインタビュー》を日本語訳した時に書きました。翻訳のあとに、この文章が掲載されています。

本文)

「南ア黒人組織へ直接援助外相がANC議長に表明医療・教育に40万ドル」「ANC議長首相と会談」-そんな新聞の見出しを見ても、どうも素直に喜べない。

当時のANC議長オリバー・タンボ

去年の夏、私はアメリカにいた。「マンデラ」「南ア経済制裁」「ツツ主教」など、そのときはさほど気にもとめなかったが、南ア報道がいやに多かった。あとでわかったのだが、私の着いた翌日7月18日はマンデラ氏の63度目の誕生日だった。1962年来獄中にいる前ANC議長の大きな写真が各紙に載り、釈放を求める写真人りのポスターが街のあちこちで見受けられた。テレビのブラウン管には、ケーキを抱、えたウィニー夫人の姿が映し出された。ツツ主教とタンボANC議長、それに多分UDFのブーサック師だったと思うが、三氏による同時衛生中継というのもあった。中でも、某上院議員が、南ア制裁を渋るレーガン大統領に「あなたが大統領であるこの国に生まれて、私は恥ずかしい」と切々と訴えていた姿が忘れ難い。南ア貿易額ナンバーワンのアメリカを弁護する気は毛頭ない。それでも、報道や文化レベルでの日米の目に見えない格差を、やはり、肌で感じざるを得なかった。

「マンデラ」

ムファレレ氏のいたノースウェスタン大学やブルータス氏のいたテキサス大学では、数々のアフリカ関係の書物が出版されている。南アの人で現在カナダのビショップ大学教授セシル・エイブラハムズ氏が会長を務めるアフリカ文学研究会などを中心に地道な活動を続ける研究団体、本文に引用された「アフリカン・スタディーズ・レビュー」など定期的に刊行されている雑誌や、教壇に立つアフリカ人も多い。大学院レベルでも、アフリカ史、アフリカ文学の講座をもつ大学も少なくない。

セシル・エイブラハムズ氏

この翻訳に際して、朝日、毎日新聞などにも報道されなかったラ・グーマ氏の死について確かめたのは、アフリカ文学研究会の機関紙 ALA BULLETIN (Fall 1985)だったし、引用された「アフリカン・スタディーズ・レビュー」の記事については、日本で唯一所蔵の国立民族博物館に出かけて確かめざるを得なかった。

1985年10月、政府は南アに対して実施していたスポーツ、文化、教育の交流制限措置のうち、教育交流の分野を一部緩めて黒人の留学生を受け入れる方針を打ち出したが、現実は果たしてどうか。悲しいことに、教壇に立つアフリカ人はおろか、大学でのアフリカ史、アフリカ文学の講座すら皆無に等しい。経済面での出版が突出しているいびつさはよく指摘されるところだが(片岡寺彦氏「日本のアフリカ研究」(1985年2月13日朝日新聞夕刊参照)、もうそろそろ欧米一辺倒はやめて、アフリカ人を招いてアフリカ史やアフリカ文学を講じてもらう、は現実に高望みとしても、せめて大学で、アフリカ史、アフリカ文学の講座を設けるくらいのことは、すべき時期に来ているのではないか。

1984年、日本は飢餓キャンペーンに湧いた。高級料亭常連の国会議員が節食ランチを、などと言い出し、白衣の天使果柳徹子がやせ細った黒人の子供を抱き上げて、まあかわいそうに、と言った。「1億5000万人の飢え?もしかしたら、いまブームではないですか。ブームだったら、やがては冷める」(朝日新聞1984年11月5日夕刊)と言ったムアンギ氏の言葉は、残念ながら、現実のものとなった。そんな意味では、アラン・ブーサック牧師の関西講演集会のパンフレットに載せられた、来日を前にしての「日本へのメッセージ」は、ずしりと重い。「われわれを追い回し、連行する車はトヨタ、ニッサン車だ。それを日本は知ってほしい。1985年、私が拘留された際に乗せられた車も日本製だった。英国、西ドイツは自己の立場を弁明するためにこう言っている。「われわれが撤退すれば日本がやってくる。日本の反アパルトヘイト運動は微々たるもので、日本企業は世論の圧力を気にしないですむからだ……」(東京集会、メーデー集会に参加、早朝に山谷を訪れたあと、5月6日の総選挙にからむ緊急事態が発生したために、ブーサック師は急遽帰国。従って5月2日の大阪集会は講演主不在となったが、ビデオでの師のメッセージ、最近の南ア情勢を鮮烈に伝える映画「燃えあがる南アフリカ!-南ア解放組織UDFの記録」や東京で終始ブーサック師と行動を共にした楠原彰氏の話を中心に行なわれた。ブーサック師の力強い演説は50年、60年代アメリカを揺るがした黒人公民権運動の指導者故M・L・キング師をほうふつとさせ、南ア情勢の急を告げていた。)

アフリカを本当に理解するには、日本の文化レベルの現状はあまりにも貧しすぎる。タンボ議長と首相、約20分の対談、僅か40万ドルの支援などと、国際世論をを気づかっての見せかけの対応より、厳しい経済制裁の断行、アフリカ人の受け入れ、などは勿論のこと、文化交流での地道な活動を支えて行く姿勢を持つ方が、はるかに大切だろう。

4月29日(大阪工業大学嘱託講師)

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」 7号 24-25ペイジ

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アフリカ・アメリカ・日本(25KB)

1976~89年の執筆物

概要

編集を担当した「黒人研究の会会報」24号の「あとがき」です。

1954年に創立された黒人研究の会に、81年の秋から、7年ほど入って例会に出たり、月例会の案内やら、会誌や会報の編集のお手伝いをしていました。

黒人研究の会の例会があった旧神戸市外国語大学(大学ホームページより)

会報24号は、創設者の貫名さんの追悼号で、編集をして次のような<あとがき>を添えました。

本文

会報24号をお届け致します。原稿をお寄せ下さった方々に厚くお礼申し上げます。

アフリカ初のノーベル文学賞を受けられたショインカ氏の朗報、会の未来を担う20代、30代の方々からの会員・新会員だより、それに〈特別寄稿>。それぞれが、お亡くなりになられた貫名さんへの、何よりの供養だと信じています。

貫名さん

送年会で、奥さまがお話しされるのを聞きながら、伝えたい、と思いました。特に、苦しいはずの病床での毅然としたご様子や、丸坊主をしいられた先生が軍事教練のあった日には決って蒲団の中で咽んでおられたお姿について、奥さまがしみじみと語られたとき、その思いは高まりました。

快く原稿をお寄せ下さいました奥さまに重ねてお礼申し上げます。

夏のアメリカでは、南アフリカ制裁の問題が、連日マスコミに取り上げられていました。南アフリカ制裁に反発するレーガン大統領にむかって「あなたが大統領をするアメリカに生まれて、私は恥しい」と激しく訴えていたある上院議員の気魂に、偶々旅行中だった私は、激しく心を動かされました。

折しも、中曽根失言。「あのような事を実際いつも思っているからこそ口に出るのだと思います……日本人ももっとまねだけしないでがんばらなくてはいけませんね」というお手紙が、ケント州立大学教授の伯谷嘉信さんから届きました。

創立33年目をむかえる黒人研究の会も、学問のためだけに活動するのではなく、国際交流も含めて、もっと社会に還元されるように活動をする必要がありそうです。

執筆年

1986年

収録・公開

「黒人研究の会会報」 24号 12ペイジ

「黒人研究の会会報」 24号

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「黒人研究の会会報」「あとがき」(28KB)

1976~89年の執筆物

概要

アメリカ南部をまわった時の紀行文で、英米文学の同人誌に寄せたものです。

本文

ニュー・オリンズから、僅か5人の乗客を載せたプロペラ機が着いたところは、空港と呼ぶには、あまりにもイメージが違いすぎていた。もし、飛行機さえなければ、れんが造りの閑静な佇まいは、小さな郡役所と呼ぶ方が適しい。

ナチェズ空港

リチャード・ライトの生まれた1908年のナチェズが再現されるわけではないが、いつか、ライトが生まれたというナチェズの地に、立ってみたかった。小さな空港の、入口の扉を押し開いたところに「ナチェズ」が広がっていた。ポールに星条旗の掲げられたむこうに、馬が数匹、のんびりと草を食べている。背景は深い森だ。美しく、牧歌的な光景だった。

ナチェズ空港前

「私たちの耕す土地は美しい・・・・・・」で始まる一節を思い出した。かつて、アフリカ大陸から連れて来られた黒人たちの数奇な運命を綴った『千二百万の黒人の声』の一節である。ライトは、苛酷な白人社会と、美しく豊かな風土とを対比させることで、理不尽な白人社会の苛酷さを、読者の心に鮮明に焼きつけた。「風土が美しければ美しいほど、読者の目には白人社会が、より苛酷なものに映る」とある雑誌に書いたが、心のどこかで、その豊かで美しい風土をこの目で確かめたかったのかも知れない。ライトは、たしかに文学的昇華を果たしていた、という思いが深まって行く。

最近、「アーカンソー物語」というビデオ映画を見た。リトル・ロックの町でおきた事件を扱ったドキュメンタリー風の映画である。黒人の高校生を受け入れまいとする、白人の側の愚かしさが浮彫りにされていた。

キング牧師が、白人の警官に首根っこを押えつけられている写真、木に吊るされている黒人青年を取り囲む十数人の白人男女の異様な写真など、次から次へとその残像が目に蘇って来る。すべて、この美しく豊かな土地の上で展開されたのか。

今は夜中だが、ホテルの中庭のプールでは黒人、白人の男女若者が入り交って、楽しげに騒いでいる。喧噪に誘われて廊下に出ると、へイッ、ヨシ!という威勢のよい声が飛んで来た。昼間立ち話をした陽気な黒人育年である。頭のてっぺんにだけ円く髪を残した髪型が、似合っている。会う度ごとに、大声で気軽に声をかけてくれるのは、うれしいが、そんなに早口にまくしたてられても、相変らず慣れぬ耳が素早く応じてはくれない。にこにこと笑うしか能がない自分が、少々もどかしい。そのくせ、変に焦らないのも又なぜかおかしい。アメリカへ来るのが、これで3度目になるせいかも知れない。

昨年の11月に、ミシシッピ州立大学でリチャード・ライトのシンポジウムが行なわれた。あるセッションの終わりに、高校で教員をしているという若い白人の女の人が立ち上がり、州は華やかな国際シンポジウムに協力はしても、担任しているあの子たちに何もしてやっていないと訴えた。担任している生徒の95パーセントは黒人であるという。

通りすがりの旅行者にしかすぎない私には、本当の現実の姿は、見えない。

人の営みとは無関係に、歳月だけは過ぎ去って行く。第3次世界大戦の前夜。最近の世の中の動きは不穏にすぎる。「人は歴史から何も学んではいない」と鋭く指摘したのは、たしか加藤周一氏だったか。歴史から何かを学ぶために、私は今、一体、何をすればよいのだろうか。

今回は7人に増えた乗客を載せたプロペラ機は、俄かに降り出した雨の中を、ライトが少年時代を過ごしたという州都、ジャクソンに向かう。(1986年7月25日)

執筆年

1986年

収録・公開

「英米文学手帖」 24号 72-73ペイジ

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ミシシッピ、ナチェズから(89KB)

1976~89年の執筆物

解説

 初めての依頼原稿です。門土社(横浜)から貫名さんの追悼集を出すから何か書いて欲しいと依頼があって書いたものです。
大学には行きたかったものの、受験勉強に馴染めず、結局入れる所に行ったこともあり、英米学科にもかかわらず英語も含めて何もしませんでした。元は文章だけですが、解説と写真を付け加えました。

本文

ー貫名美隆先生を悼んでー

「ゴンドワナ」3号1986年8-9ペイジ

ドゥレイク氏

11月下旬に、私はミシシッピー州立大学で行われたリチャード・ライトの死後25周年記念国際シンポジウムに参加する機会を得たが、その時、発表者の一人でもあり、ライトがその序をよせた『ブラック・メトロポリス』の共著者でもあるドゥレイク氏に、ある親しみを覚えた。白髪の風貌と瓢瓢とした語り口が、貫名さんのイメージと重なったからである。名誉教授であること、年齢がほぼ同じであることも、その要因の一つだったかもしれない。10月15日のお葬式の日に、菊の花を添えてお別れした死に顔が、なぜかちらついて仕様がなかった。マーガレット・ウォーカー女史の出版記念パーティの席上で、いたたまれず、ドゥレイク氏にそのことをお話ししたら、やさしい目で微笑んで居られた。私がつい一週間前に『ブラック・メトロポリス』の文献複写を依頼したことを告げると、一部お送りしましょうと言って下さった。また、貫名さんが、1954年に黒人研究の会を創設されたことに触れると、一瞬驚きの表情を示された。3日間の期間中に、様々な人と喋ったが、1954年の創設の話をした時の反応は一様に「驚き」だった。30年余の歴史の重みを、アメリカの地で知ろうとは夢にも思わなかった。

シンポジウムの特集記事を掲載した雑誌

雑誌の中に紹介された写真:ファーブルさんと

二冊の本

1981年に私は初めてアメリカの地を踏んだ。「行くこと」が主な目的だったせいか、あまり人とも喋らず、ひたすら本屋、古本屋を歩きまわった。お蔭で思わぬ拾いものをしたが、その時もとめた二冊の本を貫名さんへのおみやげにと持ち帰った。一冊は、1942年にライトが「地下にひそむ男」のタイトルでその草稿の一部を発表したクロス・セクション誌の『1940~1960年秀作特集』で、もう一冊は、ライトの『アフリカの飢え』だった。帰ってから、二冊の本と菊の花を一枝持って、何度か貫名さんのお宅をおたずねしたが、決ってお留守だった。いつも、庭に水をはって置いてあったバケツに花をそっと投げ込んでは、黙って戻って来た。菊はしつこく枯れないから、どうも好きになれない花なのに、どうしてよりによって菊の花を選んで持って行ったりしたのか。

クロス・セクション誌『1940~1960年秀作特集』

それ以降にも、いく度となくお渡しする機会はあったはずなのに、その二冊の本は、今も本箱の片隅に眠ったままである。持ち主となるべき人の手元に、今はもう届ける術はない。

祖父と孫

今、私の手元に1971・5・28の日付け入りの10枚からなる手書きのレジメがある。とじるのに用いたホチキスがさびついて赤くなっている。貫名さんから戴いた葉書きを探していて見つけたものだが、ゼミの発表時にくばったもののようだ。「親(父)と子の愛情について-HARPER LEE 著 TO KILL A MOCKINGBIRD より」と題してあり、拙い数匹のものまね鳥らしきもののカットが見える。そして、「作者は三つのこのそれぞれの親子関係を前後にならべることによって親の子に対する影響の大なること、ひいては人の愛の絶大なることを訴えている気がしてならない。」と結んである。どうも、登場する三組の親子関係を比較したようだ。
後にも先にも、これが一度きりの発表だった。15年経った今、詳細は必ずしも定かではないが、断片的な記憶は残っている。
登場人物を明らかにするために、主人公の家で働く黒人女性カルパーニヤに"their cook" (negress)の説明を付した。本文でしばしば見かけた niggerの女性形を知っているぞと私は言いたかったのであろう。貫名さんから「negressという言葉が使われてましたか」と問われた時、私は「たしかに見たのですが……」と言いながら、一応、必死に本をめくってみせた。帰宅してから詳しく調べてみたが、negressの語は見当たらなかった。
時間もなく、自信もなかったので、引用には翻訳本をそのまま借用した。貫名さんが「これはだれかの訳ですか、それともあなたの訳ですか」と聞かれた時、私が「菊池という人の訳です」と答えたら、みんながどっと笑った。なんだ自分で訳もつけられないのか、というあざけりのひびきがあった。「そうですか」とおっしやった貫名さんの目は笑ってはいたが、決して責めてはいなかった。
親への飢えを常に感じながら育った私は、勝てないとわかっている裁判の弁護をあえて引き受け、身をもって子供に生き様を示した父親アティカスに羨望を覚えたことだろう。しきりに、父親の子に対する義務が如何に大きいかを力説したようだ。じっと耳を傾けておられた貫名さんは、最後に「玉田クン、親に子を育てなければならない義務は、やはり、あるんですかね」と一言だけ、ぽつんとおっしやった。

教壇の真下の席

ゼミが一年間しかなかったことや、卒業する年に貫名さんが居られなかったこともあって、とうとう私は卒業論文を書かずじまいであった。今回、アメリカ南部のある本屋で、It Is a Sin To Kill a Mockingbird (『アラバマ物語』の題で翻訳出版)の3種類のテキストを見つけて買い求めたが、どうやら、今から私の〈卒論〉を仕上げるつもりでいるらしい。 私は「良い」学生ではなかった。はじめから、学校そのものに期待していなかったせいか、授業に「出る」ことをあたりまえと信じ込んでいる人達には、どうしてもなじめなかった。大抵は何度目かの授業が私のはじめての「出講日」だった。貫名さんの授業の場合も例外ではなかった。テキストが教室で販売されたと聞いて、臆面もなく研究室に買いに出かけたのは夏休みも間近かの頃だ。授業に、出ないことなんか、気にもとめておられない貫名さんの表情に、却ってこちらが気おくれしてしまって、「ぼく、川端さんが自殺なさった気持ち、わかる気がします」と言う言葉がつい口から出てしまった。褌に着物、下駄ばきに風呂敷き包みの出て立ちで、天城越えをするなど、当時の私は川端さんに相当いれこんでいたからであろう。とにかく、とっさに口がすべってしまったのである。貫名さんは、私をまじまじとごらんになってから「玉田くん、その歳でそんなこといっちゃあ、困りますよ」とおっしゃったが、目は実に優しかった。

『アラバマ物語』(暮らしの手帖社)

授業にはあまり出ないくせに、出ると決って質問をした。大抵の場合、あらかじめ質問の答えを用意をして居て、かえって来る答えで教師のランク付けをやっていたのだ。貫名さんにも、私はやっぱり質問をした。ところが答えがいつも違うのだ。準備していたランクに貫名さんの答はおさまりきらないのだ。私の思考形態の範疇を超えていたというわけだ。私はいささかまいった。それ以降、授業に出るときには、必ず人より早く行き、黒板を丁寧に丁寧に、拭いた。そして教壇の真下の席に座った。少し離れるとぼそぼそと話される内容が聞き取れないということもあったが、誰にも教壇下の席を譲らなかったという芥川龍之介さんのまねをして、私なりの敬意を表したかったのだ。
貫名さんにはオーソリティという言葉がよく似合う。偉大すぎて却ってこわいという声も耳にしたが、「偉大さ」をわかり切れなかったせいか、私にはやさしいばかりの存在だった。叱られたことがない。negressの無知浅学についても、間違いをずばりと指摘なさりはしなかった。翻訳のことについても、不勉強を責めたりはなさらず、少し余地を残して下さった。今にして思うと、私にとっての貫名さんは何をしても叱られることのない「祖父」であり、貫名さんにとっての私は叱る気にもなれない「孫」ではなかっただろうか。
ゼミで、貫名さんが最初に言われたのは「勝手にテーマを決めて、勝手にやって下さい」だった。何とほっとしたことか。高校では丸刈りに、運動靴、学生服の下には白のカッターシャツを着せられて、帽子をかぶれだの、通学路を守れだのと、園児か、まるで牛馬の如き扱いを受けていたから、なおさらだった。やることを自分で決めて、自分でやれることが如何にうれしかったことか。
その年がゼミを担当された最後の年だったことや、お身体の調子が悪かったことなども重なったせいか、やたら休講が多く、たしか半分ほどしか授業がなかったと思う。それに、私の方でも、すすんで「自主休講」の措置をとるものだから、よく考えてみると、結局、数回ほどしかゼミで貫名さんにお目にかかれなかったことになる。それでも、成績表を見たら優がつけられてあった。
今、私は学生に惜しげもなく単位を出し、優をつけている。どうやら、無意識のうちにこの時のご恩返しをやっているらしい。

神戸市外国語大学旧学舎(神戸市東灘区土山町)

がま口の貯金

あるとき入院なさっていると聞いて、お見舞に行ったことがある。案の定、病院にはおられなくて、小一時間程して貫名さんは「一寸、郵便局まで手紙を出しに行ってましてね」とおっしゃりながら部屋に入ってこられた。
お身体がよくないのに、かれこれ四時間ほどもお話しして下さったろうか。何をお話ししたのか、あまりはっきりしないが、出来るだけ若い時に外国へ行ったらいいですよ、ロシア文学の英訳本を読んだりするのもいいですよ、などとおっしゃった様な気もする。別れ際に「玉田君は、今、がま口の貯金が一円くらいしかないから、一円でも多く貯金しなさいよ」とおっしゃった言葉が今だに耳にこびりついている。
あれから、何年経つのだろう。二度、アメリカに行った。高校に七年間、教科に、ホームルーム活動に、クラブ活動に精一杯だった。本を読み、書く時間がどうしても欲しいと考えて高校を辞めた。もう五年になる。その間、少しは本を読み、少しは物も書いた。それでも「がま口の貯金が二円くらいになりました」と言えるのかどうか。
何年か前から、私は黒人研究の編集のお手伝いをさせてもらっている。今回、会報に貫名さんの訃報を載せた。会報の充実を望んでおられた貫名さんを思いながら、何とかがんばってみた。その編集後記に、私は次のように書きとめた--「…編集部には、この会報22号を送り届けたあと、会誌56号(貫名美隆氏追悼号)の仕事が待っています。時代を先取りした先人へのご恩返しにふさわしいものにしたいと念じています。それが、30年余の歴史を継承する次の布石のひとつになりますように、と祈りながら……」何年も前に貫名さんが蒔かれた〈一粒の麦〉は、ひそかに育ち続けているようだ。

               貫名さん

1985年12月12日      (大阪工業大学非常勤講師)

執筆年

1986年

収録・公開

「ゴンドワナ」 3号 8-9ペイジ

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がまぐちの貯金が二円くらいになりました-貫名美隆先生を悼んで-(31KB)