英語 Ta1(9)

4回目の授業でした。

行き帰りは雨にあたらなくて済んで助かったけど、しばらく鬱陶しい天気が続くようで、自転車なんで行き帰りに少し難儀しそう。

<今回>は

コメントも聞けずに、先にトーイック過去問Test1のサンプル、テキストの要約を発表してもらう人を決めて、次回読む文章の前辺りまで(ヨーロッパ人が来て、アフリカ人から土地を奪って課税し、安価な巨大搾取機構を作って国を作り、第二次大戦後アパルトヘイト政権を作る辺りまで)の解説をして、最後に「グレースランド」のTownship Jiveを観て、聴いてもらって時間切れ。トーイックの問題をやると、時間がかかるねえ。

僕が一方的にしゃべることが多いんで、自己紹介、授業の感想や要望、映画や歌の感想、質問などのコメントは、毎回聞きたいねえ。その方が僕も顔を覚えやすいし。

トーイックは過去問のサンプル問題、絵を見ての4択です。サンプルは2問。絵を見ての4択は4種類あるリスニング問題の一つ。

何回か説明したように、今トーイック協会から出ている唯一の本には過去の2種類のテスト(Test 1とTest 2)が入っていて、今日やったのはその前にあるサンプル問題2題。やれなかったTest 1は10題。次回は時間を区切ってやろうと思います。その形式の例題を集めたのが、『金のフレーズ」⑤、今日は最初の10題だけ、何回かスピードを変えながら聞いてもらいました。

『金のフレーズ』の演習のやり方については次回覚えてたら話をするするね。

速度を早くして聞くのは、なかなかええやろ。ニュースや映画の音声を速度を速めて聞くのもなかなかええで。マイクロソフトにはWindows Media Playerがついているんでその設定にしておくと音声を再生するときに速度をすぐに変えられるね。やり方がわからないときは知ってる人に聞くか、僕にメールをしてくれればわかる範囲で返事はするよ。

配ったプリント:

* サンプルPart 1(2問)

* サンプルPart 1(2問)の解説

* トーイックの奨学金について

* アルバム「グレースランド」について

参考ファイルにサンプルPart 1の音声を置いてるんで、前回置いた『~金のフレーズ~』①~⑤と併せてダウンロードして使ってや。何回も何回もやってみるとええと思うよ。

課題のプリントで②に発表を書いてたけど、発表が苦痛の人もいるみたいなので、強制はやめときます。でもアウトプットの機会は大事なんで、進んでやってや。

<発表については>・・・テキストの内容が理解出来たら、それをわかりやすく要約して、少し自分でも調べて画像や地図などをはったファイルを作って発表するといいやろな。自分でパソコンを持って来てやるか、参考ファイルに作ったファイルをアップロードして授業前にダウンロード、それを僕のパソコンを使ってやるかのどっちかで。USBは、非常勤で行ってた公立大と、看護学科でウィルスをばらまいたことがあったんでそれ以来使わないようにしています。

テキストのThe struggle for Africaの

THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERSとThe UNION OF SOUTH AFRICA ANS RESERVESを稲留くん

THE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEIDを小川くん

が発表してくれるけど、本文に目を通しておくとわかりやすいと思います。今回の発表は評価でプラスアルファするつもりやけど、それでええやろか。

Mass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLEは来週聞くので、誰かやってや。

南アフリカのテキストについてはビルの紹介と朗読してくれたファイルを少しだけ聞きました。参考ファイルに全文の朗読の音声ファイルの圧縮フォールダー(zip)を置いてるんで、ダウンロードして聞くとええね。

なかなかええ声やで。読むかわりに聞いてみるんもええかもね。ナチュラルなスピードでと頼んだので、聞きやすいねえ。ええ声しとるなあ。モデルやテレビ俳優してるだけあってかっこよかったし。

常識人やったから、深い話は出来んかった記憶があるけど、学生にも評判よかったし。日本に来てる欧米人は、得てして横柄な人が多いように思うけど、普通に接しられた一人やろな。

最後まで日本語はほとんどやらなかったけど。どうして日本語せえへんのと聞いたら、大学ではみんな英語をしゃべりたがるし、普段の生活でも必要性を感じないから、みたいなこと言うてたな。

今どうしてるかな。僕より7つほど下やったみたいやから、63か4くらいやろか。

<次回>は最初に30分でTest1Part1の何題か→コメントを何人か聞いて→課題のプリントの最後のページの用語の解説、最後から2ページ目に入れてある年表(Chronology)を見てもらいながら英語で解説しようと思っています。それから発表。

コシシケレリアフリカなどの歌の紹介と、映像を交えながら南アフリカ史のまとめもやれる時間があるとええけどね。

次回読むところの前辺りまでの流れを貼っておきます。(Chronologyを参照)

*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)

「遠い夜明け」の感想文は次回出してや。今回は連休でえらい時間が途切れたけど、最後まで毎週授業があるね。

来週に、また。

*********

冒頭から次回読む前までの日本語訳を貼っておきます。読んでおくとわかりやすいと思います。

THE COLONIZATION OF SOUTH AFRICA 南アフリカの植民地化

 When Europeans arrived in the southern part of Africa, different peoples had been living there for some centuries. Groups of San people lived in the mountains and on the edges of the deserts in the southeast. They hunted rock rabbits, lizards, locusts and so forth. Near them lived the Khoikhoi who herded cattle and had more permanent camps than the San. They sometimes intermarried.

南部アフリカにヨーロッパ人が到着した時、そこにはすでに何世紀にも渡って様々な民族が住んでいました。サンの人々はいくつも集落を造って南東部の山や砂漠の端に住んでいました。その人たちは岩兎や蜥蜴や蝗などの狩りをして暮らしていました。サン人の近くには、家畜を飼うコイコイ人が住んでいて、狩りをして移動するサン人よりは定住型の生活を営んでいました。時にはサン人とコイコイ人は結婚することもありました。

The Europeans began to settle down in the latter half of the 17th Century on the initiative of the Dutch East India Company. The Dutch traders had out-rivalled the Portuguese and taken over the spice trade with Asia. Because the voyage to Asia was long, the Company built a depot of provisions at the Cape of Good Hope in 1652. A small white settlement was to grow vegetables and supply other services for the Company. The colony was completely dependent on the Company, among other things for the supply of arms. The Dutch colonialists called themselves Boers. It means farmers in Afrikaans, their Dutch dialect.

オランダ東インド会社に率いられて、17世紀の後半にヨーロッパ人は定住を始めました。オランダの貿易商はポルトガル人との競争に勝ち、アジアの香辛料貿易を引き継ぎました。アジアへの航海は長いものでしたので、会社は1652年に喜望峰に食料を補給するための基地を築きました。その小さな白人入植者の居留地は野菜を育て、会社のために色々なものを提供しました。居留地はすべてを会社に依存していましたが、なかでも武器の供与は全て基地任せでした。オランダの植民地主義者たちは自らをボーアと呼びました。それはオランダ語由来の言葉であるアフリカーンス語で、農民という意味です。

Disputes between the Boers and the Company made them move further inland. The first people they met were the Khoikhoi, whose pasture they conquered. Worse still for the Khoikhoi, the settlers forced them to hand over their cattle. It so was the very basis of their social system. The Khoikhoi were forced to work for the European settlers. The whites’ intrusion meant catastrophe for the San. Only a few San escaped and fled into the Kalahari desert. Their descendants live to this day under much more primitive conditions than did their forefathers in their rich soil.

会社との間で諍いを起こしてボーア人は、内陸の方に移動しました。ボーア人が最初に遭遇した人たちはコイコイ人で、その人たちの放牧地をボーア人が征服しました。コイコイ人にとって更に悪いことには、入植者達は牛を引き渡すように強要しました。それはコイコイ人の社会システムの基盤そのものでした。コイコイ人はヨーロッパ人入植者に、労働を強制されました。白人の侵入者は、サン人には悲劇的な結末を意味しました。ごく僅かのサン人は逃亡)、カラハリ砂漠に逃げこみました。その人たちの子孫は、今日でも、肥沃な土地に住んでいた祖先たちよりも原始的な状態で暮らしています。

The Xhosa and the Zulu peoples were most numerous in South Africa. Land was owned collectively, but cultivated individually. This might be called a moderate kind of socialism. When these highly developed cultures with their strong military organization clashed with the Boers, they could not be defeated as easily as the Khoikhoi and the San. The Wars of Dispossession started in 1871. The battles were many and fierce during the nine wars. The whites could only consolidate their control over what was formerly African land by crushing these African military kingdoms with superior arms. This process was almost completed in 1881. But the Boers never conquered South Africa completely. Conquest was completed only when the British forces took over the process.

南アフリカでもっとも人口の多かったのは、コサ人とズール人でした。土地は個人ではなく全体で共同所有されていましたが、個人個人が耕やしていました。一種の穏やかな社会主義と呼び得るものかも知れません。強大な軍を持つ高度に発達した文化がボーア人とぶつかった時、コイコイ人やサン人が簡単にやられたように、コサやズールーの人々がやられることはありませんでした。1871年に、略奪戦争が始まりました。9つの略奪戦争では、戦闘も数多く、激しいものでした。白人たちは優れた武器を使って、軍を持つアフリカの王国を破壊することによって、元はアフリカ人所有の土地に対する支配権を確立したのです。この過程は1881年には、ほぼ完成していました。しかし、ボーア人は完璧に南アフリカを征服しわけではありません。イギリス軍がその過程を引き継いで初めて、征服が完了したのです。

Britain feared that French control of the Cape could jeopardize British interests in India and trade with the East, and in 1795 sent a large British force to the Cape and forced the Dutch governor to capitulate. The Boers at once came into conflict with Britain. Britain was looking for raw materials and new markets for industrial goods. Slave trade and slave labour were no longer necessary. But for the Boers slavery was the foundation of their economy, so they resisted all attempts to abolish it. This contradiction resulted in bitter conflicts between them and the British colonialists. In 1833 the British managed to abolish slavery in the Cape. Many Boers, particularly the wealthy ones, left the Cape and moved inland in big ox caravans. This was called the Great Boer Trek. The Boers who stayed in the Cape needed workers for their farms, so they imported workers from Indonesia and Malaysia, Dutch colonies in Asia.

イギリスはインドおよび東洋との貿易で、ケープをフランスが支配することになればイギリスの利益が危険にさらされるかもしれないのではないかと心配しました。そして、1795年にはケープへ大規模なイギリスの軍隊を送り、オランダの植民地相に降伏することを強制しました。ボーア人は、直ちにイギリスと衝突しました。イギリスは、原料および工業製品の新しい市場を探していました。奴隷貿易と奴隷の労働は、もはや必要ありませんでした。しかしボーア人には奴隷制度が経済の基礎でしたから、ボーア人は奴隷制度を廃止する試みすべてに反抗しました。この矛盾は、ボーア人とイギリスの入植者の苦しい対立を生む結果に終わりました。1833年には、イギリス人がどうにかケープの奴隷制度を廃止しました。多くのボーア人、特に豊富なものがケープを去り、大きな雄牛の隊列を組んで内陸に移動しました。これはボーア人の大移動と呼ばれました。ケープにとどまったボーア人は、自分たちの農場のための労働者を必要としましたので、アジアのオランダ植民地インドネシアとマレーシアから労働者を輸入しました。

By 1854 South Africa was divided into four provinces. The British claimed the Cape and Natal, the coastal provinces rich in soil. The Boers had established two inland republics: the Orange Free State and Transvaal, which Britain had to recognize as autonomous.

1854年までに、南アフリカは4つの州に分割されました。イギリス人はケープおよびナタールの土壌の豊かな沿岸地方を要求しました。ボーア人は内陸の2つの共和国オレンジ自由国とトランスヴァールを設立し、イギリスはその2州を自治領として認めざるを得ませんでした。

The number of colonizers of British origin gradually grew. In Natal province sugar cultivation was started on a large scale at the end of the 19th century, and Indians were imported as indentured labour (See Appendix South Africa 1).

イギリスから来た入植者の数は徐々に増えていきました。ナタール州では、19世紀の後半に大規模な砂糖栽培が始められ、インド人が契約労働者として輸入されました。(附録<南アフリカの1>を参照)

The British and British capital became really interested in South Africa only when diamonds were found in 1867 and gold in 1886. This also caused a growing conflict with the Boers, since the rich deposits were found in their republics.

イギリス人とイギリス資本は、1867年にダイヤモンド、1886年に金が見つかったに初めて、南アフリカに本当に興味を持つようになりました。豊富な鉱物がボーア人の共和国で見つかったので、そのことでさらにボーア人との衝突が激しくなりました。

THE GROWTH OF MINING CAPITAL 鉱山資本の成長

The first diamonds were discovered in the area which later was to become the Kimberley diamond fields.

まず初めのダイヤモンドは、その後キンバリー・ダイヤモンドの産地になる地域で発見されました。

The diamonds on the surface were soon depleted. A more costly technique was then required to exploit diamonds under the surface. This furthered capital concentration, i.e. the concentration of ownership in fewer hands. In 1888 all diamond mines were controlled by a company called de Beers Consolidated, which before the turn of the century controlled 90% of world production. The company was in the hands of the British imperialist Cecil Rhodes, who also was Prime Minister in the Cape colony.

地表のダイヤモンドはすぐに堀り尽されました。その後、よりお金のかかる技術が地下のダイヤモンドを開発するために必要とされました。これは更に資本の集中を促しました、つまりより少数の手の中に所有権が集中したわけです。1888年には、ダイヤ鉱山が全てデ・ビアスと呼ばれる会社によって支配され、20世紀になる前には世界生産の90%をその会社が支配していました。その会社は、イギリスの帝国主義者であり、ケープ植民地の首相でもあったセシル・ローズの手中にありました。

英語 Ta1(9)

<連絡事項>

次回は5月14日(火)、連休明けの7日は月曜日時間割。

<今回は>

3回目でした。しばらく大学のことなど話をしてから、「遠い夜明け」(編集版)の続き、トーイックの過去問のサンプル問題(絵を見ての4択)をやるつもりがプリントが見当たらず、『金のフレーズ』⑤の5まで聞いてもらって時間切れでした。

<次回は>

先に、コシシケレリアフリカなどの歌を紹介、コメント、THE COLONIZATION OF SOUTH AFRICAの予定確認。それからトーイックのサンプル問題演習、Test 1 Part 1、時間あるやろかなあ。

「遠い夜明け」(Cry Freedom)はどうやった?少し重なるかも知れんけど、詳しく解説しときます。感想文を書いてもらうつもりで用紙を持って行ってたのに渡すのを忘れました。次回渡しますので、書ける人は予め書いといてや。印象の強い間に。

「遠い夜明け」に関して配ってるプリントは「遠い夜明け」の1988年の新聞広告(表裏)と、主演のデンデル・ワシントンと原作者のドナルド・ウッズと、「ネルソン・マンデラ」を歌ったユッスー・ンドゥール(表)と試写会の割引券。主演のデンデル・ワシントン↓

この映画を作ったのは監督のリチャード・アッテンボロー。「ガンジー」や「コーラスライン」で超有名な監督です。冒頭に典型的な場面を持って来るのが好きなようで「ガンジー」では暗殺の場面、今回の場合は、スラムの強制立ち退きの話を南アフリカの典型的な場面として衝撃的に持って来ていました。英文テキストの中にも以下の文を紹介しています。日本語訳も貼っておきます。

******************

The bantustan policy meant that Africans were to be prevented from living permanently in the white areas. Ruthless, forced evictions took place to force ‘surplus labour’ to move from the towns to the bantustans. Crossroads outside Cape Town is only one example of this policy.

バンツースタン政策は、アフリカ人を白人地区で永住させないという意味のものでした。冷酷で、強制的な立ち退きが、「余剰労働力」を町からバンツースタンに強制的に移動させるために強行されました。ケープタウン郊外のクロスローヅはこの政策の一例です。

REFERENCE 3 参照3

We can hear the news of Radio South Africa about the 1978 Crossroads eviction in the following scene of Cry Freedom.
Newscaster: “This is the English language service of Radio South Africa. Here is the news read by Magness Rendle. Police raided Crossroads, an illegal township near Cape Town early this morning after warning this quarter to evacuate this area in the interests of public health. A number of people were found without work permits and many are being sent back to their respective homelands. There was no resistance to the raid and many of the illegals voluntarily presented themselves to the police. The Springbok ended . . .”

今日も少し解説したけど、米国映画「遠い夜明け」の以下の場面で、1978年のクロスローヅの立ち退きについての南アフリカのラジオニュースが出てきます。
ニュースキャスター:「こちらは南アフリカラジオの英語放送です。
マグネス・レンドルがニュースをお伝えします。公衆衛生の見地から、その地域を空け渡すように勧告を出したあと、今朝早く警察は、ケープタウン郊外の不法居住地区クロスローヅの手入れを敢行しました。多くの人が労働許可証を持たず、それぞれのリザーブに送り返されています。手入れに対して全く抵抗の気配もなく、不法滞在者は自発的に警察署に出頭していました。放送を終わります・・・。」

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人種隔離政策の下で情報操作を強いられている白人にはそういうニュースしか流れないわけです。小さい頃から白人社会で育ったら、それが当たり前、というわけです。

ウッズとビコの出会いのシーンは、いつも美しいなあと思います。2回目に貼ってたと思ったけど、そうでなかったんで、ここに貼っておくね。あの通りは1992年にハラレに行った時に、たぶん近くを通ったような気がします。transcribeしたのを貼っておきます。

Cry Freedom_The first meeting

Woods: Steve Biko? Are you Steve Biko?
Biko: l am. l would have met you in the church, but, as you know, l can only be with one person at a time. lf a (third) person comes into the room, even to bring coffee, that (breaks) the (ban)… And the (system) – the police – are just across the road. But, of course, you would (approve) of my (banning).
Woods: No. l think your (ideas) are (dangerous), but, no, l don’t (approve) of (banning).
Biko: A true (liberal).
Woods: lt’s not a title l’m (ashamed) of, though l know you (regard) it with some (contempt).
Biko: l just think that a white (liberal) who (clings) to all the (advantages) of his white world – jobs, housing, education, (Mercedes) – is perhaps not the person best (qualified) to tell blacks how they should (react) to (apartheid).
Woods: l wonder what sort of (liberal) you would make, Mr. Biko, if you were the one who had the job, the house, and the (Mercedes), and the whites lived in (townships).
Biko: lt’s a (charming) idea. lt was good of you to come, Mr. Woods. l wanted to meet you for a long time.

Mercedesはマーサディーズと発音、意味はメルセデス・ベンツ。ドイツ車で金持ちのシンボル。医者ややくざがよう乗ってる車で、医学科の駐車場ではよう見かけるねえ。

**********

自己意識の話も補足しときます。

今日も映画を観たあと話をしたように、ビコは合法的に殺されましたが、それだけ体制に脅威だったということでしょう。
裁判の中でビコがEven in this environment we must find a way to develop hope for themselves, to develop for this countryと言ってたけど、ほんとすごいよね。前の方Even in this environment we must find a way to develop hope for themselvesは僕でも言えるので、ま、授業でずっと言い続けて来たつもりやけど、あとの方to develop for this countryは、言えないもんね。この国のやってきたことを考えると、恥ずかしすぎて、国に希望を紡ごうと言う気にならんもんなあ。今日も何度も言ったけど、こう言わないといけないのは悔しいね。
自己意識については、ビコとマルコム・リトルに焦点を当てて書いたことがあります。ビコを引用して書いた部分です。

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白人優位・黒人蔑視

奴隷貿易に始まる西洋諸国の侵略によって、支配する側とされる側の経済的な不均衡が生じましたが、同時に、白人優位・黒人蔑視という副産物が生まれました。支配する側が自らの侵略を正当化するために、懸命の努力をしたからです。支配力が強化され、その格差が大きくなるにつれて、白人優位・黒人蔑視の風潮は強まっていきました。したがって黒人社会は、支配権を白人から奪い返す闘いだけでなく、黒人自身の心の中に巣食った白人優位の考え方を払しょくするという二重の闘いを強いられました。アメリカ映画「遠い夜明け」で広く知られるようになったスティーヴ・ビコは、ある裁判で黒人意識運動の概念について質問されたとき、その「二重の闘い」に言い及んで、次のように述べています。

基本的に「黒人意識」が言っているのは黒人とその社会についてであり、黒人が国内で二つの力に屈していると、私は考えています。まず何よりも黒人は、制度化された政治機構や、何かをしようとすることを制限する様々な法律や、苛酷な労働条件、安い賃金、非常に厳しい生活条件、貧しい教育などの外的な世界に苦しめられています。すべて、黒人には外因的なものです。二番目に、これが最も重要であると考えますが、黒人は心のなかに、自分自身である状態の疎外感を抱いてしまって、自らを否定しています。明らかに、ホワイトという意味をすべて善と結びつける、言い換えれば、黒人は善をホワイトと関連させ、善をホワイトと同一視するからです。すべて生活から生まれたもので、子供の頃から育ったものです。[I Write What I Like (New York: Harper & Row, 1986), p. 100.神野明他訳の日本語訳『俺は書きたいことを書く』(現代企画室、 一九八八年)が出ています]

南アフリカを本当の意味で変革していくためには、先ず何よりも黒人ひとりひとりが、厳しい現状に諦観を抱くことなく、自らの挫折感とたたかい、自分自身の人間性を取り戻すべきだと、ビコは説きました。自己を同定するために自分たちの歴史や文化に誇りを持ち、次の世代に語り伝えようと呼びかけました。そして、経済的な自立のための計画を立てて、実行に移しました。

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ブログに載せています→「自己意識と侵略の歴史」

では、次回にまた。

一度家に戻ってしばらく寝て、今からまた研究室です。英語をしゃべりたい人が練習に来る予定。

トーイックについて少々。

今トーイック協会から出ている唯一の本には過去の2種類のテスト(Test 1とTest 2)が入っていて、今日やろうとしたのはその前にあるサンプル問題2題。Test 1は10題。次回はやれると思います。その形式の例題を集めたのが、『金のフレーズ」⑤、スピードを変えながら聞いてもらったけど、なかなかええやろ。参考ファイルに①~⑤の音声はzip(圧縮ファイル)で置いてあるんで、ダウンロード、解凍して使ってや。

次回、何回かやってみるんで、自分でもやりや。自分でやるのが一番大事やから。

 

英語 Ta1(9)

<連絡事項>

授業は最後までL111でやる予定です。音声も映像も413よりもいいし、発表にも適してるので。ちょっと広すぎるけどね。

<今回は>

2回目、学士力発展科目なども含めて大学の現状や大学での過ごし方、トーイックについてなど、いろいろしゃべったり、黒木くんのアンケートもあって、なかなか本題まで行けませんでした。

この前はまだブログの準備が間に合わなくて、ファイル置き場を使えなさそうだったんで、パソコンを持って来てもらってCDでデータを移してもらうしかないなと思ってパソコンを持って来てやと言いました。パソコンにCDドライブがついてるもんやと思ってたのに、実際はそうでもないんやね。横山さんは外付けのドライブを買ったようで、申し訳ないことしました。授業のあとで長谷川くんと3人で話していてそれに気付きました。ほんとごめんなさい。

ブログは元医大生の岩谷くん(今は愛知県庁で働いています)が作ってくれ、今も助けてもらっています。この3月も名古屋に行っていろいろ教えてもらいました。特に、ファイル置き場にフォールダーを置くやり方やパワーポイントのPresentation Packのやり方を詳しく聞きました。それで今回から参考ファイルにフォールダーを置けるようになりました。折角置いてるんで、ダウンロードして使ってや。サンプル問題の音声ファイルもそのうち、実際に問題をやったあと置き場に置くつもりです。

コメントは喜多くん、稲留くん、大谷くんだけでした。毎回何人かにしゃべってもらうつもりなんで、要望や意見、質問などあったら遠慮なくどうぞ。

「遠い夜明け」はビコとウッズの出会いの場面まで見てもらいました。次回は1時間足らずの編集版だけど、最後まで見てもらえると思います。その次は、The Struggle for South AfricaのTHE COLONIZATION OF SOUTH AFRICAを誰かに読んでもらうつもりなんで、やろうと思う人は次回言ってや。

少し英語で解説したけど、次回はもう少し詳しく英語で説明するんで、プリントの最後の方になるA Chronology of South Africa(年表)と用語の解説は読んどいてや。

ビコと出会った編集長のドナルド・ウッズとビコ役のデンデル・ワシントンの新聞記事も入れてあるので、読むとおもしろいよ。映画の解説の新聞記事も読むと、背景がわかってより楽しめると思う。

次回葬式の場面でみんなが歌うコシシケレリアフリカの楽譜も入れてあるんで、ピアノ弾ける人は弾いてみるとええよ。映画を見終わったとき、Soweto Gospel Choirのコシシケレリアフリカは紹介するつもりです。

配ったプリントはなしです。

<次回は>

「遠い夜明け」の続き、Soweto Gospel Choirのコシシケレリアフリカ何人かのコメント、課題の説明、THE COLONIZATION OF SOUTH AFRICAくらいかな。

では、来週また。

夕方から寝たせいで、日付けが変わってしまいました。次回からその日のうちに書けるとええのにね。

あした(すでに今日か)は医学科の2クラス、一コマ目からで早いんでもう寝なくちゃねえ。

体調を崩さないようにするのに、ほんまいっぱい一杯やなあ。

 

英語 Ta1(9)

水曜日の朝に、このブログの授業のページが使えるようになりました。前回の授業では紹介できなかったんで、次回、紹介しますね。前回の分を書いておきます。

<今回は>

1回目でした。楽しくやれそうか?

最初に、最初からL111で待ってくれてた人にお詫びを、ほんとに申し訳ないです。414の部屋で話をした内容を下にまとめておきますので、必要なら、時間の前かあと、それか研究室に来てくれれば、改めて話をしますので、どうか遠慮なく。

プリントでも案内している南アフリカ映画「遠い夜明け」の編集版を観てもらうつもりやったけど、結局歌を聴いてもらうだけしか時間が残らんかったね。

414の部屋で先にごちゃごちゃしゃべったけど、3つほど伝えたかんたんやと思います。

①入学は最終目標やないんで、モードを変えんとあかん、そのための機会になれば嬉しいです。金持ちの都合のいいように作られた社会、その中で、自分について、将来について考える時間もそう多くなかった人も多いやろから、出来るだけ、意識下に働きかけて、今までの価値観や史観を見直すきっかけになればと思います。なんで英語の時間にアフリカやねん、という反応が多いけど、英語は教養の枠組みやし、意図的に避けられて来た分野の話は、値観や史観を見直すきっかけにはいい材料なんで。

②英語も言葉の一つで、言葉が使わんと、使えんと意味がないんで、英語をする、やなくて、英語で何かをする、に切り替えんとあかんと思う。出来るだけ、実際に使われているものを使い、インプットしたものを実際にアウトプットしながら、道具として使えるようにする、それが大事やと思います。

③原爆を使われて無条件降伏してアメリカを押しつけられた一環で英語も押しつけられ、否応なしに中高で英語はかなりの時間を費やす必須、工学部でもトーイックが要ると言う人も多くいます。就職にもトーイックのスコアが高い方が有利であれば、やっておくに越したことはないと思います。
授業でも言ったし、トーイックについてのプリントにも書いたけど、英語が使えるようになればスコアも取れる、でも時間の制約もあるからスコアだけ上げるなら、ある程度の時間で可能やと思う。授業でやったから出来るようになるということはないけど、やり方を参考にしたり、やってみようという気になったりする手助けにはなると思う。要は自分がするかどうか。
スコアに関しては、過去問を繰り返しやる、それで800までは行けるから。授業でも少しやってこ。

Soweto Gospel ChoirのAmazing Graceはどうやった?プリントでも紹介したように、服部くんが「とりあえず見てくれ、聞いてくれ」というだけはあるやろ。南アフリカのプリントの一枚目の「南アフリカの最近の音楽とDVD、CDについてのコメント」は服部くんに書いてもらった分です。

大きな階段教室は画面も大きいし、音声も気兼ねせんでええからええやろ。

配ったプリント:

*僕の自己紹介

*(みんなの)自己紹介の用紙→次回出してや。

*2019年度前期~(授業、課題と評価、課題、エセイ、課題図書、トーイックについて)

*申し込み用紙

*The Struggle for South Africa

*南アフリカの最近の音楽と~(DVDとCD、闘いが生んだ美しい歌、コシシケレリアフリカ楽譜、遠い夜明け、ユッスー・ウッヅ・ワシントン、遠い夜明け続き、映画優待券、A chronology of South Africa、南アフリカについての用語解説)

*TOEICテストについて

*『~金のフレーズ~』①~⑤

取り敢えず①の音声ファイルなどを入れたフォールダーを参考ファイル(ファイル置き場)に置いておきますので、ダウンロードして使ってや。次回実際にやってみるね。

<次回は>

何人かのコメント、課題の説明、次々回に発表する人を決める、南アフリカの歴史背景を英語で少々(今日配った南アフリカに関するプリントの最後の一枚にある A Chronology of South Africaと南アフリカについての用語解説をみておく方がわかりやすいと思います)、それから「遠い夜明け」を時間の許す限り観る、やろかな。

では、来週また。

今はきんぽうげがあちらこちらに。そろそろ薊もあざやかになる頃やねえ。見上げると山藤。都会から来た人には、色あざやかやに映るやろなあ。木花キャンパスから望める加江田渓谷の借景も、すてきやもんなあ。木花の研究室からも見えるで。下に学生が通ってて、木花渓谷が見渡せる、窓から見える景色も、ええなあ。