4回目の授業でした。
行き帰りは雨にあたらなくて済んで助かったけど、しばらく鬱陶しい天気が続くようで、自転車なんで行き帰りに少し難儀しそう。
<今回>は
コメントも聞けずに、先にトーイック過去問Test1のサンプル、テキストの要約を発表してもらう人を決めて、次回読む文章の前辺りまで(ヨーロッパ人が来て、アフリカ人から土地を奪って課税し、安価な巨大搾取機構を作って国を作り、第二次大戦後アパルトヘイト政権を作る辺りまで)の解説をして、最後に「グレースランド」のTownship Jiveを観て、聴いてもらって時間切れ。トーイックの問題をやると、時間がかかるねえ。
僕が一方的にしゃべることが多いんで、自己紹介、授業の感想や要望、映画や歌の感想、質問などのコメントは、毎回聞きたいねえ。その方が僕も顔を覚えやすいし。
トーイックは過去問のサンプル問題、絵を見ての4択です。サンプルは2問。絵を見ての4択は4種類あるリスニング問題の一つ。
何回か説明したように、今トーイック協会から出ている唯一の本には過去の2種類のテスト(Test 1とTest 2)が入っていて、今日やったのはその前にあるサンプル問題2題。やれなかったTest 1は10題。次回は時間を区切ってやろうと思います。その形式の例題を集めたのが、『金のフレーズ」⑤、今日は最初の10題だけ、何回かスピードを変えながら聞いてもらいました。
『金のフレーズ』の演習のやり方については次回覚えてたら話をするするね。
速度を早くして聞くのは、なかなかええやろ。ニュースや映画の音声を速度を速めて聞くのもなかなかええで。マイクロソフトにはWindows Media Playerがついているんでその設定にしておくと音声を再生するときに速度をすぐに変えられるね。やり方がわからないときは知ってる人に聞くか、僕にメールをしてくれればわかる範囲で返事はするよ。
配ったプリント:
* サンプルPart 1(2問)
* サンプルPart 1(2問)の解説
* トーイックの奨学金について
* アルバム「グレースランド」について
参考ファイルにサンプルPart 1の音声を置いてるんで、前回置いた『~金のフレーズ~』①~⑤と併せてダウンロードして使ってや。何回も何回もやってみるとええと思うよ。
課題のプリントで②に発表を書いてたけど、発表が苦痛の人もいるみたいなので、強制はやめときます。でもアウトプットの機会は大事なんで、進んでやってや。
<発表については>・・・テキストの内容が理解出来たら、それをわかりやすく要約して、少し自分でも調べて画像や地図などをはったファイルを作って発表するといいやろな。自分でパソコンを持って来てやるか、参考ファイルに作ったファイルをアップロードして授業前にダウンロード、それを僕のパソコンを使ってやるかのどっちかで。USBは、非常勤で行ってた公立大と、看護学科でウィルスをばらまいたことがあったんでそれ以来使わないようにしています。
テキストのThe struggle for Africaの
THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERSとThe UNION OF SOUTH AFRICA ANS RESERVESを稲留くん
THE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEIDを小川くん
が発表してくれるけど、本文に目を通しておくとわかりやすいと思います。今回の発表は評価でプラスアルファするつもりやけど、それでええやろか。
Mass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLEは来週聞くので、誰かやってや。
南アフリカのテキストについてはビルの紹介と朗読してくれたファイルを少しだけ聞きました。参考ファイルに全文の朗読の音声ファイルの圧縮フォールダー(zip)を置いてるんで、ダウンロードして聞くとええね。
なかなかええ声やで。読むかわりに聞いてみるんもええかもね。ナチュラルなスピードでと頼んだので、聞きやすいねえ。ええ声しとるなあ。モデルやテレビ俳優してるだけあってかっこよかったし。
常識人やったから、深い話は出来んかった記憶があるけど、学生にも評判よかったし。日本に来てる欧米人は、得てして横柄な人が多いように思うけど、普通に接しられた一人やろな。
最後まで日本語はほとんどやらなかったけど。どうして日本語せえへんのと聞いたら、大学ではみんな英語をしゃべりたがるし、普段の生活でも必要性を感じないから、みたいなこと言うてたな。
今どうしてるかな。僕より7つほど下やったみたいやから、63か4くらいやろか。
<次回>は最初に30分でTest1Part1の何題か→コメントを何人か聞いて→課題のプリントの最後のページの用語の解説、最後から2ページ目に入れてある年表(Chronology)を見てもらいながら英語で解説しようと思っています。それから発表。
コシシケレリアフリカなどの歌の紹介と、映像を交えながら南アフリカ史のまとめもやれる時間があるとええけどね。
次回読むところの前辺りまでの流れを貼っておきます。(Chronologyを参照)
*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)
「遠い夜明け」の感想文は次回出してや。今回は連休でえらい時間が途切れたけど、最後まで毎週授業があるね。
来週に、また。
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冒頭から次回読む前までの日本語訳を貼っておきます。読んでおくとわかりやすいと思います。
THE COLONIZATION OF SOUTH AFRICA 南アフリカの植民地化
When Europeans arrived in the southern part of Africa, different peoples had been living there for some centuries. Groups of San people lived in the mountains and on the edges of the deserts in the southeast. They hunted rock rabbits, lizards, locusts and so forth. Near them lived the Khoikhoi who herded cattle and had more permanent camps than the San. They sometimes intermarried.
南部アフリカにヨーロッパ人が到着した時、そこにはすでに何世紀にも渡って様々な民族が住んでいました。サンの人々はいくつも集落を造って南東部の山や砂漠の端に住んでいました。その人たちは岩兎や蜥蜴や蝗などの狩りをして暮らしていました。サン人の近くには、家畜を飼うコイコイ人が住んでいて、狩りをして移動するサン人よりは定住型の生活を営んでいました。時にはサン人とコイコイ人は結婚することもありました。
The Europeans began to settle down in the latter half of the 17th Century on the initiative of the Dutch East India Company. The Dutch traders had out-rivalled the Portuguese and taken over the spice trade with Asia. Because the voyage to Asia was long, the Company built a depot of provisions at the Cape of Good Hope in 1652. A small white settlement was to grow vegetables and supply other services for the Company. The colony was completely dependent on the Company, among other things for the supply of arms. The Dutch colonialists called themselves Boers. It means farmers in Afrikaans, their Dutch dialect.
オランダ東インド会社に率いられて、17世紀の後半にヨーロッパ人は定住を始めました。オランダの貿易商はポルトガル人との競争に勝ち、アジアの香辛料貿易を引き継ぎました。アジアへの航海は長いものでしたので、会社は1652年に喜望峰に食料を補給するための基地を築きました。その小さな白人入植者の居留地は野菜を育て、会社のために色々なものを提供しました。居留地はすべてを会社に依存していましたが、なかでも武器の供与は全て基地任せでした。オランダの植民地主義者たちは自らをボーアと呼びました。それはオランダ語由来の言葉であるアフリカーンス語で、農民という意味です。
Disputes between the Boers and the Company made them move further inland. The first people they met were the Khoikhoi, whose pasture they conquered. Worse still for the Khoikhoi, the settlers forced them to hand over their cattle. It so was the very basis of their social system. The Khoikhoi were forced to work for the European settlers. The whites’ intrusion meant catastrophe for the San. Only a few San escaped and fled into the Kalahari desert. Their descendants live to this day under much more primitive conditions than did their forefathers in their rich soil.
会社との間で諍いを起こしてボーア人は、内陸の方に移動しました。ボーア人が最初に遭遇した人たちはコイコイ人で、その人たちの放牧地をボーア人が征服しました。コイコイ人にとって更に悪いことには、入植者達は牛を引き渡すように強要しました。それはコイコイ人の社会システムの基盤そのものでした。コイコイ人はヨーロッパ人入植者に、労働を強制されました。白人の侵入者は、サン人には悲劇的な結末を意味しました。ごく僅かのサン人は逃亡)、カラハリ砂漠に逃げこみました。その人たちの子孫は、今日でも、肥沃な土地に住んでいた祖先たちよりも原始的な状態で暮らしています。
The Xhosa and the Zulu peoples were most numerous in South Africa. Land was owned collectively, but cultivated individually. This might be called a moderate kind of socialism. When these highly developed cultures with their strong military organization clashed with the Boers, they could not be defeated as easily as the Khoikhoi and the San. The Wars of Dispossession started in 1871. The battles were many and fierce during the nine wars. The whites could only consolidate their control over what was formerly African land by crushing these African military kingdoms with superior arms. This process was almost completed in 1881. But the Boers never conquered South Africa completely. Conquest was completed only when the British forces took over the process.
南アフリカでもっとも人口の多かったのは、コサ人とズール人でした。土地は個人ではなく全体で共同所有されていましたが、個人個人が耕やしていました。一種の穏やかな社会主義と呼び得るものかも知れません。強大な軍を持つ高度に発達した文化がボーア人とぶつかった時、コイコイ人やサン人が簡単にやられたように、コサやズールーの人々がやられることはありませんでした。1871年に、略奪戦争が始まりました。9つの略奪戦争では、戦闘も数多く、激しいものでした。白人たちは優れた武器を使って、軍を持つアフリカの王国を破壊することによって、元はアフリカ人所有の土地に対する支配権を確立したのです。この過程は1881年には、ほぼ完成していました。しかし、ボーア人は完璧に南アフリカを征服しわけではありません。イギリス軍がその過程を引き継いで初めて、征服が完了したのです。
Britain feared that French control of the Cape could jeopardize British interests in India and trade with the East, and in 1795 sent a large British force to the Cape and forced the Dutch governor to capitulate. The Boers at once came into conflict with Britain. Britain was looking for raw materials and new markets for industrial goods. Slave trade and slave labour were no longer necessary. But for the Boers slavery was the foundation of their economy, so they resisted all attempts to abolish it. This contradiction resulted in bitter conflicts between them and the British colonialists. In 1833 the British managed to abolish slavery in the Cape. Many Boers, particularly the wealthy ones, left the Cape and moved inland in big ox caravans. This was called the Great Boer Trek. The Boers who stayed in the Cape needed workers for their farms, so they imported workers from Indonesia and Malaysia, Dutch colonies in Asia.
イギリスはインドおよび東洋との貿易で、ケープをフランスが支配することになればイギリスの利益が危険にさらされるかもしれないのではないかと心配しました。そして、1795年にはケープへ大規模なイギリスの軍隊を送り、オランダの植民地相に降伏することを強制しました。ボーア人は、直ちにイギリスと衝突しました。イギリスは、原料および工業製品の新しい市場を探していました。奴隷貿易と奴隷の労働は、もはや必要ありませんでした。しかしボーア人には奴隷制度が経済の基礎でしたから、ボーア人は奴隷制度を廃止する試みすべてに反抗しました。この矛盾は、ボーア人とイギリスの入植者の苦しい対立を生む結果に終わりました。1833年には、イギリス人がどうにかケープの奴隷制度を廃止しました。多くのボーア人、特に豊富なものがケープを去り、大きな雄牛の隊列を組んで内陸に移動しました。これはボーア人の大移動と呼ばれました。ケープにとどまったボーア人は、自分たちの農場のための労働者を必要としましたので、アジアのオランダ植民地インドネシアとマレーシアから労働者を輸入しました。
By 1854 South Africa was divided into four provinces. The British claimed the Cape and Natal, the coastal provinces rich in soil. The Boers had established two inland republics: the Orange Free State and Transvaal, which Britain had to recognize as autonomous.
1854年までに、南アフリカは4つの州に分割されました。イギリス人はケープおよびナタールの土壌の豊かな沿岸地方を要求しました。ボーア人は内陸の2つの共和国オレンジ自由国とトランスヴァールを設立し、イギリスはその2州を自治領として認めざるを得ませんでした。
The number of colonizers of British origin gradually grew. In Natal province sugar cultivation was started on a large scale at the end of the 19th century, and Indians were imported as indentured labour (See Appendix South Africa 1).
イギリスから来た入植者の数は徐々に増えていきました。ナタール州では、19世紀の後半に大規模な砂糖栽培が始められ、インド人が契約労働者として輸入されました。(附録<南アフリカの1>を参照)
The British and British capital became really interested in South Africa only when diamonds were found in 1867 and gold in 1886. This also caused a growing conflict with the Boers, since the rich deposits were found in their republics.
イギリス人とイギリス資本は、1867年にダイヤモンド、1886年に金が見つかったに初めて、南アフリカに本当に興味を持つようになりました。豊富な鉱物がボーア人の共和国で見つかったので、そのことでさらにボーア人との衝突が激しくなりました。
THE GROWTH OF MINING CAPITAL 鉱山資本の成長
The first diamonds were discovered in the area which later was to become the Kimberley diamond fields.
まず初めのダイヤモンドは、その後キンバリー・ダイヤモンドの産地になる地域で発見されました。
The diamonds on the surface were soon depleted. A more costly technique was then required to exploit diamonds under the surface. This furthered capital concentration, i.e. the concentration of ownership in fewer hands. In 1888 all diamond mines were controlled by a company called de Beers Consolidated, which before the turn of the century controlled 90% of world production. The company was in the hands of the British imperialist Cecil Rhodes, who also was Prime Minister in the Cape colony.
地表のダイヤモンドはすぐに堀り尽されました。その後、よりお金のかかる技術が地下のダイヤモンドを開発するために必要とされました。これは更に資本の集中を促しました、つまりより少数の手の中に所有権が集中したわけです。1888年には、ダイヤ鉱山が全てデ・ビアスと呼ばれる会社によって支配され、20世紀になる前には世界生産の90%をその会社が支配していました。その会社は、イギリスの帝国主義者であり、ケープ植民地の首相でもあったセシル・ローズの手中にありました。