10月15日(木)7-8(1:30-3:00)
3回目でした。
<今日は>
①発表:The colonization of South Africaの日本語訳(藤田くん)
②南アフリカの用語解説→The colonization of South Africaの英語での確認
③San FranciscoのListening Comprehension Practice(映像を観てもらって少しだけ。
④次週の発表者決定:SFの聞き取り(押領司さん)、グレートトレック(大山さん)、金とダイヤモンドの発見(藤田くん)、資料①S4の英文の続き:THE GROWTH OF MINING CAPITAL, THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERS, THE UNION OF SOUTH AFRICA AND RESERVES(福田くん)
①藤田くんの発表は丁寧でしっかりしてたね。画像も本文にぴったりやったし。藤田くんが送ってくれたファイルは届いています。どこかで使わせてもらうね。来年から授業を持たない可能性が高いけど。
族(tribe)については、無意識の西洋のバイアス(偏見)に気をつけないと、という話をしました。言葉は形になったものやけど、深層の意識が発現したものやから、軽蔑的な意味合いが含まれていたら聞いた方は感じ取るからねえ。500年というスパンの中で無意識に刷り込まれる場合もあるから、気づいた時点から意識するように出来るとええね。アフリカ人の蔑称Kaffir(世界史などではカフィールで見たこともがある人もいると思う。)日本語訳は末尾に貼っときます。
③次回は本格的にやるね。映像ファイルと音声ファイルは参考ファイルに置いときます。
<次回>は
①San FranciscoのListening Comprehension Practice
②SFのtranscription(押領司さん)
③発表:グレートトレック(大山さん)、金とダイヤモンドの発見(藤田くん)、英文の続き(福田くん)
④(時間があれば)Zoomトーイック3 問題編のPart 1 (Listening)の続き
****
今日初めに対面授業の話をしたけど、「遠い夜明け」を大きなスクリーンで見てもらえそうです。L111の階段教室が空いていたら、の条件でやけど、うまく日程が決まったら連絡するね。劇場で観てるような迫力があるからねえ。
The colonization of South Africaの日本語訳
THE COLONIZATION OF SOUTH AFRICA 南アフリカの植民地化
When Europeans arrived in the southern part of Africa, different peoples had been living there for some centuries. Groups of San people lived in the mountains and on the edges of the deserts in the southeast. They hunted rock rabbits, lizards, locusts and so forth. Near them lived the Khoikhoi who herded cattle and had more permanent camps than the San. They sometimes intermarried.
南部アフリカにヨーロッパ人が到着した時、そこにはすでに何世紀にも渡って様々な民族が住んでいました。サンの人々はいくつも集落を造って南東部の山や砂漠の端に住んでいました。その人たちは岩兎や蜥蜴や蝗などの狩りをして暮らしていました。サン人の近くには、家畜を飼うコイコイ人が住んでいて、狩りをして移動するサン人よりは定住型の生活を営んでいました。時にはサン人とコイコイ人は結婚することもありました。
The Europeans began to settle down in the latter half of the 17th Century on the initiative of the Dutch East India Company. The Dutch traders had out-rivalled the Portuguese and taken over the spice trade with Asia. Because the voyage to Asia was long, the Company built a depot of provisions at the Cape of Good Hope in 1652. A small white settlement was to grow vegetables and supply other services for the Company. The colony was completely dependent on the Company, among other things for the supply of arms. The Dutch colonialists called themselves Boers. It means farmers in Afrikaans, their Dutch dialect.
オランダ東インド会社に率いられて、17世紀の後半にヨーロッパ人は定住を始めました。オランダの貿易商はポルトガル人との競争に勝ち、アジアの香辛料貿易を引き継ぎました。アジアへの航海は長いものでしたので、会社は1652年に喜望峰に食料を補給するための基地を築きました。その小さな白人入植者の居留地は野菜を育て、会社のために色々なものを提供しました。居留地はすべてを会社に依存していましたが、なかでも武器の供与は全て基地任せでした。オランダの植民地主義者たちは自らをボーアと呼びました。それはオランダ語由来の言葉であるアフリカーンス語で、農民という意味です。
Disputes between the Boers and the Company made them move further inland. The first people they met were the Khoikhoi, whose pasture they conquered. Worse still for the Khoikhoi, the settlers forced them to hand over their cattle. It so was the very basis of their social system. The Khoikhoi were forced to work for the European settlers. The whites’ intrusion meant catastrophe for the San. Only a few San escaped and fled into the Kalahari desert. Their descendants live to this day under much more primitive conditions than did their forefathers in their rich soil.
会社との間で諍いを起こしてボーア人は、内陸の方に移動しました。ボーア人が最初に遭遇した人たちはコイコイ人で、その人たちの放牧地をボーア人が征服しました。コイコイ人にとって更に悪いことには、入植者達は牛を引き渡すように強要しました。それはコイコイ人の社会システムの基盤そのものでした。コイコイ人はヨーロッパ人入植者に、労働を強制されました。白人の侵入者は、サン人には悲劇的な結末を意味しました。ごく僅かのサン人は逃亡)、カラハリ砂漠に逃げこみました。その人たちの子孫は、今日でも、肥沃な土地に住んでいた祖先たちよりも原始的な状態で暮らしています。
The Xhosa and the Zulu peoples were most numerous in South Africa. Land was owned collectively, but cultivated individually. This might be called a moderate kind of socialism. When these highly developed cultures with their strong military organization clashed with the Boers, they could not be defeated as easily as the Khoikhoi and the San. The Wars of Dispossession started in 1871. The battles were many and fierce during the nine wars. The whites could only consolidate their control over what was formerly African land by crushing these African military kingdoms with superior arms. This process was almost completed in 1881. But the Boers never conquered South Africa completely. Conquest was completed only when the British forces took over the process.
南アフリカでもっとも人口の多かったのは、コサ人とズール人でした。土地は個人ではなく全体で共同所有されていましたが、個人個人が耕やしていました。一種の穏やかな社会主義と呼び得るものかも知れません。強大な軍を持つ高度に発達した文化がボーア人とぶつかった時、コイコイ人やサン人が簡単にやられたように、コサやズールーの人々がやられることはありませんでした。1871年に、略奪戦争が始まりました。9つの略奪戦争では、戦闘も数多く、激しいものでした。白人たちは優れた武器を使って、軍を持つアフリカの王国を破壊することによって、元はアフリカ人所有の土地に対する支配権を確立したのです。この過程は1881年には、ほぼ完成していました。しかし、ボーア人は完璧に南アフリカを征服しわけではありません。イギリス軍がその過程を引き継いで初めて、征服が完了したのです。
Britain feared that French control of the Cape could jeopardize British interests in India and trade with the East, and in 1795 sent a large British force to the Cape and forced the Dutch governor to capitulate. The Boers at once came into conflict with Britain. Britain was looking for raw materials and new markets for industrial goods. Slave trade and slave labour were no longer necessary. But for the Boers slavery was the foundation of their economy, so they resisted all attempts to abolish it. This contradiction resulted in bitter conflicts between them and the British colonialists. In 1833 the British managed to abolish slavery in the Cape. Many Boers, particularly the wealthy ones, left the Cape and moved inland in big ox caravans. This was called the Great Boer Trek. The Boers who stayed in the Cape needed workers for their farms, so they imported workers from Indonesia and Malaysia, Dutch colonies in Asia.
イギリスはインドおよび東洋との貿易で、ケープをフランスが支配することになればイギリスの利益が危険にさらされるかもしれないのではないかと心配しました。そして、1795年にはケープへ大規模なイギリスの軍隊を送り、オランダの植民地相に降伏することを強制しました。ボーア人は、直ちにイギリスと衝突しました。イギリスは、原料および工業製品の新しい市場を探していました。奴隷貿易と奴隷の労働は、もはや必要ありませんでした。しかしボーア人には奴隷制度が経済の基礎でしたから、ボーア人は奴隷制度を廃止する試みすべてに反抗しました。この矛盾は、ボーア人とイギリスの入植者の苦しい対立を生む結果に終わりました。1833年には、イギリス人がどうにかケープの奴隷制度を廃止しました。多くのボーア人、特に豊富なものがケープを去り、大きな雄牛の隊列を組んで内陸に移動しました。これはボーア人の大移動と呼ばれました。ケープにとどまったボーア人は、自分たちの農場のための労働者を必要としましたので、アジアのオランダ植民地インドネシアとマレーシアから労働者を輸入しました。
By 1854 South Africa was divided into four provinces. The British claimed the Cape and Natal, the coastal provinces rich in soil. The Boers had established two inland republics: the Orange Free State and Transvaal, which Britain had to recognize as autonomous.
1854年までに、南アフリカは4つの州に分割されました。イギリス人はケープおよびナタールの土壌の豊かな沿岸地方を要求しました。ボーア人は内陸の2つの共和国オレンジ自由国とトランスヴァールを設立し、イギリスはその2州を自治領として認めざるを得ませんでした。
The number of colonizers of British origin gradually grew. In Natal province sugar cultivation was started on a large scale at the end of the 19th century, and Indians were imported as indentured labour (See Appendix South Africa 1).
イギリスから来た入植者の数は徐々に増えていきました。ナタール州では、19世紀の後半に大規模な砂糖栽培が始められ、インド人が契約労働者として輸入されました。(附録<南アフリカの1>を参照)
The British and British capital became really interested in South Africa only when diamonds were found in 1867 and gold in 1886. This also caused a growing conflict with the Boers, since the rich deposits were found in their republics.
イギリス人とイギリス資本は、1867年にダイヤモンド、1886年に金が見つかったに初めて、南アフリカに本当に興味を持つようになりました。豊富な鉱物がボーア人の共和国で見つかったので、そのことでさらにボーア人との衝突が激しくなりました。
遅うなったけど、今日も何とか今日中に書けました。
クラス名簿(Zoomではある方がよさそうやから、学生支援課でもらったファイルからコピーしたよ。)
2020年後期 英語 Rb 2 (3)クラス名簿(30名)(2020年10月8日現在)
30190450 | 佐々木 智哉 | ササキ トモヤ |
30200010 | 足達 正修 | アダチ セイシユウ |
30200025 | 荒木 晴生 | アラキ ハルオ |
30200049 | 池ノ上 将基 | イケノウエ シヨウキ |
30200063 | 岩切 佑理可 | イワキリ ユリカ |
30200074 | 岩根 穂乃花 | イワネ ホノカ |
30200092 | 梅山 愛梨 | ウメヤマ アイリ |
30200100 | 押領司 尚美 | オウリヨウジ ナオミ |
30200124 | 大山 瑞輝 | オオヤマ ミズキ |
30200155 | 小畑 翔 | オバタ カケル |
30200162 | 甲斐 廉人 | カイ レント |
30200186 | 加藤 大地 | カトウ ダイチ |
30200232 | 北村 詩歩 | キタムラ シホ |
30200243 | 木原 啓太 | キハラ ケイタ |
30200281 | 古藤 凜 | コトウ リン |
30200346 | 佐土原 雛子 | サドハラ ヒナコ |
30200353 | 志貴 裕紀 | シキ ユウキ |
30200409 | 杉村 拓志 | スギムラ タクジ |
30200461 | 堂下 つばさ | ドウシタ ツバサ |
30200506 | 時松 桃花 | トキマツ モモカ |
30200533 | 戸高 みなみ | トダカ ミナミ |
30200544 | 長倉 由依 | ナガクラ ユイ |
30200568 | 長野 翔 | ナガノ シヨウ |
30200630 | 平田 あや | ヒラタ アヤ |
30200689 | 福田 真司 | フクダ シンジ |
30200713 | 藤田 涼 | フジタ リヨウ |
30200834 | 宮脇 駿介 | ミヤワキ シユンスケ |
30200845 | 森山 友渚 | モリヤマ ユウナ |
30200852 | 安田 龍司 | ヤスダ リユウジ |
30200883 | 由地 紀一郎 | ユウヂ キイチロウ |