2010年~の執筆物

アフリカ小史一覧(2013年11月~12月に「モンド通信 」に連載)

 

<1>→「アフリカ小史前半」

<2>→「アフリカ小史一覧」

 

<1>の前半では、ヨーロッパ人が来る前、アフリカ大陸には黄金を貨幣に広大な交易網が張り巡らされ、自給自足の生活を送っていて、地域によってはヨーロッパをしのぐ文化を持って栄えていたことを書きました。そして、ヨーロッパは自己の侵略を正当化するために都合のいい歴史を書いてきました、その欺瞞性を指摘しました。

「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)

<2>の後半は、1505年のキルワの虐殺、奴隷貿易、植民地分割、植民地支配のあと、第二次大戦での白人同士の殺し合いを経て、先進国がいかに巧妙に多国籍企業による経済支配体制を再構築したかを分析しました。

「アフリカシリーズ」の案内役バズル・デヴィドソン

『アフリカとその末裔たち1』(Africa and its Descendants 1、1刷)の表紙

2010年~の執筆物

概要

「加害者側にいながらその意識のかけらも持ち合わせていない現状を」語るために書いた英文のアフリカ小史の後半の紹介です。

前回はヨーロッパ人がアフリカ大陸に来る前のアフリカと奴隷貿易を中心に書いた内容の概略と日本語訳をつけた英文を紹介しましたが、今回はその続きアフリカ小史の後半で、奴隷貿易での富の集積→産業革命→工業化→植民地争奪戦→植民地分割→本格的な植民地化→二つの世界大戦→新植民地化の流れを追いました。

本文

アフリカ小史後半

およそ三世紀半に及ぶ奴隷貿易によって社会は大きく変りました。かつてない規模で西アフリカから少なくとも900万人、多ければ5000万人の人が新大陸に運び込まれたわけですから当然ですが、最大の変化は奴隷貿易によって資本がヨーロッパに集積され世界的な富の偏りが出来てしまったことです。つまり、ヨーロッパが豊かになり、アフリカを含む「第三世界」が貧しくなったということです。今の「先進国」と「開発途上国」との格差の原型です。そして今もなお、その経済格差はなくなってはいません。つまり、搾取構造が形を変えて今も温存されているということです。

ヨーロッパ社会は、奴隷貿易で蓄積された富を使って産業革命を起こし、効率よく手っ取り早くのし上がるために、生産の手段を手から機械に変え工業製品の大量生産を始めました。また、侵略を容易くするために武器の開発にも力を注ぎました。世界は農業中心から産業中心へと変貌してゆきます。

産業化によってさらに生産を拡大するための安価な原材料と労働力が必要となり、供給源として一番近いアフリカ大陸がまたも餌食となりました。植民地争奪戦です。争奪戦は熾烈で世界大戦の危機も出て来ましたので、戦争を回避するために1885年前後にベルリンで会議が開かれて、植民地の取り分が決められました。植民地分割で、イギリスの取り分が一番多く、他をフランス、ドイツなどで分けました。強制労働なども含めあからさまな植民地化が行われた地域もあり、ベルギーのレオポルド2世の「コンゴ自由国」での蛮行は有名です。

世界大戦と新しい支配体制

しかし、ヨーロッパ社会は大戦を回避出来ずに二度も殺し合いをして総体的な力を低下させ、虐げられて来た側には権利を取り戻す機会が巡ってきました。アジア、アフリカ諸国などでは独立運動が、アメリカ国内では公民権運動が繰り広げられました。

50年代、60年代はアジアやアフリカにとっては希望の年月でしたが、結局は大戦の傷を癒した旧宗主国と、大戦では無傷のうえヨーロッパ諸国に金を貸したアメリカと、そのアメリカと戦って無条件降伏しながらも経済復興を果たして高度経済成長の時代に突入した日本が力を合わせて、新しい形の支配体制を再構築する結果に落着きました。開発と援助の名の下の、多国籍企業による経済、軍事支配です。

搾取して甘い汁を吸い続けてきた側が、そう容易く既得権益を手放すわけがありません。あらゆる手段を使って権益を守りました。

ヨーロッパやアメリカで教育を受けた知識人が先頭に立ってアフリカで独立運動を始めた時、ヨーロッパ諸国は押さえつけようとしましたが、自国の復興に手一杯で押さえ込むことが出来ませんでした。そこで独立の過程を出来る限り妨害して独立後の混乱を引き起こし、クーデターによる軍事介入を強行するという作戦に切り換えました。

どの国も似たり寄ったりの経過を辿りますが、1957年に独立したガーナ(イギリス領ゴールドコースト)と60年に独立したコンゴ(ベルキー領コンゴ)は、典型的な経緯を辿りました。

「模範的な」植民地だったゴールドコーストでエンクルマに率いられた独立運動の機運が高まった当初、イギリスは押さえ込みにかかってエンクルマを投獄しますが、自国の復興で手一杯だったために押さえ込めず、仕方なく戦略を変えてエンクルマを釈放しました。その後1957年にエンクルマはブラックアフリカでは最初の首相に選ばれ、就任式では大陸の統一を夢見て涙を流しました。しかし、復興を果たしたイギリスはエンクルマがベトナム戦争の終結に向けて中国で毛沢東と会談をしている間に軍事クーデターを画策、エンクルマは帰国を果たすことなく1972年にルーマニアで亡くなりました。

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

ベルギー領コンの場合は、もっと悲惨な結果となりました。ベルギーは首相に選ばれたルムンバが国を引き継ぐのに半年の猶予期間しか与えず80000人の官吏を総引き上げして独立の過程をあからさまに妨害しました。当然のことながら、独立後の国内は大混乱、そこにアメリカがモブツを引っ張り出して軍事クーデターを画策、命の危険を感じたルムンバは国連に援軍を頼みますが、

国連軍はルムンバが死ぬのを見守っただけでした。アメリカ大統領がCIAにルムンバの暗殺命令を出したと言われています。

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パトリス・ルムンバ(小島けい画)

他のアフリカ諸国も同じように旧宗主国やアメリカ、日本に大幅な経済介入を許して、開発と援助の名目の、多国籍企業による搾取体制に組み込まれていきました。もちろん経済格差がなくなることはなく、むしろ広がってゆくばかりです。奴隷貿易、植民地時代に引き続いて、アフリカは貧困や病気、飢饉や民族紛争などに悩まされ続けています。

そういった大きな流れを書きました。

アフリカ小史の後半では、アフリカ争奪戦→アフリカ分割→植民地化→世界大戦→独立→新植民地化の流れに絞って英文で書きました。日本語訳もつけた全文です。

『アフリカとその末裔たち』

Chapter One: The Colonization of Africa 1章 アフリカの植民地化

MONOPOLY CAPITALISM AND IMPERIALISM 独占資本主義と帝国主義

The European capitalists used the profits from the slave trade and from slave labour in the mines and plantations in America to develop their own industries. Gradually the industrial capitalists grew more powerful than those capitalists who invested in trade.

ヨーロッパの資本家連中は、奴隷貿易とアメリカの大農園や鉱山での奴隷労働からの利潤を自らの産業開発のために利用しました。産業資本家がやがては奴隷貿易に投資する資本家よりも力を持つようになりました。

While the slave traders and the plantation owners wanted to keep slavery, the industrial capitalists’ main interest was to buy workers on a 'free labour market.’ They could abolish slavery. The capitalism of free competition was turning into monopoly capitalism.

奴隷船(「ルーツ」より)

奴隷商と荘園主は奴隷制度を維持しようとしましたが、産業資本家の関心は、「自由労働市場」で労働者を買うことにしかありませんでした。産業資本家は奴隷制度を廃止することが出来、自由競争の資本主義は独占資本主義へと変容して行きました。

A tremendous development of the productive forces was made with the result that the industries produced more goods than could be consumed, they produced more goods than people could afford to buy. Consequently, the industrialists had to look for new markets.

Capital export, i.e. investment abroad, become particularly important to monopoly capital. The capitalists were also looking for raw materials for industrial production, and new markets for their products.

生産力がとてつもなく増えて、産業が消費能力、購買能力を超えた商品を生産する事態に陥りました。結果的には、産業資本家が新しい市場を探さざるを得なくなったのです。

独占資本にとって、資本の輸出、海外投資が特に重要になりました。資本家は工業生産のための安い原材料と、製品のための新しい市場を探していました。

THE COLONIAL DIVISION OF AFRICA アフリカの植民地分割

The European states set out to conquer the rest of the world as colonies. These colonies became the protected hunting ground for each mother country’s own capitalist class. At the beginning of the 20th century, except for only Ethiopia and Liberia, the whole of Africa was divided between the imperialist powers.

ヨーロッパ諸国は、残りの世界を植民地として征服する作業に取り掛かり始めました。植民地はそれぞれの宗主国の資本家階級が狩りをするための保護区となりました。20世紀初頭には、エチオピアとリベリアを除き、帝国主義列強の間でアフリカ全体が分割されました。

植民地分割地図(「アフリカシリーズ」より)

The ruling classes in Europe hoped that the acquisition of colonies would calm the social unrest in their own countries. The competition for colonies became so fierce that war was threatened between the imperialist powers. But a common interest in exploiting the colonized peoples and the fear of a rising working class in their own countries won over the contradictions of the imperialists. To solve the problem of competition they sat down to negotiate. A war was postponed until 1914, and then it led to a redistribution of the colonies.

At the so-called Berlin Conference in 1884-85 Africa was formally divided between the colonial powers: England, France, Germany, Belgium, Italy, Portugal, and Spain.

ヨーロッパの支配者階級は、植民地を獲得することで自国の社会不安が鎮められればと考えていました。植民地争奪戦はとても激しかったので、帝国主義列強の間で戦争が起こりそうになりました。しかし、植民地の人々を搾取するという共通の関心と、台頭する自国の労働者階級への恐れがあったために、帝国主義者が抱えていた矛盾を押さえ込む形となりました。争奪戦問題を解決するために、帝国主義者達は交渉のテーブルに着きました。戦争は1914年まで延期され、結果的に植民地を再配分することになりました。所謂1884年、1885年のベルリン会議で、アフリカは正式に植民地列強(英国、仏蘭西、独逸、ベルギー、伊太利亜、ポルトガル、スペイン)の間で分配されました。

COLONIALISM コロニアリズム(植民地主義)

After the Berlin Conference the process of actual occupation and military domination had to be carried out. In a few cases there was only weak African resistance to colonial occupation, mainly because in some areas it was the custom for Africans to welcome all strangers. It was only later that they understood that the colonialists had anything but peaceful purposes. In most cases colonization met fierce resistance and led to terrible persecutions, and sometimes to outright genocide.

コンゴ自由国(「アフリカシリーズ」より)

ベルリン会議の後、西洋列強は実際に植民地を占領し、軍事的に支配を推し進めなければなりませんでした。植民地占領に対してアフリカ人のかすかな抵抗はありましたがそれもほんの僅かでした、理由は主に、アフリカ人には知らない人でも喜んで受け入れるのが慣わしだったからです。植民地支配に携わる人たちに平和的意図などかけらもなかったと知ったのは、後になってからに過ぎませんでした。たいていの場合は、植民化は激しい抵抗に遭い、その結果、恐ろしい迫害に及んだり、徹底的な大量虐殺につながる場合もありました。

In order to obtain labour for plantations and mines set up and owned by the colonizers and obtain cash for the colonial administration, the colonial powers introduced forced labour, compulsory cultivation of export crops and various forms of taxation. In order to be able to pay taxes, and also gradually to be able to buy the European manufactured goods which began to flood Africa, the adult men from the villages worked for the colonialists part of the year. The migrant workers who were forced into a capitalist monetary economy on short-term contracts were not given the chance to learn new skills. They were used as unskilled manual labour on the plantations and the mines, and when their contract ended they could be replaced by others. The wages they received were not enough to support the whole family which had to remain in the village to earn their own living.

植民地の人達が設立し、所有する農場や鉱山での労働力を手に入れ、植民地行政のための資金を得るために、植民地列強は強制労働や、輸出用作物の強制栽培や、様々な形式の課税を導入しました。税が払えるように、またやがてはアフリカに溢れはじめたヨーロッパの工業製品が買えるように、村から出稼ぎにきた男たちは、一年の大半を植民地主義者のもとで働きました。短期契約の形で資本主義貨幣経済の中に組み入れられた出稼ぎ労働者は、新しい技能を学ぶ機会も与えませんでした。農場や鉱山で非熟練の単純労働者として使われ、契約が終われば、いつでも別の労働者に交代させられました。受け取る給料はわずかで、生計をたてるために村に残っている家族全員を養うことはできませんでした。

南アフリカヨハネスブルグ金鉱山(「ディンバザ」より)

In many colonies the inhabitants were forced to grow crops for export instead of, as before, for their own living. In other areas, land was taken over for plantations and run by European settlers who hired the now landless peasants as their agricultural workers, often only for a short season. Agricultural production concentrated on growing one single crop is called monoculture. When the prices paid by these capitalist countries for agricultural products fell, so did the income that African countries could get for their export.

多くの植民地では、住民は、以前のように自らの生活のためではなく、輸出用作物の栽培を強いられました。他の地域では、土地が取り上げられて農場となり、たいていは短期契約の農業労働者として無産者を雇うヨーロッパ入植者によってその農場は経営されました。一種類の作物だけを育てる農業生産は単一耕作と呼ばれます。資本主義国が農産品に払う価格が下落すれば、アフリカの国々が輸出から得る収益も減少しました。

<Reference 2> <引用 2>

Kwame Nkrumah, the first prime minister of Ghana, wrote in his autobiography about the British colonial administration of this time:

ガーナの初代首相クワメ・エンクルマは自伝の中で、この時のイギリスの植民地政庁の行なった行政について次のように書きました。

独立式典で演説するクワメ・エンクルマ

“In all the years that the British colonial office administrated this country, hardly any serious rural water development was carried out. What this meant is not easy to convey to readers who take for granted that they have only to turn on a tap to get an immediate supply of good drinking water. This, if it had occurred to our rural communities, would have been their idea of heaven. They would have been grateful for a single village well or standpipe.

イギリスの植民政庁がこの国を統治していた間じゅう、地方の水の開発は殆んど行なわれませんでした。これが何を意味するかを、蛇口をひねるだけですぐに良質の飲料水が得られるのが当たり前だと思っている読者に伝えるのは難しい。もし田舎の村でそういったことが起こっていたとしたら、みんなは天国だと思ったでしょう。村に一つでも井戸か配水塔かが作られていたとしたら、みんなはどれほど有り難いと思ったでしょう。

As it was, after a hard day’s work in the hot and humid fields, men and women would return to their village and then have to tramp for as long as two hours with a pail or pot in which, at the end of their outward journey, they would be lucky to collect some brackish germ-filled water from what may perhaps have been little more than a swamp. Then there was the long journey back. Four hours a day for an inadequate supply of water for washing and drinking, water for the most part disease-ridden!

いつものように、暑くて蒸し暑い田んぼでのきつい仕事を終えて、男も女も村に戻り、それから手桶やかめを持って2時間もとぼとぼと歩かねばならず、その行き着いた先では、沼と言えるかどうかも分からないような所から、塩気のある細菌だらけの水でも手に入れば幸運だったのです。それからまた、長い道のりを戻らなければなりませんでした。洗濯や飲むための水を手に入れるのに1日に4時間、それも大抵は病気の元になる水を。

This picture was true for almost the whole country and can be explained by the fact that water development is costly and no more than a public service for the people being administered. It gave no immediate prospect of economic return. Yet a fraction of the profits taken out of the country by the business and mining interests would have covered the cost of a first-class water system." (Africa Must Unite)

こうした状況は、国じゅうで殆んど同じで、それは、水の開発には費用がかかり、その開発が統治する人々のための公共事業に過ぎず、経済的な見返りをすぐに期待出来る見通しが立たなかったからに過ぎません。しかし、事業や採掘投資で得られた利益をほんの僅かでも使えば、一等級の給水施設の費用は充分にまかなえたでしょう。(『アフリカは統一する』)

『アフリカは統一する』

INDEPENDENCE AND NEO-COLONIALISM 独立と新植民地主義

World War Two ended with building directed towards building a new reformed colonialism, or neo-colonialism. (See Appendix Africa 2) After the war, the world capitalist economy entered a new phase marked by the dominance of the USA and the rise of huge transnational corporations. Capital investment in African mining, agriculture, and industries increased, which led to the rapid growth of the African working class.

第二次世界大戦が終わり、新たに形を変えた植民地主義、つまり新植民地主義の構築に向けて事態は動き出しました。(付録アフリカ2を参照)戦争後、世界資本主義経済は、アメリカの優勢と巨大な多国籍企業の出現という特徴を持つ新しい局面を迎えました。アフリカの鉱業と農業と工業への資本投資が増加し、アフリカ人の労働者階級が急速に成長を遂げることになりました。

Landlessness and poverty led to the growth of large urban slums. Resistance began to take new forms as peasants and workers became organized. The middle-class nationalist movements changed their tactics to calls for national independence. In 1957 Ghana became independent as did many nations around 1960.

アフリカ人が土地を奪われ、貧困を余儀なくされたために、都市には巨大スラムが出来ました。小作人と労働者が組織化されるにつれて、新しい形態の抵抗が始まりました。中流階級の民族主義者たちの運動で、それまでの作戦が国の独立を求める運動に変わりました。1957年にガーナが独立し、1960年頃には多くの国が独立を果たしました。

The post-war world created a new world order in which imperialism no longer had a part to play. The power of American capital and the new transnational corporations called for the abandoning of the restrictions on trade and investment. It was the age of the United Nations. The European colonial powers began to question the increasing cost of maintaining their empires.

戦後の世界は帝国主義がもはや役割を演じることのないような新しい世界秩序を作り出しました。アメリカの資本力と新しい多国籍企業)は、貿易と投資への制限を撤廃るように求めました。国際連合の時代です。ヨーロッパの植民地列強)は、自分達の植民地帝国の維持費を増やすことに疑問を感じ始めました。

In the peasant-based colonies, and in other colonies where the settlers were weak, there took place a relatively easy transfer of power into the hands of the African elite. However, in other colonies where the settlers were able to hold onto political power (Algeria, Mozambique, Zimbabwe, and so on), independence was only won after long and bitter armed struggles. In most cases, the new independent governments inherited economic dependence. The dependence could be used by the imperialist forces to further their aims. It rests on a continued colonial division of labour and foreign control of key sectors of the economy. Colonialism destroyed the old society. Yet colonial regimes and their African allies did not push through the full capitalist transformation they had begun. Instead, they continued to get profits from the traditional economy and patch it up where it threatened to break down. Sooner or later, the system had to collapse.

小作人を基盤とする植民地と、入植者の勢力が弱かった他の地域では、比較的容易に、アフリカ人エリートへの権力移行が行なわれました。しかしながら、入植者が政治的実権を持ち続けていた他の植民地(アルジェリア、モザンビーク、ジンバブエなど)では、長く辛い武力闘争を経てはじめて独立を勝ち取ることが出来たのです。多くの場合、新しい独立政府は経済依存体制を引きずりました。その依存体制は、帝国主義者達が自分達の目的を更に拡大するのに利用されました。その体制は、引き続き行なわれた植民地列強による労働力の分配と、外国経済の重要な分野の支配を基盤にしています。植民地支配は古い社会を壊滅させました。
しかも、植民地政府とアフリカ人の盟友は、自分達が始めた完全な資本家主義への移行措置を強行しませんでした。代わりに、旧来の経済体制から利益を得、破壊の危機に瀕していた所を補修し続けました。遅かれ早かれ、その仕組みは崩壊する運命にあにありました。

Now Africa has so many problems, such as poverty, hunger, drought, racial conflicts, diseases and so forth. The 1994 massacre in Rwanda left us with a sense of desperation. In that racial conflict more than 500,000 people were slaughtered and more than 2 million were forced to flood into their neighbouring countries. The 1995 Ebola outbreak in Zaire spread fear around the globe. Furthermore, the AIDS situation is now devastating. The disease accounts for 300,000 deaths per year in sub-Saharan Africa, a rate that is expected to reach 900,000 in five years, according to the World Health Organization. Health officials reckon that AIDS began travelling 20 years ago down the transport routes from Central African countries.

1995年のエボラ出血熱騒動当時の南アフリカの週間紙「ラント・デイリー・メール」

The next target is South Africa where the peaceful transformation of power was made through the 1994 multi-racial election.

The colonial heritage is far too heavy for African countries to bear in all ways.

現在アフリカは、貧困、飢餓、干魃、人民族紛争、数々の病気など、非常に多くの問題を抱えています。1994年のルワンダの大虐殺は、私たちに絶望感を残しました。その民族紛争で、50万人以上の人たちが虐殺され、2百万人以上の人々が近隣諸国へ流れこみました。1995年のザイ―ルでのエボラ出血熱の発生は、世界中に恐怖を広げました。さらに、エイズの状況は現在、絶望的です。この病気はサハラ以南のアフリカでは、年間30万人の死者を出し、世界保健機構(WHO)によると、その割合は5年で90万人に到達するだろうと予測されています。エイズは、中央アフリカの国々からの輸送経路を20年前に下りはじめた、と世界保健機構の職員は考えています。

次の標的は、1994年に多人種による選挙が行なわれて平和理に権力移行を成し遂げた南アフリカです。

植民地時代の負の遺産は、アフリカの国々が全てを耐えるにはあまりにも重過ぎます。

次回は「南アフリカ小史前半」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2013年12月10日

収録・公開

  →「アフリカ小史後半」(No. 64  2013年12月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「アフリカ小史後半」

2010年~の執筆物

概要

教養科目の英語の授業で使うための英文書『アフリカとその末裔たち』(Africa and its Descendants)の1章で、アフリカの歴史「アフリカの植民地化」("The colonization of Africa")を書きました。その前半で、ヨーロッパ人がアフリカ大陸に来る前のアフリカと奴隷貿易が中心です。

本文

アフリカ小史前半

ヨーロッパ人が来る前、アフリカ大陸ではたくさんの人が住んでいました。西アフリカのように大きな王国のある地域もあれば、小さな村単位で暮らしている地域もありましたが、自給自足の平和な生活を営んでいました。大陸には黄金を通貨にした大がかりな交易網が張り巡らされていて、遠くはインドや中国とも交易していました。

14世紀末にマルコ・ポーロが中国から持ち帰った火薬を元に銃を作り始めたヨーロッパは銃と聖書を携えて世界侵略を始めます。東アフリカで交易の中心だったキルワを1505年に滅ぼしたのはポルトガル人です。

その後、西アフリカで大規模な奴隷貿易を開始して侵略行為は激しくなって行きました。それまであった対等な関係は崩れ去り、富の偏りが出来ました。奪った側は生産の手段を手から機械に変えて、今の資本主義の方向に舵を切りました。殺すための武器も開発して、やがては原子力爆弾まで作りだしてしまいます。

アフリカ小史1の前半では、ヨーロッパ人が来るまでのアフリカ、ヨーロッパ人の侵略開始、奴隷貿易に絞って英文で書きました。日本語訳もつけた全文です。

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『アフリカとその末裔たち』(Africa and its Descendants、2刷)

Chapter One: The Colonization of Africa 1章 アフリカの植民地化

PRECOLONIAL AFRICA 植民地化以前のアフリカ

Africa has been of great importance to the development of mankind. It has been found that the earliest beings able to make tools once lived in the Rift Valley in East Africa.
アフリカはこれまで人類の発展のためにとても重要でした。ごく初期の頃に道具を作るが出来た人たちが、かつて東アフリカのリフトバレー(大地溝帯)に住んでいました。

A big leap forward was taken when man learnt to sue iron for tools. Another big step was taken when cultivation started on a large scale. Large scale cultivation in Africa began in about 2000-3000 B.C. in both West Africa and Ethiopia.
人々が道具を作るために鉄を精錬するようになって、ひとつの大きな文明の飛躍がありました。大きな規模で耕作が始まって、更に飛躍を遂げました。約紀元前2000年から3000年頃、西アフリカとエチオピアの双方で、アフリカでは大規模な形での耕作が始まりました。

Between the years A.D. 700 and 1400 Europe developed rapidly. But for all this time European society was in many ways inferior to that of its African neighbours. Cairo was the foremost trade centre in the world and gold was used as the means of payment. Some of this gold was brought from West Africa, and some from Central Africa. The gold of Africa kept world trading going. World trade was stimulated by the spread of Islam. The gold from Zimbabwe was transported from the interior by Muslim middlemen to the African East Coast.
700年から1400年の間に、ヨーロッパは急速に発展しました。
しかその期間の間も絶えず、ヨーロッパ社会は様々な点で、近隣のアフリカ諸国よりも劣っていました。カイロは世界の最大の貿易拠点で、金が支払いの手段として使われました。このとき使われた金は、西アフリカや中央アフリカからきたものもありあました。アフリカからの金が世界の交易を発展させ続けました。世界貿易はイスラムの広がりによって刺激を受けました。ジンバブエからの金はイスラム教徒の仲買人によって内陸からアフリカの東海岸へ運ばれました。

ジンバブエの遺跡(長男、1992年9月)

In West Africa, too, long-distance trade gave birth to new and powerful societies. The West African kingdoms were ruled by kings who appointed local noblemen to collect taxes from the peasants.

西アフリカでは、また、長距離貿易が、新しくて強力な社会を生み出しました。西アフリカの王国は王によって統治され、王に指名された地方の貴族が農民から税を集めました。

Not only in West Africa, but also in Central Africa a centralized organization of society emerged on the basis of surplus production, trade and a growing population.
西アフリカだけでなく、中央アフリカでも、余剰生産と交易と人口増加を基礎にして、中央集権社会が現れました。

この頃の西アフリカの王国を訪れたイブン・バツゥータ(「アフリカシリーズ」より)

Parallel to the development of large kingdoms in Africa many groups of people learnt to control nature without kings and kingdoms. Their political systems may be called “village rule.”

アフリカでは、大きな王国の発展と併行して、多くの人々の集団は王や王国なしに自然を制御するようになりました。その人たちの政治制度は “村落共同体支配” と呼べるかも知れません。

In Africa, as elsewhere, migrations of cattle-raising people took place when they had to find new pastures, and new places to live for a growing population.
アフリカでは、他の所と同じように、人口が増えて新たな牧草地を探し、生活するための新たな土地を見つけなければならなくなった時、遊牧民の移住が始まりました。

THE FIRST COLONIALISTS 最初の植民地支配を目論んだ人達

Portuguese adventures were the first Europeans to 'discover’ Africa south of the Sahara. The first voyages along Africa’s west coast were little more than an extension of the piracy. The Portuguese took away people from the coasts they plundered and brought them home as slaves. As yet slave trade and economic exploitation were on a small scale.
ポルトガルの探検家がアフリカサハラ以南のアフリカを最初に「発見した」ヨーロッパ人でした。アフリカの西海岸に沿った最初の航海は、海賊行為の延長に過ぎませんでした。ポルトガル人は略奪行為を行なった海岸地域から人々を連れ去り、奴隷として母国に連れて帰りました。しかしそれでも、奴隷貿易と経済的な搾取の規模は小さなものでした。

They started to buy gold directly at the coast. In time they also wanted to find a sea route to India. Their aim was to take away from the city-state of Venice their control over the profitable spice trade with the East Indies.
ポルトガル人たちは海岸線で、直接金を買い始めました。やがてはインドへの海上ルートも発見したいと望んでいました。その人たちの目的はベニスの都市国家から、儲けの多い東インドとの香辛料貿易の支配権を奪うことでした。

Portugal wanted to start trade by exchanging goods with East Africa. But the project failed as the goods that Portuguese had to offer were inferior to those of the East African tradesmen. The Portuguese seafarers and merchants then decided to achieve for themselves the East African trade monopoly by force. With their superior arms the Portuguese managed to destroy the East African civilization.
ポルトガルは東アフリカと商品を交換することによって貿易を始めたいと思っていました。しかし、ポルトガルが持っていった商品が東アフリカの貿易商人の扱う商品よりも劣っていたために、その目論見は失敗しました。その時、ポルトガルの船乗りと商人は、武力を使って自力で東アフリカの貿易を独占しようと決めました。ポルトガル人は、優れた武器を使って辛うじて東アフリカの文明を破壊することに成功しました。

東洋貿易の中心として栄えていたキルワの復元図(「アフリカシリーズ」より)

In Western history Vasco da Gama, d’Almeida, and Tristan da Cunha have been estimated as “great discoverers,” but they were nothing but destroyers for Africans. A Germany who was present when d’Almeida destroyed Kilwa gives us the following eyewitness report:

“In Kilwa there are many strong houses storeys high. They are built of stone and mortar and plastered with various designs. As soon as the town had been taken without opposition, the Vicar-General and some of the Franciscan fathers came ashore carrying two crosses in procession and singing Te Deum. They went to the place, and there the cross was put down and the Grand-Captain prayed. Then everyone started to plunder the town of all its merchandise and provisions. ”
西洋の歴史では、ヴァスコダ・ガマやダルメイダやトゥリスタオ・ダ・クンハはこれまでずっと「偉大な発見者」として評価されて来ましたが、アフリカ人にとってその人たちは破壊者以外の何ものでもありませんでした。ダルメイダがキルワを破壊した時に立ち会ったあるドイツ人は、次のような目撃証言をしています。

キルワでは2階や3階の高いしっかりとした家がたくさんあります。家は、石とモルタルと漆喰で出来ていて、様々な模様をしています。町が抵抗もなく占領されるとすぐに、司教総代理と何人かのフランシスコ会の神父が上陸をして、一列になって十字架を運び、賛美歌を歌いました。それからその場所に行き、十字架が降ろされ、総督が祈りをささげました。それから、その町の全ての商品と食料品を略奪し始めました。

Two days later the city was set on fire.
2日後、街に火をつけました。

The main interest of these first colonialists was in spices, cloth, gold, and ivory. They dominated the sea but on land only some narrow strips of the coast. Other countries soon began to compete with the Portuguese for the trade with the East; first the Dutch, then the English and the French gained control over this rich trade.
こうした植民地支配を目論んだ人達の主な関心は、香辛料と布と金と象牙でした。その人達は海を支配しましたが、陸では海岸線の岸の狭い僅かな地域を支配しただけでした。やがて他の国々も東洋との貿易を求めてポルトガルと競争をし始めました。最初にオランダ、次にイギリスとフランスがこの豊かな貿易の支配権を手にすることになりました。

THE SLAVE TRADE 奴隷貿易

The European conquest of South America suddenly changed the character and importance of the slave trade. With brutal force the prospering cultures of Peru, Bolivia and Mexico were stamped out by the Spanish conquerors and their silver and gold were stolen. Many Spaniards who set out for this Eldorado found no metals but settled as farmers.
ヨーロッパ人が南アメリカを支配したことで、奴隷貿易の特徴と重要性が一変しました。ペルー、ボリビア、メキシコの繁栄した文化はスペインの侵略者に力ずくで踏みにじらされ、金や銀が盗まれました。理想郷を求めて出発したスペイン人たちは金銀を見つけられませんでしたが、そのまま住み着いて農民になりました。

In 1518 a Spanish ship brought the first cargo of Africans directly from Africa to America. This was the start of a trade in slaves which was to continue for three and a half centuries and to bring millions of Africans to America.
1518年、スペイン船が初めてアフリカ人の積み荷を直接アフリカからアメリカに連れて行きました。これがその後3世紀半にも渡って続き、何百万人ものアフリカ人をアメリカに連れ出すことになる奴隷貿易の始まりでした。

The merchants’ profits and the products from America were exchanged in Europe for guns and cloth which were brought to Africa and exchanged for slaves. These humans were sold in America where they produced the goods to be brought to Europe. This was the so-called “triangle trade.” The riches of the capitalists grew while Africa suffered.
奴隷商人の利益と、アメリカからもたらされた産物は、ヨーロッパでアフリカへ連れて行かれて奴隷と交換される鉄砲や布に交換されました。これらの人間はアメリカで売却され、そこでヨーロッパに運ばれる商品を作り出しました。これが所謂「三角貿易」でした。資本主義者たちの富が増えて、アフリカが被害を受けました。

European, above all English and American capitalists had gained enormous profits from the trade in slaves and the work performed by the slaves. Slavery was an essential part of the international capitalist market. By this trade the first large-scale collection of wealth was accumulated to speed up the development towards capitalism. The “triangular trade” was one of the foundations of the Industrial Revolution in Europe.
ヨーロッパ、とりわけ、イギリスとアメリカの資本家たちが奴隷貿易と奴隷が行なう労働から莫大な利益を手に入れました。奴隷制は国際資本市場で重要な役割を担っていました。この貿易によって、大規模な初期の富の集積が行なわれ、資本主義への発展の速度を加速させました。「三角貿易」はヨーロッパの産業革命の基礎の一つでした。

奴隷を運んだ帆船(「ルーツ」より)

For Africa the consequences of the slave trade were ruinous, not only in the terms of the boundless suffering of the millions who were taken as slaves, and their descendants, but also for those left behind.
アフリカにとって、奴隷貿易によってもたらされたものは、奴隷として連れ出された何百万もの人々とその子孫の際限ない苦しみという意味だけではなく、後に残された人たちにとっても、壊滅的でした。

<Reference 1> An excerpt from Roots <参考文献 1>「ルーツ」からの抜粋

We can find an example of the slave trade from the following scene of the American film Roots which hints to us what the slave trade was like.
アメリカ映画「ルーツ」の次の場面を見てみましょう。奴隷貿易がどんなものであったか、その一端を窺い知るが出来ます。

画像

(30周年DVD版「ルーツ」のカバー)

In this scene Captain Davies (D) of the slave ship talks with a slave trader John Carrington (C) in his cabin after his ship landed the North America:
この場面では、奴隷船が北アメリカに着いた後、
デイヴィス(D)船長が船室で貿易商人のジョン・キャリントン(C)と次のような会話を交わしています。

C: Did you have a good voyage, Captain?
D: My first officer is dead, ten seamen and the ship’s boy, . . . more than one third of my crew.
C: Oh well, God rest their souls. But the life blood of commerce is goods, sir, goods. How fares your cargo through the passage, Captain?
D: Three thousand elephant teeth have survived the voyage.
C: You’re a pretty wit, sir, a pretty wit . . . elephant teeth indeed . . . .
D: One hundred forty Negroes were loaded aboard the Lord Ligonier at the mouth of the Gambia River.
C: Oh. A loose pack. Well . . . .
D: Of those, ninety-eight were alive when we made port.
C: Ninety eight. Oh, less than a third dead. I have known slavers to make port with less half surviving and still show a handsome profit. My fericitations, Captain.
D: How soon can I unload?
C: Directly we warp your vessel to the wharf.
D: I want you to secure for me flowers of sulphur to burn in the hold. I wish to see my ship clean again.
C: Oh, naturally, sir. After all you’ll be carrying tobacco to London.
D: And in London . . . .
C: Trade goods for the Guinea Coast, and then on to the Gambia River.
D: And more slaves . . . .
C: Indeed, sir. Thus does heaven smile upon us, point to point in a golden triangle. Tobacco, trade goods, slaves, tobacco, trade goods and so on ad infinitum. All profit, sir and none the loser for it.
D: Tell me, Mr. Carrington, do you ever wonder . . . .
C: On what topic, sir, to what end?
D: As to whether or not we are just as much imprisoned as are those chained in the hold below?
C: I do not follow your meaning, sir.
D: It sometimes feels that we do harm to ourselves by taking part in this endeavor.
C: Harm? What harm can there be in prosperity, sir? What harm is a full purse, I’d like to know.
D: No, no, I doubt that you’d like to know, Mr. Carrington. I doubt that either of us would truly like to know.
C: Would you be interested in coming to the auction, Captain? I warrant you’ve never seen anything like it.
D: No, I am sure I have not, Mr. Carrington. I do know that I am not interested in seeing it now . . . or ever.

船長とクンタ・キンテ(「ルーツ」より)

カリントン(C)「船長、船旅はうまく行きましたかね?」
デイヴィス(D)「一等航海士と船員が十人、それにボーイが一人……、私の乗組員のうち三分の一以上が。」
C「おう、それはお気の毒に、その人たちの魂に神の御加護がありますように。しかし、貿易の大元は何と言っても商品ですからね、商品ですよ。ところで船長、海の上では積み荷の加減はどうでしたかね?」
D「船旅では三千本の象牙が何とか事なきを得ましたよ」
C「船長、冗談がとてもお上手ですな、とてもお上手で……三千本の象牙とは……」
D「ガンビア川の河口で、百四十人の奴隷をロード・リゴニア号に乗船させました」
C「それは、ゆったりとした積み方で。それで……」
D「そのうち、港に着いたときの生き残りは九十八人でした」
C「九十八人。そうですか、それでは、死んだのは三分の一以下ですな。入港した時に、生き残りが半分以下でも、まだかなりの利益があった奴隷商を私は何人も知っておりますよ。おめでとうございます、船長」
D「一刻も早く積荷を下ろしたいのですがね」
C「直ちに船を曳いて行って、岸壁にお着けしましょう」
D「船倉で燃やす硫黄の粉をぜひご用意いただきたい。もう一度、きれいになった船が見たいのです」
C「それは、もう、船長。それから、船長はまた、ロンドンへ煙草を運んで行かれることになりますね」
D「そして、ロンドンで……」
C「ギニア海岸向けの貿易の品を、それから、またガンビア川に向けて」
D「そして、もっとたくさんの奴隷を……」
C「その通りですよ、船長。かくして天は我らにほほ笑みかけ、黄金の三角で点と点を結ぶ。煙草、貿易の品、奴隷、煙草、貿易の品など、永遠に限りなく。誰もが得をして、損するもの誰もなし、ですよ」

次回は「アフリカ小史後半」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2013年11月10日

収録・公開

  →「アフリカ小史前半」(No. 63  2013年11月10日)

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  「アフリカ小史前半」

2010年~の執筆物

概要(写真は作業中)

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の巻末につけたジンバブエの歴史の3回連載で、今回は3回目です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。

連載は今回のNo. 60(2013/8/10)からNo. 62(2013/7/10)までの3回です。

本文

工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立

およそ百年に渡るジンバブエの歴史の3回目で、
工業化と大衆運動と、武力闘争による独立戦争についてです。

工業化と大衆運動

1930年代の終わり頃まで、南ローデシアの経済の中心は未だ鉱業と農業でしたが、40年代から50年代前半にかけて急速に工業化が進み、たくさんの工業製品が生産されました。53年あたりには、ソールズベリとブラワヨでは700以上もの工場が操業し、46年には約10万人だったアフリカ人労働者の数が、
10年間25五万人以上に膨れ上がっていました。

アフリカ人は都市部での永住者ではなく、一時的な労働者と見なされ、住宅条件の悪いロケイションに押し込められました。(南アフリカではタウンシップと呼ばれています。)人口が増え続けていたにもかかわらず、政府が相変わらず対策を講じなかったために、ロケイションのスラム化の度合いは濃くなっていきました。賃金は低いうえにインフレによる物価騰貴が重なって、アフリカ人労働者は病気や貧困などの様々な問題に直面しなければなりませんでした。

40年代に行なわれた調査の一つによると、ロケイションの住人の9割までが最低限の生活をするのに必要な賃金も得られなかったので、悲惨な生活を強いられ、盗みや犯罪が当然のように横行して、不法なビールの醸造で食いつなぐ者もいたようです。

44年には労働条件の改善を求めてローデシア鉄道雇用者協会が設立されています。翌年の10月にはストライキが行なわれて、
アフリカ人鉄道従業員が仕事を放棄しました。このストライキには北ローデシアの労働者も呼応しましたので、中部アフリカの鉄道は一時麻痺状態となりました。

2週間後、住居の改善や最低賃金の引き上げなどを約束して雇用者側が譲歩しました。ストライキは成功したのです。

このストライキの成功によって、他の産業に従事するアフリカ人は大いに勇気づけられました。46年には改革産業通商労働者同盟が、翌年にはアフリカ人労働者声明協会などが組織されています。

48年の4月には、全国規模のストライキが敢行されています。
このストライキには鉱山や農場の労働者だけでなく、白人家庭で働く家内労働者も加わったので、終わり頃には総計10万人ものアフリカ人労働者がストライキに参加していました。

ストライキの勢いに圧倒された政府は、ロケイションの状況改善や熟練労働者の賃上げなどを認めて、渋々の譲歩を余儀なくされました。

50年代の前半には好景気が続いて、第2次産業が急速に伸び、
多額の外国資本が南ローデシアに流れこんでいます。外国資本の多くは、工場の投資に回されました。この頃には、南アフリカのドゥ・ビアーズ・アングロ・アメリカン社などの外国資本が、国内製造部門の70パーセントを所有するようになっていました。

工場の増加に伴い、機械を操作できるアフリカ人熟練工の需要も増えたので、政府はアフリカ人の教育に以前よりも少し多くの予算を割くようになっていました。しかしその割合は低く、高校が多少増えた程度でした。

53年に南ローデシア(現ジンバブエ)は、北ローデシア(現ザンビア)とニアサランド(現マラウィ)を巻き込んでローデシア・ニアサランド連邦を成立させました。英国政府と南ローデシアの産業資本が主体となって創り出した連邦です。南ローデシアの製品をさばく市場と北ローデシア産の銅が狙いでしたが、銅産業に伴う南ローデシア国内の工場や輸送施設の近代化も大きな目標の一つでした。

57から58年にかけて、景気が大幅に後退して街には失業者が溢れ出しました。本格的なアフリカ人の解放闘争も始まって社会不安が増し、政府は危機的な局面を迎えました。

都市部だけではなく、地方でも大きな問題を抱えていました。40代にはすでにリザーヴでの人口過密が大きな問題となっていましたが、土地配分法の実施に伴ってその問題は更に深刻の度を増していました。政府はリザーヴでの人口過密の問題を解消するために、従来の政策を転換させていました。溢れ出たアフリカ人を街に永住させて、工場の労働者に仕立てることを思いついたのです。そして、51年に土地耕作法を成立させ、一部のアフリカ人に土地の個人所有を認めると同時に、耕作に関する規定を定めました。土地の権利を失った人たちが街に流れざるを得なくなるというのが政府の計画でした。

しかし、政府の目論みは57~58年の景気後退によって打ち砕かれました。リザーヴからあぶり出されたアフリカ人は、街でも職を見付けられなかったからです。都市でも地方でも、アフリカ人の政府に対しての反感はますます募るばかりでした。

この政府への反感がアフリカ人の大衆運動の大きな弾みとなりました。

55年に、ソールズベリで都市青年同盟が設立されます。2年後の57年にはアフリカ人民会議(ANC)が結成され、ジョシュア・ンコモが議長に選ばれています。この時点でのANCの闘争方針はまだ過激なものではありませんでした。

59年になると、連邦じゅうに不穏な動きが見え始めたので、
各政府はその動きを封じるのに躍起になりました。南ローデシアでも弾圧法が制定され、アフリカ人指導者が逮捕されました。ANCは活動を禁じられています。

しかし、アフリカ人側は60年1月には民族民主党(NDP)を結成してこれに対抗しました。政府が6月に指導者を逮捕したので、ソールズベリとブラワヨでは激しい抗議運動が展開され多数の死傷者を出しました。小農の土地耕作法への反対運動は日常的となり、アフリカ人側は政府との対決姿勢を前面に打ち出し始めました。

61年12月にNDPが非合法化され、10日後にはジンバエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)が結成されています。ZAPUの闘争計画はANCよりもかなり激しいものでした。政府との対決を表明して破壊活動方針を打ち出し、鉄道や電力施設を破壊しました。このため9月には政府に活動を禁じられています。

この頃にはZAPU内の不協和音が強くなっていました。英国や政府に妥協し過ぎるンコモの指導性に反発を強める勢力が増えたためです。

その一派は、ロバート・ムガベ(現在も大統領として健在)、ンダバニンギ・シトレ、レオポルド・タカウィラなどが中心となって、63年8月に新組織ジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)を結成し、政府との対決姿勢を強めました。政府には法的に活動を禁じられましたが、ZANUは人民暫定評議会(PCC)と形を変えて生き延びていました。

この間、政府は路線の変更を余儀なくされていました。アフリカ人の中産階級を自分たちの陣営に誘い込むために、50年代半ばに中学校の建設や土地配分法の修正などの改革を行なっています。58年には、英国政府と国内の産業資本家の支援を受けて
統一連邦党が選挙で勝利を収め、ガーフィールド・トッドの後を受けたホワイトヘッドが南ローデシア首相に就任しました。

しかし、62年には、アフリカ人労働者階級との競争を恐れる
白人の支持を受けて、ローデシア戦線(RF)が圧勝しています。土地配分法の保持を望む白人の大土地所有農家と職業での白人優遇措置を望む白人賃金労働者が、人種差別政策を掲げるRFを熱烈に推したからです。

連邦の出費で経済力、軍事力をつけた政府は、63年にはローデシア・ニアサランド連邦を解体して独自の路線を歩み始めまた。

64年には、RFの党首イアン・スミスが南ローデシアの首相に就任しています。スミスはZANU、ZAPU/PCCを非合法化し、ンコモ、ムガベ、シトレを逮捕・拘禁しました。弾圧法を強化して、アフリカ人との対決姿勢を前面に打ち出し、その年に独立したマラウィとザンビアの闘争の流れをザンベジ川で阻止してみせるとまで公言しています。

65年11月に、英国政府の同意なしに、南ローデシアは一方的独立宣言(UDI)を出しました。英国政府と南ローデシア政府間の調停が失敗したのは、英国政府の意向に反して、白人の賃金労働者と大土地所有農家が予想以上の力を着けていたからです。
その力は産業資本家の力を上回っていました。

アフリカ人側は武力闘争を決意しました。完全に合法的、平和的な手段が封じられてしまったので、独立するためには他に選択の余地が残されていなかったからです。

武力闘争とジンバブウェの独立

その非常事態に、ZANUとZAPUは破壊活動やストライキで圧力をかけ、政府を話し合いの場に引きずり出そうとしましたが、政府は動じませんでした。

64年4月にZANUのゲリラ軍ジンバブウェアフリカ国民自由軍(ZANLA)はゲリラ戦を開始しました。67年には、ZANLAはZAPUのゲリラ軍ジンバブウェ人民革命軍(ZIPRA)と南アフリカ民族会議(ANC)との共同戦線をはり、ザンベジ川を越えて南ローデシアへの侵入に成功しました。

政府は自分たちの勝利を確信していました。

産業資本家が恐れていたように、UDIに対してただちに国連の安保理事会が各国にローデシアに対する石油輸出禁止措置を要請したり、英国の経済制裁措置が行なわれましたが、南アフリカやモザンビーク(宗主国ポルトガル)の協力がありましたので、経済制裁は独自の路線を進む政府には大きな障害物とはなりませんでした。

65五年から72年にかけて、南ローデシアの経済は急成長を遂げ、鉱業と製造業が飛躍的に伸びました。以前は輸入に依存していた製品を国内で生産するようになったので、 地方の産業が成長し、労働者の需要も増大したからです。

政府は土地耕作法の施行を中止したり、傀儡のアフリカ人指導者を利用したりしてアフリカ人の不平を逸らそうと努めたので、事態は一時的に沈静化したかに見えました。

政府はその勢いを借りて、69年に新憲法を採択し、土地耕作法に代わる土地保有法を成立させます。国土を大きく2分し、半分の痩せた土地に500万のアフリカ人を、残り半分の肥沃な土地に25万の白人にそれぞれ振り分けたのです。

そして、政府は70年に共和国を宣言しました。

しかし、地方の事態がそれで収拾を見せるはずがありませんでした。

UDI以前には白人農家は輸出向けに煙草を栽培していましたが、経済制裁によって作物の転換を余儀なくされていました。南アフリカやモザンビークで煙草を栽培していませんでしたので、
経済制裁逃れの手段が行使出来なかったためです。

白人の大農家は、煙草を玉蜀黍や家畜に代えて国内市場に参入しました。しかも、政府は作物の転換政策を奨励して白人農家にだけ援助金を出しましたので、富裕な小農は国内市場から締め出されてしまったのです。こうした政府の強硬な人種差別政策の実施により、70年代前半には、地方に住むほとんどのアフリカ人が政府に激しく反対するようになっていました。

この時期には二つの重要な進展が見られました。英国政府の介入とアフリカ側の戦略の転換です。

英国政府は経済制裁の措置は取ったものの、ローデシアへの投資による利益も捨てられず、初めから歩み寄りの姿勢を見せていました。66年と68年に行なわれた話し合いはもの別れに終わりましたが、71年にはヒューム外相とスミス首相との間で協定の合意が成立しました。英国政府はピアース卿を派遣して、アフリカ人側の動向を探らせました。

ZANUとZAPUの指導者は獄中にいましたが、アベル・ムゾレワに率いられて新たに組織された統一アフリカ民族評議会(UANC)は協定に反対の意を表明しました。ZANUとZAPUの不満分子は新たにジンバブウェ解放戦線を結成していました。

ピアース委員会は翌年の3月に、アフリカ人側の反対を報告しましたので、英国政府はその報告に従わざるを得ず、またもや調停は失敗しました。

ZANUとZAPUは66年から70年の間の敗北を反省して、
戦略の転換をはかっていました。毛沢東の戦略に倣って、ゲリラ戦士が農村部に入りこんで、農民の協力を仰いだのです。政府に激しく反対する地方の農民は、ゲリラ戦士に協力しました。

ZANLAは二年間のあいだ、北東部の田舎で農民と共に働きながら、武器を貯え戦いの準備に備えました。ZANLAはポルトガルと闘っていたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)にも
大いに助けられました。それまで南ローデシアに入るには北西部のザンベジ川を越えるしかなかったのですが、新たに北東部からの侵入が可能になりました。72年に始められたアフリカ統一機構の軍事援助や、73年のザンビアの国境封鎖も追い風となりました。更に、75年のモザンビークの独立はゲリラ戦士への大きな励みとなっています。独立したモザンビークは南ローデシア政府に経済制裁と国境封鎖を突き付けました。

この頃には、経済制裁と戦争への出費で南ローデシアの経済は厳しい状況に追い込まれていました。73年の中東戦争後のオイル・ショックも大きな痛手となっていました。この深刻な事態を憂慮したのは、特に関係の深かった英国と米国と南アフリカです。

南アフリカは74年12月と75年8月にスミス政府と交渉を持ち、緊張緩和を促しました。そのわずかな成果としてZANUとZAPUの指導者が釈放されましたが、交渉自体は不調に終わっています。

闘争が激化した76年には、英国と米国が調停に乗り出しました。白人政府との戦いを通り越して資本主義との戦いにまで発展するのを、両国が一番恐れたからです。革命戦争となって、隣国のモザンビークやアンゴラのように社会主義国家になる事態だけは避けなければならないと考えました。

他に近隣のザンビア、モザンビーク、ボツワナ、タンザニアも調停に参加したが不調に終わっています。その年、ZANUとZAPUは協力して愛国戦線(PF)を結成しました。

政府軍は77年には、モザンビークのゲリラ基地を、翌年にはザンビアの基地を襲撃しています。78年には、ゲリラ軍もソールズベリの工業地帯の石油タンクを破壊して、戦いは混迷の度を増していました。政府軍は203の保護地区を設定して、50万のアフリカ人を移動させたり、夜間外出禁止令などを出しててゲリラ軍への援助の道を断とうとしました。それに対抗してアフリカ人側は、若い人たちもゲリラ戦士を応援し、女性もゲリラ戦士となりました。

土地を持たない貧しい小農に土地を占領された富裕な小農と、女性の進出によって自分たちの地位を脅かされる懸念を持った年配者は、独立後の行き先に不安を抱いて、新しい組織を作ることになりました。

79年には、国中が戦火に巻き込まれていました。多くの白人が戦火を逃れて、国外に脱出しました。政府軍への入隊を拒否するために国を離れる者も現われました。戦争への出費はかさみ、南アフリカからの借金だけが唯一の頼りという状態にまで追い込まれています。

スミス首相は77年に出された英国と米国の新提案を蹴って、アフリカ人の穏健派との連携の道を模索しました。78年には、スミス、シトレ、ムゾレワの間での国内解決案が合意され、翌年にはムゾレワがジンバブエ・ローデシア首相に就任しました。

しかし、ZANUとZAPUはこの国内解決を承認しませんでしたので、戦いは続きました。

戦争の続行で経済的に苦しい状況が続く近隣諸国は、ZANUとZAPUに早期解決を促しました。79年9月に、英国政府はロンドンのランカスター・ハウスで調停会議を主催しました。交渉は難航を極めましたが、3ヵ月後に、アフリカ人が80議席、白人が20議席という条件で下院選挙を実施することでアフリカ人側と白人側が合意しました。

翌80年2月に行なわれた総選挙では、ZANUが57議席、ZAPUが20議席、UANCが3議席を獲得しました。この結果、ZANUの党首ムガベが首班に指名されて、初のアフリカ人内閣が誕生しました。

ムガベ政権は社会主義と、アフリカ人と白人の融和政策を掲げて出発しました。しかし、白人には10年間の特権が約束されていたうえ、経済や技術の面では白人や外国資本に依存しなければならず、厳しい船出となりました。

ハラレで出会ったゲイリーもツォゾォさんも、立場は違いますが、この独立戦争を経験していました。

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(ツォゾォさん)

政府が自陣に取り込もうとした「中産階級」の子弟であるツォゾォさんは、政府の思惑とは裏腹に、71年までの学生時代の3年間も、モザンビークの国境に近い東部のムタレなどで中学校の教員をしていた時代も、ハラレの教育省に勤務していた期間も、闘士として解放闘争の支援を続けました。

学生1500人のうち5分の1の300人がアフリカ人だったそうですが、同じ卒業生でも白人とアフリカ人では給料の格差が著しかったので、71年には、大学生のストライキが行なわれ、翌年には全国的なストライキが敢行されたそうです。その時は逮捕されなかったものの、警察と激しく衝突しています。

「政府による締め付けは厳しく、学生の中にもスパイがいて、同じ寮で暮らしていた学生があとでスパイだと分かってショックを受けたこともありますよ。武器の輸送を手伝っていたとき、そのスパイの通報で危うく逮捕されかけました。もしあの時逮捕されていたら、人生も大きく変わっていたでしょうね。捕まって30日間拘置された経験もありますがね。」

とツォゾォさんは学生時代を振り返ります。78年の12月には、ツォゾォさんのお父さんは拷問がもとで亡くなり、半年後の4月には、後を追うようにしてお母さんも亡くなったそうです。

独立闘争で大きな犠牲を払いながら戦ったツォゾォさんは、その働きも大きかったのでしょう。その分、新政権の下で重用されています。教育省の職員として青少年のスポーツ制度を視察するために、82年にユーゴスラビアとタンザニアと中国を、83年にはカナダをそれぞれ歴訪しています。84年からは、ジンバブエ大学での研究生活が始まりました。86年にはフルブライト奨学金を得て、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学に留学し、2年間で演劇と映画の学位を取ったそうです。帰国後、92年の8月に副学長補佐に昇進しました。私が大学に滞在している時でした。
「ジンバブエ滞在記21ツォゾォさんの生い立ち」(No.55  2013年3月10日)

1956年にハラレから約100キロ離れた小さな村に生まれたゲイリーや家族は、南アフリカの移住者が南部アフリカに打ち立てた安価な短期契約制度の中に組み込まれて搾り取られた人たちです。田舎に住んでいたアフリカ人がたくさん白人の経営する農場や石綿や金などの鉱山に流れていました。「その頃、両親は大変だったと思います。」とゲイリーは述懐しています。

1962年にゲイリーは父親と一緒に、ハラレのアフリカ人居住区ムバレに移り住みました。労働許可証と住むところが確保できたので、父親は市役所の警備係をしながら、ゲイリーをハラレの小学校に通わせようとしたのです。兄弟は、男が5人、女が4人いましたが、父親についていったのはゲイリーだけだったそうです。

「都会はムレワの田舎と違って、同世代の子供も垢抜けた感じがしましたが、暮らしは大変でした。給料が少なかったからです。文句を言う人もいましたが、白人の管理職が来て、田舎ではピーナッツバターなど食べられなかったんだから、それで充分、都会の生活を有り難く思えと言っていました。典型的なローデシアの白人です。アフリカ人の居住地区はロケイションと呼ばれていますが、下水などの設備も悪く、ひどい環境です。政府はアフリカ人の住宅環境など、問題にもしません。当時は、試験があってその試験に合格しなければ、進学は出来ませんでした。スミス政府は、再受験を許しませんでした。小学校を出たら、大部分のアフリカ人を農場か工場で働かせるためです。ボトルネックと言われています。大多数が瓶の部分、小学校から先に行ける人は瓶の先の部分でごく僅かというわけです。親が上の学校に子供をやるのも大変です。家畜を売ったりして、なんとか学費を都合しなければなりません。アフリカ人が学校にいくのは本当に難しかったのです。」と当時を思い出しながらゲイリーが話してくれました。

小学校を出たあとは、父親を助けてしばらく家で家畜の世話をしたあと、74年に2ヵ月間、ある煙草会社で働き、76年に別の煙草会社に採用されて6年間勤めたようです。独立戦争があったのはその期間です。戦争についてゲイリーは次のように話をしてくれました。

「78年、独立戦争中のことです。ムレワは『保護地区』になっていて、政府の軍隊によってたくさんの人が村に集められました。12月にハラレからムレワに帰る途中、白人の軍隊に襲われて腰の辺りを撃たれました。たくさんの血が流れて、気絶しました。一緒にいた友人が近くの村に助けを求めてくれて、その村に運ばれました。弾を抜いてもらって運よく助けられましたが、今でも腰に大きな傷が残っています。家族もみんな戦争に係わりました。弟も解放軍に加わり、撃たれてミッション系の病院に担ぎこまれました。そこに政府軍が来て『誰がテロリストか?』と弟を尋問したそうです。その頃、ちょうど戦争が終わったので命拾いしましたが、もう少し戦争が長引いていれば、弟もたぶん殺されていたでしょう。79年の暮れに戦争は終わり、独立したのは80年です。」

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(ゲイリー)

「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」(No.46  2012年6月10日)

独立戦争は、遠い過去の歴史ではありませんでした。

次回は「ジンバブエの歴史4:ハラレから戻ったあと・・・・」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年10月10日

収録・公開

「ジンバブエの歴史3 工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立」(No. 62  2013年10月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエの歴史3 工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立」