1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。
連載は今回のNo. 60(2013/8/10)からNo. 62(2013/7/10)までの3回です。
工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立
およそ百年に渡るジンバブエの歴史の3回目で、
工業化と大衆運動と、武力闘争による独立戦争についてです。
工業化と大衆運動
1930年代の終わり頃まで、南ローデシアの経済の中心は未だ鉱業と農業でしたが、40年代から50年代前半にかけて急速に工業化が進み、たくさんの工業製品が生産されました。53年あたりには、ソールズベリとブラワヨでは700以上もの工場が操業し、46年には約10万人だったアフリカ人労働者の数が、
10年間25五万人以上に膨れ上がっていました。
アフリカ人は都市部での永住者ではなく、一時的な労働者と見なされ、住宅条件の悪いロケイションに押し込められました。(南アフリカではタウンシップと呼ばれています。)人口が増え続けていたにもかかわらず、政府が相変わらず対策を講じなかったために、ロケイションのスラム化の度合いは濃くなっていきました。賃金は低いうえにインフレによる物価騰貴が重なって、アフリカ人労働者は病気や貧困などの様々な問題に直面しなければなりませんでした。
40年代に行なわれた調査の一つによると、ロケイションの住人の9割までが最低限の生活をするのに必要な賃金も得られなかったので、悲惨な生活を強いられ、盗みや犯罪が当然のように横行して、不法なビールの醸造で食いつなぐ者もいたようです。
44年には労働条件の改善を求めてローデシア鉄道雇用者協会が設立されています。翌年の10月にはストライキが行なわれて、
アフリカ人鉄道従業員が仕事を放棄しました。このストライキには北ローデシアの労働者も呼応しましたので、中部アフリカの鉄道は一時麻痺状態となりました。
2週間後、住居の改善や最低賃金の引き上げなどを約束して雇用者側が譲歩しました。ストライキは成功したのです。
このストライキの成功によって、他の産業に従事するアフリカ人は大いに勇気づけられました。46年には改革産業通商労働者同盟が、翌年にはアフリカ人労働者声明協会などが組織されています。
48年の4月には、全国規模のストライキが敢行されています。
このストライキには鉱山や農場の労働者だけでなく、白人家庭で働く家内労働者も加わったので、終わり頃には総計10万人ものアフリカ人労働者がストライキに参加していました。
ストライキの勢いに圧倒された政府は、ロケイションの状況改善や熟練労働者の賃上げなどを認めて、渋々の譲歩を余儀なくされました。
50年代の前半には好景気が続いて、第2次産業が急速に伸び、
多額の外国資本が南ローデシアに流れこんでいます。外国資本の多くは、工場の投資に回されました。この頃には、南アフリカのドゥ・ビアーズ・アングロ・アメリカン社などの外国資本が、国内製造部門の70パーセントを所有するようになっていました。
工場の増加に伴い、機械を操作できるアフリカ人熟練工の需要も増えたので、政府はアフリカ人の教育に以前よりも少し多くの予算を割くようになっていました。しかしその割合は低く、高校が多少増えた程度でした。
53年に南ローデシア(現ジンバブエ)は、北ローデシア(現ザンビア)とニアサランド(現マラウィ)を巻き込んでローデシア・ニアサランド連邦を成立させました。英国政府と南ローデシアの産業資本が主体となって創り出した連邦です。南ローデシアの製品をさばく市場と北ローデシア産の銅が狙いでしたが、銅産業に伴う南ローデシア国内の工場や輸送施設の近代化も大きな目標の一つでした。
57から58年にかけて、景気が大幅に後退して街には失業者が溢れ出しました。本格的なアフリカ人の解放闘争も始まって社会不安が増し、政府は危機的な局面を迎えました。
都市部だけではなく、地方でも大きな問題を抱えていました。40代にはすでにリザーヴでの人口過密が大きな問題となっていましたが、土地配分法の実施に伴ってその問題は更に深刻の度を増していました。政府はリザーヴでの人口過密の問題を解消するために、従来の政策を転換させていました。溢れ出たアフリカ人を街に永住させて、工場の労働者に仕立てることを思いついたのです。そして、51年に土地耕作法を成立させ、一部のアフリカ人に土地の個人所有を認めると同時に、耕作に関する規定を定めました。土地の権利を失った人たちが街に流れざるを得なくなるというのが政府の計画でした。
しかし、政府の目論みは57~58年の景気後退によって打ち砕かれました。リザーヴからあぶり出されたアフリカ人は、街でも職を見付けられなかったからです。都市でも地方でも、アフリカ人の政府に対しての反感はますます募るばかりでした。
この政府への反感がアフリカ人の大衆運動の大きな弾みとなりました。
55年に、ソールズベリで都市青年同盟が設立されます。2年後の57年にはアフリカ人民会議(ANC)が結成され、ジョシュア・ンコモが議長に選ばれています。この時点でのANCの闘争方針はまだ過激なものではありませんでした。
59年になると、連邦じゅうに不穏な動きが見え始めたので、
各政府はその動きを封じるのに躍起になりました。南ローデシアでも弾圧法が制定され、アフリカ人指導者が逮捕されました。ANCは活動を禁じられています。
しかし、アフリカ人側は60年1月には民族民主党(NDP)を結成してこれに対抗しました。政府が6月に指導者を逮捕したので、ソールズベリとブラワヨでは激しい抗議運動が展開され多数の死傷者を出しました。小農の土地耕作法への反対運動は日常的となり、アフリカ人側は政府との対決姿勢を前面に打ち出し始めました。
61年12月にNDPが非合法化され、10日後にはジンバエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)が結成されています。ZAPUの闘争計画はANCよりもかなり激しいものでした。政府との対決を表明して破壊活動方針を打ち出し、鉄道や電力施設を破壊しました。このため9月には政府に活動を禁じられています。
この頃にはZAPU内の不協和音が強くなっていました。英国や政府に妥協し過ぎるンコモの指導性に反発を強める勢力が増えたためです。
その一派は、ロバート・ムガベ(現在も大統領として健在)、ンダバニンギ・シトレ、レオポルド・タカウィラなどが中心となって、63年8月に新組織ジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)を結成し、政府との対決姿勢を強めました。政府には法的に活動を禁じられましたが、ZANUは人民暫定評議会(PCC)と形を変えて生き延びていました。
この間、政府は路線の変更を余儀なくされていました。アフリカ人の中産階級を自分たちの陣営に誘い込むために、50年代半ばに中学校の建設や土地配分法の修正などの改革を行なっています。58年には、英国政府と国内の産業資本家の支援を受けて
統一連邦党が選挙で勝利を収め、ガーフィールド・トッドの後を受けたホワイトヘッドが南ローデシア首相に就任しました。
しかし、62年には、アフリカ人労働者階級との競争を恐れる
白人の支持を受けて、ローデシア戦線(RF)が圧勝しています。土地配分法の保持を望む白人の大土地所有農家と職業での白人優遇措置を望む白人賃金労働者が、人種差別政策を掲げるRFを熱烈に推したからです。
連邦の出費で経済力、軍事力をつけた政府は、63年にはローデシア・ニアサランド連邦を解体して独自の路線を歩み始めまた。
64年には、RFの党首イアン・スミスが南ローデシアの首相に就任しています。スミスはZANU、ZAPU/PCCを非合法化し、ンコモ、ムガベ、シトレを逮捕・拘禁しました。弾圧法を強化して、アフリカ人との対決姿勢を前面に打ち出し、その年に独立したマラウィとザンビアの闘争の流れをザンベジ川で阻止してみせるとまで公言しています。
65年11月に、英国政府の同意なしに、南ローデシアは一方的独立宣言(UDI)を出しました。英国政府と南ローデシア政府間の調停が失敗したのは、英国政府の意向に反して、白人の賃金労働者と大土地所有農家が予想以上の力を着けていたからです。
その力は産業資本家の力を上回っていました。
アフリカ人側は武力闘争を決意しました。完全に合法的、平和的な手段が封じられてしまったので、独立するためには他に選択の余地が残されていなかったからです。
武力闘争とジンバブウェの独立
その非常事態に、ZANUとZAPUは破壊活動やストライキで圧力をかけ、政府を話し合いの場に引きずり出そうとしましたが、政府は動じませんでした。
64年4月にZANUのゲリラ軍ジンバブウェアフリカ国民自由軍(ZANLA)はゲリラ戦を開始しました。67年には、ZANLAはZAPUのゲリラ軍ジンバブウェ人民革命軍(ZIPRA)と南アフリカ民族会議(ANC)との共同戦線をはり、ザンベジ川を越えて南ローデシアへの侵入に成功しました。
政府は自分たちの勝利を確信していました。
産業資本家が恐れていたように、UDIに対してただちに国連の安保理事会が各国にローデシアに対する石油輸出禁止措置を要請したり、英国の経済制裁措置が行なわれましたが、南アフリカやモザンビーク(宗主国ポルトガル)の協力がありましたので、経済制裁は独自の路線を進む政府には大きな障害物とはなりませんでした。
65五年から72年にかけて、南ローデシアの経済は急成長を遂げ、鉱業と製造業が飛躍的に伸びました。以前は輸入に依存していた製品を国内で生産するようになったので、 地方の産業が成長し、労働者の需要も増大したからです。
政府は土地耕作法の施行を中止したり、傀儡のアフリカ人指導者を利用したりしてアフリカ人の不平を逸らそうと努めたので、事態は一時的に沈静化したかに見えました。
政府はその勢いを借りて、69年に新憲法を採択し、土地耕作法に代わる土地保有法を成立させます。国土を大きく2分し、半分の痩せた土地に500万のアフリカ人を、残り半分の肥沃な土地に25万の白人にそれぞれ振り分けたのです。
そして、政府は70年に共和国を宣言しました。
しかし、地方の事態がそれで収拾を見せるはずがありませんでした。
UDI以前には白人農家は輸出向けに煙草を栽培していましたが、経済制裁によって作物の転換を余儀なくされていました。南アフリカやモザンビークで煙草を栽培していませんでしたので、
経済制裁逃れの手段が行使出来なかったためです。
白人の大農家は、煙草を玉蜀黍や家畜に代えて国内市場に参入しました。しかも、政府は作物の転換政策を奨励して白人農家にだけ援助金を出しましたので、富裕な小農は国内市場から締め出されてしまったのです。こうした政府の強硬な人種差別政策の実施により、70年代前半には、地方に住むほとんどのアフリカ人が政府に激しく反対するようになっていました。
この時期には二つの重要な進展が見られました。英国政府の介入とアフリカ側の戦略の転換です。
英国政府は経済制裁の措置は取ったものの、ローデシアへの投資による利益も捨てられず、初めから歩み寄りの姿勢を見せていました。66年と68年に行なわれた話し合いはもの別れに終わりましたが、71年にはヒューム外相とスミス首相との間で協定の合意が成立しました。英国政府はピアース卿を派遣して、アフリカ人側の動向を探らせました。
ZANUとZAPUの指導者は獄中にいましたが、アベル・ムゾレワに率いられて新たに組織された統一アフリカ民族評議会(UANC)は協定に反対の意を表明しました。ZANUとZAPUの不満分子は新たにジンバブウェ解放戦線を結成していました。
ピアース委員会は翌年の3月に、アフリカ人側の反対を報告しましたので、英国政府はその報告に従わざるを得ず、またもや調停は失敗しました。
ZANUとZAPUは66年から70年の間の敗北を反省して、
戦略の転換をはかっていました。毛沢東の戦略に倣って、ゲリラ戦士が農村部に入りこんで、農民の協力を仰いだのです。政府に激しく反対する地方の農民は、ゲリラ戦士に協力しました。
ZANLAは二年間のあいだ、北東部の田舎で農民と共に働きながら、武器を貯え戦いの準備に備えました。ZANLAはポルトガルと闘っていたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)にも
大いに助けられました。それまで南ローデシアに入るには北西部のザンベジ川を越えるしかなかったのですが、新たに北東部からの侵入が可能になりました。72年に始められたアフリカ統一機構の軍事援助や、73年のザンビアの国境封鎖も追い風となりました。更に、75年のモザンビークの独立はゲリラ戦士への大きな励みとなっています。独立したモザンビークは南ローデシア政府に経済制裁と国境封鎖を突き付けました。
この頃には、経済制裁と戦争への出費で南ローデシアの経済は厳しい状況に追い込まれていました。73年の中東戦争後のオイル・ショックも大きな痛手となっていました。この深刻な事態を憂慮したのは、特に関係の深かった英国と米国と南アフリカです。
南アフリカは74年12月と75年8月にスミス政府と交渉を持ち、緊張緩和を促しました。そのわずかな成果としてZANUとZAPUの指導者が釈放されましたが、交渉自体は不調に終わっています。
闘争が激化した76年には、英国と米国が調停に乗り出しました。白人政府との戦いを通り越して資本主義との戦いにまで発展するのを、両国が一番恐れたからです。革命戦争となって、隣国のモザンビークやアンゴラのように社会主義国家になる事態だけは避けなければならないと考えました。
他に近隣のザンビア、モザンビーク、ボツワナ、タンザニアも調停に参加したが不調に終わっています。その年、ZANUとZAPUは協力して愛国戦線(PF)を結成しました。
政府軍は77年には、モザンビークのゲリラ基地を、翌年にはザンビアの基地を襲撃しています。78年には、ゲリラ軍もソールズベリの工業地帯の石油タンクを破壊して、戦いは混迷の度を増していました。政府軍は203の保護地区を設定して、50万のアフリカ人を移動させたり、夜間外出禁止令などを出しててゲリラ軍への援助の道を断とうとしました。それに対抗してアフリカ人側は、若い人たちもゲリラ戦士を応援し、女性もゲリラ戦士となりました。
土地を持たない貧しい小農に土地を占領された富裕な小農と、女性の進出によって自分たちの地位を脅かされる懸念を持った年配者は、独立後の行き先に不安を抱いて、新しい組織を作ることになりました。
79年には、国中が戦火に巻き込まれていました。多くの白人が戦火を逃れて、国外に脱出しました。政府軍への入隊を拒否するために国を離れる者も現われました。戦争への出費はかさみ、南アフリカからの借金だけが唯一の頼りという状態にまで追い込まれています。
スミス首相は77年に出された英国と米国の新提案を蹴って、アフリカ人の穏健派との連携の道を模索しました。78年には、スミス、シトレ、ムゾレワの間での国内解決案が合意され、翌年にはムゾレワがジンバブエ・ローデシア首相に就任しました。
しかし、ZANUとZAPUはこの国内解決を承認しませんでしたので、戦いは続きました。
戦争の続行で経済的に苦しい状況が続く近隣諸国は、ZANUとZAPUに早期解決を促しました。79年9月に、英国政府はロンドンのランカスター・ハウスで調停会議を主催しました。交渉は難航を極めましたが、3ヵ月後に、アフリカ人が80議席、白人が20議席という条件で下院選挙を実施することでアフリカ人側と白人側が合意しました。
翌80年2月に行なわれた総選挙では、ZANUが57議席、ZAPUが20議席、UANCが3議席を獲得しました。この結果、ZANUの党首ムガベが首班に指名されて、初のアフリカ人内閣が誕生しました。
ムガベ政権は社会主義と、アフリカ人と白人の融和政策を掲げて出発しました。しかし、白人には10年間の特権が約束されていたうえ、経済や技術の面では白人や外国資本に依存しなければならず、厳しい船出となりました。
ハラレで出会ったゲイリーもツォゾォさんも、立場は違いますが、この独立戦争を経験していました。
(ツォゾォさん)
政府が自陣に取り込もうとした「中産階級」の子弟であるツォゾォさんは、政府の思惑とは裏腹に、71年までの学生時代の3年間も、モザンビークの国境に近い東部のムタレなどで中学校の教員をしていた時代も、ハラレの教育省に勤務していた期間も、闘士として解放闘争の支援を続けました。
学生1500人のうち5分の1の300人がアフリカ人だったそうですが、同じ卒業生でも白人とアフリカ人では給料の格差が著しかったので、71年には、大学生のストライキが行なわれ、翌年には全国的なストライキが敢行されたそうです。その時は逮捕されなかったものの、警察と激しく衝突しています。
「政府による締め付けは厳しく、学生の中にもスパイがいて、同じ寮で暮らしていた学生があとでスパイだと分かってショックを受けたこともありますよ。武器の輸送を手伝っていたとき、そのスパイの通報で危うく逮捕されかけました。もしあの時逮捕されていたら、人生も大きく変わっていたでしょうね。捕まって30日間拘置された経験もありますがね。」
とツォゾォさんは学生時代を振り返ります。78年の12月には、ツォゾォさんのお父さんは拷問がもとで亡くなり、半年後の4月には、後を追うようにしてお母さんも亡くなったそうです。
独立闘争で大きな犠牲を払いながら戦ったツォゾォさんは、その働きも大きかったのでしょう。その分、新政権の下で重用されています。教育省の職員として青少年のスポーツ制度を視察するために、82年にユーゴスラビアとタンザニアと中国を、83年にはカナダをそれぞれ歴訪しています。84年からは、ジンバブエ大学での研究生活が始まりました。86年にはフルブライト奨学金を得て、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学に留学し、2年間で演劇と映画の学位を取ったそうです。帰国後、92年の8月に副学長補佐に昇進しました。私が大学に滞在している時でした。
→「ジンバブエ滞在記21ツォゾォさんの生い立ち」(No.55 2013年3月10日)
1956年にハラレから約100キロ離れた小さな村に生まれたゲイリーや家族は、南アフリカの移住者が南部アフリカに打ち立てた安価な短期契約制度の中に組み込まれて搾り取られた人たちです。田舎に住んでいたアフリカ人がたくさん白人の経営する農場や石綿や金などの鉱山に流れていました。「その頃、両親は大変だったと思います。」とゲイリーは述懐しています。
1962年にゲイリーは父親と一緒に、ハラレのアフリカ人居住区ムバレに移り住みました。労働許可証と住むところが確保できたので、父親は市役所の警備係をしながら、ゲイリーをハラレの小学校に通わせようとしたのです。兄弟は、男が5人、女が4人いましたが、父親についていったのはゲイリーだけだったそうです。
「都会はムレワの田舎と違って、同世代の子供も垢抜けた感じがしましたが、暮らしは大変でした。給料が少なかったからです。文句を言う人もいましたが、白人の管理職が来て、田舎ではピーナッツバターなど食べられなかったんだから、それで充分、都会の生活を有り難く思えと言っていました。典型的なローデシアの白人です。アフリカ人の居住地区はロケイションと呼ばれていますが、下水などの設備も悪く、ひどい環境です。政府はアフリカ人の住宅環境など、問題にもしません。当時は、試験があってその試験に合格しなければ、進学は出来ませんでした。スミス政府は、再受験を許しませんでした。小学校を出たら、大部分のアフリカ人を農場か工場で働かせるためです。ボトルネックと言われています。大多数が瓶の部分、小学校から先に行ける人は瓶の先の部分でごく僅かというわけです。親が上の学校に子供をやるのも大変です。家畜を売ったりして、なんとか学費を都合しなければなりません。アフリカ人が学校にいくのは本当に難しかったのです。」と当時を思い出しながらゲイリーが話してくれました。
小学校を出たあとは、父親を助けてしばらく家で家畜の世話をしたあと、74年に2ヵ月間、ある煙草会社で働き、76年に別の煙草会社に採用されて6年間勤めたようです。独立戦争があったのはその期間です。戦争についてゲイリーは次のように話をしてくれました。
「78年、独立戦争中のことです。ムレワは『保護地区』になっていて、政府の軍隊によってたくさんの人が村に集められました。12月にハラレからムレワに帰る途中、白人の軍隊に襲われて腰の辺りを撃たれました。たくさんの血が流れて、気絶しました。一緒にいた友人が近くの村に助けを求めてくれて、その村に運ばれました。弾を抜いてもらって運よく助けられましたが、今でも腰に大きな傷が残っています。家族もみんな戦争に係わりました。弟も解放軍に加わり、撃たれてミッション系の病院に担ぎこまれました。そこに政府軍が来て『誰がテロリストか?』と弟を尋問したそうです。その頃、ちょうど戦争が終わったので命拾いしましたが、もう少し戦争が長引いていれば、弟もたぶん殺されていたでしょう。79年の暮れに戦争は終わり、独立したのは80年です。」
(ゲイリー)
→「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」(No.46 2012年6月10日)
独立戦争は、遠い過去の歴史ではありませんでした。
次回は「ジンバブエの歴史4:ハラレから戻ったあと・・・・」です。(宮崎大学医学部教員)