概要(写真は作業中)
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の巻末につけたジンバブエの歴史の3回連載で、今回は2回目です。
1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。
連載は今回のNo. 60(2013/8/10)からNo. 62(2013/7/10)までの3回です。
本文
前回の→「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」でセシル・ローズの侵略軍である遠征隊がハラレに到着してイギリスの国旗を翻した記念の場所、今日のアフリカン・ユニティ・スクウェアで長女と撮った写真を紹介しましたが、1992年の夏の話です。ローズが侵略を初めてから百年も経っていませんでした。あれから20数年、教科書でならう歴史は遠い過去の出来事だと考えがちですが、僕自身もそんな歴史の中を生きて来たんだと実感出来ます。(正確な表現のようにも思えませんが)
僕は第二次大戦直後に生まれた団塊の世代の中にいるようですが、
父親は31歳上で、西暦で言えば1920年代に生まれています。
会ったことはありませんが、
その父親はたぶん1800年代の生まれだと思います。
僕も戦後の貧しい時代や高度経済成長と言われる時代もみてきました。アパルトヘイト反対のささやかな抵抗もしたと思っています。
前回辿った「百年史概要と白人の侵略」は、ハラレで会ったゲイリーやツォゾォさんや二人のお父さんやお爺さんが体験した話、だったわけです。
少し前の新聞(「朝日新聞」2013年8月17日と18日)に、この一世紀もの間、ダイヤモンド業界を独占して来た「デビアス」の原石取引所が11月にアフリカに移転されるという記事が出ていました。移転先はカラハリ砂漠へと続く低木林が広がる
乾いたボツワナの首都ハボローネ。ロシア極東サハ共和国の国営独占企業「アルサロ」に2009年に採掘量を抜かれて追い詰められた「デビアス」が巻き返しを狙って新戦略を打ち出したという事態のようです。
「デビアス」は情け容赦なく採掘権の買収や企業合併を繰り返して1888年にセシル・ローズが操業した会社、その財力を武器にケープ植民地の首相になり、英国のお墨付きをもらって植民地拡大政策を強行、前回辿ったのはそんな白人の侵略の歴史でした。ローズの欲望とイギリスの果てしなき侵略欲のために、ゲイリーたちはずーっと翻弄されて来ましたし、これから先も翻弄され続けるのだと思います。
今回はアフリカ人の抵抗と搾取と収奪の構造をみてゆきます。
チムレンガ(解放)闘争
1896年に入ってアフリカ人の募る不満は爆発しましたが、
二つの出来事が引き金となっていました。
一つはジェイムスン侵入事件です。マショナランドとマタベレランドで金を期待できなくなったローヅにとって、ラントの金は大きな魅力でした。95年の12月に、ローヅは友人のジェイムスンとその部下500名をトランスヴァールに侵入させました。英国人を保護するという名目でしたが、計画は失敗に終わり、ローヅは政界からの引退を余儀なくされました。
トランスヴァールに派遣されたのは、大部分が英国南アフリカ会社の警察でしたので、南ローデシア(現ジンバブエ)にはほとんど警察が残っていませんでした。それに96年1月にはボーア人の勝利の報せがもたらされました。アフリカ人は時期が到来したのを感じて、遂に立ち上がったのです。
もう一つは牛疫です。
牛疫は牛や羊などのウィルスによる、急性で通例は致命的な伝染病です。89年に北アフリカに発生した牛疫は、95年にはザンベジ川にまで達し、96年初頭にはマタベレランドの家畜を襲い始めていました。90%以上の牛が疫病に侵されていましたので、政府の役人は病気の牛を射殺して回っていました。健康な牛が撃たれる場合も多く、アフリカ人の我慢もこの辺りで限界に達していました。更に、旱魃による被害も事態に追い打ちをかけました。
92年3月20日に、ンデベレ人は蜂起し、10日間でマタベレランド周辺には一人の白人もいなくなったと言われています。生き残った白人はグウェルやブラワヨで防御の陣地を組んで背水の陣を敷きましたが、ンデベレ人は会社や入植者から家畜を奪い返しました。
6月にロベングラの子ニャマンダがンデベレ人の王に選ばれましたが、その人選がンデベレ人内の抗争の原因となりました。
白人には、その権力抗争が助けとなりました。英国軍の応援を受けてはいましたが、6月にはすでにマショナランドのショナ人が蜂起していましたので、事態は深刻の度合いを増していました。
マショナランドでは6月14日から20日の間に、100人以上もの入植者が殺害されていました。ソールズベリ(現ハラレ)やウムタリ(現ムタレ)などでは、マタベレランドにならって防御の陣を組んで、白人はアフリカ人に必死になって対抗しました。
ショナ人は、7月中には主要な道路を押さえて勝利を手中にしたかに見えましたが、事態は白人に有利に展開してしまいました。
ンデベレ人が追い詰められて和解を余儀なくされていたために
会社と英国軍がマショナランドに集中出来たことと、ショナ人が団結出来なかったことなどが白人に有利に働いたためです。
(1896年の和解時のンデベレ人指導者たち。英国南アフリカ会社=BSACの人たちも含まれています。)
戦いは97年の間じゅう続いてアフリカ人側は多数の死者を出し、とうとう白人に屈してしまいました。
搾取と収奪
南ローデシア(現ジンバブエ)では、英国王室の特許状に従って
1890年から1923年まで英国南アフリカ会社の主導による統治が行なわれましたが、23年には入植者が主体となった英国の自治植民地政府を誕生させ、70年まで入植者の統治が続きました。
英国南アフリカ会社の下でも自治植民地政府の下でも、多数を占めるアフリカ人の政治参加は認められず、アフリカ人は小農や賃金労働者として搾取され続けました。
搾取の方法は、強制労働と課税と土地の収奪です。政府は様々な法律を作って、アフリカ人からの搾取と収奪に全力を傾けました。
1903年、政府はローデシア「原住民」労働局を創設して、安価なアフリカ人労働者の確保に乗り出しました。労働局は強制的に鉱山労働者を補給しました。その補給はショナ語でチバロと呼ばれて、強制労働、奴隷労働という意味です。
労働者の半数は、北ローデシア(現ザンビア)やニアサランド
(現マラウィ)やポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)出身のアフリカ人でした。残りの半分は土地を失なったか、税金の支払いが出来ない国内のアフリカ人です。12ヵ月間の契約労働で、鉱山資本家が利益を上げるために賃金を低く抑えましたので、賃金は極めて安く、アフリカ人の労働条件は劣悪でした。用意された粗末なブリキ小屋に寝泊り出来ればいい方で、自分で小屋を立てて住まいを確保しなければならない人もいました。配給される食事も内容が貧弱でしたので、不足分を自分で買い込んで補強しなければなりませんでした。12時間の交替制で労働時間も長く、医療もほとんど受けられませんでした。白人のアフリカ人に対する取り扱い態度もひどく、アフリカ人は鞭で脅されながら働かされていました。1900年から1905年までの間に、
そういった悪条件の下で3万4千人のアフリカ人が肺炎と壊血病のために死亡したと言われています。
こうした資本家の徹底した搾取によって計上された利益は、
英国や南アフリカの投資家の間で分配されました。
アフリカ人には現金で支払う税金も課せられました。1894年に始められた小屋税は、大抵の賃金労働者の1ヵ月分の給料に相当する10シリングにも及んでいます。10年後にはその額が、
倍の二十シリング(一ポンド)に引き上げられました。
政府は、アフリカ人が税金を支払うためには白人入植者のために
働かざるを得なくなると考えていました。事実、北ローデシアやニアサランド(現マラウィ)などではその政策は功を奏し、その地域の多数のアフリカ人が南ローデシアや南アフリカに流れて、
白人入植者のために安い賃金で働かされています。貨幣経済の中にいなかったアフリカ人には税金を支払うための方法が他になかったからです。
しかし南ローデシアの場合は、政府が考えていた程には賃金労働者を生み出せませんでした。多数のアフリカ人が、市場に出す作物や家畜を育てる小農になったためです。アフリカ人小農は自分たちの食糧は確保し、余った作物と家畜を売って税金の支払いに充てました。至る所に点在する鉱山や小さな町に住む人たちが
近在の農家から食べ物を買い入れましたので、小農は自分たちの商品を売りさばく市場が確保出来たのです。
1904年頃までには、食糧の国内市場の90%以上を
ショナ人とンデベレ人の小農が占めるまでになっていました。
しかし、この事態は入植者や資本家の望むところではありませんでした。英国南アフリカ会社は白人農家に土地を売却してアフリカ人小農に対抗しようとしましたが、充分な労働力が得られず、成果は見られませんでした。
そこで、会社はアフリカ人から土地を奪って現金収入の道を断ち、奪った土地を白人農家に売る政策を強行するに及んだのです。政府はアフリカ人だけを居住させるリザーヴを設定しました。リザーヴは雨の少ない痩せた土地で、多くは鉄道や収穫物を売る市場から遠く離れた場所に設けられました。リザーヴへの強制移住は徐々に行なわれ、1920年代には約65%のアフリカ人がリザーヴに住むようになっていました。
最良の土地を確保した白人農家は、政府に援助され、保護されながら着実に経済力をつけて行きました。
一方、肥沃な土地を奪われたンデベレ人とショナ人は経済力を失うばかりか、過密状態になってリザーヴから溢れ出し、政府の思惑どおりに次第に移住労働者に仕立てられていきました。
政府はさらに追い打ちをかけ、30年には土地配分法を成立させました。その法律によって、アフリカ人のリザーヴ外での土地の購入を禁じると同時に、アフリカ人居住地ロケイション以外の都市部の土地をすべて白人のものと定めました。保留した一部の地域や動物保護区を除いて、国土全体を黒人、白人専用の地域に二分してしまったのです。
30年代には、更に世界恐慌の皺寄せがアフリカ人に襲いかかります。政府は玉蜀黍(とうもろこし)規制法や家畜差し押さえ法などを制定して白人農家に優遇措置を与えました。
こうして最初は英国南アフリカ会社主導の政府が、その後は入植者主体の政府が、安価なアフリカ人労働者を抱える一大労働力供給源を作り上げていきました。アフリカ人は契約期間中に仕事を辞めれば、マスター・アンド・サーヴァント法によって厳しく罰せられ、職探しのためにリザーヴを離れる際には、パスと呼ばれる通行証の携帯を義務付けられていました。体制側はパスをアフリカ人の管理や統制の手段として悪用しました。
この間、アフリカ人は一方的に政府の言いなりになっていた訳ではありません。様々な形で抵抗をしながら、理不尽な抑圧と闘っています。
密かな抵抗運動
政府は白人入植者のために安価なアフリカ人労働者を確保する体制を築き上げましたが、同時に賃上げや労働条件の改善を求めて闘うアフリカ人労働者階級をも誕生させました。
小農の多くは土地を奪われて移住労働者に仕立てられましたが、
中には成功して資本を貯える小農もいました。自分たちの資本を店や土地に投資して財産を増やし、その人たちがやがては中産階級を形成するようになっていきます。
賃金労働者と小農と中産階級はそれぞれの形で政府の圧政に抵抗を試みていますが、第二次大戦までは、三者が団結して闘うことはありませんでした。
鉱山労働者はコンパウンドと呼ばれる制度の下で厳しく管理されました。逃亡率の高い移住労働者はフェンスに囲まれた、入り口が一つのコンパウンド(たこ部屋)に入れられました。比較的に逃亡の恐れの少ない熟練者や妻帯者には囲いの外側に住まいが設けられていました。労働者全員がコンパウンド警察に監視され、
命令に従わなかったり、働きが悪い場合には、鞭で打たれました。スパイも多くいましたし、手紙もすべて検閲されていました。
監視が厳しく、公然と抵抗したり組織だった抵抗は難しかったのですが、それでもアフリカ人は密かな抵抗を行なっています。わざと仕事を長引かせたり、監視の目を盗んで施設を破壊して会社に損害を与えたりしました。事故に見せ掛けて扱いの悪い白人監督を狙ったりもしていています。1907年にマゾウェ近くのジャムボ鉱山では、監督の自宅が何者かにダイナマイトで吹き飛ばされています。危険をおかして逃亡を企て、より高い賃金を払ってくれる鉱山に移る労働者も後を断ちませんでした。
事後の厳しい制裁が待ち受けていたにもかかわらず、1895年には初の鉱山ストライキが行なわれました。その後、ワンキー炭坑(1912年)やシャムバ鉱山(1927年)などでもストライキが行なわれています。
通例、指導者は逮捕されて閉じこめられる場合が多く、罰として3ヵ月から12ヵ月の苛酷な労働を強いられました。シャムバ鉱山の場合は、ニアサランド出身の労働者が国外追放となり、二度と南ローデシアで働くことを禁じられました。
農場労働者の場合は、鉱山労働者ほど監督は厳しくありませんでしたが、賃金は鉱山労働者よりも更に安く、生活条件もよくありませんでした。鉱山労働者と同じように、仕事を遅らせたり、
非協力的な態度を取ったりして、経営者の白人農家に消極的な抵抗をおこないました。町では、都市化に伴ってロケイションを中心に労働運動が芽生え始め、1927年にはブラワヨ・ロケイションに最初の労働組合である通商産業労働者同盟(ICU)が創設されました。ニアサランド出身の移住労働者クレメンツ・カダリィがケープタウンで創設したICUの支部として労働組合を発足させ、1932年頃にはソールズベリを中心に5000人の会員を擁するまでに成長させています。しかし、政府の締め付けも厳しく、世界恐慌のあおりも受けて、ICUは1930年の半ばには実質的に崩壊してしまいました。
小農は、移住労働者を作り出す政府の政策に激しい抵抗を示しました。税金をかけられると、可能な限り新しい土地に移り住んで税金逃れを試みました。白人入植者のために働くことを拒んだり、時にはフェンスを盗んだり、家畜を殺したり、作物に火を点けたりもしています。残念ながらまとまった形の抵抗ではなかったので大きな力とはならず、町から最も離れた地域の貧しい人たちが移住労働者になる結果となりました。
1920年代、30年代になって、中産階級層がストライキを行なっています。早くから宣教師の経営する学校で教育を受け、金持ちの小農や教師や商店主などになっていた人たちです。ただ、賃上げなどを強く要望した賃金労働者とは違って、その人たちの要求は、アフリカ人の公正な取り扱いを白人に求めるなどの穏やかなものでした。
(中学校の歴史の教科書A New history of SOUTHERN AFRICA)
次回は「ジンバブエの歴史3:工業化と大衆運動、武力闘争とジンバブウェの独立」です。向こうで出会ったゲイリーやツォゾォさんたちも巻き込まれた独立闘争も含まれます。(宮崎大学医学部教員)
執筆年
2013年9月10日
収録・公開
→「ジンバブエの歴史2 チムレンガ(解放闘争)、搾取と収奪、密かな抵抗運動」(No.61 2013年9月10日)