2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の2章「南アフリカの闘い」("The Struggle for South Africa")の後半で、①アフリカ人がヨーロッパ人入植者と戦った解放運動と、②白人政権に協力した日本と南アフリカの関係について書きました。

今回は、①北米に渡ったイギリス人入植者の繁栄の基礎となった奴隷貿易と、②奴隷制について書こうと思います。

本文

① 奴隷貿易

1章でイギリスやフランスなどの西ヨーロッパ諸国がこの五百年余りの間に繰り広げてきた侵略行為、奴隷貿易、植民地支配、新植民地支配の歴史を、2章でごく最近まで極端な形の植民地支配が続いていた南アフリカの歴史を辿りましたが、今回はイギリス人が入植したアメリカの歴史を辿ります。

民衆に愛された詩人ラングストン・ヒューズが「黒人史の栄光」(1958年)の冒頭で書いているように、アフリカ系アメリカ人は当初、探検家や水先案内人として新大陸に行きました。決して、奴隷として行ったわけではありませんでした。

大学用テキスト「黒人史の栄光」(南雲堂)

アメリカで最初に奴隷が運ばれたのは1619年。メイフラワー号で清教徒が現在のヴァージニア州ジェイムズタウン入植地にやってくる前の年です。19人のアフリカ人が売り払われました。以来19世紀半ばまで、主に西アフリカから少なく見積もっても900万人、多ければ1500~5000万人ものアフリカ人が大西洋を渡って無理やり連れ込まれたと言われています。

奴隷を運ぶ帆船(「ルーツ」より)

奴隷商人の利益と、アメリカからもたらされた産物は、ヨーロッパでアフリカへ連れて行かれて奴隷と交換される鉄砲や布に交換されました。奴隷はアメリカで売却され、そこでヨーロッパに運ばれる商品を作り出しました。所謂「三角貿易」です。産業資本家の富が増えて、アフリカが被害を受けました。

ヨーロッパ、中でもイギリスとアメリカの資本家たちが奴隷貿易と奴隷が行なう労働から莫大な利益を手に入れました。奴隷制は国際資本市場で重要な役割を担っていました。この大西洋を渡る奴隷貿易によって、大規模な初期の富の集積が行なわれ、資本主義への道をまっしぐらに進み始めました。「三角貿易」はヨーロッパの産業革命の基礎の一つでした。

奴隷のクンタ・キンテとデービス船長(「ルーツ」より)

中学校や高校で扱われる世界史では、「ワットが蒸気機関を発明して産業革命が起こり・・・・」と言われますが、産業革命を可能にした資本は、実は西欧諸国がアフリカ人から長年搾り続けて蓄積したものだったわけです。

アフリカにとって、奴隷貿易によってもたらされたものは、奴隷として連れ出された何百万もの人々とその子孫の際限ない苦しみという意味だけではなく、後に残された人たちにとっても、壊滅的でした。

② 奴隷制

無理やりアメリカに連れて来られた奴隷は大農園に売られて、綿、米、玉蜀黍(とうもろこし)、小麦などを栽培し、道路を建設したり、森林を伐採するなど、初期のアメリカの土台を作ったあらゆる過酷な労働を強いられました。

また召使い(メイドやボーイ)として白人にこき使われ、読み書きも禁じられました。逃げる者もいましたが、奴隷狩りに捕まって、多くが見せしめに厳しい屈辱的な罰を受けました。

奴隷の反乱もありました。大抵は力で押さえ込まれましたが、1831年のナット・ターナーの反乱では、60人ほどの奴隷主が殺されました。奴隷の不満が募れば募るほど、ますます反乱が起き、北部へ逃亡する奴隷の数も増えていきました。

1859年のジョン・ブラウンの反乱では、総勢23名がヴァージニア州のハーパーズフェリーにある政府の兵器庫を襲い、武器を奪いました。結果的には鎮圧されますが、ジョン・ブラウンが白人であったこと、計画的に兵器庫を襲って武装蜂起をしたこと、わずか22人の規模だったにもかかわらず政府軍をつぎ込んでも鎮圧に二日間かかったことなどの理由から、その蜂起は奴隷制を根幹から揺るがし、南北戦争のきっかけの一つになりました。

画像

(ジョン・ブラウン)

西欧の資本家は奴隷貿易やアメリカでの奴隷の労働によって得た利益を自分たちの産業を発展させるために使い、産業資本家が、奴隷貿易に投資した資本家よりも次第に力をつけて行きました。

次回は「アフリカ系アメリカ小史②」です。(宮崎大学医学部教員)

アフリカ系アメリカ小史前半では、「奴隷貿易」→「奴隷制度」の流れに沿って、英文で書きました。日本語訳もつけた全文は、下のアドレスをクリックすれば “A Short History of Black Americans” in Africa and Its Descendants「アメリカ黒人小史」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995; 2009; Chapter 3, pp. 72-78)のワードファイルをダウンロード出来ます。→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis8a.docx(画面上に出てくるZimHis8.docxです。)

『アフリカとその末裔たち』

執筆年

  2014年3月10日

収録・公開

  →「アフリカ系アメリカ小史①」(No. 67  2014年3月10日)

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  「アフリカ系アメリカ小史①」

2010年~の執筆物

南アフリカ小史一覧

<1>→「南アフリカ小史前半」

<2>「南アフリカ小史後半」

『アフリカとその末裔たち』

2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の2章「南アフリカの闘い」("The Struggle for South Africa")の前半で、①入植者による南アフリカ連邦の成立と、②アパルトヘイト政権について書きました。今回は後半で、③アフリカ人がヨーロッパ人入植者と戦った解放運動と、④白人政権に協力した日本と南アフリカの関係について書いています。

本文

南アフリカ小史後半

③ アフリカ人の抵抗運動

1910年に南アフリカ連邦が出来、1913年に土地政策の根幹となる原住民土地法が成立する前の年に、アフリカ人は抵抗運動組織「南アフリカ原住民民族会議」を創設しました。

1925年に「アフリカ民族会議」(ANC =African National Congress)と名前を変えていますが、今は南アフリカの与党です。

設立当初は、ロンドンに派遣団を送って陳情したり、壇上から反対を訴えかけるくらいの消極的な活動しかしなかったようですが、1940~50年代になると世界の流れに乗って、アフリカ人労働者が労働組合を作り、大規模なデモやストライキなどの積極行動を繰り広げるようになりました。

1955年にはクリップタウン郊外で大規模な国民会議を開き、全人種によるアパルトヘイト撤廃に向けての闘争を確認し合いました。しかし、1959年に「アフリカ民族会議」は分裂してしまいます。アフリカ人だけで闘おうとする理想主義者のロバート・ソブクエとアパルトヘイトの廃止のためなら誰とでも手を組むネルソン・マンデラの闘争路線をめぐる基本的な対立が表面化したからです。「パン・アフリカニスト会議」(PAC=Pan Africanist Congress)の創設は、追い詰められていた白人側には思いがけない幸運でした。「分断支配」すべきアフリカ人側が自分たちで分裂してくれたのですから。ソブクエとマンデラが少しでも歩み寄ることが出来ていたら、その後の歴史も大きく変っていたでしょう。

画像

(ロバート・ソブクエ)

ソブクエに率いられてパン・アフリカニスト会議は1960年に、パス法不所持の抵抗運動を単独で開始しました。アフリカ人であふれかえる警察署は想像以上に混乱し、警察がデモ隊に無差別に発砲する事態にまで発展し、国内は騒然となりました。これがシャープヴィルの大虐殺で、歴史の大きな転換点になりました。

シャープヴィルの虐殺(ポグルンド『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』より)

事件はただちに世界中に報道され、国連は非難決議を採択して経済制裁を開始しました。各国は表面上経済制裁に同調しますが、日本と西ドイツは流れに逆行して第2次世界大戦で中断していた通商条約を再締結してアパルトヘイト政権に応じました。その見返りに、日本は居住地区に関する限り白人並みに扱うという名誉白人の待遇を再度約束されましたが、アフリカ人にとっては、自国の都合しか考えない屈辱的な裏切り行為でした。

1961年にアフリカ人側はそれまでの非暴力の闘いを諦め、武力闘争を開始しました。白人政府は躍起になって力で押さえ込みにかかり、1964年までに、マンデラを含むすべての指導者を投獄しました。多くの指導者が逮捕を逃れて国外に逃亡しました。地下活動は続きますが、非常に困難を極め、1965年までに、武力闘争は完全に抑えこまれました。党の指揮権や解放軍はザンビアやタンザニアに移り、軍隊訓練はアフリカや海外で行なわれました。

ネルソン・マンデラ

指導者が国内にほぼいなくなった70年代に、まだ逮捕されていなかった大学生が闘争を始めました。指導的立場にいたスティーブ・ビコは、侵略を正当化する白人優位の体制のなかで自分に希望を見いだせなくなって諦め切っているアフリカ人の意識が問題で、自分や国に希望を抱いて体制に立ち向かおうと説き、多くの若い人たちが奮い立ちました。1976年にはアフリカーンス語の導入をめぐって高校生が政府と衝突して、たくさんの犠牲者を出しました。この事件はソウェトの蜂起と呼ばれています。

画像

(スティーブ・ビコ:小島けい画)

アフリカ人には厳しい時代が続きました。

④ 日本と南アフリカの関わり

いくらアパルトヘイト政権が国家予算の30%を警察・軍隊につぎ込んでも、人口の13%ほどにしか過ぎない人たちが大多数のアフリカ人を押さえ込むのは不可能で、アパルトヘイト政権が維持出来たのは良きパートナーがいたからです。アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、日本などは、表面上はアパルトヘイトに反対して経済制裁を唱えながらも、貿易の良きパートナーとしての関係を維持しました。日本はIT産業や他の産業に必要なレアメタルや金やダイヤモンド、安い農作物を輸入、代わりにトヨタやニッサンなどの自動車や工業製品を輸出、1988年には貿易高が世界一になって国連から非難決議をつきつけられました。日本の政財界は、自民党の二階堂進や石原慎太郎が旗振り役で南アフリカ政府と密接な関係を続けました。アパルトヘイト政権は、なくなりました。1990年に法律を変えないままマンデラが無条件で釈放され、4年後に全人種による選挙が行われて、初めてのアフリカ政権が誕生しました。

国外からの経済制裁の圧力、国内でのアフリカ人の抵抗運動、二重の設備を作ったり、無能な白人に高い給料を支払い有能なアフリカ人を使えないという制度自体への経済界の不満など、アパルトヘイト廃止の要素はいくつか考えられます。しかし最大の原因は、戦争が起きれば利益を分かちあっている先進国が一番困る、だったのではないでしょうか。内戦が起きれば白人側は米国、英国、フランス、ドイツ、日本などから直接間接に武器の供与を受け、アフリカ人側は、ソ連、中国、キューバ、北朝鮮、リビアなどの東側諸国から武器が流れて来て、南アフリカは灰になる可能性があり、多数派のアフリカ人が勝てば、アンゴラやモザンビーク、ジンバブエなどの社会主義政権が生まれる、そうなるとウランの産地が東側に移って東西のバランスが崩れるばかりか、利益を得ているすべての国が損をする→他のアフリカ諸国と同じく表面上はアフリカ人による政権を誕生させて実質を取る→そのためには圧倒的多数の支持を得る英雄が必要、その辺りがマンデラ釈放の真相のようです。

次回は「アフリカ系アメリカ小史前半」です。(宮崎大学医学部教員)

南アフリカ小史後半では、「大衆動員と抑圧」→「武力闘争」→「南アフリカの外国資本」→「南アフリカの帝国主義」→「黒人意識運動」→「ボタ、デクラーク、マンデラ」の流れに沿って、英文で書きました。日本語訳もつけた全文については、→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis7.docx(画面上に出てくるZimHis7. docxです。右のアドレスをクリックすれば “The Struggle for South Africa" in Africa and Its Descendants「南アフリカの解放闘争」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995) Chapter 2, pp. 46-70ワードファイルをダウンロード出来ます。)

『アフリカとその末裔たち』

執筆年

  2014年1月10日

収録・公開

  →「南アフリカ小史前半」(No. 65  2014年1月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「南アフリカ小史前半」

2010年~の執筆物

概要

『アフリカとその末裔たち』(Africa and its Descendants 1)の2章「南アフリカの闘い」(The Struggle for South Africa)の前半です。

『アフリカとその末裔たち』

1章のアフリカ小史を受けて、典型的な植民地支配を最近まで受けて来た南アフリカ小史の前半、ヨーロッパ人入植者が南アフリカを植民地化して安価な労働力を大量に生み出す搾取機構を打ち立てたという歴史背景です。(ハラレでは実際にゲイリーたちがこの制度の元で大変な暮らしを強いられていました。)

次回は南アフリカ小史の後半、アフリカ人がそのヨーロッパ人入植者と戦った解放運動と、白人政権に協力した日本と南アフリカの関係についてです。

本文

南アフリカ小史前半

南アフリカの歴史背景としては大きくわけて4つの大枠を掴んでおく必要があります。

①つ目はヨーロッパからの入植者(European Immigrants)がアフリカ人から土地を奪って南部アフリカに作り上げた季節労働者制度(Migrant labour system)。
②つ目は、オランダ系の入植者の国民党(Nationalist Party)が単独政権を取って推しすすめた人種差別政策アパルトヘイト制度(Apartheid system)。
③つ目は、アパルトヘイトと闘ったアフリカ人の解放闘争(Liberation struggle)。
④つ目は、日本とアパルトヘイト政権のかかわり、です。

今回は最初の二つ①と②についてです。

① 入植者による南アフリカ連邦の成立

最初に南アフリカに来たヨーロッパ人はオランダ人で、1652年のことです。

今のケープタウン辺り、ケープ地方にやって来ました。オランダ人入植者(Dutch immigrants、大半が農民だったのBoers【オランダ語で農民の意味】と呼ばれていましたが、のちに蔑称として使われましたので自らをアフリカーナー(Afrikaners)と呼ぶようになりました。)はのちにアパルトヘイト政権を打ち立てました。

当時ケープ地方(南西部)にはコイコイ人やサン人など、原始的な生活をしている人たちが住んでいましたので、入植者はその人たちを比較的容易に奴隷にして、自分たちの農場で働かせました。社会基盤は農業でした。

ケープタウンテーブルマウンティン

次にイギリス人が来てアフリカーナーとケープの覇権を争いました。イギリスはアジアの戦略拠点を競争相手のフランスに押さえられないように大軍を送り込みました。

奴隷貿易で蓄積した資本で産業革命を起こして産業化社会になりかけていたイギリスの狙いは、更なる生産のための安価な原材料と大量の安価な労働力でした。経済的に優位に立っていたイギリス人入植者(British immigrants)がアフリカーナーとの権力闘争に勝利して1795年にケープ植民地政府を樹立し、1833年には一方的に奴隷を解放しました。

敗れたアフリカーナーのうち、富裕は内陸部に大移動しますが、残りはケープ地方に留まりました。アフリカーナーは内陸部の行く先々で高度な文明を持つアフリカ人と衝突しました。

1854年頃までには一応富裕な海岸線の2州ケープ州とナタール州をイギリス人入植者が領有し内陸部の痩せた2州オレンジ自由州とトランスバール州をアフリカーナーが占有(厳密にはイギリス系がオランダ系の自治を承認)することで落ちついたものの、
オレンジ自由州でダイヤモンドが、トランスバール州で金が発見されて状況が一変しました。それまで南アフリカはインドへの航路としての役割はありましたが、さほど重要視されてはいませんでした。ダイヤモンドと金の採掘権を巡ってイギリス人入植者とアフリカーナーがアングロ・ボーア戦争(Anglo-Boer wars)を始めます。結果的には決着をつけずに、アフリカ人を搾取する一点に妥協点を見出して1910年に南アフリカ連邦(The Union of South Africa)を成立させました。どちらも過半数の議席に及ばずに妥協の産物として出来たイギリス人入植者とアフリカーナーの連合政権でした。

(南アフリカの地図)

アフリカ人から土地を奪い、アフリカ人に課税をして化貨幣経済に巻き込み、無尽蔵の安価な労働力を作り出して、自分たちの大農園や鉱山や工場や、白人家庭でこき使う大規模な搾取機構です。(ジンバブエは第二のヨハネスブルグ=金鉱を求めてやってきたこの時代のケープ植民地のイギリス系入植者がゲイリーたちの祖父の代の人たちから土地と家畜を奪って作った国で、植民相だったセシル・ローズは国に自分の名前をつけてローデシアと名付けました。ゲイリーたちにとっては何とも忌まわしい話です。)

ローズたちの駐留地はスクエア・ガーデン、アレックスと従姉妹と長女とで記念撮影

② アパルトヘイト政権

イギリス人入植者とアフリカーナーの連合政権は、1948年にアフリカーナーによる単独政権に変わりました総人口の13%に過ぎない白人の6割を占めるアフリカーナーが単独政権を取ったのは、第2次世界大戦が大きな引き金でした。

ヨーロッパが第二次世界大戦の殺し合いで疲弊したため、それまで虐げられ続けた人たちが権利を求めて闘う素地が出来上がっていました。アジア・アフリカ・ラテンアメリカでは独立運動、アメリカ国内では公民権運動と世界的な広がりを見せていきました。その余波を受けて南アフリカ国内でも、アフリカ人は積極的にデモやストライキをして政府に対抗しました。当時のイギリス系の与党統一党(The United Party)は意識に目覚めたアフリカ人労働者層が積極的に参加する闘争に対抗し切れませんでした。

少数の白人と多数のアフリカ人との緊迫したこの時期に、白人だけが投票権を持つ総選挙が行われました。アフリカーナーの国民党は白人人口の60%の大半を占める貧乏な農民(poor whiteに投票してくれれば、人種隔離政策(アパルトヘイト)で優遇する、つまり賃金の高い仕事は白人のために確保し、アフリカ人には低賃金のにしか就かせないというスローガンを掲げて選挙戦を展開、結果的には過半数を取ることになり、1948年にアパルトヘイト政権が成立しました。

政策の根幹は、アフリカ人から土地を奪って課税して作り上げた安価な無尽蔵のアフリカ人労働者から搾り取れる一大搾取構造でした。たくさんの法律を作り、人種によって賃金に格差をつけ、アフリカ人には単純労働しかさせず、居住区なども人種によって差別するという、徹底した差別政策でした。

③ アフリカ人の解放闘争と④日本とアパルトヘイト政権のかかわりについては、次回の「南アフリカ小史後半」で取り上げます。(宮崎大学医学部教員)

日本語訳は長く、ブログの制限枠目安をはるかに超えているそうです。インターネット上にファイルをおきますのでご利用下さい。右のアドレスをクリックすればワードファイルをダウンロード出来ます。→https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/Zim6.docx(画面上に出てくるZim6.docxです。)

執筆年

  2014年1月10日

収録・公開

  →「南アフリカ小史前半」(No. 65  2014年1月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「南アフリカ小史前半」