2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した24回目の「ジンバブエ滞在記24 ふたつの壷」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ふたつの壷

ザンビアと壺(小島けい画)

私の部屋の本棚に大小2つの壷が置いてあります。帰国前にゲイリーとフローレンスがくれた壷のうちの2つです。主食のサヅァやおかずなどを入れて使っていたものだそうです。私たちの大切な宝ものとなりました。大きい壷の下には、フローレンスが編んでくれたレースの敷物が敷いてあります。

今回はアフリカで暮らせたらと思っていただけでしたから、ゲイリーやアレックスを軸に、これほどまでに事態が急転回を見せるとは思ってもいませんでした。

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(アレックスと)

安価な労働力として大きな歴史の狭間で翻弄されるゲイリー、国の将来を担うアレックス、国民的な作家として活躍するツォゾォさんたちと身近に接しているとき、アフリカの仕組みとアフリカの置かれた厳しい現状の一端を垣間見ているような気がしました。

16世紀に始まった大規模な奴隷貿易によって経済の不均衡がもたらされ、その資本によって産業革命を起こした西洋社会は、資本主義の歯車を回し始めました。同時に、それまであったアフリカ人と西洋人との対等な関係を崩していきます。

しかし、奴隷貿易を可能にした原因は、実はアフリカ人の側にもあったのです。奴隷売買を覇権争いの道具に利用した人たちもいました。それに、奴隷を捕らえたのは、他ならぬアフリカ人でした。中には酒のジン1本と奴隷1人を交換した人もいたと言われます。ジンバブエで解放闘争が長引いたのは、力を合わせるべきアフリカ人同士が争いを止めなかったのも一因でした。もちろん、西洋人がアフリカ人を尊重し、自分たちの欲望をほんの少しでも抑えていたら、きっと歴史も違っていたでしょう。

ジンバブエでは、持てる白人も持たざるアフリカ人も、共に過去の負の遺産を背負って苦しんでいるように見えました。パリに着いてほっとした気持ちを覚えたのは、それだけ欧米諸国と日本の現状が似通っているからでしょう。

帰ってからしばらくは、何も書けませんでした。

ブランシさんはラ・グーマの7度目の命日に「3月から南アフリカに戻って子供や孫とずっと一緒に暮らす決心をしました。」とお便りを下さいました。

家族でロンドンに亡命中のブランシさんと、1992年7月

ゲイリーは私たちの帰った翌日、おばあさんにフローレンスとメイビィを追い出されて涙を流したそうです。

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メイビィ

アレックスは卒業と同時にブラワヨの教員養成大学の講師となり、イグネイシャスは自分の書いた詩と民話の原稿を送ってきてくれました。

今、2度とアフリカには行きたくないという気持ちと、それでもみんなに会いに行くことになるだろうなという気持ちが交錯しています。

いつかこの続編が書けたらと思っています。

1994年1月            宮崎にて

*****

これで「ジンバブエ滞在記」の連載を終わります。

次回は「『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年6月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記24ふたつの壷」(No.58  2013年6月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエ滞在記24 ふたつの壷」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した23回目の「ジンバブエ滞在記23 チサライ」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

「アー・ユー・ハングリ? 」

10月3日土曜日、いよいよジンバブエとお別れする日となりました。朝から、最後の準備に何かと気忙しく時間が過ぎて行きました。

午前中に大学の郵便局で最終便を出し終えて戻って来たとき、「家主のおばあさんが空港から電話を掛けてきたので、ゲイリーは血相を変えて買物に出て行ったよ。」と妻が言いました。お昼過ぎに一度この家に立ち寄りたいとのことです。おばあさんにしてみれば、大事な家財道具を変な日本人に持って帰られはしないかと思うと居ても立ってもいられなかったのでしょうか。すべて吉國さんにお任せしてありましたので、帰国については何も聞かされていませんでした。「私たちは夜の6時半には家を出て空港に向かいますので、7時迄は来ないようにして下さい。」と手紙を書いて、ゲイリーに渡してもらうことにしましょう。そうすれば、会わなくても済むでしょう。出来れば顔を合わせたくないと思いました。会えば必ず、不愉快な思いをしそうな気がしたからです。そして、予感は的中しました。

暮らした500坪の借家の庭

ゲイリーの狼狽(うろた)え方は尋常ではありませんでした。私たちとの付き合いを知られて職を失なう事態をゲイリーは恐れていたのでしょう。朝から1日じゅう、そわそわとして落ち着きがありませんでした。

私たちは今夜の便に備えて、昼すぎから1、2時間でも寝ることにしました。飛行機の中では眠りにくいですし、長男は特に飛行機に弱いので、少しでも寝ておいた方がいいと考えたのです。取り敢えず、着替えて横になりました。そのうち、門の所で声がしました。おばあさんが立ち寄ったのでしょうか。長男が起き出し、カーテンの隙間から庭を覗いて「おばあさんがゲイリーと一緒に庭の中を歩いているよ」とささやきました。

庭でゲイリーと

おばあさんが帰ったあとしばらくして、帰りの支度に取りかかりました。結局、なぜか興奮して誰も寝られませんでした。

ゲイリーたちが生まれて初めてのお風呂に挑戦したり、使っていた品物をゲイリーたちに引き取ってもらったりでそれからが大変でした。夕食の準備もありました。

最後に本当のさよならパーティをするつもりで、アレックスにチキンのセットを5つ買って持って来てくれるように予め頼んでありました5時には、ジョージと一緒に姿を現わすはずです。ゲイリーたちは家を空けられませんので、アレックスとジョージが空港まで見送ってくれる予定になっていました。

仲良しの長男と好物のチキンを頬張るアレックス

この日に限って2人はアフリカ時間でやって来て、焦る私をやきもきさせましたが、それでも6時前からゲイリー、フローレンス、メイビィ、アレックス、ジョージの5人と私たちで最後の乾杯をしました。少しは最後の別れを楽しめるはずでした。しかし、予想に反して、6時半に頼んでいた2台のタクシーが今日に限って6時に到着したのです。仕方なく、待ってもらいました。

しばらくすると、また門の方で車の止まる音がします。出てみますと、おばあさんでした。おばあさんは荷物をもって、タクシーで乗り着けていました。私は鉄の門をひょいと飛び越えて、おばあさんの前に立ちました。もうすぐ出られるのは分かっていますが、それまで庭の隅でもいいですから待たせて下さいと言っています。言葉はゆっくりと丁寧でした。

奥がガレージ、手前が門

しかし、出発間際のこの混乱している時に、なんという思い遣りのなさでしょう。それよりも、庭になど入られたら、応接間でしているさよならパーティをおばあさんが見てしまいます。おばあさんの大嫌いなアフリカ人が靴も脱がずに上がり込んでいるのを見れば、きっと卒倒するでしょう。ゲイリーも即刻馘です。ゲイリーのあの慌てぶりは、馘になったあとの職探しの厳しさを物語っています。ここは、おばあさんを中に入れるわけにはいきません。

この辺りまで、穏やかに行こうと思っていました。そして、落ち着いた口調で言いました。「アイムアングリ。」(私は腹が立っています。)おばあさんがすかさず、問い返してきました。「アー・ユー・ハングリ?」(えっ、お腹が空いているの?)

ここですべてが切れてしまいました。私たちは7時には出発していますので、それ以後に来て下さいと丁寧に手紙を書いてお願いをしました、今日までの家賃はきちんとお支払いしています、その辺りまでは覚えています。それから高い家賃を払った、今は友人との別れの一時を過ごしているので邪魔されたくない、そんなことを大声で捲くしたてたと思います。あまりの剣幕に圧倒されたのでしょうか、おばあさんは一目散にタクシーの中に逃げこみました。その光景がよほど珍しかったのか、タクシーの運転手が目を白黒させたあと、にやにやと笑っていました。英語で怒鳴り散らす事態になるとは、夢にも思っていませんでした。

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おばあさんと言い争った門の辺り

「チサライ」

折角の別れの時間を邪魔されて気持ちの治まらないまま、出発の時間となってしまいました。タクシーの前で、ゲイリーたちと最後の別れを惜しみました。二人で抱き合いましたが、私の顔がゲイリーの胸あたりでした。暗くてよく分かりませんでしたが、みんな泣いているようでした。

長女はアレックスとジョージと一緒に前の車に、あとの3人は後ろのタクシーに乗りこみました。いよいよ最後です。

しかし、まだ最後にはなりませんでした。私たちの乗った車が、途中で前の車を見失って、あらぬ方向に走り出してしまったからです。空港を知らない運転手がいるなんて。しかし、場所を知らない運転手に実際に巡り合わせて1時間ほど付き合った経験がありましたので、真っ青になりました。運転手に、降りて誰かに道を確かめるように頼みました。

白人街で

何十分かの遅れで、ようやく空港に到着しました。長女とアレックスとジョージが荷物の脇で首を長くして待っていました。

それほどの時間の余裕はありません。子供たちを2二に任せて、さっそくチェックインを済ませました。手続きはそれほど待たなくて済んだのですが、子供たちの所へ戻ろうとすると、一度入場したら待合室には戻れませんとガードマンが言います。何ということでしょうか。

激しく言い合いました。言い合っていても埒があきませんので、制止するガードマンと私が問答している間に、妻が擦り抜けて待合室にいる子供たちを呼びに行きました。どんどん人が増えて身動きができないほどの待合室でしたが、子供たちと荷物はアレックスとジョージにしっかりと守られていました。しんみりとお別れも言えませんでしたが、アレックスとジョージがいてくれてよかった、有り難かった、と思いました。

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ジョージの肖像画(小島けい画)

ショナ語でさようならはチサライと言います。慌ただしい出発となりましたが、これで辛うじて飛行機に乗り込めます。2ヵ月半のハラレでの生活の感慨より、正直ほっとした気持ちの方が強かったように思います。昇降口を昇って、機内に入る前に「チサライ。」とそっと呟きました。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年5月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記23 チサライ」(No.57)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエ滞在記23 チサライ」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した22回目の「ジンバブエ滞在記22 ジャカランダの季節に」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジャカランダの季節に

電話代

9月に入りますと、ジャカランダがちらほら咲き始めました。ジャカランダ南米原産の大木で、街路樹として街の至る所に植えられていました。薄紫色の花がすっかり色付いた頃に、私たちはこの国とお別れです。

9月も半ばを過ぎると、あちらこちらでジャカランダの花が目に入るようになってきました。そろそろ帰国の準備です。短かい期間ではありましたが、家を一軒借りて住んでみると、後始末の煩わしさも予想以上です。

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ハラレの街のジャカランダ

9月の上旬には、先月分の電気・水道代と電話代の請求書が届けられました。電気・水道代は、街に出かけるゲイリーに頼んで払ってもらいましたが、電話代が問題です。請求書の額面が1000ドルを超えています。確かに国際電話も使いましたが、吉國さんに教えてもらった料金と掛けた回数を考え合わせみても、やはり法外な額です。どうもばあさんが未払い分をためていたようです。電話を切られますとタクシーも呼べませんので、局まで行って説明するしかないでしょう。

街の郵便局

電話局は郵便局の2階にありました。事情を説明して、使った分だけ払いたいので8月分の明細を教えて欲しいのですがと頼みましたら、何年かのうちには明細が分かるシステムになる予定ですが、今は分かりませんので、払っていただくしかありませんと言います。千何百ドルも払うのは大変ですので、何回か同じ説明をしているうちに、双方の前提の食い違いに気付き始めました。相手はとうとう根負けして、ではいくら払えますかと言います。私の頭には請求された限りは全額を払うべきだという固定観念があったのですが、どうやら1度に全部を支払わなくても済むようです。付けがきくというわけです。それならそうと、最初から言ってもらえれば苦労して説明に四苦八苦しなかったのにと思いますと、疲れが倍にも感じられました。水道や電気の場合もそうでしたが、督促状は来るものの、滞納しても別に利子がつくわけでもないし、一部でも支払えば、水道も電気も切られないで済むようです。大量に消費する白人側の圧力があるのかも知れません。これでは市の行政もやり難いに違いありません。

大学構内郵便局

空港では日本から運んで来た5つのトランクが吉國さんの奥さんを悩ませてしまいましたが、そのお蔭で衣類などの不自由を感じないで済みましたし、何よりも食欲を落とさずに過ごすことが出来ました。しかしトランクが多いと、移動時にはタクシーも1台では済みませんし、何かと不便です。イギリスのヒースロー空港では、トランクが多いのにつけこまれて不愉快な思いをしました。充分に用を果たしたところで、思い切ってトランクを2つに整理し、2つを船便で送ろうと考えました。1つはゲイリーに引き取ってもらおうと思います。

大学構内を歩くアレックス

ルカリロ小学校でもらった壷もあります。一抱えもある陶器の壷が、日本までの長い船旅の間に壊れないで宮崎まで届く保証もありません。近くのショッピングセンターに出かけて大きな篭を買ってきました。草の蔓で編んだ篭です。その中にザンビアや衣類を何重にも巻きつけた壷を入れました。トランクの分も含めて、大きな荷物が5つにもなりました。こちらのダンボールは紙の質が悪いので、日本から送られてきたダンボール箱を使いました。
5つの大きな荷物を、1つずつ自転車の荷台に乗せて、そろりそろりと大学の郵便局に運びます。最近出来たこの郵便局では、今までこんなに大きな荷物を送る人はいなかったようで、思わず係員の手を煩わせてしまいました。

大学構内

ジンバブエでは高額の切手は発行されておらず、2ドルの切手が最高です。従って、普段でも航空便などは、何十枚もの切手を舌で舐めて貼りつけます。表に貼りきれない場合は裏も使います。5つとも船便で200ドル前後の料金でしたので、その分で行けば、トランクは切手だらけになりそうでした。しかし、係員はしばらく考え込んだ末、本局に電話で連絡を取る決心を固めたようです。しかし、電話は例によってなかなか繋がりません。長時間の交渉の末、ようやく話が着いたようです。「本局に連絡を取って一括払いに出来るようにしましたから、明日の朝にでも受領証を取りに来て下さい。」と係員が言います。あまりにも気の毒でしたし、まだ4つも大きな荷物が残っていますので、2人の係員にどうぞとそれぞれ5ドル紙幣を手渡しました。ささやかなお礼のつもりでした。

毎回、大きな荷物を自転車で運んで係員の手を同じように煩わせるのは大変でしたが、それでもなんとか無事手続きを済ませることが出来ました。あとは、荷物が無事に宮崎まで届くのを祈るばかりです。

手を煩わせた係員には、その都度5ドル紙幣を手渡しました。毎回毎回大変そうだったからです。その甲斐があったのでしょうか、最初に5ドルを渡した翌日に窓口に行った時には、普段は無愛想に渡される切手を係員自らが貼ってくれました。そして、その次からは郵便局に足を踏み入れたとたんに、拳を握りながら親指を立てて、にっこりと合図を送ってくれるようになりました。

ハラレを発つ前日の金曜日に、長女と一緒に郵便物を出しに大学の郵便局に出かけました。ちょうど郵便局の向かいに売店が出来ていましたので、そこでコーラを買って差し入れをしましたら2人の係員に大いに喜ばれました。

郵便局を出たところで、アレックスとジョージに出会いました。コーラを買って来て、4人で一緒に飲みながらしばらく話しこみましだ。ジョージは栓抜きを使わずに上手に2本の瓶を操って栓を抜き長女を驚嘆させました。日本語でジョージはどう書くのかと質問されて、譲治かな情事かなと冗談まじりに、長女は両方ともノートに書いて見せていました。ジョージは、その他にも次から次へと長女に質問を浴びせかけて、日本のことなどを熱心に聞いていました。特に漢字を見て感心し、譲治の書き方を一生懸命に覚えようとしていました。アレックスもジョージも優しかったからでしょうか、長女はこの日からすっかりジョージのファンになってしまいました。

ジョージ(小島けい画)

10月3日の最終日の午前中に最終便を出しました。本の船便でしたが、なんと、2週間後に宮崎に戻った時にはすでに自宅に届いていました。船便で出した小包みを係員が航空便扱いにしてくれたようです。真偽の程は確かめようもありませんが、拳を握りながら親指を立てて、にっこりと合図を送ってくれた郵便局員からの温かいメッセージだったと受け取っておきましょう。

盗まれた自転車

9月26日の土曜日の朝早くのことです。まだ薄暗いのに、窓の外から騒がしい話声が聞こえて来ます。眠気眼を擦りながらカーテンの隙間から覗いて見ますと、ゲイリーとフローレンスがこちらを向いて何やら真剣な顔で叫んでいます。妻や子供を起こさないようにと気を遣いながら外に出て2人の話を聞いてみますと、自転車が盗まれたと言います。ガレージに置いてあった2台が、明け方のうちに姿を消したようです。

突き当たりがガレージ

自転車は鍵を掛けないまま、シャッターを下ろしていないガレージに入れてありました。しかし、ガレージの北の端の方に置いてありましたから、門の方角から見えることはありません。外部からは見えないわけです。

門から入れば、ガレージまで行くのに、私たちの寝ている部屋の真横を通るはずです。誰も物音には気付いていません。ゲイリーは、明け方にガレージでかすかに音が聞こえたと言います。

玄関に寝ているデインは、死角の位置にあって門からは見えませんが、物音がすれば起きないはずはありません。ゲイリーによれば、シャッターを下ろしていないガレージに自転車を鍵を掛けないままで置いていた、1週間先には私たちが帰国するので近いうちに自転車を処分するかもしれないという事情を知った上で、帰国する日の1週間前の金曜日の夜から土曜日の明け方を狙った(金曜日は、週給の給料日で酒を飲んで浮かれる確率が高いそうです)、しかもデインが吠えなかったなどを総合して考えると、やはり以前からここで働いていてデインを手懐けられる人間、つまりグレイスがやったとしか思えないと言います。もしそれが本当なら、グレイスの件はあれで終わってはいなかったわけです。

ゲイリーとデイン

ハラレの生活にも慣れ、誰もが気分的にも少々浮かれた状態になっていましたが、ショナ人から「あなたは短期滞在の外国人に過ぎないんですよ。」という強烈なメッセージをもらったような気がしました。こちらは知らないつもりでも、いつも周りから見られていたんだと改めて思い知らされました。場合によれば刃傷沙汰に及んだかも知れないと考えると背筋が寒くなりました。給料の1年分、2年分にも相当する自転車を盗むのですから、見つかった時のそれなりの覚悟を決めての犯行だったに違いありません。発見された場合、相手も必死ならこちらが怪我を負わされる可能性も充分にあり得たでしょう。盗みの現場をへたに発見しなくてよかった、自転車2台で済んでよかった、私たちはそう思いなおして胸を撫で下ろしました。

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自転車に乗ったゲーリー

ところがゲイリーの方はそうはいきませんでした。帰る時に処分しないで、ゲイリーたちに自転車2台を残していくつもりだったからです。自転車に乗れないフローレンスは毎日のように、庭で乗る練習を重ねていました。練習の成果があって、ようやく乗れるようになったばかりです。その落胆ぶりは、見ていて気の毒なほどでした。メイビィでさえ、泥棒が自転車を担いで歩く仕草を何度も披露して見せてくれました。ゲイリーから繰り返し話を聞いていたからでしょう。ゲイリーはどうしても諦められないらしく、この地域の白人が雇っている私設警察に届けに行くと言い出しました。この辺りの白人地区ならわかりませんが、ロケイションにいけば、盗んだ自転車を捜しだすのは100パーセント不可能だと思います。

しかし、ゲイリーの決意は固く、動きそうにありません。無駄を承知で、朝早くからゲイリーについて、家の向かいにある私設警察の小綺麗な木製の小屋を訪ねました。

おそらく、複数の手慣れた連中の仕業でしょうが、土曜日の明け方に音も立てずに2台の自転車を運び出した手際の良さはさすがです。妻は自転車だけで済むだろうかと心配で、熟睡し難くなったようです。

ゲイリーには済まないとは思いますが、誰にも怪我がなかったのが不幸中の幸いだったと今でも思っています。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年4月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記22 ジャカランダの季節に」(No.56)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエ滞在記22 ジャカランダの季節に」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した21回目の「ジンバブエ滞在記21 ツォゾォさんの生い立ち」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ツォゾォさんの生い立ち

ツォゾォさんがアメリカでの誘いを断って、ジンバブエに戻ったのは生まれ育った国のためです。そして、いたずらっぽく笑いながら「独立戦争で国と深く係わり過ぎてしまいましたよ。」と付け加えました。

副学長補佐になってからますます忙しくなったにもかかわらず、ツォゾォさんは嫌な顔ひとつ見せずに、わざわざ細切れな時間を割いて、毎回私のインタビューに応じてくれました。

ツォゾォさん(小島けい画)

ツォゾォさんが生まれた1947年は第2次大戦が終わった直後で、欧米諸国は自国の復興に追われて、アフリカの植民地どころではなかった時期です。アフリカ諸国では、ヨーロッパで学んだ知識階級を中心に、独立に向けての準備が着実に進められていました。ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれています。その村からグレートジンバブウェのあるマシィンゴまで200キロ、国の中央部に位置する都市グウェルまで150キロ離れていて、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそうです。

広大なアフリカ大陸です。隅々にまでヨーロッパ人の支配が行き届いていたわけではありません。私たちがルカリロ小学校を訪れた初めての外国人だったのも頷けます。

ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていましたので昔のようにはいきませんでしたが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごしたチヴィの村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうです。

サハラ砂漠以南の他の地域でもよく似た統治形態をとっていたようですが、ジンバブエも、同じ祖先から何世代にも渡って別れた一族が一つのまとまった大きな社会(クラン)を形成していました。15世紀に栄えたモノモタパは、他の小さなクランを支配して出来た最大のクランでした。グレートジンバブエなどの遺跡は、外敵から身を護るためのものではなく、そのクランの富や威信を示すための建物であったと言われます。

長女と長男、グレートジンバブエで

一族には、当然、指導的な立場の人がいて、その人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていました。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれて、比較的恵まれた少年時代を過ごしたと言います。

村では、12月から4月までの雨期に農作業が行なわれます。野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度をしたり、子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉をひいてミリミールをこしらえたり、ビールを作るなどの家事に専念します。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通でしたので、ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛や羊や山羊の世話に明け暮れたそうです。

4月からは、男が兎や鹿や時には水牛などの狩りや、魚釣りに出かけて野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたと言います。

夜になると集まって、女の子はおばあさんから、男の子はおじいさんから、色々な話を聞いて楽しいひと時を過ごします。ツォゾォさんのおじいさんはとても話が上手だったそうで、「第1作『わが子、タワンダ』は、そのとき話してもらったおじいさんの話が、実は下地になっているんですよ。」とツォゾォさんが話してくれたことがあります。

『わが子、タワンダ』

年令の高い年頃の男女は、お年寄りに教えられて、踊ったり歌ったりしながらの、言わば集団見合いのようなゲームをやって、自分に相応しい相手を見つけたそうです。演劇の授業で見た、準備体操代わりのあの踊りも、小さい頃から教えられてきた伝統的な踊りの一つなのでしょう。ショナの社会には、伝統的に子供たちを全員で育てるという意識があり、大人は誰隔てなく子供たちを「わが子」(マイサン)と呼ぶそうです。ツォゾォさんの第1作の英語版の小説『わが子、タワンダ』のわが子も、その言葉です。共同社会の絆が、それだけ深かったということでしょう。(ツォゾォさんには、小・中学生用のテキストから戯曲と小説をあわせて、22冊の著書があります。学生時代に書いた第1作を除いて、すべてがショナ語の著書です。)

当時、学校に通えるアフリカ人は少なく、学校の数もごく僅かで、すべて教会関係の学校(ミッションスクール)でした。学校は無料でしたが、学校に通えるのは、両親がキリスト教徒(クリスチャン)で、教会の学校まで歩いて通学出来るという条件にかなう人だけに限られていました。

 

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インタビューに応じて下さったツォゾォさん

就学年令は高く、小さい時から学校に行ける人はそう多くはなかったそうですが、それは子供も働き手の一人だったからです。ツォゾォさんが低学年の時には100人ほどの生徒がいて、学校嫌いの生徒がよく逃亡をくわだてたりしたそうです。学校側は生徒に食べ物を出していて、逃げる生徒には「逃げたら、食べ物をやらないぞ。」と脅してつなぎとめる努力もしたということです。「いつの時代でもどこの国でも、本当に学校の苦手な生徒がいるものなんですねえ。」と二人で大笑いをしました。

ツォゾォさんの父親は教育も受け読み書きが出来た上に、教会の有力な会員でもありましたので、村の一軒一軒を回って子供たちを学校にやるように説いて回りました。その甲斐もあって生徒数もだんだんと増えて、5年生の時には生徒が200人以上になっていたそうです。その辺りから学校が有料になりました。現金を払えない人が多かったので、たいていの親は煉瓦を焼いたり、木材を切ったり、運動場の整地をしたりする労働作業で支払いに変えていたと言います。

長男と校長、ルカリロ小学校の教室で

教師の多くは白人で、ショナ語を話し、聖書を中心に算数とショナ語と英語が教科として教えられていました。7年の小学校時代を終えて、30キロ離れた中学校に4年間、150キロ西のグウェルの高校に2年間通ったあと、ツォゾォさんは1968年にジンバブエ大学に入学しています。経済的に子供を中学校にやれる親は少なく、入学しても授業料が払えないので退学する同級生も多かったと言います。ツォゾォさんの兄弟はすべて学校教育を終えたそうですが、そういう例は極めて珍しかったようです。

ジンバブエ大学構内(小島けい画)

中学校も高校もオランダ改革派の教会が経営する学校で、白人教師の大半は南アフリカからきた人たちでした。少数のアフリカ人教師もいましたが、当時は人種的な差別の非常に厳しい時代で、制度的にもヨーロッパ人用とアフリカ人向けとがはっきり区別されていましたし、行政の管轄も違っていました。学校は人種別に分けられていましたので、当然、ツォゾォさんの学校には白人、カラード、インド人の生徒はいませんでした。両親がマラウィとザンビアから来て定住していた外国人の生徒が2人だけいたそうです。白人の学校は都市部にあり、建物も立派で、1クラス15人の少人数制でしたが、アフリカ人の場合は、1クラスの人数が45人だったそうです。

子供たちが通ったアレクサンドラパーク小学校で

ツォゾォさんがジンバブエ大学(当時はローデシア大学と呼ばれていました)に入学した68年頃の社会情勢は非常に緊迫していました。65年にイギリスの意向を無視して一方的に独立を宣言し、強硬に白人優位の政策を進めるスミス政権に対して、アフリカ人側が武力闘争を開始していたからです。アフリカ人と白人との対決姿勢はますます鮮明になり、人種間の緊張は高まっていきました。

イギリス政府に後押しされ、国内の産業資本家を支持母体とする時の与党統一連邦党は、大多数のアフリカ人を無視しては国政を行なえない状況を熟知していましたので、かなりの数のアフリカ人中産階級を育てて自らの陣営に組み入れようと様々な改革を行なっていました。その政策によってツォゾォさんもジンバブエ大学への入学が可能になったというわけです。(大学案内によれば、入学者数は初年度57年が68人、独立時の80年が2240人、90年が9300人となっています。学生総数はツォゾォさんの学生時代が1500人で、私たちが訪れた92年でも約10000人でしたから、ツォゾォさんも含めて、大学教育の機会を得た人はほんの一握りの選ばれた人たちであったのは確かです。)

ジンバブエ大学

しかし、白人の大土地所有農家と賃金労働者は、台頭しつつあったアフリカ人労働者階級との競争を恐れて、ヨーロッパ人移住者によるローデシア戦線党を支援しました。その結果、62年12月の選挙では、ローデシア戦線党が圧勝することになります。

経済的にも軍事的にも力をつけていた南ローデシアは、53年以来のローデシア・ニアサランド連邦を解体します。64年にはローデシア戦線党がスミスを首相に立て、時の勢いを借りながら、強硬な政策を推し進めました。更に、61年に創られたジンバブエ・アフリカ人同盟(ZAPU)と63年創設のジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)の活動を禁止して、ジョシュア・ンコモ、ロバート・ムガベ、ンダバニンギ・シトレなどの指導者を逮捕する一方で、抑圧的な法律を強化しました。

土地分配法に固執する大土地農家と職業での白人優先政策を望む労働者に支えられて65年に一方的な独立宣言(UDI)を強行したスミス政権に対抗して、アフリカ人側のZANUとZAPUはそれぞれ武力闘争部門を創設し、666年には武力闘争を開始します。

更にスミス政府は、69年に土地分配法を改訂した土地保有法を制定し、国土を2分して20倍の人口(白人25万人に対してアフリカ人は500万人)のアフリカ人を不毛の地に押し込める土地政策を強行しました。そして翌70年には、新貨幣制度を導入して、共和国宣言をするに及んだのです。強制移住に対するアフリカ人側の抵抗は一段と強まり、人種間の緊張は増していきました。

ツォゾォさんも当然、闘争の渦中に巻き込まれています。取り込むべき「中産階級」の子弟であるツォゾォさんは、政府の思惑とは裏腹に、71年までの学生時代の3年間も、モザンビークの国境に近い東部のムタレなどで中学校の教員をしていた時代も、ハラレの教育省に勤務していた期間も、闘士として解放闘争の支援を続けました。

ハラレから車で一時間ほどのムレワ

人種差別政策の厳しかった当時、白人地域に出入り出来たアフリカ人は、白人の下で使われる労働者に限られていました。大学は白人地区にありましたので、キャンパス内だけは特別な扱いを受けていましたが、近くの白人地区に足を踏み入れたとたんに警察に逮捕される仕組みになっていたと言います。

学生1500人のうち5分の1の300人がアフリカ人だったそうですが、同じ卒業生でも白人とアフリカ人では給料の格差が著しかったので、71年には、大学生のストライキが行なわれ、翌年には全国的なストライキが敢行されたそうです。その時は逮捕されなかったものの、警察と激しく衝突しました。事態を憂慮した穏健派アベル・ムゾレワ主教が大学に来て、事態を収拾します。ムゾレワは政府と穏健派に担がれて79年に短命内閣を組織した人物です。

「今は太ってしまっていますが、これでも100メートルと200メートルを専門に走っていたんですよ、演劇にも興味がありましたね。」とツォゾォさんは学生時代を振り返ります。

10月の街での公演に向けての稽古、演劇クラスで

「政府による締め付けは厳しく、学生の中にもスパイがいて、同じ寮で暮らしていた学生があとでスパイだと分かってショックを受けたこともありますよ。武器の輸送を手伝っていたとき、そのスパイの通報で危うく逮捕されかけました。もしあの時逮捕されていたら、人生も大きく変わっていたでしょうね。捕まって30日間拘置された経験もありますがね。」とツォゾォさんは当時を述懐します。

隣国の独立や各国の経済制裁で追い詰められたスミス政権は、南アフリカからの唯一の資金援助を後ろ盾に、アフリカ人の抵抗運動に対して容赦ない弾圧を加えました。

その強硬な路線の餌食になって、78年の12月に、ツォゾォさんのお父さんは拷問がもとで亡くなっています。半年後の4月には、後を追うようにしてお母さんも亡くなったと言います。話しながら、当時の悲しい思い出が甦ったのでしょう。ツォゾォさんは机にわっと顔を伏せて、泣き出してしまいました。いつも陽気なツォゾォさんだけに、心の奥底を垣間見てしまったような気がして、しばらくの間、時間が止まってしまいました。停電のために薄暗かった部屋での、夕暮れの一刻でした。

映像学の授業でのツォゾォさん

76年になると、アメリカが介入し始めます。ZANUがソ連から、ZAPUが中国からそれぞれ闘争の支援を受けていたために、東側、特にソ連とキューバの介入をアメリカが恐れたからです。

国境を封鎖したり経済制裁に協力していたタンザニア、マラウィ、モザンビーク、ザンビア、ボツワナの近隣5ヶ国は、長引く闘争で経済的に苦しい状況に追い込まれていました。アメリカと近隣5ヶ国に、投資の利潤で甘い汁を貪ってきたイギリスなどの西側諸国も加わって、事態の収拾に向けての様々な会談や調停が繰り返されました。そして、79年にイギリスのランカスターハウスで行なわれた会議で、ようやく最終案が成立します。

翌年の80年2月の選挙では、とZANUが57議席、とZAPUが20議席、穏健派の統一アフリカ民族評議会(UANC)が3議席を取り、4月にはZANUのムガベを首班とするアフリカ人政権が誕生します。国名をローデシアからジンバブエに変えての独立でした。

しかし合意された最終案は、僅か3パーセントの白人に対して5分の1に相当する20議席を与えたり、土地を含め白人の特権を保護するなどの条件がついた妥協の産物であったため、独立とは名前だけの船出となってしまいました。政治や行政面ではアフリカ人が権利を勝ち獲ったものの、経済面や技術分野での主導権は白人や外国資本に握られて、基本的な搾取構造は変わりませんでしたので、ゲイリーたちを含む大半のアフリカ人にとっては経済面での大きな変化は期待すべくもなく、大半のアフリカ人の生活は相変わらず苦しいままでした。

独立闘争で大きな犠牲を払いながら戦ったツォゾォさんは、その働きも大きかったので、その分、新政権の下で重用されています。教育省の職員として青少年のスポーツ制度を視察するために、82年にユーゴスラビアとタンザニアと中国を、83年にはカナダをそれぞれ歴訪しています。

84年からは、ジンバブエ大学での研究生活が始まりました。86年にはフルブライト奨学金を得て、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学に留学し、2年間で演劇と映画の学位を取ったそうです。帰国後、92年の8月に副学長補佐に昇進しました。

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秘書とツォゾォさん

大学での講義をしたり、ショナ語のテキストを改訂したりする教師の顔、毎週月曜日に放映されるテレビの劇を演出したり、街や大学での演劇の指導をする監督の顔、母国語のショナ語で小説や戯曲を書いて国民に語りかける作家の顔、大学と外部との折衝役副学長補佐の顔、奥さんと共に2児を育む父親としての顔などの様々な顔を持ちながら、若者と古い世代との懸け橋として、ツォゾォさんは忙しい毎日を送っています。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2013年3月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記21ツォゾォさんの生い立ち」(No.55)

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「ジンバブエ滞在記21ツォゾォさんの生い立ち」