概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した13回目の「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」です。
1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。
本文
制服の好きな国
ジンバブエは制服の大好きな国です。いまだに学生服やセイラー服を脱げないでいる日本も相当なものですが、それでもジンバブエには勝てません。制服が買えないために学校に行けないアフリカ人も相当いるようです。
長男、クラスのみんなと
街角や白人街を歩いていますと、至る所で迷彩色の軍服や、職工や「庭師」などが着せられている青色のつなぎの服が目に飛び込んで来ます。制服は、アフリカ人=安い労働力という社会の一面を象徴する代名詞でもあります。
小学校の大変な交渉も終わり、あとはPTAの会費を払って制服や必要最低限の持ち物を買えば、子供たちも9月からやっと学校に通える、そう考えていました。しかしジンバンブエの現実は、またもやそう甘くはありませんでした。新学期が始まる前の週の月曜日に、学校までPTA会費を払いに行き、売店に立ち寄りました。売店とは言っても、再利用出来る品物を小さな部屋に並べているだけのものです。係のPTA会員が不用になった制服などを洗い直したり、繕ったりして必要な人に安く提供する便宜をはかっているようです。サイズが合えば安上がりですが、品数が非常に少なく、長男のネクタイが手に入っただけでした。アヴォンデイルショッピングセンターのスーパーにも制服類が置いてあると言われて、後日行ってみましたが見当らず、結局、街のバーバーズという高級デパートまで出かけなければなりませんでした。
バーバーズの前で
靴、ハイソックス、帽子、毛糸のセーターが男女共通で、そのほかに、男子はカーキ色のシャツと半ズボン、女子は水色のワンピースを着用しなければなりません。しめて470ドルです。これなら、法律では許されていても、白人地域に住んでいる「庭師」や「メイド」は、自分たちの子弟を学校に通わせようがありません。白人側の締め出し作戦は、大成功というわけです。
年令より1年歳下の7年生にいれてもらった長女は、1番大きなサイズでも肩幅が窮屈だと言います。新学期の前日だったので、無理を言って寸法直しをしてもらったものの、サイズが合わないとは思ってもいませんでした。
1番大きなサイズを目一杯広げてもらっても、やはり肩幅がきつそうです。明日はもう新学期が始まりますから、1日目は肩の縫い目をはずしてでも我慢するしかないでしょう。ただし、肩がぱかっと開いていますので、日中どんなに暑くても毛のセーターを脱ぐわけにはいきません。明日の朝、校長に事情を話してみれば、なんとかなるかも知れません。わずかですが、ブラウスにプリーツスカートの生徒もいたようですし、あの制服が認められるのなら、サイズの融通もきくでしょう。
翌朝、さっそく出かけて校長に事情を説明しましたが、プリーツスカートは選ばれた級長しか着られないから、今のままで我慢するか、特別に注文するかしかありませんな、とそっけない返事です。
長男と校長
後で知ったのですが、独立した今でも、校長にだけは生徒を殴る権利が法律で「保障」されているそうです。ひと目で教師に分かるように級長には他の生徒と違う制服を着せているのですと言う校長の態度が、いやに横柄に思えました。
またバーバーズ行きです。特別注文は普通なら1ヵ月はかかりますと言われましたが、縫製係の女性に直接会って事情を説明しましたら、何とか3日後には仕上げてあげましょうと約束してくれました。学校が終わるのを待って、その日のうちに長女を採寸に連れていきました。
しかし、苦労の末にやっと出来上がってきた新しい制服も、哀れ1日の命でした。教師の態度のあまりのひどさに、私たちが長女の学校行きをとめたからです。
担任の教師は神経質そうな中年の白人女性でした。子供と一緒に教室まで行ったとき、私たちは挨拶をするつもりでしたが、その人は親には目もくれずに長女だけを連れて中に入ってしまいました。1時間ほど部屋の外で待っていましたが、遂に姿を見せませんでしたので、互いに言葉も交わせませんでした。
その女性はアフリカ人が大嫌いで、その上、白人以外はすべてアフリカ人に属すると考えていたようです。従って、長女への風当たりもきつかったわけです。
ほとんど英語がわからない相手に自分の意志が伝わらず、自分の思い通りに行動しない生徒が気に入らなかったようです。英語も分からないくせに、難しいはずの算数を自分が教えているやり方とは違う暗算でやってしまう相手が、忌ま忌ましく思えたのか。
あるいは、自分の世界とは別のところで天真爛漫に漫画などの落書きに耽っている生徒が許せなかったのか。第2週目に、その人の堪忍袋の緒が切れてしまいました。自分の机に座って、大声で喚き散らす。机に近寄っては罵声を浴びせ、ノートを投げつける。英語の分からない人間に罵声を正確に理解する術もありませんが、それでも状況の判断は出来ます。小さい頃から外ではほとんど涙を見せたことのない長女が、我慢しきれずに泣き出してしまったと言います。
言葉の障壁があったにしろ、長くてもせいぜい1ヵ月の間です。
外国からの言わば客人を、もう少し大きな目で見てやれなかったものか。長女の方は「日本から来ました……。」で始まる自己紹介の英文をあれこれ考えて胸弾ませていたのです。自己紹介の機会すら与えられずじまい、最初からそんな雰囲気ではなかったそうです。
その国の事情もあるのでしょうが、7時45分から10時25分までが最初の区切り、20分のランチタイムのあと、10時45分から12時40分までが後半の区切りという授業時間の長さを含め、生徒への配慮不足を強く感じました。学校全体に潤いが少ないように思えたというのが小学校に対する正直な感想です。長女が学校に行かなくなった日から、ショナ人の友だちが学校の帰りに入れ替わり立ちかわり寄ってくれるようになりました。家が学校のすぐ近くにあって寄りやすかったせいもあるでしょうが、担任のひどさを知っているショナ人のクラスメイトが同情を示してくれたようです。あの人はアフリカ人が嫌いだから気にしないでねと慰めてくれたそうです。一度帰宅してから、わざわざ出直して来てくれる場合もありました。
長女、訪ねてくれたクラスメイトといっしょに
クラスメイトの1人ヘザーは、両親に事情を話したそうで、気の毒に思った両親が長女を自宅に招いて下さいました。私たちの方も、家の方にどうですかと誘われました。残念ながら時間の余裕がなくてその機会を逸してしまいましたが、結果的には、ジンバブエに滞在している間にその国の人から誘われた唯一の招待でした。
フローレンスのモデルぶりが板についてきました。プロの雰囲気さえ漂っています。ある日、フローレンスのザンビアが新しくなっていました。相変わらず、ゲイリーは破れたシャツを着ていましたが、少し余裕が出てきたところでフローレンスに新しいザンビアをプレゼントしたのでしょう。
フローレンス(小島けい画)
図柄と色の鮮やかさに惹かれ、ある日、ゲイリーに店屋のある場所を聞き、妻と二人でザンビアを買いに行きました。教えてもらった店が見つからなくて、どんどん歩いていくうちに、大量のザンビアを売っている別の店を見つけました。縦1メートル15センチ、横2メートル前後の布切れです。鳥や花の模様にアフリカ特有の雰囲気が漂っています。色の違う何種類かの図柄を探して買い求めました。粋なスカーフやテーブル敷きに変わりそうです。
ザンビアの上に置いた壺(小島けい画)
がらんとした倉庫のような建物のなかに、衣類や食器などの品物が大量に並べられているスーパーのような店でした。衣類は粗雑で、食器は壊れない金属性のものが多く、周りを見渡すとアフリカ人ばかり、向い側の遠距離バスの発着所には、人が溢れています。街の中心からだいぶ南に来たからでしょう。道路を越して工業地帯を過ぎれば、アフリカ人居住地区のロケイションです。後で、ゲイリーに教えてもらった店にも辿り着き、新たに違う種類のザンビアを手に入れました。中心街に近いせいか、こちらは店もさっぱりとした感じでした。店を教えてくれたゲイリーへのプレゼントに、クリーム色の半袖シャツをあわせて買い求めました。
ある日、門の方からフローレンスの鼻歌が聞こえてきた。ケイコ、ケイコと言いながら台所のガラス窓をとんとんと叩いています。何事が起きたのでしょうか。聞いてみますと、3人で街に行き、買物のあとで食事をしてきたのだそうです。よほど嬉しかったのでしょう。こんなに上機嫌のフローレンスを見たのは初めてでした。
フローレンス(小島けい画)
フローレンスを見ていると、女の人の毎日の仕事はきついだろうなと思います。今の日本のように、炊飯器や洗濯機や掃除機があるわけではりません。それどころか、電気も使えません。街に住んでいる人でも、経済的な理由で実質的に電気を使えない人が多いと聞います。
食事どきになると、いつも同じ匂いがして来ますので、ある日の夕方、部屋を覗いて食事作りを見せてもらいました。南アフリカやケニアなどの小説には主食の玉蜀黍の料理がよく出てきますので、1度は見てみたいと以前から思っていたからです。ケニアのムアンギさんから、日本ではとうもろこし粥と翻訳されている場合が多いけど、とうもろこし団子が1番近いね、と聞いたことがあります。
ゲイリーの部屋
ミリミールと呼ばれる白い玉蜀黍の粉を水にといて火にかけるだけなのですが、出来上がるまでかき混ぜ続ける作業は、米を炊くよりもはるかに重労働です。例の小さな携帯用のコンロですから火力も知れています。1つのコンロでおかずも作らなければなりません。
小1時間かき混ぜて出来上がったものは、ショナ語でサヅァと言われています。見せてもらった日に、フローレンスからおすそ分けをもらってみんなで食べてみましたが、さっぱりしていて食べやすいものでした。ご飯やパンのように、甘くないから常食になり得るのでしょう。ツォゾォさんの秘書のお弁当を見せてもらったことがありますが、サヅァをご飯に替えれば、日本のお弁当とまるで一緒だと思いました。
手伝ってもらうようになってから、洗濯は2家族分を風呂場の浴槽でお湯を使ってしてもらいましたが、その時、普段はフローレンスが湯や洗剤もままならず、時には水さえも不自由しながら洗濯しなければならない状況の中で生活しているのだと改めて思わざるを得ませんでした。
おそらく、フローレンスにとって、その日の外出は煩わしい家事から解放された初めてのひとときだったに違いありません。いつにないフローレンスの上機嫌の背後には、毎日の生活の大変さが潜んでいたのです。
ある朝、洗濯に来てくれたフローレンスが手首に緑の小さな布を巻いています。躓いて転んだ際に怪我をしたと言います。転んだ所に大きな石があって、打ち所が悪かったようです。傷を見せてもらいましたが、3センチほどの傷口がぱっくりと口を開け、中の肉が見えています。薬もつけています。さっそく手持ちの薬をつけて、包帯を巻きました。
化膿止めの薬の余分がなく薬屋に行って新しい薬を買ってもらいましたが、レシートを見ると、薬が11ドル、包帯が4ドルでした。食べるものもままならない生活では、怪我をしてもつける薬さえも思うように買えないのです。2、3日続けてその薬を塗ってみましたが、症状がよくならず、結局日本から持って行った手持ちの薬を使わなければなりませんでした。
ゲイリーの部屋のすぐ横にあるマルベリーの木は、たくさんの濃い赤紫色の実をつけています。木苺のように小さな種が口の中に残らないし、甘酸っぱくてなかなか食べやすい。家でも毎年、梅や苺などでジャムを作りますので、マルベリーをジャムにしてみようという話になりました。
マルベリーの木に登って
摘んだマルベリーをきれいに洗って芯を取り、レモンと砂糖を加えて火にかけます。あとは、灰汁を取りながら、焦げつかないように混ぜるだけです。時間はかかりましたが、なかなかの出来栄えです。さっそく、ゲイリーたちの所へ持って行きました。マルベリーがジャムになったのを見るのは初めてのようです。携帯用コンロで長時間煮詰めるのは大変です。普段は、砂糖も大量に使えないでしょう。大きな瓶に入ったジャム2本が、2日でなくなりました。パンなどの必需品に比べて、ジャム類は贅沢品で値段もはずみます。苺ジャムを買いましたら、29ドル98セントの値札がついていました。国産品ならもっと安いはずですが、国産の苺ジャムはないようで、ラベルには南アフリカ産と印されてありました。
マルベリー(小島けい画)
フローレンスにはマルベリージャムが珍しかったのか、田舎のウォルターとメリティへのお土産に、持って帰ってやりたいと言い出しました。さっそくみんなで大きな鍋一杯にマルベリーを摘み、私たちは再びジャム作りの職人となりました。次の日、新しく出来上がったマルベリージャムを持って、みんなはウォルターとメリティの通うルカリロ小学校に向けて出発しました。(宮崎大学医学部教員)
フローレンス(小島けい画)
執筆年
2012年7月10日
収録・公開
→「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」(No.47 2012年7月10日)