ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した12回目の「ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち」です。
1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。
本文
ゲイリーの生い立ち
ある日、私はゲイリーの生い立ちを聞きました。
ゲイリーは英語の呼び名で、本名はガリカーイ・モヨだそうです。グレイスがゲイリーをガーリーと呼んでいるのを聞いて、何と訛りの強い英語だろうと思っていましたが、なるほど、ガーリーは言わばショナ語の愛称だったわけです。食堂で2人きりになって、いつかこの国や人々について書きたいので、少年時代、学校生活、家族、独立戦争、独立後の生活、国の現状と将来についてなど、ゲイリーの目からみたゲイリーのジンバブエを話してほしいと頼みましたら、次のように話してくれました。
生い立ちを語るゲイリー
私は1956年4月3日に、ハラレから98キロ離れたムレワで生まれました。ムレワはハラレの東北東の方角にある田舎の小さな村です。小さい頃は、おばあさんと一緒に過ごす時間が多く、おばあさんからたくさんの話を聞きました。いわゆる民話などの話です。家畜の世話や歌が好きでした。聖歌隊にも参加していて、いつでもよく歌を歌っていました。
その頃、両親は大変だったと思います。白人の経営する農場や鉱山にたくさんの人が流れていました。石綿や金などの鉱山です。
1962年に私は父親と一緒に、ハラレのアフリカ人居住区ムバレに移りました。労働許可証と住むところが確保できたので、市役所の警備係をしながら、私をハラレの小学校に通わせようとしたのです。そして、私はジョージ・スターク小学校に2年間通いました。兄弟は、男が5人、女が4人いましたが、父親についていったのは私だけでした。
都会はムレワの田舎と違って、同世代の子供も垢抜けた感じがしましたが、暮らしは大変でした。給料が少なかったからです。文句を言う人もいましたが、白人の管理職が来て、田舎ではピーナッツバターなど食べられなかったんだから、それで充分、都会の生活を有り難く思えと言っていました。典型的なローデシアの白人です。アフリカ人の居住地区はロケイションと呼ばれていますが、下水などの設備も悪く、ひどい環境です。政府はアフリカ人の住宅環境など、問題にもしません。
2年後、父親が職を失なったので、ムレワに戻り、ルカリロ小学校に行きました。ルカリロ小学校は、今度みんなで行く予定の、ウォルターとメリティが現在通っている小学校です。7年生まで行って、小学校は修了しました。小学校では、英語、歴史、地理、算数、国語のショナ語と聖書をやり、進学のための主要科目は英語と算数でした。教師はいい人も少しはいましたが、人種による差別意識の強い人も多くて、教室で生徒をよく殴りました。サッカーもしましたが、聖書と歌が好きでした。
ルカリロ小学校
当時は、試験があってその試験に合格しなければ、進学は出来ませんでした。スミス政府は、再受験を許しませんでした。小学校を出たら、大部分のアフリカ人を農場か工場で働かせるためです。ボトルネックと言われています。大多数が瓶の部分、小学校から先に行ける人は瓶の先の部分でごく僅かというわけです。親が上の学校に子供をやるのも大変です。家畜を売ったりして、なんとか学費を都合しなければなりません。アフリカ人が学校にいくのは本当に難しかったのです。
小学校を出たあとは、父親を助けて家で家畜の世話をしていました。74年に2ヵ月間、ある煙草会社で働きました。そのあと、76年に別の煙草会社に採用されました。GAという会社で、給料は1週間に8ドルでした。今、空港の近くにある同じ系列の会社で弟が働いていますが、月給が600ドルですから、今ならたぶんそれくらいの額だと思います。事務員で、入金伝票を書いたりする事務所での仕事でした。そこには、6年間勤めました。
78年、独立戦争中のことです。ムレワは「保護地区」になっていて、政府の軍隊によってたくさんの人が村に集められました。12月にハラレからムレワに帰る途中、白人の軍隊に襲われて腰の辺りを撃たれました。たくさんの血が流れて、気絶しました。一緒にいた友人が近くの村に助けを求めてくれて、その村に運ばれました。弾を抜いてもらって運よく助けられましたが、今でも腰に大きな傷が残っています。
家族もみんな戦争に係わりました。弟も解放軍に加わり、撃たれてミッション系の病院に担ぎこまれました。そこに政府軍が来て「誰がテロリストか」と弟を尋問したそうです。その頃、ちょうど戦争が終わったので命拾いしましたが、もう少し戦争が長引いていれば、弟もたぶん殺されていたでしょう。79年の暮れに戦争は終わり、独立したのは80年です。
独立後、再び同じ会社に戻って働きました。それも、次の年の81年までです。その後、会社は競買にかけられましたから、新しい仕事を探さなければならなくなりました。家族を支えていかなければならないので、必死で仕事を探しましたがなかなか見つかりませんでした。田舎とハラレを行ったり来たりしながら、農場で働いたり、石綿や食用油の工場に行ったりなど、臨時雇いの仕事を転々としました。
去年の暮れに、現在私が通っている教会に来ている人から、売りに出している家の世話をする人を探している友達がいるので働かないかと誘われて、この家に来ました。今、この家は55万ドル(約1375万円)で売りに出されています。家を見に来た人は、たいてい口をそろえたように、高すぎると言っていますから、すぐには買い手は決まらないと思いますが、この仕事もこの家が売れるまでです。ここに来たのは今年の1月の初めで、その月の終わりに他の所に住んでいた家主のおばあさんが戻ってきました。すでにお話したように、ここの給料は1ヵ月に170ドル(約4200)です。草花や樹の水やりと家の番が仕事ですが、買物や銀行や郵便局にも行かされます。週に1回、木曜日ですが、おばあさんの妹の車が来て、一緒に買物に連れて行かれます。その日は1日仕事で、銀行や郵便局にも立ち寄ります。
家主のおばあさんが住む家を借りて暮らした借家
あなたが来る前は、この家と交渉役の日本人の方の家とを何度も往復しました。家主のおばあさんの伝言を伝えるためです。でもそのお陰で、こうして運よくあなたに会えました。スミス政権の下では、人々の暮らしは大変でした。軍隊が村に解放軍の捜索に来て、たくさんの家が焼かれ、財産を失ないました。解放軍の支援をしたからという理由です。当時は、交通の手段が奪われて他に方法もありませんでしたから、誰もが長い距離を歩くしかなかったのです。私もムレワまでの約100キロの遠い、遠い道を歩いて帰りました。
軍隊は、老人も子供も容赦なく殴りました。友達もたくさん死にました。小学校以来の一番の親友も死にました。もう2度と帰って来ません。私など、今生きているだけでも幸運な方です。戦争で戦って独立したのに、終わってみれば仕事がありません。この国がどうなってゆくのか、私には全くわかりません。昔に比べれば、学校には行きやすくなりましたが、それでも物価が高くてかないません。私には家族がいるので、一生懸命に働くつもりですが、これから先はどうなるかやはり分かりません。
ウォルターとメリティを小学校にやるのに、毎年10ドルずつかかっています。170ドルでは大変ですが、ムレワの家では、玉蜀黍(とうもろこし)や野菜を育て、それらの一部を売ったお金で、何とか生活しています。
ウォルターとメリティ
今一番の願いは、一人立ちして自分でなんとかやっていけるように、子供たちを学校にやることです。そのためには早く運転免許を取って、タクシーの運転手になろうと思っています。そうすれば、何とかウォルターを中学校にやってやれると思います。
毎週日曜日の朝、ゲイリーは歩いて教会に出かけています。南の方に4キロほど行った所にある教会です。私たちが住むようになってからは、自転車に乗って出かけるようになったようです。家族が来てからは一度も出かけてはいませんが、そこで賛美歌を歌うのもゲイリーの楽しみだそうです。独立戦争で死ぬような目に遭いながら、戦争が終わっても、結局、苦しい生活は変らなかったようです。現金収入を得るために、田舎の家族と離れて、都会に来て働いて、今は侘しい独り暮らしです。
一人暮らしのゲイリーを訪ねて来た家族とお母さんと従兄弟
ほら、まだこんなに傷跡が残っているでしょうと、ゲイリーは腰骨の上についた古傷を見せてくれました。独立戦争で親友を失なった話をしてくれた時には、目に涙を浮かべていました。
話し終えたあと、賛美歌を何曲か歌ってくれました。おそらく、苦しい毎日の生活や不安な将来への思いを交錯させながら、もう二度とは帰って来ない親友を思い出して歌ってくれたのでしょう。憂いに沈んだゲイリーの歌声は、四方の白い壁に跳ね返り、
聴きいる私の胸のなかに、ずんと沁み入るようでした。(宮崎大学医学部教員)
ゲイリー
執筆年
2012年6月10日
収録・公開
→「ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち」(No.46)