新任教官紹介「宮崎も14年目になりました」
概要
教授職に就いた時に依頼があって書いたものです。
本文
新任教官等紹介
英語科教授 玉 田 吉 行
研究室にて
「宮崎も十四年目になりました」
玉 田 吉 行
宮崎も十四年目になります。
三十八歳でこの大学に来ました。その時二年生だった人たちが最初の学年です。同僚だった宮田さん(現在、高知医科大学におられます)が在外研究に行かれることもあって、その年だけ、変則的に一、二年生を担当しました。それ以降は、長いこと、一年生ばかりの担当が続きました。最初の学年の人は、卒業して九年目になるのでしょうか。
それまで、「わい、ABCもわかれへんねん」という大学で授業をしたこともありましたから、授業の成り立つ空間は、天国に近いように思えました。(最近は、携帯電話がなったり、授業中にまんがを読みながらパンを食う学生もいて、少し雰囲気が変わってきたようですが、今のところまだ、充分に授業の成り立つ空間です)
英語の教員も二十六年目です。受験で行き先が見つからなかったのに、高校では進学を担当し、今は大学で授業です。英語も好きではなかったですし、学校では疎外感ばかり味わっていた方ですから、人生、どうなるかわかりませんね。
考えたり書いたりする空間を大事にしていたら大学に辿り着きました。
昭和二十四年の兵庫県生まれです。中学生の時に東京オリンピックがあり、大学受験で初めて新幹線に乗り、入学したとたんに学舎が封鎖されました。大阪万国博覧会のある夏に、梅田の地下街を通って地下鉄に乗り換え、大学のバスケットボールのリーグ戦に通った記憶が残っています。
英語をやり始めたのは、大学を卒業してからです。アフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトに惹かれてアメリカに行きました。そして、その延長上でアフリカにかかわるようになりました。
リチャード・ライト
アフリカにかかわった限り、ある一定の期間、アフリカで家族と暮らしてみたいと思って、九十二年に短期の在外研究で、南部アフリカのジンバブエに家族で行ってきました。可能ならば、その年に南アフリカに行けるとよかったのですが、まだアパルトヘイト政権に対して表向きは「文化・教育の交流」が禁止されていましたから、公務員としては、南アフリカには行けませんでした。時は移り行くもののようですね。
首都ハラレで借りて家族で住んだ500坪の借家
文学や語学関係の人と接することが多かったので、今の環境は新鮮です。
二人の子供も、大学に行くのに家を出て、随分と楽になりました。
長いこと、片道約十七、八キロの道を自転車で通いましたが、四十五を過ぎた辺りから、背中の張りがすぐには取れなくなり、少し前から車を使い始めました。
宮崎大学で学生や教員と週に一回のバスケットボールは続けていますが、いつまで続きますか。
近況報告も兼ねました。学校に来たら、立ち寄って下さい。コーヒーでも、淹れましょう。
からすうりもあけびも採って、歳が暮れる 我鬼子
平成十三年十一月十一日
略歴
1975年3月 神戸市外国語大学外国語学部卒業
1976年4月 兵庫県立東播磨高校教諭
1981年4月~83年3月 兵庫教育大学大学院修士課程
1983年4月 大阪工業大学非常勤講師
1986年4月 同上講師
1988年4月 宮崎医科大学講師
1992年7月~10月 ジンバブエ大学で短期在外研究
1996年2月 同上助教授
2001年5月 同上教授
論文
著書
1.玉田吉行訳、ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』〈門土社、一九九二年〉。
2.TAMADA Yoshiyuki, Africa and Its Descendants (Mondo Books, 1995).
3.TAMADA Yoshiyuki, Africa and Its Descendants 2 (Mondo Books, 1998).
原著
4.TAMADA Yoshiyuki, “Realism and Transparent Symbolism in La Guma’s Novels,” Studies in Linguistic Expression No.12, pp. 73-79, 1996.
5.玉田吉行、「アフリカとエイズ」、「ごんどわな」22号、2~13ペイジ、2000年。
執筆年
2001年
収録・公開
宮崎医科大学篠懸会「篠懸」 第12号 37-38ペイジ