エイズから人類を救うアーネスト・ダルコー医師
概要
(作業中)
本文(写真作業中)
エイズから人類を救うアーネスト・ダルコー医師 玉田吉行
ケープタウンで
南アフリカを拠点にエイズから人類を救う医療活動を行なう人が現われました。アーネスト・ダルコー医師です。蔓延するエイズ患者と高いHIVの感染率を考えれば、国そのものの存続を危ぶむ声さえ出ていましたが、医療と経営を結びつけてボツワナでエイズ患者の治療に成功しました。今はケープタウンにエイズ対策を専門に行なうブロードリーチ・ヘルスケア社を設立して南アフリカのエイズと闘っています。
アパルトヘイト体制がなくなりアフリカ人政権が誕生しても、大多数のアフリカ人の生活は変わらず、従来の貧困問題に加えて犯罪率の高さが国の荒廃に拍車をかけ、エイズが更に追い打ちをかけています。NHKスペシャル「アフリカ二十一世紀」(二〇〇二年二月二十日放映)は、南アフリカの現状を次のように報告しています。
「この国を直撃しているエイズは、アパルトヘイトと深い関係があると言われます。現在、エイズ感染者は五百万人、六人に一人、ここソウェトでは三人に一人が感染しています。アパルトヘイト時代、鉱山で隔離され、働かされていた単身者が、先ず、売買春によって感染し、自由になった今、パートナーに感染を広げているのです。」
番組では、月に一度、国立病院に薬をもらいにくる末期のエイズ患者が紹介されていますが、その女性が手にしたのはエイズ治療薬ではなく、抗生剤とビタミン剤だけでした。ウィルスの増殖を防ぐ抗HIV薬は一人当たり約百万円の費用がかかります。その年の末に、南アフリカは欧米の製薬会社と交渉してコピー薬を十分の一の価格で輸入出来るようにはなりましたが、薬の費用を政府が負担する国立病院では、感染者が余りにも多過ぎて薬代を政府が賄えなかったからです。「感染者すべてに薬を配るとすれば、年間六千億円が必要で、国家予算の三分の一を当てなければならなりません」、と報告しています。
南アフリカ政府は、激増するエイズ患者に対処するために、九十七年に「コンパルソリー・ライセンス」法を成立させました。欧米で劇的な成果をあげていた多剤療法のための抗HIV薬を安価で手に入れるためでした。しかし、欧米の製薬会社の反対にあって計画は頓挫します。その辺りの事情を帚木蓬生は小説『アフリカの瞳』(「講談社、二〇〇四年」)の中で次のように書いています。
「こうした動きとは別に、フランスの〈ル・モンド〉が日曜版の特集で、製薬会社がエイズ治療薬の知的所有権をいかに主張してきたかを詳細に報道した。ひと月前のことだ。製薬会社はこの十数年、ひとつのエイズ治療薬の開発費が最低でも三億ドルから十億ドルにのぼるのを理由に、知的所有権を譲れないと強調し続けてきた。貧しい開発途上国が、価格の大幅値引きとコピー薬の製造あるいは輸入の許可を世界貿易機関に訴えても、毎回否決され続けた。今ではエイズ治療には多剤併用が中心なので、ひとりの患者が一年間に使う薬剤費は平均して五千ドルから一万ドルだ。それは開発途上国の一人あたりの年収の十倍から二十倍に相当する。つまり現在の薬価を十分の一に下げたところで、貧しい国の患者には手の届く額ではない。それなのに、世界貿易機関は去年の八月、いかにも大英断のような顔をして、コピー薬の製造認可と、正規薬の薬価の十分の一での輸入を認めた。しかしこれは全くの御為ごかしであり、貧しい国の患者の救済にはほど遠い。〈ル・モンド〉の記事内容を翻訳紹介した英字新聞を読んだとき、作田はこれまでの自分の主張がそのままそっくり認められたような気がした。ところが記事は、さらに二歩も三歩も踏み込んだ論調を繰り広げていたのだ。記者たちは、エイズ治療薬によって得た各社のこれまでの利益を細かく計算して、具体的な数字を出していた。それによれば、十数年前に発売されたエイズ治療薬による収益は既に開発費の七、八倍に達し、開発途上国での価格を現在の千分の一に下げても、充分採算がとれていた・・・・」
永年の苦しい獄中生活や解放闘争を経験した新政府のアフリカ人が国民の生活水準の向上を願わないとは考えられませんが、経済基盤を持たない政権に、実質的な改革を求める方が無理なのでしょう。番組の中で、グレンダ・グレイ医師は政府の無策を次のように嘆いています。
「アパルトヘイト政府は、エイズに何の手も打ちませんでした。アフリカ人の病気だからと切り捨てたからです。新しい政府も、対策を講じない点では同罪です。感染の拡大は止まりません。これはもう、大量虐殺です」。
南アフリカに
ダルコーさんはその南アフリカに行ってエイズと闘っているのです。ダルコーさんは、永年のアパルトヘイト体制の影が色濃く残っている南アフリカで医師や病院に頼らずにエイズ治療が出来るシステムを開発しました。白人の利用する民間病院に医師が集中し、アフリカ人が利用する公立病院に医師が極端に少ない現状の中でシステムを機能させる必要性に迫られたからです。そのシステムでは、感染者の多い地域で雇い入れられた現地スタッフが、定められたマニュアルに従ってエイズ患者の簡単な診察を行ない、その診断結果がファックスで出先事務所に送られます。出先事務所では、その情報をパソコンに入力してデータベース化され、必要に応じてケープタウンのセンターの医師に相談します。センターでは、医師が情報を総合的に判断し、現地スタッフが患者に薬を届けるのです。医師が現場にいなくても治療が出来、一人の医師がたくさんの患者を治療するという、南アフリカの現状に即した体制です。
そのダルコーさんに、かつて「国境なき医師団」で活動した医師貫戸朋子さんがインタビューを試みました。「私たちはエイズとの闘いに勝てますか?」という貫戸さんの質問にダルコーさんは次のように答えました(BS特集「アーネスト・ダルコー~地球をエイズから救う~」NHK衛星第一、二〇〇六年八月十三日放送)。
「もちろんです。私は不可能なことはないと自分に言いきかせています。四千万人の感染者を救うのは無理だと言う人もいます。でも、然るべき時に然るべき場所で指導力を発揮すれば、実現できます。そもそも私たちは、何故失敗するのでしょうか。それは、私たち自身の中に偏見が潜んでいるからです。その偏見に打ち克つことが出来れば、エイズは克服できるのです。恐れることなく、国民に正しいメッセージを伝えれば、必ず前進できます。一人一人が精一杯呼びかけるのです。明日は、明日こそはエイズを食い止めることが出来るのだ、と。」
貫戸さんは、困難に立ち向かっている人たちのために再び現場に立つ意欲をかき立てられたと言います。ダルコーさんは、欧米の製薬会社が目を向けなかったエイズ患者を救い、帚木蓬生が『アフリカの瞳』の中で託したメッセージ「私は人類の英知として、特定の国、つまりHIV感染が蔓延している国では、治療薬を無料にすべきだと訴えたいのです。無料化の財源は世界規模で考えれば、どこかにあるはずです。」を実践しているわけです。
ボツワナで
三十六歳のダルコーさんは、アメリカに生まれ、タンザニアとケニアで過ごしました。ハーバード大学で医学の資格を、オクスフォード大学で経営学の修士号を得た後、ニューヨーク市の経営コンサルタント会社マッキンゼー社に就職して、二〇〇一年にエイズ対策事業のためにボツワナに派遣されました。
派遣された当時、三人に一人がHIVに感染していたと言います。最初の一年間は、「夜明け」という意味の国家プロジェクトMASAの責任者として「一日最低二十二時間」は働いたそうです。感染者数を知るためにモハエ大統領にテレビでエイズ検査を受けるように呼びかけてもらう一方で、医療体制を把握するために国じゅうを隈無く調査しています。その結果、絶対的な医師不足を痛感しました。周辺国に呼びかけ破格の給料を出して数年契約で医師を雇い入れると同時に、国内でも医師を育成し、現場に二千二百人の医師を配置しました。
最大の問題は薬でしたが、米国の製薬会社と交渉し、患者の資料を提供する代わりにほぼ無料で薬を確保し、半数以上の患者の治療を可能にしました。
政府の資金を補うために「エイズ撲滅のためのプロジェクト」を展開するマイクロソフト社のビル・ゲイツと掛け合い、一兆円を引き出しています。その薬と豊富な資金を基に、ネットワークシステムを構築します。プロジェクト本部の下に四つの支部を置き、それぞれの支部にコーディネーターを配置、コーディネーターはその下にある多くの拠点病院と連携し、現場の状況に応じて薬を届けるというシステムです。ダルコーさんは学んだ経営学の知識を生かし、ウォルマートの最先端の納品システムを参考にしたと言います。二〇〇〇年に三六歳までに落ち込んでいた平均寿命は上昇に転じ、二〇二五年には五十四歳に回復する可能性も出てきたと言われています。現在、アフリカ十二カ国がダルコーさんのエイズ対策モデルを取り入れています。
アフリカに限らず世の中の仕組みや人の営みについて考えれば考えるほど絶望しか見えて来ないように思えてなりませんが、絶望の淵にあっても、ダルコーさんのように、まだ出来ることはあると信じたいと思います。先ずは自分を大切にし、身近な回りを大切にして行けば、相手のことも敬えるでしょう。後の世に一縷の希望を託したいと思います。
後世は畏るべし、なのですから。
(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)
執筆年
2006年
収録・公開
未出版(門土社「mon-monde 」6号に収載予定で送った原稿です)
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「エイズから人類を救うアーネスト・ダルコー医師」 (301KB)