Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用
概要
アレックス・ラ・グーマの作品論です。タイトルやエピグラフに使った「三根の縄」(Threefold Cord)に準えた三種類の人間関係と雨をうまく使った点を評価しました。
大阪工大の嘱託講師(文部省向けには専任、実際は非常勤)の時に大学の紀要に載せてもらった分で、次の英文概要を書いて添えました。
This paper aims to evaluate Alex La Guma’s And A Threefold Cord (1964) which provides a vivid description of South African scenes of ordinary people.
La Guma tells his story to show us the oppressed people who manage to live on together even under the severe condition of Apartheid.
The story is centered on the three kinds of “a threefold cord" relationship which means living in harmony with love. So as to make clear the importance of co-operation, he describes some isolated people and some incidents which impress on us the miserable condition of their society. The depressing conditions emerge from the story before our eyes through his skillful use of rain which falls relentlessly on their shabby shanties.
By the story-telling and the use of rain he succeeds in indicating that the severer the condition is, the more important the “threefold cord" relationship becomes.
In this paper the evaluation is to be made by focusing on his story-telling and his use of rain.
本文(作業中)
Ⅰ 文学と人生 (Life and Literature)
And a Threefold Cord (1964) は主人公 Charles Pauls (通称 Charlie) が降り頻る雨を見上げながら台所の戸口に佇むという象徴的な場面で終わっている。作者 Alex La Guma (1925-1985) は主人公のこれからの成長を灰めかす余韻を残して物語の幕を一応降ろしてはいるが、本当の意味で物語が終わっているとは言えない。なぜなら、その物語は La Guma が終生願い続けたように、南アフリカが「一つの統合民主国家」1) となるまで続くからである。
物語は確かに主人公 Charlie を中心に展開してはいるが、読者が片時も目を離せない程スリリングな事件が起きるわけでもなく、Charlie の内面が深く掘り下げられて読者に迫るという風でもない。むしろ、ありきたりの人々の,ありきたりの日常生活が浮き彫りにされていると言った方がよい。その意味では、作者自身の次のインタビューでの発言はその辺りをうまく説明してくれる。
I might add that I thought that at some stage it would turn into a love story. It seems as if every writer wants to write a love story at some time or another, and there is an element of this desire throughout the novel. But in general I don’t think it is really a love story, it is really another record of the general life of the people as reflected through the experiences of one particular family and its associates.2)
少数の白人が理不尽な支配を続けている「南アフリカ共和国」(Republic of South Africa) では、白人以外の人々はおよそ「人間」とは見倣されない。現に南アフリカに生まれながら、アジア人,ヨーロッパ人の血を引いているという理由だけで政府から「カラード」の烙印を押された La Guma は、必然的に「人間」としての扱いを受けることはなかった。
そんな La Guma には「文学のための文学」どころか、まともな意味での文学も人生も存在し得なかった。文学や人生以前に、その文学や人生を獲得するためのたたかいが存在していたのである。人間的な生き方をしようとするなら、南アフリカではどんな生き方を選択しようとも、当然人はそのたたかいの渦中に身を置くことになる。従って、この物語は La Guma の人問としてのたたかいと生き方の中から生まれたものと言ってよい。ただし、この物語が文学としての価値を有しているのは、この作品が決してたたかいのためのプロパガンダやスローガンではないからである。次のインタビューの一節は、文学と闘争についての La Guma の基本的な姿勢を私たちに教えてくれる。
- What are then the values which you seek to express in your novels?
La Guma : I want to express the dignity of people, the basic human spirit in the least pompous way as possible. One must avoid propaganda or slogan. I am also politically involved. In my writing and in my political activities I vindicate the dignity of man but these are two different activities.3)
現実に南アフリカで何が起こっているかを世界に伝えたいという願いや歴史を記録しようとする意図が La Guma の心の中にあったにせよ、それがプロパガンダやスローガンと堕さなかったのは、作品に示された文学技法の故である。
本論では、この作品の中の文学技法のうち,特に,日常生活を見事に描き出し得た「語り」(His Story-Telling)と、惨めなスラム街の雰囲気をうまく醸し出している表現技法としての「雨の効用」(His Use of Rain) を取り上げて、And a Threefold Cord の評価をはかりたいと思う。
Ⅱ 語り (His Story-Telling)
(i)「三根の縄」(“a threefold cord")
La Guma は人々の日常の生活をただ漫然と並べたてて語ったわけではない。アパルトヘイト体制の苛酷な条件の下で呻吟しながら、それでもなお,人間としての誇りを失なわず,肩を寄せ合い,助け合って生き永らえている人々の姿を語るために,La Guma は文章を組み立て,言葉を選んでいる。
「語り」を支えている物語の組み立ての骨組みを説く一つの手掛りをタイトルとエピグラフが与えてくれる。エピグラブは旧約聖書の伝道之書第四章から取ったもので、ダビデの子、イスラエルの王である伝道者が世の中の抑圧について考えたことを語る第四章は次の一節で始まる。
So I returned, and considered all the oppressions that are done under the sun : and behold the tears of such as were oppressed, and they had no comforter ; and on the side of their opperssors there was power ; but they had no comforter. ECCLESIASTES IV : 1
La Guma の目にはこの一節が南アフリカの現実と重なったのであろう。独りでいることの辛さについて伝道者が触れたあと、本書のエピグラフに掲げられた次の4節が続く。
Two are better than one ; because they have a good reward for their labour.
For if they fall, the one will lift up his fellow but woe to him that is alone when he falleth; for he hath not another to help him up. Again, if two lie together, then they have heat, but how can one be warm alone ? And if one prevail against him, two shall withstand him; and a threefold cord is not quickly broken. ECCLESIASTES IV : 9-12
タイトルの And a Threefold Cord はその12節「人もしその一人を攻めうたば二人してこれにあたるべし。三根の縄はたやすくきれざるなり。」)から取られたものだが、実は物語の骨組みはその三根の縄になぞらえた人物構成から成り立っている。お互いを思いやりながらつつましく生きている3人を軸とする次の3組である。
(1) Charlieと両親 (Ma-Charlie-Pa)
(2) Charlieと恋人と母親 (Ma-Charlie-Freda)
(3) Charlieと母娘 (Ma-Charlie-Caroline)
(1) Ma-Charlie-Pa
Gerald Mooreが指摘するように、物語は「専ら Charlie Pauls の意識に中心が置かれている」4) が,La Guma は「三根の縄」の人間関係をすべて母親中心に展開させている。滅び去っていてもおかしくないほど厳しい抑圧の中でも辛うじて生き永らえて来られたのは、毎日の生活を支えてきた女性の存在があったからだ、と La Guma は常々考えていたからである。自らの母親について、「あの人は親切で心の寛い母親であり、献身的な妻でもありました。そして、第六区の他の女性たちのように辛い生活の日常の雑事をやりこなしておりました」5) と述懐する La Guma の言葉からもその一端が窺えよう。アパルトヘイトと闘う男たちを支え、子供たちを育て、黙々と日々の雑事をこなす母親の存在の大きさを La Guma が充分に承知していたからこそ、その「母親」を展開の中心に据えたのである。
「三根の縄」の人間関係の基調は他人への思いやり (love) である。本書が “This is for Blanche with love" という言葉で妻に献げられているのも示唆的だ。前作A Walk in theNight (1962) の基調が怒り (anger) や不満 (frustration) に置かれていたのとは極めて対照的である。朝方、弟 Ronald (通称Ronny) をからかう Charlie を母親が叱るのも,長い間寝たきりの父親への不満をこぼす Ronny を母親と Charlie がそれぞれ諭すのも、或いは屋根を修理する Charlie が釘を打たずに石を置いて応急処置をしようとするのも、すべて病床で苦しむ父親への気遣い、思いやりからである。
La Guma は父親に直接喋らせてはいない。読者に聞こえてくるのは、苦しみの病床から発する咳ばらいや陣き声ばかりである。父親の様子を描く次のくだりは、ことのほか読者の哀れを誘う。
…His bony knees, drawn up under the bedding, made tall peaks that quivered like a miniature earthquake; the whole body shivered and shook in the bed, gripped by sickness and the draught that came through crevices and old nailholes in the walls of the room. His lipless mouth was open, and emaciated, old chest wheezed and whispered like a tea kettle, the body-frame shaking like a mechanical toy.6)
“How you, Dad?" と問いかける Charlie に父親からの返事はなく、次の一節が続く。
The hollow eyes turned towards him and the mouth moved soundlessly, like that of a stranded fish. A sick old man clinging with brittle nails to the tortuous cliff of life, holding on with a last, desperate efforts. (34)
Charlie は父親に目くばせをしながら “Just res’, Dad. You just res’." と言い残してその場を離れるしか術がなかった。La Guma は父親の咳ばらいや呻き声に喋る以上の働きをさせたわけだが、その働きが可能になったのも、家族の父親に対する思いやりがあったからに他ならない。家族の父親に対する思いやりは,父親の死と葬式を通して読者の心に更に印象づけられていく。
作者は現在家族が住んでいる小屋 (their shanty) が出来上がった経維を語る中で既に父親が如何にかいがいしく働いてきたかについて少し触れてはいたが、一家の柱である Frederick Pauls 像をはっきりさせたのは、その死と葬式を通じてである。既に述べたように、作者は直接父親に喋らせないで、母親の言葉を通して父親像を読者に知らせて行く。
一家の主の死に際して、うろたえなかったのは母親である。体を洗う水を汲みにやらせ、検死の医者と葬式の手配を済ませてから、死者の目に硬貨をはめ込み、真新しい下着を着せた。生前死者が望んでいたことではあったが、手厚く葬ってやることが死者への最大の供養であり、思いやりであると母親が考えたからである。苦しい家計の中から、幾何かの積立金を工面していたのも、その思いからであろう。すべてが、言わば夫を思いやる気持ちのあらわれだったと言ってよい。
うろたえこそしなかったが、伴侶への思いや悲しみがいかに大きかったかは、Charlie に語りかけた次の言葉の行間からも感じ取れる。
Your pa’s gone away and he not coming back no more. Your pa was a good man to me, and he worked all the time so we could eat, and he gave me his children and he saw them grow up. He was a good man to me and to his children, and he trusted Our Lord. He just lived and worked and didn’t do nothing that was wrong in the eyes of the Lord. He worked for his family and when he couldn’t work no more, he lay down and waited for the Lord Jesus to take him away. Now he’s gone away to the Lord and he’s away sickness and hunger and gone to rest from his work. He carried his cross, too, like Our Lord Jesus, now and the burden is taken from off his shoulders. . . ." (107)
更に、母親は死亡証明書を書き終えた “Missus Nzuba" に対して、臨終の様子を次のように語る。
“He went quiet. I was just sitting there by him, after he had some soup from last night. Then he look at me and he say, 'Rachy’ – he always called me Rachy, mos, you know – 'Rachy,’ he say, `is the children awright ?’ And I say, `ja, Dad, the children is awright. Why do you worry ?’ And he say, again, `I would have like them to be living in another place. Like thos houses with the roofs.’ And, `Ach, what,’ I say. `You never min’ about the house,’ I say. And he just look at me and close his eyes. Then he give a sort of sigh and then the next thing, there’s the rattle in his throat, and he pass away just like that." (111)
そして、そう語る母親の様子を作者は次のように表現する。
The harsh, tearless voice chanted on and the shoulders rocked. There were no tears in Ma Pauls, but her words were her tears. (107)
母親の言葉は、家族のために黙々と身を粉にして働き続けた末に体をこわし、苦しみの病床に伏しながらも、愚痴一つこぼさず、ひたすら子供たちのことを気遣いながら死んで行った父親の姿をありありと私たちの眼前に展開してくれる。雨もりのために滲む天井のしみを、来る日も来る日も見つめながら、今はの際に、子供たちを瓦屋根の家に住まわせてやりたかった、と洩らした父親の一言を母親の口から聞かされる読者は、その無念さを思わずにはいられないだろう。又、日々衰え行く夫をそばに見ながら、医者を呼ぶ金もなく、むなしく薬草を煎じて飲ませてやるしか術のなかった母親への同情を禁じ得ないだろう。そして、そう感じる読者の思いは、そのような惨状をもたらしたアパルトヘイト体制へと及ぶ。よくぞこの惨状の中で生き永らえて来たものだ、という驚嘆の念を交えながら・・・・。
子供たちに、そして夫に尽し続ける Ma、家族のために働き、家族のことを気遣いながら死んで行った Pa、生来の楽観的性格で陰ながら Pa と Ma を支え、思いやる Charlie、そんな Ma-Charlie-Pa の親子関係を通して、La Gumaは「三根の縄」の人間関係の貴さを見事に描き出していると言える。
(2) Ma-Charlie-Freda
父親と母親のいたわりの世界を受け継ぐであろう、と読者に予想させるのはCharlie とその恋人 Freda である。La Guma はその二人と母親に、もうひとつの重要な「三根の縄」の役割を演じさせている。
Charlie は、未だ定職にも就けず毎日ぶらぶら暮らしてはいるが、母親の信頼は厚い。
Fredaは、2年前に夫を亡くし今は二人の子供を養う未亡人ではあるが、いずれ Charlie と結婚することになるだろう、と母親は考えている。二人を見つめる母親の目は温かい。
その点では、Ronny とその恋人 Susie に対する母親の見方は対照的だ。男を次々と替え,今回は妻子ある男とのあいだに子供ができたと噂されるSusieが、現実を見据えた母親の目に適うはずもない。病気の父親の不平をこぼし、チンピラ連中といざこざの絶えない Ronny の思いやりのなさや浅はかさを母親はしっかりと見抜いている。
Freda は、夫亡きあと、不平ひとつこぼさず、白人の所でメイドとして働きながら、女手ひとつで懸命に子供を育てている。日々の雑事をこなし、現実の厳しさを体で感じながら暮らしている母親には、Freda のひたむきな生き方が伝わって来るのだ。そんな Freda を陰ながら支え、暖かい目で見てやれる Charlie の生き方の姿勢も、又、母親には好ましく思えるのである。
母親の Freda への思いは、はじめ、父親の葬式での何げない仕草の中で示される。家族と一緒の車に乗せてやるように、と母親が Charlie に告げる場面を La Guma は次のように描く。
'There’s place,’ Ma said. 'Let Freda sit in front, then. Tell her.’
And Charlie warmed at this, feeling that it meant that Freda was being accepted. He smiled at her, helping her in and when she was on the front seat, he winked at her but she was looking straight ahead, preserving the decorum of the occasion. (119)
父親の葬式という家族の一大事で、Freda を家族同様に扱う気配りを何気なく見せる母親、主人に午後からのお暇の許しを得て葬式に駆けつけ、そっと参列する Freda、二人をさりげなくいたわる Charlie。Charlie と両親との間でもそうであったように、Ma-Charlie-Freda のあいだにあるのも、お互いへの信頼と三者三様に相手を大切に思うあたたかい感情である。
先にも少し触れたのだが、La Guma はこの物語を最終的に Charlie とFreda のラブ・ストーリーにはしなかった。歴史を書き留めておきたい、南アフリカの現状を世界に知らせたい、という思いや願いの方が、はるかに強かったからである。その思いや願いは、ケープタウンのスラム街第六区の生活の中から生まれた。献辞がその地区で助産婦や看護婦として貧しい人々、虐げられた人々のために働き続けた妻 Blanche に献げられているのも La Guma のその人たちへの思いからである。この物語についてのそんな思いを次のインタビューが教えてくれる。
I might have turned it into a love story, but apart from that I think that all the sentiments which are expressed in And A Threefold Cold also have something to do with my wife, Blanche, and our own feeling for the poor and oppressed people. Furthermore, Blanche devoted a lot of her times as a midwife and nurse to working among the poor of the community. So I believe she deserves some mention somewhere"
La Guma は Freda を軸に、二つの事件を通してアパルトヘイト体制の生み出す惨状を物語る。
一つは、Charlie が Freda の家に居た夜に、マリファナ所持の嫌疑で警察の手入れを受けた事件である。夜中の簡入者に子供たちは怯え、Freda は夜着の胸元をしっかりと抑える。調べが終わった警官は、尋問から二人が夫婦でないのを知り “Blerry Black whore." と Freda に罵りの言葉を残して立ち去った。
La Guma は前章で、パス法の手入れで交歓現場に踏み込まれ、裸のまま手錠をかけられた男がアフリカ人警官にむかって “Why do you do this, brother? Why do you do this to your own people?"(133) と訴える場面をすでに描いていたが、手入れが Charlie と Freda に及んだ場面を見て、アパルトヘイトという怪物の前では、Charlie の優しい心遣いも Charlie の思いやりもひとたまりもないことを読者は思い知らされる。愛しい子供や恋人さえも守ってやれないのである。更に、すぐあとに、手入れを受ける隣人たちの様子をナイトガウンをひっかけて見に出た男が「パスは家の中にある!」と叫びながら引ったてられる光景を Charlie が眺める場面に出くわすと、読者は1960年のシャープヴィルの虐殺という歴史的な事件を思い出す。あの人たちは、このパス法に抗議して集まったのだと。白人警官は、無防備なその人たちを無差別に撃ち殺した。
Freda の子供のように、南アフリカの子供たちは幾度となく恐怖を味わい、感性をずたずたにされながら大きくなって行く。人々は日々の暮らしの中で、人間としての誇りを傷つけられ、絶えず脅かされながら生きることを余儀なくされる。あの虐殺事件ですら日常の単なる延長でしかなかったのだ。そんな思いすら抱かせるほど、La Guma は Charlie と Freda の思いやりの世界を背景にうまく惨状を読者に伝えたことになる。
二つ目の事件は Freda の小屋の火事である。火事は Freda が買い物に出かけた隙に子供の一人がストーブを倒して起きたのだが、主に段ボールからなるその小屋は火のまわりが驚くほど早かった上、Freda が鍵を外からかけていたために、子供ごと瞬く間に燃え尽きてしまったのである。途中男が二人、助けに入ろうとしたが、火力が強く近寄ることさえ出来なかった。駆け戻った Freda の様子を La Guma は次のように描く。
And through the cries and the crackle of embers came another sound. At first it was a wail, and then it became a sort of shrill, horrid gobbling chant, an awful sound-picture which might conjure up the abominable death-rites of some primitive tribe. It rose to a high, nerve-plucking ululation which was something more than a scream or a shriek, the sound of an impossible sadness, a sound beyond agony, an outcry of unendurable woe, forlorn beyond comprehension, a sort of grief beyond grief. It was Freda. (158)
火事は確かにストーブが倒れて起きたのだが、読者はいつ火災が起きてもおかしくはない小屋の状況を既に知らされている。床は牛糞などで固めてならされた地面に安物の油紙が敷かれて作られているが、その地面も今は油紙もはがれて平担でない。足のとれたストーブがマッチ箱を支えにしてその床の上に置かれているが、最近はつまってどうも調子が芳明日は我が身、なのである。その意味では、Freda の悲痛な叫びは、個人を超えた、言わが見える。低い天井からは古ぼけたランプが吊されており、出入りの度に小屋が揺れる。手入れの時などは、警官がドアを叩いたので小屋全体が激しく揺れていた。こんな状態だから、今まで火事にならなかった方がむしろ不思議なくらいだ、と誰しも思う。
しかし、La Guma は Freda の小屋を特別なものとして描こうとしたわけではない。むしろ,ありきたりの小屋として取り上げたに過ぎない。Freda の小屋も、大部分拾いものの段ボールや屑鉄などで建てられたまわりの小屋と大差はない。拾ってきた壊れかけのストーブでも真冬には必需品となるこの辺りの小屋の住人には、Freda の小屋の火事ですら、明日は我が身、なのである。その意味では、Fredaの悲痛な叫びは、個人を超えた、言わばその地域の人々の叫びとも取れる。そして Freda の小屋の火事は、その人たちの悲惨な住宅事情や劣悪な生活環境の象徴的存在である、とも言えるだろう。
La Guma は先の手入れの事件では、官憲の横暴により人格を挫かれる人々の精神的な面を強調したが、Freda の火事では、惨めな生活環境を強いられて苦しむ人々の物質的な面に焦点を合わせて、アパルトヘイト体制の生み出す惨状を描き出している。
傷心の Freda をあたたかく迎えたのは、やはり母親であり、Charlie である。死んだばかりの父親のベッドで泣き伏す Freda に、ある友人のことを思い出しながらCharlieは語りかける。
…He said something one time, about people most of the time takes trouble hardest when they alone. I don’t know how it fit here, hey. I don’t understand it real right, you see. But this burg had a lot of good things in his head, I reckon.’
'Like he say, people can’t stand up to the world alone, they got to be together. I reckon maybe he was right. . . .Is not natural for people to be alone. Hell, I reckonpeople was just made to be together. I -' (168)
二人の子供をなくし動転している Freda の耳に、今はその言葉が届きそうにもないが、それでも Charlie にいたわられながら、父親と母親がそうであったように、「三根の縄」の世界を築き上げて何とか生き永らえてくれるだろう、La Guma は二つの事件を通して読者にそんな期待を抱かせてくれる。
(3) Ma-Charlie-Caroline
もうひとつの「三根の縄」の役は、Charlie と妹 Caroline と母親で、La Guma は Caroline の出産をその軸に据えている。人々の日常生活を描こうとする La Guma には、死や葬式と同様、出産が重要な意味を持っていたからである。
Carolineは17歳で出産を間近かに控えているが、まだ頼りなく18歳の夫Alfredと共に支えが必要である。父親が死んだ今、Charlieが父親代わりだが、展開の中心はここでも母親である。産婆が間に合わず、駆けつけてくれた隣人 Nzuba の手を借りて,母親は Caroline の出産を無事済ませたが、La Guma が出産を通して強調したかったのは、出産時の状況のひどさである。
Alfred から産気づいたとの知らせを受けて母親が駆けつけた時、娘は床のマットレスの上で毛布をかけて横たわっていた。オイルランプの火は薄暗く、戸口の所に溜っていた天井からの雨もり水が床を流れ始めていた。しかし、母親の出来たことと言えば,、持参のランプを吊り、娘の気を落ち着かせ、雨もりの個所に水差しを置いてから、用意させておいた新聞紙を何枚も腰の下に敷いてやるくらいだった。あとは産婆が来るのを待つしかなかった。
部屋の状況が如何にひどかったかを読者に印象づけるのに、La Guma はCaroline の叫び声を聞いて駆けつける白人警官を登場させた。叫び声が酔っ払いによるものだと思い込んで手入れにやって来た、という設定である。娘のお産だと言い張る母親の言葉を信じない白人警官が小屋を覗き込む場面をLa Guma は次のように描く。
At that moment Caroline screamed. The police raider said, 'Ghod !’ He peered past Ma into the shack, saw Missus Nzuba’s vastness crouched over the girl on the mattress. His eyes moved about, over the smoky ceiling, the muddy floor, the leak in the roof and the ragged clothes displayed as if for sale. The smell of smoke and oil and birth made the air fetid.
He said, again: `Baby ? What, in here ?’ Then he shrugged and growled, `Awright, awright.’ He turned and snapped orders at his men, while Ma shut the door on him. (150-151)
かつて父親と Charlie が小屋を建てるのが問に合わず Caroline が鶏小屋のような場所で生まれたのを知っている読者は、Caroline がやはりこんな惨めな所で子供を産まざるを得なかったのを見て、アパルトヘイト体制が続く限り、Caroline の子供もまた、いずれ同じ運命に晒されるだろう、と予測する。ここに描かれた「三根の縄」の重要性を思いながら・・・・・・。
(ii)「ここに人あり只独りにして・・・」(“There is one alone,・・・・")
「三根の縄」の重要性をより印象づけるために La Guma は、人を信頼できず孤独な生き方をする人物群を対照的に配している。エピグラフに引用された伝道之書第4章9-12節の「三根の縄」の世界とは極めて対照的な、同章8節に記されたような孤独な世界で苦しむ人々である。
There is one alone, and there is not a second ; yea he bath neither child nor brother yet is there no end of all his labour ; neither is his eye satisfied with riches ; neither with he, For whom do I labour, and bereave my soul of good ? This is also vanity, yea, it is a sore travail.
ECCLESIASTES IV : 8
(1) Ronny とRoman La Guma は孤独な生き方をする三つのタイプの人物を登場させている。一つは A Walk in the Night で克明に描き上げたタイプで、いつも不満を持ち、街にたむろしては無為な時を過ごしている類の不良連中 (gangsters) である。尻の軽い Susie をめぐって争った Ronny とRoman がこれにあたる。Ronny は Charlie の忠告にも耳を貸さず、白人Mostert に身を売ったと邪推して Susie を惨殺して刑務所行きになってしまう。Roman は妻子がありながら女を追いまわしたり、盗みで刑務所入りしたりする日々が続く。11人の子供を常に飢えさせており、妻子には烈しく暴力を振るう。両者は何事に対しても刹那的で、自己の欲望を満たすことに窮々としており、他人を思いやれない点で共通している。Ronny がSusie を殺したのも、自分の思い通りにならない女への苛立ちからであったし、Roman が妻子に暴力を加えるのも自らの不満を弱者を虐めることで解消しようとしたからである。虐げられながらも他人への思いやりを基調に結ばれた「三根の縄」の世界とは対照的である。
(2) Uncle Ben
二つ目は、厳しい世の中にすっかり諦観を抱き,、酒などの逃避手段に溺れてその日を暮らすタイプで、叔父の Ben がそれにあたる。病気の義兄や家族の問題で悩む姉を気使う優しさを持ちあわせながらも、僅かばかりの稼ぎもほとんど酒代に替えてしまう今の生活を Ben は改められないでいる。持参した安ワインを酌み交しながら、そのやる瀬ない心境を Ben は Charlie に語る。
'I don’t know what it is, Charlie, man. A man go to have his dying; don’t I say ? But with me is like as if something force me to drink, drink, drink. Is like an evil, Charlie, forcing a man to go on swallowing till he’s fall-fall with liquor. An evil, man.’ (81)
“…the poor don’t have to be poor…," “…, if the poor people all got together and took everything in the whole Merry world, there wouldn’t be poor no more…," “.. .if all the stuK in the world was shared out among everybody, all would have enough to live nice…." などと,友人の言葉を借りて Charlie がしきりに社会のあり方について説いてみても、Ben は “That’s communis’ things.Talking against the govemment." と言うばかり、その生き方の姿勢は死ぬまで変わりそうにない。前にも一部引用したのだが、友人のことを思い出しながら傷心の Freda にしんみりと語る Charlie の次の言葉は、他からは何ともしてやれない Ronny や Ben へのやる瀬ない思いと「三根の縄」の貴さを私たちに教えてくれる。
'Like he say, people can’t stand up to the world alone, they got to be together…. Maybe it was like that with Ronny-boy. Ronald didn’t ever want nobody to he’p him. Wanted to do things alone. Never was a part of us. I don’t know. Maybe, 1ike Uncle Ben, too. Is not natural for people to be alone….'(168)
(3) George Mostert
三番目は、妻に逃げられ佗しいやもめ暮らしをする白人George Mostert である。
スラム街に隣接する荒れたガソリンスタンドを営む Mostert は、スラムの住人と接する機会が多い。自分の寂しい生活と比べて、スラム街には貧しいながらも生気がある風に感じられて仕様がない。屑鉄などを与えた縁で知り合った Charlie のパーティーへの誘いに乗る決心をしたのも、孤独な生活の佗しさからだったが、一度は出かけたものの,結果的には途中から引き返してきてしまった。「集団地域法」に触れるのを恐れたからである。又、心は揺れながらも Susie の甘い誘いに乗れなかったのも「背徳法」がこわかったからである。結局は孤独な自分一人の世界から一歩も踏み出せないで苦しんでいる Mostert も又、アパルトヘイト体制の犠牲者のひとりであると言える。
各人各様に苦しみながらも孤独な生き方をするしかないそれらの人物像は、「三根の縄」の重要性をより印象づける働きを充分に果たしている。
Ⅲ 雨の効用 (His Use of Rain)
「三根の縄」の関係をさらに印象づけるために、La Guma は冬のスラム街に容赦なく降り注ぐ雨を最大限に利用している。A Walk in the Night で夜と “blackness" のイメージを巧く利用して第六区の抑圧的な雰囲気を醸し出すことに La Guma は成功しているが、本作品では雨と “greyness" のイメージを使って惨めなスラム街の雰囲気をつくり出している。La Guma が敢えて雨を取り上げたのは、ひとつには政府の外国向けの宣伝とは裏腹に、天候に人々が苦しめられている実態を描きたかったからである。次のインタビューは La Guma のそんな真意を明かしてくれる。
Yes, somebody asked a little while ago why I always wrote about weather in South Africa. Well, part of the fact is that the weather plays a part in creating the atmosphere and it helps to describe the scenes and so on. There is also the fact that overseas people believe the South African regime’s tourist propaganda that it is a country with perfect weather. I had an idea that rather we could use the weather as a feature of South Africa, but also in terms of its symbolic potential, and thus at the same time make it or try to make it genuinely South African. In other words, I am contesting the official propaganda of South Africa’s natural beauty and trying to show the world beautiful golf links is not the total picture.8)
La Guma は物語を雨で始め、雨で終えている。しかも,主題に係わる事件はすべて雨に関係させており、物語全体が雨のイメージで抱み込まれていると言ってもよい。その点では、本書の前書きで指摘する Brian Bunting の評 “And a Threefold Cord is drenched in the wet and misery of the Cape winter whose grey and dreary tones Alex La Guma has captured in a series of graphic prose-etchings."9) は言い得た表現である。
第1章 遠景 La Guma は、先ず山を背景にひかえ、海に面した町の遠景を書き、次に映画のクローズアップ手法さながら、徐々に国道や線路脇のスラム街 (shanty-towns) を描き出している。南半球の7月はもう冬、木々は既に落葉し、重くたれこめた暗雲は、雨の気配を漂わせる。最初は細やかな霧雨が地面にしめり気を与えるだけだが、やがては本降りの雨となり、一面灰色の世界がやって来る。そんな冬模様を La Guma は次の様に締めくくる。
The sky was heavy and grey, shutting out the sun, and there was no daylight, but an unnatural, damp twilight. The rain began again with gusty bursts, showing the world, pausing and pouring down in big heavy drops. Then it settled gradually into a steady fall, an unhesitant tempo of drops, always grey. (19)
あくまでも静かな書き出しである。第1章には音に関する表現が殆んど見られない。殊に、全体を通じてあれほど多く使われている擬声語が皆無である。La Guma は,視覚に焦点を置き、特に雨の “greyness" のイメージをまず読者の心に植えつけたかったのであろう。それはこれから始まる騒々しい物語の「嵐の前の静けさ」を象徴して余りある書き出しと言えるだろう。
小屋 (shanties) - 第2章 第2章から実質的に物語は始まる。Pauls 家の小屋で Charlie は雨の音に起こされる。第1章とは対照的に音に関する表現が多い。擬声語も、書き出しだけでも hissing、rattling、drip-drip、plop-plop-plopping、tapping など多彩である。雨が小屋にあたって色々な音を発するからである。のちに読者は知らされるのだが、小屋は拾ったり、盗んだり、或いはもらったりした材料で建てられたもので、錆びたトタン板や石油缶や段ボール紙などから出来ている。瓦屋根の家なら、よほどの雨が降らない限りそんなに音がすることはない。従って、雨の音は言わば小屋の貧しさの象徴と言ってよい。
錆びた屋根からは、雨が降るたび毎に雨がもって来る。雨足が弱ければその音は tap や drip-drip であるが、ひどくなればそれが plop-plop-ploppingとなる。雨もり水を缶に受ける Charlie の一光景はこうだ。
Charlie placed the can on the floor under the drip from ceiling. The plop-plopping sound was turned suddenly into a tiny rumbling as the drops struck the metal, and then gradually became a dull tinkling. (22, intalics mine)
三つの擬声語 (plop-plopping→rumbling→tinkling) が、缶に直接当たった雨水の音が次第に鈍くなって行く様子をうまく表現している。三語に含まれた流音は水が流れるさまを、破裂音 p は缶に当たった澄んだ軽快な音を、両鼻音 m、n は水が溜ったために鈍くなった音の感じをうまく伝えている。
風が吹くと、雨の音も高くなる。たとえば、"The rain hissed on against the house." の hiss などは、短かい言葉だが、短母音 [i] で短かく鋭い感じを、摩擦音 s で風に烈しくふきつけられた音の感じを表現し得ている。数えあげればきりが無いのだが、La Guma は直接的、感覚的な感じを与える自然音を模した様々な擬声語を駆使することによって、音にさいなまれる小屋の住人たちの模様を鮮明に聴覚から読者に訴えかけていると言える。
雨は小屋に騒音をもたらすばかりではない。雨の湿気が、小屋内の悪臭を助長する。じめじめした小屋は一種の臭いの溜り場と化す。そんな臭いに関する表現も見られる。
There were smells in the room, too. The smell of sweat and slept-in blankets and airless bedding, close by ; and somewhere indefinite, the smell of stale cooking and old dampness and wet metal. (21)
第1章で La Guma が視覚に訴えかけているとすれば、第2章では聴覚と嗅覚に訴えかけていることになろう。
同じ小屋で父親が死んだときも、雨だった。雨の音を聞き、雨のしみで黒ずんだ天井を見つめながら父親は死んでいった。La Guma は父親に直接語らせはしなかったが、母親の口から、読者は、子供たちに瓦の家に住まわせてやりたかった、と父親が語ったことを知らされる。身を粉にして働いたすえに体をこわし、不本意な家族との永遠の別れを強いられる父親の無念とそんな夫をどうしてやることも出来なかった母親の悲しみを思うとき、天井のしみが父親の無念のあとに、降る雨が涙を見せなかった母親の悲しみの涙にも見えてくる。
Freda の小屋で手入れがあったときも、雨が激しく降っていた。音をたてて降る雨は子供や Freda の不安を象徴し、手入れに踏み込む警官の姿に、より残虐なイメージを与える役目を果たしている。他の小屋でパス法の手入れがあった時には、白人警官が泥靴でドアを蹴とばして踏み込み、裸の男を引ったてて行った。その場合の雨も警官をより残酷なものに見せる働きを演じている。
Caroline が小屋で出産したときも、雨が降っており、入口の所に溜った雨もり水が床を流れ出した光景は、出産の場をより惨めなものにしている。
Ronny が Susie を惨殺したときも、雨が降っており、その雨が孤独な生き方しか出来なかった双方をより哀れな存在にみせている。
終章 第1章と同じ書き出し “ln the north-west the rain heads piled up,…" (165)で始まる終章第28章も、やはり雨で終わる。"greyness" の世界である。火事で二人の子供を亡くした Freda を父親のベッドに寝かせて、母親と Charlie がなぐさめる。
外は烈しい嵐が吹き荒んでおり、La Guma はその模様を次のように語る。
The rain excavated foundations and dredged through topsoil and a house sagged and tottered, battered into a jagged rhomboid of gaping seams and banging sides. The rain gurgled and bubbled and chuckled in the eaves and ran like quicksilver along the ceilings, and below, the shivering poor blew on their braziers and stoked their fires, crouched trembling with ague in the relentless dampness, huddled together for warmth and clenching their teeth against the pneumonic chattering. (166)
小屋の存在は、白人でない人々の社会的地位の象徴であるが、雨もりしながらも外の雨風に耐える小屋の存在は、まさにアパルトヘイトの嵐の中でさえ何とか耐え忍んで生き永らえている南アフリカの人々の姿そのものの象徴でもあろう。
La Guma は「三根の縄」の貴さを語るために、孤独な生き方に苦しむ人物像を対照的に描き雨のイメージをうまく利用して、視覚から、聴覚から、そして嗅覚から直接的に読者に迫っているのである。
Ⅳ La Gumaと And a Threefold Cord
And a Threefold Cord は、歴史を記録し、世界に南アフリカの実状を知って欲しいと願う La Guma の作家としての自負と、苦楽を共にして来た同胞への思いから生まれた。
その自負と思いが「語り」を生み、「雨の効用」を可能にさせたのである。
読者は、雨のイメージにくるまれた悲惨なスラム街を、小屋を、目で、耳で、そして鼻で感じ、La Guma の語りによって運ばれて来た「三根の縄」のメッセージ、"…people can’t stand up to the world alone, they got to be together…." (168) をしっかりと肌で感じ取るのである。
Notes
1) Richard Samin, “Interviews de Alex La Guma," in Afram Newsletter No. 29 (January 1987), p. 8.
2) Cecil A. Abrahams, “Interview with Cecil Abrahams," in Alex La Guma (Boston Twyne Publishers, 1985), p. 70
3) Samin, “Interviews de Alex La Guma," p. 13
4) Gerald Moore, Twelve African Writers (Bloomington: Indiana University Press, 1980), pp. 110-111.
5) Abrahams, Alex La Guma, p. 3
6) Alex La Guma, And A Threefold Cord (Berlin: Seven Seas Publishers, 1964), p. 34 ; all quotations from this work will be cited in the paper.
7) Abrahams, “Interview with Cecil Abrahams," in Alex La Guma, p. 71.
8) Abrahams, “Interview with Cecil Abrahams," in Alex La Guma, pp. 71-72.
9) Brian Bunting, Foreword to And A Threefold Cord, p. 16.
執筆年
1988年
収録・公開
「中研所報」20巻3号、359-375ペイジ