つれづれに

つれづれに:想像力

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

 医学生の英語の授業で、→「独り言」で準備したり面接をさせてもらって喋(しゃべ)ることに慣れたあと、→「衛星放送」を利用してたくさん英語を聞いた。英語を使う環境で長く暮らせば一番いいのだろうが、現実にはそうもいかない。英語を使う環境を作り出して、使えるようにするしかない。

NHKBS1:BBCニュース

 その点では、事務室も臨床や基礎の講座が持てあます国費留学生を、英語が苦手な事務と忙しすぎて構う時間のない医者から、英語科だという理由だけでたらい回しされたのは、実際に英語を使いたかった私には歓迎すべきことだった。国費留学生は優秀である。経済的にも恵まれている。臨床でも基礎でも国費留学生を受け入れれば、大学は高く評価してくれる。化学の教授が退官した時、補充しないという意見もあったが中国人の教授を採用した。中国からの留学生を毎年たくさん受け入れるので、執行部の評価は高かった。それで引き受ける講座も多いのだが、留学生の面倒を見る積極的な気持ちと時間の余裕がない、それが現実のようだ。私にはお互いに英語が第2外国語というのもよかった。気楽に話が出来た。電話は身振りや雰囲気を読めないので、対応が難しくて苦手だったが、何度も電話で話をして苦手意識が薄くなった。珈琲を淹(い)れながら、留学生とは、いろいろ話をした。

 英語をよく使うようになって、聴きながら自然と相手のことを理解する術(すべ)に慣れて来た。日本人同士の会話でもそうだが、全部を完璧に聞かなくても、流れで大体はわかる。分かり難いときは、聞けばいい。英語を修得する過程で、その当たり前のことが英語では基軸というか、根底に流れる意識というか、その辺りがどうも違うような気がして来た。

表層の言葉から即座に判断して、真意を理解するための想像力が要る。書かれたものは何度も読み返して吟味(ぎんみ)できるが、話はその場で消えるのでその範囲で理解するためには雰囲気や相手の表情や、その場の状況を理解するのは不可欠である。いくら聞いても、その想像力が身につかなければ、実際に使いこなせるようにはならない。

その原点は→「サンフランシスコ」とメンフィスでの経験だろう。1981年に初めてアメリカに行ったとき、電話をかけるのが億劫(おっくう)だった。携帯電話の時代ではなかったので、サンフランシスコ空港から公衆電話でホテルに電話したかった。しかし出てきたのはたぶん交換手、向こうで早口で何かを言っている。慌ててしまった。あとから考えれば、空港は市外にあって公衆電話の料金が足りずにあと何ドル足して下さい、と言っていたようだ。制度に不慣れだっただけだが、状況からコイン不足が予測出来れば、数字だけを集中して聴けばよかったわけである。

歩いたメンフィスの通り

 メンフィスでは、背の高い黒人から通りすがりに、突然話しかけられた。私にはペーパーに聞こえたから「ペーパー?」と聞き返したら、怒り出して口に指をいれて上から「あぃむはんぐり」と言われた。咄嗟(とっさ)のことで訳がわかわからなかったが、→「ミシシッピ」の線路脇であからさまに聞かれた「ぎぶみーまね」と同じだと、感じた。メンフィスは大きな街である。その大通りで昼間に初対面の相手に金をくれと言われるとは思っていなかったからわからなかったのだが、それでも紙はないだろう。ちょっと考えればわかるはずだ。想像力の欠如というところか。

州都ジャクソンからプロペラ機でミシシッピナチェズ空港へ

つれづれに

つれづれに:旅番組

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

 独り言や面接で英語が勝手に口から出て来るようになったあと、たくさん英語を聞いた。ちょうどその頃にNHKの衛星放送を利用できたのが大きかった。家でも研究室でも利用できた。研究室ではかなりの量の映像を録画した。宮崎ではNHK以外に民放が2局しかなく、2か国語放送もほとんどない時代である。赴任した当時、講師の私以外に日本人の助教授とアメリカ人の外国人教師の同僚がいた。普通は英語教師なら同僚に外国人がいて有難いと思うのかも知れないが、戦後すぐの生まれの故でか、戦争に負けて無条件降伏を飲まされた相手国の人たちの話す英語が苦手だった。なぜか、反発を覚えた。1980年代に何度かアメリカに行って、ここにはここの良さがあるとは思ったが、過度のアメリカ化には強く反発を覚えたままだった。(→「シカゴ」)日本人の同僚は温厚な人で、アメリカ人の外国人教師と接すると問題が起きますから、何なら私が中に立ちますよと言ってくれた。日本で働くのだから日本語を使うのが自然と考えていたこともあって、有難く助言に便乗させてもらった。従って、英語が使えるようになるには自分でやるしかなかった。

道路の縁石に腰かけてパレートをながめたミシガン通り

 同僚は東京外大を出たそうだから、私とは違って英語が好きなようで、こともなげに、英語の授業ですから英語でやるのが自然ですね、と言っていた。事実、授業は全部英語でやっていた、ようである。宮崎に限らず東京から遠く離れた田舎では、東京に出るのは一番手の集団だから、その人もよく出来る人だったんだろう。私のように受験勉強が出来ずに行くところがなくて夜間に行き、大学の職場も見つからずに地方に流れて来た人種とは造りが違う。ある日その人に、どうやって英語をやってるんですかと聞いたら、もっぱらNHKの「大草原の小さな家」の2か国語放送と、ラジオの短波放送ですよ、と言っていた。筋金入りの独学の人だった。

東京外大

 衛星放送で英語放送を利用できるようになったのは、幸運だった。ニュ-ス番組も色々録画して繰り返し聞いた。ニュースの次は旅番組だった。十数年ほどの間にかなりの量の映像を録画したが、大抵は1箇所が20分程度で3か所を紹介する番組が多かった。視聴率が悪ければ番組が続かないから、欧米の観光地が主体である。中にはオーストラリア製作の番組もあった。欧米に人気の北アフリカのモロッコなどもあった。旅番組は気楽で楽しいので、耳にも入りやすい。行ったことのある場所だと、親しみもわく。二人で案内しているものなら、二人の会話が楽しめる。会話の場合は、ニュースよりも早口で喋(しゃべ)る。一番のお気に入りは、アメリカ行で最初に行った→「サンフランシスコ」と、行ったことはないがジャズフェスティバルで有名なニューポートである。ゴールデンゲートブリッジやケーブルカーも映っていたし、ジャズの軽快な演奏も紹介されていた。聞き取りのレベル2と言ったところか。

ジャズフェスティヴァルのルイ・アームストロング

つれづれに

つれづれに:薊(あざみ)

 →「薊」が少し大きくなった。→「きんぽうげ」も摘んで来たが、これで摘み始めてから4週目になる。辛うじて集めたという感じだったので、今回が最後のようである。あざみは棘がすごいので採るのはやっかいだが、摘んで持って帰ってきた。この辺りでは、大学のキャンパスにもたくさん咲いているが、加江田川と清武川の堤防の薊が大きくて見事である。

 歩けばきんぽうげ 座ればきんぽうげ

のあとは

あざみあざやかなあさのあめあがり

の山頭火の句である。

 山口の防府で父親といっしょに身上(しんしょう)を潰(つぶ)して、結婚相手と子供と熊本に逃げた後、死にきれず、得度して堂守をしたが、それでも旅に出た。その時に宮崎にも来ている。2度目だったようである。白浜に行くときに通る青島屋折生迫辺りも歩いたようであるそのみちみちできんぽうげやあざみを見て句を詠み、日記に書き記したわけである。

大山澄太

 日記を頭陀袋(ずだぶくろ)に入れて歩くも大変なので、溜まったら飯塚の木村緑平に送り、それら集めて後に大山澄太が編集した。どちらも『層雲』の俳友である。木村緑平は炭鉱医で、大山澄太は逓信局員で、経済的に余裕があったようである。どうしようもない自分が歩いていると読む山頭火の生涯通じての良き理解者だった。山頭火に寄り添う大山澄太の山頭火伝記『俳人山頭火の生涯』も出ている。句に魅かれて山頭火を知りたければ、最初に読むといい良書である。温かい気持ちになれる。

大山澄太が編集した山頭火の本

 金曜日にまた白浜に自転車で行けたのは有難いことである。晴れていなかったので、海の色も曇りがちだった。引き潮で風もあり、普段の景色とは少し違って、鬼の洗濯岩が剥(む)きだしの砂浜だった。

 夏日になる前に、そろそろ瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵を造らないと。今年は3段にしようと思っているので、また竹取の翁(おきな)の日々が続きそうである。

いつもの白浜

つれづれに

つれづれに:ニュースを聞く

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

 独り言や面接で英語が勝手に口から出て来るようになったあと、次は聞く、だった。相手の言っている内容を正確に聞き取れないと理解出来ないからである。会話も続かないし、意志の疎通も図れない。聞けるようになるには、聞くしかない。英語も言葉の一つだから、当たり前と言えばごく当たり前のことである、やってみて実感しただけの話である。

聞いて理解できるようになるために、英語の授業で映像や音声をたくさん使っていたので、それを利用した。バスケットボールをやったときもそうだったが、シュートやドリブルなどの各部分の力を集中して高める分習法と言ったところか?ちょうど衛星放送が使えるようになったので、先ずはBBC(British Broadcasting Corporation)、ABC(American Broadcasting Companies)、CNN(Cable News Network)、NHKBS1などのニュースを録画して、繰り返し聞いた。特にマンデラの釈放時前後の英語放送は全部予約録画した。1995年の淡路阪神大震災の時も可能な限り録画して聞いた。

ニュースを聞いてわかったことがいくつかある。一つは意外と簡単だったことである。考えれば、キャスターが予め用意された原稿を読む場合が多いので、スピードも速くないし、いわゆるわかり易い標準的な喋(しゃべ)り方なので慣れればそう難しくないわけだ。俗語や聞いたことのないような言葉もそうは出て来ない。中に挿入されるインタビューが早かったりするが、流れで慣れれば大体わかる。

NHKBS1のニュースはわかり易かった。取り上げる題材が国内のことが中心なので、内容が大体わかっている場合が多い。それに、キャスターのレベルがたかい。シンショウカルナというキャスターがCNNのメインキャスターだったという話も聞いた。概してできる女性の集団で、微笑みながら軽快にニュースを読んでいるという感じだった。女性の声の質や音の高さの方が耳に心地よい気がする。一度、ネクタイを締め髪を七三に分けた男性のキャスターが登場したが、その違いをはっきりさせるために登場させたんやない?と思えるほどだった。緊張気味で頬(ほほ)の筋肉が固まっていたせいか、音がくぐもって聞きづらかった。おそらく真面目で優秀な人だったと思うので、かえって気の毒な感じがした。2ケ月ほどで交代した。

1995年エボラ出血熱を報じるCNN

 1995年の震災後、各国は地震をどう伝えたか?という特集があった。英語ニュースでは、アメリカやイギリス以外に、香港やフィリピンのニュースがおもしろかった。香港はイギリス英語ぽかったし、フィリピンはたぶんタガログ訛(なま)り?という感じだった。その頃、バングラデシュの人がよく研究室に来ていて舌を巻くベンガリーズイングリッシュに慣れていたし、ジンバブエではショナイングリッシュの洗礼を受けていたので、そう苦にはならなかった。

 赴任したすぐあと、4年生がひとり部屋に来た。英語をするにはどうしたらいいでしょうか?と聞かれたので、いやー、英語が苦手でどうしたらいんでしょうねえ?と答えた。最初の年は2年生と1年生しか持たなかったので面識はなかった。今度来た新しい人どんな人やろと覗(のぞ)きにきたのか、いまだにその真意はわからない。その後何回か部屋に来て、次の年の講演会を手伝ってもらったり、家に来たりもしたが、そのあと医者になってからは会っていない。

だいぶ英語が使えるようになった頃、授業で顔を合わせていた1年生が部屋に来て同じような質問をした。その時は、最初にニュースを聞いてみたら?とテープをたくさん渡した。陸上をやっている背の高い真面目な学生で、トラックの上やキャンパスでヘッドフォーンをつけた姿を時々みかけた。1年ほどあとに部屋にきて言ったのが印象的だった。

「大体わかるようになりました。株価まで聞き取れます」

卒業後、精神科でバイトしながら基礎系の研究室で博士号を取った。そのあと大学内で何度か通りすがりに会った。研究室に残るような話をしていたが、今はどうしているんやろ?

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった