2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の3回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』一エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語一

(3)第4章 アイリーン・カマンジャ

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第4章 アイリーン・カマンジャ

週5日夜勤をすれば、私がンデル診療所で同じ時間だけ働く時間が持てる、とキチンガ医師は決めていました。ンデルにいれば1日100シリング稼げますから、見事な時間の割り振りのように思えました。ギチンガ医師によれば、病院側は私に2000シリング払うものの、税金と食費を差し引くため、1日当り50シリングしか残らない、ということです。しかし、診療所の100シリングは非課税で済むし、ケニア中央病院で働くよりも倍は稼げると言うのです。全く同感でした。それに、研修医を見下すようなことをしないンデルでの生活には心が高鳴りました。実際、ケニア中央病院を出てンデルに向かう時はいつも、地獄を逃れて天使と一緒に別天地に向かうような気分で心臓が波打ったものです。

****************************************

ある日の夜8時頃、診療所のドアにノックの音がしました。行ってドアを開けてみると、そこには看護師のアイリーンが立っていました。
「やあ、アイリーン看護師。」と、名前を呼びながら、なぜ青い制服を着ていないのだろうと不思議に思いました。
「入ってもいいですか?」と、即座にそう言うとアイリーンは足を踏み入れてドアを閉めると、部屋に一つしかない椅子に座りました。私は横目にアイリーンを見ました。
「ジョゼフって呼んでもいいですか?それとも、いつも『何とか先生』って呼ばないといけませんか?私のことは、アイリーンって呼んで下さいね。」
何か信じられない気もしましたが、私は笑い出しそうになりました。しかし、どんなことを考えているにしても余りにも落ち着かない様子でしたので、私は好奇心から笑うのをやめました。
「ムングチでいいよ。」と、私は教務課にユダヤ名の「ジョゼフ」という目立った名前をはずしておいてくれるように頼んだことを、こっそり漏らしました。
「先生を医者として聞いてもいいですか?」と、アイリーンが話し始めましたが、その断固とした態度に私は落ち着かなくなっていました。
「もちろんだよ。」
「私、美人かしら?」
「もちろん、美人だよ。でも、どうして?」と、私はこの看護婦の目的が何なのかを考えながら、思わず聞いていました。
「じゃ、なぜ苦しいのかしら?」
「苦しい?」
「なぜ私は部屋でも一人で座り、通りも一人で歩き、食事も一人で食べるのかしら。唯一の喜びと言えば、この病院にいて、ギルバートをお風呂に入れる時だけなの。」
衝撃的な告白でしたが、私には何がなんだか分かりませんでした。ギルバートを入浴させるのは、第20病棟では一番嫌な仕事であるはずなのに、このアイリーンは、それを一番働き甲斐があると言っているのです。
「ギルバートが感謝してくれてるかどうかは分からないけど、私は喜びを感じながら洗ってます。私を必要とする唯一の人に思えるから。それなのにギルバートは、軽蔑したようにゾンビのよう目で私を見るわ。それに先生は、せんせ・・・・」と、左手の指で鋭く私を指差しながら、両目から涙を浴れさせてアイリーンはすすり泣きを始めました。
「どうしたの、アイリーン?」と、私は尋ねました。私は特に女の人といる時にはかなり人見知りする方なんですが、ここは医者として何とか気持ちを落ち着けて勇気を振り絞り、医者の仮面を被りました。
「もう二度とピルを飲まないことにしたわ。」と、アイリーンは不躾(ぶしつけ)に言いました。
「そう、他にもたくさん選択肢もあるし・・・・」と言って、私の体はこわばりました。
「どんな手段でも避妊はしないと決めたの。」
「ローマ法王が言っただろう。自然の摂理が・・・・」
「自然の摂理に関わることも、もうないわ。」
「それじゃ、赤ん坊をたくさん、という話になるね。」と、私は言いました。
すると、アイリーンはまた突然すすり泣きを始めたのです。私は、何に苦しんでいるのか理解できないまま、ともかく慰めるというおかしな立場に立たされました。「赤ん坊をたくさん」という表現がそんなに気に障ったとも思えませんので、私のどこが悪かったのかをアイリーンから教えてもらえるまで待つしかありませんでした。
苦痛の原因は、私がどんなに想像力を働かせても無理なほど痛ましい話でした。まず、アイリーンは母親からひどく嫌われていたのです。また、胸が貧弱なために女らしくない、と最初の恋人に思いこまされて、男に縁が無いのを自分の胸のせいにしていたのです。自分の部屋に一人座っていればいつの日か求婚者が現われるはず、と夢見ていましたが、来訪者はありませんでした。数少ない女友達と連れ立って遊びに行っても、皆、熱心な男に言い寄られてうまく収まるのですが、自分だけはやっぱり一人ぼっちだったのです。
「私、どうすればいいの?」と、アイリーンは私に訴えました。
翌日アイリーンは、男性を捕まえるわと固く決心して街に出かけて行きました。独身の美男美女の集いにはもってこいの場所、ハライアンという新しいナイトクラブが開店したと聞いていたのです。アイリーン本人は、酒も飲まず、煙草も吸わず、「評判の悪い店」に出入りすることもない、品の良い女性になりたいと思っていたのです。これまでにも、ナイトスポットには数えるほどしか行ったことがありません。「1900」に行ったときには、大学時代の恋人ジョン・キマルと一緒でした。「フロリダ」に行ったときは、同僚の男性看護師と一緒でした。体の関係を迫ってきたので、そのうちアイリーンはその看護師に嫌悪感を覚えたのです。最後に行ったのは「スターライト」でしたが、店中に煙草の煙が充満して窒息しそうでした。不安を胸に、アイリーンはハライアンの玄関ホールで列に並び、席料の10シリングを払ってクラブの中に入りました。見たところ、空席はありませんでしたので、カウンターの腰掛に座ることにしましたが、座り心地はよくありませんでした。コーラを注文し、居ずまいを正している時、ふと、ビールの方が相応しかったと気がっいたので、半年近くも飲んでいなかったピルスナービールを注文しました。

ピルスナー

薄暗く青い照明の下、アイリーンは自分の周囲にいる人間の群れを観察し始めました。店の隅にはぼさぼさの髪で、色槌せたジーンズに皮のジャケットを着た男が座?ています。男は黙ったまま、ぼんやりと侘しそうにタスカービールを飲んでいます。この世のことはどうでもいいというような様子で、鼻の穴から煙草の煙を噴き出していました。
男の隣では、1組の男女が何やら激しく言い争いをしていました。男の方は歳上で、おそらく45歳くらいでしょう。しかし相手の少女はアイリーンより若く、恐らく19歳くらいでしょう。少女は(2年ほど前にすでに廃れたというのに)ミニスカートを穿いており、バルマーサイダーを飲んでいました。中年男は、薄茶色の液体をすごい勢いで飲んでいました。ウィスキーかブランデーが入っているに違いないわ、とアイリーンは思いました。男はツイードの上着を着て、当時人々が「オピニオン」と呼んでいたビール腹をしていました。大きくて高そうな指輪を何個も指にはめています。ナイロビの金持ち層に属しているのでしょう。「自らの若さを保つために」10代の娘と連れだって、シゴナやムサイガといった場所にゴルフをしに行く人間です。この娘もその「パトロン」の男性もお互いに充分にその時間を楽しんでいるようでした。
突然、アイリーンはカウンターにいる客の方を向きました。一人の男が、酔った勢いで釣り銭をめぐって店員と大騒ぎしていました。

タスカービール

「汚ねえ豚野郎、いちいち細け一んだよ。小銭まで巻き上げやがって。」
「あんたも豚野郎だよ。」
「いいか、教えてやろう。お前なんか生きる価値もねえバーテンだよ。」と、男は罵るバーテンの首もとを掴み、今にも締め殺しそうな勢いでした。
「お願い、やめて!私が払うわ。」と、アイリーンは叫びました。
「誰があんたに金をくれと頼んだんだよ、この売女。」と、酔っ払いは視線をバーテンからアイリーンに向けると、脅すように鋭い声で言いました。手はまだバーテンを掴んだままでした。
「あんた、売女って言ったわね。私は看護師よ!」とアイリーンが叫んだ時、店内の視線が全て自分に注がれているのを感じました。身を明かすべきじゃなかったわ、と思うと、アイリーンは後悔の念に打ちのめされました。ハライアンで独り、ビールを飲んでいる看護師。即座に立ち上がり、口を付けていないピルスナーをそのまま残して、アイリーンは逃げるようにハライリアンから出て行きました。
少し肌寒い夜でした。あても無くリバー大通りにのびるトム・ムボヤ通りをアイリーンは歩きました。ラテマ通りを横切ったところでルツーリ通りに入り、小汚い店にでも入っていこうとしたその時でした。アンバサダーホテル脇の「アーチ」のことを思い出したのです。狭くてせわしい雰囲気ですが素敵な恋の待合所となっている店です。ハライアンが看護師を歓迎しないのなら、アーチは間違いなく歓迎するはずよ、そこが私の楽園だわ、とアイリーンはふと思いました。
「私なんて結局、売春婦になる方がいいのかもね。」と考えながら、アイリーンは大声で言いました。その瞬間、まるで神様が願いを聞き届けて下さったかのように、品の良い男性が自分のテーブルの方に近づいて来るのがアイリーンの目の片隅に映りました。
「ご一緒してもよろしいですか?」と、その男性は大胆にも聞いてきました。
「もちろんよ!」不自然なくらい熱っぽく答えると、アイリーンは男性を見つめて言いました。
「何を差し上げます?」
今日2度目の失言に気づき、アイリーンはその場に崩れ落ちそうになりました。ナイロビの女性は見知らぬ人間にビールを勧めたりはしないのです。逆の場合は尚更のことでした。
「何ですって?」と、銀行の重役は聞き返しました。
「何かお飲みになるかと思ったの。」と言って気持ちを落ち着かせながらも、どう進めていけばいいのかアイリーンには全く分かりませんでした。しかし、もの事は上手く運びました。その男性は向かい側に腰を下ろすと、自分にはタスカーを、アイリーンにはピルスナーを注文しました。2人はすぐに、どっちが支払いをするかで、お互い気楽に言い合いしました。アイリーンは男性の分を払うと言い張り、男性もまた、アイリーンのビール代を払うと言い張りました。男性はレオナルドといい、インド銀行の出納課長であるのが話の中から分かりました。
「早い話、汚らしいそのホテルに予約を済ませたら、あいつこの『看護師アイリーン』の上に乗って事を始めたってわけ。それが先生の目の前にいる私。まるで獣だったわ。もっと金は払えるぞって、何度も何度も言うのよ。」と、アイリーンは声を荒げて180センチもある、ボクサーか棒高跳び選手としても十分通用しそうなその男とは、通りの向かいのルアシアホテルで別れた、言いました。
「ムングチ先生、男の人ってどんな土で出来ているのかしら?体を捧げた理想の男性が、私のことを商品と思っていたなんて、私とっても傷ついてるの。私、私・・・・。」アイリーンは泣き崩れ、気がつくと私は、レオナルドに非常に怒りを感じていました。
アイリーンの首を診てみると表皮裂傷を起こしているのが分かりましたので、ヨウ素で処置をしました。傷の治りは早いだろうと思いましたが、アイリーンが病院を出て行ったときは、まだ幾分興奮状態が残っていましたので、精神的な回復には時間がかかるかも知れないと思いました。

ナイロビ市街

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アイリーンは25歳で、ケニア人女性としては背が高く174センチもありました。目の覚めるような美人ではありませんし、特に、顔は普通よりも長めに見えました。しかし、びっくりするほど形の良いお尻をしていましたし、脚も形よく均整が取れていました。腰は、アイリーンが好きな高さよりも、少しだけ高めの位置からくびれていました。かつて初めての恋人に言われて、本人も欠点の一つと思っている胸は貧弱でした。社交面ではアイリーンは数えるほどの友人がいるだけで、孤独でした。それがどうしてなのかアイリーン自身にも良く分かっていませんでした。
第20病棟で顔を会わせるうちに、アイリーンのことをもっと知るようになりました。子供時代のことや学校のこと、5年間勤めているケニア中央病院のこと。この病院には、3年間の正看護師課程を修了したあとすぐに就職しました。最後の1年間は、手術実践看護を専攻して上級看護実践を修了しました。
なぜ自分に引っ込み思案な面が育ったのか、理由ははっきりしませんでしたが、少し厳しく育てられ過ぎたのは分かっていました。母親はアイリーンを憎らしく思っていたようなのです。例えば、アイリーンが何か悪さをすると必ず鞭で打ちました。ある日、教会に行くのに髪を整えていたら、媚びるような髪型だと言って許してくれなかったことを、アイリーンは今も覚えていました。
「アイリーン、髪型のことを何度いわせたら気が済むの?」と、母親は恐ろしい剣幕で言い始めました。
「母さん、わたし何か悪いことをしたの?」と、アイリーンが答えました。
その瞬間、母親は娘に飛び掛かり、首を引っ張って腰を折り曲げさせ、役立たずのふしだら女、と娘を罵りながら、情け容赦をせずにブラシをかけ直しました。
「母さん、痛いよう。」と、アイリーンは叫びました。すると今度は娘を拳で殴り始めました。その時帰宅してきた父親に、アイリーンはたまたま救われたのです。
いつもアイリーンの支えになってくれたのは父親でした。大人になって、娘に対するこの支えと愛情があったからこそ、私は父親を信頼できたんだけれど、母親の不満を買ってしまっているわ、とアイリーンは信じるようになっていました。それはまるで、父と娘が戦場で二人をひどく苦しめる敵と戦うように命じられているかのようでした。母親が二人にきつく当たれば当たるほど、父と娘の絆は深まっていったのです。
アイリーンが16歳の頃、家にボーイフレンドを連れてきたことがありました。ジェイムソン・オレンゴといい、母が大嫌いなルオ人だったのです。南B地区にある自宅で、アイリーンのお気に入りのジミー・クリフのレコードをかけて居間に二人で座っていたところを母親に見つかってしまいました。ナオミ(アイリーンの母親の名前ですが)は部屋に入りながら、憎しみと不満の表情を顕わにして2人を睨みつけました。
「ねえあんた、一日中じっと座って一体なにをやってんのよ?」と、母親が言い出しました。
「だって、今帰ってきたばかりよ。」と、アイリーンが口答えをしました。
「床も掃いてないし、芋の皮むきもやってないし、皿洗いもやってないね。」と、母親は何も聞こえなかった振りをして言いました。
アイリーンは、そのためにメイドがいるんだし、せめて、特に来客の時ぐらいは自分の時間があってもいいじゃないときっぱり言いました。
「あんた、どの客だって?」と、オパンデ長老の息子を客だと言ったアイリーンのその言葉に、母親は不快感を露わにして怒鳴りました。
オレンゴは、ナイロビ大学の法学科の1年生で、アイリーンは子供の頃から知っていました。2人はよく一緒に遊びましたが、その度に、ナイロビでは明らかにいい生活をしている家族がナオミには気に入りませんでした。オレンゴの父親オパンデ長老は、ナイロビでも評判の良いビジネスマンでした。市の評議員として昔からの酒類販売権発行の手助けをしたり、土地の割り振りをやったり、たくさんの家庭内や隣同士のもめ事を収めてきたりと、それなりのことはやって来たと誰もが信じていました。オパンデはオレンゴが高校生の頃からボルボに乗っていました。アフリカ人としては、初めてテレビを持った1人でもあったのです。(1960年代は、テレビと車の2つを持つことが金持ちであることの証明でした。)

ナイロビ大学

2人は、月日が経てばナオミが軟化して、新しい世代のギクユとルオは、無理やり憎しみあって生きる必要もないと気づいてくれると思っていたのです。しかし、この日のアイリーンの母親の表情を見て、オレンゴは自分がまだこの家に迎え入れられていないことを悟りました。そして、帰ろうと立ち上がりました。
「いいから座って!」と、母親に反感を買うのを承知で、アイリーンは怒りのあまりオレンゴにそう命令してしまいました。父さんがいて守ってくれたらいのに、と思いました。今父親は、30年勤めてきたスタンダード銀行に出かけています。
オレンゴは出て行きました。アイリーンはいつか母親に思い知らせてやろう、と心に誓いました。母親の秘密を少しばかり握っていると信じていたのです。同じやり方で、相応しい仕返しをしてやるつもりでした。この女が愛人を失なうのに、たとえ何年かかっても。オレンゴの一件以来、アイリーンは家に誰も連れて来なくなりました。そしてナオミは、娘のあら探しをしては、友人が少ないわねとアイリーンを皮肉るのです。
カマンジャは控えめな男性で、ナオミのように叫んだり喚いたりしませんでした。気性が荒くて騒しく、短気で決して譲らない性格の妻とは、大体において正反対でした。ナオミは4人の子どもを産みました。すでに大人の3人の息子と、カマンジャ最愛の娘、アイリーンです。今ではもう、妻に対して愛情があるかどうか分かりません。ナオミは東アフリカ航空で働き、夫より多くの稼ぎがありました。週の半分は販売促進の営業に出かけ、帰宅すると、やっておくように命じた家事が終わってない、と文句を言いました。終わっていても、殆んど誉めませんでした。最近カマンジャは、妻が酒を飲み始め、男が出来たのではないかと疑っていましたが、この突飛な考えに確証はありませんでした。ただ、自分に対する妻の愛情がだんだん薄れ、ほんの思いつきで言った意見にも非難めいた言い方をするようになったのは感じていました。
「まわりの子はみんな友達と仲良くやっているのに、お前は負け犬だよ。」と、母親は詰りました。アイリーンの生活は相変わらず友達のいない孤独なもので、18歳で高校を卒業したあとも男性を知らないままでした。

HIV

『ナイスピープル』(1)→「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(1)著者の覚え書き・序章・第1章」「モンド通信 No. 5」、2008年12月10日)

作品解説(1)→「『ナイスピープル』理解1:『ナイスピープル』とケニア」」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)

作品解説(3)→「『ナイスピープル』理解3:1981年―エイズ患者が出始めた頃1」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)

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執筆年

2009年3月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 6

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『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(3)第4章 アイリーン・カマンジャ

2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の2回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―
(2) 第2章 ケニア中央病院(KCH)・第3章 ンデル診療所

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第2章 ケニア中央病院(KCH)

私の父アレックス・ロレンゾは最も厳しい時代を生きながら15人の家族を養ってきました。僅かしかなかった全てを6人の息子と7人の娘のために犠牲にしました。その大部分は子どもの教育に使いました。私が白衣を着て胸から聴診器をぶら下げている姿を見ながら、父の顔は光輝き、誇りに満ちていました。父は自分の激動の人生が絶頂期に達したと感じていたのでしょう。

*************************

私たちは7月の肌寒いその日の朝、タラを出ました。相変わらず、乗り合いバスはぎゅうぎゅう詰めでしたが、これが最後の乗り合いバスになるんだと心に誓っていましたので、嫌な思いもしませんでした。父親は多くは口にしませんでしたが、今度はきっと私が自分の車かオートバイでタラに帰って来ると期待していたようです。

シルベスター・オルオッチ教授は、イバダン大学からの私の書類を読み終えるとにっこりして、「そうか、ダンボは、大学の副学長になったのか。」と言いました。

ナイジェリアイバダン大学

「はい。正確には去年からです。ダンボ教授をご存知なのですか?」と私は答えました。

「1965年にマケレレ大学で一緒に教壇に立っていたんだよ。ビアフラ戦争が勃発したんで、奴は国に帰ってしまったがね。」と教授が言いました。

マケレレ大学

父親は、私を学校へ連れて行った時に昔からそうだったように、私たちが喋っているのをじっと見ていました。私が28歳の大人になっても、まだ世話の焼ける少年のように思っているらしく、医者の象徴とも言える白衣を着るのを手伝ったりするのです。私の手を握り、ナイロビで何をしても、タラを忘れるんじゃないぞ、と諭すのです。

「忘れないよ、父さん。すぐにまた会うさ。」と、私が念を押すと、父は帰って行きました。

「さて若いの、これから何をやりたいのか考えたかね?」とオルオッチ教授が聞いてきました。

「いえ、先生。脳神経外科も行きたいんですが、当分は勤務医でいこうと思っています。」

「私たちの管轄の第20病棟に、脳神経外科の患者が一人いたな。そこで始めたらどうかね。指導医はワウェル・ギチンガ医師で、君はその人に就くことになる。C棟にあるがね。」と、教授はそう付け足すと、私を出口の方に促しました。私は、密かに自分に誓いを立てました。

「ジョゼフ・ムングチ、キロンゾの息子。医学と化学の学士さま、お前は、この国で1番の脳神経外科医になるんだ!」と自分の胸に黙って誓いを立て、私は「愛しのロリポップ」を鼻歌で歌いながら、第20病棟のあるC棟に向かって、一人元気よく歩き出しました。

ギチンガ医師は、192センチもありギクユ人にしては大柄で眼鏡をかけており、少し吃音混じりで話をしました。40代前半だと思いました。

「で、君が、わ、私の、け、研修医だね。イバダン大学で学んだのか?ま、まさか、あの忌まわしいヒポクラテスの誓いをやらされてなければいいんだがね。」と、ギチンガ医師は続けますが、私の方は神経がぴりぴりし始めてきました。

「もちろん、やらされましたよ、先生、ここではやらないんですか?」と、ギチンガ医師からさっき聞いた異説に完全に面喰らいながら私は言いました。

「前にね、君、絞首刑執行人の話を読んだことがある。首に縄をかける前に、死刑囚にこう言うんだ。『刑を執行しても、囚人を更生させることも、残忍な傾向を抑えることも出来ないが、自分の子どもの生活の糧のためには、絞首刑も必要なんだよ。」と。すると、死刑囚は決まってこう言うのさ。『何ぐずぐずやってやがる、早いとこ俺らを吊して、尻の穴にキスしな』、とね。」

「でも先生、ここは病院で、刑務所ではありませんよ。」

「違うね、きみぃ。ここはね、自分のことを医療関係者だと名乗る、全てのいかれた連中の監獄だよ。一度放り込まれると、善悪の判断、知能、理性は消えて無くなるのさ。ロボットやコンピュータが引き継ぐ方がいいと思うことさえあるよ。私の言ったことを、よく覚えておき給え。でないと、第20病棟に足を踏み入れた日を後悔しながら君は生きることになるぜ。」

私は、ギチンガ医師がなぜ早々に第20病棟のことを諭すのかが分からずに戸惑いましたが、すぐ後で私は知ることになるのです。

ギチンガ医師は、病棟を案内して、最初は診察室に、次に看護師の詰所に私を連れて行きました。詰所では、青い制服を着た愛らしい20歳の女性に会いました。

「アイリーン看護師だ。」

「おはよう。」と、私は言いました。

「おはようございます。先生。」

「いや、まだ医者じゃないよ。」と、ギチンガ医師に訂正されて、私は恥ずかしい思いがしました。こういう風に、経験豊かな自分と研修医をしっかりと区別したかったのでしょう。それから2人は、患者を診に行きました。

「こっちはンジョグだ。ンジョグは髄膜炎の患者だ。あれは麻痺が回復中のオパップだ、小児麻痺の後遺症で時々軽い発作は起きるがね。ここでは先週、患者が1人亡くなった。しかし、いつものやり方でやってたら、あの患者は死ぬことも出来なかっただろう。」と、空きベッドを指差しながら、ギチンガ医師が言いました。

「何のことですか、先生?」と、私はこの変わり者の医師に更に興味がわいて尋ねました。

「今にわかるさ。」と、ギチンガ医師はそう言うと、第20病棟の一番奥の、カーテンで仕切られたベッドの所に私を連れて行きました。

ギルバートは生命維持装置に紐でくくられていました。もう22ヶ月になりますが、KCHでは最も有名な患者でした。交通事故で、脳と心臓と肺以外は、すべてが麻痺してしまっていたのです。鼻から食事を与えられ、肺で呼吸をしていますが、固形物は食べられませんでした。命を支えているのは呼吸器官と点滴だけです。話は出来ませんが、きらりと光る両目だけが生き生きしていました。頭を120度ほど左右に動かして、目をきょろきょろ動かせますが、それが自分の意思で出来る唯一の動作です。他は動きませんでした。22ヶ月もの間、第20病棟のベッドに横になり、神の手に委ねる以外にそこから逃れる術はなかったのです。

「ユーサネイジアを君はどう思うかね?」と、ギチンガ医師が聞いてきました。

「ユーサネイジア?」

「そう、ユーサネイジア、安楽死のことだよ。」

「聞いたことがありません。」と、患者の聞こえる所でそんな話をする気にはなれませんでしたので、私は嘘をつきました。

「ダンボ教授は、医療倫理について話をしたことはないのかね?」と、ギチンガ医師が尋ねました。

「中絶、試験管ベイビーについては講義をして下さいましたが、殺人に関する講義は1度も無かったです。」と、私は嘘を重ねました。

「いいかね、ここにいるギルバートは死にたがっている。投薬をする時はいつも、怒りで発狂しそうに見える。感じているはずの切なさから自分を救ってくれと、ギルバートの目が訴えてくるんだ。しかし、敢えて誰もその懇願に応えようとしない。人間の命は奪わないと誓ってしまえば、こういったケースが非常に難しい決断になることもある。」と、ギチンガ医師が諦めたように言いました。

「しかし私たちは、痛みを長引かせないとも誓ったはずですよね?」

「そうさ。しかし、人間に何が出来る?」と、ギチンガ医師は力なく答えました。

オランダはこのような現実を受け容れていましたが、私たちが違う立場に立っていることもわかっていました。しかし、ケニア中央病院もいつか現実に目覚めてほしいと心から思いました。

これが、この病院の指導医が言うところの、我が入獄の第1章だったのです。規則を遵守するのを無視した方がいい場合もあります。希望もないのにギルバートにだけ使うので生命維持装置が足りなくなって、これまでに11人の別の患者がどういう風に亡くなったかを、私はギチンガ医師から聞かされました。看護師や研修医は皆、第20病棟での夜勤を恐れていました。ギルバートが死亡した際の担当医は誰であっても、医療行為を行なう資格を剥奪する、と病院長が言明していたからです。ギルバートは、ケニア中央病院に来る全ての医師の恐ろしいアキレス腱になっていました。プロの医療行為の資格を得ようとする人には、ギルバートは資格を取得できるかどうかの試金石でもありましたし、そのために、畏れと憎しみが入り混じった形でギルバートが受け止められていたのです。

ナイロビ市街

第3章 ンデル診療所

「泥棒や強盗や不誠実な人間ばかりだったら、君はどうやって自身の誠実さを持ち続けていくかね?」と、あるときギチンガ医師が私に尋ねたことがあります。

「わかりません。」と、私は正直に答えました。

「この病院では、私たちは医薬品に関して公正であるように求められているが、最高会計理事会は、医薬品の入手方法でずっと不正を働き続けてきている。」

「まさか!」

「あいつらは、俺たちのような医者には僅かしか払わないくせに、外国から来た医者には家を与え、ケニア人の医者の3倍もの給料を払ってるぞ。俺たちには使えない政府の車も使える。奴らには3ヶ月の休暇があるのに、こっちは1ヶ月ときている。それでも、あくせく汗水たらして、ただ効率良く仕事をするというわけさ。」

次の日曜日、ギチンガ医師は私を自分の村に連れて行ってくれました。ケニア中央病院から道中ぎしぎし、がーがー音を立てっぱなしのおんぼろフォルクスワーゲンに乗って、ダゴレッティ交差点、カワングワレ、ウシルを通り過ぎ、ナイロビーナクル線にやって来ました。ウシルでは、ナイロビ行きの乗り合いバスに、もう少しでぶつかりそうになりましたが。

「あれは、私が通った小学校だ。当時は、今頃億万長者になっていると夢みたものだが、ま、ごらんの通りさ。私はKCHに巣食う鼠のように、いまだにもがいてるよ。」と、ギチンガ医師は言いました。私は、物事がすべて空しく見えてしまうこの人に、何を言えばいいのかを考え始めていました。その人の病院での生活も、その人の人生観も、存在の負の部分が元になっていたのです。

「しかし、どれだけのケニア人が仕事だけでなく、車も持ってますか?何人のケニア人が医者をやってますか?」と、私はギチンガ医師にものごとの違う面を見てもらいたいと思って尋ねてみました。

「その人たちは7年もの間、解剖死体を扱ったり、臭いのきつい傷口の処置をしたり、感染の危険を覚悟で結核や淋病の患者を診たりはしてきていない。先の希望がない患者が話す哀しい話を1日中じっと座って聞いていたと言う人もいないよ。」

私は、どぶさらいやポン引きに売春婦、麻薬売人や囚人に悩まされる看守などについて話そうかとも思いました。普段は社会の底辺にいる人たちと接することが多くなる警察官の話もしたいと思いました。ひどい臭いの通りを巡回する人たち、その人たちの出来事の多い人生が社会の弱者といつもいっしょなのです、とも言いたかったのですが、言わない方がいいと思って黙っていました。

20分で、ナイロビの金持ちだけがゴルフの出来るシゴナクラブに着きました。モービルガソリンスタンドにさしかかったところで、左折してムガガに入り、そのまままっすぐ進むと、ンデルという町に出ました。私たちは、円形競技場のような市場の中央に建つ木造の建物の前で車を止めました。その表玄関には、太字で次のように書かれていました。

ンデル クリニック
医師 ワウェル・ギチンガ
医学士、化学士(マケレレ大)

私は信じられない思いでギチンガ医師を見ました。そうです、病院のこの鼠は、診療所を持っていたのです。

「若いの、ここで小遣い銭が稼げるぞ。ま、私に協力すればの話だが。政府の決定によれば、臨床の職員が診療所に人員を配置してはならず、資格のある医師が……つまり、事実上、君には資格があるし、実際の業務は、先輩の医師が教えてくれる。ンデル全体の性病患者を治療すれば、あんたの研修医の給料の2倍は稼げる。」
2人は大股でクリニックの中に入っていくと、そこには、白衣を着て聴診器をぶら下げた60歳前後の男性が、眠そうに木製椅子に座っていました。

「おはようございます、ギチュア先生。こちらはムングチ医師、これからあなたと一緒に働いてもらうことになります。」と、ギチンガ医師が口火を切った。

「おはようございます。」と言って、私はひどく痩せた手を握った時、ひどく酒臭い息を吸い込んでしまい、その場で酔ってしまいそうな気分でした。

「どうぞ、よろしく。」と、ギチュア医師は、私の心に探りを入れようとする時に昔よく父がしていたように、私をまじまじと見つめ始めました。ギチュア医師はにっこりと笑いました。どうも、私のことがすぐに気に入ったようです。私は思わず引き込まれてしまいました。酔っ払った様子もそうですが、ギチュア医師は父にそっくりだったのです。ぜい肉のない体、鋭い眼光、陽気だが、いざという時には、威厳があってかつ頑固な気質が見て取れる鋭い目つきをしていたのです。

「今回は、一緒にこの町を出て行こう。」と、ギチンガ医師が付け加えましたが、私はどういう意味なのかを図りかねて当惑してしまいました。ンデルの秘密の詮索はやめよう、と決心したものの、私はこの診療所になぜか宿命が待ち構えているような気がしたのです。

HIV

●「ナイスピープル」(3)→「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」「モンド通信 No. 8」、2009年1月10日)

●作品解説(2)→「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com:80/0000274176/index.html

執筆年

2009年1月8日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 4

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『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(2)第2章 ケニア中央病院(KCH)・第3章 ンデル診療所

2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の1回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(1) 著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

「エイズにやられる危険性は殆んどないという危険な思い込みが富裕層に蔓延していることもあり、今や世界で15万人近くもいると言われているエイズ患者は、きっと今年中に倍になると思います・・・・」
1988年       世界保健機構医師    ジョナサン・マン

著者の覚え書き

『ナイスピープル』の中で、どうしても書いておきたかったことがあります。1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙の切り抜きです。3年後に今その記事を再現することになりました。

「アフリカのエイズ、未曾有の大惨事となった危機」(ハーデン・ブレイン報告)
(ナイロビ発)中央アフリカと東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、かつてない大惨事だと思われています。

この命を脅かす病気は世界で最も貧しい大アフリカ陸には、特に厳しい脅威となっています。専門知識や技術を要する、数少ない専門性の高い職業人の間でもその病気が広がっているからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でもある意味、エイズの流行でアフリカの何カ国かは「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。

病気がますます広がって、既に深刻な専門性の高い職業人の不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的・政治的・社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。

世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では研究者が「驚くべき割合」と記述するような確率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。

第三世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ジョン・ティンカー氏は、「死という意味では、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」

世界の多くの国では、基本的に同性愛者間の性交渉や静脈注射の回し打ちや輸血を通してエイズが広がってきましたが、アフリカでは主に異性間の性交渉を通して病気が広がっています。

アフリカでは、70年代後半から80年代前半に病気が始まって以来、男性も女性も数の上では同じ割合で病気にかかっています。

アフリカでは性感染症を治療しないままにしている割合が高く、その割合の高さがエイズの広がりの大きな要因になっている可能性が高いと多くの研究者が主張しています。

WHOのエイズ特別計画の責任者ジョナサン・マン氏は、一人当たり平均約1. 75米国ドル(2.40オーストラリアドル)しか医療費を使わないアフリカ諸国の保健機関にてこ入れをして教育への直接の国際支援と血液検査を行なえば、病気の広がりを抑えることが出来ると発言しています。

ジョナサン・マン

序章

ムンビの葬式にはたくさんの参列者がありました。ドクターGGには友人が多数いて、それも生存中のンデル出身の友人が多数いると誰もが信じていました。これまでドクターGGは、数多くの出産と少年の割礼に立ち会ってきました。咳や淋病熱の患者もたくさん診てきましたし、最近では、「スリム病」という独りよがりの診断を信じ切っている患者も助けてきました。

エイズ患者

私は敢えてドクターGGを見ませんでした。ずっと耐えてきた苦しみがわかっていたからです。父娘の絆が他の誰よりもずっと深いのを、長年身近にいた私はよく知っていました。娘を心から大切に思い、ムンビもまた父親をとても大事に思っていました。一度ムンビに、父親と同じくらい大切に思えた人はあなただけよ、と言われたことがあります。しかし私がムンビの思いに応えることが出来なかったのですから、私への思いが枯れても仕方のないことでした。私が与えられなかった温かい家庭と家族を求めて、ムンビは私のもとを去り、ヘルシンキへ発ってしまったのです。

ムンビは私にはずっと特別な人で、聡明で勇気もあり、決断力もありました。また、本当に素直な人で、メアリ・ンデュクのように偏見を持ったり、人に厳しい態度を取ったりすることもありませんでした。自分の感情に素直で、自分の感じることや信じることを隠さなかったのです。そうした正直さゆえに居ても立ってもいられずに、生まれて来た男の子の父親であるブラックマン船長に忠実であれと信じながら外国に渡ったのです。

辺りを見回すと、ムンビの母親が何事もなかったかのような顔をして立っているのが見えました。とても死者を悲しんでいるようには見えませんでした。私に気がついて微笑みましたが、私はとても笑える状況ではありませんでしたので視線をそらし、メアリ・ンデュクとユーニス・マインバが動揺しながらも話し続けるのを見つめていました。なぜ性格のまるで違う二人が一緒にいるのだろう、と私は不思議に思い、その時、自分がそれまで見てきた、人と人とが織り成してきた出来事に思いを巡らせました。アイリーンがドクターGGの隣に立って、自分の職場の同僚を慰めようとしているのがはっきりと分かりました。自分の娘が遠く離れたフィンランドで死んだと聞かされた時に、ドクターGGが心に受けた打撃の大きさを思わずにはいられませんでした。

いよいよ、持っていた花を棺に投げる私の番になりました。たくさんの参列者がムンビに最後のお別れをして遺体から離れて行くのを、私はずっと見ないようにしていました。花が棺に落ちたその時、それまで必死に堪えていた涙が溢れてきました。最後に泣いたのは何時だったかは思い出せませんでしたが、私はその温かい液体が流れるままにしていました。ここに横たわるムンビ、愛おしく、素直で、決して争わず競争相手にも道を譲るような素敵な人だったと私は思い返しました。ムンビは、私とメアリ・ンデュクとの仲が原因でモンバサを離れましたが、自分の産んだ男の赤ん坊が私の迷惑になると考えてカナンホスピスを去り、馴染みの人たちと気楽に暮せるようにと願って、帰郷したブラックマン船長の後を追ってこの国を去ったのです。

モンバサ

ガイ神父は30年以上も前に、ラザラスという名の男性の病気をイエス様がお癒しになったという説教をされたことがあります。神父は、民に神の偉大さを信じさせようとしてその男は病気になったのだ、と言われました。ムンビも同じ理由で死んだのだろうか、と私はふと思いました。タラ高校で何度も言い聞かされた愛の神は、ムンビに死をもたらし、私の医者としての資格を奪いそうになった疫病を引き起こした神と同じだったのでしょうか。ディン・シン医師は同じ神を信じていました。ワウェル・ギチンガもそうです。ディン・シン医師は辛うじて逃亡できましたが、ギチンガ医師は逃げ切れませんでした。神とは、ある者には与え、ある者には与えないという差別をする神だったのでしょうか?メアリ・ンデュクが生き残っているのに、ムンビのような聖人を殺した同じ神・・・。こんなことを考えながら、私の心はすっかり混乱していました。

ドクターGGの娘の亡骸を納めた棺に背を向けて、私はその場から立ち去りました。その時誰かが、私が倒れないように腕を掴んできたのを感じました。シスター・アイリーンでした。仕事に忠実なこの看護師が、私にどんな過酷な出来事が起きても、いつも傍にいてくれたことを私は思い出していました。そうです。病める者や悩める者が心安らかにいられるように、アイリーンのような聖人をも神様は遣わして下さっているのだという事実にも気が付きました。私はアイリーンを見つめ、私のことを気遣ってくれる人が本当に必要だとしたら、アイリーンこそが喜んで私を大事にしてくれるだろうと思いました。

第1章 イバダン大学

大学生活は快適なものでした。卒業後は本当に特別な人間、人類を苦しめる色んなもの治す、神に近い人間になるのだ、という大きな野心をもって医学書を読み漁りました。私たちは、犬や猫や馬を扱う獣医よりも当然、優位であったはずです。何しろ私たちは、より優れた種、すべての生きものの中でも最も偉大なホモサピエンスを治療することになるのですから。結核、マラリア、淋病、梅毒など、人間が患らうようになった色々な病気。私たちは本当に天からの授かりものではなかったのでしょうか?

大学は「UCI」と呼ばれていましたが、そのUCIから退学者が出ました。どうもその学生は、マーティン医師の心臓の標本を盗んだということで、クラス全体に回された標本を最後に手に取ったのが、その学生だったというわけです。標本が消えて無くなり、次の週の月曜の朝に、アデンクレが切れ切れの調理済みの肉を持って授業に現れ、「心臓を料理したんだ」と得意気に言い放ったのです。マーティン医師は怒り狂ってこれでもかとアデンクレを罵りましたが、アデンクレは医師を見てにやっとするだけでしたので、マーティン医師はますます怒り狂うのでした。

ナイジェリア地図

そんなとき、私はマラリアにかかってしまいました。どうにか体が持ちこたえますように、と皮肉まじりに祈りました。最終試験が1週間後に迫っていて、今度ばかりは神に裏をかかれたと思いました。頭は煮えたぎるように熱く、背中じゅうに細かい針が刺さっている感じです。苦痛ですっかり弱っていたところへ、あのアデンクレが、ジャジャ診療所のベットに横たわる私に会いにやって来ました。

「おい、マラリアなんかで死ぬなよ。マーティン先生が俺の退学にこだわらなきゃ、あんたを治してやれたかも知れないのにな。」とアデンクレはピジン訛りの英語で冗談めかして言いました。そこへ、180センチもある変わり者の英国人医師ウィリアム・ボイドが部屋に入って来て私に口を開けるように言うと、無造作に体温計を口に入れました。何だかとても嫌な感じがしました。

国じゅうを巻き込んだ凄まじいビアフラ戦争の猛威にも耐え、神に見捨てられたナイジェリアの泥沼の五年間を何とか生き永らえはしましたが、今や私は何とも哀れな肉の固まりになり果てていました。

イバダン市街

普段は見かけない医師が信じられないといった顔つきで私を一瞥したあと、「たしかに、相当ひどいな。」と言いました。それから、記録用紙に何かを書きつけて、そのまま部屋を出て行きました。

医師が出て行くと、アデンクレが記録用紙を手に取りました。そして注意深くそれを調べてから、私は死にかけだと言うのです。熱が40度ありました。私はその日を決して忘れません。相変わらず頭はがんがんしていました。身をよじって、何も口に出来ず、目が眩み、とうとう気絶してしまいました。私は意識を失なったのです。

司祭が私を起こしたに違いありません。目の前に平服を着たその司祭が立っていて、神のご加護に与りますか、と聞くのです。

「出て行ってください。あんたらは、頭がぼんやりしてものも言えなくなった時だけやって来るんだな。元気な時に来てくれと、あんたの神に言っといてくれ。」

「何て不遜なことを。本当に、今、神のご慈悲が要らないのですか?」

「それどころか、神が僕を病気にしたのなら、治してくれ、と言いたいですよ。僕は何も悪いことはしていない。むしろこの世の中から、神が創り給うた病気を消滅させようと人生の5年間を犠牲にしてきたんです。それなのに、その神様の思し召しの結果が、この態ですよ。」

イバダン診療所のベッドの中で、まさにその瞬間、私の中で何かがぷちんと切れたんだと思います。もはや、神の慈悲も愛も美徳も信じることが出来ませんでした。何百万という物乞いや売春婦、目や手足の不自由な人やその他社会の底辺で暮らす人たちはどうなのか?司祭は、そういう人たちもすべて神の子だと見なしていますが、では何故、来る日も来る日もある病気を治療するためにと、製薬実験室で何億という大金が使われているのか。

アデンクレは医学科課程を修了出来ませんでした。コーラ・ダンボ教授が署名して、アデンクレの退学の文書を議会に提出したのです。

私たちは学位を取得する前に、ダンボ教授が学生全員に読みあげた嫌な書類の内容をひとりひとりが確認して、署名をしました。

「わたくし、ジョゼフ・ムングチは、人に奉仕するために我が身を捧げることをここに固く誓います。患者の健康を  第一に考え、守秘義務を守ります。危機的な状況にあっても、受胎したその時から、人の命を最大限に尊重しま す。人道に反して、医学知識を使うことはありません。」

医学士、化学士(イバダン大学)
署名 ジョゼフ・ムングチ

イバダン大学

***********************

翌朝、イバダン発ラゴス行きナイジェリア航空の8席セスナ機に搭乗しました。それから、ラゴス時間でちょうど午後七時に、新しい人生を始めるべき、愛しの故郷ケニア行きのパンナム機ボーイング707便に乗りました。

朝8時に、飛行機はナイロビに到着しました。1974年、6月28日の翌日の金曜のことです。弟のムセンビが、ナイロビ空港に私を迎えに来ていて、タラまでまっすぐ車を走らせました。我が故郷です。村中が歓喜の声で沸き立っていました。自分たちの医者の到着だと、全員が分かっているのです。しかし、私が独立して患者を診るには、ケニア中央病院でまだインターンとして働かなくてはいけないということは、皆殆んど知らないようでした。

「ジョゼフ、こっちへ来ておくれよ。」と母親が部屋から私を呼びました。

「うん、母さん。」

「おじいさんとこに行くんだよ。お前のでなきゃ、他の者の薬は嫌だと言ってきかないんだからね。」

「そうなんだ、母さん。でも、どうして?」

「マチャコスの医者は、医療費稼ぎに水で薄めた薬を出してるぞって、きかないんだよ。」

「そんなことが出来るのかい、母さん?」

「お前が出て行った頃のケニヤとは、今は違うんだよ。警察は、賄賂欲しさに、もっと犯罪者が増えるように祈ってるし、判事は、拘置所を犯罪者で一杯にしたがってるし、看守だって同じだよ。弁護士が、犯罪の片棒を担いでるっていうのも聞いたことがあるね。そのほうが儲かるんだってさ。お前のような医者だって、淋病や梅毒、ヘルペス患者がもっと増えてほしいのさ。結局仕事は増えるし、もっと儲かるからね。皆そう言ってるよ。」

「じいさんが社会の仕組みをそんな風に見てるんなら、僕のことはどう思ってるんだろうね。」

「ここの地区判事が、先日ある男から5000シリングを受け取ってから、2人の取引についてしゃべれないようにと、その男に死刑を言い渡したらしいよ。」

母親は相変わらずでした。永年タラの噂話には強く、この小さな町の最新情報を聞き逃すことはありませんでした。それにタラでは、情報を伝えるのにマスメディアなど必要ありません。噂がその役割を果たすのですから。しかも大抵の場合は、大袈裟に伝わりました。

●「ナイスピープル」(2)→「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(2)第2章・第3章」「モンド通信 No. 6」、2009年1月10日)

●作品解説(1)→

メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com:80/0000274176/index.html

執筆年

2008年12月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No.3

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『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学

2000~09年の執筆物

概要

『アフリカ文化論(一)ー南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社)の続編で、出版予定で送った原稿です。校正も終わっていました。印刷前の最終稿を載せています。

本文(写真作業中)

目次第1章(はじめに)第7章(哀しき人間の性)奥付けを載せています。↓

目次

第1章 はじめに
第2章 1995年ハラレ報告
第3章 1992年ハラレ滞在
第4章 エイズ発見の歴史
第5章 HIV感染とエイズ治療薬
第6章 アフリカの現状
第7章 哀しき人間の性●さが●

■第1章 はじめに■

この掌編は、『アフリカ文化論〔1〕南アフリカの歴史と哀しき人間の性●さが●』(門土社、二〇〇七年)の続編です。今回は、アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●について書こうと思います。

医学の基礎を学んだことのない私がエイズについて考えるようになったきっかけは、医学部での英語の授業です。

書くための時間を確保したいと考えて高校の教員を辞め、三十の歳から大学を探し始めて何とか見つかったのが宮崎医科大学(現宮崎大学医学部)でした。以来、宮崎に移り住んで二十年の歳月が過ぎました。大学には一般教養の教官として採用され、医学科一、二年生の英語を担当し、その中でエイズの問題を取り上げるようになりました。

当時は一年次から解剖学や組織学の基礎医学科目もありましたし、「上級生になれば嫌でも医学のことばかりするのだから、授業では、出来るだけ医学に関係がないものを取り上げよう。」と決めました。特に受験勉強では「理解をして覚える」という作業を強いられるようですから、自分のことを自分で考える機会を少しでも提供出来ればと考えたわけです。

宮崎に引っ越しして来たその日に、ある方から分厚い手紙が届きました。兵庫県を離れる前に、何とか大学に居場所を見つけましたとその方に報告に出かけました。「僕はもともと頭が悪く受験の準備も出来なかったものですから行く大学が見つからず、仕方なく家から通える夜間課程に通うことになったんですが、そんな僕が受験勉強をやってきた頭のいい医学部の学生に授業をするのも不思議な話ですね。」というようなことを言ったのだと思います。医学部出身のその方は、そんなことを言う私に餞●はなむけ●として送って下さったのでしょう。医学部の学生に授業をする際の心構えとして今も大きな指針となっています。その手紙の一部です。

◆「……生物の成長というのは細胞が個数を増す細胞分裂と分裂によって小型化した細胞がそれぞれ固有の大きさをとりもどす細胞成長とによって達成されます。生物は本質的に成長するものなのですから、各細胞は成長の第一条件たる細胞分裂の傾向がきわめて強いのです。しかし、無制限に細胞の個数が増加して、その結果、過成長すると、こんどは個体の生命が維持できなくなります。そこで、遺伝子の〝細胞分裂欲求〟は不必要なときには抑制されています。この抑制因子をモノーという人はオペロンと名づけました。モノーのオペロン説です。フランスというところは困ったもので、いまだにデカルトの曽孫●そそん●のような顔をした人たちしかいません。このモノーもデカルトの曽孫にちがいありません。しかし、話を簡略にするためには、このオペロン説は便利です。化学変化を説明するのに結合手なる手を原子または原子団がもつものとするのに似て、こっけいですが御許しいただきたい。

さて、このオペロンがはずれてしまうというか 抑制因子がはたらかなくなったとき、細胞は遺伝子本来の〝分裂欲求〟に忠実に従って際限なく分裂を繰りかえします。ガンです。そして、ガンになりやすい体質は遺伝します。これはオペロンがはずれやすい傾向が子や孫に伝わるためです。たしか、一九二◯年代に有閑階級という新語をつくり流行させたアメリカの社会学者の言説をまつまでもなく、ヒトは〝侵略遺伝子〟を持っています。ヒトがすべて侵略者とならないのはこの恐ろしい〝遺伝子〟にもオペロンのおおいがかけられていて、容易には 形質を発現することがないためです。

ツングースの〝侵略遺伝子〟のオペロンは、窮迫によってはずされてしまったのです。それもほんの七千年か八千年ほど前のことです。そして、このオペロンのはずれやすい傾向は連綿と受けつがれ、いまなお子や孫が風を切って日本じゅうをわがもの顔に歩きまわっています。天孫降臨族●てんそんこうりんぞく●の末裔●まつえい●たちです。手っとりばやくのしあがることだけをひたすら思いわずらい四六時中蛇(蛇くんに邪気などない)のごとき冷たき眼を油断なく四方八方にくばるこの侵略者たちは、もちろん、効率百パーセントの水平思考を好み、鉛直思考など思いもよらぬことなのです。玉田先生が鉛直下の原言語に乱されて思考が中断するなら、私のほうは鉛直上の原言語に吸いとられて思考が消失します。中断と消滅、軽重の違いはあっても、二人とも、やはり頭が悪いのは確かなようです。

その点最近の学生は、とくに、医学生は頭の良い子ばかりだそうです。なにしろなんかの方法で受験勉強をしなかった子はいないというのですから、〝学問〟に対するその真摯●しんし●な態度と勤勉に驚かずにはいられません。これは頭の良い両親の指導のもとに 水平方向に己れの行く末を見つめ、かっちりと計画がたてられる頭の良い子であることを意味しています。鉛直方向によそみをすることなど思いもよらぬ天才少年です。A先生がなにも書かず、深い読みに専念するよう注意してくださったそうですが、どこまで恐ろしい方なのか見当がつかぬほど驚いています。A先生は現在の医学や医療や医学部が∧行きつくところ∨まで行きついて、〝良い頭の〟学生たちが良いくらしだけを目標に青春をおくり、結局は良い人生が見つけられなくなっているのに心を痛めておられるのです。親しきといえどB先生に御遠慮されてこんな言葉になったのだと思われますが、よくみると、不幸がやくそくされている医学生たちが深い闇の奥に気づくように講義をしてやってほしいと読みとれます。A先生は子どもたちに無言で良い人生が〝教えられる〟教師の卵を無言で 教えておられる方に違いありません。

しかし、〝頭の良い〟学生たちと〝頭の悪い〟玉田先生、この両者に虹の橋はかけられないと絶望するのは早すぎます。学生たちの眠っている意識以前に無言で語りかけてください。深い読みとA先生が仰言●おっしゃ●っておられるのはこのことです。意識下通信制御です。百億年の因縁なんぞ信じないぞ、数百万の祖霊、そんなものはミイラに食わせてやるなどと仰言●おっしゃ●ってはいけません。

そうすれば、玉田先生の学生のなかから、医者や医学者ではなく、医家が必ず生まれることをかたく信じてください。そして、もちろん学生に好かれるように行動するのではなく、いつも御自分からすすんで学生のひとりひとりが好きになるようにつとめてください。〝良い頭の〟学生は医学生の責任だとはいえません。親はもちろん、あらゆるものがよってたかって腕によりかけ作りあげた〝高級〟人形であっても愛着をもってやれば、ある日ぱっちり眼を開き、心臓が鼓動をはじめ、体のすみずみにしだいにぬくもりがひろがっていくことが必ずあることを忘れないでください。

それと医学部の学生は最優秀と考えられていますが実際は外国語も自然科学も数学もなにもかもまったくだめだということを信じてください。子どもだから仕方のないことですが、世評がいかに無責任ででたらめなものであるかを、玉田先生も四月になればいやというほど思いしらされるはずです。たとえば、英語は百分講義で英文科三ページがやっとのところを、医学部は十ページをかるがるとこなすのですが、その医学部のひとりひとりをじっくり観察すると、こいつほんまに入試をくぐってきたんかいなと思う奴ばかりです。それでもうんざりして見捨てたりせず、この愚劣なガキどものひとりひとりからけっして眼をはなすことなく、しっかりと 見守ってやっていただきたい。なにしろ、まだ人類とはならぬこどもなのですから。」◆

当時の私の関心事だったアフリカ系アメリカとアフリカの問題は、今の中学校や高校では意図的に避けられる傾向にあって学生には馴染●なじ●みの薄い分野ですが、今まで培●つちか●われた価値観や歴史観を問うにはうってつけの題材でした。日本に一番関わりのある米国をアフリカ系アメリカ史の側から眺めれば、今日の米国の繁栄が奴隷貿易や奴隷制の上に築かれたことも容易に判りますし、全てが過去から繋●つな●がっている現在の問題であることにも気づきます。アフリカ史をひも解けば、英国人歴史家バズゥル・デヴィッドスンの「人種差別は比較的近代の病です」という名言にも合点●がてん●がいきますし、英語が一番侵略的だった英国人の言葉で、白人優位・黒人蔑視の思想が都合よく捏造●ねつぞう●されて来た構図も一目瞭然●いちもくりょうぜん●です。

元来、自由な空間で培う素養は大切なものです。その素養が価値観や歴史観の基盤になって人の生き方を決めるわけですから、入学するために知識を詰め込んできた人たちに、今までの歴史観や考え方そのものを揺さぶるような話をして、「さすがは大学だ」と思ってもらえるような授業がしたいと考えたわけです。

しかし、現実はそう思い通りにはいきません。学生の反応は思い描いていたものとは少し違っていました。授業では資料のプリントも作って配り、録画したテレビの映像や映画なども編集して使い、出来る限り英語を使うなど、様々な工夫をして来ましたが、それでも、何割かの学生の関心を惹●ひ●けませんでした。「どうしてアフリカなのか?」「折角医学部に来たのに、いまいちモーチベーションが上がらないんですよね。」「同じ分野で出会っていればよかったですね、玉さん、がんばって下さい。」その辺りが正直な感想のようでした。

しかし、よく考えてみれば無理のない話ではあるのです。小さな頃から家でも学校でも頭がいいと持ち上げられ、「頭の良い両親の指導のもとに」「良いくらし」を身近な目標にして、「水平方向に己れの行く末を見つめ、かっちりと計画」を立てて医学部に入学して来ています。アフリカに関しても、大半の学生が「アフリカの人たちは貧しくてかわいそう、ODAなどで日本が支援をして助けてあげなければ……」と考えているところに、「奴隷貿易で富を蓄積して産業革命を起こし生産手段を変えた西洋社会は作りすぎた製品を売り捌●さば●く市場の争奪戦を繰り広げて世界大戦を二度もやり、戦後は開発や援助の名目で第三世界に資本を投資して利子を取る戦略に変えた、つまり現在の繁栄もそういった第三世界の犠牲の上に築かれており、日本も加害者側にいるわけだから、それを承知でそんな社会で自分がどう生きればよいのか、自分自身について、自分の将来について考えて欲しい。」と講義形式で突然一方的に熱く語られても、あまりにも自分の現実とかけ離れていて「内容的に関心が持てない。」、「自分とは関係のない世界」、と思えてしまいます。医者になって患者の生き死にに直接かかわるようになれば少しは話も違って来ますが、特に低学年の頃にそういった事柄を自分自身の問題として考えるのは、実際にはむずかしいようです。

そこで、出来るだけ学生自身が自分の問題として考えられるようにと、関心の持てそうな医学的な話題とアフリカやアフリカ系アメリカの問題を結びつけて授業を展開できないかと考えました。その一つがエイズです。

二〇〇三年に旧宮崎大学と統合してからは、全学部生対象の教養科目と、教育文化学部日本語支援教育専修の大学院生対象の選択科目も担当していますが、教養科目名の一つを本の表題にして、南アフリカの歴史を軸に日頃考えていることを本にしたのが『アフリカ文化論〔1〕南アフリカの歴史と哀しき人間の性●さが●』です。

今回は新聞記事を軸に、最初のエイズ患者が出た八十年代初めから現在までのエイズ事情とHIV感染のメカニズムについて、英語や教養の授業をしながら考えたことも織り交ぜながら『アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●(上)』としてまとめました。

次回の『アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●(下)』では、ケニアの小説『最後の疫病』と『ナイス・ピープル』を軸に、新植民地支配という社会の大きな枠組みとその中で展開されるエイズ治療薬をめぐる論争や、ケープタウンを拠点にエイズ治療に活躍するアーネスト・ダルコー医師などについて詳しく書こうと思います。

取り上げる内容は、平成十五年~十八年に「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」の題で文部科学省から交付された科学研究費補助金(註1)を使用して行なった研究の内容とも重なります。(註2)

一章では、すでに書いたようにこの掌編が生まれた経緯を、二章では九十五年のジンバブエの首都ハラレについての新聞記事について、三章では九十二年に家族で滞在したハラレでの出来事について、四章ではエイズ発見の歴史について、五章ではHIV感染とエイズ治療薬について、六章では、エイズ会議とアフリカの現状について、七章ではまとめとして、哀しき人間の性●さが●について書きました。

最後に、註を載せています。

第5章の「HIV感染」と「エイズ治療薬」の部分は、同僚の林哲也教授(感染症学講座微生物分野・フロンティア科学実験総合センター)に校閲をお願いしました。厚くお礼申し上げます。

■第7章 哀しき人間の性●さが●■

そのジンバブエは、今大変な事態に陥っています。経済は破綻●はたん●し、多くの国民が生き延びるために国を逃れています。二〇〇七年十月の朝日新聞の特集「国を壊す ジンバブエの場合① 独立27年 逃げる民」からもその凄●すさ●まじさが伝わってきます。

◆「『アフリカの希望の星』と呼ばれた国があった。80年に白人支配から独立を果たした南部のジンバブエ。農産物は需要を満たし、輸出で外貨収入の3分の1を稼ぎ出した。識字率は90%を超え、労働力の質は高く、鉄道の独自運行も可能だった。それが今―。農業はやせ細り、飢えが広がる。インフレ率が7千%を超えた。苦しさに耐えかね、国民の4分の1が近隣国に脱出している。」(註17)◆

「インフレ率が7千%」と言われても、実感はわきません。十年前にザイール(現在のコンゴ民主共和国)でエボラ出血熱が発生して話題になった時、「五桁のインフレ率」というのを初めて新聞記事で読みました。DIGITという英語が数字の桁●けた●を意味するとはすぐには思いつかなくて、活字の間違いだろうと思いました。しかし、翌年に大統領モブツが追いやられて、ローラン・カビラが国を掌握●しょうあく●して、内実が明らかになるに連れて、その数字の意味合いが徐々に判明してきました。五桁は一万以上の数字ですから、このジンバブエの記事よりも経済破綻●はたん●の状態が進んでいたということでしょうか。

その時の経済破綻の状況や政治的混乱が、今のジンバブエに酷似しています。十年前のザイールの記事を引用してみましょう。

◆「『ザイール、エボラウィルスで再び世界の脚光を浴びる』

ザイールでエボラウィルスが発生して、一九六三年(原文のまま)のベルギーからの独立以来、数々の危機に揺れ動いて来たアフリカ中部にある四〇〇〇万人の広大な国に再び注目が集まりました。

治療薬もワクチンも知られていないウィルスは、少なくとも六十四人の死者を出しました。

批評家によれば、多くのザイール人が過去三十年間無投票で当選し、不正に貯めこんだ個人の資産が数十億ドルにのぼるといわれるモブツ・セセ・セコ大統領の政府に公然と腹を立てています。

反対派の批評家やフリーのジャーナリストは、流行病が頻繁●ひんぱん●に起こるのも、取り扱う資源が不足するのも、既知のあらゆる戦略的に重要な鉱物資源に恵まれている国の富の管理ミスと賄賂●わいろ●のせいだと指摘しています。

『環境の管理不備に繋●つな●がる、公共資源の管理ミスが日和見●ひよりみ●的な要因を作り出して、流行病を発生させたり、広げたりしている。』と反対派の新聞ル・パルメールの社説は嘆いています。

『医療関係施設は悲惨な状況です。私たちは長い間、大災害が起きてもおかしくない方向に向かって進んできました。』とザイールの野党指導者エティニュエ・ツィセケディのスポークスマン、ランバエルト・メンデ氏は言いました。

賄賂●わいろ●はザイールの社会と政府に深く染み込んでおり、五百万人が住む首都をエボラウィルスから守るために発令された隔離手段でさえも賄賂がきく有様です、とキンシャサ市職員が言います。

公務員は何ヶ月分もの給料を払ってもらえず、賄賂は生活の一手段となってしまっています。

ウィルスはザイールの老朽化した医療機関に広がっており、医療機関はたいていの国よりも激しくザイールを襲っているエイズ禍●か●の対応に追われています。

ザイールの政治の問題は早くに始まりました。鉱物の豊かな現シャバ州であるカタンガ州はベルギーから独立した十一日後に、不幸な結果に終わった分離工作が謀●はか●られました。その分離工作は血まみれの闘争の三年後に排除されました。

サハラ以南のアフリカで二番目に大きい国ザイールには豊かな農場があり、旧コンゴ川のザイールの川から水の恵みを得ています。

その国は世界でも有数の銅の埋蔵量を誇っていますが、経済のエンジンである国営巨大鉱山会社ゲカマインは、事実上操業を停止しています。

一九九四年には、銅の製造量は最盛期の五十万トンから五万トン以下にまで落ち込みました。コバルトの製造量も同じようにひどく落ちみました。

政府はゲカマイングループの中の三つの中心会社を解散させ、硬貨の七十パーセント以上を製造する国営会社の先行きについては言及していません。

世界銀行も国際通貨基金も旧宗主国ベルギーが仲立ちをする債権者たちも、ザイールをずっと以前に見放しています。

インフレ率が五桁●けた●近くなりつつあるインフレで、政府は定期的に価値のない紙幣を山のように印刷するようになっています……」(註18)◆

エイズ患者にとっては病気だけでも大変なのに、壊滅状態の医療施設に経済破綻●はたん●の追い打ちです。

「国を壊す ジンバブエの場合① 独立27年 逃げる民」では、生き延びるために国を逃れるジンバブエの人たちの様子が次のように書かれています。

◆「ブライドはジンバブエ南部の都市ブラワヨの出身だ。98年に軍を除隊したが職がなく、農産物の行商で暮らした。

バスで農村に行き、穀物や卵、野菜を仕入れ、それを町で売り歩く。足を棒にしても、月の収入は80万ジンバブエドル(Zドル)前後だった。

『今年4月には卵1個が5万Zドルだった。1カ月必死に働いても卵2ダース分の収入にしかならない。14歳を頭に3人の子どもがいる。食事は1日に1回、夕方だけだ。最低の生活だった。』

それでもまだ生きていくことはできた。絶望的な事態になったのは6月26日以降だ。ムガベ大統領が突然、『あらゆる商品の価格を半額にする。』と声明した。インフレ対策であり、暴利をむさぼる悪徳商人は許さない、と大統領はいった。

すべてがヤミ市場に回り、物価は暴騰●ぼうとう●した。卵は店先から消え、闇市場で1個が5万Zドルもするようになった。月の稼ぎが卵1ダース分になってしまった。

4月までパン1斤は2万Zドルだった。価格半額令以後、行列でしか買えなくなった。7月は5万、8月には6万6千Zドルになった。2カ月で3倍以上だ。

『このままでは家族を死なせてしまう。南アに行く決心をした。』……

南ア外務省のパハド副大臣は『ジンバブエ人の不法入国は三百万人にのぼると見られる。』と明らかにした。ジンバブエ総人口の4分の1である。北隣のザンビアにも1日数百人の脱出者が出ているという。

そのほとんどが40歳以下の男性だ。働き盛りの大量脱出。国は壊れつつある……」◆

二〇〇八年になって状況は更に悪化し、インフレ率も2万6000%になったと報じられました。ザイールの場合と同じ五桁です。記事は「最も貧しい億万長者」の模様を次のように伝えています。

◆「ジンバブエ インフレ2万6000% 『最も貧しい億万長者』

南部アフリカ・ジンバブエの中央銀行はこのほど、07年11月のインフレ率が年率2万470・8%と、過去最高を記録したと発表した……

中央銀行の今年4日の発表によると、07年9月の時点で年率約8千%だったインフレ率が、2カ月間で3倍以上に跳ね上がった。もはや中央銀行がとれる対策は超高額紙幣の乱発しかない状況だ。07年8月に最高額紙幣を20万ジンバブエ(Z)ドルに上げたのもつかの間、12月には75万Zドルに、今年1月には1千万Zドル紙幣を発行した。

超インフレが加速したきっかけは07年6月、インフレを抑え込もうとムガベ政権が出した価格半減令。元値を割ることを恐れた商店側が物資を闇市場に横流ししたため店から商品が消えたかわり、あらゆる物資が闇市場で高値で取引されるようになった。ジュース1個に100万Zドルの値段が付き、市民は「これでは世界で最も貧しい億万長者だ」などと不満を募らせている……」(註20)◆

九十二年にハラレに行った時は、最低賃金が百三十ドルになったとか、ゲーリーの月給が百七十ドルだとか言っていたのに。高額の紙幣を刷ると、銀行員が不正を働くので最高二十Zドル紙幣が一番大きなお札なんですよ、と言われたりもした。僅●わず●か十数年で何という変わりようでしょうか。持ち帰って家にある十Zドル紙幣や二十Zドル紙幣も、帰国後もお金代わりに手紙に忍ばせようと思って大量に買いこんだ二Zドルの切手も、今ではほとんど価値のない紙切れに過ぎないということです。

アレックスの「この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。」という見方は残念ながら正しく、「僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。」という予想も、違う方向で当たってしまいました。

アレックスは、ジンバブエ大学のツォゾォさんを訪ねた最初の日に部屋で授業を受けていた五人の学生のうちの一人です。ムチャデイ・ニョタがショナの名前で、ミドルネイムのアレックスが英語の名前です。アレックスが受けていた授業は、映画・映像に関する特殊講義で、その日は説明を受けたあと学生がキャンパスをビデオカメラで撮影するというのが内容でした。後日の撮影会に誘われて出かけて行ったものの参加者はアレックスも含めて二人でした。気の毒に思ったのか、アレックスはキャンパスを案内してくれたあと、自分が住んでいる寮に案内してくれました。キャンパスで私がアイスキャンディーをおごったお礼にアレックスがコーラをごちそうしてくれたのですが、中身の値段は一本が七十五セント、二十円足らずで、結果的には、予想もしていなかった七十五セントの出会いとなりました。

ゲーリーとは子どもや天気のこと以外はなかなか共通の話題が見つかりませんでしたが、アレックスとは色々な話をしました。南アフリカのラ・グーマやケニアのグギさんなどの作家についてだけでなく、リチャード・ライトやスタインベックなどの米国の作家についても、似通った受けとめ方をしていました。「『怒りの葡萄●ぶどう●』に出てくる牧師が僕は好きでねえ。」と私が言うと、アレックスから「ジム・ケイシィは私も好きですよ。」という返事が返ってきました。ラ・グーマもグギさんもライトも亡命作家ですが「亡命後に書いたものはやはり勢いがないですよ、だから例えばラ・グーマなら、南アフリカにいる間に書いた処女作『夜の彷徨』が、やっぱり一番いいですね、また、グギさんが最近出した『マティガリ』も、長い間ケニアを離れているせいか、少し観念的で勢いがないように私には思えます。人物描写にも信憑●ぴょう●性がないですよ。」とアレックスは言っていました。三人とも私の好きな作家ですが、これだけ違った環境に育った二人がこんなにも似通った感覚を持ち得るものなのかと、驚いてしまったほどです。社会主義を掲げている南部アフリカの国で、こういった話が出来るとは夢にも思っていませんでした。

ある日、アレックスは寮で友人のジョージやイグネイシャスやメモリーを紹介してくれました。それぞれ国中から集まってきた精鋭ですが、日本の街にはいまだに忍者が走っていると本気で信じ込んでいました。ハラレの街には日本のメイカーの自動車が溢れていましたし、ハイテクニッポンの名前が知れ渡っているのにです。原因は当時流行っていた米国のニンジャ映画の影響のようでした。「アフリカ人がいまだに裸で走り回っていると思い込んでいる日本人もいるし、今回私がジンバブエに行くと言ったら、野性動物と一緒に暮らせていいですねとか、ライオンには気をつけて下さいとか言う人もいたから、まあ、おあいこやね。」と説明しましたら、なるほど、それじゃ日本について教えて下さいと誰もが口を揃えました。さすがに精鋭の集団で、指摘されて即座に、ハイテクの国に忍者がいるのはやはりおかしいと悟ったのでしょう。しかし、精鋭の集団ですらこうなのですから、西洋の侵略を正当化しようとする力や、自分達の利益を優先するためにメディアを巧妙に操作する自称先進国の欲が抑えられない限り、お互いの国の実像が正確に伝わるのは難しいと思わずにはいられませんでした。

アレックスの夢は新車(ブランドニューカー)を買ってぶっ飛ばすこと、のようでした。私が車に乗らないと言ったら、アレックスが急に怒り出しました。日本なら簡単に車が買えるはずなのに、どうして車に乗らないのか、車に乗らないなんてどうしても理解できないと言い張るのです。車中心のこの社会では、車は必需品には違いありませんが、アフリカ人にとっては車を持つこと自体が、同時に一つの成功の証なのかも知れないと思いました。

アレックスにはロケイションと呼ばれるアフリカ人居住地区に連れて行ってもらいました。イマージェンシィ・タクシー(E・T)と呼ばれる乗り合いのタクシーを乗り継いで行きました。辺りにいるのは、アフリカ人だけでした。街の中心部から南西の方角に十キロほど離れたグレン・ノラ地区に住む従妹の家に行くまでに、二度ETを乗り換えました。最初に乗り換えたのは一番の密集地帯ムバレで、ゲイリーがお父さんと住んでいた地区です。近くの市営住宅の中を歩きましたが、排水事情も悪く、全体にうらびれた感じがしました。それから、アレックスが寮を出てから下宿をさせてもらっている従妹の家に行きました。

アレックスには子どもたち二人の英語の、私のショナ語の家庭教師を頼みましたので、いっしょに過ごす時間も多かったのですが、ある時インタビューに応じてくれました。先に紹介した帰国してから半年後に絞り出した本の中の一節です。

◆「アレックスの生い立ち

アレックスは、一九六五年に国の中央部よりやや南寄りのシィヤホクウェという田舎で生まれた。シィヤホクウェはグレート・ジンバブエ遺跡が近いマシィンゴと、中央部の都市グウェルの間にあるタウンシップである。タウンシップは南アフリカと同じように都市部のアフリカ人居住地区を指す時期もあったようだが、今は田舎地方の商店などが集まった地区のことである。規模の大小はあっても、ルカリロ小学校に着く前にミニバスで立ち寄ったムレワのタウンシップと雰囲気は似通った場所だろう。

六十五年は、イアン・スミス首相を担ぐローデシア戦線党政権が、土地を持った白人の大農家や賃金労働者と南アフリカの白人政府を味方に、英国政府や国内の白人産業資本家の意向を無視して、一方的独立宣言(UDI)を言い渡した年で、社会情勢はますます怪しくなっていた。

ゲイリーの場合もそうだったが、田舎では小学校にも通えないアフリカ人が多かったようである。学年が進むにつれて、学校に通う生徒の数はますます減って行く。アレックスの場合も、入学した時は四十人いたクラスメイトが七年生になると二十五人になっていたそうだ。特に女の子の数は少なかったらしい。一般的に、親の方も女性はすぐに結婚するから学校は出なくてもいいと考えていたようで、男の子を優先して学校にやったという。中学校に行ける人の数は更に少なく、アレックスの学校から進学したのは僅●わず●かに二人だけだった。近くには、有料で全寮制のミッション系の中学校しかなく、日用品や病院代の他に、子供の教育費まで捻出●ねんしゅつ●して子供を中学校に送れるアフリカ人はほとんどいなかったからである。

普段の生活はゲイリーの場合とよく似ている。小さい時から、一日中家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから再び日没まで、家畜の世話である。

『学校まで五キロから十キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした。それに食事は朝七時と晩の二回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ。』とアレックスは述懐する。

小学校では教師が生徒をよく殴ったらしい。遅れてきたりした場合もそうだが、算数の時間などは特にひどかったようだ。『五十問の問題なら、出来る子は一、二発で済みましたからまだましでしたが、出来ない子なんかは悲惨ですよ、四十八発も九発も殴られて、頭がぼこぼこでした。』と顔をしかめる。

『植民地時代の西洋人の考え方の影響ですよ。西洋人は、アフリカ人は知能程度が低くて怠け者だから、体罰を加えて教え込まなければと本気で信じ込んでいましたからね。今度ゲイリーの村に行けば分かるでしょうが、田舎では白人は居ても宣教師くらいでしたから、教師はみんなアフリカ人なんです。それでも殴りましたよ。あの人たちは、西洋人にやられた仕返しを同じアフリカ人の子供相手にやっていたんですね。独立後は、校長だけにしか殴る行為は認められていませんが……。全寮制の中学校は、その点、まだましでした。』と続けた。 七年間の小学校のあとは、四年間の中学校(FORM1→FORM4)、二年間の高校、三年間の大学と続く。中学校には普通コース(F1)と職業コース(F2)とがあり、F2は軽んじられる傾向にあったそうだ。今もその傾向があるらしい。中学校も人種別に、白人とカラード用のコース(GRADE1)とアフリカ人用のコース(GRADE2)に厳しく分けられていた。『アレクサンドラ・パーク・スクールもGRADE1ですから、今でも白人とカラードが多いでしょう。』と言われてみれば、なるほど思い当る。

高校に進学する人は、中学校よりも更に少なく、アレックスの中学校からは二人だけであったらしい。アレックス自身も、中学校卒業後、すぐには高校に行っていない。最終学年の八十一年に、お父さんが死んだためである。

田舎の学校では、卒業後めぼしい就職先は探しようもなかったので、誰もが教員になりたがったと言う。アレックスも中学校の教師になった。それも中学校を卒業して、すぐに中学校の教師になったのだそうだ。独立によって、現実には様々な急激な社会体制の変化があった。小学校もたくさん作られ、誰もが五キロ以内の学校に無料で通えるようになった。中学校もたくさん作られた。当然、教員は不足し、経験のない俄●にわか●仕立ての教師が生まれた。アレックスもその一人である。

アレックスの中学校も、闘争の激しかった七十九年から独立時までは閉鎖されていたらしい。生徒も男子は、敵の数や味方の銃の数を勘定したり、女子は兵士の食事を作ったりなどして、解放軍の支援をしたという。勉強どころではなかったのである。そのあとの激変である。混乱の起きないはずはない。

『もう無茶苦茶でしたよ。教科書も何もないし……。だいいち、FORM4を終えたばかりの人間がいきなりFORM4を教えるんですからね。それに、解放軍に加わって戦った年を食った生徒も混じっていましたから、生徒が教師よりも年上なんて、ざらでしたよ。おかしな状況でした。もちろん、いい結果などは望むべくもありません。その後、事態も徐々には改善されて行きましたが……。』

アレックスは高校には行けなかったが、政府の急造した中学校の一つで教師をしている間に、通信教育で高校の課程を終えたそうである。同じ中学校に大学出の新任教師が赴任してきて、どうして通信教育を受けて大学に行かないのかと促されて、大学に行こうと決心したという。その同僚の存在が大いに刺激になったらしい。無事に通信課程を終えて、九十年から大学に通うようになった。

アレックスにとって大学は楽園(パラダイス)だそうだ。毎日が大変な田舎の暮らしに比べると、という意味合いもあるが、知識を得られる場が確保されている上に、政府を批判する権利が学生だけに認められているからだという。独立前は、もちろん批判さえも無理でしたからと付け加えた。

自動車業者との癒着●ゆちゃく●が発覚して、閣僚の一人が辞任した八十九年の十月に、大学から街なかまで初めてデモ行進が行なわれたそうである。街なかでは、失業者などが加わって大変な騒ぎになったので、それ以降は警備も厳しくなったようだ。ストの当日は、今借りて住んでいる家も含めて大学近辺の地域はデモに参加する人たちの暴徒化を恐れて、警察による警戒も厳重になるという。

その年の四月に行なわれた学生のデモで何人かが逮捕され、現在も拘禁中であるという報道が日本でもなされていた。ツォゾォさんにその報道についての真偽を確かめると、逮捕されたのは学生自治会の委員たちで、今は釈放されて、停学中の身だということだった。

『ゲイリーに聞くと給料も安く、独立によって何も変わらなかったように思えるんだけれど……。』と私が話し始めると『それは実際には少し違います。』と遮●さえぎ●って、独立後の状況と将来の見通しについて次のように話してくれた。

『独立前は、ゲイリーのように白人の家で働くアフリカ人の給料はもっと安かったです。政府が最低賃金を決めて、これでもまだましになりました。独立した当初、政府は社会主義を前面に掲げましたが、白人はしぶとく健在で、経済は欧米諸国(ファースト・ワールド・カントリィズ)に牛耳られたままです。経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……。

独立するのにあれだけ田舎の力を借りたのに、自分たちが政権に就いたとたんに、自分たちの個人的な野望を達成することに頭が一杯で、田舎のことなど念頭にはありません。田舎の人は街に働きに出てきますが、現実には「庭師」や警備員などの給料の安い仕事しかありません。この国のアフリカ人エリートが白人の真似をして『白人』以上の白人になるのは本当に早かったですよ。

この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。政府に対抗する反対勢力はないも同然です。国民は四十パーセントの税金を取られています。党は金を貯めこんでいるのに、行政は充分には機能していません。これでは、いくら何でも不公平ですよ。』

最後の辺りのアレックスの語気は強かった。どうしようもない怒りを必死に堪●こら●えているようだった。そして『教育を受けた人は、海外に流れています。ボツワナやザンビアや最近独立したナミビアは人不足なので外国人を優遇していますから、お金につられて出ていくのです。』と付け加えた。

近隣諸国に流れる若者の問題は、大きな社会問題にもなっているらしく、八月十七日の「ヘラルド」紙に『多数の教員がよりよい条件を求めて国を離れている』という見出しの次のような書き出しの記事が掲載されていた。

◆「地方で養成された教員が何百人と、近隣諸国で働くために国を離れており、それによって教育の危機的な状況は更に悪化している。

ジンバブエ全国学生協議会(ZUNASU)の第三回年次総会を公式に終えたあと、高等教育相スタン・ムデンゲ氏は『地方の教員養成大学で養成された五千五百人の教員のうち、五千人は産業関係の仕事に就くか、残りは近隣国の新天地を求めてジンバブエを離れているかの状況です。』と語った。

新天地を求めて国を離れているそういった教員の穴を埋めるには、丸六年の期間が必要であり、学校では深刻な危機に直面しています。」◆

記事は、アレックスの指摘した税金の重さについては触れていないが、教員に限らず最大の問題は、経済的な意味合いも含めて、仕事に就いてよかったと思えるかどうかだろう。「いくら何でも不公平ですよ。」と当事者が思う状況である限り、若者の外国流失の勢いは止められないだろう。

南アフリカが経済的に豊かである以上、民主化されればその流れに一層の拍車がかかるだろう。現に、ネルソン・マンデラが釈放されて以来、隣国から多くの人が経済的な豊かさを求めて南アフリカに流れ込んでいるようだ。バングラデシュから日本に来ている留学生から、ジンバブエに行くなら、ハラレで医者をしている従兄を紹介しますよと以前から言われていたので、日本を離れる直前に電話で問い合わせてもらったが、その人はすでに南アフリカに移り住んでいるとのことだった。

「大学の友だちにも、卒業したらナミビアかボツワナに行こうと考えている人がたくさんいます。僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。すでに南アフリカの田舎で医者をしている友だちもいるくらいですから……。

卒業しても、みんな面倒をみなければいけない親類や兄弟をたくさん抱えていますから、何と言ってもやはりお金は魅力ですよ。そのうち結婚すれば、自分たちの住む家も必要です。新車も早く買いたいですからね。そう考えるのは間違っていますか?」

私にはその問いかけに答える術もなかったが、もちろん、アレックスの表情が明るいはずはなかった。」◆

アレックスは今どうしているのか。ツォゾォさんは、そしてゲイリーは、そんな思いがめぐります。

僅●わず●か百年余り前に侵入して来た西洋の入植者に土地や財産を奪われ、安価な労働者として働かされるようになったゲーリーのおじいさんやお父さん、独立の戦いで大変な思いをしたゲイリーやツォゾォさん。歴史や時代を通しての巨大な機構の中で翻弄●ほんろう●されるジンバブエの人たち。そんな人たちとほんのひとときをいっしょに過ごしましたが、ハラレにいる時も、帰国してからも、加害者側にいる自己の存在を思うと、息詰まる思いが先にたちました。今もその思いは、かわりません。

HIVはコンゴで感染したハイチの難民がモブツの圧制を逃れて国に帰り、そこからフロリダに渡って感染を広げたようです。そのハイチ人の祖先は奴隷貿易でアフリカの西部から連れて来られた人たちで、巡り巡って地域を越えた大きな世界で、ウィルスというミクロの世界でも、歴史や大陸というマクロの世界でも、人々が苦しめられ続けているわけです。

ウィルスの仕組みが解明されて、感染の仕組みも明らかになったのですから、少なくとも予防策を抗じれば感染の拡大を防げるはずです。しかし、性感染症の厳しさや抗HIV製剤でさえ暴利の対象にしてしまう欧米の製薬会社の実態などを見せつけられると、人間の愚かしさを思わずにはいられません。

アフリカの問題を考えても、エイズの問題を考えても、出口は見い出せません。見えるのは人間の哀しき性●さが●だけです。どうも、妙な空間に迷い込んでしまったものです。

授業を担当している大学生の大半は、日本が開発や援助の名目でかわいそうなアフリカ人を助けていると考えています。その意識と厳しい現実との差は余りにも大きくて、呆●ぼう●然とします。

しかし、絶望的なボツワナや南アフリカでエイズと闘っているダルコー医師のような人もいます。見知らぬ大学生のために長い手紙を認●したため●めて、エールを送って下さる人もいます。

まだまだ捨てたものではないと諦めずに、「水平方向に己れの行く末を見つめ」、「良いくらしだけを目標に青春をおく」る人たちの「眠っている意識以前に無言で語りかけ」続けたいと思います。いつかは「医者や医学者ではなく、医家が必ず生まれる」のですから。

玉田吉行 たまだよしゆき 1949年、兵庫県生まれ。

宮崎大学医学部医学科教員。英語、アフリカ文化論、基盤的研究方法特論(博士課程)、EMP (English for Medical Purposes)、アフリカ論特論(教育文化学部日本語支援教育専修)などの授業を担当。

著書にAfrica and its Descendants 2 (1998) 、 『アフリカ文化論[1]』(2007年)など、訳書にラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』(1992年)、注釈書にLa Guma, And a Threefold Cord (1991年)などがある (いずれも門土社)。

「アフリカとエイズ」(2000年)、「医学生とエイズ―ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(2004年)、「医学生とエイズ―南アフリカとエイズ治療薬」(2005年)、「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって」(2006年)など、アフリカと感染症に関するエッセイもある。

アフリカ文化論[2]

著者●玉田吉行

編集●田邉道子

発行所●株式会社 門土社

〒232-0016 横浜市南区宮元町3-44

電話045-714-1471番 画電045-714-1472番

http://www.mondo-books.jp

発行者●關  功

発行日●平成20年10月1日

初版第1刷発行

copyright●Tamada Yoshiyuki 2007

ISBN 978-4-89561-263-0 C1322

印刷・製本●モリモト印刷株式会社

執筆年

2008年

収録・公開

出版予定で門土社 送った原稿です。64ページ。

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アフリカ文化 [Ⅱ]ーアフリカとエイズと哀しき人間の性(さが)(上)