2000~09年の執筆物

概要

『アフリカ文化論(一)ー南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社)の続編で、出版予定で送った原稿です。校正も終わっていました。印刷前の最終稿を載せています。

本文(写真作業中)

目次第1章(はじめに)第7章(哀しき人間の性)奥付けを載せています。↓

目次

第1章 はじめに
第2章 1995年ハラレ報告
第3章 1992年ハラレ滞在
第4章 エイズ発見の歴史
第5章 HIV感染とエイズ治療薬
第6章 アフリカの現状
第7章 哀しき人間の性●さが●

■第1章 はじめに■

この掌編は、『アフリカ文化論〔1〕南アフリカの歴史と哀しき人間の性●さが●』(門土社、二〇〇七年)の続編です。今回は、アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●について書こうと思います。

医学の基礎を学んだことのない私がエイズについて考えるようになったきっかけは、医学部での英語の授業です。

書くための時間を確保したいと考えて高校の教員を辞め、三十の歳から大学を探し始めて何とか見つかったのが宮崎医科大学(現宮崎大学医学部)でした。以来、宮崎に移り住んで二十年の歳月が過ぎました。大学には一般教養の教官として採用され、医学科一、二年生の英語を担当し、その中でエイズの問題を取り上げるようになりました。

当時は一年次から解剖学や組織学の基礎医学科目もありましたし、「上級生になれば嫌でも医学のことばかりするのだから、授業では、出来るだけ医学に関係がないものを取り上げよう。」と決めました。特に受験勉強では「理解をして覚える」という作業を強いられるようですから、自分のことを自分で考える機会を少しでも提供出来ればと考えたわけです。

宮崎に引っ越しして来たその日に、ある方から分厚い手紙が届きました。兵庫県を離れる前に、何とか大学に居場所を見つけましたとその方に報告に出かけました。「僕はもともと頭が悪く受験の準備も出来なかったものですから行く大学が見つからず、仕方なく家から通える夜間課程に通うことになったんですが、そんな僕が受験勉強をやってきた頭のいい医学部の学生に授業をするのも不思議な話ですね。」というようなことを言ったのだと思います。医学部出身のその方は、そんなことを言う私に餞●はなむけ●として送って下さったのでしょう。医学部の学生に授業をする際の心構えとして今も大きな指針となっています。その手紙の一部です。

◆「……生物の成長というのは細胞が個数を増す細胞分裂と分裂によって小型化した細胞がそれぞれ固有の大きさをとりもどす細胞成長とによって達成されます。生物は本質的に成長するものなのですから、各細胞は成長の第一条件たる細胞分裂の傾向がきわめて強いのです。しかし、無制限に細胞の個数が増加して、その結果、過成長すると、こんどは個体の生命が維持できなくなります。そこで、遺伝子の〝細胞分裂欲求〟は不必要なときには抑制されています。この抑制因子をモノーという人はオペロンと名づけました。モノーのオペロン説です。フランスというところは困ったもので、いまだにデカルトの曽孫●そそん●のような顔をした人たちしかいません。このモノーもデカルトの曽孫にちがいありません。しかし、話を簡略にするためには、このオペロン説は便利です。化学変化を説明するのに結合手なる手を原子または原子団がもつものとするのに似て、こっけいですが御許しいただきたい。

さて、このオペロンがはずれてしまうというか 抑制因子がはたらかなくなったとき、細胞は遺伝子本来の〝分裂欲求〟に忠実に従って際限なく分裂を繰りかえします。ガンです。そして、ガンになりやすい体質は遺伝します。これはオペロンがはずれやすい傾向が子や孫に伝わるためです。たしか、一九二◯年代に有閑階級という新語をつくり流行させたアメリカの社会学者の言説をまつまでもなく、ヒトは〝侵略遺伝子〟を持っています。ヒトがすべて侵略者とならないのはこの恐ろしい〝遺伝子〟にもオペロンのおおいがかけられていて、容易には 形質を発現することがないためです。

ツングースの〝侵略遺伝子〟のオペロンは、窮迫によってはずされてしまったのです。それもほんの七千年か八千年ほど前のことです。そして、このオペロンのはずれやすい傾向は連綿と受けつがれ、いまなお子や孫が風を切って日本じゅうをわがもの顔に歩きまわっています。天孫降臨族●てんそんこうりんぞく●の末裔●まつえい●たちです。手っとりばやくのしあがることだけをひたすら思いわずらい四六時中蛇(蛇くんに邪気などない)のごとき冷たき眼を油断なく四方八方にくばるこの侵略者たちは、もちろん、効率百パーセントの水平思考を好み、鉛直思考など思いもよらぬことなのです。玉田先生が鉛直下の原言語に乱されて思考が中断するなら、私のほうは鉛直上の原言語に吸いとられて思考が消失します。中断と消滅、軽重の違いはあっても、二人とも、やはり頭が悪いのは確かなようです。

その点最近の学生は、とくに、医学生は頭の良い子ばかりだそうです。なにしろなんかの方法で受験勉強をしなかった子はいないというのですから、〝学問〟に対するその真摯●しんし●な態度と勤勉に驚かずにはいられません。これは頭の良い両親の指導のもとに 水平方向に己れの行く末を見つめ、かっちりと計画がたてられる頭の良い子であることを意味しています。鉛直方向によそみをすることなど思いもよらぬ天才少年です。A先生がなにも書かず、深い読みに専念するよう注意してくださったそうですが、どこまで恐ろしい方なのか見当がつかぬほど驚いています。A先生は現在の医学や医療や医学部が∧行きつくところ∨まで行きついて、〝良い頭の〟学生たちが良いくらしだけを目標に青春をおくり、結局は良い人生が見つけられなくなっているのに心を痛めておられるのです。親しきといえどB先生に御遠慮されてこんな言葉になったのだと思われますが、よくみると、不幸がやくそくされている医学生たちが深い闇の奥に気づくように講義をしてやってほしいと読みとれます。A先生は子どもたちに無言で良い人生が〝教えられる〟教師の卵を無言で 教えておられる方に違いありません。

しかし、〝頭の良い〟学生たちと〝頭の悪い〟玉田先生、この両者に虹の橋はかけられないと絶望するのは早すぎます。学生たちの眠っている意識以前に無言で語りかけてください。深い読みとA先生が仰言●おっしゃ●っておられるのはこのことです。意識下通信制御です。百億年の因縁なんぞ信じないぞ、数百万の祖霊、そんなものはミイラに食わせてやるなどと仰言●おっしゃ●ってはいけません。

そうすれば、玉田先生の学生のなかから、医者や医学者ではなく、医家が必ず生まれることをかたく信じてください。そして、もちろん学生に好かれるように行動するのではなく、いつも御自分からすすんで学生のひとりひとりが好きになるようにつとめてください。〝良い頭の〟学生は医学生の責任だとはいえません。親はもちろん、あらゆるものがよってたかって腕によりかけ作りあげた〝高級〟人形であっても愛着をもってやれば、ある日ぱっちり眼を開き、心臓が鼓動をはじめ、体のすみずみにしだいにぬくもりがひろがっていくことが必ずあることを忘れないでください。

それと医学部の学生は最優秀と考えられていますが実際は外国語も自然科学も数学もなにもかもまったくだめだということを信じてください。子どもだから仕方のないことですが、世評がいかに無責任ででたらめなものであるかを、玉田先生も四月になればいやというほど思いしらされるはずです。たとえば、英語は百分講義で英文科三ページがやっとのところを、医学部は十ページをかるがるとこなすのですが、その医学部のひとりひとりをじっくり観察すると、こいつほんまに入試をくぐってきたんかいなと思う奴ばかりです。それでもうんざりして見捨てたりせず、この愚劣なガキどものひとりひとりからけっして眼をはなすことなく、しっかりと 見守ってやっていただきたい。なにしろ、まだ人類とはならぬこどもなのですから。」◆

当時の私の関心事だったアフリカ系アメリカとアフリカの問題は、今の中学校や高校では意図的に避けられる傾向にあって学生には馴染●なじ●みの薄い分野ですが、今まで培●つちか●われた価値観や歴史観を問うにはうってつけの題材でした。日本に一番関わりのある米国をアフリカ系アメリカ史の側から眺めれば、今日の米国の繁栄が奴隷貿易や奴隷制の上に築かれたことも容易に判りますし、全てが過去から繋●つな●がっている現在の問題であることにも気づきます。アフリカ史をひも解けば、英国人歴史家バズゥル・デヴィッドスンの「人種差別は比較的近代の病です」という名言にも合点●がてん●がいきますし、英語が一番侵略的だった英国人の言葉で、白人優位・黒人蔑視の思想が都合よく捏造●ねつぞう●されて来た構図も一目瞭然●いちもくりょうぜん●です。

元来、自由な空間で培う素養は大切なものです。その素養が価値観や歴史観の基盤になって人の生き方を決めるわけですから、入学するために知識を詰め込んできた人たちに、今までの歴史観や考え方そのものを揺さぶるような話をして、「さすがは大学だ」と思ってもらえるような授業がしたいと考えたわけです。

しかし、現実はそう思い通りにはいきません。学生の反応は思い描いていたものとは少し違っていました。授業では資料のプリントも作って配り、録画したテレビの映像や映画なども編集して使い、出来る限り英語を使うなど、様々な工夫をして来ましたが、それでも、何割かの学生の関心を惹●ひ●けませんでした。「どうしてアフリカなのか?」「折角医学部に来たのに、いまいちモーチベーションが上がらないんですよね。」「同じ分野で出会っていればよかったですね、玉さん、がんばって下さい。」その辺りが正直な感想のようでした。

しかし、よく考えてみれば無理のない話ではあるのです。小さな頃から家でも学校でも頭がいいと持ち上げられ、「頭の良い両親の指導のもとに」「良いくらし」を身近な目標にして、「水平方向に己れの行く末を見つめ、かっちりと計画」を立てて医学部に入学して来ています。アフリカに関しても、大半の学生が「アフリカの人たちは貧しくてかわいそう、ODAなどで日本が支援をして助けてあげなければ……」と考えているところに、「奴隷貿易で富を蓄積して産業革命を起こし生産手段を変えた西洋社会は作りすぎた製品を売り捌●さば●く市場の争奪戦を繰り広げて世界大戦を二度もやり、戦後は開発や援助の名目で第三世界に資本を投資して利子を取る戦略に変えた、つまり現在の繁栄もそういった第三世界の犠牲の上に築かれており、日本も加害者側にいるわけだから、それを承知でそんな社会で自分がどう生きればよいのか、自分自身について、自分の将来について考えて欲しい。」と講義形式で突然一方的に熱く語られても、あまりにも自分の現実とかけ離れていて「内容的に関心が持てない。」、「自分とは関係のない世界」、と思えてしまいます。医者になって患者の生き死にに直接かかわるようになれば少しは話も違って来ますが、特に低学年の頃にそういった事柄を自分自身の問題として考えるのは、実際にはむずかしいようです。

そこで、出来るだけ学生自身が自分の問題として考えられるようにと、関心の持てそうな医学的な話題とアフリカやアフリカ系アメリカの問題を結びつけて授業を展開できないかと考えました。その一つがエイズです。

二〇〇三年に旧宮崎大学と統合してからは、全学部生対象の教養科目と、教育文化学部日本語支援教育専修の大学院生対象の選択科目も担当していますが、教養科目名の一つを本の表題にして、南アフリカの歴史を軸に日頃考えていることを本にしたのが『アフリカ文化論〔1〕南アフリカの歴史と哀しき人間の性●さが●』です。

今回は新聞記事を軸に、最初のエイズ患者が出た八十年代初めから現在までのエイズ事情とHIV感染のメカニズムについて、英語や教養の授業をしながら考えたことも織り交ぜながら『アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●(上)』としてまとめました。

次回の『アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●(下)』では、ケニアの小説『最後の疫病』と『ナイス・ピープル』を軸に、新植民地支配という社会の大きな枠組みとその中で展開されるエイズ治療薬をめぐる論争や、ケープタウンを拠点にエイズ治療に活躍するアーネスト・ダルコー医師などについて詳しく書こうと思います。

取り上げる内容は、平成十五年~十八年に「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」の題で文部科学省から交付された科学研究費補助金(註1)を使用して行なった研究の内容とも重なります。(註2)

一章では、すでに書いたようにこの掌編が生まれた経緯を、二章では九十五年のジンバブエの首都ハラレについての新聞記事について、三章では九十二年に家族で滞在したハラレでの出来事について、四章ではエイズ発見の歴史について、五章ではHIV感染とエイズ治療薬について、六章では、エイズ会議とアフリカの現状について、七章ではまとめとして、哀しき人間の性●さが●について書きました。

最後に、註を載せています。

第5章の「HIV感染」と「エイズ治療薬」の部分は、同僚の林哲也教授(感染症学講座微生物分野・フロンティア科学実験総合センター)に校閲をお願いしました。厚くお礼申し上げます。

■第7章 哀しき人間の性●さが●■

そのジンバブエは、今大変な事態に陥っています。経済は破綻●はたん●し、多くの国民が生き延びるために国を逃れています。二〇〇七年十月の朝日新聞の特集「国を壊す ジンバブエの場合① 独立27年 逃げる民」からもその凄●すさ●まじさが伝わってきます。

◆「『アフリカの希望の星』と呼ばれた国があった。80年に白人支配から独立を果たした南部のジンバブエ。農産物は需要を満たし、輸出で外貨収入の3分の1を稼ぎ出した。識字率は90%を超え、労働力の質は高く、鉄道の独自運行も可能だった。それが今―。農業はやせ細り、飢えが広がる。インフレ率が7千%を超えた。苦しさに耐えかね、国民の4分の1が近隣国に脱出している。」(註17)◆

「インフレ率が7千%」と言われても、実感はわきません。十年前にザイール(現在のコンゴ民主共和国)でエボラ出血熱が発生して話題になった時、「五桁のインフレ率」というのを初めて新聞記事で読みました。DIGITという英語が数字の桁●けた●を意味するとはすぐには思いつかなくて、活字の間違いだろうと思いました。しかし、翌年に大統領モブツが追いやられて、ローラン・カビラが国を掌握●しょうあく●して、内実が明らかになるに連れて、その数字の意味合いが徐々に判明してきました。五桁は一万以上の数字ですから、このジンバブエの記事よりも経済破綻●はたん●の状態が進んでいたということでしょうか。

その時の経済破綻の状況や政治的混乱が、今のジンバブエに酷似しています。十年前のザイールの記事を引用してみましょう。

◆「『ザイール、エボラウィルスで再び世界の脚光を浴びる』

ザイールでエボラウィルスが発生して、一九六三年(原文のまま)のベルギーからの独立以来、数々の危機に揺れ動いて来たアフリカ中部にある四〇〇〇万人の広大な国に再び注目が集まりました。

治療薬もワクチンも知られていないウィルスは、少なくとも六十四人の死者を出しました。

批評家によれば、多くのザイール人が過去三十年間無投票で当選し、不正に貯めこんだ個人の資産が数十億ドルにのぼるといわれるモブツ・セセ・セコ大統領の政府に公然と腹を立てています。

反対派の批評家やフリーのジャーナリストは、流行病が頻繁●ひんぱん●に起こるのも、取り扱う資源が不足するのも、既知のあらゆる戦略的に重要な鉱物資源に恵まれている国の富の管理ミスと賄賂●わいろ●のせいだと指摘しています。

『環境の管理不備に繋●つな●がる、公共資源の管理ミスが日和見●ひよりみ●的な要因を作り出して、流行病を発生させたり、広げたりしている。』と反対派の新聞ル・パルメールの社説は嘆いています。

『医療関係施設は悲惨な状況です。私たちは長い間、大災害が起きてもおかしくない方向に向かって進んできました。』とザイールの野党指導者エティニュエ・ツィセケディのスポークスマン、ランバエルト・メンデ氏は言いました。

賄賂●わいろ●はザイールの社会と政府に深く染み込んでおり、五百万人が住む首都をエボラウィルスから守るために発令された隔離手段でさえも賄賂がきく有様です、とキンシャサ市職員が言います。

公務員は何ヶ月分もの給料を払ってもらえず、賄賂は生活の一手段となってしまっています。

ウィルスはザイールの老朽化した医療機関に広がっており、医療機関はたいていの国よりも激しくザイールを襲っているエイズ禍●か●の対応に追われています。

ザイールの政治の問題は早くに始まりました。鉱物の豊かな現シャバ州であるカタンガ州はベルギーから独立した十一日後に、不幸な結果に終わった分離工作が謀●はか●られました。その分離工作は血まみれの闘争の三年後に排除されました。

サハラ以南のアフリカで二番目に大きい国ザイールには豊かな農場があり、旧コンゴ川のザイールの川から水の恵みを得ています。

その国は世界でも有数の銅の埋蔵量を誇っていますが、経済のエンジンである国営巨大鉱山会社ゲカマインは、事実上操業を停止しています。

一九九四年には、銅の製造量は最盛期の五十万トンから五万トン以下にまで落ち込みました。コバルトの製造量も同じようにひどく落ちみました。

政府はゲカマイングループの中の三つの中心会社を解散させ、硬貨の七十パーセント以上を製造する国営会社の先行きについては言及していません。

世界銀行も国際通貨基金も旧宗主国ベルギーが仲立ちをする債権者たちも、ザイールをずっと以前に見放しています。

インフレ率が五桁●けた●近くなりつつあるインフレで、政府は定期的に価値のない紙幣を山のように印刷するようになっています……」(註18)◆

エイズ患者にとっては病気だけでも大変なのに、壊滅状態の医療施設に経済破綻●はたん●の追い打ちです。

「国を壊す ジンバブエの場合① 独立27年 逃げる民」では、生き延びるために国を逃れるジンバブエの人たちの様子が次のように書かれています。

◆「ブライドはジンバブエ南部の都市ブラワヨの出身だ。98年に軍を除隊したが職がなく、農産物の行商で暮らした。

バスで農村に行き、穀物や卵、野菜を仕入れ、それを町で売り歩く。足を棒にしても、月の収入は80万ジンバブエドル(Zドル)前後だった。

『今年4月には卵1個が5万Zドルだった。1カ月必死に働いても卵2ダース分の収入にしかならない。14歳を頭に3人の子どもがいる。食事は1日に1回、夕方だけだ。最低の生活だった。』

それでもまだ生きていくことはできた。絶望的な事態になったのは6月26日以降だ。ムガベ大統領が突然、『あらゆる商品の価格を半額にする。』と声明した。インフレ対策であり、暴利をむさぼる悪徳商人は許さない、と大統領はいった。

すべてがヤミ市場に回り、物価は暴騰●ぼうとう●した。卵は店先から消え、闇市場で1個が5万Zドルもするようになった。月の稼ぎが卵1ダース分になってしまった。

4月までパン1斤は2万Zドルだった。価格半額令以後、行列でしか買えなくなった。7月は5万、8月には6万6千Zドルになった。2カ月で3倍以上だ。

『このままでは家族を死なせてしまう。南アに行く決心をした。』……

南ア外務省のパハド副大臣は『ジンバブエ人の不法入国は三百万人にのぼると見られる。』と明らかにした。ジンバブエ総人口の4分の1である。北隣のザンビアにも1日数百人の脱出者が出ているという。

そのほとんどが40歳以下の男性だ。働き盛りの大量脱出。国は壊れつつある……」◆

二〇〇八年になって状況は更に悪化し、インフレ率も2万6000%になったと報じられました。ザイールの場合と同じ五桁です。記事は「最も貧しい億万長者」の模様を次のように伝えています。

◆「ジンバブエ インフレ2万6000% 『最も貧しい億万長者』

南部アフリカ・ジンバブエの中央銀行はこのほど、07年11月のインフレ率が年率2万470・8%と、過去最高を記録したと発表した……

中央銀行の今年4日の発表によると、07年9月の時点で年率約8千%だったインフレ率が、2カ月間で3倍以上に跳ね上がった。もはや中央銀行がとれる対策は超高額紙幣の乱発しかない状況だ。07年8月に最高額紙幣を20万ジンバブエ(Z)ドルに上げたのもつかの間、12月には75万Zドルに、今年1月には1千万Zドル紙幣を発行した。

超インフレが加速したきっかけは07年6月、インフレを抑え込もうとムガベ政権が出した価格半減令。元値を割ることを恐れた商店側が物資を闇市場に横流ししたため店から商品が消えたかわり、あらゆる物資が闇市場で高値で取引されるようになった。ジュース1個に100万Zドルの値段が付き、市民は「これでは世界で最も貧しい億万長者だ」などと不満を募らせている……」(註20)◆

九十二年にハラレに行った時は、最低賃金が百三十ドルになったとか、ゲーリーの月給が百七十ドルだとか言っていたのに。高額の紙幣を刷ると、銀行員が不正を働くので最高二十Zドル紙幣が一番大きなお札なんですよ、と言われたりもした。僅●わず●か十数年で何という変わりようでしょうか。持ち帰って家にある十Zドル紙幣や二十Zドル紙幣も、帰国後もお金代わりに手紙に忍ばせようと思って大量に買いこんだ二Zドルの切手も、今ではほとんど価値のない紙切れに過ぎないということです。

アレックスの「この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。」という見方は残念ながら正しく、「僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。」という予想も、違う方向で当たってしまいました。

アレックスは、ジンバブエ大学のツォゾォさんを訪ねた最初の日に部屋で授業を受けていた五人の学生のうちの一人です。ムチャデイ・ニョタがショナの名前で、ミドルネイムのアレックスが英語の名前です。アレックスが受けていた授業は、映画・映像に関する特殊講義で、その日は説明を受けたあと学生がキャンパスをビデオカメラで撮影するというのが内容でした。後日の撮影会に誘われて出かけて行ったものの参加者はアレックスも含めて二人でした。気の毒に思ったのか、アレックスはキャンパスを案内してくれたあと、自分が住んでいる寮に案内してくれました。キャンパスで私がアイスキャンディーをおごったお礼にアレックスがコーラをごちそうしてくれたのですが、中身の値段は一本が七十五セント、二十円足らずで、結果的には、予想もしていなかった七十五セントの出会いとなりました。

ゲーリーとは子どもや天気のこと以外はなかなか共通の話題が見つかりませんでしたが、アレックスとは色々な話をしました。南アフリカのラ・グーマやケニアのグギさんなどの作家についてだけでなく、リチャード・ライトやスタインベックなどの米国の作家についても、似通った受けとめ方をしていました。「『怒りの葡萄●ぶどう●』に出てくる牧師が僕は好きでねえ。」と私が言うと、アレックスから「ジム・ケイシィは私も好きですよ。」という返事が返ってきました。ラ・グーマもグギさんもライトも亡命作家ですが「亡命後に書いたものはやはり勢いがないですよ、だから例えばラ・グーマなら、南アフリカにいる間に書いた処女作『夜の彷徨』が、やっぱり一番いいですね、また、グギさんが最近出した『マティガリ』も、長い間ケニアを離れているせいか、少し観念的で勢いがないように私には思えます。人物描写にも信憑●ぴょう●性がないですよ。」とアレックスは言っていました。三人とも私の好きな作家ですが、これだけ違った環境に育った二人がこんなにも似通った感覚を持ち得るものなのかと、驚いてしまったほどです。社会主義を掲げている南部アフリカの国で、こういった話が出来るとは夢にも思っていませんでした。

ある日、アレックスは寮で友人のジョージやイグネイシャスやメモリーを紹介してくれました。それぞれ国中から集まってきた精鋭ですが、日本の街にはいまだに忍者が走っていると本気で信じ込んでいました。ハラレの街には日本のメイカーの自動車が溢れていましたし、ハイテクニッポンの名前が知れ渡っているのにです。原因は当時流行っていた米国のニンジャ映画の影響のようでした。「アフリカ人がいまだに裸で走り回っていると思い込んでいる日本人もいるし、今回私がジンバブエに行くと言ったら、野性動物と一緒に暮らせていいですねとか、ライオンには気をつけて下さいとか言う人もいたから、まあ、おあいこやね。」と説明しましたら、なるほど、それじゃ日本について教えて下さいと誰もが口を揃えました。さすがに精鋭の集団で、指摘されて即座に、ハイテクの国に忍者がいるのはやはりおかしいと悟ったのでしょう。しかし、精鋭の集団ですらこうなのですから、西洋の侵略を正当化しようとする力や、自分達の利益を優先するためにメディアを巧妙に操作する自称先進国の欲が抑えられない限り、お互いの国の実像が正確に伝わるのは難しいと思わずにはいられませんでした。

アレックスの夢は新車(ブランドニューカー)を買ってぶっ飛ばすこと、のようでした。私が車に乗らないと言ったら、アレックスが急に怒り出しました。日本なら簡単に車が買えるはずなのに、どうして車に乗らないのか、車に乗らないなんてどうしても理解できないと言い張るのです。車中心のこの社会では、車は必需品には違いありませんが、アフリカ人にとっては車を持つこと自体が、同時に一つの成功の証なのかも知れないと思いました。

アレックスにはロケイションと呼ばれるアフリカ人居住地区に連れて行ってもらいました。イマージェンシィ・タクシー(E・T)と呼ばれる乗り合いのタクシーを乗り継いで行きました。辺りにいるのは、アフリカ人だけでした。街の中心部から南西の方角に十キロほど離れたグレン・ノラ地区に住む従妹の家に行くまでに、二度ETを乗り換えました。最初に乗り換えたのは一番の密集地帯ムバレで、ゲイリーがお父さんと住んでいた地区です。近くの市営住宅の中を歩きましたが、排水事情も悪く、全体にうらびれた感じがしました。それから、アレックスが寮を出てから下宿をさせてもらっている従妹の家に行きました。

アレックスには子どもたち二人の英語の、私のショナ語の家庭教師を頼みましたので、いっしょに過ごす時間も多かったのですが、ある時インタビューに応じてくれました。先に紹介した帰国してから半年後に絞り出した本の中の一節です。

◆「アレックスの生い立ち

アレックスは、一九六五年に国の中央部よりやや南寄りのシィヤホクウェという田舎で生まれた。シィヤホクウェはグレート・ジンバブエ遺跡が近いマシィンゴと、中央部の都市グウェルの間にあるタウンシップである。タウンシップは南アフリカと同じように都市部のアフリカ人居住地区を指す時期もあったようだが、今は田舎地方の商店などが集まった地区のことである。規模の大小はあっても、ルカリロ小学校に着く前にミニバスで立ち寄ったムレワのタウンシップと雰囲気は似通った場所だろう。

六十五年は、イアン・スミス首相を担ぐローデシア戦線党政権が、土地を持った白人の大農家や賃金労働者と南アフリカの白人政府を味方に、英国政府や国内の白人産業資本家の意向を無視して、一方的独立宣言(UDI)を言い渡した年で、社会情勢はますます怪しくなっていた。

ゲイリーの場合もそうだったが、田舎では小学校にも通えないアフリカ人が多かったようである。学年が進むにつれて、学校に通う生徒の数はますます減って行く。アレックスの場合も、入学した時は四十人いたクラスメイトが七年生になると二十五人になっていたそうだ。特に女の子の数は少なかったらしい。一般的に、親の方も女性はすぐに結婚するから学校は出なくてもいいと考えていたようで、男の子を優先して学校にやったという。中学校に行ける人の数は更に少なく、アレックスの学校から進学したのは僅●わず●かに二人だけだった。近くには、有料で全寮制のミッション系の中学校しかなく、日用品や病院代の他に、子供の教育費まで捻出●ねんしゅつ●して子供を中学校に送れるアフリカ人はほとんどいなかったからである。

普段の生活はゲイリーの場合とよく似ている。小さい時から、一日中家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから再び日没まで、家畜の世話である。

『学校まで五キロから十キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした。それに食事は朝七時と晩の二回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ。』とアレックスは述懐する。

小学校では教師が生徒をよく殴ったらしい。遅れてきたりした場合もそうだが、算数の時間などは特にひどかったようだ。『五十問の問題なら、出来る子は一、二発で済みましたからまだましでしたが、出来ない子なんかは悲惨ですよ、四十八発も九発も殴られて、頭がぼこぼこでした。』と顔をしかめる。

『植民地時代の西洋人の考え方の影響ですよ。西洋人は、アフリカ人は知能程度が低くて怠け者だから、体罰を加えて教え込まなければと本気で信じ込んでいましたからね。今度ゲイリーの村に行けば分かるでしょうが、田舎では白人は居ても宣教師くらいでしたから、教師はみんなアフリカ人なんです。それでも殴りましたよ。あの人たちは、西洋人にやられた仕返しを同じアフリカ人の子供相手にやっていたんですね。独立後は、校長だけにしか殴る行為は認められていませんが……。全寮制の中学校は、その点、まだましでした。』と続けた。 七年間の小学校のあとは、四年間の中学校(FORM1→FORM4)、二年間の高校、三年間の大学と続く。中学校には普通コース(F1)と職業コース(F2)とがあり、F2は軽んじられる傾向にあったそうだ。今もその傾向があるらしい。中学校も人種別に、白人とカラード用のコース(GRADE1)とアフリカ人用のコース(GRADE2)に厳しく分けられていた。『アレクサンドラ・パーク・スクールもGRADE1ですから、今でも白人とカラードが多いでしょう。』と言われてみれば、なるほど思い当る。

高校に進学する人は、中学校よりも更に少なく、アレックスの中学校からは二人だけであったらしい。アレックス自身も、中学校卒業後、すぐには高校に行っていない。最終学年の八十一年に、お父さんが死んだためである。

田舎の学校では、卒業後めぼしい就職先は探しようもなかったので、誰もが教員になりたがったと言う。アレックスも中学校の教師になった。それも中学校を卒業して、すぐに中学校の教師になったのだそうだ。独立によって、現実には様々な急激な社会体制の変化があった。小学校もたくさん作られ、誰もが五キロ以内の学校に無料で通えるようになった。中学校もたくさん作られた。当然、教員は不足し、経験のない俄●にわか●仕立ての教師が生まれた。アレックスもその一人である。

アレックスの中学校も、闘争の激しかった七十九年から独立時までは閉鎖されていたらしい。生徒も男子は、敵の数や味方の銃の数を勘定したり、女子は兵士の食事を作ったりなどして、解放軍の支援をしたという。勉強どころではなかったのである。そのあとの激変である。混乱の起きないはずはない。

『もう無茶苦茶でしたよ。教科書も何もないし……。だいいち、FORM4を終えたばかりの人間がいきなりFORM4を教えるんですからね。それに、解放軍に加わって戦った年を食った生徒も混じっていましたから、生徒が教師よりも年上なんて、ざらでしたよ。おかしな状況でした。もちろん、いい結果などは望むべくもありません。その後、事態も徐々には改善されて行きましたが……。』

アレックスは高校には行けなかったが、政府の急造した中学校の一つで教師をしている間に、通信教育で高校の課程を終えたそうである。同じ中学校に大学出の新任教師が赴任してきて、どうして通信教育を受けて大学に行かないのかと促されて、大学に行こうと決心したという。その同僚の存在が大いに刺激になったらしい。無事に通信課程を終えて、九十年から大学に通うようになった。

アレックスにとって大学は楽園(パラダイス)だそうだ。毎日が大変な田舎の暮らしに比べると、という意味合いもあるが、知識を得られる場が確保されている上に、政府を批判する権利が学生だけに認められているからだという。独立前は、もちろん批判さえも無理でしたからと付け加えた。

自動車業者との癒着●ゆちゃく●が発覚して、閣僚の一人が辞任した八十九年の十月に、大学から街なかまで初めてデモ行進が行なわれたそうである。街なかでは、失業者などが加わって大変な騒ぎになったので、それ以降は警備も厳しくなったようだ。ストの当日は、今借りて住んでいる家も含めて大学近辺の地域はデモに参加する人たちの暴徒化を恐れて、警察による警戒も厳重になるという。

その年の四月に行なわれた学生のデモで何人かが逮捕され、現在も拘禁中であるという報道が日本でもなされていた。ツォゾォさんにその報道についての真偽を確かめると、逮捕されたのは学生自治会の委員たちで、今は釈放されて、停学中の身だということだった。

『ゲイリーに聞くと給料も安く、独立によって何も変わらなかったように思えるんだけれど……。』と私が話し始めると『それは実際には少し違います。』と遮●さえぎ●って、独立後の状況と将来の見通しについて次のように話してくれた。

『独立前は、ゲイリーのように白人の家で働くアフリカ人の給料はもっと安かったです。政府が最低賃金を決めて、これでもまだましになりました。独立した当初、政府は社会主義を前面に掲げましたが、白人はしぶとく健在で、経済は欧米諸国(ファースト・ワールド・カントリィズ)に牛耳られたままです。経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……。

独立するのにあれだけ田舎の力を借りたのに、自分たちが政権に就いたとたんに、自分たちの個人的な野望を達成することに頭が一杯で、田舎のことなど念頭にはありません。田舎の人は街に働きに出てきますが、現実には「庭師」や警備員などの給料の安い仕事しかありません。この国のアフリカ人エリートが白人の真似をして『白人』以上の白人になるのは本当に早かったですよ。

この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。政府に対抗する反対勢力はないも同然です。国民は四十パーセントの税金を取られています。党は金を貯めこんでいるのに、行政は充分には機能していません。これでは、いくら何でも不公平ですよ。』

最後の辺りのアレックスの語気は強かった。どうしようもない怒りを必死に堪●こら●えているようだった。そして『教育を受けた人は、海外に流れています。ボツワナやザンビアや最近独立したナミビアは人不足なので外国人を優遇していますから、お金につられて出ていくのです。』と付け加えた。

近隣諸国に流れる若者の問題は、大きな社会問題にもなっているらしく、八月十七日の「ヘラルド」紙に『多数の教員がよりよい条件を求めて国を離れている』という見出しの次のような書き出しの記事が掲載されていた。

◆「地方で養成された教員が何百人と、近隣諸国で働くために国を離れており、それによって教育の危機的な状況は更に悪化している。

ジンバブエ全国学生協議会(ZUNASU)の第三回年次総会を公式に終えたあと、高等教育相スタン・ムデンゲ氏は『地方の教員養成大学で養成された五千五百人の教員のうち、五千人は産業関係の仕事に就くか、残りは近隣国の新天地を求めてジンバブエを離れているかの状況です。』と語った。

新天地を求めて国を離れているそういった教員の穴を埋めるには、丸六年の期間が必要であり、学校では深刻な危機に直面しています。」◆

記事は、アレックスの指摘した税金の重さについては触れていないが、教員に限らず最大の問題は、経済的な意味合いも含めて、仕事に就いてよかったと思えるかどうかだろう。「いくら何でも不公平ですよ。」と当事者が思う状況である限り、若者の外国流失の勢いは止められないだろう。

南アフリカが経済的に豊かである以上、民主化されればその流れに一層の拍車がかかるだろう。現に、ネルソン・マンデラが釈放されて以来、隣国から多くの人が経済的な豊かさを求めて南アフリカに流れ込んでいるようだ。バングラデシュから日本に来ている留学生から、ジンバブエに行くなら、ハラレで医者をしている従兄を紹介しますよと以前から言われていたので、日本を離れる直前に電話で問い合わせてもらったが、その人はすでに南アフリカに移り住んでいるとのことだった。

「大学の友だちにも、卒業したらナミビアかボツワナに行こうと考えている人がたくさんいます。僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。すでに南アフリカの田舎で医者をしている友だちもいるくらいですから……。

卒業しても、みんな面倒をみなければいけない親類や兄弟をたくさん抱えていますから、何と言ってもやはりお金は魅力ですよ。そのうち結婚すれば、自分たちの住む家も必要です。新車も早く買いたいですからね。そう考えるのは間違っていますか?」

私にはその問いかけに答える術もなかったが、もちろん、アレックスの表情が明るいはずはなかった。」◆

アレックスは今どうしているのか。ツォゾォさんは、そしてゲイリーは、そんな思いがめぐります。

僅●わず●か百年余り前に侵入して来た西洋の入植者に土地や財産を奪われ、安価な労働者として働かされるようになったゲーリーのおじいさんやお父さん、独立の戦いで大変な思いをしたゲイリーやツォゾォさん。歴史や時代を通しての巨大な機構の中で翻弄●ほんろう●されるジンバブエの人たち。そんな人たちとほんのひとときをいっしょに過ごしましたが、ハラレにいる時も、帰国してからも、加害者側にいる自己の存在を思うと、息詰まる思いが先にたちました。今もその思いは、かわりません。

HIVはコンゴで感染したハイチの難民がモブツの圧制を逃れて国に帰り、そこからフロリダに渡って感染を広げたようです。そのハイチ人の祖先は奴隷貿易でアフリカの西部から連れて来られた人たちで、巡り巡って地域を越えた大きな世界で、ウィルスというミクロの世界でも、歴史や大陸というマクロの世界でも、人々が苦しめられ続けているわけです。

ウィルスの仕組みが解明されて、感染の仕組みも明らかになったのですから、少なくとも予防策を抗じれば感染の拡大を防げるはずです。しかし、性感染症の厳しさや抗HIV製剤でさえ暴利の対象にしてしまう欧米の製薬会社の実態などを見せつけられると、人間の愚かしさを思わずにはいられません。

アフリカの問題を考えても、エイズの問題を考えても、出口は見い出せません。見えるのは人間の哀しき性●さが●だけです。どうも、妙な空間に迷い込んでしまったものです。

授業を担当している大学生の大半は、日本が開発や援助の名目でかわいそうなアフリカ人を助けていると考えています。その意識と厳しい現実との差は余りにも大きくて、呆●ぼう●然とします。

しかし、絶望的なボツワナや南アフリカでエイズと闘っているダルコー医師のような人もいます。見知らぬ大学生のために長い手紙を認●したため●めて、エールを送って下さる人もいます。

まだまだ捨てたものではないと諦めずに、「水平方向に己れの行く末を見つめ」、「良いくらしだけを目標に青春をおく」る人たちの「眠っている意識以前に無言で語りかけ」続けたいと思います。いつかは「医者や医学者ではなく、医家が必ず生まれる」のですから。

玉田吉行 たまだよしゆき 1949年、兵庫県生まれ。

宮崎大学医学部医学科教員。英語、アフリカ文化論、基盤的研究方法特論(博士課程)、EMP (English for Medical Purposes)、アフリカ論特論(教育文化学部日本語支援教育専修)などの授業を担当。

著書にAfrica and its Descendants 2 (1998) 、 『アフリカ文化論[1]』(2007年)など、訳書にラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』(1992年)、注釈書にLa Guma, And a Threefold Cord (1991年)などがある (いずれも門土社)。

「アフリカとエイズ」(2000年)、「医学生とエイズ―ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(2004年)、「医学生とエイズ―南アフリカとエイズ治療薬」(2005年)、「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって」(2006年)など、アフリカと感染症に関するエッセイもある。

アフリカ文化論[2]

著者●玉田吉行

編集●田邉道子

発行所●株式会社 門土社

〒232-0016 横浜市南区宮元町3-44

電話045-714-1471番 画電045-714-1472番

http://www.mondo-books.jp

発行者●關  功

発行日●平成20年10月1日

初版第1刷発行

copyright●Tamada Yoshiyuki 2007

ISBN 978-4-89561-263-0 C1322

印刷・製本●モリモト印刷株式会社

執筆年

2008年

収録・公開

出版予定で門土社 送った原稿です。64ページ。

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アフリカ文化 [Ⅱ]ーアフリカとエイズと哀しき人間の性(さが)(上)

2000~09年の執筆物

概要

This paper aims to show why I have picked up the 1995 Ebola issue in Zaire in my English classes for medical students. It is important for English teachers to know what students need in English classes, and necessary to prepare suitable materials which motivate them. The 1995 Ebola outbreak in Zaire, a good material for the classes, spread fear around the globe through media. It is mainly because there were some wrong and exaggerated reports and lack of fundamental information on Zaire. Cong, including the former Zaire – the present République Démocratique du Congo, has been exploited by European and American powers. Without precise information and perspective, we cannot find possible RX for survival. Through historical analysis of the Congo, this paper shows the backgrounds for a fair understanding of the Ebola issue and the Congo for the students.

本文

医学生と新興感染症

―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―

Medical Students and the Emerging Infection

―On the 1995 Ebola Issue in Zaire―

1. はじめに

医学生の英語を担当し始めてから19年目になりますが、医学に無縁だった人間が医学部の英語の授業で何をするか、何が出来るかを考え続けています。当初、一般教養科目として医学科1年生の授業を担当したこともあり、専門家には出来ない何かをという思いが強かったのですが、理想論だけではやってはいけません。何事にもあまり関心を示さない学生から英語の必要性を認識して実際に英語が使えるようにと願う学生まで、学生も様々で、一年間の長丁場です。学生の思いに応え、しかも自分の気持ちのバランスも取るというのは難しいもので、試行錯誤の末、医学と僕の専門分野の(アフリカ)文学の狭間から何かが提示出来ないかと考え始めました。EGP (English for General Purposes) とESP (English for Specific Purposes) の狭間で、基礎医学・臨床医学への橋渡しの役目を果たす、それが現実に対応出来るやり方ではないかと考え始めたわけです。修士論文で取り上げたアフロ・アメリカの文学からアフリカに辿り着いていましたから、守備範囲にあるアフリカと医療を結びつける形で何かが出来ないかと考え、エイズなどの新興感染症も取り上げるようになりました。エボラ出血熱もその一つです。

2.1995年エボラ出血熱騒動

1995年のエボラ出血熱騒動は、毎年取り上げている医学的な話題の一つですが、EGP 、ESPに共通する題材として、興味深いものがあります。当時の騒動を伝える新聞記事、ニュース映像、アメリカ映画「アウトブレイク」などを使用しています。

エボラ出血熱はエボラウィルスによる急性熱性疾患で、1995年以前に、スーダン(1976、1979)、ザイール(1976、1977)、コートジボアール (1994)、ガボン(1994) でも発生しています。キクウイットの場合、4月に町の総合病院を中心に患者が発生し、約40日後に米国、WHO(世界保健機構)、ベルギー等のチームが入り、6月20日に終焉しています。最終的には315名が感染し、256名(81%)が死亡しました。(注1)

1995年のエボラ出血熱は、想像以上に大きな騒動になりました。世紀末の不安もあったでしょうが、ベルリンの壁やソ連の崩壊、湾岸戦争、ネルソン・マンデラの釈放とナミビアの独立、マンデラ政権の誕生など、歴史的な出来事が立て続けに起こったからかも知れません。不安を煽った最大の原因はメディアの過剰な反応ですが、メディアに容易く惑わされたのは、永年の白人優位・黒人蔑視に起因する、正確な歴史認識の絶対的な不足だったのではないかと思います。

「エボラは突然の発熱、嘔吐、筋肉痛、頭痛や下痢などの症状が特徴的です。しばしば、内蔵での出血が見られます。器官が溶解してどろどろになり、目や鼻や他の開口部から血液が流れ出ます」といったような誤った内容を伝えた新聞記事(注2)が騒ぎを大きくしたのも事実ですが、最大の原因はハリウッド映画「アウトブレイク」でしょう。アフリカの未開の奥地で未知のウィルスを発見、CDC(米国疾病予防センター)が軍医を送り生物兵器開発のために血液を採取したのちに村を爆破、致死率100%・空気感染のウィルスがアメリカ本土を直撃、汚染された街を爆弾で気化させるという大統領命令が下る、という内容は、映画としては刺激的でしたが、タイミングが良すぎました。NHKのBS世界のドキュメンタリー「人類の健康は守れるか:第3回エイズ・鳥インフルエンザ対策」(2006年3月16日BS1) の中で、1976年にCDCから派遣された軍医が撮影した当時のビデオ画像が放映されましたが、映像から伝わる当時の混乱した状況を見てその思いを強くしました。映像が映画と重なっていたからです。永年植え付けられた西洋優位の思想に由来するザイールへの関心のなさと、基本的な認識の欠如によって騒ぎは更に大きくなりました。

騒ぎは、もう一つ大きな問題を浮き彫りにしました。当時の大統領モブツの暴虐ぶりです。1995年5月16日のロイター通信が次のように報じています。

ザイールでエボラウィルスが発生したために、1963年(原文のまま、独立は1960年)のベルギーからの独立以来次々と起こる危機に揺れ動くアフリカの中心部にある四千万人の広大な国に再び世界の注意が向けられました。

治療法もワクチンも知られていないため、そのウィルスによって少なくとも64人の死者が出ました。多くのザイール人がモブツ・セセ・セコ大統領の政府に公然と腹を立てています。批評家によるとモブツは、過去約30年もの間、誰の挑戦も受けずにずっと政権の座にあり、推計で数十億ドルもの個人資産を蓄財したと言われています・・・

腐敗はザイール社会と政府の隅々にまで行き渡り、五百万人の首都へのウィルスの侵入を阻止しようとして取られた隔離対策にも賄賂が効く体たらくです、と市の職員が話しています・・・(注3)

さらに、6月14日のCNNは、「モブツ大統領は、エボラ対策の費用は他の国が保証すべきで、自分がすべき問題ではありませんと語っています」というニュースと本人の画像を大きく映し出しました。

そんなモブツを生んだコンゴは一体、どんな国だったのでしょうか。

3. コンゴをめぐって

3.1 「コンゴ自由国」:植民地支配

現在の「コンゴ民主共和国」はこれまでに何度か国名を変えていますが、ここではすべてコンゴと言う呼び方を使います。(注4)

コンゴの悲劇は、植民地を持ちたいというベルギー王子の夢で始まります。奴隷貿易で暴利を貪って資本蓄積を果たした西洋社会は、更なる冨を求めて産業革命を起こして資本主義を加速させます。さばき切れない製品の市場と原材料を求めてアフリカ争奪戦を繰り広げますが、争奪戦は余りにも激しく、世界大戦の危機を回避するためにベルリン会議を開いて妥協案を模索します。英国、フランスなどが植民地分割を決めたのはよく知られていますが、その会議で、コンゴがレオポルド2世個人の植民地として認められた事実はあまり知られていません。植民地を増やす余裕はないので競争相手には取られたくないが小国ベルギーに譲るなら安全と計算する英国とフランス、増えるアフリカ人奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返す策を模索していた米国、3国の思惑が一致し、レオポルド2世の接待外交も功を奏して、レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」が認められたのです。

レオポルド2世自身は生涯アフリカの地を踏んでいませんが、私兵を送り、電気と自動車という時宜を得て、銅と天然ゴムで暴利を貪り尽くします。

「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の野望と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えが、皮肉にも一致した結果、白人の牧師と共に、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたアフリカ系米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記しています。

この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……。

しかし、ここ3年の、何という変わり様でしょうか!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題です。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりです。

どうしてこんなに変わったのでしょうか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからです。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしていけません。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もありません。」(注5)

「認可」を出したのは、レオポルド2世で、王は1888年にベルギー人とアフリカ人傭兵から成る軍隊を組織し、多額の予算を拠出して中央アフリカ最強のものに作り上げました。1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起こります。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇ります。アジアやラテン・アメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの20年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせます。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させました。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れました。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業となりました。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だったのです。

 

 

ヨーロッパとアメリカの反対運動で、王は1908年にベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされますが、その支配は23年間に及びました。その間に殺された人の数を正確に知るのは不可能ですが、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されています。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言われます。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込み、1909年に死んでいます。

「コンゴ自由国」は1908年にレオポルド2世からベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれます。支配体制を支えたのは、1888年に国王が傭兵で結成した植民地軍(The Force Publique)です。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、1900年には、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となっています。軍はベルギー人中心の白人と、主にザンジバル〈現在はタンザニアの一部〉、西アフリカの英国植民地出身のアフリカ人で構成され、「一人か二人の白人将校・下士官と数十人の黒人兵から成る小さな駐屯隊に分けられていました。」(註6)兵隊がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だったのです。

レオポルド2世は国際世論に押されて渋々政府に植民地を譲渡しますが、国際世論とは言っても、この時期、ドイツは南西アフリカ(現在のナミビア)で、フランスは仏領コンゴで、英国はオーストラリアで、米国はフィリピンや国内で同様の侵略行為を犯していましたので、批判も及び腰で、国王が死に、1913年に英国が譲渡を承認する頃には、国際世論も下火になり、第一次大戦で立ち消えになってしまいました。アフリカ人は人頭税をかけられて農園に駆り出され、栽培ゴムや綿や椰子油などを作らされました。第一次大戦では、兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」(註7)という惨状でした。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現されます。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの80%以上がコンゴの鉱山から持ち出された」(註8)と言われています。名前が「ベルギー領コンゴ」に変わっても、豊かな富は、こうして貪り食われたのです。

コンゴが貪り食われたのは、豊かな大地と鉱物資源に恵まれていたからです。ベルギーの80倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、北はコンゴ(旧仏領コンゴ)、中央アフリカ、スーダンと、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニアと、南はアンゴラ、ザンビアとに接しており、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にあります。植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていきました。「1953年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの70%を産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」(註9)になっていました。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となりました。行政区は、北西部の赤道州、北東部の東部州、中東部のキブ州、中西部のレオポルドヴィル州、中部のカサイ州、南東部のカタンガ州の六州に分けられ、大西洋に面するレオポルドヴィル州に首都レオポルドヴィル(現在のキンシャサ)があり、カタンガ州とカサイ州南部が鉱物資源に恵まれた地域です。

コンゴは南アフリカと並んで、暴虐の限りを尽くした植民地支配の典型だったのです。

3.2 独立とコンゴ動乱:新植民地支配の始まり

2度に渡る世界大戦での殺し合いで、ヨーロッパ社会の総体的な力が低下したとき、それまで抑圧され続けていた人たちが自由を求めて闘い始めます。その先頭に立ったのは、ヨーロッパやアメリカで教育を受けた若い知識階層で、国民の圧倒的な支持を受けました。宗主国は当初、独立への動きを抑えにかかりますが、大衆の熱気を見て戦略を変更します。独立は認めるが独立過程で最大限に混乱させる、自国の復興を待って力を回復させ機が熟せば傀儡政権を立てて軍事介入をする、それがその時点での最良の戦略だったのです。

コンゴの場合、ベルギーの取ったやり方は、何ともあからさまでした。1960年、ベルギー政府は政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置きませんでした。ベルギー人管理八千人は総引き上げ、行政の経験者もほとんどなく、36閣僚のうち大学卒業者は3人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、国民の圧倒的な支持を受けて首相になったパトリス・ルムンバの排除に取りかかります。危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しますが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったかも知れません。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

 

独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえるはずもありません。名前こそ変わったものの、搾取構造は植民地時代と余り変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされているのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」で、高い関税をかけられるので加工して輸出することも出来ず、結局は原材料のまま売るしかないのが現状です。

こうして、コンゴでも新植民地体制が始まりました。

3.3 モブツ:新植民地支配

政権の座に着いたモブツは、アメリカの梃子入れで30年以上も独裁政権を続けました。その暴政はよく知られています。1984年から2年間、海外協力隊員としてザイールの田舎で過ごしたアメリカ人の新聞記事から、モブツ政権下で人々の悲惨な様子が窺い知れます。

2年間、私はザイール中部のカサイ地区でボランティアをしました、この地球上の他のどの地域よりも痛ましい、土の小屋と裸足と貧困のまっただ中で・・・

20世紀の後半に、人々が銃に脅されて奴隷のように綿摘みを強要され、今は失脚したモブツ・セセ・セコの金庫を一杯にするのを、私はこの目で見ました。

ザイールでの私の仕事はたんぱく質の欠如によって病気にかかった子供たちを助けることでした。・・・村の養魚池を作って、田舎の地域に栄養補給をすることでしたが、田舎の地域は貧しくてアスピリンの一錠が家計を圧迫する惨状でした。しかし、私の仕事はまったく象徴的なものでした。貧困は余りにも根が深く、広範で深刻過ぎました。そしてアメリカの援助は余りにも小さすぎました。私はそれぞれ何軒かの家族の手助けをしました。

神(あるいは神の不在)は細部に潜んでいます。腐りかけの歯を何とかしてもらうために私の家に来た村の人々の泣きじゃくる顔のような細部にです。アフリカの基準から言っても、ザイールの医療の状況は驚くほど酷く、ほとんど医療は望めません。アメリカや他の西側諸国によって寄贈された薬は、モブツ軍によって慣例的に強奪され、法外な価格で闇市場に転売されました。目的の場所に援助物資が届いた時でも、保証はありませんでした。私は、以前不釣り合いなフランスとアメリカの軍服を着た兵士が、ユニセフが配給した粉ミルクを溶いてこしらえた飲み物を下痢で苦しむ少女の手から取り上げて、自分で飲んでしまう光景を目の当たりにしました。

私のいた小さな村で、人々が病気になった時、私は持っていたアスピリン、マラリア用の錠剤、包帯などどんな僅かなものでも与えました。また、村人たちが歯痛のため私の所へ来た時には、求められたガソリンをその人たちに与えました。私は、オートバイのキャブレターから半インチのガソリンを注ぎました、そして70歳の女性と15歳の男の子がガソリンを唇にたらし、そのガソリンを口に含んで、シュシュと音を立てるのを見ました。ザイールの容赦のない基準では、これが歯の治療だったのです。地元の人々によると、このように使う僅かなガソリンは感染を防ぎ、痛みを和らげる手助けをするということでした。私はその考えに拒絶反応を見せました。しかし、人々は私の所へ来続けました。口を腫らして、泣きながら、頼むから何とかしてくれと言って、数十キロも歩いてくる人もいました。だから私は歯医者になりました。何もないよりはいいと思ったのです。

私が住んでいたザイール中部では、政府が求める強制労働の要求を満たせるように、村人は健康でいることが特に重要でした。家族の十分な食料を得るために耕す為に既に充分苦労していたすべての成人男性は、600坪ほどの土地に綿を植え、その綿を政府に売るように要求されました。綿を植えない人、または植えられない人々には厳しい罰金や、凶暴なライフル銃の銃身で規則を守らせるために派遣された兵士から鞭打ちの刑を受ける危険がありました。それはベルギーによる植民地時代からそっくり受け継がれた体制だったのです。モブツは独占的に綿の価格を不自然なまでに低い基準に規制し、買い取る際にいつものように目盛りをわざと不正に操作し、村人を再び騙しました。村での綿販売は私の前庭で行われていましたので、ことの子細をすべて知っています。私は無数の鞭打ちを含め、すべてを戸口から見たのです。(注10)

これはすべてアメリカとヨーロッパの支援によって可能になりました。1977年、1978年と1984年には、アメリカとフランスが直接的、または間接的に、最後にモブツ政府を倒した人たちに似た改革派による暴動からモブツ政権を救う手助けをしました。1980年代、アメリカは、腐敗や夥しい人権侵害についての信頼し得る報告書を入手していたにもかかわらず、モブツ政権に軍事援助と経済援助をし続けました。モブツは冷戦を最大限に利用し、新植民地主義者から最大の援助を引き出しました。その代わり、ロシア人とキューバ人を国内に入れずに領土を安定させ続け、西洋の工場向けの鉱物を生産しました。

冷戦の終わりには、モブツの個人資産と国債が共に60億ドルに達したと言われています。

3.4 コンゴ民主共和国

外圧によって腐敗や人権侵害が取り沙汰されるようになるにつれて、国内政治への支配力は弱まりました。モブツは1990年に民主主義的な改革にむけての内外の圧力に屈服しますが、1994年のルワンダの大量虐殺で、また息を吹き返します。西洋がモブツをもう一度必要としたからです。1996年10月18日、東部地域で反乱が発生しました。ローラン・カビラ(当時56歳)に導かれたルワンダ人の支持する反乱軍、及びコンゴ・ザイール解放民主勢力連合は、余り訓練されずに士気のあがらないザイール軍を敗走させて、ゴマとブラブなど、東部の境界周辺の主要な町を占領したのです。

米国大統領ビル・クリントンはモブツに、ロナルド・レーガンが1986年にフィリピンでフェルディナンド・マルコスに明言したように、武力を行使しない形で平和裡に政権移譲を行なうべきだと伝えます。5月17日、反体制軍は首都に行進し、2日後に、カビラはコンゴ民主共和国の大統領として宣誓しました。国民への演説の中で、カビラははっきりと以前のザイールに民主主義な変化をもたらすと言いました。

ルムンバ内閣の閣僚の一人だったカビラは、モブツの支配した残酷な時代に、辛うじて死を免れ、キブ州とリフト渓谷沿いの境界線地区と湖畔地区の深い森の中に逃げ込みました。カビラを探した人もいましたが、その人たちからは何の情報も聞かれませんでした。カビラは1960年代からずっと小規模な反乱に参加しており、モブツの追放を切望していました。その反乱で初めて反体制の代表者を務め、1996年10月に、指導者として前面に推されました。それはカビラがザイールのルバ人の一員として、フツ人とツチ人の間の紛争で、恐らく中立の立場にいる人に見えたからでしょう。広大な国を平和な流れに導く舵取りとして忽然と姿を現わしたのです。カビラは大統領宣言を果たしますが、2001年に暗殺されて、息子のジョゼフ・カビラが大統領に就任しました。そして、カビラのいたコンゴ東部では、今、ITビジネスに欠かせない希少金属タンタルが新たな紛争の種になっています。

1995年のエボラ出血熱騒動には、こうした凄まじい背景が潜んでいたのです。

NHKで放送中の海外ドラマ『ER緊急救命室』の第9シリーズと第10シリーズで、カーター医師は、カビラの潜んでいたコンゴ東部にボランティアとして出向きますが、今まで述べたような背景なしにはカーターが訪れたコンゴを理解するのは難しいでしょう。

4.医師をめざす人のための英語の授業

宮崎大学医学部では2005年度から、タイのプリンス・オブ・ソンクラ大学との学生交換プログラムに向けての英語講座を始めました。1・2年次にはさほど関心を示さなかった4・5年生が、タイでの単位互換を伴なうクリニカル・クラークシップ・プログラムに参加するという差し迫った目標が出来て、生き生きと英語を学び始めました。語学を学ぶうえで、明確な目標が如何に大切かを肌で感じています。一ヶ月間のプログラムに参加した学生は例外なく、英語もさることながら、医学をもっと勉強しなければと言います。タイでは医者の数が少なく、5・6年生は実際の医者に近いことを要求されますから、日本の学生に比べて遙かに勉強もしますし、よく出来るのです。感染症病棟でエイズ患者の回診をした学生は、社会制度を学ぶ大切さを口にします。

大学に入学するために大量の知識を詰め込んできた中で得た歴史観や考え方を再点検して、自分自身について考える機会になればと願って授業をやりますが、うまく行くとは限りません。新入生の最初の授業でカーターの行ったコンゴのERを授業で見てもらったとき、ある学生は「初回の授業を受け、(それなりに覚悟はしていたつもりではありましたが、)やはり衝撃を受けました・・・“人であることを止めるか” “人に尽くそうとすることを止めるか” の選択であるような気がしました。せめて誠実でありたい―今はそう思います。」という感想を授業専用のホームペイジの掲示板に寄せています。「誠実で」あるためには、まず西洋寄りの体制の中で作り出された自分の価値観を見直し、大学生として相応しい基礎知識が何であるかに気づく必要があります。その学生はまた、「第1回目の授業はとても衝撃的でした。授業そのものも勿論ですが、授業のあとで、私同様に “油断していた所に直撃を受けて激しく動揺する人” と “「てか超だるいんだけどー」と言える人” の2通りに大別されたことが面白かったです。」と同級生の反応について記しています。

制度の問題もあります。医者を志望して医学科に入って来ていない学生の数が想像以上に多く、そういう学生は教養でも専門でも授業には関心が薄く、単位や試験には敏感です。しかし、入学試験で学科の成績を問う限りは、「したいことは見つからないし他の学部に行くよりは医学部へ行く方がまし」と考える学生を排除することなど実際には出来ません。

一対多という講義形式にも限界があります。いくら準備や工夫をしても、誰もが満足する授業が出来るとは思えません。厳しく出席を取らないと成立しない授業もあるようですし、厳しく出席を取っても、後の席で寝ていたり、携帯をしている学生もいるようです。

色々な問題を抱えながらやって行くしかないわけですが、やはり大学の自由な空間で培う素養は大切なものです。ESPとEGPとの狭間で、歴史観や考え方を再認識するきっかけを提供し、結果的にはそれが基礎医学・臨床医学への橋渡しの役目を果たすような授業をして、学生一人一人がいつかは適切な処方箋(RX)を書けるようになることを願いながら、十年一日の如く試行錯誤を続けたいと思います。

  1. IDSC(国立感染症研究所感染症情報センター)「感染症の話」

(http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k02_g2/k02_32/k02_32.html)

  1. (May 13, 1995). Deadly ebola virus sweeps through Zairean town. Los Angeles Times in THE DAILY YOMIURI.「解剖は非常に気持ち悪かったが、いったん血をすべてきれいにしてしまうと、内蔵器官は損なわれていないままだとわかりました」[Robin McKie, “Nature of the killer virus,” (Johannesburg: Mail & Guardian, May 19 to 24, 1995)] という記事からも、誤った推測記事だと判ります。
  2. (May 16, 1995) Ebola virus returns Zaire into World’s spotlight. THE DAILY YOMIURI.
  3. 1885年のベルリン会議でベルギー王レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」として認められて以来1908年「ベルギー領コンゴ」→1960年「コンゴ共和国」→1967年「コンゴ民主共和国」→1971年「ザイール民主共和国」→1997年「コンゴ民主共和国」と名前が変わって現在に至っています。
  4. Hochschild, Adam. (1998) King Lopold’s Ghost – A Story of Greed, Terror, and Heroism in Colonial Africa, 261. New York: Mariner Books. 同時期に仕事で当地に滞在した作家のジョセフ・コンラッドは、自らの体験に基づいた小説 Heart of Darkness を書き、ヨーロッパや アメリカで注目を浴びました。
  5. 前掲書. 121.
  6. 前掲書. 279.
  7. 前掲書. 278.
  8. 小田英郎(1986)『アフリカ現代史Ⅲ中部アフリカ』東京:山川出版社. 118.
  9. Tidwell, Mike. (June 6, 1997) Looking back in Anger: Life in Mobutu’s Zaire. Washington Post in THE DAILY YOMIURI.

執筆年

2006年

収録・公開

「ESPの研究と実践」第5号61~69ペイジ

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医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―

2000~09年の執筆物

概要

ムアンギの『最後の疫病』(The Last Plague, 2000)とゲテリアの『ナイスピープル』(Nice People, 1993)のケニアの小説が描き出したエイズの惨状を分析した作品論です。小説にしか描けない人の心理や性に対する考え方など、日本人に伝えると同時に、この500年のアングロサクソンを中心にした西洋諸国の侵略におかされて来たアフリカの将来への提言も分析しました。

本文

Human Sorrow:―AIDS Stories Depict An African Crisis―

TAMADA Yoshiyuki

The Faculty of Medicine, University of Miyazaki

<Summary>

This essay aims to show how AIDS stories in Kenya depict an African crisis that we have never seen in history. The AID situation in Africa is so devastating as is pointed out in a newspaper article containing the headlines; “Africa: the continent left to die – The Aids virus will kill 30 million Africans in the next 20 years. Are the drug companies making the situation worse?”1, but most of Japanese do not pay much attention to African issues including the emergent AIDS crisis, even though our country is closely related to some of the African countries through trades: The Japanese have prospered by making the best use of ODA (Official Development Assistance), an important instrument of neo-colonial strategies, in addition to investments and trade by having enhanced the alliances with the ‘nice people,’ a few chosen Africa elites. For example, Japan is one of the leading trading partners of Kenya as well as the most important ODA donor.2 Nevertheless, most of Japanese do not know even the existence of African literature.3 But they have high-standard literature in Africa. Nice People4 is a memoir which records the history of the outbreak of AIDS as early as 1984. The Last Plague5 is a novel which depicts everyday life of ordinary people suffering from HIV infection and AIDS.

I hope this essay will be some help to fill in the gap between the realities of Africa and the Japanese consciousness on Africa.

1.AIDS epidemic in the neo-colonial stage

It has been less than a quarter century since the word “AIDS" entered our vocabulary. It is in 1981 when the CDC (Centers for Disease Control and Prevention) set up a special investigation team, which was the beginning of the first methodical study of the unknown disease. The team discovered that the symptoms were caused by a drop in T-lymphocyte cells, which play the key role in the cellular immune system that protects a human body from invasion of pathogenic organisms. It was then that the disease was given the name AIDS (Acquired Immune Deficiency Syndrome). In the spring of 1983 the full proof of AIDS came and the virus is now generally called human immunodeficiency virus (HIV).

CDC(米国疾病予防センター)

Since then, researchers have developed a number of drugs. In 1996 multi-drug therapy by a combination of reverse transcriptase (RT) inhibitors and protease inhibitors prolonged the lives of many AIDS patients. That year was heralded as the year AIDS treatment came of age, but none of the drugs shuts down the HIV life-cycle for long. Within a few weeks after it enters a body, HIV produces billions of genetically varied offspring. Drugs can shackle most of them, but a few survive and go on reproducing the offspring. Thousands of them look well but not everyone fares well with the drugs. Moreover, there have been some reports of problems with resistance and side effects.

抗HIV製剤

Effective multi-drug therapy can cost much. The price is tremendous, even in the industrialized countries. In the developing countries those drugs are financially completely out of reach as a report of the 1998 World AIDS Conference points out;

And even when the drugs offered hope, still other speakers said, it is hope beyond the reach of the vast majority of the 34 million people now infected the AIDS virus. Those patients cannot afford the treatment. It can cost about $15,000 to provide the drugs to one person a year, a sum greater than the entire budget of many a Third World village.6

It was in the early 80’s that the ADIS problem appeared in Africa. In such a short period the disease has spread much more rapidly than expected. An article in 1997 reports;

In the developing world, and especially in Africa, the virus continues to take an extraordinary, and often hidden, toll of suffering. It is estimated that 2,300,000 people will die of Aids-related diseases this year, a 50-percent increase on 1996.

The UN-Aids programme now admits that it has “grossly under-estimated” the number of people who have the HIV virus, and full-blown Aids, in Africa,…

The impact of HIV on this continent is so devastating that it has wiped out 30 years of gains from improved nutrition and medical treatment….7

Nice People and The Last Plague depict the devastating situation of AIDS in Kenya. The former story shows us the panic of the time when some doctors had to face this unknown sexually transmitted disease for the first time. The latter novel describes many suffering people in a withering village by the attack of the plague.

2.Nice People

The protagonist of Nice People is Joseph Munguti, a doctor in Kenya Central Hospital (KCH). In 1974, after graduating Ibadan University in Nigeria, he begins to work there.

At the university he was interested in STDs (Sexual Transmitted Diseases) and wrote the sub-thesis: “Kenyan morality and its effects on the epidemiology of Gonorrhoea and the Treponematoses." He insisted that “we would gain tremendous progress in the fight against venereal diseases were we to provide by extensive and intensive media communications acceptance of sexually transmitted diseases instead of moralising about and concealing them.”

He starts his internship under Waweru Gichinnga, his officer in-charge, who advises Munguti to work on night duty on a clinic in Nderu. Later Gicinga opens his own clinic, the River Road Clinic in Nairobi. The Nderu and River Road Clinics complement each other. As the law is vigilant in Nairobi, some operations can be illegally performed in Nderu. Most patients at Nderu contact venereal diseases (VDs). Ten years later Gicinga is arrested for his illegal treatments, so Munguti inherits the clinic as his own VDs’ clinic for the down-trodden in society.

ケニア地図

In January, 1984, he reopens the clinic under a new name, believing he is the leading venereologist in the county and that there is no venereal disease he has not diagnosed and treated.

In December of 1984, however, a Chinese puzzle came to his clinic. At first he thinks it is a simple case of lymphogranuloma venereum, then, on a second visit, the sores that he thinks are simple genital herpes has spread all over the body. His patient named Kombo tells him that the patient tried all sorts of medicines without success. A friend referred him to Munguti and assured him that he would be cured.

Kombo says, “I am a rich man, young man. Here is twenty thousand shillings. Go and look for any medicine that will get rid of this."

Kombo and Munguti belong to the rich class. They are rich enough to use the Kenya Banker’s club “which was patronised by many members of the civil service, the big banks and government corporations. In this club most of the people in the who-is-who in Nairobi converged especially on Thursdays. It had five tennis courts, three squash courts, a sauna and a beautiful swimming pool which made it a particularly convenient rendezvous for Nairobi’s young bureaucrats.” (146)

ナイロビ市街

So, Munguti starts researching in the Kenya Medical Research Library and finds out the November issue of the “American Medical Journal":

A serious dermatological condition follows the genital herpes which resists all known antibiotic. Persistent diarrhoea, coughing and swelling of most lymph nodes accompanies the disease. Since the body is incapable of fighting many common diseases, the patient begins to wither away and eventually dies. It has been named the green monkey disease as the virus causing it is synonymous to the one similarly attacking the green monkeys of Central Africa! Several San Franciscan homosexuals are suffering from it."8

Munguti is certain that these symptoms were the same that he saw in Kombo. What he requires is a diagnosis with clinical tests and further research on causal factors, plus an understanding of Kombo’s background. He goes for a drink hoping to meet a medic with whom he can share his thoughts and comes across his old colleagues at the KCH. They confirm his fears that a new sexually transmitted disease has been diagnosed and is transmitted by a strange virus. It already killed five persons at the KCH, a Finish man, two Americans and two Zaireans. Three Kenyans were also admitted with the disease that week. The disease is highly contagious and is terminal. The men and women are therefore isolated in cages from other patients.

Munguti visits the KCH to look at the patients for comparative purposes. When he is taken by a nurse to a glass walled room where three men sleep, he feels such helplessness as he watches the helpless men anxiously looking at them. Then he recognizes his patient, Kombo. He froths at the mouth, archs his back and appears in great pain as he coughs repeatedly, a dry cough that is definitely puncturing his lungs;

“The one you were looking at is Major Kombo. Cleansing Superintendent of the Nairobi Garbage Handlers Company Ltd. They brought him yesterday and he is unlikely to survive another day," the nurse-in-charge advised and I started warming up in the heart. My guilt started waning as I recalled a battered Luo lady who years ago had come to the River Road Clinic complaining of a sodomist City garbage collection boss. I remembered thinking of going to the police station to report a felony, but declined because my medical profession barred me from doing so. Poor Major Kombo, I rationalised, his maker must have decided to avenge the women he had bestialized. (141)

Munguti asks the second opinion to his older colleague, Gichua Gikere. He already knew of the disease which was called “slim" and came from Uganda. Gikere talks about one witchdoctor. Although he does not believe in witch-doctors, he decides to go to the witch-doctor. But before going on the planned trip, Kombo passes away.

Munguti also has sexual realationships with three women: Mumbi, Mary Nduku, and Eunice Maimba, at the same time. They are all ‘nice people.’ He meets Mumbi, his colleague’s daughter at the clinic and is enchanted by her. They become intimate, finally promise to marry. But she has a white boy of Captain Blackman, whom she met in Mombasa as a prostitute, flees to to him in Helsinki just after childbirth. She dies of AIDS there.

モンバサ周辺地図

Mary Nduku, his friend from childhood, introduces Ian Brown at the Kenya Bankers’ Club to Munguti. She is a secretary and lover of Ian Brown, 34, an Englishman, who works for the Standard Bank and lives in Muthaiga, the Beverly Hills of Nairobi. His grandfather came to Kenya from South Africa. He drives a Jaguar and plays golf at the leading clubs. He dies of AIDS, too.

Eunice Maimba visits his clinic because of her husband domestic violence. At first she was only his patient but he finally found himself a “sugar boy” with a “sugar mummy”. Her husband passes away because of AIDS, too.

One morning he wakes up with swollen salivary glands and wonders:

I began wondering whether the dreaded disease that had been stalking me for the last ten years had finally caught up with me. Was it with Mary Nduku via Ian Brown? I asked myself, or was it Eunice Maimba through Godfrey Maimba? I sent a prayer to the heavens, then continued wondering if Mumbi, Dr. GG’s daughter, could also have been the cause of my problem. She had mothered a healthy child all right but this did not necessarily free her from seropositivity, or did it? I continued to ponder.

Captain Blackmann was a Finnish sailor who frequented Mombasa whore houses, so did Major Oluoch, Mumbi’s other associate. All this substraction and addition led to the fact that I was surrounded in the last ten years by likely pathways of the killer virus and there was to be no escape. I had coitus severally with the three women, who had done the same with three and more men who in turn had themselves been involved with others. I saw the picture similar to that of a spider-web that taps any flies that come into it and I knew we were all in the web. A sudden fear gripped me as I saw my mother listening to the news of her dear son’s final journey and its cause. (166-167)

The author focuses on ‘nice people,’ for they are their ‘limited pool of professional and technical elite’ in the country who are to play the key role of treatment. The author’s note shows his concern;

AUTHOR’S NOTE

Among the things that made me embark on Nice people was this cutting from the Sidney Morning Herald sent to me in June, 1987. I reproduce it here 3 years after:

AIDS in Africa: the crisis that became a catastrophe by Blaine Harden

NAIROBI, Sunday: AIDS has infected up to a quarter of the population of some cities in central and eastern Africa, where it is now regarded as an unprecedented catastrophe.

The fatal disease is viewed as a particularly severe threat to Africa, the world’s poorest continent, because it appears to have spread among its limited pool of professional and technical elite.

Health authorities in Africa and observers elsewhere say the AIDS epidemic could, in a sense, decapitate some African countries.

The growing epidemic, these authorities agree, aggravates an already severe shortage of skilled people and raises the prospect of economic, political and social disorder. (VII)

著者解説付きの『ナイスピープル』裏表紙

3.The Last Plague

The Last Plague, on the contrary, focuses on many poor people, ordinary masses.

It is a novel of Janet, who tries to become independent through her job. When her husband, Broker left her family, Janet tried to kill herself, but didn’t. There were three children to raise and Grandmother. She was forced to become strong and conscious of herself in the society. She willingly took a job of the Government, which gave her condoms and pills to dish out, free of charge, in order to save the community from poverty and death. Her daily life is as follows:

She walked and pedaled her bicycle dozens of kilometers every day, from hill to hill and throughout Crossroads. She talked to numerous people every day; sang them the song of the condom and told them of the benefits of planning heir families and of protecting themselves from sexually transmitted diseases. Some listened to her, but most people did not want to hear her at all and she was unwelcome in many homesteads that she visited. Some ran to hide when they saw her coming, but she chased after them and did what she had to do and said what she had to say, no matter how hostile the reception, for it was her job, a vital and important job, and she did not have to convince herself of that any more.9

Crossroads, a small town in Kenya, is going to die. The text reads; “There were burial mounds everywhere one turned; large, brooding things, darkly vibrant with death, and there was hardly a single homestead in Crossroads that did not host one, or two or three or more, of these terrible reminders of the futility of man. And where thee was one today, tomorrow there would be two. Two became four and four became eight. Hey grew, they multiplied and they mutated. They turned into monsters: hungry beasts with insatiable carving for human life.” (22)

When her classmate Frank comes back home, he is much surprised to find the change of his native village. He left for education by villagers’ donation, he comes back, his education unfinished: “As he crossed the old highway into town, he realized that Crossroads had changed too. The joyous town of his youth had aged, and done so badly. The walls had caved in, the roofs had collapsed and the streets were lined with piles of rubble from countless dead buildings; mountains of crushed masonry and heaps upon heaps of decomposing dreams. Crossroads lay still and despondent, a disease-ravaged animal, hopeless and despairing, an affliction-ridden thing whose resistance to adversity had decisively collapsed, dying without whimper.” (24)

Broker comes back, too. He visits the house of Jemina, a woman with whom he left Crossroads for Mombasa, and found she is dead of Aids and her grandmother remains with many orphans. He is also surprised to find the devastation:

Broker left Jemina’s grave a thoroughly troubled man. The boy took his hands as they walked back to the huts and the other children. Two of the huts were now open. Broker pushed a door to look into a dark and dank room, smelling of urine and poverty. Rats scrambled from the floor and ran up the walls to their nests in the thatching. There was not a stick of furniture in the room. The entire floor was covered with sacks and sleeping mats. The second hut was in the same dismal condition; one vast sleeping place where rats ruled most of the day. A scrawny milk goat, with twisted horns, leaped out of the hut, startling Broker half to death, and bolted. (321)

Janet desperately tries to fight against Aids problems with the help of Frank and Broker, who thought themselves to be HIV-positive. Janet has to make a fierce battle with the villagers’ taboos and tradition:

Taboos and tradition had to go, they had to be eliminated, to make way for meaningful progress. Old believes and assumptions were the biggest handicaps in the battle of Aids, because they had many wives, and so-called safe partners, and did not manga-manga, or consort with prostitutes. But their safe partners too had their own safe partners, who also had safe partners; in an endless long chain of safe partners that was a recipe for a terrible catastrophe. (336)

At home Janet is assailed by a fixed idea of her Grandmother day after day:

“Talk about yourself,” Grandmother said. “You don’t even have a man of your own. What are you doing about it?”

Janet heard these words nearly every day of her life. The words hurt, and made her want to scream with fury, but she knew she would hear them till she married again or Grandmother died. (40)

“You must get married,” she said to Janet. “I worry about you and the children.”

“Marry again?” Janet asked her.

“Broker was a mistake,” she observed. “You have a right to marry again, another man. A proper man, someone who can look after you and your children. A real man.”

“A real man?” Jane scoffed at her. “In Crossroads?"

Janet saw where they were now headed with the conversation; down the old labyrinths and tedious dead ends that they had visited too many times already.

Janet laughed, wearily and without mirth, and reminded her there were not enough men in Crossroads who could take care of themselves, never mind their women and children. (42)

Janet visits schools to give sex education for children, a church to advise their congregation to use condoms, a witch-doctor to stop circumcise village boys, but meets a strong opposition. The witch-doctor, in revenge, smashes Frank’s animal clinic to pieces because he helped Janet.

The most difficult problem Janet has to face is the marriage of her sister’s husband, Kata, the witch-doctor. Following tradition, he will inherit the wife of his dead brother who has just died of Aids. Janet tries to persuade her to change Kata:

“You know I can’t stop Kata from doing anything,” Julia said to Janet. “You know how he is a traditional man.”

“Don’t you understand anything at all?” Janet was on the point of despair. “If Kata takes Solomon’s wife, he will die. Then Julia too will die.”

“Do you now know when people will die?” Grandmother was appalled.

“Do you think you know everything?” Julia said, defiantly. “I’m tired of your telling me what to do.”

“I worry for you,” Janet said to her.

“Don’t worry for me,” she rose in a huff. “You are no my mother.”

“I’m your sister,” Janet told her. “I must worry about you.”

“Monika is more of a sister to me,” Julia retorted. “We depend on our men. We are not prostitutes.” (57-58)

In spite of her efforts Kata marries his brother’s wife, but he reluctantly admits to use condoms with Janet’s sister influenced by the graphic book on Aids which Janet advised her sister to read. One day a team of inspectors from Oslo comes to see Janet. She shows them around to the schools, the church, the deserted houses with orphans, her house, and the condom shop Broker started.

It is an ironic ending the team decides to help Janet and the village, even though most of the villagers are still against the change of taboos and tradition.

The HIV test is given to all the villagers. Frank finds himself HIV-negative, and Broker makes sure of his infection. Soon after, Broker passes away.

イライザ法検査器具

4.Human Sorrow

Now that the cause of the disease is clear, it seems possible to prevent the virus invasion. The two stories, however, show how difficult it is to control STDs and even more human desire. We feel even human sorrow.10

In Kenya, like in other African countries, the basis of the exploiting system is peasants and workers. When Europeans began to colonize African countries, they robbed Africans of their land and posed them various taxes, so Africans were forced to become landless peasants and workers. In Kenya some were forced to pick up tea as wage workers in white man’s farms and others to serve as domestic workers for white families.

ケニア地図

Under the colonial system companies and plantations needed foremen who served as mediators and could speak English, the language of the employers, which led to the development of a new type of administrative African middle class. They were given the privilege of going to school and learned much of European culture. They began to read criticism against colonialism. Some of them reacted against the cultural oppression in the colonies. Some of them were against social discrimination as a group, but they were tempted to imitate the Europeans’ privileged way of life. They led the fight toward independence.

Independence, however, gave nothing to peasants and workers, for the upper petty- bourgeoisie class and the petty-bourgeois tried to make an alliance with industrialized countries. We cannot deny that fact Japan is among them, the important trading partner. Some of our prosperities are based on the profits of investments and trades.

Now Aids has been added to the burden of ordinary African masses. The solution of the Aids problems is alternative: Africans like Janet will change the ‘taboos and tradition’ from inside or the side of the robber like Japan and the U.S.A. will concede even an inch in investments and trades.

Both are necessary.

HIV

Notes

1 Smith, Alex Duval. (September 12, 1999) Africa: the continent left to die. The Independent included in The Daily Yomiuri.

2 The Homepage of the Ministry of Foreign Affairs of Japan:

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda99/ge/g5-12.htm

3 According to the questionnaires I made to the freshmen in April, 2004, just one student among 236 knew the existence of African literature. (The Faculty of Medicine -134, The Faculty of Engineering – 46, The Faculty of Agriculture – 56) In April, 2009. there are only 3 among 140 (1 nursing student and 3 medical students in the Faculty of Medicine.) Every year the situation is almost the same.

4 Geteria, Wamugunda. (1992) Nice People. Nairobi: African Artefacts. I happened borrow this book from my Kenyan friend. I was told he had got it in some overseas conference. I wrote to the publisher for some inquiries, but there was no reply. I’m afraid the publisher exists no longer. Now we can get a version by East African Educational Publishers and Michigan State University Press.

5 Mwangi, Major. (2000) The Last Plague. Nairobi: East African Educational Publishers.

6 Altman, Lawrenc A. (July 6, 1998) World AIDS Conference Ends Pessimistically, With No Cure in Sight. The International Herald Tribune included in The Japan Times.

7 Lichfield, John. (November 30, 1997) Lethal epidemic is much larger than feared. The Independent included in The Daily Yomiuri.

8 Nice People. 140. All subsequent page references to this work will appear in parentheses in this paper.

9 The Last Plague. 80. All subsequent page references to this work will appear in parentheses in this paper.

10 This work has been supported by JSPS. KAKENHI Grand-in-Aid-for Scientific Research (A) (15520230 – H.15~H.18) under the title: “Human Sorrow Seen between Medicine and Literature – AIDS Issues African Literature in English Depicts”

執筆年

2009年

収録・公開

Research and Practice in ESP (No. 10), pp. 12-20

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Human Sorrow – AIDS Stories Depict An African Crisis

2000~09年の執筆物

概要

『ナイス・ピープル』を医学的な面からではなく、文学の面から分析したものです。医学的な資料は多いのですが、人間の心の襞を写す文学作品はそう多くありません。いち早くエイズ患者が出始めたケニアの状況のなかで、右往左往する医師と患者の揺れる心の襞に焦点を当てました。

本文(写真作業中)

アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』              玉田吉行

アフリカ文学

ケニアの小説『ナイス・ピープル』を感心しながら読みました。メジャー・ムアンギの『最後の疫病』(二〇〇〇年)を読んだ時、エイズの問題が作家に咀嚼されてようやく小説になったかと思ったのですが、『ナイス・ピープル』は一九九二年に出版されていました。

欧米志向の強い日本では、アフリカに文学があることすら知られていないのが実状ですが、最初のエイズ患者が出た直後の社会状況と未知の感染症に振り回されるケニアの人々の心の襞を見事に描いています。

著者について詳しくは判りませんが、オーストラリアに留学中に目にした次の新聞記事がこの本を書く動機になったようです。

「著者の覚え書き

『ナイス・ピープル』でどうしても書いておきたかった一つに一九八七年六月一日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」の切り抜きがあります。三年のち、ここでその記事を再現してみましょう。

ハーデン・ブレイン著「アフリカのエイズ 未曾有の大惨事となった危機」

(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の四分の一がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。

この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。

病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。

世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では、研究者が驚くべき割合と記述するような率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。

第三世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ティンカー氏は、「死という意味で言えば、アフリカのエイズ流行病は二年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。

しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」(『ナイス・ピープル』、Ⅶ~Ⅷペイジ)

医学部で英語の授業を担当し始めてから十八年目になります。最近は、授業に使えないかな、科学研究費が取れるかな、という不純な動機で本を読むことが多くなりました。その点では、この本はうってつけだった訳です。特に三つの点に牽かれました。

一つ目は、エイズ患者が出始めたころの混乱した社会状況が描かれている貴重な歴史記録だという点です。

二つ目は、医者を含めた少数の金持ちに焦点が当てられ、新植民地時代の構図が分かり易く描かれている点です。

三つ目は、主人公の医者の目を通して小説が描かれている点です。大学卒業後すぐに私設の診療所で稼ぎながら国立病院で研修を受ける鷹揚な医療制度、未知のエイズ患者を隔離している特別病棟、売春が社会の必要悪で治療こそが最優先と結論づける卒業論文とその審査過程、売春婦などが通ってくる診療所での日々の診察風景、金持ちの末期エイズ患者に快楽を提供して稼ごうと目論むホスピス、雑誌の症例から判断して担当の患者をエイズと診断したことなど、これなら医学部の授業にも、科研用にも使える、と考えた訳です。作品を紹介しましょう。

「一九八四―謎の疾病」

主人公ジョセフ・ムングチが、ナイジェリアのイバダン大学の医学部を一九七四に卒業したあと、直ちにケニア中央病院で働き始めたという設定です。卒業論文のテーマに性感染症を選んだこともあって、先輩医師ギチンガの指導を受けながら、ギチンガ個人が経営する診療所で稼ぎながら勤務医を続けます。ギチンガは国立病院では扱えないような不法な堕胎手術などで稼ぎを得ていたようで、やがては告発されて刑務所に送られてしまいます。十年後、ギチンガから譲り受けた診療所で、ムングチは念願の売春婦などを相手にひとりで診療を継続します。

一九八四年、ムングチの元に、年老いたコンボと名乗る中国人がやってきます。「やあ、先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。二万シリング持ってきた。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか」と言って、大金を残して去って行きます。法外な大金に戸惑いを見せますが、格安の料金で社会の底辺層を相手に性病の治療を続けるムングチには、断る理由もなく、謎の病気の正体を突き止めることになりました。最初は性病性リンパ肉芽腫かと思いますが、どうも違うようで、ケニア中央研究所の図書館に入り浸った二日目に、同年十二月にアメリカで発行された以下の症例報告を見つけます。

あらゆる抗生物質に耐性を持つ重い皮膚病の症状を呈し、生殖器に疱疹が散見される。下痢、咳を伴い、大抵のリンパ節が腫れる。極く普通にみられる病気と闘う抵抗力が体にはないので、患者は痩せ衰えて死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと似ているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性同性愛者が数人、その病気にかかっている。(『ナイス・ピープル』、百四十ペイジ)

老人の症状から判断して診断に確信を持たざるを得なかったのですが、元同僚の意見を求めます。ケニア中央病院の二人の医師は、未知のウィルスによって感染する新しい性感染症の診断に間違いはなく、既に同病院でも米国人二人、フィンランド人一人、ザイール人二人が同じ症状で死亡しており、三人のケニア人の末期患者が隔離病棟にいる、と教えてくれます。早速、隔離病棟に出向いたムングチは、改めて死にかけている老人の症状を目の当たりにします。

「私は調べた結果と比較して患者を見てみたかった。目的を説明すると、看護婦は三人が眠っているガラス張りの部屋に連れて行ってくれた。私達を怪訝そうに見つめる救いようのない三人を見つめながら、言いようのない侘びしさを感じた。その時、その老人が目に入った。私の患者、コンボ氏に違いなかった。口から泡を吹き、背を屈め、酷く苦しそうに繰り返し咳き込んでいた。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていた。老人には私が誰かは判らなかったが、隔離病棟の柵を離れながら、後ろめたいほろ苦さを感じた。」(『ナイス・ピープル』、百四十一)

患者コンボ氏は、実は以前ムングチの診療所を訪ねてきたルオ人女性の鼻を折った張本人で、ナイロビ市の清掃業を一手に引き受ける大金持ちでした。ルオ人の女性は清掃会社の就職面接でコンボ氏から裸になって歩き回るように命令されて抵抗した為に暴力をふるわれました。噂では、肛門性交嗜好家の異常な行動の犠牲者が他に何人もいたようです。ムングチは、コンボ氏の死に際の哀れな姿を思い浮かべながら、神が犠牲者たちに代わって蛮行への鉄槌を下されたに違いないと結論づけます。

元同僚のギチンガ医師は、「スリム病」と呼ばれるこの病気については既に知っており、唯一薬を提供出来るだろうと地方の療法師・呪術師を紹介してくれますが、実際の役には立ちませんでした。こうして、ムングチのエイズとの闘いが始まります。

「ナイス・ピープル」

コンボ氏と同じように、ムングチも金持ちの階級に属しており、「ナイス・ピープル」とはそんな金持ち専用の次のような高級クラブに出入りする人たちのことです。

「ムングチも、今では、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員だった。クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート五面、スカッシュコート三面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。(『ナイス・ピープル』、百四十六ペイジ)

開発や援助の名の下に、西洋資本と手を携える現代のアフリカ社会は、一握りの金持ちと大多数の貧乏人で構成されています。資本を貯め込める中産階級が極端に少なく、その階級の大半は外国人で埋められています。病気の治療を担う側の医者や官僚などの専門職の人たちも多数、HIVに感染しており、その感染率の高さを作者は問題にしています。幼馴染みンデュクの愛人ブラウンもギチンガ医師の娘ムンビの愛人ブラックマンも、ムングチが高級クラブで出会った「ナイス・ピープル」です。

南アフリカからの入植者を祖父に持つブラウンは、高級住宅街に住む三十四歳の青年で、勤務する大手の銀行で秘書をしているンデュクと愛人関係にあり、ジャガーを乗り回し、一流のゴルフ場でゴルフを楽しんでいます。エイズを発症し、英国で治療を受けるために帰国しようとしますが、航空会社から搭乗を拒否されて失意のなかで死んでゆきます。

ブラックマンはモンバサの売春宿でムンビと出会い、常連客の一人となったフィンランド人の船長で、結果的には、二人の間に出来た子供を連れてヘルシンキまで押しかけてきたムンビを引き取ることになります。

高級住宅街に住むマインバ夫妻も「ナイス・ピープル」です。妻のユーニスは、ある日、額から夥しい血を流しながら病院に担ぎ込まれます。その傷が夫の暴力によるもので、のちに、夫とメイドとの浮気の現場を見て以来、精神的に不安定な症状が続いていることが判り、精神科の治療を受けるようになります。数ヶ月後、コンボ氏と同じように肛門性交を好む夫が、かかりつけの医者からHIV感染の疑いがあるので血液検査を薦められていると、ムングチに訴えにやって来ます。

性感染症専門医と性

ムングチの診療と日常生活が、性感染症の恐ろしさと感染対策の難しさに加えて、複数婚が続くケニア社会と今の日本社会との、性や売春行為に対する社会通念の違いを教えてくれます。

ムングチは、メアリとユーニスとムンビと、同時に関係を持ちます。幼馴染みのメアリとは高級クラブで再会し、ブラウンの愛人であることを承知で関係を持ち、一時は同居しています。アパートで鉢合わせになったブラウンと大げんかをして別れますが、ブラウンは後にエイズを発症して死んでいます。ユーニスはムングチが担当した患者です。性的な関係を持つようになり、中年マダムのお供をして週末毎に豪華な小旅行に出かけた時期もありますが、夫がHIV感染の可能性が高いと相談され、恐ろしくなって別れます。ムンビとは父親を訪ねて来たときに私設の診療所で出会ったのですが、モンバサで娼婦をしているのを承知で恋人関係になります。一時期同棲をして、子供を身ごもったことを告げられて結婚を決意しますが、生まれてきた子供はムングチの子供ではなく、売春宿の常連客ブラックマンの子供でした。ムンビは逃げるようにヘルシンキへ渡りますが、エイズを発症して死んでしまいます。

おわりに

ムングチは、のちにエイズで死ぬ愛人を持つメアリと、HIVに感染したと思われる夫を持つユーニスと、異国の地でエイズを発症して死ぬムンビの三人と同時に性的な関係を持っていた訳です。売春行為を社会の必要悪と捉え、性感染症については治療を優先すべきで、社会の底辺層には国が無料で治療活動を行なう義務があるという趣旨の卒業論文を書きました。私設の診療所では、最低限の料金でその人たちの性感染症の治療に専念します。性感染症の怖さを充分に承知していたわけで、ムングチを始めとする「ナイス・ピープル」の性や売春に対する考え方を思い合わせれば、この小説の冒頭に載せられた「アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないか」という記事が、信憑性を帯びて迫って来ます。

南アフリカからの入植者によって侵略されたケニア社会は、かつての自給自足の豊かな農村社会ではありません。複数婚も乳児死亡率の高い中で子孫を確保したり、農作業や老人・子供の世話を分担する労働力を確保する、などの必要性から生み出された制度でしょうし、西洋社会が批判する割礼にしても共同体全体で次世代を育てるための教育の一環として生まれたものです。しかし、土地を奪われ、課税される農民と都市部で働かされる賃金労働者には、旧来の制度を踏襲し発展させる力はありません。割礼や複数婚の制度が残っていても、かつての共同体を基盤にして機能していた制度とは全くの別物なのです。大多数の農民や労働者は食うや食わずの生活を強いられ、国全体も、西洋資本と手を組む一握りの貴族やその取り巻きの豊かさと引き替えに、背負い切れない程の累積債務に喘いでいます。そこにHIVが猛威をふるい始めた訳です。二〇〇四年のCIAの推計では、ケニア全体の平均寿命は約四十五歳にまで落ち込んでいます。

ケニアをはじめとするアフリカ諸国の危機的なエイズ事情と、ケニアに援助して協力していると考える大半の日本人の意識との格差は、大き過ぎます。

第二次世界大戦後、欧米や日本は世界銀行や国連などを設立して、開発や援助の名の下に資本を提供して利子をとる新植民地方式に戦略を変えています。ケニアへのODAの予算の大半は日本の大手の建設会社が請け負い、日本の大手金融機関、造船会社、運輸会社、商社などを経て日本に還元する仕組みになっています。ケニアも重債務国ですが、ケニア政府は債務の帳消しには反対です。債務が帳消しになると一握りの貴族が困るからです。

日本政府は一九九三年から東京でアフリカ開発会議を東京で始めました。このエイズの深刻な事情が進めば、外交政策に支障をきたすのが予測出来るからでしょう。資本を提供する相手から利子を取ろうにも、エイズによって死者が増加すれば絞り取る相手の人口自体が減ってしまうのですから。

『ナイス・ピープル』を読んで、そんなことを考えました。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2005年

収録・公開

mon-monde 創刊号 25~31ペイジ

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アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』(準備中)