2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の4回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

  1. 『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(4)第5章 ベネディクト神父

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第5章 ベネディクト神父

タラ高校の最後の1年間、私は監督生でした。ガイ・ベネディクト神父(地元では、ヴェンティギト・ムベアと呼ばれていました)は、非常に信望の厚い校長でした。毎週日曜日に私たちを率いて説教をし、学生の告解に耳を傾けました。学生だけでなく、周辺地域の住民の告解も受け入れ、これは週に2回、土曜日と火曜日の5時から6時の夕暮れ時に行われました。並外れた体力で精力的に仕事をする校長を、私は尊敬していました。校長の化学の授業が大好きだったので、私は幾分好意を持たれていることを知っていたのです。私は校長に自由に近づくことの出来る、唯一の学生でした。必要なら、家だろうがでも校長室だろうがでも出かけて行きました。教会の付属室に行くこともありました。その特権と引き換えに校長が望む学校の情報をすべて校長に伝えました。ずっと後になって、ベネディクト神父は学校運営のために私との繋がりが必要だったのだと知りました。

ケニア地図

例えば、「今日の食事はどうだったかね?」と聞かれると、私は「おいしかったです」と正直に答えました。
「説教はどうだったかね?」
「素晴らしかったです。」と、時には感情を害さないように、と私は嘘もつきました。

ある日、「物理はどうだい?」と尋ねるので、如何にトム・ソーンダースが月型のカプセルを使ってボイルの法則をうまく説明出来なくて、多くの学生が理解出来なかったかを、私はこと細かに説明しました。校長は、アメリカ平和部隊の志願兵だったそのソーンダースがどう対処したか、また、「英語」が聞きとりにくいと言われて悲しそうな顔をした話などに、大いに興味を示したようでした。学生の中には、アメリカ人が発音するように、「ワーラー」は水(ウォーター)、「モラカー」は自動車(モーターカー)、という区別が出来ない学生もいました。この話にガイ神父はたまりかねて大笑いしていました。

ナイロビ市街

ある日、なぜそういう話になったのかは覚えていませんが、どうも私は、カンバ人の住む土地では未婚の成人男性は一人前として見られない、という事を言ったようです。半人前、あるいは性的に不能か女たらしで、いずれにしてもその人たちにとっては縁起の悪いことです、と。翌日のミサのとき、校長は説教の半分をカンバ語で行ないました。

「あなたがたの中には、この私がなぜ結婚していないのか、不思議に思っている人もいることでしょう。私は唯一人の女性と結ばれているのではなく、すべての女性と結ばれているのです。ここに集まりの奥方は、誰に属しているでしょうか?」と、校長は問いかけました。

「神父さまです!」と、集まった人々は一斉に叫んで答えました。
「私たち神の僕は、昔、一人の人間に執着しないように命じられました。私どもはすべての人々に属しているのです。ですから神の言葉を広めることが出来るように、法王をはじめ私ども全員が独り身を貫いているのです。」

それから数日経ってガイ神父の仕事部屋に行った時に、私は喉元を締め付けられるような経験しました。教会のドアは開いていましたが、付属室には鍵がかかっていました。普通は、中に神父さまがいらっしゃる時は、入り口のドアも付属室のドアも鍵は掛かっていなかったので、私はそのまま入って行っていけばよかったのです。しかし今回は、ノックせざるを得ませんでした。何度かノックをするとドアが開き、髪を乱して蒼ざめた顔をした神父が現われました。部屋の中にはソーンダース先生の夫人がソファに座っているのが見えました。

「さあ、入ってソーンダースさんにご挨拶して。ケネディ死亡のニュースに気を失ないかけいらっしゃったんだよ。」と、ガイ神父は感情の無い声で言いました。

アメリカの若い大統領の弟のロバート・ケネディが少し前に銃殺されたことは知っていました。しかし、遠く離れたこのケニアで、その政治家がどれほど人気があったかか疑問でした。神父の話が本当なら、よほどソーンダースさんはケネディの影響を受けていたのでしょう。ソーンダースさんはぼんやりしていました。その時はそう思いました。私は若く、本当にそう感じたのです。そのとき私の年齢がもう少し高ければ、もっとものが見えていたとは思いますが。

ロバート・ケネディ

一週間のちに、イタリア人のガイ神父はタラを離れました。ロバート・ケネディの葬儀に参列しに行ったのだろうと私たちは思っていましたが、神父は二度と戻りませんでした。ソーンダース夫人が同じ頃に町を出て行ったことには気付きませんでした。妻の失踪の真相が分かり始めた頃にトム・ソーンダースが自殺をはかったと後で聞きました。カンバ人が同じような状況で妻を寝取られていたら、きっと戦争への道を辿っていたでしょう。

HIV

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執筆年

2009年4月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 8

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『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(4)第5章 ベネディクト神父

2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の3回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』一エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語一

(3)第4章 アイリーン・カマンジャ

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第4章 アイリーン・カマンジャ

週5日夜勤をすれば、私がンデル診療所で同じ時間だけ働く時間が持てる、とキチンガ医師は決めていました。ンデルにいれば1日100シリング稼げますから、見事な時間の割り振りのように思えました。ギチンガ医師によれば、病院側は私に2000シリング払うものの、税金と食費を差し引くため、1日当り50シリングしか残らない、ということです。しかし、診療所の100シリングは非課税で済むし、ケニア中央病院で働くよりも倍は稼げると言うのです。全く同感でした。それに、研修医を見下すようなことをしないンデルでの生活には心が高鳴りました。実際、ケニア中央病院を出てンデルに向かう時はいつも、地獄を逃れて天使と一緒に別天地に向かうような気分で心臓が波打ったものです。

****************************************

ある日の夜8時頃、診療所のドアにノックの音がしました。行ってドアを開けてみると、そこには看護師のアイリーンが立っていました。
「やあ、アイリーン看護師。」と、名前を呼びながら、なぜ青い制服を着ていないのだろうと不思議に思いました。
「入ってもいいですか?」と、即座にそう言うとアイリーンは足を踏み入れてドアを閉めると、部屋に一つしかない椅子に座りました。私は横目にアイリーンを見ました。
「ジョゼフって呼んでもいいですか?それとも、いつも『何とか先生』って呼ばないといけませんか?私のことは、アイリーンって呼んで下さいね。」
何か信じられない気もしましたが、私は笑い出しそうになりました。しかし、どんなことを考えているにしても余りにも落ち着かない様子でしたので、私は好奇心から笑うのをやめました。
「ムングチでいいよ。」と、私は教務課にユダヤ名の「ジョゼフ」という目立った名前をはずしておいてくれるように頼んだことを、こっそり漏らしました。
「先生を医者として聞いてもいいですか?」と、アイリーンが話し始めましたが、その断固とした態度に私は落ち着かなくなっていました。
「もちろんだよ。」
「私、美人かしら?」
「もちろん、美人だよ。でも、どうして?」と、私はこの看護婦の目的が何なのかを考えながら、思わず聞いていました。
「じゃ、なぜ苦しいのかしら?」
「苦しい?」
「なぜ私は部屋でも一人で座り、通りも一人で歩き、食事も一人で食べるのかしら。唯一の喜びと言えば、この病院にいて、ギルバートをお風呂に入れる時だけなの。」
衝撃的な告白でしたが、私には何がなんだか分かりませんでした。ギルバートを入浴させるのは、第20病棟では一番嫌な仕事であるはずなのに、このアイリーンは、それを一番働き甲斐があると言っているのです。
「ギルバートが感謝してくれてるかどうかは分からないけど、私は喜びを感じながら洗ってます。私を必要とする唯一の人に思えるから。それなのにギルバートは、軽蔑したようにゾンビのよう目で私を見るわ。それに先生は、せんせ・・・・」と、左手の指で鋭く私を指差しながら、両目から涙を浴れさせてアイリーンはすすり泣きを始めました。
「どうしたの、アイリーン?」と、私は尋ねました。私は特に女の人といる時にはかなり人見知りする方なんですが、ここは医者として何とか気持ちを落ち着けて勇気を振り絞り、医者の仮面を被りました。
「もう二度とピルを飲まないことにしたわ。」と、アイリーンは不躾(ぶしつけ)に言いました。
「そう、他にもたくさん選択肢もあるし・・・・」と言って、私の体はこわばりました。
「どんな手段でも避妊はしないと決めたの。」
「ローマ法王が言っただろう。自然の摂理が・・・・」
「自然の摂理に関わることも、もうないわ。」
「それじゃ、赤ん坊をたくさん、という話になるね。」と、私は言いました。
すると、アイリーンはまた突然すすり泣きを始めたのです。私は、何に苦しんでいるのか理解できないまま、ともかく慰めるというおかしな立場に立たされました。「赤ん坊をたくさん」という表現がそんなに気に障ったとも思えませんので、私のどこが悪かったのかをアイリーンから教えてもらえるまで待つしかありませんでした。
苦痛の原因は、私がどんなに想像力を働かせても無理なほど痛ましい話でした。まず、アイリーンは母親からひどく嫌われていたのです。また、胸が貧弱なために女らしくない、と最初の恋人に思いこまされて、男に縁が無いのを自分の胸のせいにしていたのです。自分の部屋に一人座っていればいつの日か求婚者が現われるはず、と夢見ていましたが、来訪者はありませんでした。数少ない女友達と連れ立って遊びに行っても、皆、熱心な男に言い寄られてうまく収まるのですが、自分だけはやっぱり一人ぼっちだったのです。
「私、どうすればいいの?」と、アイリーンは私に訴えました。
翌日アイリーンは、男性を捕まえるわと固く決心して街に出かけて行きました。独身の美男美女の集いにはもってこいの場所、ハライアンという新しいナイトクラブが開店したと聞いていたのです。アイリーン本人は、酒も飲まず、煙草も吸わず、「評判の悪い店」に出入りすることもない、品の良い女性になりたいと思っていたのです。これまでにも、ナイトスポットには数えるほどしか行ったことがありません。「1900」に行ったときには、大学時代の恋人ジョン・キマルと一緒でした。「フロリダ」に行ったときは、同僚の男性看護師と一緒でした。体の関係を迫ってきたので、そのうちアイリーンはその看護師に嫌悪感を覚えたのです。最後に行ったのは「スターライト」でしたが、店中に煙草の煙が充満して窒息しそうでした。不安を胸に、アイリーンはハライアンの玄関ホールで列に並び、席料の10シリングを払ってクラブの中に入りました。見たところ、空席はありませんでしたので、カウンターの腰掛に座ることにしましたが、座り心地はよくありませんでした。コーラを注文し、居ずまいを正している時、ふと、ビールの方が相応しかったと気がっいたので、半年近くも飲んでいなかったピルスナービールを注文しました。

ピルスナー

薄暗く青い照明の下、アイリーンは自分の周囲にいる人間の群れを観察し始めました。店の隅にはぼさぼさの髪で、色槌せたジーンズに皮のジャケットを着た男が座?ています。男は黙ったまま、ぼんやりと侘しそうにタスカービールを飲んでいます。この世のことはどうでもいいというような様子で、鼻の穴から煙草の煙を噴き出していました。
男の隣では、1組の男女が何やら激しく言い争いをしていました。男の方は歳上で、おそらく45歳くらいでしょう。しかし相手の少女はアイリーンより若く、恐らく19歳くらいでしょう。少女は(2年ほど前にすでに廃れたというのに)ミニスカートを穿いており、バルマーサイダーを飲んでいました。中年男は、薄茶色の液体をすごい勢いで飲んでいました。ウィスキーかブランデーが入っているに違いないわ、とアイリーンは思いました。男はツイードの上着を着て、当時人々が「オピニオン」と呼んでいたビール腹をしていました。大きくて高そうな指輪を何個も指にはめています。ナイロビの金持ち層に属しているのでしょう。「自らの若さを保つために」10代の娘と連れだって、シゴナやムサイガといった場所にゴルフをしに行く人間です。この娘もその「パトロン」の男性もお互いに充分にその時間を楽しんでいるようでした。
突然、アイリーンはカウンターにいる客の方を向きました。一人の男が、酔った勢いで釣り銭をめぐって店員と大騒ぎしていました。

タスカービール

「汚ねえ豚野郎、いちいち細け一んだよ。小銭まで巻き上げやがって。」
「あんたも豚野郎だよ。」
「いいか、教えてやろう。お前なんか生きる価値もねえバーテンだよ。」と、男は罵るバーテンの首もとを掴み、今にも締め殺しそうな勢いでした。
「お願い、やめて!私が払うわ。」と、アイリーンは叫びました。
「誰があんたに金をくれと頼んだんだよ、この売女。」と、酔っ払いは視線をバーテンからアイリーンに向けると、脅すように鋭い声で言いました。手はまだバーテンを掴んだままでした。
「あんた、売女って言ったわね。私は看護師よ!」とアイリーンが叫んだ時、店内の視線が全て自分に注がれているのを感じました。身を明かすべきじゃなかったわ、と思うと、アイリーンは後悔の念に打ちのめされました。ハライアンで独り、ビールを飲んでいる看護師。即座に立ち上がり、口を付けていないピルスナーをそのまま残して、アイリーンは逃げるようにハライリアンから出て行きました。
少し肌寒い夜でした。あても無くリバー大通りにのびるトム・ムボヤ通りをアイリーンは歩きました。ラテマ通りを横切ったところでルツーリ通りに入り、小汚い店にでも入っていこうとしたその時でした。アンバサダーホテル脇の「アーチ」のことを思い出したのです。狭くてせわしい雰囲気ですが素敵な恋の待合所となっている店です。ハライアンが看護師を歓迎しないのなら、アーチは間違いなく歓迎するはずよ、そこが私の楽園だわ、とアイリーンはふと思いました。
「私なんて結局、売春婦になる方がいいのかもね。」と考えながら、アイリーンは大声で言いました。その瞬間、まるで神様が願いを聞き届けて下さったかのように、品の良い男性が自分のテーブルの方に近づいて来るのがアイリーンの目の片隅に映りました。
「ご一緒してもよろしいですか?」と、その男性は大胆にも聞いてきました。
「もちろんよ!」不自然なくらい熱っぽく答えると、アイリーンは男性を見つめて言いました。
「何を差し上げます?」
今日2度目の失言に気づき、アイリーンはその場に崩れ落ちそうになりました。ナイロビの女性は見知らぬ人間にビールを勧めたりはしないのです。逆の場合は尚更のことでした。
「何ですって?」と、銀行の重役は聞き返しました。
「何かお飲みになるかと思ったの。」と言って気持ちを落ち着かせながらも、どう進めていけばいいのかアイリーンには全く分かりませんでした。しかし、もの事は上手く運びました。その男性は向かい側に腰を下ろすと、自分にはタスカーを、アイリーンにはピルスナーを注文しました。2人はすぐに、どっちが支払いをするかで、お互い気楽に言い合いしました。アイリーンは男性の分を払うと言い張り、男性もまた、アイリーンのビール代を払うと言い張りました。男性はレオナルドといい、インド銀行の出納課長であるのが話の中から分かりました。
「早い話、汚らしいそのホテルに予約を済ませたら、あいつこの『看護師アイリーン』の上に乗って事を始めたってわけ。それが先生の目の前にいる私。まるで獣だったわ。もっと金は払えるぞって、何度も何度も言うのよ。」と、アイリーンは声を荒げて180センチもある、ボクサーか棒高跳び選手としても十分通用しそうなその男とは、通りの向かいのルアシアホテルで別れた、言いました。
「ムングチ先生、男の人ってどんな土で出来ているのかしら?体を捧げた理想の男性が、私のことを商品と思っていたなんて、私とっても傷ついてるの。私、私・・・・。」アイリーンは泣き崩れ、気がつくと私は、レオナルドに非常に怒りを感じていました。
アイリーンの首を診てみると表皮裂傷を起こしているのが分かりましたので、ヨウ素で処置をしました。傷の治りは早いだろうと思いましたが、アイリーンが病院を出て行ったときは、まだ幾分興奮状態が残っていましたので、精神的な回復には時間がかかるかも知れないと思いました。

ナイロビ市街

***************************************

アイリーンは25歳で、ケニア人女性としては背が高く174センチもありました。目の覚めるような美人ではありませんし、特に、顔は普通よりも長めに見えました。しかし、びっくりするほど形の良いお尻をしていましたし、脚も形よく均整が取れていました。腰は、アイリーンが好きな高さよりも、少しだけ高めの位置からくびれていました。かつて初めての恋人に言われて、本人も欠点の一つと思っている胸は貧弱でした。社交面ではアイリーンは数えるほどの友人がいるだけで、孤独でした。それがどうしてなのかアイリーン自身にも良く分かっていませんでした。
第20病棟で顔を会わせるうちに、アイリーンのことをもっと知るようになりました。子供時代のことや学校のこと、5年間勤めているケニア中央病院のこと。この病院には、3年間の正看護師課程を修了したあとすぐに就職しました。最後の1年間は、手術実践看護を専攻して上級看護実践を修了しました。
なぜ自分に引っ込み思案な面が育ったのか、理由ははっきりしませんでしたが、少し厳しく育てられ過ぎたのは分かっていました。母親はアイリーンを憎らしく思っていたようなのです。例えば、アイリーンが何か悪さをすると必ず鞭で打ちました。ある日、教会に行くのに髪を整えていたら、媚びるような髪型だと言って許してくれなかったことを、アイリーンは今も覚えていました。
「アイリーン、髪型のことを何度いわせたら気が済むの?」と、母親は恐ろしい剣幕で言い始めました。
「母さん、わたし何か悪いことをしたの?」と、アイリーンが答えました。
その瞬間、母親は娘に飛び掛かり、首を引っ張って腰を折り曲げさせ、役立たずのふしだら女、と娘を罵りながら、情け容赦をせずにブラシをかけ直しました。
「母さん、痛いよう。」と、アイリーンは叫びました。すると今度は娘を拳で殴り始めました。その時帰宅してきた父親に、アイリーンはたまたま救われたのです。
いつもアイリーンの支えになってくれたのは父親でした。大人になって、娘に対するこの支えと愛情があったからこそ、私は父親を信頼できたんだけれど、母親の不満を買ってしまっているわ、とアイリーンは信じるようになっていました。それはまるで、父と娘が戦場で二人をひどく苦しめる敵と戦うように命じられているかのようでした。母親が二人にきつく当たれば当たるほど、父と娘の絆は深まっていったのです。
アイリーンが16歳の頃、家にボーイフレンドを連れてきたことがありました。ジェイムソン・オレンゴといい、母が大嫌いなルオ人だったのです。南B地区にある自宅で、アイリーンのお気に入りのジミー・クリフのレコードをかけて居間に二人で座っていたところを母親に見つかってしまいました。ナオミ(アイリーンの母親の名前ですが)は部屋に入りながら、憎しみと不満の表情を顕わにして2人を睨みつけました。
「ねえあんた、一日中じっと座って一体なにをやってんのよ?」と、母親が言い出しました。
「だって、今帰ってきたばかりよ。」と、アイリーンが口答えをしました。
「床も掃いてないし、芋の皮むきもやってないし、皿洗いもやってないね。」と、母親は何も聞こえなかった振りをして言いました。
アイリーンは、そのためにメイドがいるんだし、せめて、特に来客の時ぐらいは自分の時間があってもいいじゃないときっぱり言いました。
「あんた、どの客だって?」と、オパンデ長老の息子を客だと言ったアイリーンのその言葉に、母親は不快感を露わにして怒鳴りました。
オレンゴは、ナイロビ大学の法学科の1年生で、アイリーンは子供の頃から知っていました。2人はよく一緒に遊びましたが、その度に、ナイロビでは明らかにいい生活をしている家族がナオミには気に入りませんでした。オレンゴの父親オパンデ長老は、ナイロビでも評判の良いビジネスマンでした。市の評議員として昔からの酒類販売権発行の手助けをしたり、土地の割り振りをやったり、たくさんの家庭内や隣同士のもめ事を収めてきたりと、それなりのことはやって来たと誰もが信じていました。オパンデはオレンゴが高校生の頃からボルボに乗っていました。アフリカ人としては、初めてテレビを持った1人でもあったのです。(1960年代は、テレビと車の2つを持つことが金持ちであることの証明でした。)

ナイロビ大学

2人は、月日が経てばナオミが軟化して、新しい世代のギクユとルオは、無理やり憎しみあって生きる必要もないと気づいてくれると思っていたのです。しかし、この日のアイリーンの母親の表情を見て、オレンゴは自分がまだこの家に迎え入れられていないことを悟りました。そして、帰ろうと立ち上がりました。
「いいから座って!」と、母親に反感を買うのを承知で、アイリーンは怒りのあまりオレンゴにそう命令してしまいました。父さんがいて守ってくれたらいのに、と思いました。今父親は、30年勤めてきたスタンダード銀行に出かけています。
オレンゴは出て行きました。アイリーンはいつか母親に思い知らせてやろう、と心に誓いました。母親の秘密を少しばかり握っていると信じていたのです。同じやり方で、相応しい仕返しをしてやるつもりでした。この女が愛人を失なうのに、たとえ何年かかっても。オレンゴの一件以来、アイリーンは家に誰も連れて来なくなりました。そしてナオミは、娘のあら探しをしては、友人が少ないわねとアイリーンを皮肉るのです。
カマンジャは控えめな男性で、ナオミのように叫んだり喚いたりしませんでした。気性が荒くて騒しく、短気で決して譲らない性格の妻とは、大体において正反対でした。ナオミは4人の子どもを産みました。すでに大人の3人の息子と、カマンジャ最愛の娘、アイリーンです。今ではもう、妻に対して愛情があるかどうか分かりません。ナオミは東アフリカ航空で働き、夫より多くの稼ぎがありました。週の半分は販売促進の営業に出かけ、帰宅すると、やっておくように命じた家事が終わってない、と文句を言いました。終わっていても、殆んど誉めませんでした。最近カマンジャは、妻が酒を飲み始め、男が出来たのではないかと疑っていましたが、この突飛な考えに確証はありませんでした。ただ、自分に対する妻の愛情がだんだん薄れ、ほんの思いつきで言った意見にも非難めいた言い方をするようになったのは感じていました。
「まわりの子はみんな友達と仲良くやっているのに、お前は負け犬だよ。」と、母親は詰りました。アイリーンの生活は相変わらず友達のいない孤独なもので、18歳で高校を卒業したあとも男性を知らないままでした。

HIV

『ナイスピープル』(1)→「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(1)著者の覚え書き・序章・第1章」「モンド通信 No. 5」、2008年12月10日)

作品解説(1)→「『ナイスピープル』理解1:『ナイスピープル』とケニア」」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)

作品解説(3)→「『ナイスピープル』理解3:1981年―エイズ患者が出始めた頃1」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)

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執筆年

2009年3月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 6

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『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(3)第4章 アイリーン・カマンジャ

2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の2回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―
(2) 第2章 ケニア中央病院(KCH)・第3章 ンデル診療所

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第2章 ケニア中央病院(KCH)

私の父アレックス・ロレンゾは最も厳しい時代を生きながら15人の家族を養ってきました。僅かしかなかった全てを6人の息子と7人の娘のために犠牲にしました。その大部分は子どもの教育に使いました。私が白衣を着て胸から聴診器をぶら下げている姿を見ながら、父の顔は光輝き、誇りに満ちていました。父は自分の激動の人生が絶頂期に達したと感じていたのでしょう。

*************************

私たちは7月の肌寒いその日の朝、タラを出ました。相変わらず、乗り合いバスはぎゅうぎゅう詰めでしたが、これが最後の乗り合いバスになるんだと心に誓っていましたので、嫌な思いもしませんでした。父親は多くは口にしませんでしたが、今度はきっと私が自分の車かオートバイでタラに帰って来ると期待していたようです。

シルベスター・オルオッチ教授は、イバダン大学からの私の書類を読み終えるとにっこりして、「そうか、ダンボは、大学の副学長になったのか。」と言いました。

ナイジェリアイバダン大学

「はい。正確には去年からです。ダンボ教授をご存知なのですか?」と私は答えました。

「1965年にマケレレ大学で一緒に教壇に立っていたんだよ。ビアフラ戦争が勃発したんで、奴は国に帰ってしまったがね。」と教授が言いました。

マケレレ大学

父親は、私を学校へ連れて行った時に昔からそうだったように、私たちが喋っているのをじっと見ていました。私が28歳の大人になっても、まだ世話の焼ける少年のように思っているらしく、医者の象徴とも言える白衣を着るのを手伝ったりするのです。私の手を握り、ナイロビで何をしても、タラを忘れるんじゃないぞ、と諭すのです。

「忘れないよ、父さん。すぐにまた会うさ。」と、私が念を押すと、父は帰って行きました。

「さて若いの、これから何をやりたいのか考えたかね?」とオルオッチ教授が聞いてきました。

「いえ、先生。脳神経外科も行きたいんですが、当分は勤務医でいこうと思っています。」

「私たちの管轄の第20病棟に、脳神経外科の患者が一人いたな。そこで始めたらどうかね。指導医はワウェル・ギチンガ医師で、君はその人に就くことになる。C棟にあるがね。」と、教授はそう付け足すと、私を出口の方に促しました。私は、密かに自分に誓いを立てました。

「ジョゼフ・ムングチ、キロンゾの息子。医学と化学の学士さま、お前は、この国で1番の脳神経外科医になるんだ!」と自分の胸に黙って誓いを立て、私は「愛しのロリポップ」を鼻歌で歌いながら、第20病棟のあるC棟に向かって、一人元気よく歩き出しました。

ギチンガ医師は、192センチもありギクユ人にしては大柄で眼鏡をかけており、少し吃音混じりで話をしました。40代前半だと思いました。

「で、君が、わ、私の、け、研修医だね。イバダン大学で学んだのか?ま、まさか、あの忌まわしいヒポクラテスの誓いをやらされてなければいいんだがね。」と、ギチンガ医師は続けますが、私の方は神経がぴりぴりし始めてきました。

「もちろん、やらされましたよ、先生、ここではやらないんですか?」と、ギチンガ医師からさっき聞いた異説に完全に面喰らいながら私は言いました。

「前にね、君、絞首刑執行人の話を読んだことがある。首に縄をかける前に、死刑囚にこう言うんだ。『刑を執行しても、囚人を更生させることも、残忍な傾向を抑えることも出来ないが、自分の子どもの生活の糧のためには、絞首刑も必要なんだよ。」と。すると、死刑囚は決まってこう言うのさ。『何ぐずぐずやってやがる、早いとこ俺らを吊して、尻の穴にキスしな』、とね。」

「でも先生、ここは病院で、刑務所ではありませんよ。」

「違うね、きみぃ。ここはね、自分のことを医療関係者だと名乗る、全てのいかれた連中の監獄だよ。一度放り込まれると、善悪の判断、知能、理性は消えて無くなるのさ。ロボットやコンピュータが引き継ぐ方がいいと思うことさえあるよ。私の言ったことを、よく覚えておき給え。でないと、第20病棟に足を踏み入れた日を後悔しながら君は生きることになるぜ。」

私は、ギチンガ医師がなぜ早々に第20病棟のことを諭すのかが分からずに戸惑いましたが、すぐ後で私は知ることになるのです。

ギチンガ医師は、病棟を案内して、最初は診察室に、次に看護師の詰所に私を連れて行きました。詰所では、青い制服を着た愛らしい20歳の女性に会いました。

「アイリーン看護師だ。」

「おはよう。」と、私は言いました。

「おはようございます。先生。」

「いや、まだ医者じゃないよ。」と、ギチンガ医師に訂正されて、私は恥ずかしい思いがしました。こういう風に、経験豊かな自分と研修医をしっかりと区別したかったのでしょう。それから2人は、患者を診に行きました。

「こっちはンジョグだ。ンジョグは髄膜炎の患者だ。あれは麻痺が回復中のオパップだ、小児麻痺の後遺症で時々軽い発作は起きるがね。ここでは先週、患者が1人亡くなった。しかし、いつものやり方でやってたら、あの患者は死ぬことも出来なかっただろう。」と、空きベッドを指差しながら、ギチンガ医師が言いました。

「何のことですか、先生?」と、私はこの変わり者の医師に更に興味がわいて尋ねました。

「今にわかるさ。」と、ギチンガ医師はそう言うと、第20病棟の一番奥の、カーテンで仕切られたベッドの所に私を連れて行きました。

ギルバートは生命維持装置に紐でくくられていました。もう22ヶ月になりますが、KCHでは最も有名な患者でした。交通事故で、脳と心臓と肺以外は、すべてが麻痺してしまっていたのです。鼻から食事を与えられ、肺で呼吸をしていますが、固形物は食べられませんでした。命を支えているのは呼吸器官と点滴だけです。話は出来ませんが、きらりと光る両目だけが生き生きしていました。頭を120度ほど左右に動かして、目をきょろきょろ動かせますが、それが自分の意思で出来る唯一の動作です。他は動きませんでした。22ヶ月もの間、第20病棟のベッドに横になり、神の手に委ねる以外にそこから逃れる術はなかったのです。

「ユーサネイジアを君はどう思うかね?」と、ギチンガ医師が聞いてきました。

「ユーサネイジア?」

「そう、ユーサネイジア、安楽死のことだよ。」

「聞いたことがありません。」と、患者の聞こえる所でそんな話をする気にはなれませんでしたので、私は嘘をつきました。

「ダンボ教授は、医療倫理について話をしたことはないのかね?」と、ギチンガ医師が尋ねました。

「中絶、試験管ベイビーについては講義をして下さいましたが、殺人に関する講義は1度も無かったです。」と、私は嘘を重ねました。

「いいかね、ここにいるギルバートは死にたがっている。投薬をする時はいつも、怒りで発狂しそうに見える。感じているはずの切なさから自分を救ってくれと、ギルバートの目が訴えてくるんだ。しかし、敢えて誰もその懇願に応えようとしない。人間の命は奪わないと誓ってしまえば、こういったケースが非常に難しい決断になることもある。」と、ギチンガ医師が諦めたように言いました。

「しかし私たちは、痛みを長引かせないとも誓ったはずですよね?」

「そうさ。しかし、人間に何が出来る?」と、ギチンガ医師は力なく答えました。

オランダはこのような現実を受け容れていましたが、私たちが違う立場に立っていることもわかっていました。しかし、ケニア中央病院もいつか現実に目覚めてほしいと心から思いました。

これが、この病院の指導医が言うところの、我が入獄の第1章だったのです。規則を遵守するのを無視した方がいい場合もあります。希望もないのにギルバートにだけ使うので生命維持装置が足りなくなって、これまでに11人の別の患者がどういう風に亡くなったかを、私はギチンガ医師から聞かされました。看護師や研修医は皆、第20病棟での夜勤を恐れていました。ギルバートが死亡した際の担当医は誰であっても、医療行為を行なう資格を剥奪する、と病院長が言明していたからです。ギルバートは、ケニア中央病院に来る全ての医師の恐ろしいアキレス腱になっていました。プロの医療行為の資格を得ようとする人には、ギルバートは資格を取得できるかどうかの試金石でもありましたし、そのために、畏れと憎しみが入り混じった形でギルバートが受け止められていたのです。

ナイロビ市街

第3章 ンデル診療所

「泥棒や強盗や不誠実な人間ばかりだったら、君はどうやって自身の誠実さを持ち続けていくかね?」と、あるときギチンガ医師が私に尋ねたことがあります。

「わかりません。」と、私は正直に答えました。

「この病院では、私たちは医薬品に関して公正であるように求められているが、最高会計理事会は、医薬品の入手方法でずっと不正を働き続けてきている。」

「まさか!」

「あいつらは、俺たちのような医者には僅かしか払わないくせに、外国から来た医者には家を与え、ケニア人の医者の3倍もの給料を払ってるぞ。俺たちには使えない政府の車も使える。奴らには3ヶ月の休暇があるのに、こっちは1ヶ月ときている。それでも、あくせく汗水たらして、ただ効率良く仕事をするというわけさ。」

次の日曜日、ギチンガ医師は私を自分の村に連れて行ってくれました。ケニア中央病院から道中ぎしぎし、がーがー音を立てっぱなしのおんぼろフォルクスワーゲンに乗って、ダゴレッティ交差点、カワングワレ、ウシルを通り過ぎ、ナイロビーナクル線にやって来ました。ウシルでは、ナイロビ行きの乗り合いバスに、もう少しでぶつかりそうになりましたが。

「あれは、私が通った小学校だ。当時は、今頃億万長者になっていると夢みたものだが、ま、ごらんの通りさ。私はKCHに巣食う鼠のように、いまだにもがいてるよ。」と、ギチンガ医師は言いました。私は、物事がすべて空しく見えてしまうこの人に、何を言えばいいのかを考え始めていました。その人の病院での生活も、その人の人生観も、存在の負の部分が元になっていたのです。

「しかし、どれだけのケニア人が仕事だけでなく、車も持ってますか?何人のケニア人が医者をやってますか?」と、私はギチンガ医師にものごとの違う面を見てもらいたいと思って尋ねてみました。

「その人たちは7年もの間、解剖死体を扱ったり、臭いのきつい傷口の処置をしたり、感染の危険を覚悟で結核や淋病の患者を診たりはしてきていない。先の希望がない患者が話す哀しい話を1日中じっと座って聞いていたと言う人もいないよ。」

私は、どぶさらいやポン引きに売春婦、麻薬売人や囚人に悩まされる看守などについて話そうかとも思いました。普段は社会の底辺にいる人たちと接することが多くなる警察官の話もしたいと思いました。ひどい臭いの通りを巡回する人たち、その人たちの出来事の多い人生が社会の弱者といつもいっしょなのです、とも言いたかったのですが、言わない方がいいと思って黙っていました。

20分で、ナイロビの金持ちだけがゴルフの出来るシゴナクラブに着きました。モービルガソリンスタンドにさしかかったところで、左折してムガガに入り、そのまままっすぐ進むと、ンデルという町に出ました。私たちは、円形競技場のような市場の中央に建つ木造の建物の前で車を止めました。その表玄関には、太字で次のように書かれていました。

ンデル クリニック
医師 ワウェル・ギチンガ
医学士、化学士(マケレレ大)

私は信じられない思いでギチンガ医師を見ました。そうです、病院のこの鼠は、診療所を持っていたのです。

「若いの、ここで小遣い銭が稼げるぞ。ま、私に協力すればの話だが。政府の決定によれば、臨床の職員が診療所に人員を配置してはならず、資格のある医師が……つまり、事実上、君には資格があるし、実際の業務は、先輩の医師が教えてくれる。ンデル全体の性病患者を治療すれば、あんたの研修医の給料の2倍は稼げる。」
2人は大股でクリニックの中に入っていくと、そこには、白衣を着て聴診器をぶら下げた60歳前後の男性が、眠そうに木製椅子に座っていました。

「おはようございます、ギチュア先生。こちらはムングチ医師、これからあなたと一緒に働いてもらうことになります。」と、ギチンガ医師が口火を切った。

「おはようございます。」と言って、私はひどく痩せた手を握った時、ひどく酒臭い息を吸い込んでしまい、その場で酔ってしまいそうな気分でした。

「どうぞ、よろしく。」と、ギチュア医師は、私の心に探りを入れようとする時に昔よく父がしていたように、私をまじまじと見つめ始めました。ギチュア医師はにっこりと笑いました。どうも、私のことがすぐに気に入ったようです。私は思わず引き込まれてしまいました。酔っ払った様子もそうですが、ギチュア医師は父にそっくりだったのです。ぜい肉のない体、鋭い眼光、陽気だが、いざという時には、威厳があってかつ頑固な気質が見て取れる鋭い目つきをしていたのです。

「今回は、一緒にこの町を出て行こう。」と、ギチンガ医師が付け加えましたが、私はどういう意味なのかを図りかねて当惑してしまいました。ンデルの秘密の詮索はやめよう、と決心したものの、私はこの診療所になぜか宿命が待ち構えているような気がしたのです。

HIV

●「ナイスピープル」(3)→「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」「モンド通信 No. 8」、2009年1月10日)

●作品解説(2)→「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com:80/0000274176/index.html

執筆年

2009年1月8日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 4

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『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(2)第2章 ケニア中央病院(KCH)・第3章 ンデル診療所

2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の1回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(1) 著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

「エイズにやられる危険性は殆んどないという危険な思い込みが富裕層に蔓延していることもあり、今や世界で15万人近くもいると言われているエイズ患者は、きっと今年中に倍になると思います・・・・」
1988年       世界保健機構医師    ジョナサン・マン

著者の覚え書き

『ナイスピープル』の中で、どうしても書いておきたかったことがあります。1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙の切り抜きです。3年後に今その記事を再現することになりました。

「アフリカのエイズ、未曾有の大惨事となった危機」(ハーデン・ブレイン報告)
(ナイロビ発)中央アフリカと東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、かつてない大惨事だと思われています。

この命を脅かす病気は世界で最も貧しい大アフリカ陸には、特に厳しい脅威となっています。専門知識や技術を要する、数少ない専門性の高い職業人の間でもその病気が広がっているからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でもある意味、エイズの流行でアフリカの何カ国かは「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。

病気がますます広がって、既に深刻な専門性の高い職業人の不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的・政治的・社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。

世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では研究者が「驚くべき割合」と記述するような確率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。

第三世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ジョン・ティンカー氏は、「死という意味では、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」

世界の多くの国では、基本的に同性愛者間の性交渉や静脈注射の回し打ちや輸血を通してエイズが広がってきましたが、アフリカでは主に異性間の性交渉を通して病気が広がっています。

アフリカでは、70年代後半から80年代前半に病気が始まって以来、男性も女性も数の上では同じ割合で病気にかかっています。

アフリカでは性感染症を治療しないままにしている割合が高く、その割合の高さがエイズの広がりの大きな要因になっている可能性が高いと多くの研究者が主張しています。

WHOのエイズ特別計画の責任者ジョナサン・マン氏は、一人当たり平均約1. 75米国ドル(2.40オーストラリアドル)しか医療費を使わないアフリカ諸国の保健機関にてこ入れをして教育への直接の国際支援と血液検査を行なえば、病気の広がりを抑えることが出来ると発言しています。

ジョナサン・マン

序章

ムンビの葬式にはたくさんの参列者がありました。ドクターGGには友人が多数いて、それも生存中のンデル出身の友人が多数いると誰もが信じていました。これまでドクターGGは、数多くの出産と少年の割礼に立ち会ってきました。咳や淋病熱の患者もたくさん診てきましたし、最近では、「スリム病」という独りよがりの診断を信じ切っている患者も助けてきました。

エイズ患者

私は敢えてドクターGGを見ませんでした。ずっと耐えてきた苦しみがわかっていたからです。父娘の絆が他の誰よりもずっと深いのを、長年身近にいた私はよく知っていました。娘を心から大切に思い、ムンビもまた父親をとても大事に思っていました。一度ムンビに、父親と同じくらい大切に思えた人はあなただけよ、と言われたことがあります。しかし私がムンビの思いに応えることが出来なかったのですから、私への思いが枯れても仕方のないことでした。私が与えられなかった温かい家庭と家族を求めて、ムンビは私のもとを去り、ヘルシンキへ発ってしまったのです。

ムンビは私にはずっと特別な人で、聡明で勇気もあり、決断力もありました。また、本当に素直な人で、メアリ・ンデュクのように偏見を持ったり、人に厳しい態度を取ったりすることもありませんでした。自分の感情に素直で、自分の感じることや信じることを隠さなかったのです。そうした正直さゆえに居ても立ってもいられずに、生まれて来た男の子の父親であるブラックマン船長に忠実であれと信じながら外国に渡ったのです。

辺りを見回すと、ムンビの母親が何事もなかったかのような顔をして立っているのが見えました。とても死者を悲しんでいるようには見えませんでした。私に気がついて微笑みましたが、私はとても笑える状況ではありませんでしたので視線をそらし、メアリ・ンデュクとユーニス・マインバが動揺しながらも話し続けるのを見つめていました。なぜ性格のまるで違う二人が一緒にいるのだろう、と私は不思議に思い、その時、自分がそれまで見てきた、人と人とが織り成してきた出来事に思いを巡らせました。アイリーンがドクターGGの隣に立って、自分の職場の同僚を慰めようとしているのがはっきりと分かりました。自分の娘が遠く離れたフィンランドで死んだと聞かされた時に、ドクターGGが心に受けた打撃の大きさを思わずにはいられませんでした。

いよいよ、持っていた花を棺に投げる私の番になりました。たくさんの参列者がムンビに最後のお別れをして遺体から離れて行くのを、私はずっと見ないようにしていました。花が棺に落ちたその時、それまで必死に堪えていた涙が溢れてきました。最後に泣いたのは何時だったかは思い出せませんでしたが、私はその温かい液体が流れるままにしていました。ここに横たわるムンビ、愛おしく、素直で、決して争わず競争相手にも道を譲るような素敵な人だったと私は思い返しました。ムンビは、私とメアリ・ンデュクとの仲が原因でモンバサを離れましたが、自分の産んだ男の赤ん坊が私の迷惑になると考えてカナンホスピスを去り、馴染みの人たちと気楽に暮せるようにと願って、帰郷したブラックマン船長の後を追ってこの国を去ったのです。

モンバサ

ガイ神父は30年以上も前に、ラザラスという名の男性の病気をイエス様がお癒しになったという説教をされたことがあります。神父は、民に神の偉大さを信じさせようとしてその男は病気になったのだ、と言われました。ムンビも同じ理由で死んだのだろうか、と私はふと思いました。タラ高校で何度も言い聞かされた愛の神は、ムンビに死をもたらし、私の医者としての資格を奪いそうになった疫病を引き起こした神と同じだったのでしょうか。ディン・シン医師は同じ神を信じていました。ワウェル・ギチンガもそうです。ディン・シン医師は辛うじて逃亡できましたが、ギチンガ医師は逃げ切れませんでした。神とは、ある者には与え、ある者には与えないという差別をする神だったのでしょうか?メアリ・ンデュクが生き残っているのに、ムンビのような聖人を殺した同じ神・・・。こんなことを考えながら、私の心はすっかり混乱していました。

ドクターGGの娘の亡骸を納めた棺に背を向けて、私はその場から立ち去りました。その時誰かが、私が倒れないように腕を掴んできたのを感じました。シスター・アイリーンでした。仕事に忠実なこの看護師が、私にどんな過酷な出来事が起きても、いつも傍にいてくれたことを私は思い出していました。そうです。病める者や悩める者が心安らかにいられるように、アイリーンのような聖人をも神様は遣わして下さっているのだという事実にも気が付きました。私はアイリーンを見つめ、私のことを気遣ってくれる人が本当に必要だとしたら、アイリーンこそが喜んで私を大事にしてくれるだろうと思いました。

第1章 イバダン大学

大学生活は快適なものでした。卒業後は本当に特別な人間、人類を苦しめる色んなもの治す、神に近い人間になるのだ、という大きな野心をもって医学書を読み漁りました。私たちは、犬や猫や馬を扱う獣医よりも当然、優位であったはずです。何しろ私たちは、より優れた種、すべての生きものの中でも最も偉大なホモサピエンスを治療することになるのですから。結核、マラリア、淋病、梅毒など、人間が患らうようになった色々な病気。私たちは本当に天からの授かりものではなかったのでしょうか?

大学は「UCI」と呼ばれていましたが、そのUCIから退学者が出ました。どうもその学生は、マーティン医師の心臓の標本を盗んだということで、クラス全体に回された標本を最後に手に取ったのが、その学生だったというわけです。標本が消えて無くなり、次の週の月曜の朝に、アデンクレが切れ切れの調理済みの肉を持って授業に現れ、「心臓を料理したんだ」と得意気に言い放ったのです。マーティン医師は怒り狂ってこれでもかとアデンクレを罵りましたが、アデンクレは医師を見てにやっとするだけでしたので、マーティン医師はますます怒り狂うのでした。

ナイジェリア地図

そんなとき、私はマラリアにかかってしまいました。どうにか体が持ちこたえますように、と皮肉まじりに祈りました。最終試験が1週間後に迫っていて、今度ばかりは神に裏をかかれたと思いました。頭は煮えたぎるように熱く、背中じゅうに細かい針が刺さっている感じです。苦痛ですっかり弱っていたところへ、あのアデンクレが、ジャジャ診療所のベットに横たわる私に会いにやって来ました。

「おい、マラリアなんかで死ぬなよ。マーティン先生が俺の退学にこだわらなきゃ、あんたを治してやれたかも知れないのにな。」とアデンクレはピジン訛りの英語で冗談めかして言いました。そこへ、180センチもある変わり者の英国人医師ウィリアム・ボイドが部屋に入って来て私に口を開けるように言うと、無造作に体温計を口に入れました。何だかとても嫌な感じがしました。

国じゅうを巻き込んだ凄まじいビアフラ戦争の猛威にも耐え、神に見捨てられたナイジェリアの泥沼の五年間を何とか生き永らえはしましたが、今や私は何とも哀れな肉の固まりになり果てていました。

イバダン市街

普段は見かけない医師が信じられないといった顔つきで私を一瞥したあと、「たしかに、相当ひどいな。」と言いました。それから、記録用紙に何かを書きつけて、そのまま部屋を出て行きました。

医師が出て行くと、アデンクレが記録用紙を手に取りました。そして注意深くそれを調べてから、私は死にかけだと言うのです。熱が40度ありました。私はその日を決して忘れません。相変わらず頭はがんがんしていました。身をよじって、何も口に出来ず、目が眩み、とうとう気絶してしまいました。私は意識を失なったのです。

司祭が私を起こしたに違いありません。目の前に平服を着たその司祭が立っていて、神のご加護に与りますか、と聞くのです。

「出て行ってください。あんたらは、頭がぼんやりしてものも言えなくなった時だけやって来るんだな。元気な時に来てくれと、あんたの神に言っといてくれ。」

「何て不遜なことを。本当に、今、神のご慈悲が要らないのですか?」

「それどころか、神が僕を病気にしたのなら、治してくれ、と言いたいですよ。僕は何も悪いことはしていない。むしろこの世の中から、神が創り給うた病気を消滅させようと人生の5年間を犠牲にしてきたんです。それなのに、その神様の思し召しの結果が、この態ですよ。」

イバダン診療所のベッドの中で、まさにその瞬間、私の中で何かがぷちんと切れたんだと思います。もはや、神の慈悲も愛も美徳も信じることが出来ませんでした。何百万という物乞いや売春婦、目や手足の不自由な人やその他社会の底辺で暮らす人たちはどうなのか?司祭は、そういう人たちもすべて神の子だと見なしていますが、では何故、来る日も来る日もある病気を治療するためにと、製薬実験室で何億という大金が使われているのか。

アデンクレは医学科課程を修了出来ませんでした。コーラ・ダンボ教授が署名して、アデンクレの退学の文書を議会に提出したのです。

私たちは学位を取得する前に、ダンボ教授が学生全員に読みあげた嫌な書類の内容をひとりひとりが確認して、署名をしました。

「わたくし、ジョゼフ・ムングチは、人に奉仕するために我が身を捧げることをここに固く誓います。患者の健康を  第一に考え、守秘義務を守ります。危機的な状況にあっても、受胎したその時から、人の命を最大限に尊重しま す。人道に反して、医学知識を使うことはありません。」

医学士、化学士(イバダン大学)
署名 ジョゼフ・ムングチ

イバダン大学

***********************

翌朝、イバダン発ラゴス行きナイジェリア航空の8席セスナ機に搭乗しました。それから、ラゴス時間でちょうど午後七時に、新しい人生を始めるべき、愛しの故郷ケニア行きのパンナム機ボーイング707便に乗りました。

朝8時に、飛行機はナイロビに到着しました。1974年、6月28日の翌日の金曜のことです。弟のムセンビが、ナイロビ空港に私を迎えに来ていて、タラまでまっすぐ車を走らせました。我が故郷です。村中が歓喜の声で沸き立っていました。自分たちの医者の到着だと、全員が分かっているのです。しかし、私が独立して患者を診るには、ケニア中央病院でまだインターンとして働かなくてはいけないということは、皆殆んど知らないようでした。

「ジョゼフ、こっちへ来ておくれよ。」と母親が部屋から私を呼びました。

「うん、母さん。」

「おじいさんとこに行くんだよ。お前のでなきゃ、他の者の薬は嫌だと言ってきかないんだからね。」

「そうなんだ、母さん。でも、どうして?」

「マチャコスの医者は、医療費稼ぎに水で薄めた薬を出してるぞって、きかないんだよ。」

「そんなことが出来るのかい、母さん?」

「お前が出て行った頃のケニヤとは、今は違うんだよ。警察は、賄賂欲しさに、もっと犯罪者が増えるように祈ってるし、判事は、拘置所を犯罪者で一杯にしたがってるし、看守だって同じだよ。弁護士が、犯罪の片棒を担いでるっていうのも聞いたことがあるね。そのほうが儲かるんだってさ。お前のような医者だって、淋病や梅毒、ヘルペス患者がもっと増えてほしいのさ。結局仕事は増えるし、もっと儲かるからね。皆そう言ってるよ。」

「じいさんが社会の仕組みをそんな風に見てるんなら、僕のことはどう思ってるんだろうね。」

「ここの地区判事が、先日ある男から5000シリングを受け取ってから、2人の取引についてしゃべれないようにと、その男に死刑を言い渡したらしいよ。」

母親は相変わらずでした。永年タラの噂話には強く、この小さな町の最新情報を聞き逃すことはありませんでした。それにタラでは、情報を伝えるのにマスメディアなど必要ありません。噂がその役割を果たすのですから。しかも大抵の場合は、大袈裟に伝わりました。

●「ナイスピープル」(2)→「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(2)第2章・第3章」「モンド通信 No. 6」、2009年1月10日)

●作品解説(1)→

メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com:80/0000274176/index.html

執筆年

2008年12月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No.3

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『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学