2000~09年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文(写真作業中)

アフリカのエイズ問題 制度と文学    玉 田 吉 行

 

宮崎大学医学部すずかけ祭シンポジウム「アフリカと医療」

はじめに

 

こんにちは。本日は、ようこそおいで下さいました。誠にありがとうございます。どうか、よろしくお願いします。

玉田と申します。旧宮崎医科大学は十月に統合されて、宮崎大学医学部になり、ここは清武キャンパスと呼ばれています。その清武キャンパスで英語の授業を担当しています。四月からは、旧宮崎大学の木花キャンパスで、「南アフリカ概論」や「アフリカ文化論」などの授業も担当することになっています。

この大学に来て今年で16年目になりますが、毎年、新入生の英語の授業でアフリカの問題を取り上げています。その授業の中で紹介した本のご縁で、山本さんが来て下さり、お誘いしたムアンギさんからも快諾を得、シンポジウムを企画した国際保健医療研究会の人たちの尽力もあって、今回のシンポジウムが実現しました。

今日は、山本さんとムアンギさんの話を受けて、限られた時間の中で、現状を生み出している制度と、社会の現状を映し出している文学を切り口に、僕の現在いる立場からしか話せないようなお話ができればいいなあと思っています。

これからお話する社会制度のように巨大な、マクロの世界も、1ミリの1万分といわれるエイズの原因となっているウィルスの世界も、目の前に見えるわけではありません。それらの本当の姿を見るためには、見ようとする意思や想像力がいるのです。

今日は普段考えたり授業で取り上げたりしている、

 

  • アフリカのエイズの現状、
  • それを生み出している制度、
  • 1992年にいったジンバブエでの体験、
  • 制度の生み出した現象やその中で暮らす人々の心のひだを描き出した文学について、

 

時間の許すなかで、お話したいと思います。

 

 

  • アフリカのエイズの現状

最近は授業でエイズの問題を取り上げ、イギリスの新聞「インディペンダント」のジンバブエに関する報告記事を毎年紹介しています。入り口で販売してもらっている英文のテキスト Africa and its Descendants 2 でも紹介し、今日お渡ししました資料に抜粋していますが、雑誌「ごんどわな」22号の「アフリカとエイズ」という記事の中でも紹介しています。

1995年7月ですからもう八年も前の記事ですが、50%を超えているといわれる軍隊や売春婦の感染率の高さ、子供や老人の世話と農作業を担っている女性の人口が急激に減って、田舎では社会的に、経済的に深刻に見舞われていることなどが報告されています。出稼ぎに出た夫が売春婦からHIVを持ち帰るので、「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」とも書かれています。更に、「数年後には平均寿命が、現在の68歳から40歳になるだろう」、「次の標的は南アフリカだろう」という予測で結ばれています。68歳という数字が大丈夫かなという心配はありますが、先日、インターネットで調べてみましたたら、2002年推計のジンバブエの平均寿命は、予測をすでに上回り、全体で36.5歳、女性35.1歳、男性37、87歳でした。ちなみに、ムアンギさんの国ケニアは、全体で45.22歳、南アフリカは45.43歳、日本は80.91歳でした。

去年の3月にNHKで紹介された番組でも、南アフリカ最大の都市ジョハネスブルグのアフリカ人居住区では3人に一人がHIVに感染していると報じられていました。このままいけば、国が滅びるのではないかと予測する人もいます。数字の信憑性はともかくとして、深刻な事態であるのは間違いありません。

 

2)それを生み出している制度

僕はたまたまリチャード・ライトというアフリカ系アメリカ人の作家がきっかけでアフリカの問題を考えるようになり、読んだり書いたりする空間を求めて大学にたどり着いたのですが、その中でいろいろ考えました。

なかでも、15,6世紀に大規模に始まった西洋による侵略の歴史が、形を変えて今も続いており、国連を無視して行われた今回のアメリカによるイラク攻撃も、基本的にはその延長上にあると考えるようになったのは衝撃でした。14世紀末にマルコ・ポーロが中国から持ち帰った火薬を武器に変えた西洋社会は、右手に銃を、左手にキリスト教を掲げて侵略を始めました。やがては人間を売買して大きな富を蓄え、その富を資本に生産手段を手から機会に変えて今日の大量生産の基礎を気づきました。産業革命によって人類が使い切れないほどの製品を作り出した人たちは、その製品を売りさばく市場とさらなる製品を生産するための原材料を求めて植民地争奪戦を繰り広げました。アフリカは狙われた市場の一つです。

植民地争奪戦は激烈を極め、世界戦争が懸念されて植民地の取り分を決めようとベルリンに集まりました。一番多くの分け前を取ったのがイギリス人で、その人たちの言葉が今は国際語と言われているわけです。結局、二度の世界大戦を回避出来ずに、日本人も交えて白人たちは殺し合いをしました。第二次世界大戦後は、戦争であまり被害を受けなかったアメリカが主導で、国連や世界銀行などを作り、今度は国際援助、資本投資の名目で金を貸して利子を取るという戦略を始めました。しかし、先ほど紹介した平均寿命から考えても、搾り取るにも相手がいなくなる、という事態にまできてしまいました。

南アフリカは植民地支配の極端な形を取りました。最初はオランダ人が、次いでイギリス人が入植しました。当初はインドへの中継地でそれほど重要なところではなかったのですが、19世紀に金とダイヤモンドが発見されてから状況が一変しました。武力でアフリカ人を支配したオランダ人とイギリス人は金とダイヤモンドを奪い合って戦争しましたが、決着は着かずに、南アフリカ連合連邦という連合政権を作りました。1910年のことです。そのころにはアフリカ人支配の構図は出来上っていました。その人たちは、出来るだけ長く続く搾取体制を作り上げようとしました。アフリカ人から土地を奪って課税するという形を取りました。無産者となったアフリカ人は税金を払うために家族と離れて働きに出ざるを得ませんでした。その人たちがいわゆる出稼ぎ労働者です。白人の経営する鉱山や大規模な農場の労働者として、あるいは都会の白人家庭のメイドやボーイとして、奴隷のように働かされました。家族を支えるだけの十分な給料ももらえず、一年中家族から遠く離れた土地で暮らさざるを得ませんでした。大量の、安価な賃金労働者を基盤にした産業社会という人もいますが、実際多くのアフリカ人から掠め取る奴隷制とも言える過酷な仕組みです。

 

3)1992年にいったジンバブエでの体験

アフリカの問題を考えるようになってから、いつか家族でアフリカに暮らしてみなければと思うようになりました。1992年に2ヶ月ほど首都ハラレで暮らしました。本当は南アフリカに行くはずだったのですが、当時はまだ南アフリカとの文化交流が禁止されていましたから、南アフリカには行けませんでした。ムアンギさんにも相談して、ジンバブエ大学に行くことにしました。『遠い夜明け』のロケ現場とは地続きですし、主人公のスティーブ・ビコが立っていた赤茶けた大地を見たいと思ったからです。

一握りの貴族と大多数の貧乏人しかいないので不動産事情が悪くホテル住まいを覚悟していたのですが、スイス人のお婆さんから運良く十万円の家賃で家を一軒借りることができました。行ってみてわかったのですが、敷地は500坪、ガーデンボーイに番犬までついていました。

アフリカ人の生活が知りたくて行きましたから、ガレージの隅の狭い小屋に住んでいるガーデンボーイのゲイリーとはすぐに仲良しになりました。資料のなかにも紹介していますが。毎日同じ敷地内でいっしょに住んでいて、ゲイリーは給料が一月400円ほどで、一年の大半は家族と離れて暮らしていることがわかりました。一月ほどして冬休みを利用して奥さんと3人の子供たちがやってきました。普段はおばあさんがいていっしょに住めないということでしたが、1ヶ月ほど家族5人で暮らしました。僕の二人の子供と入り乱れて毎日いっしょに遊んでいましたが、その蹴っていたボールは一個5000円くらい、ゲイリーの給料より多かったのです。休みが終わって田舎に戻った2人の子供の小学校に寄せてもらったのですが、そこでは大半の人がゲイリーのように小学校を終えたら街に出稼ぎにゆくようでした。ゲイリーの家は、最初に紹介したジンバブエの報告記事そのままで、男は出稼ぎに、女性が農作業をやり、老人や子供の世話をしていました。

ジンバブエには百年ほど前に南アフリカの移住者が軍隊を連れて、第2の金鉱脈を求めてやってきました。金鉱脈は見つかりませんでしたが、その人たち帰らずに、アフリカ人から土地や家畜を奪って国を作り、居着いてしまいました。それまで自給自足の生活をしていたゲイリーのおじいさんたちは、出稼ぎに行くようになりました。

ジンバブエに居る間、搾取する側にいる思いで胸が苦しかったのですが、日本に帰ってくると、ものは豊かでもその繁栄の一部が他者の搾取によるものだという思いはつのるばかりです。

 

4)制度の生み出した現象やその中で暮らす人々の心のひだを描き出した文学について

ゲテリアの『ナイス・ピープル』(この部分については次回に掲載する予定です。)

 

最後に

アフリカの問題を材料にして、新入生には、今まで培ってきた自分の価値観やものの見方が大丈夫かという問いかけをして、自分は何をしたいのか、自分に何ができるのかを考えられる機会が提供できればと思って、授業をしてきました。

アフリカの話をして多くの新入生が、自分は何も知らなかった、アフリカかわいそう、日本に生まれてよかった、自分に何か出来ることはないか、せめて事実を知らないと、そんな反応が多いです。しかし、長いこと授業をしてきて、本当にそうかなと思います。授業で考える機会があってもあくまで人ごとで自分にとってそれが何なのかを考えない学生は、授業が済むとすっかり忘れます。きのうもムアンギさんと大阪工業大学でごいっしょしていた17,8年前の話をしていたのですが、アルファベットで名前も碌に書けない学生に単位を出さない現状を嘆いておられました。医学部の授業でも、たくさんの人が授業に来ないし、来ても寝ているし、現にこの教室でもたくさんの人が熟睡しているらしいです。僕自身は、親の援助なしに夜間の大学に行ったせいもありました、寝ている人たちをみますと、親に出してもらって車乗り回して遊んでばっかりいないでちょっとは勉強したら、将来生死にかかわる患者を相手にするのに、自分の体調も管理できないで風邪ひいててどうする、風邪を治療する人が風邪引いて大丈夫か、といいたくなりますが、どうもその思いが充分伝わるとも思えません。だから、そんな学生からアフリカかわいそうと言われても、と思ってしまうのです。

深刻な現状を考えれば考えるほど、将来の希望が見いだせません。だから、授業の最後にいつも、結論は、ため息しかでないなあ、と言葉をつぶやくしかないのですが、それでも、未来ある若者に将来を託すために、ため息をつきながら、せめて、あきらめずに語り続けようと思っています。いつか、思い出して考えてもらえる機会になればと願っています。

執筆年

2004年

収録・公開

未出版

ダウンロード

「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム草稿)

2000~09年の執筆物

概要(作業中)

2003年11月23日(日)に宮崎大学医学部すずかけ祭で開催されたシンポジウム「アフリカと医療」で行なった講演の記録で、国際保健医療研究会の葛岡桜さんがして下さったテープ起こしの原稿に手を加えたものです。テープ起こしの原稿を見ながら、我ながらあまりの日本語のひどさに悲しくなりました。美しい日本語の会会員などと称していることに後ろめたさも感じました。そして、普段の話し言葉も、話し方も考えなくてはと思いました。これからは、美しい日本語の会準会員を名乗ります。

当日は、時間の関係で、当初予定していた内容を変更して話をしました。当日の内容に手を加えたものがこの「アフリカのエイズ問題―制度と文学」で、その前に、事前に配られたパンフレットの表紙とその内容を載せました。

予定していた原稿につきましては、ずいぶんと遅くなりましたが、手直しのうえ「アフリカとエイズと文学」と題して、近々ホームペイジに掲載の予定です。

ご一緒した山本さんとムアンギさんの話は、ホームペイジには掲載できませんでした。

(パンフレットの表紙)

 

 

第28回すずかけ祭医学展

宮崎大学医学部

シンポジウム「アフリカと医療」

~世界で一番いのちの短い国~

 

●国際医療ボランティア・派遣医師

山本敏晴

「世界で一番いのちの短い国」

…本当に意味のある国際協力とは?…

 

●四国学院大学社会学部教員

Cyrus Mwangi

「アフリカにおけるエイズとセクシュアリティ」

 

●宮崎大学医学部英語科教員

玉田吉行

「アフリカのエイズ問題―制度と文学」

 

日時 2003年11月23日(日)1時~4時

主催 宮崎大学医学部国際保健医療研究会・英語科

場所 宮崎大学医学部臨床講義棟205教室

 

主な対象者; 発展途上国での医療活動やボランティア活動などに従事することも含め、その分野に深い関心のある医療関係者、医療系学生、将来そういう分野で活動したいと考える中学生や高校生、および、国際保健活動に関心のある方々。◆

 

本文(写真作業中)

アフリカのエイズ問題―制度と文学     玉 田 吉 行

玉田と申します。よろしくお願いします。旧宮崎大学と旧宮崎医科大学が(10月に)統合して、こちらは清武キャンパス、向こうは木花キャンパスと呼ばれています。実際には(統合後の最初の授業が始まるのは)4月からなんですが、(今は)こちらの方で英語を担当しています。4月からはさっきお話にありましたように、アフリカ文化論とか、南アフリカ概論とかの名前で、(木花キャンパスの方でも、主題教養科目の)授業を担当する予定です。

今回のシンポジウムは、わりと準備していたんです。一応、こういうタイトル(『アフリカのエイズ問題―制度と文学』)で、初めに少し挨拶をして、それからアフリカのエイズの現状を少しお話してと、本当はそういうつもりでした。

病気でもそうですが、(たとえば)喉が痛いとか、それは(それで)原因があるわけです。西洋医学の場合だと、対症療法で熱を下げましょうとか、薬を与えましょうとか、まあ、そういうことになるわけですが。本当は、免疫力があれば、病気にならない確率が高いわけで、「ちゃんと良く寝ましょう」、「規則正しい生活をしましょう」、「むちゃくちゃ飲まないようにしましょう」、そういうことが一番大事だと思うんですが、そのためにはやっぱり何が原因かというのを知らなければなりませんし、出てきた症状から、病気の場合だと、診断しなければいけません。

実際に、エイズの惨状は、今日ムアンギさんがお話されましたように、大陸が滅びるかもしれないという可能性を含んでいるほどだと、ぼくは思っているんですが。それは、HIVだけが原因というわけではなくて、それを生み出した原因というのはもっと大きな所にあると思うからです。

ぼくは、たまたま読んだアフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライトの祖先が奴隷貿易で連れてこられたという縁で、アフリカに辿り着きました。その人はアメリカから追われるような形パリに渡った人で、常に「自分は何か?」を問い続けていました。生まれながらにして、肌の色が黒いというだけで疎外されていましたから。同じような意味で、ぼく自身もいつも「自分は何か?」を問い続けていました。生まれてくるとわけのわからない親でしたし、子供もたくさんいて貧乏だったですし、大学入試はすべって行く所はないし、学校へ行っても腹が立つし、地域社会にも腹が立つし。そんな状況でしたから、自分の居場所というか、つまり疎外された状況のなかで、自分はいったい何ができるんだろうか?とか、どうしたらいいんだろう?とか、そんな事ばかり考えていました。リチャード・ライトがアフリカの問題を取り上げていたのがきっかけで、僕自身も自然にアフリカについて考えるようになりました。

ですが、そこで考えて、(ぼくはここの英語の授業でもアフリカの話をずっとしてきたんですが。ここに来て16年になります。その前の5年間も含めますと、20年以上にもなりますが。)最後にたどり着いた地点は、山本さんとか、ムアンギさんとはだいぶ違うとは思うんですが、なんかため息しか出ないというか、希望的な観測が全くもてないというか。それもありますし、それから実際に長いあいだ授業をしていますと、この部屋でもそうですが半分以上寝ている中で授業が行われていますし、(学生は)あまり来ません。ほかの大学でもそうですが。以前いました大阪工業大学とかだと、授業の一番初めに出席をとって、ぱっと見上げたら前半分全部いないんですよね。それで、おかしいなぁと思って、出席を後からとるようにしたら、最初あまり来なくて、終わりの方に(たくさん)来ましたね。(非常勤としてご一緒した)ムアンギさんは、アルファベットで名前書けない奴にどないして単位だすねん、とぼやいてましたね。大阪工大は、(偏差値でいうと)関関同立(関西学院大学、関西大学、同志社大学、立命館大学)の次くらいだと言われている大学です。(ムアンギさんも僕も)ひどいところで授業をやっていたわけです。ここでも実際に授業をやってみますと、(学生は)授業には来ませんし、(来ても)半分くらいは寝ていますし。今、(その時の学生が)二人くらい(会場に)来ているんですが、その学年のときの話です。ぼくは一年間一生懸命話をしてきて、(それでも大体半分くらいは寝てましたけど)すごく頑張って(まとめの話を)やりだしたのに、ふと見ましたら前の方で漫画を読んで、パンを食べている学生がいるんです。腹が立って、こんなやつは絶対に医者にしたらあかんと思って、授業やめて出てきたんです。医学部でさえそうですから、別に医学部でなくてもいろんなところでそんな状況があるのが実際のようです。授業中に夢中になって携帯電話をしている人もいますし、すこし進歩的な話をしたら寝てしまいますし。ま、そういうのが現状のようです。

どちらかと言いますと、(授業で)アフリカのことをしながら日本にいて、その狭間に立って、その希望を託すべき、有能な若者と実際に授業をやりながら、その合間に立ってみますと、いろんなことが見えてきて、やっぱり最終的に、授業の最後で「いや申し訳ない、もうため息しか出ない」という感じになってしまうんです。でも(そのような状況でも)20年間ずっと話し続けてきたのは、そこにしか希望はないんじゃないかなと思っているからなんです。ですから、今日もそうですが、やる事に対しては、やはり準備もしますし、それなりにやります。ですが、人のためにやっていますと、例えば、「なんで授業に出てこれんのや?」とか、「なんで寝てしまうねん?」と思うかもしれないんですが、でもその人がいつかこの話を思い出して、医者になったときに、ああ、あんなことをいってたなと思ってくれること…まぁこれは実際にあるんですが…そのほうが一番大事で、ひょっとしたらそういう希望があるのかもしれません。でも、実際にはそんなに希望があるわけでもないし、だけどやっぱり喋り続けないといけない、みたいな(感じです)。そういう狭間で、ぼくは毎日少しずつ…。あ、もちろんこのシンポジウムはなかなか大変で。最初、授業でアフリカの話をしていたときに、山本さんの本(『世界で一番いのちの短い国』)を課題図書で紹介しました。一年生の石崎さんが、私知ってるよ、みたいな感じで。すぐメールを打って山本さんに「講演をお願いします」と頼んでみたら、山本さんからすぐ返事が来て、「それじゃ玉田先生に相談してみてください」、と(いうことになりました)。それで(講演が実現しましたので)、今日はぼくとムアンギさんは二人とも、付け足しみたいなものです。国際保健医療ですから、山本さんの話に関連して話をするので、ムアンギさんも来ませんかみたいな感じで電話したわけです。で、はじめの話では、前半、半分以上(山本さんに)やってもらって、ムアンギさんとぼくとで残りの時間を分けるつもりだったんですが、もうほとんど終わりであと(残り時間が)5分くらいしかない。(一同笑)で、一応ぼくがここで今言いましたように、普段考えてきて授業の中で言っているような話をした後、実際に1992年にジンバブエに行ってみて、「ほー、やっぱり同じやった」みたいな話をして(と考えていました)。

実際には、ぼくらは大学にいる(知的な欲求を満たしやすい環境にいる)わけですから、ほかの人の事(実際には行けない外国のことなど)を知るために、例えば、山本さんの話を聞いたり、ムアンギさんの話を聞いたり、そういう部分も大事ですが、制度(についてだけ)じゃなくて、実際に生活している人のことを書いているとか、文化(について書いてる)とか、そういうものを読めればそれにこしたことはないと思います。例えばエイズの話でも、1991年に、エイズが問題になり始めた時期のケニアの混乱した状況を描いた小説をゲテリアという作家が書いています

ぼくは今、(本学の)2年生で授業をやっているんですが、実際に授業やっていましても、2年生は忙しいからと、あんまり来ませんし。授業では、そんな深刻な問題を話していても、半分くらい寝ていますけど。

そういう風な本の内容をみてみますと、例えばケニアの場合など、実際に今日お話しましたように、植民地(支配)で、それから新植民地(支配)で、その侵略は今も続いてるんですが。ですから、極端に言いますと、日本のように、中産階級がいるわけではなくて、一握りの貴族と西洋の人たちが手を結んで長い事(新植民地体制を)引きずってるわけで。で、ごく一部ですよね、その(支配階級に属している)人たちは。その人たち以外はほとんど全て貧乏人で。そういう構図の中でHIVにこの人達もたくさん感染しているんです。いっぱい。その小説は、『ナイス・ピープル』というタイトルですが、こっちの方の人たち…治すものの側(の人口)がものすごく減ってきてるわけで。こっち側(支配される側)の方は、そこにムアンギさんが持っていらっしゃいますが、メジャー・ムアンギという人が書いている本 [『最後の疫病』(2000年)] では、そのHIVに関して、一般的な人たちが西洋文明を、受け入れるか – つまり、HIVは精液や血液で感染しますから、原因がわかっているはずですよね、だけど実際には抑えられないみたいな、それのせめぎ合いみたいなところが書いてあるわけです。その中で、どういう風な感じで人間の尊厳を保つかみたいな、そういう部分も書いてあるわけです。

僕自身はもともと、文学を志して、30ぐらいで高校(の教員)を辞めて、それから書いたり読んだりするには大学しかないって思って、5年間ほど(通算にしたら9年位)浪人してるんですが。ですから、ここが初めて(の大学)で、それ以来で、16年目になります。そういう感じで生きてきました。

文学は、生き死にの問題が優先される場合…戦争をやっているときには文学は(直接には)役に立たないかもしれませんが、やっぱりものすごく大きな役割を持っています。根本的なことになるんですが、人間が人間に何か教えられるかと言うのは、非常に疑問で。その事を一年間ほど考えて、棒に振ったことがあります。結論は、やっぱり分からないというか。例えば今授業で先生をやっていますけど…何年か前に生まれてきて、先に少しだけ多く覚えて、それを言ってるだけですから。そういうことを考えていましたから、中学や高校では、こいつ何言ってんねん、そんなもん教科書に書いてあるやないか、といつも腹立てていたんです。だけど、そういう側面はどうしてもあるように思えますので、人のために教えてやるというのは、少し違うかな、と思っています。そんなことを考えながら、もんもんと授業をやっているんです。

ですから、ここで一番いいたかったのは、やっぱり、そのアフリカの問題を授業の中で取り上げているのも、大学の時代がやっぱり大事(な時期)だと考えているからだ、ということです。なぜかと言いますと、知的な欲求は、(今は物が豊かで、なんか無理やり勉強やらされて、その中でそがれてる部分もものすごい多いと思うんですが)本来は、何か知りたいとか、何かやってみたいというところから始まります。知的な欲求が、人間にはすごくあると思うんです。だから、そういう欲求を満たすには、(大学に)入ってきて、その中でいろいろ話を聞いて……。そのときに、人生が方向付けられる事があるかもしれないですし。ですから、そういう意味では、ぼくは大学入ってきた人たちに、できるだけ、「今まで持ってきた価値観は大丈夫か?」みたいな揺さぶりのための材料として、アフリカの事をずっと話したりしてきたんですが。ぼくがその中でよくするのは、14、15世紀ぐらいから、中国から持ち帰った火薬を武器に、西洋社会が銃(武器)を作って、それから侵略を始めたという話です。当初は、東アフリカを略奪したりしていましたが、もっと恒久的に略奪しつづける方法はないかと考え出して、結局は片方(の手)に聖書、もう一方に銃を持って侵略を始めたんです。南アフリカなんか、オランダ人に侵略されたんですが。1972年にマジシ・クネーネいう南アフリカの詩人が来て、多分あのときだと、日本の文学者の野間宏とか針生一郎とか、その辺の人に案内してもらったと思うんですが。その人がオランダの出島を見て、「日本人てえらいなぁ」と言ったそうです。実際に、南アフリカはオランダ人に侵略されましたからね、「(オランダ人を出島に閉じこめた)日本人はえらいなあ」という意味でしょうが、そういうことを、ぼくは雑誌で読んだことがあります。実際に、南アフリカはそういう形で侵略されていったんですよね。そのうちに、今度は人間を売買し始めて、ものすごく片一方(西洋)は富んだわけで、その資本で、今度はもっと儲ける方法を考え(始め)たのです。つまり、奴隷貿易は、大きな損失(リスク)もありますよね。(逃亡とか反乱とかの)リスクを伴いますから。だからもっと効率よく儲ける方法、つまり今まで手でやっていたことを機械でやるようになって。ものすごくたくさん作って、それを売り始めたわけです。売るための材料をもっと手に入れるために、植民地化を始めます。その勢いはとても大きかったわけです。そのときにあつかましく、たくさんの植民地を取ったのは、英語をしゃべっていたアングロ・サクソン系の人達です。特に文明のあったケニア、ガーナや、ナイジェリア、南アフリカ、ジンバブエなど。とにかく、文化の発達していた所ばかり狙ってたわけです。その人達は自分の言葉を押し付けました。押しつけられた国は数多く、(今も経済的に結びつきが強い)Common Wealth countriesは、確か51か52あると思いますが。その人達は、(国として)英語をしゃべるようになってるわけです。ですからジンバブエに行った時もそうでしたが – ジンバブエはショナ人がほとんどなんですが – それが、キャンパス内で(ショナ人同士が)英語でしゃべっているのです。みんながそうなんです。自分の子供に母国語のショナ語を教えないで、英語を教えている人が増えているようです。名前もAlexや、そんな名前ばっかりです。そういう傾向は顕著で、インドもそうらしいです。小田実さんがインドで行われている英語支配は、だいたい形を変えた侵略じゃないかのかねとあるインドの友人に尋ねたら、何を言ってる、侵略そのものだ、と言い返されたと言ってましたが。そんな状況になっているようです。

いまさっき、山本さんがシェラレオネ(の平均寿命が)34歳とおっしゃったんですが、何日か前、インターネットで調べてみましたら、ジンバブエの場合、36.5歳でした。1995年の記事ですが、イギリスのインディペンダントという新聞を授業で読んだことがあります。その記事は、2010年くらいまでには平均寿命が55歳くらいから40歳くらいに落ち込むだろうと予測していました。 55歳(という元の数字)が、そんなに高くないとぼくは思いますけれども。ここ(提示したグラフ)でみてもらったら分かりますが、ムアンギさんのケニアも、南アフリカも、45歳ぐらいです。日本は80歳こえていますから、このあたりのところは、(原因が)絶対あると思います。そういうふうなことを考えると、形態は変わっても(侵略は)ずっと続いているのです。

実際に知的なものを考えて世の中をなんとかしていかないといけないという大学生でさえも、知的な好奇心が薄い(人も多い)ですし。それから、政治とか、社会的なことをあんまり考えません。今ぼくがお話したようなことが、その侵略の延長だとしますと、アメリカなんかずーっとそれを続けているわけです。その国が国連を無視して、イラクを侵略した事を、ぼくらは止めることもできなかったわけです。そういうふうなことに対して、そういうことを考えもしないと言いますか。その辺りのところに対してぼくはどういう風に話しかけたらいいのか。すごく、とまどいながら。それでもやっぱり言わないといけないな – そういうところで過ごしていますね。

南アフリカに関して言いますと、ジンバブエで…ジンバブエに行って、家を借りました。今言いましたように(ジンバブエには)貴族と貧乏人しかいませんから、ほとんど借家はないんですが。でも、たまたまみつけてもらって。10万円の家賃ですと言われて、行きましたら、500坪ですよ、これくらい。ちゃんとガーデン・ボーイ付きでした。知り合って、いろいろ話を聞きましたら、その人の給料は4千円くらい(ひと月ね)。子供たちも(その人の子供たちと)一緒に遊んだのですが、遊びに使ったボールがひとつ5千円くらいでした。実際はそんな中で生活をしていて、その人の田舎のほうに行ったんですが、(写真をうつしながら)こういうところに住んでいて、ジンバブエに関しての新聞にあったように。大体、田舎のでは女性が農作業と、それから老人や子供の世話をしてるんですが。HIVで、みんな倒れていくんです。

ヨーロッパ人がやって来たときにどんな侵略の形態を取ったかと言いますと、つまりアフリカ人の土地を奪って課税したんです。課税されて、その現金を払わなければなりませんから、みんな出稼ぎに出ざるを得ませんでした。たいていは鉱山か、農場か、白人の家か、工場か。たいがいそれは短期契約…つまり(労働単価の)一番安いパートタイムです。男ばっかり集めてコンパウンドという、まぁ、日本で言うたこ部屋ですね。そこに売春婦が入りますから、そこで感染します。こんどは、1年に2回ほど田舎に帰って、奥さんにうつすんです。アフリカの場合、特にそれが極めて多いのです。英語では「マイグラント・レイバー」、いわゆる季節労働とか、出稼ぎ労働とかいわれます。そういうシステムがあるわけです。それは今さっきも言いましたが、実際に、ぱっと略奪するのではなくて、永遠に略奪し続けるというか。だって、奴隷みたいに、大の大人が24時間中拘束されて、ひと月4千円ですよ。今(写真に映っている)ここで子供達が遊んでいましたが、ここはスイスのおばあさんが持ってるところで、そこの人達(ショナの人たち)は子供が遊びにきても、ぼくらがたまたまいたので子供たちもいましたけど、普通はそこに入れてもらえなくて。家族とほとんど一年離れて(暮らしているんです)。(田舎に)帰ったら、家も大きく土地もあるんですが。だから、そういう状態ですよね。それは、いってみれば奴隷と一緒じゃないですか。経済の配分は、システムは……。それが基礎なんです。あまりそういうことは言われないんですが、安価な労働力によって、人が生産したものを掠め取ってるわけです。実際に例えば、ここ(臨床講義室)の電力でも、そうですよね。南アフリカとか、ナミビアとかその辺りの安い労働力で、(ウランが)掘られて運ばれ、(日本では)安い電力が供給されているわけです。そういうことを考えてきますと、ぼくらは、完璧に加害者なわけです。そのことを山本さんも、ムアンギさんも言われてましたが。それが問題なのです。何が問題かというと、(たいていの人が)その事にも気が付いていないことなんです。

そんなことを考えてみますと、自分の自己存在も肯定できるのかなと思います。やっぱり生きる自信が持てないと思いながら。(授業で)そんな話をすると半分くらい寝てしまいます。もう、ひどいのになると、授業終わった後、あー、なんてあくびして。あーもう(受験勉強で詰め込んだ)英語も忘れてしまった、なんて言って。授業終わった直後に言われますと、さすがに、がっくりときますが。でも、現実なんですよね。

アパルトヘイトがあったときに、(ヨハネスブルグの)日本人学校に(取材に)行って、(朝日テレビの)「ニュースステーション」がインタビューをして、日本人学校の校長は(管理職だから)、「いやー、もう危険だから、(安全確保のために、もっと)フェンスを高くしないと」、と言ったんですが。せめて、「将来を託す子供達だから、知らない所に来てぼくらにできないことをやってもらいたい」くらいは言ってもらいたいですよね。企業の特派員の子供達が大きな顔をして、「あの人達とは生活が違うから雇ってあげなくちゃいけないですよね」と言うんです。「せっかく一緒に友達になったんだから、もう帰りたくない」くらいは、せめて(その子供たちに)言って欲しいですよね。

良く分かりませんが、現状がどうであれ、受験勉強で疲れて、何もものを考えないようになって大学入ってきたとしても、例えばぼくらみたいに授業する立場の人間が、「もうしゃーないから」といって諦めてしまう、そうなったら終わりじゃないですか。そう思っているんです。しかし、今の状況でぼくらが何かが言えるかといったら、いやー、あまり自信がなくて、何かぶつぶつ言いながら、「ぼくは英語嫌いです」とか、「外国人が苦手です」とか言いながら、最後にぼそっとと「いやー、ため息しか出ない」としかいえないんです。ですが、人のためだけにやっているわけではありませんので、ぼくは、最初にも言いましたが、自分が読んだり書いたりする空間を求めて大学にも来ましたし、授業をもつことで実際に生活もしているわけですから、その責任として、やっぱり、それでもきちっと準備をして、ぶつぶつ言いながらでも、しゃべりかけないといけないと思っています。とくに、医者になる人が多いですので、ぼくは、「医者になる人が風邪をひいていてどうする?」と、いつもそれだけは言うんです。(高校の教員をやっていたときにもあったのですが)ここ(宮崎)の人なんかもそうですが、自分はたばこを吸いながら、「お前たち、たばこ吸うな」、なんて生徒指導でやっている人がいますけど、そんなの(元々)信用できるわけがありませんから。医者(の場合で)もそうだと思うんです。だから、今はどうか分かりませんけど、いつか気が付いて、(患者の)いのちを預かるときになって、山本さんもお話されましたように、勉強するのは大事だということを思い出して、自分のために考えてもらえればいいなぁ、と思います。

今回、たまたまこういう形でやったわけなんですが、アンケートの中にもお書き下されば、今日お話できなかったこととか、興味がおありの方に、ホームペイジとか或いは印刷物とかを通して、連絡が取れると思います。

もう13年にもなりますが、アパルトヘイトが廃止される前の年に、この下の105(臨床講義室)で、南アフリカの作家をお呼びして講演会をしたとき、またやったらどうだって言われたんですが。もし、機会があれれば、誰かをお呼びしてまたやろうかな、と思っています。予定していた事が充分にはできなかったんですが、わざわざ足を運んで下さって、有り難うございました。

執筆年

2004年

収録・公開

出版(私製)

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「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム報告)

2000~09年の執筆物

概要

(作業中)

本文(写真作業中)

コンゴの悲劇2 上  ベルギー領コンゴの「独立」

■ ベルギー領コンゴ

前回の「コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』」(「ごんどわな」24号2-5頁。)では、遂にコンゴにまで植民地支配が及び、アフリカ人の暮らしが一変したことを書いた。

「悲劇2」では、ベルギー領コンゴが新植民地体制に組み込まれて行く悲劇について書こうと思う。

奴隷貿易による初期の資本蓄積で生産手段を機械に変えた西洋社会は、産業革命で作り過ぎた製品の世界市場と、安価な原材料を求めて、植民地争奪戦を繰り広げた。

レオポルド2世が植民地獲得の夢を紡ぎ始めた1870年代には、既にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカは、ほぼ西洋列強の植民地支配下にあり、コンゴ盆地は列強国が手をつけていない世界地図の唯一の大きな空白だった。結果的には国王一人が暴利を貪ったが、そうでなくとも、後の歴史が示すように、いずれは侵略者の餌食になっていただろう。

 

レオポルド2世

「コンゴ自由国」は1908年にレオポルド二世からベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれた。支配体制を支えたのは、1888年に国王が傭兵で結成した植民地軍(The Force Publique)である。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、1900年には、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となった。軍はベルギー人中心の白人と、主にザンジバル〈現在はタンザニアの一部〉、西アフリカの英国植民地出身のアフリカ人で構成され、「一人か二人の白人将校・下士官と数十人の黒人兵から成る小さな駐屯隊に分けられていた。」(註1)兵隊がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だった。

レオポルド二世は国際世論に押されて渋々政府に植民地を譲渡したが、国際世論とは言っても、この時期、ドイツは南西アフリカ(現ナミビア)で、フランスは仏領コンゴで、英国はオーストラリアで、米国はフィリピンや国内で同様の侵略行為を犯していたので、批判も及び腰で、国王が死に、1913年に英国が譲渡を承認する頃には、国際世論も下火になり、第一次大戦で立ち消えになってしまった。

アフリカ人は人頭税をかけられて農園に駆り出され、栽培ゴムや綿や椰子油などを作らされた。第一次大戦では、兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」(註2)という惨状だった。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現された。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの80%以上がコンゴの鉱山から持ち出された。」(註3)

名前が「ベルギー領コンゴ」に変わっても、豊かな富は、こうして貪り食われたのである。

■ 豊かな大地

ベルギーの80倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、北はコンゴ(旧仏領コンゴ)、中央アフリカ、スーダンと、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニアと、南はアンゴラ、ザンビアとに接しており、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にある。

 

 

植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていった。「1953年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの70%を産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」(註4)になっていた。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となった。

行政区は、北西部の赤道州、北東部の東部州、中東部のキブ州、中西部のレオポルドヴィル州、中部のカサイ州、南東部のカタンガ州の六州に分けられ、大西洋に面するレオポルドヴィル州に首都レオポルドヴィル(現キンシャサ)があり、カタンガ州とカサイ州南部が鉱物資源に恵まれた地域である。

インドの独立やエジプトのスエズ運河封鎖などに触発されて独立への機運が高まりアフリカ大陸に「変革の嵐」が吹き荒れていたが、コンゴで独立への風が吹き始めたのは、ようやく58年頃からである。

ベルギー政府は、コンゴをやがてはアフリカ人主導の連邦国家へと移行させて本国に統合する構想を描き、種々の特権を与えて少数のアフリカ人中産階級を育てていた。56年当時の総人口1200万人のうちの僅かに10万人から15万人程度であったが、西洋の教育を受け、フランス語の出来る人たちで、主に大企業や官庁の下級職員や中小企業家、職人などで構成されていた。(註5)独立闘争の先頭に立ったのは、この人たちである。

■ 独立

58年当時、アバコ党(註6)、コンゴ国民運動 (註7)、コナカ党(註8)などの政党が活動していた。

アバコ党が最も力を持ち、カサヴブ(Joseph Kasavubu)とボリカンゴ (Jean Bolikango) が党の人気を二分し、党中央委員会の政策がコンゴ全体の政治の流れを決めていた。カサヴブは即時独立を求めたが、民族色の濃い連邦国家を心に描いていた。

 

カサヴブ

58年10月創設のコンゴ国民運動(MNC)は、従来の民族中心主義を排し、国と大陸の統合を目指して活動を開始した。誠実で雄弁な指導者パトリス・ルムンバ (Patrice Lumumba) が、若者を中心に国民的な支持を得て、第3の勢力に浮上した。ルムンバに影響されたカサイ州バルバ人の指導者カロンジ (Albert Kalonji) が第4勢力の地位を得たが、五十九年六月にルムンバに反発して分裂し、ベルギー人(教会、大企業、政庁)の支持を受けてMNCの勢力を二分した。イレオ(Joseph Ileo)など多数がカロンジと行動を共にした。

 

ルムンバ

カタンガ州では、チョンベ(Moїse Tshombe)がベルギー人財界や入植者の支援を受けてコナカ党を率いていた。

ベルギー政府に独立承認の意図は未だなかったが、58年11月辺りから事態は急変する。西アフリカ及び中央アフリカの仏領諸国が次々と共和国宣言をしたこと、12月にガーナの首都アクラで開かれた第一回パンアフリカニスト会議に出席したルムンバが帰国したことに刺激を受けて、独立への機運が急激に高まったからである。

翌年1月4日、レオポルドヴィルで騒乱が起き、50人以上の死者を出した。事態を無視できなくなったベルギー政府は独立承認の方法を模索し始め、60年1月20日から27日にかけてコンゴ代表44名をブルッセルに集めて円卓会議を開催して、急遽、同年6月30日の独立承認を決めた。

■ 宣戦布告

5月に行なわれた選挙でMNCは137議席中の74議席を得てルムンバが首相にはなったものの、絶対多数には届かず、カザヴブの大統領職と、大幅な分権を認める中央集権制を容認せざるを得かった。民族的、経済的基盤を持たず、分裂要素を抱えたまま、大衆の支持だけが支えの船出となった。

6月30日の独立の式典で、ルムンバはコンゴの大衆と来賓に、次のように宣言した。

「……涙と炎と血の混じったこの闘いを、私たちは本当に誇りに思っています。その闘いが、力づくで押し付けられた屈辱的な奴隷制を終わらせるための気高い、公正な闘いだったからです。

80年来の植民地支配下での私たちの運命はまさにそうでした。私たちの傷はまだ生々しく、痛ましくて忘れようにも忘れることなど出来ません。十分に食べることも出来ず、着るものも住まいも不充分、子供も思うように育てられないような賃金しか貰えないのに、要求されるままに苦しい仕事をやってきたからです。

私たちは、朝昼夜となく、侮蔑と屈辱と鉄拳を味わってきました。私たちが「黒人」だったからです……

私たちは、白人のための法律が決して黒人用の法律と同じではないのを味わってきました。白人用の法律は寛大でしたが、黒人用の法律は残酷で、非人間的だったからです。

政治的な意見や宗教上の信念を捨てることを強いられた人たちの酷い苦しみを私たちは見てきました。追放者としてのその人たちの運命は、死よりも惨いものでした。

私たちは、街の白人用の豪邸と、黒人用の崩れかけのあばら家を見てきました。黒人は「白人用」の映画館やレストランや店には行けませんでした。黒人は船に乗ればいつも、豪華な客室にいる白人の足元のまだ下の船底に押し込められて旅行をしてきました。

そして最後に、本当にたくさんの仲間が撃ち殺されたり、搾取や抑圧の「正義」の支配にこれ以上屈服しないぞと言った人たちが独房に入れられたりしたのですが、そういった射殺や独房を忘れることなど出来ません。

みなさん、そうしたすべてのことが、最も深い悲しみだったと思います。

しかし、選ばれた代表が我が愛する祖国を治めるようにとあなた方に投票してもらった私たちは、身も心も白人の抑圧に苦しめられてきた私たちは、こうしたすべてが今すっかり終わったのですと言うことが出来ます。

コンゴ共和国が宣言され、今や私たちの土地は子供たちの手の中にあります……

共に、社会正義を確立し、誰もが働く仕事に応じた報酬が得られるようにしましょう。

自由に働ければ、黒人に何が出来るかを世界に示し、コンゴが全アフリカの活動の中心になるように努力しましょう……

過去のすべての法律を見直し、公正で気高い新法に作り変えましょう。

自由な考えを抑え込むのは一切辞めて、すべての市民が人権宣言に謳われた基本的な自由を満喫出来るように尽力しましょう。

あらゆる種類の差別をすべてうまく抑えて、その人の人間的尊厳と働きと祖国への献身に応じて決められる本当の居場所を、すべての人に提供しましょう……

最後になりますが、国民の皆さんや、皆さんの中で暮らしておられる外国人の方々の命と財産を無条件で大切にしましょう。

もし外国人の行いがひどければ、法律に従って私たちの領土から出て行ってもらいます。もし、行いがよければ、当然、安心して留まってもらえます。その人たちも、コンゴのために働いているからです……

豊かな国民経済を創り出し、結果的に経済的な独立が果たせるように、毅然として働き始めましょうと、国民の皆さんに、強く申し上げたいと思います……」(註9)

このルムンバの国民への呼びかけは、同時にベルギーへの宣戦布告でもあった。

(たまだよしゆき・アフリカ文学)

 

〈註〉

1 Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost (Boston, New York: Houghton Mifflin Company, 1998), p. 124.

 

2 Leopold’s Ghost, p. 279.

3 Leopold’s Ghost, p. 278.

4 小田英郎『アフリカ現代史Ⅲ中部アフリカ』(山川出版社、1986年)、118ペイジ。

5 ルムンバ著・中山毅訳「訳者あとがき」、『祖国はほほ笑む』(理論社、1965年)、270~271ペイジ。

6 The Abako: Association pour la Sauvearde de la Culture et des Intérêts des Bakongo.

7 MNC: the Mouvement National Congolais.

8 The Konakat: Confederation of Tribal Associations of Katanga.

9 Thomas Kanza, The Rise and Fall of Ptrice Lumumba (London: Red Collings, 1978), pp. 161-164. ルムンバ著・榊利夫編訳『息子よ未来は美しい』(理論社、1961年)、67頁~72ペイジにも収載されている。

 

執筆年

2004年

収録・公開

未出版(ごんどわな25号に収載予定でしたが、24号以降は出版されないままです。)

  後にまとめて出版→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号(2006年)61-69頁。

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コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』

2000~09年の執筆物

概要

グギの言語選択と亡命後のケニアの状況を論じたグギの作家論、作品論です。英語で書いていたグギが母国語のギクユ語で書き始めた動機、ギクユ語で農民や労働者のために書いた劇『結婚?私の勝手よ!』(Ngaahika Ndeenda, 1978)の上演から逮捕・拘禁、亡命に至るまでの経緯を、亡命後に出された新聞や雑誌のインタビュー記事を基に検証した後、『結婚?私の勝手よ!』の作品と、経済不況やエイズ禍に見舞われている亡命後の二十年の分析を行ないました。

本文(写真作業中)

Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics:

his language choice and legacy

  1. “Shipwrecked”

The aim of this essay is to provide an estimation of Ngugi wa Thiong’o and his writings by tracing how he made a language choice of his writing, and how he has been forced to live in exile and still struggles against injustice from outside his country.  The following analyses are to point out the harsh realities that contemporary African writers in politics are to confront, and at the same time, to pose us a grave question that part of the prosperity in the developed world is based on the sacrifice of those kinds of harsh realities that Ngugi is now confronting.

Twenty years have passed since Ngugi wa Thiong’o visited London on June 8, 1982 and never returned to his home.  He is staying in the United States in exile and his homecoming has never been realized.  As he refers to his own situation as being “shipwrecked,” recalling James Joyce’s mariners, renegades, and castaways, he is now living “the reality of the modern writer in Africa.”1

Why was he forced to be “shipwrecked”?  The reason is quite simple; he became a real threat to the Kenyan government.

He was educated at Makerere University, Uganda and at Leeds University, in the United Kingdom, in a Western style as many African leaders were.  “At Makerere University the course was based on the syllabus for English studies at the University of London,”2 so in due course he began to make his writings in English under the name of James Ngugi.  His works were highly evaluated; Weep Not, Child won the first prize for Anglophone novels at the first World Festival of Negro Arts in Dakar in 1966; he was awarded the Lotus Prize in Literature at the 5th Afro-Asian Writers Conference in Alma Ata, Khazakhstan in 1973.  That same year he attended the International Emergency Conference on Korea in Tokyo and delivered a speech, appealing for the release of the Korean poet Kim Chi Ha, then imprisoned in South Korea.

In 1967 he became Special Lecturer in English of University College, Nairobi, the first African member of the department.  At many international conferences he delivered vigorous plenary speeches and presented extensive papers.  He was also invited by many universities to lecture.  All his activities, however, were in the context of English literature by an African writer, not in the context of African Literature.  As long as he was perceived in this context, he was not a real threat to the regime; on the contrary he was to play a role of the spokesman who showed the world that the newly independent Kenya was a “democratic” country with freedom of speech guaranteed.

It was not until he began to walk together with peasants and workers by making his writings in his mother tongue, Gikuyu, after changing name to Ngugi wa Thiong’o that he became a symbol of threat to the system.

In Kenya, like in other African countries, the basis of the exploiting system is peasants and workers.  When Europeans began to colonize African countries, they robbed Africans of their land and posed them various taxes, so Africans were forced to become landless peasants and workers.  Some were forced to pick up tea as wage workers in white man’s farms and others to serve as domestic workers for white families.  In that system there were no problems for the regime as long as Ngugi was not truly on the side of the peasants and workers, however hard he made his literary activities even in an international context.

The situation became totally different when Ngugi began to stand on the side of peasants and workers.

  1. “To choose an audience is to choose a class”

Under the colonial system the creation of a middle class was intentionally prevented by Europeans and filled the gap with imported foreigners.  But companies and plantations needed foremen who served as mediators and could speak the language of the employers, which led to the development of a new type of administrative African middle class.  They were given the privilege of going to school and learned much of European culture.  They began to read criticism against colonialism.  Some of them reacted against the cultural oppression in the colonies.  Some of them were against social discrimination as a group, but they were tempted to imitate the Europeans’ privileged way of life.  From the beginning Ngugi was involved in that kind of contradiction.

So, it is natural that while he was active as a creative writer and teacher at Nairobi University, he repeatedly asked himself: “For whom do I write?”  He keenly felt the contradiction of language choice.  He recalls:

I was a student at Leeds University in the mid-Sixties when I first strongly felt a sense of despair at that contradiction in my situation as a writer.  I had just published A Grain of Wheat, a novel that dealt with the Kenyan peoples’ struggle for independence.  But the very people about whom I was writing were never going to read the novel or have it read for them.  I had carefully sealed their lives in a linguistic case.  Thus whether I was based in Kenya or outside, my opting for English had already marked me as a writer in exile.  Perhaps Andrew Gurr had been right after all.  The African writer is already set aside from people by his education and language choice.

The situation of the writer in 20th-century Africa mirrors that of the larger society.  For if the writer has been in a state of exile – whether it is physical or spiritual – the people themselves have been in exile in relationship to their economic and political landscape.3

When he was involved in the community activities by the peasants and workers, it was natural that he made a major shift in his life.  At that time there was a choice for him as to whether he should stand on the side of the regime or on the side of peasants and workers.  He explains:

In 1976 the peasants and workers of Kamiriithu village, which is about 30km from Nairobi, came together to form what later came to be called the Kamiriithu Community, Education, and Culture Centre.  These people wanted a theatre.  How could one then write or script a play without using their own language?  I must say that this was a major shift in my life, and part of my decision, in fact, to write in the Gikuyu language had its origins in my experience working with the people of Kamiriithu.4

He chaired the cultural committee of the Centre, which commenced adult literacy classes.  Village-based theatre groups were established and tried to create their own performances but found it difficult to find a theatre to perform in.  Even after independence, in every phase of society the cultural forces representing foreign interests were virtually dominant.  Ngugi points out:

Now our visitor might visit schools.  The English language dominates a Kenyan child’s life from primary school to university and after….a Kenyan child grows up admiring the culture carried by these foreign languages, in effect western European ruling class cultures and looks down on the culture carried by the language of his particular nationality….

But it is in the theatre that this domination by foreign cultural interests is most nakedly clear.  Nairobi has recently seen a mushrooming of neo-colonial foreign cultural institutions like the French Cultural Centre, the German Goethe Institute, the Japanese Cultural Institute, and of course the American Information Services.  Some of these institutes promote theatre and theatre-related events and discussions.  But naturally they are basically interested in selling a positive image of their neo-colonial profit-hunting adventurism in Asia, Africa and Latin America….

What really annoys most patriotic Kenyans about the theatre scene in their own country is not so much the above foreign presences but the fact that the Kenya government-owned premises, The Kenya Cultural Centre and The Kenya National Theatre, should themselves be controlled by foreigners offering foreign theatre to Kenyans.  A foreign imperialist cultural mission, i.e. The British Council, occupies virtually all the offices at The Kenya Cultural Centre.  The governing council of the same Centre is chaired by a British national and The British Council is in addition represented on the council.  The Kenya National Theatre which is run by the governing council is completely dominated by foreign-based theatre groups like The City Players and Theatre Ltd.  What these groups offer has nothing to do with Kenyan life except when maybe they offer racist shows like The King and I or Robinson Crusoe….5

Given these circumstances the group at the Center began to perform their own play by themselves in 1977.  They asked Ngugi and his colleague Ngugi wa Mirii to script a play in Gikuyu.  It was a turning point and a major shift in his life; he was not able to avoid his language choice.  He sums up his own choice:

…If you write in a foreign language, you are (whether you like it or not) assuming a foreign-language readership.  In other words, if you are writing in English you must be assuming an English-speaking readership – in most African countries this can only mean a minority ruling class, a ruling class which is often the object of your criticism as a writer.  If I write in the Gikuyu language (or in any African language, for that matter); I am assuming an African readership and so, in fact, am assuming a peasant and worker audience.  That is why it is correct to say that to choose an audience is to choose a class.6

Ngugi chose a peasant and worker audience and, along with Ngugi wa Mirii, wrote for them a script of Ngaahika Ndeenda which later came to be known as I will marry when I want.

He became reassured that he should play the role of a writer:

What is important is not only the writer’s honesty and faithfulness in capturing and reflecting the struggles around him, but also his attitude to those big social and political issues.  It is not simply a matter of a writer’s heroic stand as a social individual – though this is crucial and significant – but the attitudes and the world view embodied in his work and with which he is persuading us to identify vis-a-vis the historical drama his community is undergoing.  What we are talking about is whether or not a writer’s imaginative leap to grasp reality is aimed at helping in the community’s struggle for a certain quality of life free from all parasitic exploitative relations – the relevance of literature in our daily struggle for the right and security to bread, shelter, clothes and song, the right of a people to the products of their own sweat.  The extent to which the writer can and will help in not only explaining the world but in changing it will depend on his appreciation of the classes and values that are struggling for a new order, a new society, a more human future, and which classes and values are hindering the birth of the new and the hopeful.  And of course it depends on which side he is in these class struggles of his times.7

Through the theatrical activities with peasants and workers, he made clear his standpoint as a writer.  He began to stand on the side of the class of peasants and workers.

Those peasants and workers were enthusiastic; they designed and built an open-air stage in the centre of the village.  The actors were all peasants and workers.  They completely broke with the hitherto accepted theatrical traditions; the initial reading and discussion of the script was done in the open; the selection of actors was done in the open with the village audience helping in the selection; all the rehearsals for four months were done in the open with an ever increasing crowd of commentators and directors; the dress rehearsal was done to an audience of over one thousand peasants and workers.

“When the show finally opened to a fee-paying audience, the group performed to thousands of peasants and workers who often would hire buses or trek on foot in order to come and see the play.  For the first time, the rural people could see themselves and their lives and their history portrayed in a positive manner.  For the first time in their post-independence history a section of the peasantry had broken out of the cruel choice that was hitherto their lot: the bar or the church.  And not the least, they smashed the racialist view of peasants as uncultured recipients of cultures from beneficient foreigners.”8

With the help of writers peasants and workers began to become conscious of their position in the society and to understand the exploiting system around them, which might have been a real threat to the regime.

  1. Ngaahika Ndeenda

How is his imaginative leap to grasp reality “aimed at helping in the community’s struggle for a certain quality of life free from all parasitic exploitative relations”?  How could “thousands of peasants and workers see themselves and their lives and their history portrayed in a positive manner”?

Ngaahika Ndeenda is a three-act play about Kiguunda, a farm labourer and his relatives and his neighbours.  He is cheated by Ahabkioi (Kioi), a wealthy farmer and businessman and robbed of his land.  In the process he realizes how farm labourers are exploited by wealthy Kenyans who collaborate with foreign businessmen, and at the same time how important their unity is to struggle “for the right and security to bread, shelter, clothes and song, the right of a people to the products of their own sweat.”

In the play Kiguunda complains of their hardships of life:

…I drive a machine all the day,

You pick tea-leaves all the day,

Our wives cultivate the fields all the day

And someone says you don’t work hard?

The fact is

That the wealth of our land

Has been grabbed by a tiny group

Of the Kiois and the Ndugires

In partnership with foreigners!…9

Kiguunda is one of the poor wage workers.  One day he receives Kioi’s visit.  Kioi has become rich as he was one of the homeguards who were employed as local agents enforcing Emergency rules during the Independence War.  His aim was to acquire Kiguunda’s small pieces of land.  A foreign businessman asks Kioi to drive the poor labourers to sell their strips of land for a planned insecticide factory.  He always collaborates with foreign businessmen.

Kiguunda is cornered and ends up with losing his land.  He tries to kill Kioi with a knife for revenge, but in vain.

One of the neigbours tries to comfort Kiguunda during his troubles.

Whatever the weight of our problems,

Let’s not fight among ourselves.

Let’s not turn violence within us against us,

Destroying our homes

While our enemies snore in piece.…10

At the end of the play they sing together in unison;

[Sings]

Two hands can carry a beehive,

One man’s ability is not enough,

One finger cannot kill a louse,

Many hands make work light.

Why did Gikuyu say those things?

Development will come from our unity.

Unity is our strength and wealth.

A day will surely come when

If a bean falls to the ground

It’ll be split equally among us,

For –11

This historical success of those peasants and workers eventually leads to Ngugi’s political detention.  At the end of 1977 he was arrested and detained.  After about a whole year’s detention he was released, but denied his position of University of Nairobi.  In 1979 he was arrested again, this time, with Ngugi wa Mirii, the co-author of Ngaahika Ndeenda.

  1. Kenyatta detained Ngugi

In 1977 Ngugi was detained by the president Jomo Kenyatta, who once fought against colonialism for independence together with peasants and workers.  In 1979 he was detained by Daniel arap Moi who succeeded Kenyatta and has ruled unchallenged for more than twenty three years.

It was ironic indeed that Jomo Kenyatta, the hero of the Independence War detained Ngugi.  Kenyatta, once one of the oppressed, who fought against the oppressor for independence, became the oppressor.  Ngugi hints to us how Kenyatta made the shift after independence;

But KANU (the Kenya African National Union) was a mass movement containing within it different class strata and tendencies: peasant, proletarian, and petty-bourgeois.  Leadership was in the hands of the petty-bourgeoisie, itself split into three sections representing three tendencies: there was the upper petty-bourgeoisie that saw the future in terms of a compradorial alliance with imperialism; there was the middle petty-bourgeoisie which saw the future in terms of national capitalism; and there was the lower petty-bourgeoisie which saw the future in terms of some kind of socialism. The upper petty-bourgeoisie can be branded as comprador; and the middle and lower petty-bourgeoisie can be branded as nationalistic. The internal struggle for the ideological dominance and leadership of KANU from 1961 to 1966 was mainly between the faction representing comprador bourgeois interests, and the faction representing national patriotic interests.  The faction representing the political line of comprador bourgeoisie was the one enormously strengthened when KADU (the Kenya African Democratic Union) joined KANU.  This faction, led by Kenyatta, Gichuru and Mboya, also controlled the entire coercive state machinery inherited intact from colonial times.  The patriotic faction was backed by the masses but it did not control the central organs of the party or the state and it was the one considerably weakened by KADU’s entry.  But the internal struggles continued with unabated fury.

The struggles were primarily over what economic direction Kenya should take. The comprador bourgeoisie which had been growing in the womb of the colonial regime desired to protect and enhance its cosy alliance with foreign economic interests….

But by 1966, the comprador bourgeois line, led by Kenyatta, Mboya and others, had triumphed.  This faction, using the inherited colonial state machinery, ousted the patriotic elements from the party leadership, silencing those who remained and hounding others to death.12

Kenyatta, as the president of the state and the representative of the comprador bourgeoisie class, had no other choice but to oust Ngugi, one of the patriotic elements, for he was a real threat to the whole system.  Through cultural activities Ngugi helped peasants and workers, the very basis of the exploitative system, to be conscious of who they are and what the system is.

And, he was “shipwrecked.”

  1. “The continent left to die”

In the past twenty years while Ngugi was away from his country, the comprador bourgeoisie class and some industrialized countries have enhanced their alliances by strengthening their economic ties.  Those industrialized countries have prospered by making the best use of ODA (Official Development Assistance), an important instrument of neo-colonial strategies, in addition to investments and trade.  Japan is one of the leading trading partners being the No. 1 ODA donor to Kenya.13  The comprador bourgeoisie class, the most influential force in those countries, has salted away a personal fortune by using the state machinery.  President Moi is believed to own a whole street in Hawaii, some buildings in New York City, and to keep a tremendous amount of money in a Swiss bank, as Mobutu in Zaire once did.  The debts of the country have accumulated year by year.  Corruption has eaten deep into the fabric of the whole society.  The gap between the rich and the poor has deepened further.  The land has deteriorated even more.  And now the AIDS epidemic has attacked the country relentlessly.  This sexally transmitted disease is fatal in poor countries, especially in a culture like Kenya’s where prostitution and male promiscuity are widely accepted because of the polygamy system.

Once a person is infected with HIV, there is no cure at present, even though therapy can prolong the lives of the patients.  It follows that without drugs many infected victims will die soon or later in countries like Kenya.  The drastic reduction of population in developing countries never fails to threaten the present structure of the neo-colonial system in the industrialized countries to its foundation, for the basis of exploitation is upon peasants and workers in developing countries.

Researchers have developed a lot of drugs and now multi-drug therapy, through a combination of reverse transcriptase inhibitors and protease inhibitors, is transforming and prolonging the lives of many AIDS patients.  But the price of the drugs is tremendous even in the industrialized countries.  In developing countries like Kenya, drug therapies are completely out of reach financially.

“Africa: the continent left to die,” the title of a newspaper article, is very shocking, but it symbolizes the scourge of this AIDS epidemic:

Twenty years is a long time.  The fact that Ngugi’s homecoming has not been realized shows that the comprador bourgeoisie class has prospered by using the state machinery and by enhancing alliances with foreign economic interests.  But the land has deteriorated even more.  The gap between the rich and the poor has deepened.  The country is in crisis with corruption and accumulated debts.  And now the AIDS threat has been added.  “Africa: the continent left to die,” the title of a newspaper article, is very shocking, but it symbolizes the plight of this AIDS situation:our time;

With the “AIDS time bomb" widely perceived as having been brought under control in the industrialised world, new figures show that despite strenuous efforts in many African countries, the Human Immunodeficiency Virus (HIV) is beginning to exact its deadly toll on the continent.  At least 30 million Africans are expected to die from AIDS in the next 20 years: it will kill more people than war or famine, it will undermine young democracies and put millions of orphans on the streets.

Among Africans, whose nutritional intake is poor, Acquired Immune Deficiency Syndrome (AIDS) kills quickly.  Among the uneducated and superstitious, where the status of women is low, AIDS spreads unhindered and sufferers are thrown out by their families or have their homes burnt down.  Only a tiny elite can afford drugs such as AZT, 3TC and protease inhibitors, which can make AIDS a chronic disease rather than a death sentence.14

Kenya is in a deep crisis that we have never seen before.  Ngugi’s mother country is now “left to die.”

Kenya, Ngugi wa Thiong’o’s mother country, is now “left to die.”

(Miyazaki Medical College)

<Notes>

1 Ngugi wa Thiong’o, “From the corridors of silence,” The Weekend Guardian (October 21-22, 1989), p. 2.

2 Ngugi, “Ngugi on Ngugi,” in Ngugi wa Thiong’o: The Making of a Rebel by Carol Sicherman (Hans Zell Publishers, 1990), p. 21.

3 Ngugi, “From the corridors of silence,” p. 3.

4 Ngugi, “Interview with Ngugi wa Thiong’o,” Marxism Today (September, 1982), p. 35.

5 Ngugi, Writers in Politics (London: Heinemann, 1981), pp. 43-44.

6 Ngugi, “Interview with Ngugi wa Thiong’o,” p. 35.

7 Ngugi, Writers in Politics, pp. 74-75.

8 Ngugi, Writers in Politics, p. 47.

9 Ngugi, Ngaahika Ndeenda; I Will Marry When I Want (Harare: Zimbabwe Publishing House, 1986), pp. 61-62.

10 Ngugi, Ngaahika Ndeenda; I Will Marry When I Want, p. 110.

11 I Will Marry When I Want, pp. 114-115.

12 Ngugi, Detained: A Writer’s Prison Diary (London: Heinemann, 1981), pp. 52-54.

13 The Homepage of the Ministry of Foreign Affairs of Japan:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda99/ge/g5-12.htm

14 Alex Duval Smith, “Africa: the continent left to die,” The Independent included in The Daily Yomiuri (September 12, 1999), p. 14.

執筆年

2003年

収録・公開

「言語表現研究」19号 12-21 ペイジ

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Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy