概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の10回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。
日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)
解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)
本文
『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―
(10) 第11章 リバーロード診療所
ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)
第11章 リバーロード診療所
ギチンガ医師が卑しい人だと言えるのかどうかは私にはわかりません。毎月私の方から請求する必要があったとは言え、きちんと給料は支払ってくれました。ドクターGGは給料の請求はしませんでしたが、診療所から上がる診療代から自分の分は取っていました。それが実際の額だったのかどうかは分かりませんが、ドクターGGの酒の量は、ギチンガ医師には毎月の貸しがあると周りに言っていた額の2000シリングとはどうも釣合いが取れないように見えました。金がなくなると、私もドクターGGと同じように診療代から金をもらう誘惑に駆られましたが、自分の雇い主に見つかるのがとても怖いと思いました。私は自分の収入の範囲で暮らす正直でしっかりとした医者になりたいと思っていました。注射が必要な病気の場合は大抵、診療代は30シリングからでした。普通に市販されている薬では難しそうな軽度の性感染症や傷口の化膿や咳と風邪が殆んどでした。さらに複雑な症状の場合は、ギクユのトーチ教会の近くにあるP.C.E.A.(東アフリカプレスビテリアン教会)病院を紹介しました。
ンデュクにはどうして私に金がなくなるのかが理解出来ませんでした。
「オモロ先生は今、新車のフォルクスワーゲンに乗ってるわ。」とンデュクがしゃべり始めました。「それから、つい最近インドの医大を出たそうよ。」とンデュクは付け足して言いました。
「ニャンボガは、パークランズに越して来たわ。ハミルトンとハリソンとマシュー病院で助手をしてるだけなのにねえ。」とンデュクが続けました。
メアリ・ンデュクに遠回しに嫌みを言われて、どうしてそんなに苛々したのかは分かりませんが、私は同僚と比べられるのが大嫌いでした。おそらく遠回しに嫌みを言うのが私には効果的だと、ンデュクには分かっていたのでしょう。睨みつけるような私の顔をみて、ンデュクは一瞬ひるみましたが、
「お金持ちになりたいと思ったことは一度もないの?」と絞り出すような声で言いました。必死になって医者にならずに、生まれ育ったタラの町にいるべきだったんでしょうか。しかし、ンデュクの言い分にも一理がありました。当時ケニヤでは、皆金を儲けることばかりで、如何に金を儲けるかなど殆んど問題にしていませんでした。お金が一番だと誰もが考えているようでした。そんな朝、ギチンンガ医師が、歯の治療で200シリングもぼったくられた、と文句を言いながら入ってきました。
「あの忌まわしい金属の機械で45分間も拷問にかけておいて、200シリングの請求書を叩きつけるなど、考えられるか?歯医者の奴らめ、いかれてやがる!」とギチンンガ医師は息巻きました。オモロ医師は、歯科医の世界に足を踏み入れた、ケニアでも数少ない医者の1人でした。歯科医にとっては幸か不幸か、ケニアでは富裕層は除いて、個人的に治療に来る患者はそう多くありませんでした。したがって、歯科医が定期的に診る患者はほんの数えるだけで、治療に行けば必ず高額の治療費を払わされ、少ない患者の埋め合わせをさせられました。
「あいつが自分専用のX線の機械を持っているなんて考えられるか?」とギチンガ医師は続け、「それに、住んでるマンションの家賃に5000シリングも払えるんだからな。」と付け加えました。
ギチンガ医師がナイロビで2件目の診療所を開こうと考えたのは、この時だったと思います。しかしギチンガ医師は、金持ちの多いナイロビの中央ではなく、リバーロードを選びました。
ナイロビ市街市街
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私たちの診療所はすぐに活動の拠点となりました。診療所はカンポスリベイロ通りの真ん中にありました。隣は、ナイロビの娯楽の殿堂ワカリヌロッジでした。少し歩いて行くと、ワンデルやニャンザ、アマニ、ハリアン、マシャルブといった、日中や夜間営業のクラブが並んでいました。クラブとクラブの間には、昼間の逢引き用専門のゲストハウスがあり、急増するナイロビの男性に最も人気があるようでした。リバーロード診療所の4、5軒先にはワナンチ薬局があり、それに隣接して、夫妻が経営する婦人科専門のペタル診療所が建っていました。
私はすぐに、如何にンデルとリバーロードの診療所が互いを補ない合っているかをギチンガ医師から学ぶようになりました。ナイロビのように法律の厳しいところでは、たとえ法律を犯しても密かに処置出来ない場合がありました。中絶や新生児の売買や密輸された薬剤や器材の保管などです。一方、ナイロビのリバーロードでは、性感染症の商売が繁盛していました。リバーロード診療所では、梅毒や淋病に感染した患者が、ケニア中央病院に行かず、有名なリバーロードカジノの向かい側にある、悪評の高い性感染症診療所にも行かず、100シリングほどを払って、ペニシリン注射を受けていました。殆んどが所得の少ない田舎の人たちであったために診療所の収入が少なかったンデルでは、そういった病気を警察の捜査の手が及ばない範囲で処置をする所を紹介してもらえる診療所の役目をリバーロード診療所が果たしていました。私は本来ならリバーロード診療所の勤務でしたが、より複雑な患者を診るために、時々はンデル診療所にも行きました。ドクターGGはンデルの担当医を続けていましたが、薬を買うか、ギチンガ医師に相談するかの場合以外は、ナイロビに来ることもなく、リバーロード診療所で働くこともありませんでした。
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執筆年
2009年10月10日