2000~09年の執筆物

概要

1992年に家族でジンバブエに行き、首都のハラレで2ヶ月半を過ごしました。帰国後、暫くは何も書けませんでしたが、半年後に何とか思いを書きとめて1冊の本にまとめました。

まだ本の形では出版がかなっていませんが、その抜粋を「ごんどわな」(横浜:門土社)に「ジンバブエ大学① アレックス」(2000)、「ジンバブエ大学② ツォゾさん」(2000)、「ショナ人とことば」(2001)と題して寄せています。

出版を前提に、今回は元の原稿に少し手を入れ、抜粋をこの雑誌に寄せることにしました。雑誌では2段組の縦書きですが、ここでは横書きに改め、少し写真を入れました。

本文(写真作業中)

ジンバブエ

1992年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした2ヶ月半をまとめた滞在記の一部です。文部省の在外研究員としてジンバブエ大学に通いました。

アフリカについて考えるようになったのは偶々です。85年にリチャード・ライト国際シンポジウムがあり、ミシシッピ州立大学に行ったのですが、その時の発表者の一人、ケント州立大学英語科教授の伯谷嘉信さんから87年の会議での発表の誘いを受け、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマについて発表することになりました。その頃から南アフリカの歴史についても考えるようになり、出来れば家族とある一定の期間アフリカで住んでみないと気が引けるなあ、と思うようなりました。

在外研究に行ける可能性が高かった1991年に文部省に申請の書類を出した時は、ラ・グーマの生まれ育ったケープ・タウンに行ってみたいと考えていました。しかし、申請した時点では、日本政府は、表向きは一応反アパルトヘイトを標榜して南アフリカとの文化・教育の交流の禁止措置を取っていましたので、国家公務員の南アフリカ行きは認められませんでした。結局は、「国内が独立に向けての混乱期でもあるので今回は遠慮して」、「しかし、折角の機会でもあるので、せめて『遠い夜明け』のロケ地となった南アフリカとは地続きの隣国ジンバブエの赤茶けた大地を見に行こう」、と自分に言い聞かせて、ジンバブエ大学に行くことにしました。しかし、知り合いがいたわけではありません。ジンバブエ大使館とジンバブエ大学に問い合せる一方、知り合いの紹介で、ハラレ在住の吉國恒雄さんに手紙を書きました。吉國さんは、アメリカの大学とジンバブエ大学でアフリカ史を学んだあと、現地採用でハラレの日本国大使館に勤務されていた方です。「恐ろしく不動産事情が悪いので、最悪の場合はホテル住まいになるかも知れません。」という手紙をもらっていましたが、ある日、家が見つかりましたので、という国際電話がありました。82歳の老婆がスイスに出かける間、家具付きで貸して下さるというのです。1ヵ月約10万円の家賃でした。宮崎を離れる10日ほど前のことです。

ハラレ第一日目

ハラレの空はからりと晴れていました。

ロンドンのヒースロー空港を真夜中に出た英国航空機は、およそ10時間後、ジンバブエの首都ハラレに着きました。92年7月21日のことです。日本では猛暑の季節ですが、南半球では真冬でした。海抜千500メートルの高原地帯にあり、雨期と乾期のあるサバンナ気候で、1年中過ごし易いところです。すんなり税関を通過し、待合室で吉國さんの奥さんの出迎えを受けました。2日前に車の盗難に遭ったという奥さんの話を聞きながら、私たちを乗せた車は独立記念のアーチをくぐり、ハラレの中心街を抜けて、これからの2ヵ月半を暮らす、アレクサンドラ・パーク地区フリートウッドロード22番地に到着しました。

500坪近くもある広い所で、オランダ風の建物がたっていました。南西の隅に車庫と「庭師」用の小さな建物があり、その建物の北側には野菜園がありました。庭には、パパイヤとマンゴウがたくさんの実をつけ、ジャカランダの大木が2本あり、北側にはハイビスカスの生垣がありました。

ハラレでの借家

道を隔ててアレクサンドラ・パーク小学校があり、ジンバブエ大学の建物も見えます。「この家の持ち主のおばあさんが雇っておられるゲイリーです。給料はおばあさんからもらうそうです。普段のゲイリーの仕事は、庭の手入れと、犬の世話かな。おばあさんがいる時は、買物や銀行にも行かされているようね。少しくらいなら手伝ってくれるでしょう。何かあったら、頼んでみて下さい。」と奥さんから紹介されたのが、ガリカーイ・モヨさんで、190センチ近くはある、すらりとしたショナ人でした。

体長が1メートル50センチほどの犬もいました。前脚が悪そうでしたが、デインと呼ばれる番犬のようです。ゲイリーがいたからでしょう、初めての私たちにも吠えませんでした。

ゲイリーとデイン

南の棟には、寝室が3つと風呂と台所、西側の棟には食堂と居間がありました。居間は20畳ほどで、応接セットに机とテレビが置いてあります。スイッチを入れたらぶんという音がして、映像が出るまでに少し時間がかかりました。

ダブルベッドのある12畳ほどの東の部屋を長男と私が、真ん中の6畳くらいの部屋を長女が、西側の7畳ほどを妻が使うことにしました。見かけとは違って、全体に陽当たりも風通しも良くないようでした。長女の入った部屋は犬が使っていたようで、臭いもひどく、ぎしぎしと大きな音をたて、寝心地が悪そうでした。どの部屋も照明器具がお粗末で、全体に暗い感じです。3方が広い窓の12畳くらいの台所には、冷蔵庫と4つ続きの電熱器があり、湯も出るようでした。故障したトースターと芝刈り機に似た掃除機もあります。電源を入れて試してみましたが、1円玉も吸いこまず役に立ちそうにありません。願ってもない邸宅を世話してもらっておきながら、文句ばかり、我ながら浅ましく思いました。便利で快適な日本の生活に浸りきっているようです。

夕方、吉國さんが食事に招待して下さいました。お宅は、同じ地区内の2キロほど北東にあり、手入れの行き届いた庭のある閑静なお住まいでした。久しぶりの家庭料理を味わいながら、子供たちはゲームを楽しみ、私たちは吉國さん夫妻のお話をうかがいました。ハラレでは、1年を通じて北東から南西の方角に概ね風が吹くようで、白人入植者は東側に水源地を確保したあと、南西の方角にアフリカ人の居住区(ロケイション)を造ったそうです。工業地帯をその間に置いて、緩衝地帯にしたと言います。なるほど、アフリカ人は風上には置かないということか。待てよ、どこかで似たような話を聞いたことがあるぞ。ジョハネスバーグ近郊のアフリカ人居住区ソウェトだ。 SOUTH WEST TOWNSHIPのそれぞれの頭2文字を取った地名です。ジョハネスバーグの南西にあり、55年のソフィアタウン強制撤去の後に自然発生的に生まれたといわれる地域です。金鉱のボタ山が、緩衝地帯になっています。そう遠くないハラレが、ソウェトのモデルだったのか。

遠く離れたアフリカの歴史などは、ややもすれば歴史の方から人の生活を捉えがちですが、実態は、いいものを食べたい、いい家に住みたいというようなごく一般的な欲望が、結果的に歴史を作ったのではないか。吉國さんと話している時、ふとそんな思いに捕らわれました。

こうして、ハラレの第1日目が終わりました。

突然の訪問者

暮らし始めると、予期せぬ事態が起きるものです。

第2日目、「誰か玄関に来てるよ」という長男の声に起こされました。8時過ぎです。朝早くから誰だろう、そう考えながら玄関を開けると、すらっとしたショナ人らしき女の人が立っていました。突然のことで事態がよく飲みこめませんでしたが、育ち盛りの男の子が3人いるんです、今度来る人に雇ってもらえるから今日来るようにとここのおばあさんから言われました、と言っているようでした。取り敢えず10ドルを手渡して、引き取ってもらいましたが、吉國さんに相談するしかなさそうです。

翌3日目の朝、昨日よりも早い時間です。

「玄関で何か言ってるよ」という長男の声で戸を開けると、今度は中年の品の悪そうな白人女性です。車を置いてもらおうと中に入れたらエンストしてしまった、夫に連絡を取りたいから、電話を貸してほしいという事情のようでした。夫に連絡がつきましたと言い、車に乗り込んで帰って行きました。さては、おばあさんの偵察隊?

次は8日目、7月28日のことです。

10時過ぎにYAMAHAのバイクに乗ったおじさんが突然やって来ました。電気代を払わないと明日から薪の生活になるぞ、明日からでも電気を切るぞと脅しているようです。市役所か郵便局で、明日までに200ドルを払え、24時間は待ってやる、そうでないと、薪の生活だとにやにや笑っています。

翌日、無事払い込んで郵便局で言われたように、市役所に電話をして、支払いを済ませた旨を告げると、その領収書を持って明日来るようにとの返事、何のために行くのかと尋ねたら、来られるでしょうの一言で電話は切れてしまいました。

翌朝、市役所に係の人を尋ねて受け取りを見せたら、「いいですよ」の一言、何がいいものか。こっちは電話をかけるのも大変なのに……大体、支所の係の者が一本電話を入れれば済むことじゃないか。あとから吉國さんに確かめたところによると、ジンバブエでは電気を引く際にはディポジット(保証金)が必要で、電気を切った時には、払い込んだお金は戻ってくるとのことでした。おばあさんは電気を引く際に、保障金を払わなかったようです。支払いなどに関するデータは、すべてコンピューターに入力されるとのことでしたが、入力するコンピューター自体の性能がよくないので、半年後とか、1年後に突然こういった事態が起こり得るのだそうです。ともかく、電気を切られる事態だけは免れたようでした。

今度は、生活にも慣れ始めた8月15日です。

朝早く、突然大きなトラックが進入してきました。作業服を着た2人の青年が、ゲイリーと何やらショナ語で大声の会話を交わしています。ゲイリーの説明によると、家具のレンタル会社が、契約が切れたので、食堂のダイニング・セットを引き取りに来たようです。しかし、突然椅子と食卓を持って帰ると言われても……。何回かのやり取りの末、何とか私たちがこの家を離れる次の日に、改めて引き取りに来てもらうことに落ち着きました。「独り暮らしだから、普段あそこは使ってなかったんでしょう。家を人に貸すことになって、ダイニングセットくらいは入れておかないとでも思ったんでしょうね。古き良き植民地時代にいい思いをしたローデシアばあさんの一種の見栄ですな」と吉國さんが説明して下さいましたが、何とも中途半端な契約をしたものです。

小学校

4日目、アレクサンドラ・パーク小学校に行きました。中学2年生の長女と小学校4年生の長男を受け入れてもらうためです。9月から始まる3学期の最初の1ヵ月しか学校には通えませんし、英語もわかりませんが、2人には又とはない貴重な機会を最大限に生かして欲しいと考えていました。

 

校長は、私たちより少し若そうなショナ人で、黙って事情を聞いたあと、本当に2人分のお金をお支払いになりますかと何回も念を押します。3学期分に1人当たり、授業料など約500ドルが必要だそうで、1万2500百円ほどです。貴重な経験が出来ると思えば、高くはありません。

「何とか空きがありますから、お姉さんは7年生に、弟さんの方は3年生に入ってもらいましょう、この手紙を持って教育省に行き、許可証を貰ってからもう1度学校に来て下さい」と言う校長から手紙をもらいましたが、「あそこの小学校の教員で700, 800から1000ドル、校長でも1500百ドルの月給はもらってないでしょう」という吉國さんの話を聞いた時、校長が念を押した理由に気づきました。実際に学校に通うためには、授業料などの他に経費も必要で、わずか1ヵ月のために大金を払ってまで子供を学校に通わせる理由が、校長には見当がつかなかったのでしょう。吉國さんの話によれば、80年の独立以来、無償だった小学校が、2年前から有償になっているようでした。白人地区に住むアフリカ人の子供を同じ学校に通わせたくないための措置だそうで、植民地時代の良き思い出を捨てきれない反動勢力の巻き返しといったところでしょうか。制服が買えないで学校に行けないアフリカ人も多いと聞くのに、1学期に500ドルも一体誰が払えるというのでしょうか。

そういった事情があるにしろ、校長も好意的な感じでしたし、まだ決まったわけではありませんが、先ずは一安心、週明けに教育省に行けば手続きも、予想していたよりは簡単に済みそうな感じでしたが、そうは行きませんでした。

月曜日の朝、教育省に行きました。建物に入ると、長い人の列、入場者は手荷物検査を受けていて、なかなか順番がまわって来ません。小学校の入学の許可証をもらうだけなのに手荷物まで検査されるとは。

受け付けで指示された部屋に行き、一から事情を説明すると、分かったから次の人のところへ行けということです。今度は女性で、また、一から説明です。少し時間はかかりましたが、やはり分かりましたと言い、教育省の便箋にタイプを打って書類を作ってくれました。正式な許可証のようです。これを持って移民局に行って下さいと言います。書類を見ると、移民局長から出されている貴殿の在外研究員許可証に従って、小学校への入学許可を認めると書いてありました。さて、次は移民局です。何人もの人に場所を尋ねて、移民局に辿り着くと、また長蛇の列で、1時間以上待たされました。やっと順番が来て、また一からの説明です。

「以下のものを揃えて来て下さい。

一、それぞれの子供に対する校長からの推薦状2通、

一、子供のレントゲン撮影の公立病院での証明書2通、

  • 親の承諾書1通、

一、保証人の推薦状1通、

一、外国通貨で経費を支払える証明書1通、

一、登録費1人151ドル2名分302ドル。

よろしいですか。はい、次の方」

それで終わりでした。病院を探しだし、子供たちを連れてレントゲンの撮影に行かなければならないと思うだけで気が滅入ってきます。

その夜はただ疲れ果てて、何もせずに寝てしまいました。その後2日間は学校に出向く気が起こりませんでしたが、3日後に意を決して妻と2人で、再び校長を訪ねました。今までの経緯を話し、移民局からたくさんの提出物を求められたが、来たばかりの私たちには子供を病院に連れて行くのも大変です、校長の裁量で何とかなりませんか、わずか1ヵ月のことでもあるし、お金はきちんとお支払いしますからと目を見据えながら訴えました。これから先の手続きの煩わしさを考えたら、もし効めがあるものなら少々の寄付金を出してもいいとさえ思ったほどです。その思いが通じたのか、しばらく考えたあと、校長は「分かりました、移民局は無視しましょう。学校から手紙を出しますから、その手紙が着いたら、郵便局で経費を支払い、領収書を持って学校へ来て下さい。そのからもう一度、学校から手紙を出します。そのあとは、PTA会費を払ったらそれで完了です。それでどうですか」と言います。それなら、最初からそのように取りはからってくれればよかったのに……。

自転車

小学校の次は、足の確保です。

教育省に出かけた日に、電話で申しこんで初めてタクシーに乗りました。「公共運輸施設はほぼ無いとお考え下さい。タクシーは当てにならないし……」と聞いていましたが、充分に利用出来そうです。窓ガラスの1部が壊れていたり、ドアの把手がないこともありますが、ショナ人の運転手も人が良さそうですし、料金も格段に安いようです。車中心の白人街には、小売店はなく、広い市街地にショッピング・センターが点在しているだけです。買物にも大学にも、自転車は必要なようです。

4日目、街まで自転車を買いに行きました。マニカ・サイクルという店のフロアには、玩具や遊具と一緒に自転車が並べられており、1台1500ドル前後の値札がついていました。事情を説明すると、それなら中古車がいいでしょう、帰る時には引き取りますよと店主が薦めます。結局、中古自転車を2台買うことにしました。1台2万円足らず、性能はあまりよくなさそうでしたが、2ヵ月半、何とか持ちこたえてくれますようにと祈るしかありませんでした。

ジンバブエ大学

次は大学です。日本経由の手紙を、吉國さんの奥さんが届けて下さったのは、4日目の朝です。

「前略

92年1月27日付けの貴殿の手紙が今日私の机に届きましたので、あなたがジンバブエに来られるための手配をする時間が十分にないように思われます。どの国の場合もそうですが、外国人が入国する際には、手続きに時間がかかります。

従いまして、貴殿の計画を新しく練りなおして下さるようお手紙を差し上げている次第です。敬具

7月7日 英語科科長代行トンプソン・ツォゾォ」

既に受け取っていた「貴殿の当大学での在外研究を歓迎いたします」という英語科からの手紙を信じて日本でも手続きを済ませてやってきたわけです。無事に税関を通り抜け、既に家を借りて生活を始めています。まさかそんな手紙が日本に送られ、その手紙が転送されていようとは夢にも思いませんでした。

「予期せぬ事態」も次々と起こるし、小学校、教育省、移民局、市役所や銀行にも足を運ばねばならず、大学に出かけたのは2週目の半ばを過ぎてからで、直接、T・K・Tsodzoと書かれた部屋の戸を叩きました。授業中なのか、部屋の中に数人の学生の姿が見えます。人懐っこいアフリカ人の顔が現われました。この人がツォゾォさんに違いない。私の名前を告げると、一瞬困惑の表情が浮かぶ。きっと、7月7日に書いた手紙を思い出したのでしょう。

ツォゾォ氏は学生に何やら指示を与えてから部屋を出て、ついて来て下さいと言う。廊下を少し歩いて行くと、そこは英語科の部屋でした。事務員の若い3人のアフリカ人女性に紹介を済ませたあと、ツォゾォさんは、さあどうぞと別室に私を招じ入れてくれました。狭い部屋です。ドアには科長室と書かれていました。教育省や移民局などで鍛えられて、少しは英語に慣れてきていたせいか、ツォゾォさんの陽気な冗舌に誘われてでしょうか、私の方も言葉が滑らかに出てきました。2時間ほど話をしましたが、例の手紙を意に介している様子はありませんでしたし、手紙の遅れを詫びる言葉もありませんでした。

「来れば誰でも大歓迎ですよ」

辛うじて、大学の方も一段落したようです。

白人街

アレクサンドラ・パークは白人街で、アメリカ映画「遠い夜明け」の世界です。幅の広い道路に大きな街路樹、プールやテニスコート付きの広い家……借りた家にはプールやテニスコートはありませんでしたが、両隣にはプールが、南側の家には、夜間照明つきのテニスコートがありました。

泥棒にも3分の理と言いますが、白人街に住むアフリカ人が仮に盗みを働いたとしても、アフリカ人に五分の理があると感じました。ある場合には、9分の理すらあると思えるほど、持てる白人と持たざるアフリカ人との格差が大きく見えました。

基本的に、車中心の街で車に乗るのは白人、歩くのはアフリカ人です。80年の独立以降、白人街の家1軒分にも相当するベンツを乗り回すアフリカ人もいます。しかし、それは体制側にいる一握りの「白人化」したアフリカ人で、大半のアフリカ人には車は無論のこと、自転車を持つ余裕もありません。「ここは車(金持ち)が歩行者(貧乏人)をけ散らして走るのが普通ですから……」という吉國さんの手紙の内容は、まさにその通りでした。うっかり歩行者優先などと思っていると、大変な目に遭ってしまいます。車が最優先なのです。歩行者用の青信号の短かいこと、青になったとたんにもう点滅が始まっていると思えるほどでした。老人や身体の不自由な人は、到底信号は渡れません。乗用車に限らず、車は猛スピードを上げて走ります。広い道路を渡るのも命懸けだと最初は思いましたが、慣れるとそれほどの緊張感を持たずに道路を渡れるようになります。

歩く方も、知恵を絞ります。少し広い空き地には、蜘蛛の巣のように小道が出来ています。長い距離を少しでも縮めるためです。

ほとんどの白人は家の中に入るまで車を降りようとはしません。門まで来ると、クラクションを鳴らします。その音ですぐに庭師が走り出てきて、門の鍵を開けるのです。車を車庫に入れている間に庭師が鍵を閉めて、車庫に急ぎます。荷物があれば庭師が家の中に運びこみます。スーパーでも、買物の重い荷物を運ぶのは店員のアフリカ人で、白人は当然のように表情も変えず、わずかなチップを渡すだけです。

鍵の国

入居の日に、吉國さんの奥さんから、鍵の束といっしょに陶器の食器から銀のスプーンに至るまでの調度品の明細が書かれている用紙の分厚い束を渡されました。家主にしてみれば、独立以来風向きも変わって住みづらくなってきた今、家を貸して大金も欲しい、かといって我が家の宝ものを盗まれるのもかなわない、そんな心の葛藤に苦しんだ末に、この明細書を書いたのでしょう。家にある品物はどれも古くて趣味の悪いものばかりです。保証金2000ドルを取っていても、おばあさんの目には、日本はよほど未開で、野蛮な国と映っているようです。

鍵の束は、重いものでした。普段出入りする門、玄関、居間、台所の鍵の他にも何本かの鍵がついていて、その一つ一つが大きいのです。鍵を使って、まず玄関に入ります。ドアにはチェーンロックと鍵穴の上下に2つ止め金がついている4重式です。2畳ほどの空間に、電話台が置いてあり、左は寝室と風呂、トイレ、正面は食堂、右手は居間に通じていますが、すべての戸に鍵穴があるのです。どのドアも、内と外の両側から鍵がかけられるようになっていました。机にはどの抽出にも鍵がかかっています。台所では、冷蔵庫にまで鍵がついていました。

家の中だけではありません。街のいたるところ、鍵、鍵、鍵です。レストランのトイレではトイレットペーパーにまで鍵がかかっていました。兼好法師ではありませんが、この鍵なからましかば、と溜息が出てきました。

大学では、ツォゾォさんも大きな鍵の束を持っていました。机の鍵を開けて、抽出の中からビデオテープを取り出した時には、ビデオテープが貴重品であるのを肌で感じました。窓の鉄格子と鍵を束ねる大きな金の輪には、最後まで馴染めませんでした。

ある日、台所の戸棚を開けて、またびっくりです。透明のナイロン袋に入った30個ほどはあると思われる鍵の山が見つかったのです。台所の違う箇所にも、居間の机の引き戸の中にも、同じような鍵が入っていました。使いふるしなのか、予備の鍵なのかは分かりませんでしたが、一度にそんなにたくさんの鍵を見た経験がなかったので、何か見てはならない暗部を覗き見る思いでした。

鍵だけではありません。一番大きな寝室の厚板ガラスの一枚を除いて、すべての窓に鉄製の格子が取り付けられていたのです。監獄のようなものでなく、花柄の模様が多かったのですが、確かに格子です。外からの侵入者を防げるかも知れませんが、中からも出られません。警察とは別に、その地区全体で私設のガードマンも雇っているようですし、玄関には「24時間警備会社と契約中」の掲示もあります。敷地内には見張り役の「庭師」や「番犬」もいますし、大きな塀もあります。生き垣の下には金網も張ってあるし、あちらにもこちらにも鍵がかけられています。それでも窓には格子です。私には白い花柄の鉄格子が、穏やかな言葉を操りながら、残虐な侵略行為を朝飯前にやってのけたイギリス人入植者の分身に思えてなりませんでした。

1日24時間扱き使われて「130ドル」では、車を盗もうと思っても不思議ではありません。うまく捌ければ、何年分ものお金にもなります。自転車なら更に盗み易く、鍵など掛かっていても、担いでいけばいいのです。自転車を停めて、ちょっとよそ見をして振り向くと、自転車がなくなっていた、といっても冗談ではないほどの状況でした。大学でも状況は同じで、廊下や部屋の中まで自転車を持ち込む光景を何度も見かけました。私も買物に行ったときは、標識の鉄柱か店の横の鉄柵か金網に、大学では階段の鉄の手摺りか鉄の支柱にチェーンロックをかけましたが、わびしい思いが先に立ちました。門には電灯もブザーもありません。必要性がないからです。危険なので夜間外出は差し控えますし、仮に出掛けても客が来ても、門の前でクラクションを鳴らせば、誰かが呼べるのです。車の中にいる限りは安全なのですから。

門の前で、アフリカ人が口笛を吹く光景をよく見かけました。ブザーがないから、広い敷地内の片隅にいる「庭師」や家の中の「メイド」を呼び出していたのです。垣根越しの会話もよく見かけました。縁者でも恋人でも、中に入れてはもらえないようでした。口笛で合図を送って呼び出せても、門をはさんでの会話が許されるだけとは切ない限りです。

そんな中で生活していると、生い茂る街路樹や聳える大木は、初期の入植者たちが、理不尽な侵略で荒んだ心とアフリカ人への恐怖心を和らげるために植え付けたのではないかと思えてなりませんでした。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2005年

収録・公開

mon-monde 創刊号 14~24ペイジ

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ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 1 初めてのアフリカ(134KB)

2000~09年の執筆物

概要

宮崎大学教育文化学部大学院修士課程学校教育専攻日本語支援教育専修の報告書に書いたものです。

本文

「日本語支援教育専修」と私               玉田吉行

なぜ日本語支援教育専修を推したのか

 「なぜ日本語支援教育専修を推したのか」には、理由が2つあります。1つは、統合・法人化という名のリストラ政策の渦中で「日本語支援教育専修」が大学の生き残り策の1つの要素になり得ると感じたからです。もう1つは、言語をもっと大きな視点で捉えようとする「日本語支援教育専修」の目指す方向性なら、「日本語支援教育専修」とのかかわりを今までやってきた延長線上に位置づけるだけで何とかやれるかも知れないと考えたからです。

国や国際社会の大きな枠組みの中で考えても、そう遠くない将来に、膨らみ過ぎた経済が破綻するのは目に見えていますから、統廃合や人員・経費の削減などによる制度の再構築は避けられないでしょうし、少子化によってその傾向は強まり、学生の確保が大きな課題ともなるでしょう。定員確保は大学院ではすでに差し迫った問題で、大学の生き残り策の1つの大きな要素になっています。医学部では実際に定員が埋まらなかった分の年度当初の配分予算を返却していますし、その傾向が続けば学生定員の削減、その結果による教員定員の削減という事態は避けられないでしょう。また、留学生を増やすことも評価の対象になっていますが、円高や地理的な条件もあり、現実には留学生の大幅な増加は見込めない状態が続いています。そういった事情を勘案しますと、国内にいる外国人か海外の外国人かに日本語学習の支援をするための「日本語支援教育専修」を開設して留学生も含めた受験生を集めるのは充分に意義があり、実際に、韓国や台湾、中国などの日本語学校や大学、JICAや国際交流基金などの国際機関、国内の地方自治体や大学など、卒業後の就職の需要も見込めるようですから、将来性はあるように思えました。

昨年度2月に本学で行なわれた第一回マルチリンガリズム研究会の創設記念集会での、文化庁の野山広さんによる基調講演「多言語教育の時代:国内外の現状と共生の街づくりへ向けての始動」も大きな刺激となりました。第1線で活躍中の人でないと語れない勢いがありましたし、多文化共生への取り組みの具体的な事例には説得力が感じられましたから。また、計画した「日本語支援教育専修」のカリキュラムが、文化庁により提示された領域、日本語教育に必要とされる5領域(言語、言語と教育、言語と心理、言語と社会、社会・文化・地域)に沿い、言語教育、言語文化、言語心理の領域で日本語支援教育を行う上での教育内容・方法、心理について学び、国際文化、文化共生の領域で国際的な視野での共生、文化理解の在り方について学ぶという教育内容であったからでもあります。

今回行なわれた入学試験では、広範囲の地域から様々な年齢層の16名が集まりました。まだ問い合わせも続いていますし、学内からの進学者や留学生の応募も見込めます。定員割れだったり、応募者がいなかった専修もありましたから、健闘したと言えるでしょう。

医学部では、17年間、1・2年生を対象に、英語を手段として、アフリカやアフロ・アメリカの歴史や社会問題、音楽やスポーツ、エイズやエボラ出血熱、BSEや土呂久砒素問題、臓器移植などの医療問題、山頭火とHAIKUなど、色々な問題を取り上げ、今まで持っていた価値観や歴史観を再認識したり、自分について考える場を提供してきました。統合後は、主題教養科目の南アフリカ概論とアフリカ文化論でも、同じような問題提起をしています。

その意味では、「グローバルな視野にたち、複数文化への理解をもとに、国際舞台で活躍できる人間を育てる」という目標を掲げる「日本語支援教育専修」を、今までの延長線上に置くのは、それほど難しいようには思えませんでした。

そのようなことを念頭に置き、今までに書き残したものも考慮に入れて、専修の審査に必要な業績調書を書きながら(結果的には、要りませんでしたが)「日本語支援教育専修」でどんな科目が実際に担当出来るかを決めたのですが、「アフリカ論特論」と「翻訳論特論」なら、「日本語支援教育専修」で学ぶ人たちに何らかの問題提起は出来るかも知れないと考えました。

アフリカ論特論

 では、「アフリカ論特論」と「翻訳論特論」を通して、どんな問題提議が出来るのか。

「アフリカ論特論」では、言語を取り巻く実情を踏まえて、「アフリカ人にとっての言語とは」と「日本人の自己意識」、とに焦点を当てたいと考えています。

今年度の主題教養科目(アフリカ文化論160、南アフリカ概論70)と英語(医学科90、農学部55、看護学科30)で約400名の1年生を担当してアンケートに答えてもらいましたが、アフリカに文学があるのを知っていたのは海外青年協力隊にいた医学部の学生1人だけでした。将来、国内にいる外国人か海外の外国人かに日本語学習の支援をする人たちが、アフリカに文学があることを知らない、では支障があるでしょう。今回の入学試験で英語の功罪についての問題を出しましたが、「国際語」のお陰で非常に多くの人の意思疎通が可能になった、あるいは経済的に優位に立つ人たちが開発し、英語で発信する技術や医薬品などについての最新情報を獲得出来るなどの「功」の部分と同時に、国の関係が経済的に対等でない場合は言語も対等ではなく、何百年と続いている「白人優位・黒人蔑視」が言語の面でもまかり通る可能性が高いという「罪」の部分も認識する必要はあるでしょう。

ケニアの作家グギは、「20世紀のアフリカ人作家」の立場を次のように書き記しています。

60年後半、私がリーズ大学の学生の頃に初めて、自分の置かれた作家としての立場の矛盾を意識して、絶望的な感覚に襲われたのを鮮明に覚えています。ちょうど、ケニアの人たちの独立闘争を扱った『一粒の麦』を出版したところでした。しかし、私が書いていたその人たちは、決してその小説を読むことはありませんでしたし、その小説が読まれはしません。私は言葉のケースに、細心の注意を払いながらその人たちの命をそっと収めていたのです。私がケニアの国の中に拠点を持とうと国外に持とうと、英語という言語を選ぶ限り、そのことで亡命作家としてのレッテルを自分に貼り付けてしまっていたのです……。アフリカの作家は、教育を受け言語を選択した時点で、既に人々から顧みられることはないのです。

20世紀アフリカの作家の立場は、より広範なアフリカ社会の立場を映し出しています。というのも、もし作家が、心身ともに亡命の立場に居るというのなら、人々自身も、自分たちの経済や政治的な関係から見ても、亡命しているような立場にいるからです。1

グギは1982年から最近まで、実質的に亡命を強いられ、ケニアに帰れませんでした。体制の脅威であったからです。ウガンダのマケレレ大学を出て、イギリス、アメリカで教育を受け、ジェイムズ・グギの名前で書いた小説『夜が明けるまで』(1964)や『一粒の麦』(1967)などで国際的な評価を受けていましたが、英語で書くことを辞め、農民や労働者のために母国語のギクユ語で書き始めたてから、体制の脅威となりました。グギたちが指導した農村での演劇活動で、母国語のギクユ語で書いた脚本を、ギクユの農民と労働者が見事に演じきってしまった、つまり、多数派である搾取される側の農民と労働者が、演劇活動を通して自らの隷属的な立場に気づき、団結して体制側に挑み始めたからです。グギは、反体制側の象徴となりました。

グギ・ワ・ジオンゴ

侵略を始めた西洋諸国が奴隷貿易で暴利を得て、その資本で産業革命を起こし、作った製品の市場獲得のためにアフリカ争奪戦を繰り広げ、結果的には2つの世界大戦を引き起こしたあと戦略を変え、「開発」や「援助」の名のもとに、国連や世界銀行などに守られながら新しい形の支配体制(新植民地体制)を築き上げています。

ケニアも南アフリカからの白人入植者がアフリカ人労働者を元に搾取機構を打ち立てた国です。激しい闘争の末にイギリスから独立は果たしたものの農民や労働者を搾取するという基本構造は変わらず、大統領となったケニヤッタもモイも、先進国と組んで体制維持をはかってきました。少数の金持ちと大多数の貧乏人という歪な世界で、日本は貿易のよき相手です。

そういった現状と、「アフリカは貧しいから助けてあげる」、「日本はODAなどでアフリカに援助している」と考えている大半の日本人の意識との間には、余りにも隔たりがあります。JICAや国際交流基金で派遣されても、現状認識が出来ていなければ、やはり支障があるでしょう。異文化理解、国際理解などは望むべくもありありません。

翻訳論特論

元ナイロビ大学の教員で農学部の大学院にいた留学生が、「グギを卒業論文に取り上げたナイロビ大学の同級生が、卒業してから刑務所に入れられた」という話をしてくれましたが、1992年に私が飜訳した南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ (Alex La Guma, 1925-1960) の『まして束ねし縄なれば』は、アパルトヘイト体制の下では発禁処分を受けていました。ケープタウン郊外のスラムの日常を描いた作品ですが、体制側が世界に実情を知られたくなかったからです。

1987年にケント州立大学英語科教授の伯谷嘉信さんからMLA (Modern Language Association of America) のイギリス文学、アメリカ文学以外の英語による文学 (English Literature Other than British and American) の部会で発表しませんかとお誘いを受けたのがラ・グーマを調べるきっかけだったのですが、その過程で、思わぬ「日本の南アフリカ事情」を垣間見ることになりました。

アジア・アフリカ作家会議の季刊誌にラ・グーマが書いた「アパルトヘイト下の南アフリカ文学」(“South African Writing under Apartheid," 1975) が「新日本文学」(1977年4月号) に飜訳されていることを知り、図書館でコピーを手に入れた時、次の一節が目に飛び込んできました。

アレックス・ラ・グーマ

 このことは、南アフリカの創造的な作家にとって、なにを意味するのか。明快なことは大多数の黒人の利用できる文化施設が白人よりもはるかに劣っていることだ─率直に言えば、様々な面でなにもないということだ。ヨハネスブルグがその大部分の労働源を引き出すソウェト族の都市には、ほぼ百万人の人口にたった1軒の映画館があるだけで、実際に観ることのできるフィルムの数は検閲で夥しく制限されている。

(What does all this mean for the creative artist in South Africa? In the most obvious sense, the cultural facilities available to the Black majority are far inferior to those of the Whites – and in some cases simply nor existent. In the giant African township of Soweto, from which Johannesburg draws most of its labour force, there is only one cinema for a population nearly one million, and the number of films which may be seen by audiences at that cinema is grossly restricted by a censorship which places all Africans on the same level as White children under 16. )

この文章を飜訳した石井碩行という人は、「ジョハネスバーグがその労働力の大半をまかなっている巨大なアフリカ人居住区ソウェト」を「ヨハネスブルグがその大部分の労働源を引き出すソウェト族の都市」と訳しているのです。Soweto は South West Township of Johannesburgの略語で、金鉱で開けたアフリカ大陸でも有数の大都市ジョハネスバーグの南西の方角にあるタウンシップ(居住地区)のことですが、それをこともあろうに、人と間違えているのです。おまけに族までがついています。族はtribeの日本語訳ですが、その言葉には西洋人がアフリカ人を蔑んだつけた否定的な意味合いが含まれますから、使うのを嫌う人も大勢います。発行されたのが1977年ですから、その前年のソウェトの蜂起を知らない人がこの文章を訳したということになります。「新日本文学」は共産党の機関誌で、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの特集を組んだりして精力的に新しいものを紹介していますが、この程度の飜訳を掲載していた訳で、内容に全く無知な人が飜訳をした典型と言えるでしょう。

ラ・グーマの第1作品『夜の彷徨』の日本語訳の場合も同様です。主人公の青年が老人を殺害したあと、街をうろついている場面が次のように描かれています。

やつにしても、ほかのやつらにしても面白くねえ。きっとおれはやつらに話しにいったらいいんだ。ベドナード。おまえは警官がどうするかわかっているな。やつらはおれたち茶色い人間ことなど、これっぱしも聞いてくれやしない。

(To hell with him and the lot of them. Maybe I ought to go and tell them. Bednerd. You know what the law will do to you. You don’t have any shit from us brown people.)

当時明治大学の教授、と解説にあります。この人は多分英語の辞書では見つからないBednerd がわからないので、ベドナードと書いたのでしょう。このすぐあとにも1カ所同じ日本語訳が出てきます。もちろん、その当時アパルトヘイトが厳しくて南アフリカの人に聞けたかどうかはわかりませんが、この人は、アパルトヘイト政権を担った人たちの言葉がアフリカーンス語であったことすら知らなかったのではないでしょうか。知っていたとしたら、少なくともアフリカーンス語の辞書を見ていたでしょうから。たとえ辞書になくても、領事館か外務省に電話を一本かければ済むことです。それに、この本が出た1970年なら他のラ・グーマの本、たとえばAnd a Threefold Cord (1964) を図書館で探し当てるのは、それほど難しくなかったはずです。探してさえいれば、その本の付録につけてあるGLOSSARYのなかにbednerd=crazy, mixedの解説を見つけていたでしょう。第一、わからなくても文脈からその意味を推測できなくて、飜訳など出来るのでしょうか。学藝書林から出版され、大きな図書館の本棚に『全集現代世界文学の発見』シリーズの『9 第三世界からの証言』として並べられてあるのですから、驚きです。

南アフリカ問題の古典とも言える『差別と叛逆の原点』を書いた野間寛二郎さんは、ガーナの初代首相クワメ・エンクルマの自伝を飜訳する際に、わからないことが多かったので若いガーナの書記官のいる大使館に日参したと書いています。それが普通でしょう。brown peopleを茶色い人間と訳していますが、brown peopleがcolouredだと知らないで飜訳を引き受ける無謀さに、言葉もありません。先人が残したこんな業績に出くわすと、かなしくなるばかりです。

アフリカ系アメリカ人詩人のダンバー(Paul Laurence Dunbar)にLittle Brown Babyという詩があります。長く、きつく、汚い労働から帰ってきたあと、我が子と戯れる父親を詠んだ短かい詩です。

Paul Laurence Dunbar

Little brown baby wif spa’klin’ eyes,

Come to you’ pappy an’ set on his knee.

What you been doin’, suh – makin’ san’ pies?

Look at dat bib – you’s ez du’ty ez me.

Look at dat mouth – dat’s merlasses, I bet;

Come hyeah, Maria, an’ wipe off his han’s.

Bees gwine to ketch you an’ eat you up yit,

Bein’ so sticky an’ sweet goodness lan’s!

 

Little brown baby wif spa’klin eyes,

Who’s pappy’s darlin’ an’ who’s pappy’s chile?

Who is it all de day nevah once tries

Fu’ to be cross, er once loses dat smile?

Whah did you git dem teef? My, you’s a scamp!

Whah did dat dimple come f’om in yo’ chin?

Pappy do’ know yo – I b’lieves you’s a tramp;

Mammy, dis hyeah’s some ol’ straggler got in!

 

Let’s th’ow him outen de do’ in de san’,

We do’ want stragglers a-layin’ 'roun’ hyeah;

Let’s gin him 'way to de big buggah-man;

I know he’s hidin’ erroun’ hyeah right neah.

Buggah-man, buggah-man, come in de do’,

Hyeah’s a bad boy you kin have fu’ to eat.

Mammy an’ pappy do’ want him no mo’,

Swaller him down f’om his haid to his feet!

 

Dah, now, I t’ought dat you’d hub me up close.

Go back, ol’ buggah, you sha’n’t have dis boy.

He ain’t no tramp, ner no straggler, of co’se;

He’s pappy’s pa’dner an’ playmate an’ joy.

Come to you’ pallet now – go to yo’ res’;

Wisht you could allus know ease an’ cleah skies;

Wisht you could stay jes’ a chile on my breas’

Little brown baby wif spa’klin’ eyes!

 

ある人はLittle brown baby wif spa’klin’ eyesに「きんきら目玉の褐色の赤ちゃん」という訳をつけました。何冊も著書や飜訳書もあるアメリカ文学を専門にしている人で、特にアフリカ系アメリカ人女性作家に詳しいらしいのですが、少なくとも、詩に「きんきら」や「目玉」や「赤ちゃん」などの言葉をつかう人が、飜訳などすべきではありません。詩に魂をこめたダンバーに失礼でしょう。

南北戦争の後のあの悲惨な状況下での話です。考えてもみて下さい。大学に行って学問をしたい、医者になりたい、弁護士になって困っている人たちの手助けをしたいと考えたかも知れない人たちが、来る日も来る日も炎天下の農園で綿摘みを、あるいは地底で石炭掘りをしなければならないとしたら。反動勢力の敷いたカラー・ラインは、奴隷としてアフリカからつれてこられた子孫たちにとって厳しいもので、ミシシッピ生まれの作家リチャード・ライトは図書館で黒人は本も貸しもらえなくて、白人の名前で本を借りなければならなかった経験を自伝のなかに記しています。白人と対等に、などと張り合えば、忽ちリンチされてしまいます。

「おばけだぞう」と脅したらぎゅっとしがみついてくる我が子を見ながら、その成長を願わない親などいるでしょうか。大きくならないで、このままこの胸元で子供のままでいられたらと願う親がどこにいるでしょう。仮定法の過去は現在の事実の反対を仮定していう表現形式ですが、現実が厳しすぎるからこそ、その表現が真に迫ってくるのでしょう。

Little brown baby wif spa’klin’ eyesに「輝く瞳(め)をした愛しい吾が子よ」という日本語訳がつけられる翻訳論特論でありたいと思っています。

「日本語支援教育専修」と私

統合・法人化という名のリストラ政策の渦中で「日本語支援教育専修」が大学の生き残り策の1つの要素になり得るにしても、言語をもっと大きな視点で捉えようとする目指す方向性のなかで自分の位置を何とか見つけ出せるにしても、また、入学する人たちが意欲のある優れた人たちであるにしても、現実はなかなか厳しいものがあります。どさくさの統合や法人化の中で、新しい組織も充分に機能しているとは思えませんし、やった分の評価がなされているとは到底思えないからです。学生にとって、あるいは学校にとっていいと思える意見を出せば、その分だけすることが増えている現実があり、それがきっちりと評価されていないと思えるからです。医学部との兼任という立場でかかわっているのですが、今でも多い授業に2コマが増えた、というのが実状です。今回行なった入学試験にしても休みの日に長時間木花キャンパスに居なければなりませんでした。その上、規定では夜間開講もしなければならないとのことです。きちんとした評価もなされず、評価や手当も配慮されないようでは、長期的に見て、決していい成果が望めるとは思いません。

それに、「アフリカに文学があることを知らない」、「アフリカは貧しいから助けてあげる」、「日本はODAなどでアフリカに援助している」、そんな程度の人たちが入って来るとすれば、実際の授業は生易しいものではないでしょう。

近い将来に「日本語支援教育専修」の修了生が、JICAや国際交流基金から派遣されるとするなら、2年間は、学ぶ人たちにとっても、講義を担当する私たちにとっても、極めて短かい年月と言わざるを得ません。現状の中で何が出来るのかを考えながら、意識改革や日本語支援に必要な専門的な理論武装をして行かなければならないと思います。

そう考えて、夏休みの初め頃から、英文資料のスキャナでの取り込みを始めています。

1 Ngugi, “From the Corridors of Silence,” originally published in The Weekend Guardian (October 21-22, 1989), p. 3., and later included in Moving the Centre (Heinemann, 1993), pp. 102-108.

執筆年

2005年

収録・公開

日本語支援教育研究報告書

ダウンロード

「日本語支援教育専修」と私 (69KB)

2000~09年の執筆物

概要

2005年4月開設予定の専修の準備状況についての速報で、ゲストさんに手伝ってもらって、横山さんと作ったものの英語版です。

本文

From the Editor: We hope that our project
will be a catalyst for facing the severe
consitions of restructuring, budget-cuts, the
decreasing number of students, and so on.
TAMADA / YOKOYAMA

執筆年

2004年

収録・公開

4ペイジ 大学HP公開

ダウンロード

宮崎大学教育文化学部大学院修士課程日本語支援教育専修速報英語版(119KB)

2000~09年の執筆物

概要

2005年4月開設予定の専修の準備状況についての速報で、ゲストさんに手伝ってもらって、横山さんと作ったものです。

本文

あとがき・・・統合という名のリストラ、予算の削減、学生
数の減少などの厳しい状況下で、何とか生き残りをかけた試
みとして、日本で初めての日本語支援教育専修が何らかの成
果を出せますようにと祈っています。 (編集:玉田、横山)

執筆年

2004年

収録・公開

4ペイジ 大学HP公開

ダウンロード

宮崎大学教育文化学部大学院修士課程日本語支援教育専修速報日本語版(118KB)