2000~09年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文(写真作業中)

医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』

 

「ESPの研究と実践」第3号(2004) 5~17ペイジ

Summary

The aim of this paper is to show how and why I used Nice People in my English class for second-year medical students.2

Nice People is a novel by a Kenyan writer published in 1992. I selected the book as a textbook for the class because it is unique and important in three ways. Firstly, it depicts the dawn of the AIDS epidemic of the early 1980’s, which serves as a precious history. Secondly, it focuses on the richer class who held many privileges in the exploitative system during the neo-colonial stage. Thirdly, it is written from the point of view of a doctor, which will interest medical students.

I hope the novel will show the future doctors of Japan the unknown realities of how Kenyans were panicked by the emerging infectious disease and forced to fight against the outbreak, which I hope will motivate them to learn more and provide hints to them as to how to cope with an unexpected crisis.

The AIDS crisis is a global issue that we are facing and cannot avoid, especially medical students. It is important for us to know what students need in English classes, and that it is necessary to prepare suitable materials which will motivate them. That is why I chose Nice People in my English class for second-year medical students.

はじめに

医学科学生の英語の授業を担当するようになって17年目になるが、試行錯誤が続いている。初めは一般教養科目として、1993年の大学設置基準の大綱化以降は、基礎教育科目と位置づけて授業を担当してきたが、授業に関して基本的に変わらない点と、変わった点があるように思う。

変わらないのは、英語を手段に授業を価値観を問い直す機会にと願う姿勢で、アフリカやアフロ・アメリカの問題を意識的に取り上げているのはその視点からである。

変わったのは、出来るだけ英語を使うようになったこと、発表などを含め学生が積極的に関わる時間が増えたこと、それに医学的な問題も取り上げるようになった点である。すべて、学生から授業の感想や意見、要望などを聞いたり、希望者との面接をしながら、自然の流れのなかで変化してきたものである。3

当初は、基礎医学、臨床医学の担当者には出来ないものを、文科系の視点からしか出来ないものをと考えたりしたが、膨大な量の基礎医学をこなす学生の実情も考え合わせて、教養的な問題に関連させて医学的な問題も授業の中で取り上げるようになった。

エイズ

今回、2年生のリーディングに焦点を当てた授業で、ケニアの小説『ナイス・ピープル』を取り上げたのも、そういった流れの中からである。

受講した2年生は、1年の前期で、アフリカとエイズに関して全般的な話には触れているので、小説の舞台ケニアが政治的には抑圧的で「野生の王国」だけではないことや、エイズの状況が極めて危機的であることは認識している(と思う)。マスメディアを通じて植え付けられたアフリカの負のイメージを疑わない学生も多かったが、授業を通して少なくともアフリカにも文学があることは知ってもらえたと思う。4

アフリカに関しては、イギリスの歴史家バズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」5 の映像を軸に、侵略を始めた西洋諸国が奴隷貿易で暴利を得て、その資本で産業革命を起こし、作った製品の市場獲得のためにアフリカ争奪戦を繰り広げ、結果的には2つの世界大戦を引き起こしたあと、大戦後は戦略を変え、「開発」や「援助」の名のもとに、国連や世界銀行などに守られながら新しい形の支配体制(新植民地体制)を築き上げている歴史を概説した。

エイズに関しては、基礎医学への橋渡しとして、HIV複製のメカニズム6 や免疫機構7 について触れ、HIV発見の歴史8 と、エイズ治療薬の知的財産権をめぐる製薬会社と南アフリカの問題9 を取り上げたあと、1996年のジンバブエに関する新聞記事10 を読んだ。南部アフリカのエイズ事情が深刻で、鉱山などの出稼ぎ労働者用のコンパウンドと呼ばれる「たこ部屋」が、売春婦を介して、エイズ蔓延の温床となり、期間が過ぎて村に戻る男性労働者が配偶者に感染させるために「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」とまで言われるほどで、その状態が続くと55歳のジンバブエの平均寿命が2010年までには40歳以下になることと11、次のエイズ蔓延の標的が南アフリカであることが予測されているという衝撃的な内容の報告記事である。12

「出稼ぎ労働」は、ヨーロッパからの入植者がアフリカ人から土地を奪って課税をして作り上げた一大搾取機構で白人支配の根幹をなす制度である。その制度の下で、搾取される側の大多数のアフリカ人が貧しさとエイズに苦しめられていて、先進国と呼ばれる日本もその一員である私たちも、現実には搾取する側にいると結論づけた。

ケニアも南アフリカからの白人入植者がアフリカ人労働者を基に搾取機構を打ち立てた国である。激しい闘争の末に独立は果たしたものの基本構造は変わらず、大統領となったケニヤッタもモイも、先進国と組んで体制維持をはかってきた。少数の金持ちと大多数の貧乏人という歪な世界で、日本はよき貿易のパートナーである。13

エイズはそんな歴史にはお構いなしで、ウィルスは金持ちにも貧乏人にも感染する。

『ナイス・ピープル』

『ナイス・ピープル』はたまたまケニアの友人14 に借りたものである。

横浜で第10回国際エイズ会議が行なわれた頃から、HIV複製のメカニズム、CD4陽性T細胞の受容体、マジック・ジョンソンの告白、血液製剤による薬害問題、多剤療法、エイズコピー薬とWTOなど、様々な問題を授業で取り上げてきた。98年にHIV複製のメカニズムとジンバブエの報告記事を軸に “AIDS epidemic” 15 を書き、2000年に「アフリカ:放っておけば死にゆく大陸」の記事を軸にアフリカの深刻なエイズ事情を「アフリカとエイズ」16にまとめた。本格的にエイズを主題に据えた小説『最後の疫病』17 が出版されたのは、その頃である。

著者のメジャー・ムアンギは、グギやアチェベほどの国際的な評価は受けていないものの、厳しい抑圧の時期も国内で作品を書き続けてきた中堅の作家である。ケニアの経済的な危機とエイズの差し迫った状況を誰よりも感じているはずである。18 エイズ患者が社会問題となってから十年ほどでウィルス増幅のメカニズムが解明され、治療薬が開発されたあと、作家に咀嚼されて本格的なエイズの小説が出るのはそれから数年後だろうと考えていた矢先に、 『最後の疫病』が出版された。コンドームを配って感染の予防の手助けをする未亡人とその女性を助ける獣医師の青年と村の人たちとの諍いをめぐる話だが、「割礼」をめぐってグギが『川をはさみて』19 で描いた西洋的な価値観とアフリカ的な価値観の衝突が大きな主題の一つである。国の経済を支える農民や労働者の話で、国内で踏みとどまった作家にしか書けない世界である。

そういった予測のもとに、「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」で、2003年度の科学研究費補助金を申請した。「エイズ」を正面から取り上げている作品はまだ多くないが、『最後の疫病』を軸に、英語によるアフリカ文学が「エイズ」をどう描いているのかを分析し、病気の爆発的な蔓延を防げない原因や、西洋的な価値観とアフリカ的な見方の軋櫟などを明らかに出来れば、また、英語の授業でエイズの問題を取り上げ、エイズの小説を読む立場から見える何かが見つかるかもしれないと考えたからである。今までは英米文学以外はすべて「その他外国語文学」という分類分けだったが、2003年度からイギリス文学、アメリカ文学の次にアフリカ文学の領域が加えられてこともあって、科研費が交付された。20(アフリカ文学を知らない学生の実態を紹介したアンケートとはあまりにもかけ離れ過ぎているが。)

しかし、『ナイス・ピープル』の出版年を見て驚いた。1992年である。読んで、また驚いた。主人公の医者の目を通して書かれた小説で、内容も私の予測を超えていた。

『ナイス・ピープル』は三つの点で意義深い小説である。

一つ目は、エイズ患者が出始めたころの混乱した社会状況が描かれている点で、文学という切り口で書かれた貴重な歴史記録でもある。

二つ目は医者を含めた少数の金持ちに焦点が当てられている点である。『最後の疫病』のように虐げられた側に焦点を当てた小説は少なくないが、支配層に焦点が当てられたものは珍しく、その点でも貴重である。

三つ目は、主人公の医者の目を通して小説が描かれている点で、医学生の興味をひく作品である。

大学卒業後すぐに私設の診療所で稼ぎながら国立病院で研修を受ける鷹揚な医療制度、未知の(エイズ)患者を隔離している特別病棟、売春が社会の必要悪で治療こそが最優先と結論づける性感染症をテーマにした卒業論文とその審査過程、売春婦など社会の底辺層が通ってくる診療所での日々の診察風景、金持ちの末期エイズ患者に快楽を提供して稼ごうと目論むホスピス、雑誌の症例から判断して担当の患者をエイズと診断したことなど、数年のちには同じ立場で患者と向き合う可能性の高い医学科の学生には、興味の尽きない内容が盛り沢山で、興味津々の内容に加えて医学用語なども含めて専門的な知識も含まれており、まさにうってつけの題材である。

早速授業で使うことにした。21

「1984年:謎の疾病」

主人公ジョセフ・ムングチ (Joseph Munguti) は、ナイジェリアのイバダン大学の医学部を1974年の6月に卒業したあと、直ちにケニア中央病院「Kenya Central Hospital (KCH) 」で働き始めたという設定である。卒業論文のテーマに性感染症を選んだこともあって、先輩医師ギチンガ (Waweru Gichinnga) の指導を受けながら、ギチンガ個人が経営する診療所で稼ぎながら勤務医を続ける。ギチンガは国立病院では扱えないような不法な堕胎手術などで稼ぎを得ていたようで、やがては告発されて刑務所に送られてしまう。10年後、ギチンガから譲り受けた診療所の看板に「性感染症専門医」と記して、ムングチは念願の売春婦などを相手にひとりで診療を継続する。

1984年12月、「ケニアでは指折りの性感染症専門医であり、診断を下せない性感染症はない」と自負するムングチの元に、年老いたコンボ (Kombo) と名乗る中国人がやってきた。「やあ、先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。2万シリング持ってきた。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか」と言って、大金を残して去った。

法外な大金に戸惑いを見せて一度は辞退するものの、格安の料金で社会の底辺層を相手に性病の治療を続けるムングチには、断る理由もなく、謎の病気の正体を突き止めることになった。最初はトラコーマクラミジアにより生じる性病性リンパ肉芽腫かと思ったが、どうも違うようである。その日から、ケニア中央研究所 「the Kenya Medical Research Institute (KEMRI)」の図書館に入り浸り、2日目にようやく、同年12月にアメリカで発行された以下の症例報告に辿り着く。

あらゆる抗生物質に耐性を持つ重い皮膚病の症状を呈し、生殖器に疱疹が散見される。下痢、咳を伴い、大抵のリンパ節が腫れる。極く普通にみられる病気と闘う抵抗力が体にはないので、患者は痩せ衰えて、やがては死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと類似しているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性の同性愛者が数人、その病気にかかっている。(『ナイス・ピープル』、140ペイジ)

老人の症状から判断して診断に確信を持たざるを得なかったが、元同僚の意見を求めた。大学でも講義を持つケニア中央病院の2人の医師は、未知のウィルスによって感染する新しい性感染症の診断に間違いはなく、すでに同病院でもアメリカ人2人、フィンランド人1人、ザイール人2人が同じ症状で死亡しており、3人のケニア人の末期患者が隔離病棟にいる、と教えてくれた。

興奮気味の心を抑えながら、隔離病棟に出向いたムングチは、改めて死にかけている老人の症状を確かめる。

私は調べた結果と比較して患者を見てみたかった。目的を説明すると、看護婦は3人が眠っているガラス張りの部屋に連れて行ってくれた。私たちを怪訝そうに見つめる救いようのない3人を見つめながら、私は言いようのないわびしさを感じた。そのとき、その老人が目に入った。私の患者、コンボ氏に違いなかった。口から泡を吹き、背を屈め、ひどく苦しそうに繰り返し咳き込んでいた。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていた。老人には私が誰かは判らなかったが、隔離病棟の柵を離れながら、後ろめたいほろ苦さを感じた。(『ナイス・ピープル』、141ペイジ)

患者コンボ氏は、実は以前ムングチの診療所を訪ねてきたルオ人女性の鼻を折った張本人で、ナイロビ市の清掃業を一手に引き受ける大金持ちだった。ルオ人の女性は清掃会社の就職面接でコンボ氏から裸になって歩き回るように命令されたが抵抗したために暴力をふるわれたのだが、噂では、肛門性交嗜好家の異常な行動の犠牲者が他に何人もいたようである。ムングチは、コンボ氏の死に際の哀れな姿を思い浮かべながら、神が犠牲者たちに代わってコンボ氏の蛮行への鉄槌を下されたに違いないと結論づけた。

元同僚の医師Dr GG (Gichua Gikere) は、「スリム病」と呼ばれるこの病気については既に知っており、唯一薬を提供出来るだろうと「ウィッチ・ドクター」と呼ばれる地方の療法師・呪術師を紹介してくれたが、実際の役には立ちそうにはなかった。

こうして、性感染症専門医ムングチのエイズとの闘いが始まるのである。

「ナイス・ピープル」

コンボ氏と同じように、医者のムングチも金持ちの階級に属しており、「ナイス・ピープル」とはそんな金持ち専用の次のような高級クラブに出入りする人たちのことなのである。

ムングチも、今では、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員だった。クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。(『ナイス・ピープル』、146ペイジ)

「開発」や「援助」の名の下に、西洋資本と手を携えて大多数の人たちから搾り取る現代のアフリカ社会は、一握りの金持ちと大多数の貧乏人で構成されている。資本を貯め込める中産階級が極端に少なく、大抵はいつでも国外に追放できる外国人で政府はその階級を埋めている。

「ウィルスは金持ちにも貧乏人にも感染する」と書いたが、実は、病気の治療を担う側の医者や官僚などの専門職の人たちも多数 HIVに感染しており、その感染率の高さを作者は問題にしている。冒頭の「著者の覚え書き」からその深刻さが伝わってくる。作者がオーストラリアに留学していた時に読んだ以下の新聞記事である。

著者の覚え書き

『ナイス・ピープル』でどうしても書いておきたかった一つに1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」の切り抜きがあります。3年のち、ここでその記事を再現してみましょう。

ハーデン・ブレイン著「アフリカのエイズ:未曾有の大惨事となった危機」

(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の四分の一がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。

この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。

病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的にかならず混乱が起きることは誰もが認めています。

世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では、研究者が驚くべき割合と記述するような率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。

第3世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ジョン・ティンカー氏は、「死という意味で言えば、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。

しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」

基本的に同性愛者間の触れ合いや静脈注射の回し打ちや輸血を通してエイズが広がってきた世界の多くの国とは違って、アフリカでは主に異性間の触れ合いを通して病気が広がっています。

70年代後半から80年代前半にかけてアフリカで病気が始まって以来、男性も女性も数の上では同じ割合で病気にかかっています。

アフリカでは性感染症を治療しないままにしている割合が高く、その割合の高さがエイズの広がりの大きな要因になっている可能性が高いと多くの研究者が主張しています。

WHOのエイズ特別企画の責任者ジョナサン・マン氏は、一人当たり平均約1.75米ドル(2.40オーストラリアドル)しか医療費を使わないアフリカ諸国の保健機関にてこ入れをし、教育への直接の国際支援と血液検査を行なえば、病気の広がりを抑えることが出来ると発言しています。(『ナイス・ピープル』、Ⅶ~Ⅷペイジ)

 

幼馴染みのメアリ・ンデュク (Mary Nduku) の愛人イアン・ブラウン (Ian Brown) も Dr GG の娘ムンビ (Mumbi) の愛人ブラックマン (Blackmann) も、ムングチが高級クラブで出会った「ナイス・ピープル」である。

南アフリカからの入植者を祖父に持つブラウンは、高級住宅街に住む34歳の青年で、ジャガーを乗り回し、一流のゴルフ場でゴルフを楽しむ。勤務する大手の「スタンダード銀行」で秘書をしているンデュクと愛人関係にある。エイズを発症し、イギリスで治療を受けるために帰国しようとするが、航空会社から搭乗を拒否されて失意のなかで死んでゆく。

ブラックマンはモンバサの売春宿でムンビと出会い、常連客の一人となったフィンランド人の船長で、結果的には、2人の間に出来た子供を連れてヘルシンキまで押しかけてきたムンビを引き取ることになる。エイズに斃れたムンビの亡骸は、ケニアに送り返される。

高級住宅街に住むマインバ夫妻も「ナイス・ピープル」である。妻のユーニス・マインバは、ある日、額から夥しい血を流しながら病院に担ぎ込まれる。その傷が夫の暴力によるもので、のちに、夫とメイドとの浮気の現場を見て以来、精神的に不安定な症状が続いていることが判り、精神科の治療を受けるようになる。数ヶ月後、コンボ氏と同じように肛門性交を好む夫が、かかりつけの医者からHIV感染の疑いがあるので血液検査を薦められていると、ムングチに訴えにやって来る。

性感染症専門医と性

HIVは血液と精液によって感染するのだから、治療に比べれば予防は簡単だと思われがちだが、現実にはそうは行かない。性感染症専門医ムングチの診療と日常生活が、性感染症の恐ろしさと感染対策の難しさに加えて、複数婚が続くケニア社会と今の日本社会との、性や売春行為に対する社会通念の違いを教えてくれる。

ムングチは、メアリ・ンデュクとユーニス・マインバとムンビと、同時に関係を持つ。幼馴染みのメアリ・ンデュクとは高級クラブで再会し、イアン・ブラウンの愛人であることを承知で関係を持ち、一時は同居している。アパートで鉢合わせになったブラウンと大げんかをして別れている。ブラウンはエイズを発症して死んだ。

ユーニス・マインバはムングチが担当した患者である。性的な関係を持つようになり、中年マダムのお供をして週末毎に豪華な小旅行に出かけた時期もある。夫がHIVに感染した可能性が高いと相談され、恐ろしくなって別れた。

ムンビとは父親を訪ねて来たときに私設の診療所で出会ったのだが、モンバサで娼婦をしているのを承知で恋人関係になった。一時期同棲をして、子供を身ごもったことを告げられたとき結婚を決意する。ムングチの働いていたホスピスでムンビは出産するのだが、生まれてきた子供はムングチの子供ではなく、売春宿の常連客ブラックマンの子供だった。ムンビは逃げるようにヘルシンキへ渡るが、エイズを発症して果てる。

ムングチは、のちにエイズで死ぬ愛人を持つメアリ・ンデュクと、HIVに感染したと思われる夫を持つユーニス・マインバと、異国の地でエイズを発症して死んだムンビの3人と同時に性的な関係を持っていたことになる。

ムングチは、売春行為を社会の必要悪と捉え、性感染症については治療を優先すべきで、社会の底辺層には国が無料で治療活動を行なう義務があるという趣旨の卒業論文を書いた。私設の診療所では、最低限の料金でその人たちの性感染症の治療に専念した。性感染症の怖さを充分に承知していたわけで、ムングチを始めとする「ナイス・ピープル」の性や売春に対する考え方を思い合わせれば、この小説の冒頭に載せられた「アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないか」という記事が、真実味を帯びてくる。

南アフリカからの入植者によって侵略されたケニア社会は、かつての自給自足の豊かな農村社会ではない。複数婚も乳児死亡率の高い中で子孫を確保したり、農作業や老人・子供の世話を分担する労働力を確保する、などの必要性から生み出された制度だろうし、西洋社会が批判する割礼にしても共同体全体で次世代を育てるための教育の一環だったと思う。しかし、土地を奪われ、無産者にされて課税される農民や、都市部で働かされる賃金労働者に、旧来の制度を踏襲し発展させる力はない。割礼や複数婚の制度が残っていても、かつての共同体を基盤にして機能していた制度とは全くの別物である。

大多数の農民や労働者は食うや食わずの生活を強いられ、国全体も、西洋資本と手を組む一握りの貴族やその取り巻きの豊かさと引き替えに、背負いきれないほどの累積債務に喘いでいる。そこにHIVが出現し、猛威をふるい始めたわけである。2003年の推計では、ケニア全体の平均寿命は45.22歳にまで落ち込んでいる。22

 

おわりに

当然のことながら、学生の英語の授業に対する要望や必要性は様々である。その多様性に応えるのは難しい。回りには結構いるのだが、今だに教科書1冊を読んでひたすら訳すだけ、テープを聞いて選択肢の答えを当てさせるだけのような授業を続けている人もいる。テープを再生する機械を持たない人が増えている現実にも気づかないで、カセットテープしか用意出来ない人もいる。授業をする側にも受ける側にも大切な時間なのだから、お互いに最低限の努力はしたいものである。言葉が手段である限り、手段を使えるような工夫はすべきであるし、基礎教育や一般教育としての授業なら、自分や社会について考える機会を提供できるような材料を準備すべきだろう。

ケニアを始めとするアフリカ諸国の危機的なエイズ事情と、ケニアに「援助」して協力していると考える大半の日本人の意識との格差は、大き過ぎる。

第2次世界大戦後、欧米や日本は世界銀行や国連などを設立して直接的な植民地支配から、「開発」や「援助」の名の下に資本を提供して利子をとる新植民地方式に戦略を変えた。ケニアへのODAの予算の大半は日本の大手の建設会社が請け負い、日本の大手金融機関、造船会社、運輸会社、商社などを経て日本に還元する仕組みになっている。ケニアも重債務国だが、ケニア政府は債務の帳消しには反対である。債務が帳消しになると一握りの貴族が困るからである。

日本政府は1993年から東京でアフリカ開発会議を東京で始めた。23 このエイズ事情が進めば、外交政策に支障をきたすのが予測出来たからだろう。資本を提供する相手から利子を取ろうにも、エイズによって死者が増加すれば絞り取る相手の人口自体が減ってしまうのだから。ほとんどの人がアフリカ文学の存在も知らないような状況で、科学研究費の分類項目に「アフリカ文学」が突如出現したのも、そういった国策と決して無縁ではない。

2年前、本学医学科の学生が『ナイス・ピープル』にも登場するケニア中央研究所(KEMRI)に、国際協力機構(JAICA)の専門家を訪れている。24 夏休みを利用してケニアやタンザニアでボランティア活動に従事する学生もいる。途上国で医療活動に従事したいと考える学生も多く、アフリカもかつてほど遠い所ではなくなってきている。

国の構造改革の一環として大学改革を迫られ、学生の満足度や効率を求められることが多いが、教育は効率だけでははかれないし、短期的な視野だけで見てはならないだろう。生理学や生化学などの膨大な量の基礎医学をこなさなければならない2年生に英語に割ける時間がどれだけあったかは心もとないし、授業時の反応が必ずしも満足の行くものではなかったが、短期的な判断は禁物である。いつか、授業で出会った学生の一人が、KEMRIの専門家になるとも限らないのだから。25

試行錯誤は、続きそうである。

1 Wamugunda Geteria, Nice People (Nairobi: African Artefacts, 1992)

2 横山彰三「医科大学における英語教育とESP」(本誌第2号70-77ペイジ)に紹介されている後期開講の選択必修クラスで、56名が選択した。後期は基礎医学実習が組み込まれているので授業回数が制限されるが、Nice Peopleの他に、元NBA選手マイケル・ジョーダンの伝記 – “Michael Jordan” in Michael Jordan Magic Johnson by Richard J. Brenner (New York: Paradise Press) – を題材に選び、どちらも関連の映像を組み入れて授業を行なった。

例年、一学年百人中20人から40人程度の希望する学生と授業時間外に、それぞれ1~2時間程度の個人面接をしている。英語に限定していた時期もあるが、最近は限定していない。英語での面接は1割程度で、前半は英語、後半は日本語でという場合もある。特に決めた話題はなく、雑談から進路相談まで百人百様である。授業の最後には、大学が行なう授業評価アンケートとは別に、記名式で授業の感想や意見を書いてもらっている。

4 2004年度担当の新入生にアンケートを行なったところ、アフリカに関心を持つ学生が少なからずいたが、ほとんどの学生はアフリカ文学については知らなかった。

「アフリカに関心がありますか。」の問いに、(医学科97名)1.非常に関心がある。(13名)、2.まずまず関心がある。(39名)、3.どちらとも言えない。(28名)、4.あまり関心がない。(10名)、5.全く関心がない。(7名) (農学部51名) 1. 非常に関心がある。(3名)、 2. まずまず関心がある。(23名)、 3. どちらとも言えない。(19名)、 4. あまり関心がない。(6名)、 5. 全く関心がない。(0)

「アフリカ文学を知っていますか。」の問いに、(医学科97名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(1名)、 3. あまり知らない。(12名)、 4. 全く知らない。(74名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(10名) (農学部51名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(0)、 3. あまり知らない。(14名)、 4. 全く知らない。(34名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(3名)との解答を得た。アンケートは初回(4月第2週目)に無記名で行なった。

5 イギリスMBTV制作「アフリカ8回シリーズ」(NHK総合、1983年)

6 Geoffrey Cowley, “Targeting a Deadly Scrap of Genetic Code,” Newsweek (December 9, 1996) 学生は一年次必修科目「生命科学入門」で読む Human Biology  (An Imprint of Addison Wesley Longman, Inc., 2001) の中の “Immune deficiency: The Special case of AIDS” で少し専門的に触れるので、専門との橋渡しの意味で一般の雑誌記事を選んだ。

 

7国立大学保健管理施設協議会特別委員会編『エイズ 教職員のためのガイドブック’98』(国立大学保健管理施設協議会特別委員会、1998年)からの抜粋を使用した。

 

8 “History of AIDS discovery,” The Daily Yomiuri (August 6, 1994) 1994年の横浜での国際エイズ会議の特集記事の一つである。

 

9池内了「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」、「朝日新聞」(1999年8月6日)の中で言及のあった “Gore’s humanitarianism loses out to strong-arm tactics,” Nature (July 1, 1999) を取り上げた。

 

10 Karl Maier, “Aids epidemic chokes the life out of Southern Africa,” Independent (July 30, 1995)

 

11 留学経験から考えると、国税調査が必ずしも信用出来るとは思えないので、55歳という元の数字を疑わざるを得ないが、WHO(2002年推計)によれば、ジンバブエの平均寿命は男性37.7歳、女性38.0で、既に40歳を切っている。 http://www3.who. int/whosis/country/compare.cfm?country=ZWE&indicator=strLEX0Male2002,strLEX0Female2002&language=english 2003年の推計で総人口39.01歳というデータもある。http:// www.cia.gov/cia/publications/factbook/geos/zi.html

 

12 NHKスペシャル「エイズ・世界はどう立ち向かうべきか」(2003年12月1日NHK総合テレビ)で、この記事に描かれたように、平均寿命36歳のボツワナで、「コンパウンド」でHIVに感染した短期契約の鉱山労働者が帰郷後配偶者に感染させて死亡、残されて途方に暮れる配偶者を現地取材する映像が放映された。

13 外務省のHP: http://www.mofa.go.jp/region/africa/kenya/index.html 1986年以来、日本はケニア最大のODA供与国である。

 

14 体制に批判的な立場を取る友人は、2002年の暮れに現キバキ政権が誕生する前は、事実上20年以上も帰国できなかったので、在外研究で滞在した時か、国際会議に出席した際に、イギリスか南アフリカかジンバブエかで入手したようである。

 

15 “AIDS epidemic” in Africa and Its Descendants 2 Neo-colonial Stage (Yokohama: Mondo Books, 1998), pp. 51-58.

 

16 「アフリカとエイズ」、「ごんどわな」22号、2~13ペイジ、2000年。http://tamada.med. miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/index.html に公開している。

 

17 Major Mwangi, The Last Plague (Nairobi: East African Educational Publishers, 2000)

 

18 グギの亡命の経緯と亡命中のケニアの荒廃ぶりについて “Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy,” Studies in Linguistic Expression, No. 19 (2003) にまとめhttp://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/ngugi/index. html で公開している。

 

19 Ngugi wa Thiong’o, The River Between (Nairobi: Heinemann, 1965) 北島義信訳『川をはさみて』(門土社、2002年)

 

20 学術研究協力部発行の広報誌「宮崎大学における研究活動紹介」(現在校正中)に研究内容の紹介文を書いている。公共機関に配布され、大学のホームペイジにも公開される予定である。すでにhttp://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/ には公開している。

 

21 原文は絶版で手に入らないので、スキャナで取り込んだ。全文(188ペイジ)は時間内には読み切れないので、B5版36ペイジに編集した。研修第一日目、私設診療所、卒業論文審査、エイズ発症騒動、ホスピス騒動など、そのまま残した箇所以外は要約に書き換え、分量的に数回で読み切れるように編集した。希望者には、別途、全文を用意した。

 

22 http://www.aneki.com/facts/Kenya.html 全体で45.22歳(男性45.02 / 女性45.43)

 

23 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ticad/tc_0.html

 

24長田裕明、小野香奈子、庄司健介「ケニア滞在記」、宮崎医科大学「学園だより」第87号14-15ペイジ(2002年12月31日)

 

25 表紙に日本国宮崎医科大学玉田先生様と書かれた絵はがきが舞い込んだことがある。かつて授業で出会った農学部の学生が、海外青年協力隊の理科の教師としてガーナに行って、「授業中に見た『ルーツ』のシーンを思い出しました」という内容の葉書だった。

 

執筆年

2004年

収録・公開

「ESPの研究と実践」第3号5~17ペイジ

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医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』

2000~09年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文(写真作業中)

アフリカのエイズ問題 制度と文学    玉 田 吉 行

 

宮崎大学医学部すずかけ祭シンポジウム「アフリカと医療」

はじめに

 

こんにちは。本日は、ようこそおいで下さいました。誠にありがとうございます。どうか、よろしくお願いします。

玉田と申します。旧宮崎医科大学は十月に統合されて、宮崎大学医学部になり、ここは清武キャンパスと呼ばれています。その清武キャンパスで英語の授業を担当しています。四月からは、旧宮崎大学の木花キャンパスで、「南アフリカ概論」や「アフリカ文化論」などの授業も担当することになっています。

この大学に来て今年で16年目になりますが、毎年、新入生の英語の授業でアフリカの問題を取り上げています。その授業の中で紹介した本のご縁で、山本さんが来て下さり、お誘いしたムアンギさんからも快諾を得、シンポジウムを企画した国際保健医療研究会の人たちの尽力もあって、今回のシンポジウムが実現しました。

今日は、山本さんとムアンギさんの話を受けて、限られた時間の中で、現状を生み出している制度と、社会の現状を映し出している文学を切り口に、僕の現在いる立場からしか話せないようなお話ができればいいなあと思っています。

これからお話する社会制度のように巨大な、マクロの世界も、1ミリの1万分といわれるエイズの原因となっているウィルスの世界も、目の前に見えるわけではありません。それらの本当の姿を見るためには、見ようとする意思や想像力がいるのです。

今日は普段考えたり授業で取り上げたりしている、

 

  • アフリカのエイズの現状、
  • それを生み出している制度、
  • 1992年にいったジンバブエでの体験、
  • 制度の生み出した現象やその中で暮らす人々の心のひだを描き出した文学について、

 

時間の許すなかで、お話したいと思います。

 

 

  • アフリカのエイズの現状

最近は授業でエイズの問題を取り上げ、イギリスの新聞「インディペンダント」のジンバブエに関する報告記事を毎年紹介しています。入り口で販売してもらっている英文のテキスト Africa and its Descendants 2 でも紹介し、今日お渡ししました資料に抜粋していますが、雑誌「ごんどわな」22号の「アフリカとエイズ」という記事の中でも紹介しています。

1995年7月ですからもう八年も前の記事ですが、50%を超えているといわれる軍隊や売春婦の感染率の高さ、子供や老人の世話と農作業を担っている女性の人口が急激に減って、田舎では社会的に、経済的に深刻に見舞われていることなどが報告されています。出稼ぎに出た夫が売春婦からHIVを持ち帰るので、「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」とも書かれています。更に、「数年後には平均寿命が、現在の68歳から40歳になるだろう」、「次の標的は南アフリカだろう」という予測で結ばれています。68歳という数字が大丈夫かなという心配はありますが、先日、インターネットで調べてみましたたら、2002年推計のジンバブエの平均寿命は、予測をすでに上回り、全体で36.5歳、女性35.1歳、男性37、87歳でした。ちなみに、ムアンギさんの国ケニアは、全体で45.22歳、南アフリカは45.43歳、日本は80.91歳でした。

去年の3月にNHKで紹介された番組でも、南アフリカ最大の都市ジョハネスブルグのアフリカ人居住区では3人に一人がHIVに感染していると報じられていました。このままいけば、国が滅びるのではないかと予測する人もいます。数字の信憑性はともかくとして、深刻な事態であるのは間違いありません。

 

2)それを生み出している制度

僕はたまたまリチャード・ライトというアフリカ系アメリカ人の作家がきっかけでアフリカの問題を考えるようになり、読んだり書いたりする空間を求めて大学にたどり着いたのですが、その中でいろいろ考えました。

なかでも、15,6世紀に大規模に始まった西洋による侵略の歴史が、形を変えて今も続いており、国連を無視して行われた今回のアメリカによるイラク攻撃も、基本的にはその延長上にあると考えるようになったのは衝撃でした。14世紀末にマルコ・ポーロが中国から持ち帰った火薬を武器に変えた西洋社会は、右手に銃を、左手にキリスト教を掲げて侵略を始めました。やがては人間を売買して大きな富を蓄え、その富を資本に生産手段を手から機会に変えて今日の大量生産の基礎を気づきました。産業革命によって人類が使い切れないほどの製品を作り出した人たちは、その製品を売りさばく市場とさらなる製品を生産するための原材料を求めて植民地争奪戦を繰り広げました。アフリカは狙われた市場の一つです。

植民地争奪戦は激烈を極め、世界戦争が懸念されて植民地の取り分を決めようとベルリンに集まりました。一番多くの分け前を取ったのがイギリス人で、その人たちの言葉が今は国際語と言われているわけです。結局、二度の世界大戦を回避出来ずに、日本人も交えて白人たちは殺し合いをしました。第二次世界大戦後は、戦争であまり被害を受けなかったアメリカが主導で、国連や世界銀行などを作り、今度は国際援助、資本投資の名目で金を貸して利子を取るという戦略を始めました。しかし、先ほど紹介した平均寿命から考えても、搾り取るにも相手がいなくなる、という事態にまできてしまいました。

南アフリカは植民地支配の極端な形を取りました。最初はオランダ人が、次いでイギリス人が入植しました。当初はインドへの中継地でそれほど重要なところではなかったのですが、19世紀に金とダイヤモンドが発見されてから状況が一変しました。武力でアフリカ人を支配したオランダ人とイギリス人は金とダイヤモンドを奪い合って戦争しましたが、決着は着かずに、南アフリカ連合連邦という連合政権を作りました。1910年のことです。そのころにはアフリカ人支配の構図は出来上っていました。その人たちは、出来るだけ長く続く搾取体制を作り上げようとしました。アフリカ人から土地を奪って課税するという形を取りました。無産者となったアフリカ人は税金を払うために家族と離れて働きに出ざるを得ませんでした。その人たちがいわゆる出稼ぎ労働者です。白人の経営する鉱山や大規模な農場の労働者として、あるいは都会の白人家庭のメイドやボーイとして、奴隷のように働かされました。家族を支えるだけの十分な給料ももらえず、一年中家族から遠く離れた土地で暮らさざるを得ませんでした。大量の、安価な賃金労働者を基盤にした産業社会という人もいますが、実際多くのアフリカ人から掠め取る奴隷制とも言える過酷な仕組みです。

 

3)1992年にいったジンバブエでの体験

アフリカの問題を考えるようになってから、いつか家族でアフリカに暮らしてみなければと思うようになりました。1992年に2ヶ月ほど首都ハラレで暮らしました。本当は南アフリカに行くはずだったのですが、当時はまだ南アフリカとの文化交流が禁止されていましたから、南アフリカには行けませんでした。ムアンギさんにも相談して、ジンバブエ大学に行くことにしました。『遠い夜明け』のロケ現場とは地続きですし、主人公のスティーブ・ビコが立っていた赤茶けた大地を見たいと思ったからです。

一握りの貴族と大多数の貧乏人しかいないので不動産事情が悪くホテル住まいを覚悟していたのですが、スイス人のお婆さんから運良く十万円の家賃で家を一軒借りることができました。行ってみてわかったのですが、敷地は500坪、ガーデンボーイに番犬までついていました。

アフリカ人の生活が知りたくて行きましたから、ガレージの隅の狭い小屋に住んでいるガーデンボーイのゲイリーとはすぐに仲良しになりました。資料のなかにも紹介していますが。毎日同じ敷地内でいっしょに住んでいて、ゲイリーは給料が一月400円ほどで、一年の大半は家族と離れて暮らしていることがわかりました。一月ほどして冬休みを利用して奥さんと3人の子供たちがやってきました。普段はおばあさんがいていっしょに住めないということでしたが、1ヶ月ほど家族5人で暮らしました。僕の二人の子供と入り乱れて毎日いっしょに遊んでいましたが、その蹴っていたボールは一個5000円くらい、ゲイリーの給料より多かったのです。休みが終わって田舎に戻った2人の子供の小学校に寄せてもらったのですが、そこでは大半の人がゲイリーのように小学校を終えたら街に出稼ぎにゆくようでした。ゲイリーの家は、最初に紹介したジンバブエの報告記事そのままで、男は出稼ぎに、女性が農作業をやり、老人や子供の世話をしていました。

ジンバブエには百年ほど前に南アフリカの移住者が軍隊を連れて、第2の金鉱脈を求めてやってきました。金鉱脈は見つかりませんでしたが、その人たち帰らずに、アフリカ人から土地や家畜を奪って国を作り、居着いてしまいました。それまで自給自足の生活をしていたゲイリーのおじいさんたちは、出稼ぎに行くようになりました。

ジンバブエに居る間、搾取する側にいる思いで胸が苦しかったのですが、日本に帰ってくると、ものは豊かでもその繁栄の一部が他者の搾取によるものだという思いはつのるばかりです。

 

4)制度の生み出した現象やその中で暮らす人々の心のひだを描き出した文学について

ゲテリアの『ナイス・ピープル』(この部分については次回に掲載する予定です。)

 

最後に

アフリカの問題を材料にして、新入生には、今まで培ってきた自分の価値観やものの見方が大丈夫かという問いかけをして、自分は何をしたいのか、自分に何ができるのかを考えられる機会が提供できればと思って、授業をしてきました。

アフリカの話をして多くの新入生が、自分は何も知らなかった、アフリカかわいそう、日本に生まれてよかった、自分に何か出来ることはないか、せめて事実を知らないと、そんな反応が多いです。しかし、長いこと授業をしてきて、本当にそうかなと思います。授業で考える機会があってもあくまで人ごとで自分にとってそれが何なのかを考えない学生は、授業が済むとすっかり忘れます。きのうもムアンギさんと大阪工業大学でごいっしょしていた17,8年前の話をしていたのですが、アルファベットで名前も碌に書けない学生に単位を出さない現状を嘆いておられました。医学部の授業でも、たくさんの人が授業に来ないし、来ても寝ているし、現にこの教室でもたくさんの人が熟睡しているらしいです。僕自身は、親の援助なしに夜間の大学に行ったせいもありました、寝ている人たちをみますと、親に出してもらって車乗り回して遊んでばっかりいないでちょっとは勉強したら、将来生死にかかわる患者を相手にするのに、自分の体調も管理できないで風邪ひいててどうする、風邪を治療する人が風邪引いて大丈夫か、といいたくなりますが、どうもその思いが充分伝わるとも思えません。だから、そんな学生からアフリカかわいそうと言われても、と思ってしまうのです。

深刻な現状を考えれば考えるほど、将来の希望が見いだせません。だから、授業の最後にいつも、結論は、ため息しかでないなあ、と言葉をつぶやくしかないのですが、それでも、未来ある若者に将来を託すために、ため息をつきながら、せめて、あきらめずに語り続けようと思っています。いつか、思い出して考えてもらえる機会になればと願っています。

執筆年

2004年

収録・公開

未出版

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「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム草稿)

2000~09年の執筆物

概要(作業中)

2003年11月23日(日)に宮崎大学医学部すずかけ祭で開催されたシンポジウム「アフリカと医療」で行なった講演の記録で、国際保健医療研究会の葛岡桜さんがして下さったテープ起こしの原稿に手を加えたものです。テープ起こしの原稿を見ながら、我ながらあまりの日本語のひどさに悲しくなりました。美しい日本語の会会員などと称していることに後ろめたさも感じました。そして、普段の話し言葉も、話し方も考えなくてはと思いました。これからは、美しい日本語の会準会員を名乗ります。

当日は、時間の関係で、当初予定していた内容を変更して話をしました。当日の内容に手を加えたものがこの「アフリカのエイズ問題―制度と文学」で、その前に、事前に配られたパンフレットの表紙とその内容を載せました。

予定していた原稿につきましては、ずいぶんと遅くなりましたが、手直しのうえ「アフリカとエイズと文学」と題して、近々ホームペイジに掲載の予定です。

ご一緒した山本さんとムアンギさんの話は、ホームペイジには掲載できませんでした。

(パンフレットの表紙)

 

 

第28回すずかけ祭医学展

宮崎大学医学部

シンポジウム「アフリカと医療」

~世界で一番いのちの短い国~

 

●国際医療ボランティア・派遣医師

山本敏晴

「世界で一番いのちの短い国」

…本当に意味のある国際協力とは?…

 

●四国学院大学社会学部教員

Cyrus Mwangi

「アフリカにおけるエイズとセクシュアリティ」

 

●宮崎大学医学部英語科教員

玉田吉行

「アフリカのエイズ問題―制度と文学」

 

日時 2003年11月23日(日)1時~4時

主催 宮崎大学医学部国際保健医療研究会・英語科

場所 宮崎大学医学部臨床講義棟205教室

 

主な対象者; 発展途上国での医療活動やボランティア活動などに従事することも含め、その分野に深い関心のある医療関係者、医療系学生、将来そういう分野で活動したいと考える中学生や高校生、および、国際保健活動に関心のある方々。◆

 

本文(写真作業中)

アフリカのエイズ問題―制度と文学     玉 田 吉 行

玉田と申します。よろしくお願いします。旧宮崎大学と旧宮崎医科大学が(10月に)統合して、こちらは清武キャンパス、向こうは木花キャンパスと呼ばれています。実際には(統合後の最初の授業が始まるのは)4月からなんですが、(今は)こちらの方で英語を担当しています。4月からはさっきお話にありましたように、アフリカ文化論とか、南アフリカ概論とかの名前で、(木花キャンパスの方でも、主題教養科目の)授業を担当する予定です。

今回のシンポジウムは、わりと準備していたんです。一応、こういうタイトル(『アフリカのエイズ問題―制度と文学』)で、初めに少し挨拶をして、それからアフリカのエイズの現状を少しお話してと、本当はそういうつもりでした。

病気でもそうですが、(たとえば)喉が痛いとか、それは(それで)原因があるわけです。西洋医学の場合だと、対症療法で熱を下げましょうとか、薬を与えましょうとか、まあ、そういうことになるわけですが。本当は、免疫力があれば、病気にならない確率が高いわけで、「ちゃんと良く寝ましょう」、「規則正しい生活をしましょう」、「むちゃくちゃ飲まないようにしましょう」、そういうことが一番大事だと思うんですが、そのためにはやっぱり何が原因かというのを知らなければなりませんし、出てきた症状から、病気の場合だと、診断しなければいけません。

実際に、エイズの惨状は、今日ムアンギさんがお話されましたように、大陸が滅びるかもしれないという可能性を含んでいるほどだと、ぼくは思っているんですが。それは、HIVだけが原因というわけではなくて、それを生み出した原因というのはもっと大きな所にあると思うからです。

ぼくは、たまたま読んだアフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライトの祖先が奴隷貿易で連れてこられたという縁で、アフリカに辿り着きました。その人はアメリカから追われるような形パリに渡った人で、常に「自分は何か?」を問い続けていました。生まれながらにして、肌の色が黒いというだけで疎外されていましたから。同じような意味で、ぼく自身もいつも「自分は何か?」を問い続けていました。生まれてくるとわけのわからない親でしたし、子供もたくさんいて貧乏だったですし、大学入試はすべって行く所はないし、学校へ行っても腹が立つし、地域社会にも腹が立つし。そんな状況でしたから、自分の居場所というか、つまり疎外された状況のなかで、自分はいったい何ができるんだろうか?とか、どうしたらいいんだろう?とか、そんな事ばかり考えていました。リチャード・ライトがアフリカの問題を取り上げていたのがきっかけで、僕自身も自然にアフリカについて考えるようになりました。

ですが、そこで考えて、(ぼくはここの英語の授業でもアフリカの話をずっとしてきたんですが。ここに来て16年になります。その前の5年間も含めますと、20年以上にもなりますが。)最後にたどり着いた地点は、山本さんとか、ムアンギさんとはだいぶ違うとは思うんですが、なんかため息しか出ないというか、希望的な観測が全くもてないというか。それもありますし、それから実際に長いあいだ授業をしていますと、この部屋でもそうですが半分以上寝ている中で授業が行われていますし、(学生は)あまり来ません。ほかの大学でもそうですが。以前いました大阪工業大学とかだと、授業の一番初めに出席をとって、ぱっと見上げたら前半分全部いないんですよね。それで、おかしいなぁと思って、出席を後からとるようにしたら、最初あまり来なくて、終わりの方に(たくさん)来ましたね。(非常勤としてご一緒した)ムアンギさんは、アルファベットで名前書けない奴にどないして単位だすねん、とぼやいてましたね。大阪工大は、(偏差値でいうと)関関同立(関西学院大学、関西大学、同志社大学、立命館大学)の次くらいだと言われている大学です。(ムアンギさんも僕も)ひどいところで授業をやっていたわけです。ここでも実際に授業をやってみますと、(学生は)授業には来ませんし、(来ても)半分くらいは寝ていますし。今、(その時の学生が)二人くらい(会場に)来ているんですが、その学年のときの話です。ぼくは一年間一生懸命話をしてきて、(それでも大体半分くらいは寝てましたけど)すごく頑張って(まとめの話を)やりだしたのに、ふと見ましたら前の方で漫画を読んで、パンを食べている学生がいるんです。腹が立って、こんなやつは絶対に医者にしたらあかんと思って、授業やめて出てきたんです。医学部でさえそうですから、別に医学部でなくてもいろんなところでそんな状況があるのが実際のようです。授業中に夢中になって携帯電話をしている人もいますし、すこし進歩的な話をしたら寝てしまいますし。ま、そういうのが現状のようです。

どちらかと言いますと、(授業で)アフリカのことをしながら日本にいて、その狭間に立って、その希望を託すべき、有能な若者と実際に授業をやりながら、その合間に立ってみますと、いろんなことが見えてきて、やっぱり最終的に、授業の最後で「いや申し訳ない、もうため息しか出ない」という感じになってしまうんです。でも(そのような状況でも)20年間ずっと話し続けてきたのは、そこにしか希望はないんじゃないかなと思っているからなんです。ですから、今日もそうですが、やる事に対しては、やはり準備もしますし、それなりにやります。ですが、人のためにやっていますと、例えば、「なんで授業に出てこれんのや?」とか、「なんで寝てしまうねん?」と思うかもしれないんですが、でもその人がいつかこの話を思い出して、医者になったときに、ああ、あんなことをいってたなと思ってくれること…まぁこれは実際にあるんですが…そのほうが一番大事で、ひょっとしたらそういう希望があるのかもしれません。でも、実際にはそんなに希望があるわけでもないし、だけどやっぱり喋り続けないといけない、みたいな(感じです)。そういう狭間で、ぼくは毎日少しずつ…。あ、もちろんこのシンポジウムはなかなか大変で。最初、授業でアフリカの話をしていたときに、山本さんの本(『世界で一番いのちの短い国』)を課題図書で紹介しました。一年生の石崎さんが、私知ってるよ、みたいな感じで。すぐメールを打って山本さんに「講演をお願いします」と頼んでみたら、山本さんからすぐ返事が来て、「それじゃ玉田先生に相談してみてください」、と(いうことになりました)。それで(講演が実現しましたので)、今日はぼくとムアンギさんは二人とも、付け足しみたいなものです。国際保健医療ですから、山本さんの話に関連して話をするので、ムアンギさんも来ませんかみたいな感じで電話したわけです。で、はじめの話では、前半、半分以上(山本さんに)やってもらって、ムアンギさんとぼくとで残りの時間を分けるつもりだったんですが、もうほとんど終わりであと(残り時間が)5分くらいしかない。(一同笑)で、一応ぼくがここで今言いましたように、普段考えてきて授業の中で言っているような話をした後、実際に1992年にジンバブエに行ってみて、「ほー、やっぱり同じやった」みたいな話をして(と考えていました)。

実際には、ぼくらは大学にいる(知的な欲求を満たしやすい環境にいる)わけですから、ほかの人の事(実際には行けない外国のことなど)を知るために、例えば、山本さんの話を聞いたり、ムアンギさんの話を聞いたり、そういう部分も大事ですが、制度(についてだけ)じゃなくて、実際に生活している人のことを書いているとか、文化(について書いてる)とか、そういうものを読めればそれにこしたことはないと思います。例えばエイズの話でも、1991年に、エイズが問題になり始めた時期のケニアの混乱した状況を描いた小説をゲテリアという作家が書いています

ぼくは今、(本学の)2年生で授業をやっているんですが、実際に授業やっていましても、2年生は忙しいからと、あんまり来ませんし。授業では、そんな深刻な問題を話していても、半分くらい寝ていますけど。

そういう風な本の内容をみてみますと、例えばケニアの場合など、実際に今日お話しましたように、植民地(支配)で、それから新植民地(支配)で、その侵略は今も続いてるんですが。ですから、極端に言いますと、日本のように、中産階級がいるわけではなくて、一握りの貴族と西洋の人たちが手を結んで長い事(新植民地体制を)引きずってるわけで。で、ごく一部ですよね、その(支配階級に属している)人たちは。その人たち以外はほとんど全て貧乏人で。そういう構図の中でHIVにこの人達もたくさん感染しているんです。いっぱい。その小説は、『ナイス・ピープル』というタイトルですが、こっちの方の人たち…治すものの側(の人口)がものすごく減ってきてるわけで。こっち側(支配される側)の方は、そこにムアンギさんが持っていらっしゃいますが、メジャー・ムアンギという人が書いている本 [『最後の疫病』(2000年)] では、そのHIVに関して、一般的な人たちが西洋文明を、受け入れるか – つまり、HIVは精液や血液で感染しますから、原因がわかっているはずですよね、だけど実際には抑えられないみたいな、それのせめぎ合いみたいなところが書いてあるわけです。その中で、どういう風な感じで人間の尊厳を保つかみたいな、そういう部分も書いてあるわけです。

僕自身はもともと、文学を志して、30ぐらいで高校(の教員)を辞めて、それから書いたり読んだりするには大学しかないって思って、5年間ほど(通算にしたら9年位)浪人してるんですが。ですから、ここが初めて(の大学)で、それ以来で、16年目になります。そういう感じで生きてきました。

文学は、生き死にの問題が優先される場合…戦争をやっているときには文学は(直接には)役に立たないかもしれませんが、やっぱりものすごく大きな役割を持っています。根本的なことになるんですが、人間が人間に何か教えられるかと言うのは、非常に疑問で。その事を一年間ほど考えて、棒に振ったことがあります。結論は、やっぱり分からないというか。例えば今授業で先生をやっていますけど…何年か前に生まれてきて、先に少しだけ多く覚えて、それを言ってるだけですから。そういうことを考えていましたから、中学や高校では、こいつ何言ってんねん、そんなもん教科書に書いてあるやないか、といつも腹立てていたんです。だけど、そういう側面はどうしてもあるように思えますので、人のために教えてやるというのは、少し違うかな、と思っています。そんなことを考えながら、もんもんと授業をやっているんです。

ですから、ここで一番いいたかったのは、やっぱり、そのアフリカの問題を授業の中で取り上げているのも、大学の時代がやっぱり大事(な時期)だと考えているからだ、ということです。なぜかと言いますと、知的な欲求は、(今は物が豊かで、なんか無理やり勉強やらされて、その中でそがれてる部分もものすごい多いと思うんですが)本来は、何か知りたいとか、何かやってみたいというところから始まります。知的な欲求が、人間にはすごくあると思うんです。だから、そういう欲求を満たすには、(大学に)入ってきて、その中でいろいろ話を聞いて……。そのときに、人生が方向付けられる事があるかもしれないですし。ですから、そういう意味では、ぼくは大学入ってきた人たちに、できるだけ、「今まで持ってきた価値観は大丈夫か?」みたいな揺さぶりのための材料として、アフリカの事をずっと話したりしてきたんですが。ぼくがその中でよくするのは、14、15世紀ぐらいから、中国から持ち帰った火薬を武器に、西洋社会が銃(武器)を作って、それから侵略を始めたという話です。当初は、東アフリカを略奪したりしていましたが、もっと恒久的に略奪しつづける方法はないかと考え出して、結局は片方(の手)に聖書、もう一方に銃を持って侵略を始めたんです。南アフリカなんか、オランダ人に侵略されたんですが。1972年にマジシ・クネーネいう南アフリカの詩人が来て、多分あのときだと、日本の文学者の野間宏とか針生一郎とか、その辺の人に案内してもらったと思うんですが。その人がオランダの出島を見て、「日本人てえらいなぁ」と言ったそうです。実際に、南アフリカはオランダ人に侵略されましたからね、「(オランダ人を出島に閉じこめた)日本人はえらいなあ」という意味でしょうが、そういうことを、ぼくは雑誌で読んだことがあります。実際に、南アフリカはそういう形で侵略されていったんですよね。そのうちに、今度は人間を売買し始めて、ものすごく片一方(西洋)は富んだわけで、その資本で、今度はもっと儲ける方法を考え(始め)たのです。つまり、奴隷貿易は、大きな損失(リスク)もありますよね。(逃亡とか反乱とかの)リスクを伴いますから。だからもっと効率よく儲ける方法、つまり今まで手でやっていたことを機械でやるようになって。ものすごくたくさん作って、それを売り始めたわけです。売るための材料をもっと手に入れるために、植民地化を始めます。その勢いはとても大きかったわけです。そのときにあつかましく、たくさんの植民地を取ったのは、英語をしゃべっていたアングロ・サクソン系の人達です。特に文明のあったケニア、ガーナや、ナイジェリア、南アフリカ、ジンバブエなど。とにかく、文化の発達していた所ばかり狙ってたわけです。その人達は自分の言葉を押し付けました。押しつけられた国は数多く、(今も経済的に結びつきが強い)Common Wealth countriesは、確か51か52あると思いますが。その人達は、(国として)英語をしゃべるようになってるわけです。ですからジンバブエに行った時もそうでしたが – ジンバブエはショナ人がほとんどなんですが – それが、キャンパス内で(ショナ人同士が)英語でしゃべっているのです。みんながそうなんです。自分の子供に母国語のショナ語を教えないで、英語を教えている人が増えているようです。名前もAlexや、そんな名前ばっかりです。そういう傾向は顕著で、インドもそうらしいです。小田実さんがインドで行われている英語支配は、だいたい形を変えた侵略じゃないかのかねとあるインドの友人に尋ねたら、何を言ってる、侵略そのものだ、と言い返されたと言ってましたが。そんな状況になっているようです。

いまさっき、山本さんがシェラレオネ(の平均寿命が)34歳とおっしゃったんですが、何日か前、インターネットで調べてみましたら、ジンバブエの場合、36.5歳でした。1995年の記事ですが、イギリスのインディペンダントという新聞を授業で読んだことがあります。その記事は、2010年くらいまでには平均寿命が55歳くらいから40歳くらいに落ち込むだろうと予測していました。 55歳(という元の数字)が、そんなに高くないとぼくは思いますけれども。ここ(提示したグラフ)でみてもらったら分かりますが、ムアンギさんのケニアも、南アフリカも、45歳ぐらいです。日本は80歳こえていますから、このあたりのところは、(原因が)絶対あると思います。そういうふうなことを考えると、形態は変わっても(侵略は)ずっと続いているのです。

実際に知的なものを考えて世の中をなんとかしていかないといけないという大学生でさえも、知的な好奇心が薄い(人も多い)ですし。それから、政治とか、社会的なことをあんまり考えません。今ぼくがお話したようなことが、その侵略の延長だとしますと、アメリカなんかずーっとそれを続けているわけです。その国が国連を無視して、イラクを侵略した事を、ぼくらは止めることもできなかったわけです。そういうふうなことに対して、そういうことを考えもしないと言いますか。その辺りのところに対してぼくはどういう風に話しかけたらいいのか。すごく、とまどいながら。それでもやっぱり言わないといけないな – そういうところで過ごしていますね。

南アフリカに関して言いますと、ジンバブエで…ジンバブエに行って、家を借りました。今言いましたように(ジンバブエには)貴族と貧乏人しかいませんから、ほとんど借家はないんですが。でも、たまたまみつけてもらって。10万円の家賃ですと言われて、行きましたら、500坪ですよ、これくらい。ちゃんとガーデン・ボーイ付きでした。知り合って、いろいろ話を聞きましたら、その人の給料は4千円くらい(ひと月ね)。子供たちも(その人の子供たちと)一緒に遊んだのですが、遊びに使ったボールがひとつ5千円くらいでした。実際はそんな中で生活をしていて、その人の田舎のほうに行ったんですが、(写真をうつしながら)こういうところに住んでいて、ジンバブエに関しての新聞にあったように。大体、田舎のでは女性が農作業と、それから老人や子供の世話をしてるんですが。HIVで、みんな倒れていくんです。

ヨーロッパ人がやって来たときにどんな侵略の形態を取ったかと言いますと、つまりアフリカ人の土地を奪って課税したんです。課税されて、その現金を払わなければなりませんから、みんな出稼ぎに出ざるを得ませんでした。たいていは鉱山か、農場か、白人の家か、工場か。たいがいそれは短期契約…つまり(労働単価の)一番安いパートタイムです。男ばっかり集めてコンパウンドという、まぁ、日本で言うたこ部屋ですね。そこに売春婦が入りますから、そこで感染します。こんどは、1年に2回ほど田舎に帰って、奥さんにうつすんです。アフリカの場合、特にそれが極めて多いのです。英語では「マイグラント・レイバー」、いわゆる季節労働とか、出稼ぎ労働とかいわれます。そういうシステムがあるわけです。それは今さっきも言いましたが、実際に、ぱっと略奪するのではなくて、永遠に略奪し続けるというか。だって、奴隷みたいに、大の大人が24時間中拘束されて、ひと月4千円ですよ。今(写真に映っている)ここで子供達が遊んでいましたが、ここはスイスのおばあさんが持ってるところで、そこの人達(ショナの人たち)は子供が遊びにきても、ぼくらがたまたまいたので子供たちもいましたけど、普通はそこに入れてもらえなくて。家族とほとんど一年離れて(暮らしているんです)。(田舎に)帰ったら、家も大きく土地もあるんですが。だから、そういう状態ですよね。それは、いってみれば奴隷と一緒じゃないですか。経済の配分は、システムは……。それが基礎なんです。あまりそういうことは言われないんですが、安価な労働力によって、人が生産したものを掠め取ってるわけです。実際に例えば、ここ(臨床講義室)の電力でも、そうですよね。南アフリカとか、ナミビアとかその辺りの安い労働力で、(ウランが)掘られて運ばれ、(日本では)安い電力が供給されているわけです。そういうことを考えてきますと、ぼくらは、完璧に加害者なわけです。そのことを山本さんも、ムアンギさんも言われてましたが。それが問題なのです。何が問題かというと、(たいていの人が)その事にも気が付いていないことなんです。

そんなことを考えてみますと、自分の自己存在も肯定できるのかなと思います。やっぱり生きる自信が持てないと思いながら。(授業で)そんな話をすると半分くらい寝てしまいます。もう、ひどいのになると、授業終わった後、あー、なんてあくびして。あーもう(受験勉強で詰め込んだ)英語も忘れてしまった、なんて言って。授業終わった直後に言われますと、さすがに、がっくりときますが。でも、現実なんですよね。

アパルトヘイトがあったときに、(ヨハネスブルグの)日本人学校に(取材に)行って、(朝日テレビの)「ニュースステーション」がインタビューをして、日本人学校の校長は(管理職だから)、「いやー、もう危険だから、(安全確保のために、もっと)フェンスを高くしないと」、と言ったんですが。せめて、「将来を託す子供達だから、知らない所に来てぼくらにできないことをやってもらいたい」くらいは言ってもらいたいですよね。企業の特派員の子供達が大きな顔をして、「あの人達とは生活が違うから雇ってあげなくちゃいけないですよね」と言うんです。「せっかく一緒に友達になったんだから、もう帰りたくない」くらいは、せめて(その子供たちに)言って欲しいですよね。

良く分かりませんが、現状がどうであれ、受験勉強で疲れて、何もものを考えないようになって大学入ってきたとしても、例えばぼくらみたいに授業する立場の人間が、「もうしゃーないから」といって諦めてしまう、そうなったら終わりじゃないですか。そう思っているんです。しかし、今の状況でぼくらが何かが言えるかといったら、いやー、あまり自信がなくて、何かぶつぶつ言いながら、「ぼくは英語嫌いです」とか、「外国人が苦手です」とか言いながら、最後にぼそっとと「いやー、ため息しか出ない」としかいえないんです。ですが、人のためだけにやっているわけではありませんので、ぼくは、最初にも言いましたが、自分が読んだり書いたりする空間を求めて大学にも来ましたし、授業をもつことで実際に生活もしているわけですから、その責任として、やっぱり、それでもきちっと準備をして、ぶつぶつ言いながらでも、しゃべりかけないといけないと思っています。とくに、医者になる人が多いですので、ぼくは、「医者になる人が風邪をひいていてどうする?」と、いつもそれだけは言うんです。(高校の教員をやっていたときにもあったのですが)ここ(宮崎)の人なんかもそうですが、自分はたばこを吸いながら、「お前たち、たばこ吸うな」、なんて生徒指導でやっている人がいますけど、そんなの(元々)信用できるわけがありませんから。医者(の場合で)もそうだと思うんです。だから、今はどうか分かりませんけど、いつか気が付いて、(患者の)いのちを預かるときになって、山本さんもお話されましたように、勉強するのは大事だということを思い出して、自分のために考えてもらえればいいなぁ、と思います。

今回、たまたまこういう形でやったわけなんですが、アンケートの中にもお書き下されば、今日お話できなかったこととか、興味がおありの方に、ホームペイジとか或いは印刷物とかを通して、連絡が取れると思います。

もう13年にもなりますが、アパルトヘイトが廃止される前の年に、この下の105(臨床講義室)で、南アフリカの作家をお呼びして講演会をしたとき、またやったらどうだって言われたんですが。もし、機会があれれば、誰かをお呼びしてまたやろうかな、と思っています。予定していた事が充分にはできなかったんですが、わざわざ足を運んで下さって、有り難うございました。

執筆年

2004年

収録・公開

出版(私製)

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「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム報告)

2000~09年の執筆物

概要

(作業中)

本文(写真作業中)

コンゴの悲劇2 上  ベルギー領コンゴの「独立」

■ ベルギー領コンゴ

前回の「コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』」(「ごんどわな」24号2-5頁。)では、遂にコンゴにまで植民地支配が及び、アフリカ人の暮らしが一変したことを書いた。

「悲劇2」では、ベルギー領コンゴが新植民地体制に組み込まれて行く悲劇について書こうと思う。

奴隷貿易による初期の資本蓄積で生産手段を機械に変えた西洋社会は、産業革命で作り過ぎた製品の世界市場と、安価な原材料を求めて、植民地争奪戦を繰り広げた。

レオポルド2世が植民地獲得の夢を紡ぎ始めた1870年代には、既にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカは、ほぼ西洋列強の植民地支配下にあり、コンゴ盆地は列強国が手をつけていない世界地図の唯一の大きな空白だった。結果的には国王一人が暴利を貪ったが、そうでなくとも、後の歴史が示すように、いずれは侵略者の餌食になっていただろう。

 

レオポルド2世

「コンゴ自由国」は1908年にレオポルド二世からベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれた。支配体制を支えたのは、1888年に国王が傭兵で結成した植民地軍(The Force Publique)である。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、1900年には、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となった。軍はベルギー人中心の白人と、主にザンジバル〈現在はタンザニアの一部〉、西アフリカの英国植民地出身のアフリカ人で構成され、「一人か二人の白人将校・下士官と数十人の黒人兵から成る小さな駐屯隊に分けられていた。」(註1)兵隊がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だった。

レオポルド二世は国際世論に押されて渋々政府に植民地を譲渡したが、国際世論とは言っても、この時期、ドイツは南西アフリカ(現ナミビア)で、フランスは仏領コンゴで、英国はオーストラリアで、米国はフィリピンや国内で同様の侵略行為を犯していたので、批判も及び腰で、国王が死に、1913年に英国が譲渡を承認する頃には、国際世論も下火になり、第一次大戦で立ち消えになってしまった。

アフリカ人は人頭税をかけられて農園に駆り出され、栽培ゴムや綿や椰子油などを作らされた。第一次大戦では、兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」(註2)という惨状だった。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現された。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの80%以上がコンゴの鉱山から持ち出された。」(註3)

名前が「ベルギー領コンゴ」に変わっても、豊かな富は、こうして貪り食われたのである。

■ 豊かな大地

ベルギーの80倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、北はコンゴ(旧仏領コンゴ)、中央アフリカ、スーダンと、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニアと、南はアンゴラ、ザンビアとに接しており、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にある。

 

 

植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていった。「1953年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの70%を産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」(註4)になっていた。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となった。

行政区は、北西部の赤道州、北東部の東部州、中東部のキブ州、中西部のレオポルドヴィル州、中部のカサイ州、南東部のカタンガ州の六州に分けられ、大西洋に面するレオポルドヴィル州に首都レオポルドヴィル(現キンシャサ)があり、カタンガ州とカサイ州南部が鉱物資源に恵まれた地域である。

インドの独立やエジプトのスエズ運河封鎖などに触発されて独立への機運が高まりアフリカ大陸に「変革の嵐」が吹き荒れていたが、コンゴで独立への風が吹き始めたのは、ようやく58年頃からである。

ベルギー政府は、コンゴをやがてはアフリカ人主導の連邦国家へと移行させて本国に統合する構想を描き、種々の特権を与えて少数のアフリカ人中産階級を育てていた。56年当時の総人口1200万人のうちの僅かに10万人から15万人程度であったが、西洋の教育を受け、フランス語の出来る人たちで、主に大企業や官庁の下級職員や中小企業家、職人などで構成されていた。(註5)独立闘争の先頭に立ったのは、この人たちである。

■ 独立

58年当時、アバコ党(註6)、コンゴ国民運動 (註7)、コナカ党(註8)などの政党が活動していた。

アバコ党が最も力を持ち、カサヴブ(Joseph Kasavubu)とボリカンゴ (Jean Bolikango) が党の人気を二分し、党中央委員会の政策がコンゴ全体の政治の流れを決めていた。カサヴブは即時独立を求めたが、民族色の濃い連邦国家を心に描いていた。

 

カサヴブ

58年10月創設のコンゴ国民運動(MNC)は、従来の民族中心主義を排し、国と大陸の統合を目指して活動を開始した。誠実で雄弁な指導者パトリス・ルムンバ (Patrice Lumumba) が、若者を中心に国民的な支持を得て、第3の勢力に浮上した。ルムンバに影響されたカサイ州バルバ人の指導者カロンジ (Albert Kalonji) が第4勢力の地位を得たが、五十九年六月にルムンバに反発して分裂し、ベルギー人(教会、大企業、政庁)の支持を受けてMNCの勢力を二分した。イレオ(Joseph Ileo)など多数がカロンジと行動を共にした。

 

ルムンバ

カタンガ州では、チョンベ(Moїse Tshombe)がベルギー人財界や入植者の支援を受けてコナカ党を率いていた。

ベルギー政府に独立承認の意図は未だなかったが、58年11月辺りから事態は急変する。西アフリカ及び中央アフリカの仏領諸国が次々と共和国宣言をしたこと、12月にガーナの首都アクラで開かれた第一回パンアフリカニスト会議に出席したルムンバが帰国したことに刺激を受けて、独立への機運が急激に高まったからである。

翌年1月4日、レオポルドヴィルで騒乱が起き、50人以上の死者を出した。事態を無視できなくなったベルギー政府は独立承認の方法を模索し始め、60年1月20日から27日にかけてコンゴ代表44名をブルッセルに集めて円卓会議を開催して、急遽、同年6月30日の独立承認を決めた。

■ 宣戦布告

5月に行なわれた選挙でMNCは137議席中の74議席を得てルムンバが首相にはなったものの、絶対多数には届かず、カザヴブの大統領職と、大幅な分権を認める中央集権制を容認せざるを得かった。民族的、経済的基盤を持たず、分裂要素を抱えたまま、大衆の支持だけが支えの船出となった。

6月30日の独立の式典で、ルムンバはコンゴの大衆と来賓に、次のように宣言した。

「……涙と炎と血の混じったこの闘いを、私たちは本当に誇りに思っています。その闘いが、力づくで押し付けられた屈辱的な奴隷制を終わらせるための気高い、公正な闘いだったからです。

80年来の植民地支配下での私たちの運命はまさにそうでした。私たちの傷はまだ生々しく、痛ましくて忘れようにも忘れることなど出来ません。十分に食べることも出来ず、着るものも住まいも不充分、子供も思うように育てられないような賃金しか貰えないのに、要求されるままに苦しい仕事をやってきたからです。

私たちは、朝昼夜となく、侮蔑と屈辱と鉄拳を味わってきました。私たちが「黒人」だったからです……

私たちは、白人のための法律が決して黒人用の法律と同じではないのを味わってきました。白人用の法律は寛大でしたが、黒人用の法律は残酷で、非人間的だったからです。

政治的な意見や宗教上の信念を捨てることを強いられた人たちの酷い苦しみを私たちは見てきました。追放者としてのその人たちの運命は、死よりも惨いものでした。

私たちは、街の白人用の豪邸と、黒人用の崩れかけのあばら家を見てきました。黒人は「白人用」の映画館やレストランや店には行けませんでした。黒人は船に乗ればいつも、豪華な客室にいる白人の足元のまだ下の船底に押し込められて旅行をしてきました。

そして最後に、本当にたくさんの仲間が撃ち殺されたり、搾取や抑圧の「正義」の支配にこれ以上屈服しないぞと言った人たちが独房に入れられたりしたのですが、そういった射殺や独房を忘れることなど出来ません。

みなさん、そうしたすべてのことが、最も深い悲しみだったと思います。

しかし、選ばれた代表が我が愛する祖国を治めるようにとあなた方に投票してもらった私たちは、身も心も白人の抑圧に苦しめられてきた私たちは、こうしたすべてが今すっかり終わったのですと言うことが出来ます。

コンゴ共和国が宣言され、今や私たちの土地は子供たちの手の中にあります……

共に、社会正義を確立し、誰もが働く仕事に応じた報酬が得られるようにしましょう。

自由に働ければ、黒人に何が出来るかを世界に示し、コンゴが全アフリカの活動の中心になるように努力しましょう……

過去のすべての法律を見直し、公正で気高い新法に作り変えましょう。

自由な考えを抑え込むのは一切辞めて、すべての市民が人権宣言に謳われた基本的な自由を満喫出来るように尽力しましょう。

あらゆる種類の差別をすべてうまく抑えて、その人の人間的尊厳と働きと祖国への献身に応じて決められる本当の居場所を、すべての人に提供しましょう……

最後になりますが、国民の皆さんや、皆さんの中で暮らしておられる外国人の方々の命と財産を無条件で大切にしましょう。

もし外国人の行いがひどければ、法律に従って私たちの領土から出て行ってもらいます。もし、行いがよければ、当然、安心して留まってもらえます。その人たちも、コンゴのために働いているからです……

豊かな国民経済を創り出し、結果的に経済的な独立が果たせるように、毅然として働き始めましょうと、国民の皆さんに、強く申し上げたいと思います……」(註9)

このルムンバの国民への呼びかけは、同時にベルギーへの宣戦布告でもあった。

(たまだよしゆき・アフリカ文学)

 

〈註〉

1 Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost (Boston, New York: Houghton Mifflin Company, 1998), p. 124.

 

2 Leopold’s Ghost, p. 279.

3 Leopold’s Ghost, p. 278.

4 小田英郎『アフリカ現代史Ⅲ中部アフリカ』(山川出版社、1986年)、118ペイジ。

5 ルムンバ著・中山毅訳「訳者あとがき」、『祖国はほほ笑む』(理論社、1965年)、270~271ペイジ。

6 The Abako: Association pour la Sauvearde de la Culture et des Intérêts des Bakongo.

7 MNC: the Mouvement National Congolais.

8 The Konakat: Confederation of Tribal Associations of Katanga.

9 Thomas Kanza, The Rise and Fall of Ptrice Lumumba (London: Red Collings, 1978), pp. 161-164. ルムンバ著・榊利夫編訳『息子よ未来は美しい』(理論社、1961年)、67頁~72ペイジにも収載されている。

 

執筆年

2004年

収録・公開

未出版(ごんどわな25号に収載予定でしたが、24号以降は出版されないままです。)

  後にまとめて出版→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号(2006年)61-69頁。

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コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』