つれづれに

つれづれに:下り行け、モーゼ

 2回目はゴールデン・カルテット(↓)の「下り行け、モーゼ」を聴いてもらった。どちらも歌詞は旧約聖書の2章出エジプト記から来ていて、黒人霊歌と言われている。

 大規模な大西洋の奴隷貿易で主に西アフリカから北アメリカに奴隷として連れ去られたアフリカ人には、かなりのイスラム教徒もいた。1回目では、ヨーロッパの金持ちたちに絞って話をした。自分たちの富を如何に増やすかしか頭にない連中である。自分では働かず、人からものを掠(かす)め取る才覚に極めて長(た)けている。如何にすれば儲かるかの嗅覚もするどい。搾取し続けるシステムを構築する実務的なレベルも高い。狡猾で、儲(もう)けるためなら何でもやる。恥など糞食らえだ。人身売買も人種差別も、手段として利用した。文明のレベルが高くて、統治機構もしっかりしていた西アフリカに狙(ねら)いを定めて、同胞を売るようにそこの金持ち層を説得した。双方の金持ち層が自分たちの富を分かち合ったのである。その方が効率もよく、儲けも多かったからである。

 当然、イスラム教徒に自分たちのキリスト教を押しつつけることに躊躇(ためら)いがあるはずもない。もちろん、最初はアフリカ人も抵抗はしたが、そのうちに教会に通うようになり、白人の聖歌隊(choir)の歌う教会の歌を聴かされるようになった。アフリカ人たちが生き延びるにはそれしか方法がなかったのである。しかし、見つからないところで魂が生き残るように密かに願いをこめて、白人の歌詞に自分たちの連れて来られた地域で慣れ親しんでいたリズムやビートを乗せて、北アメリカの農園や奴隷小屋で歌い、自分たちの子供や子孫に歌い継いでいったのである。

教会で白人が歌っていた歌は自分たちの経典である聖書(the Bible)から来ている。元々ヘブライ語(Hebrew)で書かれていたものの英語訳である。聖書はTestamentとも言われ、意味は約束ごとらしい。旧訳は人々を救う神が現れるという約束、新訳はその神が人々を救うという約束であるようである。第1章創世記は初めに神は天と地を創った(In the beginning God created the heaven and the earth., AUTHORIZED <KING JAMES>  VERSION)という書き出しで始まる。有無の二元論である。少なくともアジアとアフリカは違う。有ると無いのほかに、もう一つの概念がある。今はなくとも何かの縁があれば現れるという概念である。西欧化されて、世代によって違いもあるが、少なくとも有る無し以外に、あるかも知れない、ないかも知れないという無意識の世界はある。基本的に西洋と東洋がわかり合えない部分なのかも知れない。

聖書から取られた歌詞は、基本的には神への賛歌である。教会で歌われていたのは、讃美歌、聖歌、霊歌、福音歌で、英語ではhymn, salm, spiritual, gospelと呼ばれる。英文特殊講義で黒人文学入門の科目を担当していた人が、spiritualに私が黒人霊歌の訳をつけましたと得意げに言っていたような気がする。その人のヒューズの翻訳本を古本屋で見かけたことがあったので、特段怪しいとは思わなかった。話は地味だったが、内容には信憑(ぴょう)性が感じられた。公民権運動の余波でブラック・ミュージックが有名になってからは、スピリチュアルやゴスペルなどのカタカナ表記も多くなった。日本でゴスペルと言えば、ブラック・ゴスペルを指すと思っている人も多いが、元は白人の歌っていた歌で、今でも白人は白人歌手の歌うゴスペルを聴くと聞く。研究室に来ていた学生が東京の大学時代に留学した際、白人のホストファミリーの家では白人歌手のゴスペルを聴いていたと話していた。

 BS放送で見た音楽番組では、たまたまその年のゴスペル・アウォードの受賞者は白人のエイミー・グラント(↓、Amy Grant)だった。ゴスペル・アウォードはその年にゴスペルの世界で一番活躍した人に与えられるものだと解説していた。当時、担当する医学科1年生のクラスに東大卒の人がいて、いつもヘッドフォーンをつけて音楽を聴いていた。あるとき「いつも何を聴いてるん?」と聞いたら「エイミー・グラントです。僕はクリスチャンですから」と言っていた。当時まだ存在していた宮崎駅近くのビデオショップにはCDのコーナーもあったから、のぞいてみたらエイミー・グラントのものもあったので、CDを1枚買って帰った記憶がある。英語の授業で、ブラック・ゴスペルといっしょに紹介した。

「深い河」(↓)も「下り行け、モーゼ」もどちらもよく知られた黒人霊歌(スピリチュアル)である。白人にとっては深い河とモーゼは聖書の中に出て来る河と人だが、北アメリカに奴隷として連れて行かれたアフリカ人やその子孫には違う意味があった。ブラック・ミュージックの世界である。

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から

つれづれに

つれづれに:→「深い河」

1回目の終わりに、ポール・ロブソンの歌う「深い河」を聴いてもらった。

深い河 私の故郷はヨルダン川(↑)の向こう岸にある/ 深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん Deep river, my home is over Jordan, / Deep river, Lord, / I want to cross over into campground.

福音の恵みを求めて / すべてが平穏な約束の地へ / 深い河 主よ / 河を渡り 集いの地へ行かん / Oh don’t you want to go to that gospel feast, / That promis’d land where all is peace? / Oh deep river, Lord, / I want to cross over into campground.

長谷川 一約束の地』ヨルダン川」から

 1980年代の終わりに、宮崎医科大学(↓)に来た。最初に授業を担当したのは2年生だった。英語科は創立当初、教授1、助教授1、外国人教師1で出発したらしいが、私が講師で着任した時は、助教授1、外国人教師1だった。7つ上の助教授の人は優秀で、とても優しい人だった。学内事情で、教授職は空席のままだった。

一般教育の英語学科目が担当だった。創立当初は非常勤に来てもらって、6年生まで英語の授業があったと聞くが、その時は1、2年次だけだった。その人が2年生、私が1年生の英語を担当する心づもりだったようだが、次の年に在外研究に行く予定で赴任の年だけ私がその人の2年生の分も持った。そのおかげで、2年生と出会え、今も行き来がある人もいる。

 非常勤が5年と長かったので、大学でしたい授業の方向性はだいたい決めていたが、自分の教科書はまだなかったので、市販のアフリカ系アメリカの歴史のテキスト(↓、→「黒人史の栄光」)を使った。急に決まった人事で、まさか医学生の英語の授業を担当するとは思ってもみなかったが、結構新鮮だった。

 「黒人史の栄光」:Langston Hughes, “The Glory of Negro History” (1964年)

 「わい、ABCもわかれへんねん」と学生が言うのを聞いた関西の私大(→「二つ目の大学」)では、授業そのものが成り立たなかったので、その意味でも有難かった。少し、舞い上がっていたかもしれない。その割には、東大の院と京大を出た1年生2人が、学年全体を操って嫌がらせをされたようで不快な思いもしたが、一人に「奨学金とめたろか」と一言いったら、嫌がらせの動きがぴたりと止まった。関西にいた人にも、穢い播州弁は、充分に効いたようである。

2年生の授業で「深い河」を紹介したとき、「『深い河』、誰か歌わへんか?百点つけるで」と言ったら、窓側の真ん中辺りに座っていた大柄な既卒生らしい学生がすっと立ち上がり、朗々と「深い河」を歌い始めた。低音のきいた素敵な歌だった。初めてのこともあって大感激、温かい気持ちになった。もちろん百点をつけた。のちに、本人から聞いたかどうかは記憶が怪しいが、グリークラブの会員で、その年の音楽祭で歌ったナンバーで、グリークラブの定番だそうだった。全国のグリークラブの数は多そうだから「深い河」は広く歌われている歌だったというわけである。卒業後、大学の医局に入って内科医になっていると、研究室に遊びに来てくれていた誰かから聞いた気もする。

私が初めて「深い河」を聴いたのはポール・ロブソン(↓)の曲で、→「黒人研究の会」の会員から借りたLPレコードでだった。家では再生出来なかったので、非常勤で使わせてもらっていた大阪工大(→「大阪工大非常勤」)の→「LL教室」で、補助員の人に聴かせてもらった。2メートル近くの巨漢が歌う歌声は、迫力があった。それ以降もだいたい英語の授業では聴いてもらったし「そもそも再生するツールがありません」と言われるまで、カセットテープやCDを配り続けた。

 「深い河」の歌詞は、旧約聖書から来ている。キリスト教も押し付けられた奴隷たちが教会で聞いたのは讃美歌などの白人が歌っていたものである。奴隷たちはその歌詞に、西アフリカのリズムやビートを乗せて歌い、その歌を後の世代に引き継いだ。それがブラック・ミュージックである。旧約聖書「出エジプト記」由来の「深い河」の続きも聴いてもらうつもりである。

今日は、このあと2回目が始まる。

「『アフリカシリーズ』」

バズル・デヴィドスン

つれづれに

つれづれに:誰が奴隷を捕まえたのか?

宮崎に来た頃の宮崎医科大学

 12月の初めの1回目は、案の定予定が延びて11時から1時くらいまでになった。予定の90分は今の大学の1コマ分の時間である。何もなければ長い時間だが、あれもこれもと考えたら極めて短い時間でもある。一国の歴史をやるのだから、時間内に出来ることも限られている。そもそも歴史と言っても、実際に見たわけでもないし、今のことだって世の中で起きていることがわかっているわけでもない。

2000年ころに、南部アフリカのHIV(↑)感染者が急増して国の3分の1以上がHIV陽性だと騒ぎ立てられたことがある。すでに抗HIV製剤は開発されていたが、その感染者に無料で配るには高価すぎて国家予算を越えてしまう国もあった。何も治療しなければエイズを発症して10年以内には死ぬと言われていたから、人口が激減した国がたくさん出たはずだ。そんな話は聞かない。

国連(UN)や世界保健機構(WHO)が資金確保のために、HIV感染者の数やエイズの死者数を水増していたわけである。報道する側が製薬会社(↑)をはじめとする儲ける側の支援を受けているのだから、自分たちの都合のいいことしか報道しない。多数の人たちはその報道を信じていたわけである。アフリカ人が編集長(↓)をする雑誌が医療の専門家に依頼して調査団を送って再検査し、実際の数字が水増しされていると主張した。初期症状が同じマラリアや普通の風邪まで、HIV感染者の数に入れていたという調査に裏付けられた主張には信憑(ぴょう)性がある。しかし、その雑誌を読む人は少ない。(「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」、2011年)

私の見る目だって、極めてあやしい。採用人事でいい人だと思って尽力したあと、実際にいっしょに働き出してからとんでもない人物だったことがわかり、長い間ずいぶんと苦しめられたこともある。そんな不確かな中で、一国の歴史がどうのこうのと言える自信もない。長いこと生きるとそのうちに観方もしっかりして‥‥そんなことを考えてたわけでもないが、実際には、観方の基本の部分はずっと変わらないままだ。

そのうえで、出来る範囲で始めるしかない。その日は「誰が奴隷を捕まえたのか?」に絞った。普通に考えれば奴隷貿易は白人がやったのだから、白人が捕まえたと考えるのが妥当だ。しかし、見てもらった「ルーツ」の奴隷狩りの場面では、同胞のアフリカ人たちが網を使って捕まえていた。強烈な映像である。少し離れたところで、銃を持った白人が様子を窺(うかが)っていた。少し前の場面では奴隷船の船長とその白人が、何人捕まえるかの交渉をしていた。アフリカ人の有力者が奴隷船の船長の求めに応じて、同胞のアフリカ人を売り飛ばしていたのである。その奴隷船(↓)の船長は、イギリスの奴隷主に雇われて、アフリカで奴隷を積み込んでアメリカに運ぶように命じられていた。

奴隷制がいいとかわるいとかではなくて、金持ちが自分の金儲けのために奴隷制を利用したというのが本質的な問題である。金持ちの狡猾(こうかつ)さに敵う筈がない。西アフリカ(↓)から奴隷を連れていったのは、あの地域の文化が優れていて統治機構もしっかりしていたからだ。文化や技術の質も高かったし、統治者と話がつけば儲けやすかったからだ。厚かましさでは誰にも引けをとらないイギリス人が文化の高かった地域を植民地にしたのも、質の高い統治者と組めばより利益が得られたからだ。本質的には金持ちか貧乏人か、奪う側か奪われる側かが本質的な問題である。それは今も昔もかわらない。貴族も長い間、多数の人を働かせて税としてその上前をはね、優雅な暮らしをしていた。農民は稗(ひえ)や粟の暮らしを強いられていた。そういう意味で言えば、横浜で会ったとたんに出版社の人が話を始めた縄文時代はすごい時代だったということである。大陸から押し寄せたツングースにやられるまで、1万年以上も続いたという。

今回のアフリカ系アメリカの歴史は、奪う側、奪われる側の観点から見れば、実にわかりやすい。学校では奪う側からの歴史が正しいように教えられているが、奪う側の都合のいいように造られた機構自体が怪しい。生まれたときからその中にいるので、一度、再認識してみる必要はあるだろう。

あした、2回目がある。2回目は、奴隷貿易をする側の意識と連れ去られる奴隷(↑)たちの反応に絞りたいと思っている。

つれづれに

つれづれに:英語で

 今月の初めから、定期的に1時間半の予定で、英語を使う機会を持っている。

定年退職後、再任の期間も入れてずっと授業で英語を使っていたが、授業をしなくなってから使う機会がなくなっていた。今ならまだ忘れてなさそうなので、機会があればと考えるようになっていた。この3月に卒業して広島に戻った人から広島大にもなれて留学生と英語でディスカッションすることもありますとメールをもらったとき、またやってみようかと考えた。

 この3月に卒業した人たちは2年生から遠隔授業が始まり、大変な思いをした学年である。英語の授業では1年生の前期しかその人を担当できなかったが、前期に続いて研究室に遊びに来てくれていたし、科研やシンポジウムの手伝いをしてもらっていた。構内に入れなくなったあとも、有志でのズームトーイック演習に付き合ったり、科研のズームシンポジウム(→「 2021年Zoomシンポジウム」)につきあってもらったりしていた。その期間に、1度だけだが英語だけで話す機会も持っていた。世間話だけでは長続きしそうにないので、後期も担当できれば予定していた「アフリカ系アメリカ人の歴史はどうや?」と提案したら「それで行きましょう」ということになった。

1冊目英文書『アフリカとその末裔たち』

 そのあと「ズームシンポジウムに参加していた人を一人誘ってもいいですか?」というメールが来た。それから「その人が一人誘いたいと言ってますが、いいですか?」というメールが届いて、結果的に4人ですることになった。12月の初めの日曜日が1回目だった。

 私は1949年生まれで、敗戦直後に父親が復員して来て生まれた団塊の世代の一人である。人や育った場所にもよるが、英語に対しては反発の感情が勝った。受験勉強が出来なくて、諦めて入った大学が外国語大学(↑、→「大学入学」、→「夜間課程」)の英米学科だったし、その後、高校(↓、→「街でばったり」、→「初めての授業」)の英語の教員もしたが、ずっと英語を話すことに抵抗があった。

 小説の空間が欲しくて大学を探し始めて、気がついたらアングロ・サクソンの侵略の系譜みたいなことをやっていた。気持ちの深層には、常にその意識がある。しかし、現実には侵略者たちの厚かましさの度合いが強かったせいで、使えれば英語は便利な言葉になっている。

今回の参加者は4人とも、英語は第2外国語である。伝達の手段だと考えれば、気が楽である。間違ってはいけないと言われる受験英語とは違って、間違っても気を遣わなくても済む。英語が第2外国語の4人が、アングロ・サクソンの侵略の系譜について英語で喋(しゃべ)るというわけである。私は宮崎、一人は広島、一人はインドネシアの首都ジャカルタ、一人は福岡の離島に住んでいる。二人は「海外」である。

しばらく、4人のズームミーティングについて書こうと思う。やった内容の補足にもなるし、歴史の観方や価値観などを整理するいい機会になるかも知れない。今までずいぶんと書く機会をもらって活字にしたものをほとんどブログに載せている。内容が重なるものもあるが、関連するサイトにリンクを貼ろうと思っている。

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