つれづれに

つれづれに:混沌(こんとん)

 →「『悪夢』」(↑)の続編である。タイトルは『失われた友を求めて』、悪夢から目覚めたあとの世界である。混沌(こんとん)という言葉が相応(ふさわ)しい。コバチュと補助員をマテンダの診療所に残したままキサンガニに戻ったカーターは、ボランティア活動を終えて帰国した。そして、再びシカゴの救急での忙しい日々が始まった。救急での現実も、マテンダとは違う意味だが、いつも死と隣り合わせである。気を抜けない緊張の日々が続く。ある日、職員の一人(↓)が受話器を取ったら、国際電話のようだった。電波が弱くて、音声がはっきりしない。しかし、緊急を要する案件のようだった。相手は、なかなか電話を切ろうとしない。マテンダでコバチュが死んだという知らせだった。

 ERが日本でも人気があったのは、小児科役のジョージ・クルーニーや、カーター役のノア・ワイリーのようなハンサムな俳優の影響もあるが、しゃれた設定というのもあるだろう。カーターは祖父がカーター財団を持つ大金持ちで、元奴隷を所有していた大農園主の末裔(まつえい)、臨床実習先のシカゴのERでの指導医が元奴隷の末裔で医師のベントン、なかなか気の効いた如何にも公民権闘争を経たアメリカという設定である。同僚たち(↓)は実習生のカーターを見て、みんなで楽しそうに冷やかす。

Dr. ベントン「おー、嘘だろ、見てみろよ!」

Dr. グリーン「オーダーの高級白衣だ」

Dr. スーザン「かわいい」

Dr. ロス「決まってる」

Dr. グリーン「腕はどうかな?」

Dr. ベントン「俺の学生だ」

 カーターはこの態度のでかいベントンに、散散に振り回される。ただ、ベントンは野心家で口は相当悪いが、腕は確かである。指導医に振り回されながらも、ベントンの先輩でもあるグリーンの陰ながらのサポートもあって救急の厳しい状況のなかで、カーターは色々と学んで行く。

 コバチュの訃報(ふほう)を知ったカーターは、金持ちのコネを使ってクロアチアの大使館に情報の確認をして、手当たり次第に顕微鏡や縫合セットや薬や注射針を大きなバッグに放り込んで、パリ経由のその日の便で再びコンゴに戻った。友の遺体を引き取るためだった。キンシャサではアメリカ大使館から紹介された国連や赤十字関係を尋ね歩いたが、成果はなかった。遺体の場所を発見するのは困難を極めた。大使館で、飛行機で隣り合わせになったアメリカ大使館の人を思い出して、訪ねて行く。国連や赤十字の事務所を回った経緯を聞いたあと、その人がカーターに言う。

「では、ドクター・カーター、これはお勧めしてるわけではありませんが、私の長年の経験では‥‥」

 カーターは現金2万ドルを持って、赤十字で働くキサンガニでのボランティア看護師の知り合いを訪ねた。その女性(↓)は赤十字で働いていたが、難しいと言われた。しかし、キブ州の負傷者のために派遣される医師に聞いてみると言ってくれた。

 キサンガニに戻り、そこからの遺体探しは困難を極めた。避難所を回り手懸(が)かりを探していたある日、マテンダの診療所でワクチンを打った少年の父親に遭遇する。そして、死体のある場所に辿(たど)り着く。小屋の中に積まれた死体は腐臭を放っていたが、体格の似た人を見つけた。俯(うつぶ)せになっていた死体を引っくり返すと、コバチュとは別人だった。

 付き添っていた兵士に写真を見せて、食い下がって居場所を聞くと「神父は別の場所に生きている」と、小屋まで連れて行ってくれた。小屋の入り口の側に、足を切断して手術した娘と母親も生きていた。そして、奥にコバチュが向こう向きに横たわっていた。カーターが頸(くび)の脈を取ると、まだ生きていたのである。

 逃げ惑ってマテンダの診療所に戻ったときに反政府軍が来て、コバチュたちも捕らえられた。他で捕らえられた人たちが集められ、女性はレイプされた。男性は一人一人銃殺された。

 最後にコバチュが残ったが、無意識に昔クロアチアで通っていた教会を思い出し、「神父」のように説教を始めたのである。凶暴な兵士も、神父だけは別らしい。コバチュの周りに伏せて、お祈りの姿勢を見せた。

 カーターは失われた友を求めてさ迷ったが、生きた友を見つけて、アメリカに送り返した。そこでは、この世のものとも思われぬ混沌とした世界が繰り広げられていたのである。

つれづれに

つれづれに:デヴィドスン

 やはり、デヴィドスンである。欧米相手におまえら、恥を知れと啖呵(たんか)を切ったのはニエレレだが、言い分は至極まっとうである。それ以上に正論を展開してみせたのがデヴィドスンで、やけに楽観的で、前向きである。「ザイールの艱難(かんなん)、アフリカ的解決に誘(いざな)う」のタイトルをつけている。賄賂(わいろ)が横行し、経済は破綻(はたん)、政府軍と反政府軍の戦闘が常態化し、道路はがたがた、欧米の禿鷹(はげたか)すら投資を諦め、不幸をもたらした張本人アメリカが声高に米国式民主主義を叫ぶなかで、その混乱した状態が今日のアフリカ問題の解決に繋(つな)がる糸口になると説いている。

デビッドソンはベルギーの植民地勢力がコンゴの人たちを追い出し、豊かな富だけでなく、自尊心を奪い、自己責任なども侵害したことを重要視している。つまり、意思決定の力がヨーロッパ人の手に渡ってしまったことが大惨事をもたらす最大の原因だと捉(とら)えたわけである。1960年の独立は、この意思決定の力を取り戻すいい機会だったが、政府の支配構造が外国の利益を優先するアフリカ人職員の手に渡っただけ、つまり、独立はまやかしだったというわけである。過去10年か10数年の間、アフリカの広い地域で、このまやかしの独立に対する本当の反対運動が沸き起こっているが、中央政府と官僚から権力移行して地方自治をめざすこの運動こそが本当の民主主義を求める運動だと力説し、ザイールの事例がよい見本だと結論づけている。

「カビラはアフリカ人の自尊心にとってという点ではよい知らせで、本当に とてもいい知らせです。奇抜な観方かも知れませんが、その観方は二つの強い見込みに基づいています。一つは、外部の主要な勢力ももはや、また別の騒乱と荒廃を経たのちにこの地域で得られるものがもはや何もないということです。冷戦の残酷な狂乱は過ぎ去り、すべての処置も終わりました。もう一つの見込みは、ザイールと呼ばれるこの国はもはや安全な搾取源として存在していないということです。つまり、ザイールの多くの人々は、ついに自分たちの利益を自分自身で管理することが出来るかもしれないという可能性が見えてきたのです。一世紀前、それよりも数十年前にこの地で始まった無益な歳月は、終わりに近づいているのかもしれないのです」

 デビッドソンの見解は楽天的である。地方重視の、効率的な民主主義に向けた運動が、すでにエリトリアで見られるように印象的な結果を示し始めているとも言っている。独立過程を散々邪魔しておいて、独立後の混乱に乗じて「アフリカ人には自治の能力がない」と恥ずかしげもなくほざいた欧米の輩(やから)には、「カビラの政府がザイールで仕事が出来るかどうかの証拠をもっと見つけるのは可能です」と前置きして、文章を終えている。

「実際上、ザイールの問題は見かけより厄介でないとわかるかも知れません。そうであるとしたら、それはモブツ独裁制のひどい堕落と全くの不適格さ故に、長い間見捨てられた人々が出来る限り自分たちのことは自分たちでやれる体制が許されてきたからでしょう。結局、もし、カビラが逃げ延びていた間じゅう、地方の人々が自分たちのことを自分たちでやっていなければ、一体誰が、広大なキブ州の切り盛りをやってきたと言うのでしょうか」

そして、ベルリンの壁の崩壊や欧米の都合でマンデラが逮捕時と同じ法律で無条件に釈放されたとは言え、アフリカ人の大統領が誕生した南アフリカとの連携の夢まで披露している。

「カビラが成功すれば、より大きな社会変化とより広範囲の経済協力に希望を見いだせるかもしれません。というのも、九つの国と境を接するザイールは、モブツ支配の下で巨大な経済的の空洞をつくり出していたからです。コンゴが機能的に働けば、サハラ以南のアフリカの大部分のビジネスのための中心となるインフランストラクチュア(基幹施設)が供給される可能性があります。また、国を横断する鉄道と道路が出来れば、キンシャサとケープタウン、マプートとルアンダ、ナイロビとブラザヴィルといった東西、南北の経済の中心地間を結ぶ決定的な交易網になり得ます。もし、ダイヤモンドから銅まであるコンゴの鉱物資源を再びうまく採掘できれば、国が豊かになる可能性もあります。ニエレレが指摘するように『もしカビラの下で、カビラの言うコンゴ民主共和国での理想が、地理的な面だけでなく、あらゆる面で統合が可能であり、潜在的な富を現実の富に変えることが出来るのであれば、タボ・ムベキ(南アフリカ大統領代行、↓)が『アフリカ・ルネッサンス』を提唱する南アフリカとともに、新生コンゴは指導的役割を果たす国になり得ると思います』」

 デヴィドスンに触れると、マルコム・リトゥルが常々言っていた「金髪で青い目をしたのがみな悪魔だと思っているのか?」という言葉をいつも思い出す。イギリス英語なので、私には少し読みづらい面もあるが、いつも心に響いて来る。やっぱり、デヴィドスンである。大好きなソルボンヌのファーブルさんがニューヨークの古本屋からデヴィドスンの古本を送ってくれたことがあるが、パリに来たら紹介するよというメッセージだった気がする。ハラレに行って以来、パリの学会で発表するよりも、もっと身近なところですることがあるやろと自分に言い聞かせ、日々を見つめることを優先したが、もう一度同じような局面があっても、同じ選択をする気がする。

ソルボンヌ前で、1992

つれづれに

つれづれに:エボラ・コンゴ関連(2024年4月22日~)

2024年8月

28:→「つれづれに:コンゴと南アフリカ」(2024年8月27日)

2024年5月

27:→「つれづれに:混沌」(2024年5月19日)

26:→「つれづれに:デヴィドスン」(2024年5月18日)

25:→「つれづれに:ニエレレ」(2024年5月17日)

24:→「つれづれに:モブツの悪業」(2024年5月16日)

23:→「つれづれに:カビラ」(2024年5月15日)

22:→「つれづれに:紛争」(2024年5月14日)

21:→「つれづれに:いのち」(2024年5月13日)

20:→「つれづれに:銃創」(2024年5月12日)

19:→「つれづれに:診療所」(2024年5月11日)

18:→「つれづれに:エイズハイウエィ」(2024年5月10日)

17:→「つれづれに:『悪夢』」(2024年5月9日)

16:→「つれづれに:深い傷跡」(2024年5月8日)

15:→「つれづれに:残忍」(2024年5月7日)

14:→「つれづれに:レオポルド2世」(2024年5月6日)

13:→「つれづれに:国連軍」(2024年5月5日)

12:→「つれづれに:コンゴ動乱」(2024年5月4日)

11:→「つれづれに:ペンタゴン」(2024年5月2日)

10:→「つれづれに:コンゴあれこれ」(2024年5月1日)

2024年4月

 

9:→「つれづれに:コンゴの独立」(2024年4月30日)

8:→「つれづれに:映像1976年」(2024年4月29日)

7:→「つれづれに:1976年」(2024年4月28日)

6→「つれづれに:音声『アウトブレイク』」(2024年4月27日)

5:→「つれづれに:『アウトブレイク』」(2024年4月26日)

4:→「つれづれに:ロイター発」(2024年4月25日)

3:→「つれづれに:ロイター」(2024年4月24日)

2:→「つれづれに:CNNニュース」(2024年4月23日)

1:→「つれづれに:エボラ出血熱」(2024年4月22日)

つれづれに

つれづれに:ニエレレ

 今回は、元タンザニアの大統領ジュリアス・ニエレレ(Julius Nyerere, 1922-1999)である。カビラがキンシャサに入ったあと、アメリカはいつものように米国流の民主主義を主張して、2年以内の総選挙を迫ったが、強く反対意見をアメリカの新聞に書いたのがニエレレだった。マテンダの診療所を攻撃されて、カーターとコバチュと補助員は足を手術したばかりの少女に点滴をつけたまま、逃げ惑った。夜が明けて、コバチュにクロアチアで紛争について聞くと、「カーター、君はアメリカ人だ。民主主義が世界を救うと思っている」と食ってかかった。「代わりは何だ?軍事独裁か?」と反論するカーターに「君たちはミサイルを撃ちこんで空母へ引き揚げて、テレビに興じていればいい‥‥でも餓死する子供たちはいるか?レイプされる女性はいない‥‥テレビや新聞で正義の戦争だと言っていたと思うが、私には家族がいなくなった。あの戦争の何が正義だったんだ?家族を亡くて‥‥」と哀しそうに説いた。コバチュのいうあの米国式民主主義である。(→「いのち」)ニエレレの言い分は、途中で引退を余儀なくされたが、欧米になびくことなく緩やかな社会主義を実践した強者(つわもの)だけのことはある。至極(しごく)まっとうである。

 「この早期選挙の要求は間違っています。民主主義への推移を望むザイールの人々はカビラに無理強いをすべきではありません。国は荒廃し続けており、零から国を再建しなければなりません。つまり、カビラは完全にやり直さなければならないのです。これには、隣国ウガンダのムセンヴェ二大統領が、イディ・アミンが残した壊滅状態から回復するために長い年月を要したように、かなりの時間がかかるでしょう。数年の間政権にいたのちに、選挙をする予定のムセンヴェ二も、カビラにとって悪い手本ではないかもしれません。ムセンヴェニは、ウガンダのために一番に優先すべきは複数政党制の民主主義ではなく、国を修復することであると言いました。もしカビラが同じようなことを言うなら、少なくとも私自身はカビラを支援したいと思います。もしアメリカが望むように早急な選挙が行われたなら、財力のある党や、モブツを支持する組織が勝つでしょう。だから、私たちは早期選挙などと言う愚挙は考えない方がいいのです。現在、この辺りでは誰もが、人権と説明責任に関心があります。しかしながら、周到な準備もしないで選挙をして、ことが達成すると単純に信じている者などはいません。」

そのあと、戦後アメリカ主導で再構築した多国籍企業による資本投資と貿易の体制をし始めた。矛先を欧米に向けて、極めて痛烈である。

「率直に言えば、アメリカとヨーロッパ諸国は少しは恥というものを知るべきでしょう。過去35年間も虎皮の帽子を被った暴君を甘やかし、支え続けた奴らに、数ヶ月以内に選挙をしろとカビラに要求する道義上の資格などありません。奴らがいなければ、モブツはとっくにいなくなっていたでしょうから。モブツは実質的には1994年までに、政治的には終わっていましたが、特にフツ人がルワンダの政権から追われた後、あるヨーロッパ勢力がタンガニーカ湖周辺の利益を保護する目的で、再びモブツを復活させたのです」

 これだけ、歯に衣を着せずに言えるアフリカ人も少ないだろう。そして、すべき内容を提案している。

「もし私たちが援助したいなら、選挙について考える前に、暫定政府と新憲法を含む国の基本的な政治構造を設立していく中でカビラを援助するべきです。まず第一に、カビラは彼独自の政治基盤を形成しなければなりません。事態はどうなっているのか。権力構造の真空状態に吸い込まれてしまっているので、カビラは組織としての権力の引き継ぎをうまく行なっていません。ですから、早急な選挙は出来ないのです。自分たちの取り巻きに金はありませんが、金のあるグループもありません。既存の多数の政党も含め、そのすべてはモブツが組織し、資金を出したのです」

小島けい

 言わしてもらうけど、あんたらちょっとは恥を知らんかい、大体こんな事態にした張本人はあんたらやろ、どの口さげて言うてんねん?もうええ加減にしたりぃ、とアメリカの大手の新聞に喧嘩を売れるのも、緩やかな社会主義ウジャマーの理想を掲げてやれることをやった経験の裏打ちがあったからだろう。まっとうな人間にも容赦ない人たちだった。「アフリカシリーズ」で、第2次大戦後に再構築した多国籍企業による貿易と資本投資の絡繰(からく)りの一端をデヴィドスンは解説している。

「大戦後、ヨーロッパは経済ブームとなり、盛んにアフリカから農産物を輸入します。そこで奨励されたのが換金作物の栽培です。これは農民にも現金収入を持たらしました。しかし、ここには大きな落とし穴があったのです‥‥原料輸出に依存する。これはアフリカを先進国の原料供給地にしてしまった植民地時代の名残りです。そしてその価格はアフリカ経済を左右します。ここタンザニアの主な輸出品はロープの原料となるサイザル麻です」

デヴィドスンの解説を受けて、当事者の大統領として実際に経済を左右されて計画が頓挫(とんざ)した経験を持つニエレレがその経緯を語る。

「第1次5ヶ年開発計画を準備していた当時、サイザルの価格は価格切り下げ以前はトン当たり148ポンドの高値でした。これは続くまいと考え、トン95ポンドに想定して計画を立てました。ところが70ポンド以下に下がってしまいました。いやぁ、勝てませんよ」

 デヴィドスンが解説を続ける。

「原料ではなく、ロープに加工して輸出すればもっと利益が上がるはずです。ところがこれが出来ない仕組みになっています。EEC(ヨーロッパ経済共同体)はロープ類に12パーセントという高い関税をかけ、加工品の進出を阻(はば)んでいます」

 そして、ニエレレが応じる。

「私たちに何が出来ます?私たち原料生産者はいったい何が出来ます?サイザルを食べます?我々はサイザルを作って売るしかない。もし、世界市場の価格がさがったら、私たちに何が出来ます?弱肉教職の世界で苦しむのは、いつも弱者です」

 終始ニエレレの言葉遣いは丁寧で笑みさえ浮かべるときもあったが、目は怒気を含んで凄(すご)みがあった。

ニエレレはアメリカの大手新聞に正論を述べたが、問題なのはこれほど正鵠(せいこく)を得た発言をしても、大きく掲載されたこのニエレレの記事をどれだけの人がよんだのか?どれくらい理解できたのか?である。