つれづれに:深い傷跡
レオポルド2世はコンゴに深い傷跡を残した。ベルリン会議にしゃしゃり出てきたのはアメリカである。小国のベルギーなら譲ると思い始めていたイギリスとフランスにアメリカはお墨付きを与えて、コンゴ自由国は誕生した。増え続ける黒人を「アフリカに送り返せ」と叫ぶ南部の差別主義者に押されて、下院議長まで出て事態を収めた。そのアメリカはアフリカ人を送り返す候補地として、プレスビテリアン教会から黒人と白人の牧師を2名、コンゴに派遣した。派遣されたアフリカ系アメリカ人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記した。
この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍(とうもろこし)、豌豆(えんどう)、煙草(たばこ)、馬鈴薯(ばれいしょ)を作り、罠(わな)を仕掛けて象牙(ぞうげ)や豹皮(ひょうがわ)を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……。
しかし、ここ3年の、何という変わり様でしょうか!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題です。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりです。
どうしてこんなに変わったのでしょうか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからです。支払われる額は余りにも少なく、その僅(わず)かな額ではとても人々は暮らしていけません。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もありません。」
天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇った。20年ほどの間にアジアなどで木が育つまでが勝負と考えた王は、容赦なく天然ゴムを集めさた。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させた。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れた。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業となった。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だった。
王は外国人の入国を厳しく制限したので、ジャングルの闇の中で繰り広げられていた苛酷な搾取は世界には知られなかったが、イギリス人の船乗りモレルが、自分が実際に見聞したアフリカ人の悲劇の実態を描いた『赤いゴム』を1906年にイギリスで発表した。国際的な非難は世界に広がり、ベルギー政府も介入せざるを得なくなり、1908年にコンゴ自由国を廃止して、ベルギー領コンゴに転換した。
王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言わる。アフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込んだ。王は一度もアフリカに行くこともなく、1909年に死んだ。レオポルド2世はコンゴにとてつもなく深い傷跡を残した。
『レオポルド王の亡霊』