つれづれに

つれづれに:コンゴ動乱

ペンタゴンの環太平洋構想が書かれた岩波新書

 なぜアメリカがコンゴの独立時にしゃしゃり出て来たのか?理由ははっきりしている。コンゴが利益を生み出してくれる宝庫だったからである。独立に便乗して、南アメリカ、環太平洋構想の国々(フィリピン→オキナワ→ソウル→ハノイ→モガジシオ→アフガニスタン→イラン→イラク)と併行して、アフリカにも本格的に参入してきたわけである。植民地支配だと宗主国は既得権益を手放さないので、一人勝ちした第2次大戦のどさくさに多国籍企業による資本投資と貿易に体制を再構築し直して、誰憚(はばか)ることなく大手を振ってアフリカに進出したわけである。

 独立の妨害は宗主国に任せて、アメリカはルムンバ内閣の閣僚の一人モブツに目をつけ、クーデターを指揮させた。直接にはアフリカ人の手でルムンバを惨殺させて排除するとともに、もう一人のアフリカ人カサブブに目をつけ、中央政権の力を殺(そ)ぐために豊かな埋蔵量を誇るカタンガ州(現シャバ州)の分離工作を企てた。銅の権益を手に入れられてしまうとルムンバ政権の経済力が飛躍的に上がるからだ。手に入れる前に叩いたわけである。「アフリカシリーズ」ではその一連の出来事が、コンゴ動乱として紹介されている。

民衆から選ばれた首相ルムンバ(↓)をアフリカ人の手で殺害させ、カタンガ州の銅を確保したのだから、だれが新政権に就いても機能するはずがない。モブツを東側の侵入を防ぐ盾として、アメリカはモブツの独裁を支援した。モブツの故郷の村への道は整備された。有名な話である。どうも同じような話をどこかで聞いた気がする。

小島けい画

 宮崎に来た当初、家の近くの道路が市長道路(↓)と呼ばれていたので、その訳を聞いたことがある。市長が建設を優先して通したので、市長道路と言われていますということだった。その前の市長のときも、港近くの道路が市長道路と呼ばれていたらしい。漫画の世界や、と思ったが、道路で恩恵を受けた人たちは市長に投票する。それが民主主義らしい。自民党が税金も払わずに不正を働き裏金で金を貯め込んでも、何のそのと嘯(うそぶ)いているのも、その構図が根付いていて政権が揺るぎないと思い込んでいるからである。

大島通線:この写真近くに住んでいた

 南アメリカで好き勝手をして、環太平洋構想を着実に実行し、アフリカにまで進出したアメリカは、かつての大英帝国の足跡を辿(たど)っている。かつて手を出した、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、ケニア、南アフリカ、ガーナなどはコモンウェルス・オブ・ネイションズと呼ばれ、今もその共和圏の経済的な繋(つな)がりは強い。南アフリカケープ州の首相になったセシル・ローズ(↓)は南アフリカ、ローデシア、ケニア、エジプトを結ぶ縦の大英帝国を夢見ていたと言われる。考えればアメリカはイギリス人入植者がイギリスから独立した弟分である。その人たちはどうも、世界征服が大好きらしい。

 アメリカの次の標的は、南アフリカである。コンゴにも劣らず、鉱物資源が豊かだったからである。ただ、すでにそこにはオランダの入植者がアフリカ人を蹴(け)散らして定住していた。オランダ人はアメリカ人に劣らず独善的でガタイもよく、押しが強い。当座は競争相手のフランスにアジアへの要所を取られないように大軍を送って取り敢えず南アフリカは押さえたが、本格的に進出したのはダイヤモンド(↓)と金が出てからである。オランダ入植者の領地で発見されたので、当然戦争になった。しかし、どちらも銃を持っていたので、殲滅(せんめつ)するには犠牲が多すぎるのは明らかだったから、結局戦いをやめて手を結び、国まで作ってしまった。奴隷貿易で稼いだ人たちだから、何でもありで、そんなことは朝飯前である。アングロ・サクソン系の系譜は健在である。

独立とコンゴ危機のあとは、植民地争奪戦でコンゴがベルギー王レオポルド2世(↓)の個人の植民地になったという嘘のような本当の歴史の摩訶不思議である。いや、その前に国連軍について触れておこう。いい映像もある。

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つれづれに:ノアとのら

「私の散歩道2024~犬・猫・ときどき馬5月

 5月になっている。もう3日だ。ここしばらくコンゴについて書いている。医学と一般教養を何とか繋(つな)げないかと考えて、医学生の英語の授業で工夫を始めた。ちょうどコンゴで→「エボラ出血熱」の2回目の流行があった1995年辺りである。元々授業では音声と映像をたくさん使っていたので、アメリカの→「CNNニュース」と当時購読していたデイリー・ヨミウリの→「ロイター発」の英文記事を使って始めたら、思わぬ方向に広がっていった。そして、その後の英語の授業や、統合後に担当し始めた教養科目でも、繰り返し取り上げることになった。授業でやった内容の記憶を手繰(たぐ)り寄せて書いていたら、いろいろと湧いてきて、1日にカレンダーを載せられずに2日遅れになった。もちろん、コンゴの話はまだ続きそうである。歴史の縦軸と欧米や日本も絡んだ横軸を探っていくと、まだまだ出て来そうな予感がする。

 カレンダーの主はノアとのらである。互いに会ったことはない、ノアはもういないし、のらは娘と吉祥寺に住んでいる。妻に絵の中で引き合わせてもらったわけである。ノアは娘が渋谷に住んでいる頃に引き取って、宮崎まで連れて来た。生まれたての頃に大都会の自動販売機の下であらん限りの声を出して泣いていた声が娘に届いたのである。8畳の部屋では飼えないので、飛行機に乗せられるようになった頃に今の家にやって来た。家にはラブ・ラドールの三太(↓)がいたが、何事もなかったようにいっしょに暮らし始めた。大きさの違いも問題なしだった。ノアと三太はホームページ「ノアと三太」のトップページにいる。定年退職の年に、10年余り授業で使い続けた褒美(ほうび)にブログを作ってくれたので、ホームページを使う頻度(ひんど)は少なくなったが、最初は並行して使っていた。今は10秒でブログに飛ぶ設定に変えてもらっている。ずっと使っていたページは今もそのままである。いろいろブログともリンクさせてある。最初に作ってもらった英語科のホームページも残っていて、リンクさせている。まさかブログが遠隔授業の時に役に立ってくれるとは、世の中何が起こるかわからないものである。2020年の春先の話で、その時の学生はこの4月に卒業した。もう4年になる。医学部の同僚は医者が多いので、メールにCovid 19を使っていたのが印象に残っている。調べたら世界保健機構(WHO)の国際疾病分類上の疾患名「Coronavirus diseases 2019」だそうである。騒動があってから何年になるのかわからなくなると、Covid 19を思い出す。

「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬~」表紙

 のらは娘の住んでいるアパートの坂道で、こちらもあらん限りのだみ声で鳴いて訴えかけ続けたそうである。娘の心に届いて、今ではズームで会うこともある。原画(↓)の絵はズームで撮った画像が元である。大きな顔がなんとも言えない可愛さである。よく携帯に電話もかかって来る。大きな声でのら、のら、のーらと呼ぶと機嫌よく食べだすことが多いようだ。

 ある日、妻はサンタとノアと子供たちを絵に描いた。当時出版社のブログに連載していた「私の絵画館」(→「私の絵画館一覧」、2009/11~2017/1, 81編)にエセイを書いた。→「三太とノアと子供たち」「続モンド通信14」

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つれづれに:ペンタゴン

 ペンタゴン(↑)、独立時にしゃしゃり出て来たアメリカの国防総省についての話である。

 アメリカとは縁が深い。戦争をして負け、無条件降伏を余儀なくされたのだから無理もない。1949年に生まれたからだろう。無意識にアメリカと英語に反発を感じていた。1981年に初めてアメリカに行き、→「シカゴ」のミシガン通り(↓)の縁石に座って3時間ほどぼーっとパレードを眺めていたら、ここにもここのよさがあるような気はしたが、常に意識の底には反感があるような気がする。その後、アフリカ系アメリカ人の作家をきっかけにアフリカのことを考えるようになり、アングロ・サクソン系の侵略の系譜を辿(たど)ることになり、敗戦よりももっと大きなものの存在を感じるようになった。

 なぜ宗主国がベルギーなのにアメリカがコンゴに関わってきたのか、そしてなぜかかわれたのか?第2次大戦後に欧米の関係性が大きく変わり、植民地支配に代わる新しい搾取体制が再構築されていたからである。その再構築を主導したのがアメリカである。アメリカの独壇場だった。大戦で戦場になり国土も破壊され、総体的力が落ちた欧州の国々はアメリカに負債があったから、アメリカ主導に反対する余裕はなかった。自国の立て直しで精一杯だったというところだろう。シカゴの美術館でモネの睡蓮(↓)を見た時、その大きさに圧倒された。アメリカの学会に誘われた在米の日本の方にクリーブランドの美術館に連れて行ってもらったが、そこでも大きなモネの睡蓮があった。のちにパリのモネの絵の多いマルモッタン美術館に行ったが、そこの絵よりも立派だった。敗戦のどさくさに紛(まぎ)れてアメリカ資本が絵を買い漁ったということだろう。ニューヨークのションバーグコレクションでフォトコピーを取ったとき、コピー機はMitaとMinoltaだった。

 それまでは宗主国の植民地だったが、再構築の結果、多国籍企業による資本投資と貿易が主流になった。開発と援助の名の下にである。これで、アメリカは大手を振って、コンゴに乗り込んだわけである。

エボラ出血熱流行を伝えるCNNニュース

 大学は夜間だったので、昼間によく→「古本屋」に行った。自分の中にも書きたい気持ちがあることを気づかせてくれた作家の本を買いに行ったのだが、ついでにたくさん本を買い込んで読んだ。なぜその本を買ったのかは忘れてしまったが、『広島からバンドンへ』(1956)という岩波新書を買った。ペンタゴン(The Pentagon)の環太平洋構想について、ナタラジヤンというインドの人が書いていた。

よく行った古本屋のあった元町の高架下

 ペンタゴンは合衆国バージニア州にあるアメリカ国防総省の本庁舎のことで、五角形の建物の形状に由来し、国防総省を指して使われるらしい。南米でも好き勝手していたようだが、環太平洋では1890年代の米西戦争でフィリピンを、第2次大戦でオキナワを、そのあと朝鮮戦争でソウルを軍事的に制圧したというようなことを書いていた。その当時はよくわからなかったが、後に全体像が見えだすに連れて、ベトナム→ソマリア→アフガ二スタン→イラン→イラクと続いている構図が見えてきた。その都度、新しい兵器を開発して軍需産業は国の基幹産業になってしまっているので、常にどこかで戦争をし続けないと経済が持たない状態にまできている。日本に売りつけている戦闘機も1機何兆円もするらしい。なんとも凄まじい展開である。奴隷貿易の資本蓄積で速度が増した資本主義が、ここまで来てしまったということなんだろう。エボラ出血熱からそんな姿が見えてしまった。

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つれづれに:コンゴあれこれ

 コンゴの理解が少しでも深まることを願って、国土や音楽などについてのあれこれを書いてみたい。

エボラ出血熱流行のCNNニュース(↑)を録画した翌日の1995年5月16日付けロイター発の短い記事には「サハラ以南のアフリカで2番目に大きい国ザイールには豊かな農場があり、旧コンゴ川のザイールの川から水の恵みを得ています。その国は世界でも有数の銅の埋蔵量を誇っていますが‥‥」と国が紹介されている。国の広さは半端でない。コンゴ共和国、中央アフリカ、南スーダン、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア、ザンビア、アンゴラと9か国と隣接している。

 後にカビラ(↓)が政権に就いたとき、欧米はアメリカ式の民主主義をせっついたが、デヴィスドスンだけは、荒廃した今こそ自分たちの手で国を立て直す絶好の機会だと書いた。そして9ケ国と隣接している広大な国が機能すれば、マンデラが大統領になった南アフリカと繋(つな)がって、将来は明るいと断言した。

 『ホットゾーン』(↓)の英文を宮崎県立図書館から取り寄せたとき、1ページ大の地図が挟(はさ)まれていて、アフリカ大陸の東端の首都キンシャサから西端のケニアの港町モンバサまでの道路にAIDS HIGHWAYと命名されているのに気がついた。アフリカでの流行が1985年くらいだから、1994年の出版までにその名が定着したということである。アフリカ大陸の交通網の極めて重要な場所でもある。

 キンシャサのラジオ局からの音楽がケニアやタンザニアにも流れてよく聞いていたという医大の卒業生に教えてもらったとき、住んでみないと実感できんわなあと感心した。タンザニアとケニアに5年足らず住んで36歳で入学して来た強者である。英語の授業で音楽について何か書いてよと言ったときに書いてくれた解説の一部である。

 「リンガラ」は、特に1970年代以降、ケニア(↓)やタンザニアだけでなくブラック・アフリカ地域で最も人気のあった音楽と言っても過言ではない。なぜコンゴ(旧ザイール)の音楽が、この時期それほどの影響力を持っていたのか。それは、ザイールの首都キンシャサに、アフリカ最大の出力を持つ国営ラジオ局「ヴォア・ドゥ・ザイール(La Voix du Zaire)」があったためと言われている。ラジオから流れる音楽が庶民の最大の楽しみだった当時のアフリカでは、ラジオ局でオン・エアされることが非常に重要であったため、ザイール内外から多くのミュージシャンがキンシャサを目指したという。それが様々な音楽要素の融合を生み、ザイールの音楽を発展させるとともに、他のブラック・アフリカ諸国でも人気を得ることにつながったと言われている。また、そうした状況の背景には、当時のモブツ大統領が提唱したオータンティシテ(伝統回帰)政策の影響(=多種多様な民族の伝統文化の強化)があったとも言われている。

 他にも何回か授業で発表してもらったが、その地に住んだだけはあるなあと毎回感服した。私などよりよほど落ち着いて貫禄があった。「ミュージシャンとして、ザイールの音楽シーンを引っ張っただけでなく中央アフリカ最大の都市キンシャサという大都会に住む若者たちのファッション・リーダー、トレンド・リーダーとして、そのライフ・スタイルにまで影響を与える存在」だったパパ・ウェンバのCDをコピーして渡してくれた。この年以降、毎年エボラ出血熱とコンゴの話をしたときはパ・ウェンバのアルバムEmotionの中のYoleleという曲を聴いてもらった。軽快な音楽は暗いコンゴの話題をいっとき忘れさせてくれるほどの伸びやかさがあった。次回はペンタゴン、独立時にしゃしゃり出て来たアメリカの国防総省についてである。