つれづれに

つれづれに:ペンタゴン

 ペンタゴン(↑)、独立時にしゃしゃり出て来たアメリカの国防総省についての話である。

 アメリカとは縁が深い。戦争をして負け、無条件降伏を余儀なくされたのだから無理もない。1949年に生まれたからだろう。無意識にアメリカと英語に反発を感じていた。1981年に初めてアメリカに行き、→「シカゴ」のミシガン通り(↓)の縁石に座って3時間ほどぼーっとパレードを眺めていたら、ここにもここのよさがあるような気はしたが、常に意識の底には反感があるような気がする。その後、アフリカ系アメリカ人の作家をきっかけにアフリカのことを考えるようになり、アングロ・サクソン系の侵略の系譜を辿(たど)ることになり、敗戦よりももっと大きなものの存在を感じるようになった。

 なぜ宗主国がベルギーなのにアメリカがコンゴに関わってきたのか、そしてなぜかかわれたのか?第2次大戦後に欧米の関係性が大きく変わり、植民地支配に代わる新しい搾取体制が再構築されていたからである。その再構築を主導したのがアメリカである。アメリカの独壇場だった。大戦で戦場になり国土も破壊され、総体的力が落ちた欧州の国々はアメリカに負債があったから、アメリカ主導に反対する余裕はなかった。自国の立て直しで精一杯だったというところだろう。シカゴの美術館でモネの睡蓮(↓)を見た時、その大きさに圧倒された。アメリカの学会に誘われた在米の日本の方にクリーブランドの美術館に連れて行ってもらったが、そこでも大きなモネの睡蓮があった。のちにパリのモネの絵の多いマルモッタン美術館に行ったが、そこの絵よりも立派だった。敗戦のどさくさに紛(まぎ)れてアメリカ資本が絵を買い漁ったということだろう。ニューヨークのションバーグコレクションでフォトコピーを取ったとき、コピー機はMitaとMinoltaだった。

 それまでは宗主国の植民地だったが、再構築の結果、多国籍企業による資本投資と貿易が主流になった。開発と援助の名の下にである。これで、アメリカは大手を振って、コンゴに乗り込んだわけである。

エボラ出血熱流行を伝えるCNNニュース

 大学は夜間だったので、昼間によく→「古本屋」に行った。自分の中にも書きたい気持ちがあることを気づかせてくれた作家の本を買いに行ったのだが、ついでにたくさん本を買い込んで読んだ。なぜその本を買ったのかは忘れてしまったが、『広島からバンドンへ』(1956)という岩波新書を買った。ペンタゴン(The Pentagon)の環太平洋構想について、ナタラジヤンというインドの人が書いていた。

よく行った古本屋のあった元町の高架下

 ペンタゴンは合衆国バージニア州にあるアメリカ国防総省の本庁舎のことで、五角形の建物の形状に由来し、国防総省を指して使われるらしい。南米でも好き勝手していたようだが、環太平洋では1890年代の米西戦争でフィリピンを、第2次大戦でオキナワを、そのあと朝鮮戦争でソウルを軍事的に制圧したというようなことを書いていた。その当時はよくわからなかったが、後に全体像が見えだすに連れて、ベトナム→ソマリア→アフガ二スタン→イラン→イラクと続いている構図が見えてきた。その都度、新しい兵器を開発して軍需産業は国の基幹産業になってしまっているので、常にどこかで戦争をし続けないと経済が持たない状態にまできている。日本に売りつけている戦闘機も1機何兆円もするらしい。なんとも凄まじい展開である。奴隷貿易の資本蓄積で速度が増した資本主義が、ここまで来てしまったということなんだろう。エボラ出血熱からそんな姿が見えてしまった。

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つれづれに:コンゴあれこれ

 コンゴの理解が少しでも深まることを願って、国土や音楽などについてのあれこれを書いてみたい。

エボラ出血熱流行のCNNニュース(↑)を録画した翌日の1995年5月16日付けロイター発の短い記事には「サハラ以南のアフリカで2番目に大きい国ザイールには豊かな農場があり、旧コンゴ川のザイールの川から水の恵みを得ています。その国は世界でも有数の銅の埋蔵量を誇っていますが‥‥」と国が紹介されている。国の広さは半端でない。コンゴ共和国、中央アフリカ、南スーダン、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア、ザンビア、アンゴラと9か国と隣接している。

 後にカビラ(↓)が政権に就いたとき、欧米はアメリカ式の民主主義をせっついたが、デヴィスドスンだけは、荒廃した今こそ自分たちの手で国を立て直す絶好の機会だと書いた。そして9ケ国と隣接している広大な国が機能すれば、マンデラが大統領になった南アフリカと繋(つな)がって、将来は明るいと断言した。

 『ホットゾーン』(↓)の英文を宮崎県立図書館から取り寄せたとき、1ページ大の地図が挟(はさ)まれていて、アフリカ大陸の東端の首都キンシャサから西端のケニアの港町モンバサまでの道路にAIDS HIGHWAYと命名されているのに気がついた。アフリカでの流行が1985年くらいだから、1994年の出版までにその名が定着したということである。アフリカ大陸の交通網の極めて重要な場所でもある。

 キンシャサのラジオ局からの音楽がケニアやタンザニアにも流れてよく聞いていたという医大の卒業生に教えてもらったとき、住んでみないと実感できんわなあと感心した。タンザニアとケニアに5年足らず住んで36歳で入学して来た強者である。英語の授業で音楽について何か書いてよと言ったときに書いてくれた解説の一部である。

 「リンガラ」は、特に1970年代以降、ケニア(↓)やタンザニアだけでなくブラック・アフリカ地域で最も人気のあった音楽と言っても過言ではない。なぜコンゴ(旧ザイール)の音楽が、この時期それほどの影響力を持っていたのか。それは、ザイールの首都キンシャサに、アフリカ最大の出力を持つ国営ラジオ局「ヴォア・ドゥ・ザイール(La Voix du Zaire)」があったためと言われている。ラジオから流れる音楽が庶民の最大の楽しみだった当時のアフリカでは、ラジオ局でオン・エアされることが非常に重要であったため、ザイール内外から多くのミュージシャンがキンシャサを目指したという。それが様々な音楽要素の融合を生み、ザイールの音楽を発展させるとともに、他のブラック・アフリカ諸国でも人気を得ることにつながったと言われている。また、そうした状況の背景には、当時のモブツ大統領が提唱したオータンティシテ(伝統回帰)政策の影響(=多種多様な民族の伝統文化の強化)があったとも言われている。

 他にも何回か授業で発表してもらったが、その地に住んだだけはあるなあと毎回感服した。私などよりよほど落ち着いて貫禄があった。「ミュージシャンとして、ザイールの音楽シーンを引っ張っただけでなく中央アフリカ最大の都市キンシャサという大都会に住む若者たちのファッション・リーダー、トレンド・リーダーとして、そのライフ・スタイルにまで影響を与える存在」だったパパ・ウェンバのCDをコピーして渡してくれた。この年以降、毎年エボラ出血熱とコンゴの話をしたときはパ・ウェンバのアルバムEmotionの中のYoleleという曲を聴いてもらった。軽快な音楽は暗いコンゴの話題をいっとき忘れさせてくれるほどの伸びやかさがあった。次回はペンタゴン、独立時にしゃしゃり出て来たアメリカの国防総省についてである。

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つれづれに:コンゴの独立

「アフリカシリーズ」のコンゴの独立

 コンゴの独立の話である。一般教養と医学を繋(つな)ぎたいと英語の授業でエボラ出血熱から始めたら、映像を手掛かりに思わぬ視界が開けた。歴史を遡ると、2回目と1回目のエボラ騒動も、独立時とコンゴ動乱の延長上にあった。アメリカに担がれたモブツの独裁で、賄賂はザイール社会に浸透し、公務員の給料が支払われず、賄賂が生活手段の一部になっていた。経済も破綻し、あらゆるものに皺寄せが行っていた。中でも、医療施設は最悪だった。1985年にアフリカでもエイズが流行り始め、2回目の騒動の時は深刻な事態に陥っていた。そこへエボラウィルスの追い打ちである。ラッサ(Lassa)、ハンタウィルス(Hanta virus)などと同じく、バイオセーフティ指針(Biosafety Level、BSL)の一番危険なレベル4エボラウィルスの感染者にマスクや手袋もなしに治療に当たれば院内感染者も増える。基本的な器具や必需品が決定的に不足していたのである。

エボラウィルスの顕微鏡写真

 1960年の変革の嵐(The Wind of Change)に乗ってコンゴも宗主国ベルギーから独立したが、1995年2回目の流行→1976年の1回目の流行→1963年のコンゴ危機→独立という縦軸だけを追っても全体像は見えない。横軸というか、欧米やアフリカ大陸全体との関係を視野に入れる必要がある。「アフリカシリーズ」(↓)ではコンゴの独立の前に1957年にアフリカで最初に独立したガーナを取り上げている。

 第二次大戦では欧州が戦場になり、欧州諸国はアメリカに負債が出来た。戦争で総体的な力が落ちたとき、それまで植民地で苦しめられてきたアフリカやアジア諸国は声をあげて立ち上がった。それが変革の嵐である。率いたのは、若き日に欧米に留学していた人たちである。イギリスはアフリカの一番よく栄えていたところを植民地にした。現地の人を懐柔して出来る限り制度も利用した。間接支配と呼ばれる。フランスが植民地にしたところは条件が良くなかったので同化政策を取った。直接支配とよばれる。ガーナはゴールドコースト(黄金海岸)と呼ばれていたイギリスの模範的な植民地だった。独立の動きを最初は警戒して抑えにかかったが、勢いがついてきた時、戦略を変えた。出来るだけ邪魔をして独立させ、混乱に乗じて傀儡の軍事政権を立てたのである。従って、獄中にいたエンクルマが出所して選挙戦を戦い首相になった。ケニヤッタやマンデラなどと同じく、獄中から即首相になったわけである。

 如何にイギリス政府が悪意に満ちていたかはエンクルマが書いた自伝『アフリカは統一する』(↓)の中に連綿として綴られている。イギリスの思惑通り、ベトナム戦争終結に向けてハノイに行っている間にクーデターが勃発、一時盟友のギニア・ビサウのセクゥトーレのところに身を寄せていたが、1972年にルーマニアで客死した。たくさんの分厚い著書をも残している。それだけ言いたいことが多かったんだろう。野間寛二郎さんが理論社からたくさん翻訳出版をしている。出版事情を知っているだけに、奇跡に近い歴史的な業績である。なぜか宮崎大学の図書館本館に全集が揃っているのを見た。誰が購入したんやろといつも思うが。1960年に独立をして、独立の式典(↑)でエンクルマは涙を流したが、植民地支配から戦後の新しい支配体制再構築の幕開けになったのは悲劇としか言いようがない。

 コンゴの独立はさらにひどかった。ルムンバが国民に選ばれて首相になったとき、ベルギー人官吏8000人は総引き揚げ、行政が育つ間もなく国内は大混乱、そのど軍事クーデターが起きた。宗主国はベルギーだが、クーデターを画策したのはアメリカで、ルムンバ内閣の1員だったモブツを担ぎ、ルムンバを惨殺させた。閣僚の一人カビラは殺されることを予測して南東部のキヴ州に逃れた。まさか、30年後に周りに担がれてキンシャサに来てモブツ政権を倒すことになろうとは誰も予想出来なかっただろう。なぜアメリカがしゃしゃり出て来たのか?次回はアメリカの国防総省ペンタゴンである。

ルムンバ(小島けい画)

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つれづれに:映像1976年

 2回目にエボラ出血熱が流行した際の映像が残っていたのは嬉しかった。1976年にコンゴで未知のウィルスが発生したときに、アメリカから2人の医師が現場にかけつけた時の映像である。2005年のドキュメンタリー(↑)の中で、その映像を見つけた。1回目の発生についてはウェブでも調べてある程度は概要を把握していたので、映像は有難かった。

 「アフリカシリーズ」で見たコンゴの独立(↑)とコンゴ危機の映像は目に焼き付いていた。ベルギーから独立を果たし、民衆に選ばれた首相ルムンバが、アメリカに担がれたモブツに率いられた軍隊に飛行機から引き下ろされ連行されて、後に惨殺されたときの映像である。ルムンバ内閣の1員だったモブツに目をつけたアメリカが担ぎ出したわけだが、その映像には精悍(せいかん)な若き日のモブツ将校(↓)が闊歩(かっぽ)している。30年後の肥ったモブツ(↓)の映像をCNNのニュースで突き付けられたとき、後世畏(おそ)るべしを実感した。後の世代は、30年前の映像と30年後の映像を同時に見比べられるのだから。これを文字通り一目瞭然(りょうぜん)というのだろう。

 1976年の映像は、米国GBH局で2005年に製作された「人類の健康を守れるか(RX for Survival?)」という4回シリーズのドキュメンタリーの3回目「エイズ・鳥インフルエンザ対策」の中で紹介されていた。当時私は、エイズで外部資金を交付されていたので、資料探しの意味もあってかなりの衛星放送を予約録画していた。謝金も使えたので、映像や音声の編集も学生に手伝ってもらえた時期である。

 米国疾病予防センター(CDC、↑)から派遣された2人の医師ジョー・ブレミング博士と同僚が見たものは、大半の医療関係者やパイロットが完全なパニック状態に陥っている異様な様子だった。教会に行く途中で火が見えた。村人が自分たちの小屋を燃やしていた(↓)のだ。精霊を殺す伝統的な手法を信じる村人には他に術がなかったのだろう。教会から修道女が飛び出して来た。医者は中に入ったときの感想を「私が今まで見てきた中でも最も哀しい光景です」と語っている。

 番組は「日々刻々とより国際化しつつある世界では、すべての感染症の脅威は実際に増しつつあります。ヒト免疫不全ウィルス(↓)のような慢性的な殺し屋を制御することは可能でしょうか。鳥インフルエンザのような致死的な脅威を死者が増える前に止めることが出来るでしょうか。一体どれくらい私たちは安全なのでしょうか?これからお送りするのは生き延びるための処方箋についてです」で始まってる。

 一般教養と医学を繋(つな)ぐためにエボラ出血熱に目を向けて始めたのだが、映像から思わぬ視界が開けた。1976年の様子を再現した映像もみつかったし、1995年の肥ったモブツと1963年の軍服姿の精悍なモブツを見比べることができた。アフリカの世界を広げてくれたのは「アフリカシリーズ」だが、その映像がますます意味を持っていく。次回は精悍なモブツがアメリカに踊らされたコンゴ危機と、独立である。