つれづれに

つれづれに:薊(あざみ)

 →「薊」が少し大きくなった。→「きんぽうげ」も摘んで来たが、これで摘み始めてから4週目になる。辛うじて集めたという感じだったので、今回が最後のようである。あざみは棘がすごいので採るのはやっかいだが、摘んで持って帰ってきた。この辺りでは、大学のキャンパスにもたくさん咲いているが、加江田川と清武川の堤防の薊が大きくて見事である。

 歩けばきんぽうげ 座ればきんぽうげ

のあとは

あざみあざやかなあさのあめあがり

の山頭火の句である。

 山口の防府で父親といっしょに身上(しんしょう)を潰(つぶ)して、結婚相手と子供と熊本に逃げた後、死にきれず、得度して堂守をしたが、それでも旅に出た。その時に宮崎にも来ている。2度目だったようである。白浜に行くときに通る青島屋折生迫辺りも歩いたようであるそのみちみちできんぽうげやあざみを見て句を詠み、日記に書き記したわけである。

大山澄太

 日記を頭陀袋(ずだぶくろ)に入れて歩くも大変なので、溜まったら飯塚の木村緑平に送り、それら集めて後に大山澄太が編集した。どちらも『層雲』の俳友である。木村緑平は炭鉱医で、大山澄太は逓信局員で、経済的に余裕があったようである。どうしようもない自分が歩いていると読む山頭火の生涯通じての良き理解者だった。山頭火に寄り添う大山澄太の山頭火伝記『俳人山頭火の生涯』も出ている。句に魅かれて山頭火を知りたければ、最初に読むといい良書である。温かい気持ちになれる。

大山澄太が編集した山頭火の本

 金曜日にまた白浜に自転車で行けたのは有難いことである。晴れていなかったので、海の色も曇りがちだった。引き潮で風もあり、普段の景色とは少し違って、鬼の洗濯岩が剥(む)きだしの砂浜だった。

 夏日になる前に、そろそろ瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵を造らないと。今年は3段にしようと思っているので、また竹取の翁(おきな)の日々が続きそうである。

いつもの白浜

つれづれに

つれづれに:ニュースを聞く

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

 独り言や面接で英語が勝手に口から出て来るようになったあと、次は聞く、だった。相手の言っている内容を正確に聞き取れないと理解出来ないからである。会話も続かないし、意志の疎通も図れない。聞けるようになるには、聞くしかない。英語も言葉の一つだから、当たり前と言えばごく当たり前のことである、やってみて実感しただけの話である。

聞いて理解できるようになるために、英語の授業で映像や音声をたくさん使っていたので、それを利用した。バスケットボールをやったときもそうだったが、シュートやドリブルなどの各部分の力を集中して高める分習法と言ったところか?ちょうど衛星放送が使えるようになったので、先ずはBBC(British Broadcasting Corporation)、ABC(American Broadcasting Companies)、CNN(Cable News Network)、NHKBS1などのニュースを録画して、繰り返し聞いた。特にマンデラの釈放時前後の英語放送は全部予約録画した。1995年の淡路阪神大震災の時も可能な限り録画して聞いた。

ニュースを聞いてわかったことがいくつかある。一つは意外と簡単だったことである。考えれば、キャスターが予め用意された原稿を読む場合が多いので、スピードも速くないし、いわゆるわかり易い標準的な喋(しゃべ)り方なので慣れればそう難しくないわけだ。俗語や聞いたことのないような言葉もそうは出て来ない。中に挿入されるインタビューが早かったりするが、流れで慣れれば大体わかる。

NHKBS1のニュースはわかり易かった。取り上げる題材が国内のことが中心なので、内容が大体わかっている場合が多い。それに、キャスターのレベルがたかい。シンショウカルナというキャスターがCNNのメインキャスターだったという話も聞いた。概してできる女性の集団で、微笑みながら軽快にニュースを読んでいるという感じだった。女性の声の質や音の高さの方が耳に心地よい気がする。一度、ネクタイを締め髪を七三に分けた男性のキャスターが登場したが、その違いをはっきりさせるために登場させたんやない?と思えるほどだった。緊張気味で頬(ほほ)の筋肉が固まっていたせいか、音がくぐもって聞きづらかった。おそらく真面目で優秀な人だったと思うので、かえって気の毒な感じがした。2ケ月ほどで交代した。

1995年エボラ出血熱を報じるCNN

 1995年の震災後、各国は地震をどう伝えたか?という特集があった。英語ニュースでは、アメリカやイギリス以外に、香港やフィリピンのニュースがおもしろかった。香港はイギリス英語ぽかったし、フィリピンはたぶんタガログ訛(なま)り?という感じだった。その頃、バングラデシュの人がよく研究室に来ていて舌を巻くベンガリーズイングリッシュに慣れていたし、ジンバブエではショナイングリッシュの洗礼を受けていたので、そう苦にはならなかった。

 赴任したすぐあと、4年生がひとり部屋に来た。英語をするにはどうしたらいいでしょうか?と聞かれたので、いやー、英語が苦手でどうしたらいんでしょうねえ?と答えた。最初の年は2年生と1年生しか持たなかったので面識はなかった。今度来た新しい人どんな人やろと覗(のぞ)きにきたのか、いまだにその真意はわからない。その後何回か部屋に来て、次の年の講演会を手伝ってもらったり、家に来たりもしたが、そのあと医者になってからは会っていない。

だいぶ英語が使えるようになった頃、授業で顔を合わせていた1年生が部屋に来て同じような質問をした。その時は、最初にニュースを聞いてみたら?とテープをたくさん渡した。陸上をやっている背の高い真面目な学生で、トラックの上やキャンパスでヘッドフォーンをつけた姿を時々みかけた。1年ほどあとに部屋にきて言ったのが印象的だった。

「大体わかるようになりました。株価まで聞き取れます」

卒業後、精神科でバイトしながら基礎系の研究室で博士号を取った。そのあと大学内で何度か通りすがりに会った。研究室に残るような話をしていたが、今はどうしているんやろ?

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

つれづれに

つれづれに:花が咲き

道路脇の植え込みのけし

 今日から4月も中旬に入る。ずいぶんと前になるが、北海道の富良野の映像か何かで、長い雪の季節が過ぎて一斉に花が咲き出すのを感動的だと言っているの見て、凄(すご)いんやろなあと思ったことがある。しかし、残念ながら雪国の経験がないので、その感覚は実際にはわからない。年中花が咲いている南の地域に来て長いこと経つので、別世界の話である。

 それでも、春には一斉に花が咲き出す。花のいのちは、概して短い。花の命は短くて苦しいことのみ多かりき、と言ったのも頷(うなづ)ける。先々週、木花神社で満開を見込んで桜まつりが催されたようだが、桜もすでに散っている。桜まつりを楽しんだ人は、多かったんやろか?

折生迫の県水産試験場のさくら

 ぐずついた天気が続いて気持ちも晴れないが、昨日は朝から久しぶりにきれいに晴れ、今日もいい天気だ。昨日は久しぶりに毛布を干した。あしたからまた下り坂のようなので、今日も干すとしよう。

てっせん

 一斉に咲き出す花の写真を撮り始めて、3週間ほどになる。撮り始めたのは白木蓮が盛りを過ぎる頃で、紫木蓮に勢いがあった。高台の公園や住宅街の何軒かの家でも、紫木蓮の写真を撮った。その近くに、しらんやポピーやけしも咲いていた。こでまりを庭に植えている家も多い。勢いがあった。昨日見かけたこでまりは、すでに盛りを過ぎていた。

しらん

 先週の金曜日も白浜のキャンプ場の近くで→「きんぽうげ」を摘んだ。3週続きである。咲く前の蕾(つぼみ)をたくさん摘めたので、来週には盛りを過ぎていそうである。庭では→「イリスが咲き出した」。今年は今のところブロッコリーを無駄にせずに、せっせと食べている。3回ほど大きな株を何軒かにお裾(すそ)分けをしたあと、脇芽も何回か摘んで食べた。都会では1株500円もすると聞いて、お裾分けするときも気持ちが軽い。ひと茹(ゆ)でして胡瓜(きゅうり)、レタス、キャベツ、とまとといっしょに食べる以外に、味噌汁や饂飩(うどん)にも入れている。チーズをふんだんに使ったブロッコリーグラタン風も何度か食べた。それでも、薄黄いろい花が咲き、そろそろ終わりの株が増えた。

「イリス」

 北側玄関脇の植え込みでは、柿が色鮮やかな葉を一斉につけている。一昨年は生り年で500個以上の実をつけたが、去年は一つの実もつけなかった。そんな年もある。今年はたぶんたくさん実がなって、またしぶ柿を剥(む)いて陽に干す作業に追われそうである。

柿の葉

 先週の白浜行きは、久しぶりに雨がふる中だった。そう大降りにならず、帰りには雨が上がる予報だったので、迎えを頼まずに自転車で行くことにした。行きは雨が降っていて青島付近は人もまばらだったが、帰りは観光バスが駐車場に何台か停まっていて、参道には人が溢れていた。いつもの白浜の海は、いかにも雨の日の海だった。

晴れたときの白浜(下)

つれづれに

つれづれに:研究費

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

 授業で使う映像を録画するのに衛星放送の工事をしてもらったが、研究費を使えるのは有難かった。研究室や自分のテキストもそうだったが、非常勤の時にはなかったものである。研究室に学生が来るというのも考えもしなかった。非常勤で行く場合、非常勤講師室に寄ることはあったが、大抵は講義室にいることが多かった。非常勤なのでと、何かの相談や雑談に来る学生もそういなかった。講義時間の少し前に行って、講義が終わるとすぐに帰るというのが普通だった。最初の常勤の話が駄目になったあと、推薦してくれた人が気を遣ってまた常勤の話を持って来てくれた大学は、英語などの教養科目は9割ほどが非常勤だと誰かが言っていたが、その割には非常勤室がよかったという印象はない。その点、先輩の世話になった大阪工大では、LL教室を使わせてもらったので多少居心地がよかった。予算をつけた補助員3名のうちの誰かがいて、いっしょに話を出来たからである。夜間の授業のある日は、外に出て道路脇の店屋で夕食をいっしょに食べた。関西はどこに入っても味はまあまあで、うどんや丼もののその店もどれもおいしかった。

大阪工大

 研究費は使い勝手があった。テレビやビデオデッキなど以外にも、文房具などの消耗品も買えたし、図書の購入や雑誌の定期購読にも使えた。今は本屋が回ってくることはないが、当時は紀伊国屋の福岡支店か鹿児島支店の人が、注文を取りに研究室を回っていた。その人に頼めば、事務官が手続きや支払業務をしてくれた。統合して初めて知ったが、事務官がコピーや印刷をしてくれたり、事務手続きをしてくれるのは医学部だけだと知った。本学のセンターに再任されたあとは、教養の大きなクラスの印刷も、自分でする必要があった。1クラス400人を超えたクラスの印刷物は、運ぶだけでも大変だった。全学で持つ教養の教官が使う印刷室にはコピー機が3台か4台しかなく、混むのも待つのも好きでないので、土曜日か日曜日に行って印刷することが多かった。家が近いからよかったものの、最初の借家のときのように20キロも離れていたら、ひと苦労あった気もする。共通科目は全学共同体制で出発したので強制力はない。意欲もそうだが、わざわざ本学まで行き、資料の印刷までして教養科目を進んで持つ人がそう多くいるようには思えない。教養科目が大事だ思わない多くの学生と持つ意欲に欠ける教員という全学無責任体制のなかで、南アフリカ概論やアフリカ系アメリカの歴史と音楽などの150人クラスを毎年2つ以上は持っていた。カリキュラムが変わって学士力発展科目で履修出来ない学生が溢れた時は、見兼ねて半期1000人ほどを担当したこともある。自分でぜんぶ背負うつもりでいたのか。

旧宮崎大本学キャンパス

 旅費に研究費が使えるのも有難かった。小説を書くために大学の職を探したので、基本的に研究は考えてなかったが、大学にいるとそうもいかなかった。それで、研究をしている振りをしていたが、その研究まがいの費用に旅費が使えたのは有難かった。神戸外大と吹田の国立民族学博物館には「資料探し」で世話になった。外部資金で予算が増えるようになってからは、東京外大のAA研と国立国会図書館でも世話になった。名古屋大の中央図書館を利用したときには、図書館の違いを実感した。あれだけ手厚いサポートがあれば、研究まがいでも恩恵にあずかれたかも知れない。

東京外大

 人件費で謝金が使えるのも有難かった。教授になるまではそれほど余裕はなかったが、外部資金も使えるようになって謝金を使わせてもらった。看護学科の人は医学科ほど恵まれず、海外実習でタイに行く費用も大変そうな人もいたから、資料の整理などを手伝ってもらって旅費滞在費分の謝金を出した。医学科でもごく稀に経済的にきつい学生もいたからその人や、留年したひとなどに謝金を出した。一時他学部からの要請で、日本語支援教育専修の設立と授業を手伝った時には、卒業して非常勤をしていた人たち何人かに謝金を出した。修士課程を出ても、日本語支援の就職先がほとんどなかったからである。その人ちには、留学生用の冊子の英訳や編集、医学用語の冊子作成などを手伝ってもらった。

永年に渡って、いろいろと、ずいぶんと研究費には世話になったというわけである。

宮崎医科大学(今は宮崎大医学部、花壇の一部は駐車場に)