つれづれに

つれづれに:CNNニュース

 1995年の春に突然エボラ出血熱流行の報道が流れた。コンゴでの流行も初めてではなかったが、テレビでも連日報じられ、ニュースや新聞などでも大々的に扱われた。80年代の後半にベルリンの壁が崩壊し、1990年には27年ぶりにネルソン・マンデラが釈放され、4年後には大統領になった。前年にサンフランシスコで大きな地震があり、年が明けて淡路・阪神大震災もあった。都市直下型の地震の怖さを思い知らされた。寸断された高速から落ちかけの車や傾いたままの高いビルなどの映像は強烈だった。2ケ月後に知人を訪ねて地震跡を回った時も、手付かずのところも多かった。またぞろ、世紀末かという報道も出始めたころである。コンゴから持ち帰った強力なウィルスのサンプルで生物兵器を造り、大統領命令でその兵器が投下されそうになったというアメリカ映画がその前の年に公開されて話題になった。その分余計に、エボラ出血熱が大きく取り上げられた傾向は否めないだろう。

 その頃録画したCNN(Cable News Network)ニュースは、一般教育と医学を繋(つな)ぎたいと考えていた私には、想像以上に使い勝手があった。ただ、授業で扱うには準備も必要だった。コンゴの歴史だけでなく、感染症に関する医学の基礎知識も要る。ニュースでは、先ずキャスターが、ザイールでエボラウィルスによって100名以上の死者が出て、更に36人以上の人が感染している状況を伝えて、現地の特派員に経過報告を求めている。特派員は先に、首都に危機が迫るなか、モブツ大統領が北東部の小さな村を訪問したことを伝え、次に密林の映像を映しながら、感染源が特定できていない状況を解説した。そして欧米から送られた国際医療チームの様子を映したあと、大統領が医療チームの費用は他の国で払うべきだと答えているインタビューを挟(はさ)み、流行を抑えるのが先決だが、真の解決策を見つ出すのは難しいと結んである。

 2分40秒余りの短い映像で、キャスターも特派員も原稿を読んでいるだけなので聞き取るのはそう難しくはないが、コンゴの歴史とエボラウィルスとアフリカと先進国の関係を知らないと、内容の理解は難しい。首都に危機が迫るなか、なぜ大統領が小さな村に行ったのか?なぜ大統領は医療チームの費用は他の国でと答えたのか?首都に危機が迫っているのに、遠くの小さな村を訪問したり、派遣された医療団の費用は他の国が払うべきだと日本の首相が答えるとは誰も思わないだろう。ではどうして大統領がそんな行動を取ったのか?

 日本の人でその大統領の行動に違和感を覚えた人はそう多くないと思う。一つはたいていの人はアフリカに関心がないからである。第3世界から搾り取っている先進国側にいて富を享受している自覚がないから、アフリカかわいそうという意識を持っている人が大半である。たくさんの学生と顔を合わせたが、それが現実である。開発や援助の名の下に、多国籍企業による資本投資と貿易で搾り取る今の社会の仕組みを理解する必要がある。それがわかれば、大統領が先進国と手を組んで私利私欲に明け暮れる実態がその仕組みの当然の帰結だとわかる。援助慣れした大統領がまたエボラ騒動を利用して先進国から金を集めるために、取材班を連れて20年前にエボラ騒動のあったところにでかけ、インタビューで無心を仄(ほの)めかしたのである。もう一つは。インタビューに使われたfinanceという言葉が瞬時に聞き取れた人が多くないという面もある。実際にはbe financed by other countries, not hisと受け身で伝えていた。まさか大統領がそんな行動を取っていたとは、平和ボケした日本にいる人には想像もつかない、それが現実だろう。

 すでに手元にあった資料「アフリカシリーズ」、『アフリカの闘い』、『レオポルド王の亡霊』に、新たに1976年の事態を知る手掛かりとして、リチャード・プレストンの『ホット・ゾーン』と衛星放送で録画した「人類の健康を守れるか?」というドキュメンタリーという貴重な資料を見つけた。

 短いCNNニュースだが、実際に英語の授業で扱ってみると、一般教育と医学を繋ぐ手懸かりの第一歩に相応しい素材だった。そこから更に展開して行けそうな気がした。

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ZoomAA5第6回目報告

発売30周年記念DVD版の表紙

 今回のゼミでは、奴隷貿易の映像を視聴しそこから三角貿易から産業革命、現代の先進国反転途上国の仕組みに至るまでの流れを学んだ。
 奴隷貿易、三角貿易、産業革命などそれぞれの事柄がどういうものかは学校で学ぶが、奴隷貿易によって得た資本によって産業革命が実現し資本主義が世界基準の仕組みになるなど流れを学ぶ機会、意識する機会は少ない。
 今回のゼミを通してそのことを意識するきっかけを得ることができたため、より長い歴史から現在の社会問題を紐解くように考えていきたいと思う。
 また、映像の中で古い英語表現がでてきてとても新鮮に感じた。言語の不思議さを改めて感じることができた。(MN)

ZoomAA6回目の報告である。奴隷貿易と奴隷制に焦点を絞った。最初にNHK交響楽団をバックに歌う白鳥英美子のアメージンググレイスとクロマティのゴスペルの世界の冒頭の映像を観て、聴いてもらった。奴隷貿易の実態と、奴隷制がアフリカ、ヨーロッパ、アメリカとそれぞれの社会にどう影響があったのかを「ルーツ」を見たあと討論した。最大の問題は、奴隷貿易の資本蓄積で産業革命が近代の歴史を根本的に変えてしまったことだろう。欧米は農業中心社会から大量消費の産業社会に変貌し、その体制を守る武器の開発も進み核開発の段階まで来てしまった。第2次大戦では日本に原子爆弾が投下され、ソ連と日本では原子力発電所の事故までおきた。大量の働ける人口を失ったアフリカ社会はそれまでの自給自足の社会の変貌を余儀なくされたのは言うまでもない。マヘリア・ジャクソンは紹介できなかったので、次回に是非。(YT)

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つれづれに:エボラ出血熱

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

 1988年に宮崎医大に赴任して以来、それまで書いていた雑誌の記事の他に、テキストの編纂(→「テキスト編纂1」、→「テキスト編纂2」)に→「日本語訳」と、次々に出版社の人から言われて、小説を書き出せなかった。することがあり過ぎて、月日が過ぎていったというのが実際だったかも知れない。

授業は1年生の100人を4クラスにわけて最初は通年で週に4コマだけだったし、教授会は教授だけだったので、会議らしい会議もなく、ほぼ全部の時間をわりと自由に使えた。小説を書く空間が欲しくて探して辿(たど)り着いた格好の場所だったわけである。おまけに、→「研究費」までついていた。1年目に出した書類で、2年目には100万円も交付された、のに書き出せなかったのである。

授業に関する時間の締める割合は多かった。映像や音声や、英語も使っていろいろ工夫もしたし、準備にも時間をかけていたからである。元々一般教育英語学科目というのが授業担当の名目だったので、臨床医や基礎の担当者にはできないものをという意識が強かったが、どうも一般教育を大事だと思ってない人が多い風だった。医学をしに来たのに関係のない一般教育ばかりという傾向である。それで、医学と一般教育を繋(つな)ぐ形でやってみるかと思い始めた。のちに、教授になったあとすぐに、海外での臨床実習用の講座を担当して本格的に医学に特化した英語をする前に、自然と医学についても避けては通れないだろうと考えていたわけである。

「日本語訳」の作業を終え、家族で在外研究にジンバブエに行ったあとしばらく出版社からの要請の声も静かだったので、→「衛星放送」と英字新聞の力を借りて、医学と一般教育を繋ぐ具体策を考えは始めた。出版社からはジンバブエの話を本にまとめるようにいわれて半年ほどで一気に書き上げてはいたが、ちょうど1995年に西アフリカで流行したエボラ出血熱をやってみる気になった。舞台は赤道が国内を左右に通る大きな国コンゴだった。

 歴史を理解するために、資料を集め始めた。デヴィドスンの「アフリカシリーズ」では1800年代後半からの植民地時代と1960年前後の独立・コンゴ動乱が取り上げられていたし、『アフリカの闘い』にはそのほかに、戦後の新植民地時代の典型としてのコンゴの詳細な記述があった。そこに当時はまだあったロンドンのアフリカブックセンターで見つけた植民地時代とレオポルゴ2世について詳しく書かれた『レオポルド王の亡霊』という分厚い本が加わった。

 植民地時代→独立・コンゴ動乱と、30年続いていたモブツの独裁政権が時代的に繋がり、広がりを見せて行ったのである。そして、1995年の春先に、衛星放送でエボラ出血熱の流行を伝えるCNNニュースを録画した。

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つれづれに:四月も下旬に

 四月も半ばに、と書こうとしたが、すでに下旬、時が過ぎてゆく。昨日も白浜に自転車で行けたのは有難いことである。畑に出る時間が増えたからだろう。腰が張っている。前屈(かが)みの姿勢が多いからである。机に向かう姿勢も、どうも前屈みである。寝不足もあって、揉(も)んでもらいながら、最後辺りはぐっすりと寝ていたようだ。記憶がない。気持ちよかったのだろう。まだ張りが取れないが、これから下り坂で畑には出られないのをよしとしよう。2、3日は体を休めろという身体からのSOSである。大根とブロッコリーの花を少し残して、だいたいは畝(うね)と畝の間の通路に埋めて、畑の視界が良くなった。瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵(さく)の東側に竹と杭を打ち込んだが、次の作業が滞ったままである。柵に登らせる瓢箪南瓜の種を蒔(ま)いてやっと芽が出かけている。柵が出来たら、大きいものから植え替えよう。

 先日田植えが始まったと思ったら、もう少し大きくなった感じがする。植えた当初は根付いてないので、水の表面に浮いたようになっているが、すでにしゃんと立って大きくなる構えだ。それで大きくなっている印象(↑)を受けるんだろう。台風が来る前に刈り入れするまで、時折、周りの草刈をしながら、大きくなるのを待つばかりである。

4月3日の→「きんぽうげ」載せた田植えの光景

 みかんの花(↓)が満開である。甘酸っぱい匂(にほ)いがあたり一面に漂っている。このみかんは木花神社のある高台の少し東側の南の斜面の一画に植えられた樹である。陽当たりはよく、小さな水路に遮(さえぎ)られて小さな果樹園に行くには、水路に架けられた幅の狭いコンクリート管の上をそろりと歩くしかない。写真を近くで撮りたかったので渡って少し傾斜を登った。散歩道の途中にあるので、毎年実が生っているそばを通る。小蜜柑の樹である。あまり熱心に手入れはされていないようだ。

 晴れてはいたが、快晴とはいかなかったので海の色はそう鮮やかではなかった。それでもこの前よりは少し明るめである。写真を撮ったころから明るくなり始め、青島辺りではすっかり晴れて、尾鈴山系を背景にシーガイヤの建物が北の方に見えた。

前回の白浜

 子ども国で月例のイベントが行われていたようで、行きの駐車場にはたくさん車が停まり、こどもの国の園内から、いつになく楽しそうな人声が聞えていた。帰りの海岸道路からスタッフらしき人たちが跡片付けをしている姿を左に見ながら、いつものみらいはし(↓)で自転車を停めて写真を撮った。