つれづれに

つれづれに:研究費

宮崎医大講義棟、3階右手厚生福利棟に研究室があった

 授業で使う映像を録画するのに衛星放送の工事をしてもらったが、研究費を使えるのは有難かった。研究室や自分のテキストもそうだったが、非常勤の時にはなかったものである。研究室に学生が来るというのも考えもしなかった。非常勤で行く場合、非常勤講師室に寄ることはあったが、大抵は講義室にいることが多かった。非常勤なのでと、何かの相談や雑談に来る学生もそういなかった。講義時間の少し前に行って、講義が終わるとすぐに帰るというのが普通だった。最初の常勤の話が駄目になったあと、推薦してくれた人が気を遣ってまた常勤の話を持って来てくれた大学は、英語などの教養科目は9割ほどが非常勤だと誰かが言っていたが、その割には非常勤室がよかったという印象はない。その点、先輩の世話になった大阪工大では、LL教室を使わせてもらったので多少居心地がよかった。予算をつけた補助員3名のうちの誰かがいて、いっしょに話を出来たからである。夜間の授業のある日は、外に出て道路脇の店屋で夕食をいっしょに食べた。関西はどこに入っても味はまあまあで、うどんや丼もののその店もどれもおいしかった。

大阪工大

 研究費は使い勝手があった。テレビやビデオデッキなど以外にも、文房具などの消耗品も買えたし、図書の購入や雑誌の定期購読にも使えた。今は本屋が回ってくることはないが、当時は紀伊国屋の福岡支店か鹿児島支店の人が、注文を取りに研究室を回っていた。その人に頼めば、事務官が手続きや支払業務をしてくれた。統合して初めて知ったが、事務官がコピーや印刷をしてくれたり、事務手続きをしてくれるのは医学部だけだと知った。本学のセンターに再任されたあとは、教養の大きなクラスの印刷も、自分でする必要があった。1クラス400人を超えたクラスの印刷物は、運ぶだけでも大変だった。全学で持つ教養の教官が使う印刷室にはコピー機が3台か4台しかなく、混むのも待つのも好きでないので、土曜日か日曜日に行って印刷することが多かった。家が近いからよかったものの、最初の借家のときのように20キロも離れていたら、ひと苦労あった気もする。共通科目は全学共同体制で出発したので強制力はない。意欲もそうだが、わざわざ本学まで行き、資料の印刷までして教養科目を進んで持つ人がそう多くいるようには思えない。教養科目が大事だ思わない多くの学生と持つ意欲に欠ける教員という全学無責任体制のなかで、南アフリカ概論やアフリカ系アメリカの歴史と音楽などの150人クラスを毎年2つ以上は持っていた。カリキュラムが変わって学士力発展科目で履修出来ない学生が溢れた時は、見兼ねて半期1000人ほどを担当したこともある。自分でぜんぶ背負うつもりでいたのか。

旧宮崎大本学キャンパス

 旅費に研究費が使えるのも有難かった。小説を書くために大学の職を探したので、基本的に研究は考えてなかったが、大学にいるとそうもいかなかった。それで、研究をしている振りをしていたが、その研究まがいの費用に旅費が使えたのは有難かった。神戸外大と吹田の国立民族学博物館には「資料探し」で世話になった。外部資金で予算が増えるようになってからは、東京外大のAA研と国立国会図書館でも世話になった。名古屋大の中央図書館を利用したときには、図書館の違いを実感した。あれだけ手厚いサポートがあれば、研究まがいでも恩恵にあずかれたかも知れない。

東京外大

 人件費で謝金が使えるのも有難かった。教授になるまではそれほど余裕はなかったが、外部資金も使えるようになって謝金を使わせてもらった。看護学科の人は医学科ほど恵まれず、海外実習でタイに行く費用も大変そうな人もいたから、資料の整理などを手伝ってもらって旅費滞在費分の謝金を出した。医学科でもごく稀に経済的にきつい学生もいたからその人や、留年したひとなどに謝金を出した。一時他学部からの要請で、日本語支援教育専修の設立と授業を手伝った時には、卒業して非常勤をしていた人たち何人かに謝金を出した。修士課程を出ても、日本語支援の就職先がほとんどなかったからである。その人ちには、留学生用の冊子の英訳や編集、医学用語の冊子作成などを手伝ってもらった。

永年に渡って、いろいろと、ずいぶんと研究費には世話になったというわけである。

宮崎医科大学(今は宮崎大医学部、花壇の一部は駐車場に)

つれづれに

つれづれに:衛星放送

 2冊目の編註テキスト(↑)の装画は衛星放送BS2のニュースの場面を見て妻に描いてもらったが、衛星放送にはずいぶんと世話になった。医学科の授業で映像や音声をたくさん使っていたからである。当時、研究費で定期購読していたアフリカ系アメリカに関するエボニー(Ebony)という雑誌や、日刊英字新聞Daily Yomiuriや南アフリカの週刊紙Daily Mailなどの活字以外に、衛星放送の音声と画像はことの他役にたった。

1995年のエボラ出血熱の特集記事

 1988年に赴任した当初はまだビデオテープやカセットテープの時代で、画質もよくなかった。ビデオテープもまだVHSとβが半々の時代である。両方のテープがあったので、編集にはデッキが2台ずつ必要だった。世話になった大阪工大のLL教室には音声機器と、教室付き補助員3人の予算も先輩がつけていた。テープの複製や編集を頼んだ。次回には出来ていたので有難かった。専任になってからの授業でも使わせてもらった。私は深くその恩恵にあずかっていたわけである。

大学に来た当初、研究費は出てはいたが、それぞれ2台を購入するだけの予算はなかった。旧宮崎大学と統合して教授180万が一気に40万ほどに減って、医学部の予算が多かったのを知ったが、赴任当初は配分されたものを使うだけだった。多いとか少ないとかは考えたことがなかった。外部資金も世話してくれた理系の人に言われて締め切り間際に慌てて出しただけで、本当に研究費が出るとは思ってもいなかった。実際に単年で100円出ると通知があったとき、ほんまに出るもんなんやというのが正直な感想だった。その予算でも、一年ではデッキ4台は買えなかった。助教授は120万で講師はそれより少なめ、それになぜか語学の教官は他の教官の半分だと言われた。大学内の力関係で決まっていたのだろう。教授会には教授しか参加しない中で、新任の教師が内実を知る術はない。デッキはまだ20万以上する高級品だった。

 授業用に大きなテレビも購入した。大きな講義室にはビデオを拡大して白いスクリーンに映すプロジェクターがあったが、まだ映像の性能はよくなかったので、分厚い暗幕をきっちりと閉めてもそれほど鮮明な映像にはならなかった。従って、1クラス25人の教室には、台車にテレビとビデオデッキを乗せて運んだ。できるだけ前に座ってもらって授業をすれば、顔もよくわかるし、マイクを使わなくて済む、と考えたのだろう。

研究室で衛星放送が見られるように工事をしてもらった。録画も編集も謝金を出して手伝ってもらうようになったのはずっとあとのことで、その頃は録画も編集も自分でやっていた。衛星放送で一番世話になったのはニュース番組で、マンデラの釈放前後にはBBCやABC、その後エボラ出血熱騒動やエイズではCNNなどをよく録画した。

1995年エボラ出血熱を報じるCNN

 ニュース番組のほか、NBAのマイケル・ジャクソン(↓)やMLBの野茂や、アフリカ系アメリカ史の公民権運動やブラックミュージックや医療に関するドキュメンタリーもたくさん録画して編集した。のちに、パソコンを使うようになったとき、ビデオテープの映像や音声をファイルにして、授業で使えるように編集をした。研究費を充分に使わせてもらえたのは有難かった。

1997年NBAファイナルズ第1戦

つれづれに

つれづれに:テキスト編纂2

(セブンシィーズ社初版本、神戸外大黒人文庫)

 最初のテキストがでたあとすぐに、2冊目の編註を言われた。文字起こしからするらしく、ワープロで本文を打って校正をした。編集室でも何回も校正をしたと言っていたが、出来上がったテキスト(↓)には何個所か校正ミスがあった。その個所の小さなエラター(誤字一覧)を拵(こしら)えて、本の扉に1冊1冊挟(はさ)んだ。

 大学のゼミの発表の時に手動のタイプライター(↓)を使った記憶がある。元町の高架下で買ってきたものである。たしか、1万五千円ほどだったと思う。その後高校の英語の教員になった。高校の授業の題材はすべて手書きかガリ版刷りだったので、タイプライターは使わなかった。

 大学院で→「修士論文」を仕上げたときは、当時出始めていた電動タイプライター(↓)だった。間違った個所を修正テープを使って修正した記憶がある。見ないで打てれば早いんやないかと考えて、asdf~とブラインドタッチの練習をやろうとしたが、すぐに向いてないと諦めた。パソコンを頻繁(ひんぱん)に使うようになっても、ブラインドタッチとは無縁のままである。

 本はラ・グーマの2冊目で東ベルリンのセンブンシィーズという出版社から出ていた。イギリスでもアメリカでも出版されていた。1960年にアフリカ人側が武力闘争を開始してから、南アフリカから亡命した人たちは東側諸国に受け入れられた。ラ・グーマもソ連とキューバに正式に外交官として迎えられている。ソ連では人気作家だった。

イギリス版、この本を見ながらタイプを打った

 1冊目は作家が逮捕前に夫人に1年間郵便局に留め置くように指示し、その草稿を南アフリカを訪れた白人編集者がナイジェリアに持ち帰ってムバリ出版社から世に送り出した奇跡の作品である。1作目も2作目も初版本を神戸外大の黒人文庫から借りだした。ゼミの担当者が研究費で買ったものを退官した時に文庫に入れたのである。

 表紙絵は再び出版社の人の依頼で妻に描いてもらった。当時、春は近くの市民の森に自転車で出かけて花菖蒲(しょうぶ)を描いていたし、秋は道草(あけび)を描くのに忙しかった。しかし、いいよと言って当時映るようになっていた衛星放送BS2の海外ニュースのアンゴラの風景を見てシャシャッと描いてくれた。雑だが勢いがあった。注文をしてもらうようになって丁寧に丁寧に時間をかけて描くようになったが、一気に描く絵には勢いがある。妻の絵と講演会で知り合った南アフリカの女性の助けを借りて、2冊目の編註テキストが出来上がった。また人の力を借りでである。1冊目もそうだが、お気に入りの犬を放している。描く人の遊び心である。

つれづれに

つれづれに:イリスが咲き出した

 庭の→「イリス」が咲き出した。植え替えた次の年に花が咲かなかったので、もう咲かないのかなあと諦めていたが、その次の年にはまた一斉に花が咲き出して、ほっとした。

 植え替え前のイリス(↑)

 咲き始めるのが3月の終わりだと思い込んでいたが、4月の半ばだったようである。7年前にも、その3年前にもブログに書いている。その頃はまだ週に8コマほど授業があって、3月の終わりと4月の初めは畑に出る時間もなかったが、ブログの「つれづれに」もなかなか書けなかった。各クラスにブログの授業のページがあって、授業が終わったら書き込んでいた。遅れることもあったが、忘備録として役に立った。その中に、そのときどきの思いを綴ることが多かった。従って、その書いたもののタイトルはない。

  • 2017/04/16   庭に植えたイリスが一斉に……

畑の南側は金木犀の垣根だし、東側の三分の一くらいは南側の平屋の陰になって日が当たらない。それで植え付けられる場所を少しでも広げようと、家の敷地の南側に新たに土を入れてレタスと葱(ねぎ)を植えることにした。その結果、→「牡丹」とイリスに引っ越してもらったというわけである。

 植え替え前に白の牡丹が枯れた。臙脂(えんじ)とピンクの花(↑)が見事で、妻が絵に描いて残している。植え替えたあと、ピンクの花も枯れた。もうしわけないことをしてしまった。そのあと、毎年春と秋に開かれる宮崎神宮の植木市で2本、牡丹を買ってきた。植木の影など、直接陽が当たらないところがいいですよと教えてもらたのに、2本とも枯らしてしまった。

 英語ではirisというらしい。妻のブログを見る人のほとんどが外国人のようなので、少し英訳を始めた時に花の名前も少し調べた。アヤメ科の植物で、原産地はイタリア、フランス、モロッコなどらしい。日本ではイリスとかアイリスと呼ばれているようである。厳密には、発音はアイァリスか。ギリシャ神話に登場する虹の女神の名前らしい。余りにも鮮やかなので、妻に描いてもらった。

 たまたま決まったのが医科大学だったので、教授になった時から医学英語も担当するようになった。そのうち、6年生での海外臨床実習のための準備のために、医学英語も本格的にやるようになった。1年生の授業でも取り入れた。ギリシャ語とラテン語由来の用語が9割なので、慣れるまでに少々時間はかかるが、医学生には必須である。病理診断などが英語で書かれるので、読めないと仕事にならない。医学用語では、耳と目の感覚器官(Sense Organs)の項目(↓)でやったときに、iris(虹彩、こうさい)が出てきた。「眼球の水晶体の前面にあって瞳孔をかこむ輪状の膜。脈絡膜がのびてできたもので、放射状に瞳孔散大筋、輪状に瞳孔括約筋が並ぶ。目にはいる光に対して反射的に働き、瞳孔の開閉や明暗調節を行なう。含まれる色素の多少によって茶眼、青眼などになる」ということらしい。光の量を調節して網膜に届けるこの器官を、虹の女神から借用して呼んだようである。

 カレンダーにも入れた。長崎の広告会社が東京の展示会に出品しているのを見つけてくれて、カレンダーの依頼が来た。全国網で紀伊国屋とか東急ハンズなどに出品されたが、利益が出ずに1年だけに終わった。しかし、その後何年間かは、地元長崎の企業に売り込んでくれた。その中の6月の絵にこの時のイリスの絵を使った。

「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬」6月(企業採用分)