つれづれに

つれづれに:小田原

小島けい画

 伊豆大島で「椿」を見た後は、小田原に向かった。乗船時間は短い方が有難いので伊東に戻りたかったが、船の便が少ないので、大島の岡田港から熱海行きの船に乗った。そこから伊豆急で、小田原に着き、小田原城公園を訪ねた。そしてしばらく、街が一望できる場所に座ってぼんやりと眼下を眺めた。ぞれから、立原正秋の小説(↓)で主人公がしたように、寝転がって空を眺めた。

 主人公は高校生の時に少年院に送致されている。母親の再婚相手の子供を刺したためである。母親は請われて再婚し、主人公を連れて東京の成城で暮らし始めていた。父親になった人は親の電機会社を継いだ有能な経営者だった。年上の子供がいて、戸籍上の兄になった。祖父に甘やかされて育っていた。

少年院に送られたのは、兄を刺してしまったからである。ある日学校から帰ってきたとき、見てはならないものを目撃してしまった。兄が母親を凌辱(りょうじょく)しようとしていたのである。咄嗟(とっさ)に飛びかかった。もみ合っているうちに、兄が持ち出した刃物が兄の太腿(ふともも)に刺さってしまった。そして、主人公は何も語らないまま、少年院に入ったのである。

高校の物理の教師をしてながら詩を書いていた父親と、美しい母が好きだった。二人を尊敬し、理解していた。夢は、理工学部の建築学科を出て小さな建築事務所をひらき、生活に困らないだけの金をかせぎながら詩を書くことだった。母親の生家は小田原で蒲鉾(かまぼこ)屋をしており、時々泊りにでかけて小田原城の公園に行き、寝転がって空を眺めていた。

少年院を出た後、その小田原に行くつもりだったが、主人公を後継者にしたがる父親の強引さに敗けて兄を刺し、特別少年院に送致されることになった。

この小説を読んだのは、スポーツ好きの父親が讀賣新聞を取っていたからである。あまり新聞は読まないが、たまたま夕刊の連載小説を読んだ。理由はわからないが、すっと心に染みこんできた。他の作品も読みたくなって、元町の→「古本屋」に通った。気がついたら、自分の中に書きたい気持ちがあるのを意識し始めていた。フィクションだが、作品の中に出て来る場所に行ってみたい気持ちにもなっていた。小田原城の公園もその一つである。

つれづれに

つれづれに:伊豆大島

 下田に行った時の話から、黒船の幕末と維新の話になり、→「1860年」が歴史の大きな潮目だったことについて書いた。気づいたのは奴隷制と南北戦争について考えている時だった。そのあと奴隷の連れて来られた西アフリカのガーナと、アメリカの学会で誘われて発表するときに選んだ作家の南アフリカ、医学科の授業で医療と一般教育を繋(つな)ごうと始めたエボラ出血熱のコンゴとエイズのケニアの関連で齧(かじ)ったことのある歴史の同じ時期を再確認した。それだけの国の歴史しか辿(たど)れなかったという思いと、「ちょっと齧っただけの知識で、ようそんなにいろいろ書いたもんやなあ」という思いが重なる。

 下田のあとに行った旅の話に戻ろう。最近もらった人の手紙に「河津桜が咲きました」と書いてあるのを見て「この時、修善寺で見た桜は彼岸桜やなくて、河津桜やった」と、急に思い出した。下田町の北側が河津町で、その名前を見たとき「ここが発祥の地やったかもな」と思った記憶が蘇(よみがえ)ったのである。「ソメイヨシノがまだ咲くわけないもんな」と思いながら、少し浅い色の桜を眺めた。今回、ウェブで調べてみると、次の解説が見つかった。

「河津(かわず)桜は2月上旬から開花しはじめる早咲きの桜で、1955年に河津町で発見されました。伊豆の温暖な気候と早咲きの特色を生かし、約1ヶ月を経て満開になります。」

 下田から小田急(そう思い込んいたが伊豆急だった)で伊東に行った。伊豆大島に渡る連絡船に乗るためだった。今はすぐにウェブで検索ができるが、その時は行き先だけ決めてその場所に行ってから誰かに聞くことが多かった。下田でもたぶんそうしたと思うが、伊東港から大島の岡田港(↓)に渡った。今なら伊東より南の稲取港からジェット船で行く気がする。距離も短く、時間も少なくて済むからだ。行ったのが1970年代なので、ジェット船が運航してなかったかも知れない。

 大島に行ったのにさほどの理由はない。椿や椿油でよく知られていたので、機会があれば行ってみたいと思っていただけである。アメリカ(→「アメリカ?」)やアフリカに行ったときと、ほぼ同じだ。行って見ると、実感がわく。アフリカ系アメリカの作家を修士論文で選び、その作家で業績のために書いていたから「アメリカに行ったこともないのも気が引けるなあ」と思ったのである。アフリカの場合も同じだった。→「シカゴ」では目抜き通りの縁石に座って3時間ほどパレードを眺めているときに「アメリカにもアメリカのよさがあるやん」と感じた。ハラレで家族で暮らした時は、搾り取る側にいるのを意識して、終始息苦しかった。帰りにパリに寄ったとき、残念ながら、ほっとした。「先進国にいる」と感じたのである。そういう感覚は行ってみないと実感できない。

パレードのあったミシガン通り

 大島では、港周りを歩いて、椿を見た。→「椿」はカレンダーの最初の表紙(↓)に使った花である。今も散歩に出かけて、枝をもらって玄関とトイレに生けている。意識の深層で、大島の椿が関係しているのかも知れない。

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つれづれに:花菖蒲(はなしょうぶ)

市民の森花菖蒲園、小島けい画

 出版社から妻に本の装画の話があった。先輩から「あんたに会いたい言うてるで。会(お)うてみるか?」と言われて横浜で会った出版社の人から、宮崎医大に決まったとたんに、待っていたかのように大学の授業で使うテキスト(→ A Walk in the Night)の編註を薦められた。薦められたと言うより、ある日、テキストが送られて来て、すぐあとに「新版にするので、編集して註をつけて下さい」と編集者の人から電話があった。怒涛(どとう)の日々の始まりだったとは、その時は知る由もなかった。

映画「ワールド・アパート」の場面を妻に描いてもらった

 すぐあとに、妻に電話があり、本の装画を描くことになった。横浜で会ってから暫(しばら)くして、雑誌に記事(→「ゴンドワナ(3~11号)」、→「ゴンドワナ(12~19号)」)を書くように言われて、主に南アフリカやラ・グーマの記事を送っていた。その記事に挿絵や人物画を妻に描いてもらっていたし、プリントごっこで作ったカードで葉書や手紙も送っていたので、その絵を見ていいと思ってくれたのだろう。

 結婚してから1年で娘が生まれ、しばらく後に妻の父親の家に転がりこんで、息子も生まれた。毎日が戦争のような日々だった。その間に、私は→「大学院大学」(↓)で修士号を取り、高校を辞めている。博士課程には門前払いを食らって、かろじて大学の非常勤を世話してもらって、業績を積んでどこかの大学の口をと、先の見えない日々を送っていた。子供2人に家事に仕事にと、元々体の強くなかった妻がよくも病気もせずにもったものだと思う。一人目は切迫流産で入院した。普通でも子供を産むのは大変である。大学院に行くようになってからは、私も家事をするようになった。息子の母親の役もさせてもらった。しかし、結婚してから娘の小さい頃までのことを思うと、妻に申し訳ない気持ちになる。

 そんな毎日でも、何とか土曜日の昼からの2時間を見つけて、妻は元町の絵画教室に通った。そして、毎年グループ展に作品を出していた。絵画教室が終わったあとも、有志で個展を続けていて、宮崎に来てからも何回か元町の画廊まで出かけている。絵画教室は素敵なタッチで洒落(しゃれ)た油絵(↓)を描く人が講師で、ほとんどが年上の何人かのメンバーとモデルに来てもらって描いていたが、本当に楽しそうだった。まだ土曜日も授業があった時期で、体のことを考えるならゆっくり休むのがよったが、それだけ描きたい思いが強かったのだろう。非常勤も週に16コマになっていた5年目の終わりごろに、慌ただしく正規の職が決まった。そのとき「私、絵を描いてもええ?」と嬉しそうだった。

 そして、近くの市民の森に→「花菖蒲」を描きに自転車で通う日々が始まった。→「装画第1号」はその花菖蒲である。

つれづれに

つれづれに:沈丁花2

小島けい画

 妻に描いてもらった沈丁花の絵は上の一枚だけである。本の装画やカレンダーの絵にも入っていない。

 10年ほど住んだ→「明石」の家の庭に大きな沈丁花の樹があり、→「宮崎へ」来てから住んだ→「借家に」は樹がなかったのが主な理由である。都会の住宅街と違って近くに大きな公園が二つもあり、周りに野原や田んぼが広がっていた。出版社の人から本の装画(→「装画第1号」、↓)を言われて妻が描き始めたとき、草花に困ることがなかったというのも大きかったと思う。

 最初は油絵を描いていたが、上から繰り返し塗る油絵は体力が要るので「どうしようか?」と二人で京都に絵を見にでかけた。寺の日本画を見て「こっちも体力が要りそう」と感じて、水彩に決めていた。しかし、特に→「花を描く」と決めていたわけではないが、宮崎では→「ほぼ初めての春の花」(→「春の花2」)が多かったし、プリントごっこでカードを作ったり、毎月のカレンダーを描いてもらったりしていたので、自然と花の絵を描くことが多かった。借家に沈丁花があったら、たくさん絵を描いて、カレンダーや本の装画にも使っていただろう。

京都ではいつも立ち寄る錦市場

 夏には→「葛」の花を、秋には→「通草」(小島けいblog)と→「烏瓜」の実を集めた。→「郁子(むべ)」の花を採って来るようになったのは高台の今の家に越して来てからである。春先に紫色の透明感のある郁子の花の群生(↓)を見つけたときは、感動した。蔓(つる)植物なので、電柱の上の方まで登っているのを見つけて電柱に登ったこともある。平和台公園では、池の上に延びている枝を伝って実を採ろうとしたとたんに、下の池に落ちてしまったこともある。どちらも次の年には切られてしまっていた。蔓植物の哀しい宿命だろう。

 妻が絵を描き、私がせっせと花や実を集めて、カレンダーや本の装画が残ることになった。大分の久住高原の画廊(↓)で→「個展」をしている時に頼まれた犬の絵がきっかけで、最近は犬や猫の絵を描くことが多い。個展の場所も大分から東京に移り、世田谷区祖師谷の「ルーマー」→Cafe &Gallery Roomerを会場に使わせてもらっている。一番傍で見ていて「人物画も特徴をとらえてなかなかなんやけどなあ」と実感するが、今のところ需要はない。宣伝していないからでもあるが。最近、家の近くで郁子の実を見つけ、「つれづれに」に→「郁子と通草」を書いた。

 妻のblogも拵えてもらって私が更新しているが、海外の人が毎日blogを見に来てくれているようなので、一部に英語の訳をつけたついでに、花一覧「花の世界」→「The World of Flowers 」を使って、すぐに載せている絵を確認できるようにした。その一覧を作りながら「沈丁花、入ってなかったんや」と、ふと気がついたのである。