11月2日(月)3-4(10:30:-12:00)
5回目でした。
<今日>は先に
①(試験対策2:Reading)Zoomトーイック3 Part 5の101~130のうち101~104と文法的な解説。その分は参考ファイルに→「Zoomトーイック3_R_P5解説_文法.zip」を置いてるんで、どうぞ。文法問題は、比較的スコアを上げやすいんで、たくさん問題にあたるとええと思うよ。過去問をやると、フレーズが大事とわかるんで、『金のフレーズ』も役に立つかも。
恒吉さんの要約は簡潔でわかりやすかったね。日本語訳は末尾に貼っときます。細かいところは較べてチェックしてや。↓
③映像:バンツースタン:アフリカ人からいい土地を奪い、不毛の地をあてがってそれを最初はreserveと呼び、国際的に非難を浴びるとbantustanに呼び方を変え、更に非難が強くなると、今度はhomelandと呼び方を変えて行ったけど、すべて草も生えないような不毛の土地、先に映像を見てもらいました。国連の職員が密かに隠し撮りをしてその映像を反アパルトヘイト運動をしている人たちに配信、僕も大阪のこむらど委員会の下垣さんからビデオテープを送ってもらいました。タイトルはDimbaza(墓場)。今回観てもらったのはその一部です。
→カラハリ砂漠に暮らすサン人、ダイヤモンドの発見とセシル・ローズ、ナタールの砂糖黍畑で働く少年(課題図書にも入れているバスゥル・デヴィドスンの映像「アフリカ・シリーズ」)
<次回は>
①(先に)「遠い夜明け」
②残りの映像
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カレンダー11月「いちょうと子猫」です。水、木と気温が下がるみたいで、また冬になっていくなあ。宮崎は温かいので銀杏並木のきれいなところが少ないけど、北の寒いところの銀杏並木は迫力ありそうやな。猫は寒がりなんで、こんなのんびりと二匹が銀杏並木の近くに座ってなさそうな気もするけど。それが、絵では可能なんやな。
パリなどでは第二波で大変らしいねえ。全国的にGOTO何とかを使って色々移動してるみたいやね。毎年神武さんに馬を出してる牧場の人が、神武さんはなしですが、シーガイヤの観光用の馬乗り(園内5000円、外乗15000円)がえらい繁盛してて助かってます、と言ってはったね。生協の人は、宮崎から行く人が少なくてフライトの予約などの仕事がほとんどありません、と言ってはったから、都会の人が普段は行けないシーガイヤのような豪華なホテルに押しかけてるみたいやねえ。第二波の事態にならんとええのにね。
来週、また。
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日本語訳
THE GROWTH OF MINING CAPITAL 鉱山資本の成長
The first diamonds were discovered in the area which later was to become the Kimberley diamond fields.
まず初めのダイヤモンドは、その後キンバリー・ダイヤモンドの産地になる地域で発見されました。
The diamonds on the surface were soon depleted. A more costly technique was then required to exploit diamonds under the surface. This furthered capital concentration, i.e. the concentration of ownership in fewer hands. In 1888 all diamond mines were controlled by a company called de Beers Consolidated, which before the turn of the century controlled 90% of world production. The company was in the hands of the British imperialist Cecil Rhodes, who also was Prime Minister in the Cape colony.
地表のダイヤモンドはすぐに堀り尽されました。その後、よりお金のかかる技術が地下のダイヤモンドを開発するために必要とされました。これは更に資本の集中を促しました、つまりより少数の手の中に所有権が集中したわけです。1888年には、ダイヤ鉱山が全てデ・ビアスと呼ばれる会社によって支配され、20世紀になる前には世界生産の90%をその会社が支配していました。その会社は、イギリスの帝国主義者であり、ケープ植民地の首相でもあったセシル・ローズの手中にありました。
THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERS 英国人とボーア人の対立
The Boers had every reason to be suspicious of British capital. They viewed the railway with apprehension; it wound northwards from the Cape, and charged heavy freight fees and duties in the harbour. The Boers wanted to keep the gold-rich areas for themselves, and they looked for allies. The rivalry between the European imperialist powers in `the scramble for Africa’ gave the Boers a new chance to get rid of their dependence on the British harbours. With German and Dutch capital a railway line was built from Transvaal to the Mozambican coast.
ボーア人がイギリス資本を信用しないのには充分な理由がありました。ボーア人は、不安な思いで鉄道を見ていました。それはケープから北の方へ延び、通行料金と港での税金を課しました。ボーア人は自分のために金の埋蔵量が豊かな地域を維持したかったので、同盟国を探しました。アフリカ争奪戦でのヨーロッパの帝国主義列強間の競争は、ボーア人にイギリスの港の依存を取り除く新しい機会を与えました。ドイツとオランダの資本で鉄道がトランスヴァールからモザンピークの海岸間に建設されました。
The ruling Boers in Transvaal tried to channel income from the British-owned mines there to themselves. The tense situation between the Boers and the British led to the second Anglo-Boer War in 1899. It ended in 1902 with victory for British imperialism. Cruelties were committed on both sides, but the concentration camps set up by the British for Boer women and children left especially bitter scars.
トランスヴァールを支配するボーア人は自分たちの方に、イギリスに所有された鉱山からの収入を向けようと努力しました。ボーア人とイギリス人との間の緊張した状況は1899年の第二次アングローボーア戦争を生みました。1902年にイギリスの帝国主義者の勝利で戦争は終了しました。双方で残虐行為が行われましたが、イギリス人がボーア人女性と子供用に建設した強制収容所は、ボーア人に特に酷い傷跡を残しました。
The Boers traditionally had two enemies: the indigenous Africans, whose cattle and land they coveted and whom they tried to make into slaves, and British imperialism, which was out to exploit the riches of South Africa. But when it came to exploiting the Africans, the Boers made common cause with the economically superior British.
昔からボーア人には二つの敵がありました、欲しがっていた家畜を奪い、奴隷に仕立て上げたその土地に住んでいたアフリカ人と、躍起になって南アフリカの冨を搾り取ろうとするイギリス帝国主義でした。しかし、アフリカ人を搾取するという点では、ボーア人は経済的に優位だったイギリス人と共通の大義がありました。
THE UNION OF SOUTH AFRICA AND RESERVES 南アフリカ連邦とリザーブ
During the Boer War the British government had claimed that its objective was to protect the Africans. But in the peace treaty the whole question of the political future of the Africans in South Africa was left in the hands of the Boers and the British colonialists. In May 1910 the Union of South Africa was created, which meant that the British government handed over all political power to the whites in South Africa. It was only the negotiated product of the Boers and the British colonialists with their common cause of exploiting the Africans.
ボーア戦争の間じゅう、英国政府は戦いの目的はアフリカ人を保護することだと言っていました。しかし、平和協定を結ぶときには、南アフリカのアフリカ人のこれからの政治に関してはすべての問題をボーアじんとイギリス人植民地主義者の手に収めたままにしてしまったのです。1910年の5月に南アフリカ連合を創設しましたが、それは英国政府が政治的な権利をすべて南アフリカの白人に引き継いだということだったのです。アフリカ人を搾取するという共通の目的のためにボーア人とイギリス人植民地主義者が作り出した妥協の産物に過ぎなかったのです。
The first Union parliament created the African reserves through the Native Land Act in 1913, which made previous practices the law. Whites were forbidden to buy or rent land in the reserves, and Africans could neither buy nor rent outside the reserves. The only exception was the Cape province where, for some time, Africans were still allowed to purchase land. The law meant that 78% of the population was supposed to live in reserves comprising only 7.3% of the area of the country.
最初の連邦議会は1013年の原住民土地法でアフリカ人リザーブを創設しました。それは今までの慣習を法制化したものでした。白人にはリザーブ内の土地を買うこと、借りることが禁止されました。アフリカ人はリザーブ外では土地を買うことも借りることも出来ませんでした。唯一の例外はケープ州で、暫くの間はアフリカ人が土地を購入することが許されました。法律が意味するところは、人口の78パーセントが国土の僅か7.3%からなるリザーブに住むことになるということでした。
For a farming people to be deprived of their land was a hard and bitter blow, which at once strengthened opposition. The South African Native National Congress, which changed its name to the African National Congress (ANC) in 1925, was formed in 1912 to unite the Africans in defence of their right to land and to demand political rights. When the Land Act was still in preparation, a delegation of leading Africans was sent to London. Their mission was fruitless and the African leaders were beginning to realize that no solution to their plight could be found in London.
農民が土地を奪われれば大打撃で、すぐに反対運動が起きました。1912年、土地の権利を守り、政治的な権利を求めるために、そののち1925年にアフリカ民族会議(ANC)と改名する南アフリカ原住民民族会議が創設されて、アフリカの結束をはかりました。土地法がまだ準備段階のうちに、アフリカ人指導者の代表がロンドンに派遣されました。派遣の成果もなく、アフリカ人指導者はロンドンにでは自分たちの窮状の解決策は見出せないと悟り始めていました。
The 1913 Native Land Act was in force until 1936. That year a new law, the Native Trust and Land Act, extended the area of the reserves to 13.7%. This law was in force till all the apartheid laws were abolished in 1991. This law was the foundation of the apartheid regime’s land consolidation for the `homelands,’ the so-called Bantustans.
1913年の原住民土地法は1936年まで効力がありました。その年に新法原住民信託土地法が制定されて、リザーブの範囲が13.7パーセントにまで拡大されました。この法律はすべてのアパルトヘイト法が廃止される1991年まで有効で、アパルトヘイト政権が力を入れたホームランド、いわゆるバンツースタン政策の根幹でした。
クラス名簿
2020年後期 英語 Ra 2 (3)クラス名簿(31名)
30200038 | 生田 志潤 | イクタ シジユン |
30200087 | 植村 尊 | ウエムラ タケル |
30200148 | 小野 拓海 | オノ タクミ |
30200173 | 加知 倫太朗 | カチ リンタロウ |
30200205 | 川越 晴登 | カワゴエ ハルト |
30200214 | 河野 晃輝 | カワノ コウキ |
30200308 | 齋藤 優奈 | サイトウ ユウナ |
30200317 | 坂元 美琴 | サカモト ミコト |
30200360 | 重山 夕美 | シゲヤマ ユウミ |
30200371 | 篠原 小伯 | シノハラ コハク |
30200384 | 下條 帆乃佳 | シモジョウ ホノカ |
30200399 | 菅付 彩友 | スガツケ アユ |
30200447 | 恒吉 実於 | ツネヨシ ミオ |
30200454 | 角田 楓 | ツノダ カエデ |
30200472 | 堂薗 翔永 | ドウゾノ シヨウエイ |
30200520 | 戸島 脩太 | トジマ シユウタ |
30200579 | 永松 日向 | ナガマツ ヒナタ |
30200582 | 中屋敷 香波 | ナカヤシキ カナミ |
30200597 | 原田 佳純 | ハラダ カスミ |
30200603 | 東久保 光汰 | ヒガシクボ コウタ |
30200612 | 日田 快希 | ヒタ ハルキ |
30200627 | 平井 優季 | ヒライ ユキ |
30200704 | 福留 駿佑 | フクドメ シユンスケ |
30200742 | 本田 拓哉 | ホンダ タクヤ |
30200759 | 待山 功星 | マチヤマ コウセイ |
30200795 | 松山 峻平 | マツヤマ シユンペイ |
30200807 | 間野 壱晴 | マノ イツセイ |
30200821 | 宮崎 琉奈 | ミヤザキ ルナ |
30200869 | 山口 澪夏 | ヤマグチ ミオカ |
30200898 | 吉田 晴紀 | ヨシダ ハルキ |
30200926 | JIANG TIANCHENG | コウ テンセイ |