続モンド通信・モンド通信

続モンド通信24(2020/11/20)

私の絵画館:トムさんと馬(キャンディ)(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~③:8月のパリで(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜21: アフリカ史再考③:ナイルの谷(玉田吉行)

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1 私の絵画館:トムさんと馬(キャンディ)(小島けい)

トムさんとキャンディ

初めて牧場に行き、オーナーのトムさんに話を聞いたのが、2月19日(金)です。そしてその日から一番早い平日が、2月22日(月)。私の初乗馬の日です。(平日の方がお客さんが少ないと聞いたからです。)

月日は曜日まで妙にはっきり覚えているのに、それが何年だったのか。このところずっとあいまいでしたが、古い乗馬ノートがみつかり、2005年とわかりました。

<諸行無常>といいますが。それは牧場も同じこと。馬にも人にも、様々な変化がありました。

以前は、乗馬に来たおじ様たちの談笑の場であったゲストハウス(木造の小屋?)は、最近では若いスタッフの方たちの休憩所になっています。15年も過ぎたのですから、世代交替もあたり前ですね。

アメリカで修行をしたトムさんは、あまりにも調教が上手い!というので、あちこちから呼ばれ、日本各地を飛び回っておられて。最近では、牧場でお会いする機会も、めっきり減りました。

もともと人の少ない場所では、乗馬人口もさらに少なく、ここ宮崎で牧場を維持し続けることは、至難の技です。(実際に、いくつもの牧場がなくなりました。)

ところが女主人のメグさんは、新しい分野を切り開かれました。軽い障害のある子供たちへの<ホース・セラピー>です。

実施にこぎつけるまでには、様々な準備や手続きで何年もかかったそうですが。今ではすっかり定着し、子供たちの<にじいろホース>の活動が、主になっています。

私なども、放課後目を輝かせてやってくる子供たちの邪魔にならないよう、早めの時間帯に行くようにしています。

いわゆる登校拒否の子供たちも、学校へ行くことはできなくても、牧場には喜んでやってくる。ということで、近々教育委員会の方たちも見学に来るとか。

人はみんな違います。<学校>という場所になじめない子供たちに、このような優しい楽しい空間がある。小さなこの牧場で救われる子供たち・親たちは、これからもっと増えてゆくのだろうと思います。

キャンディは、トムさんがわざわざアメリカへ行き、連れて帰ってきた馬のなかの一頭です。今では左目がほとんど見えなくなりましたが、見えないなりに走ることもでき、元気にすごしています。

キャンディと子馬

この絵のダスティも、その時連れてきたなかの一頭です。

同じポーズのダスティを、背景の色、まわりの風景を変えて3枚描きましたが、トムさんはこの一枚を選ばれました。実家の玄関に飾られている、と以前お聞きしました。

 

ダスティ

そうそうダスティは今年、かわいい<ジャスミン>という子馬を産みました。

ジャスミン

牧場に行くと、お母さんのダスティにまだまだしっかり甘えながら、いたずらをしているジャスミンの姿が見られますよ。

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~③:8月のパリで(小島けい)

 絵本の棚を整理していると、フランス語の絵本が数冊でてきました。一番後ろのページに<’76.8.20>とありました。

はるか昔となった8月のパリが、ぼんやりと思い出されました。

その前の年の11月、母が亡くなりました。暑い夏を、母がいなくなった家ですごしたくはありませんでした。私はその年の8月を、パリですごしました。

ひと月あれば、たくさんの絵を見ることができるだろう、漠然とそう思っていましたが。実際には一日に一つの美術館を訪ねる、それがちょうどいいペースでした。

パリには美術館が多すぎて。一ヶ月の滞在でも、ほんの一部しか回れませんでした。けれど、一つだけ小さな<発見>もありました。

美術の教科書には名作といわれる絵の写真が多数載っています。そのなかには<モネの睡蓮>も、必ず入っていました。ただ、私はずっと、この絵のすばらしさがよくわかりませんでした。(今から思えば、当時の写真の色も、よくなかったのでしょうが。)

「睡蓮」

国立西洋美術館https://www.nmwa.go.jp/jp/collection/1959-0151.htmlより

どの美術館だったのか。さほど大きくはない美術館に<モネの部屋>がありました。記憶では、低い天井の細長い楕円形の部屋だったと思いますが。その長い壁の片側一面が、一枚の<モネの睡蓮>でした。横の長さは5~6mもあったでしょうか。

部屋のまん中には、背もたれのないソファが一つ。私はそこに座り、長い時間、その絵と向きあっていました。これが本当の<モネの睡蓮>なのか・・・・と。

きっと絵の大きさの力もあったと思うのですが、<モネの睡蓮>は写真とは全く違い、生き生きと息づいていました。限りなく静かな水面を描きながら、この上ない迫力をもって、迫ってきたのでした。

今回のパリの旅は、この一枚と出逢えただけで十分だった、と私は打ちのめされてぼんやりとしている頭の片すみで、思いました。

プティホテルの屋根裏部屋の窓から(1992年11月)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜21:アフリカ史再考③:ナイルの谷

「アフリカシリーズ」

アフリカ史再考の3回目、エジプトの話である。

エジプト文明

三千年に渡ってナイル川流域に栄えたエジプト王朝も、実はアフリカ内部の影響を強く受けている。

1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺を皮切りに西洋諸国の世界侵略が始まっているが、侵略者たちは侵略を正当化するために自分たちの都合の言いように歴史を書き、それを押し付けてきた。侵略まがいの行為は今も形態を変えて続いているので、白人優位、黒人蔑視の考え方も、想像以上に実際は世界に浸透している。したがって、古代世界でも類のないほど栄えたエジプト文明も、古代オリエントの枠組みの中では考えられても、アフリカとの関係は完全に無視されて来た。ファラオたちの栄華がアフリカ人の手によって作り出された筈はない、アフリカ人にあんな高度な文明が築き上げられた筈はない、西洋人はこれまでそう信じ込んで来た。しかし、実際にはエジプト文明はアフリカ人の影響を色濃く受けていた。その辺りの事情について、「アフリカシリース」の中で、エジプトの首都カイロにあるカイロ博物館の中を紹介して歩きながら、バズル・デヴィッドスンは次のように解説している。

「カイロ博物館の絢爛(けんらん)たる宝物の間を歩いていると、古代エジプト文明は他からの影響はほとんど受けない全く独自の文明だと思えてくるかも知れません。恐らく大半の見学者はガイドの説明を聞くうちに、例えばこの若き王ツタンカーメンの顔が黒いのは長い歳月の間に変色したせいだと思うでしょう。ツタンカーメンが黒い皮膚をしていたと考える人は少ないはずです。しかし、これこそ多くのアフリカ学者が取り組んでいる観点なのです。」(「アフリカシリース第1回『最初の光 ナイルの谷』:NHK、1983年)

今から5000年前、エジプト文明は大文明の舞台になっていた。アフリカを知るにはこの時代、ファラオと呼ばれた王たちが支配した古代エジプトを抜きには到底理解することは出来ない。

ナイル川はアフリカ最大の湖ヴィクトリア湖に源を発し、ヴィクトリア湖から地中海に注ぎ込むまで北に向かって延々と6700キロの距離を流れている。エチオピア高原から流れ落ちる青ナイルと合流したあとは、どんな支流もない。ナイル川流域に人間が住み始めたのは数万年前からで、涸(か)れることのないナイル川は毎年定期的に氾濫を繰り返し、肥沃な泥を下流に運んで行った。そこでは、やがて農耕生活が始まった。

ファラオが支配したエジプトは、古代世界でも最も早く、また最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年ものあいだ栄えて来た。その影響は、周囲はもちろん遠くオリエントにまで及んでいる。ファラオたちはデルタ地帯の下エジプト、それより上流の上エジプト、その二つの領域に君臨していた。

今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中にはこうした初期のナイル住人もいる。その後西アジアから来た民族もまじっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来た人々、つまりサハラを追われたアフリカ人だった。

嘗ては大西洋からナイル川流域までサハラ全域には様々なアフリカ人が住んでいたと思われる。1956年にフランスの調査隊が発見したタッシリナジェール山脈の砂の中に埋もれていた岩絵には、緑のサハラの生活が生き生きと描かれている。一番古い時代のモチーフは猟をする姿で、最古の絵は七千年から八千年前に描かれたと推測されている。時代を経るにつれて絵にも変化が表われ、鞍や手綱を付けた馬は輸送手段の発達を物語っているし、犂(すき)をつけた牛からは農耕生活が営まれていたことがわかる。精巧な馬車の絵は後期のもので、人々の衣装は古代エジプト人のスカートと驚くほどよく似ている。

タッシリナジェールの岩絵

サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人ともまじわっていったわけである。

古代エジプト人は大抵、自分たちの皮膚の色を赤みがかったピンクで表している。エジプト人の中には西アジアの血も流れているが、実際は、それ以上にアフリカ黒人とまじり合っていて、貴婦人の中にはエジプトの南のヌビア人がたくさんいた。ヘマカの墓から出た絵には一見して黒人とわかる貴婦人が白人の侍女を従えている様子が美しく描かれている。上エジプト王セン・ウセルト3世のように、王家に黒い肌の子供が生まれることも珍しくなかった。

古代エジプトには、エジプトとヌビアの境目にあるナイル川に浮かぶエレファンテイン島は非常に神聖な場所と考えられ、ヨーロッパ人が好んでたくさん訪れた。その中の一人歴史家のヘロドトスもその島まで足を延ばしている。ギリシャ人は違う世界の人種を異なってはいるが同等と見なす伝統の中で育っていた。エジプトに詳しいヘロドトスのようなギリシャ人は、エジプトの起源は南から来た黒人と考えていた。

ヌビア人と古代クシュ王国

アスワンダムやアスワンハイダムの建設によって水没してしまったヌビアの遺跡も多いのだが、移転された遺跡からヌビアにはナイル流域最古の王国の一つがあり、それが後のエジプトの王国の先駆けになっていたことがわかる。遺跡の一つ三千年ほど前に造られたアブ・シンベル神殿の正面を飾るラムセツ2世の巨大な像の前に立ちながら、デヴィッドスンは都から遠く離れたヌビアにこのような大規模な大神殿を建てたのは愛妻ネフェルタリ王妃がヌビア人だったからではないかと推測している。

エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、ファラオとしてエジプト全土を掌握した。第25王朝である。

南から来たファラオの中でも一番有名なのはタハルカ王で、ヴィッドスンはカイロ博物館の中にある巨大な立像を見上げながら「紀元前七世紀当時、エジプト人はこの王を世界の支配者と見なしていました。聖書にもエチオピア王テルハカとして出ています。エチオピアとは黒人という意味で、タハルカ王はヌビアのクシュ王国と全エジプトの王として君臨していたのです。」と話している。

タハルカ王の立像

ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。メロエの都は古代エジプトの国境から南へ千数百キロ、アフリカのずーっと内陸にあった。ヴィッドスンはワゴン車でメロエ(スーダン)を訪れながら「ここに来る度に私は驚異の念に打たれずにはいられません。荒涼たる砂漠の真ん中に失なわれたアフリカを物語る遺跡が忽然と現われるのです。アフリカ最古の黒人帝国の形見、地平線に浮かぶその姿は時の波に洗われ、砂の海を漂う難破船のように見えます。この林立するピラミッドは700年にわたってこの地を治め、葬られたクシュの王や王妃の墓です。長い間歳月や墓荒らしによって荒れるにまかせて来ましたが、現在、修復、再建が進められています。」とその感慨を述べている。

ベルベル人とペルシャ人

ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋いでいたのはベルベル人である。そして、サハラの砂漠化が進んだ後にラクダで砂漠を越えて様々な王国が栄えていた西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間の砂漠の民トワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていたという壮大な話で、その交流はサハラの砂漠が進んだのちも大きく発展していった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。

トワレグ人の分布地図

東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリの商人がその役目を果たした。

トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に張り巡らせた黄金の交易網については、アフリカ大陸に生きるアフリカ人と暮らしの話と、王と都市をめぐる話のあとに、詳しく取り上げる予定である。

サハラ砂漠のトワレグ人

次回は「大陸に生きる」人たちである。

胡瓜はもう枯れてしまった。2期作をもくろんだが、あまり大きくならず、不成功に終わってしまった。鞘オクラも同様である。来年はもう2か月ほど早く種を蒔いて、もう一度やってみるつもりである。うまく行くやろか。

(宮崎大学教員)

南アフリカ概論(木7-8)

11月24日(火)7-8(3:15-4:45)7回目、対面の3回目でした。

<今日>は

①先進国とアフリカ、偏差値で競争させてものを考えさせない受験体制、安保と学生運動など、大きな枠組みのなかで、自分自身について、社会について考えないように仕組まれている小中高の体制の話とその中で刷り込まれた価値観や歴史観を見直す必要性などについて話をしました。HPのつれづれに学生運動のことを書いてるんで末尾に貼っとくね。→2019年4月15日

②映像:リザーブ(後にバンツースタン、更に後にホームランドと改称、三つは労働力として不要なアフリカ人を捨てる不毛の地、墓場)ドキュメンタリーのタイトルは『ディンバザ』(墓場)

③英文の残り(澤田さん)

②澤田さんは今回もしっかりと読めてたねえ。日本語訳を文末に貼ってるよ。

<次回は>

「遠い夜明け」の続き(ビコの裁判の後から葬式後警官の嫌がらせで家に銃弾を撃ちこまれた辺りから1時間ほど)

②映画の感想

③次回発表者決定:アパルトヘイト政権の誕生(     )、アパルトヘイト政策(     )、1955年のクリップタウンの国民会議(     )、1960年シャープヴィルの虐殺(     )

④ジンバブエの話

「遠い夜明け」のロケが行なわれたハラレの街中

来週、また。

日本語訳

THE UNION OF SOUTH AFRICA AND RESERVES 南アフリカ連邦とリザーブ

During the Boer War the British government had claimed that its objective was to protect the Africans. But in the peace treaty the whole question of the political future of the Africans in South Africa was left in the hands of the Boers and the British colonialists. In May 1910 the Union of South Africa was created, which meant that the British government handed over all political power to the whites in South Africa. It was only the negotiated product of the Boers and the British colonialists with their common cause of exploiting the Africans.

ボーア戦争の間じゅう、英国政府は戦いの目的はアフリカ人を保護することだと言っていました。しかし、平和協定を結ぶときには、南アフリカのアフリカ人のこれからの政治に関してはすべての問題をボーアじんとイギリス人植民地主義者の手に収めたままにしてしまったのです。1910年の5月に南アフリカ連合を創設しましたが、それは英国政府が政治的な権利をすべて南アフリカの白人に引き継いだということだったのです。アフリカ人を搾取するという共通の目的のためにボーア人とイギリス人植民地主義者が作り出した妥協の産物に過ぎなかったのです。

The first Union parliament created the African reserves through the Native Land Act in 1913, which made previous practices the law. Whites were forbidden to buy or rent land in the reserves, and Africans could neither buy nor rent outside the reserves. The only exception was the Cape province where, for some time, Africans were still allowed to purchase land. The law meant that 78% of the population was supposed to live in reserves comprising only 7.3% of the area of the country.

最初の連邦議会は1013年の原住民土地法でアフリカ人リザーブを創設しました。それは今までの慣習を法制化したものでした。白人にはリザーブ内の土地を買うこと、借りることが禁止されました。アフリカ人はリザーブ外では土地を買うことも借りることも出来ませんでした。唯一の例外はケープ州で、暫くの間はアフリカ人が土地を購入することが許されました。法律が意味するところは、人口の78パーセントが国土の僅か7.3%からなるリザーブに住むことになるということでした。

For a farming people to be deprived of their land was a hard and bitter blow, which at once strengthened opposition. The South African Native National Congress, which changed its name to the African National Congress (ANC) in 1925, was formed in 1912 to unite the Africans in defence of their right to land and to demand political rights. When the Land Act was still in preparation, a delegation of leading Africans was sent to London. Their mission was fruitless and the African leaders were beginning to realize that no solution to their plight could be found in London.

農民が土地を奪われれば大打撃で、すぐに反対運動が起きました。1912年、土地の権利を守り、政治的な権利を求めるために、そののち1925年にアフリカ民族会議(ANC)と改名する南アフリカ原住民民族会議が創設されて、アフリカの結束をはかりました。土地法がまだ準備段階のうちに、アフリカ人指導者の代表がロンドンに派遣されました。派遣の成果もなく、アフリカ人指導者はロンドンにでは自分たちの窮状の解決策は見出せないと悟り始めていました。

The 1913 Native Land Act was in force until 1936. That year a new law, the Native Trust and Land Act, extended the area of the reserves to 13.7%. This law was in force till all the apartheid laws were abolished in 1991. This law was the foundation of the apartheid regime’s land consolidation for the `homelands,’ the so-called Bantustans.

1913年の原住民土地法は1936年まで効力がありました。その年に新法原住民信託土地法が制定されて、リザーブの範囲が13.7パーセントにまで拡大されました。この法律はすべてのアパルトヘイト法が廃止される1991年まで有効で、アパルトヘイト政権が力を入れたホームランド、いわゆるバンツースタン政策の根幹でした。

2019年4月15日

授業も一巡、本格的に。

今年は3週足らずで10連休、一息入れてから7月末まで。新入生には、この10連休は有り難いかも。

10代の早くに一度すべてを諦めたせいか、入学式、卒業式、結婚式、葬式の類いが、自分には関わりのないものになってしまいました。

そうは言うものの、入学式には出てしまいました。浪人をしても受験勉強が出来たわけでもなく、英数国をしないで国立大は望む方が無茶というもの、結局、神戸市立の学国語大学のⅡ部、いわゆる夜間課程だけは、それでも合格したようで、ま、行くところがないよりはましか、英米学科と言っても、文学は出来るわけだし、時間もあるんだし、そう気持ちに区切りをつけたんだと思います。 神戸市外国語大学旧学舎全景(大学ホームページより)

一年間予備校にも通いながら受験勉強らしきものもせず、それでも入学式にのこのこと出かけたのは、たぶんよっぽど気持ちが萎えてたんでしょう。 その割には、何だか不思議な、おもしろい入学式でした。 学生運動で東大で全員が留年した学年ながら、浪人している間に、すっかり終結していたようで、形骸だけが残っていた学生運動、それでも事務局・研究棟に行く昇りの階段には何やら粉砕(たぶん安保粉砕)と朱色のペンキで大きく文字が躍り、両脇にヘルメットを被った学生が並んで、そのうちの一人がマイクを握って「われわれは~」と大声でがなり立てていました。脇には火炎瓶が並んでいたと思います。

事務局・研究棟への階段(大学ホームページより)

入学式は図書館の階段教室、式が始まると、何故かコーラス部が校歌を歌い出し、脇から全共闘の学生がマイクを握って「われわれは~」とがなりだし、中央ではお構いなしに学長と思しき人が挨拶を始め、学生の何人かはそれぞれに野次を飛ばし・・・・何だかおもろい入学式やなあ、そう思いながら眺めていました。

図書館(大学ホームページより)

翌日から授業が始まったものの、毎晩毎晩クラス討議、大体始まったばかりの学生に意見があるはずもなく、それでもクラス討議みたいなものが続いたような。ある日、学生が木造学舎をバリケード封鎖、その脇を通りながら、クラブの練習に。

バリケード封鎖された学舎(大学ホームページより)

ある日そのバリケードが機動隊に排除され、終結。

なんだか不思議な日々でした。そんな世の中とは関係なく、僕は高校時代に出来なかったクラブ活動でバスケットの毎日、練習に出かけた中学校でコーチをするはめになり、留年。結局2年留年して、辛うじて6年で卒業。

木造学舎(大学ホームページより)

卒業式には、もちろん出ませんでした。卒業するときに希望があったわけではありませんでしたし、就職活動もせず進路も決まってませんでしたが、気持ちは萎えていなかったんだと思います。

クラス名簿(Campusmateからダウンロードしました。)

2020年後期 クラス名簿(29名)(2020年11月6日現在、確定名簿)

1 46190086 エンダ ミユ 教育学校小中一貫小主免(数学)
円田 未夢 2年
2 46190172 ササダ マホ 教育学校小中一貫小主免(数学)
佐々田 真帆 2年
3 46190213 サワタ キヨウカ 教育学校小中一貫小主免(国語)
澤田 京佳 2年
4 46190228 シモゾノ カズマ 教育学校小中一貫小主免(保体)
下薗 和真 2年
5 46190417 ミナミ フウカ 教育学校小中一貫小主免(英語)
南 颯香 2年
6 46190484 ヤマモト セナ 教育学校小中一貫小主免(保体)
山本 千流 2年
7 46190514 アサミ ミドリ 教育学校小中一貫中主免(理科)
淺海 碧 2年
8 46190532 イケウチ ハアト 教育学校小中一貫中主免(保体)
池内 優斗 2年
9 48190013 イワオ サヤカ 教育学校発達支援(子ども理解)
岩尾 清花 2年
10 48190028 オリタ イズミ 教育学校発達支援(子ども理解)
折田 和泉 2年
11 48190066 ヒダカ スズナ 教育学校発達支援(子ども理解)
日高 涼菜 2年
12 48190077 フジタ ノドカ 教育学校発達支援(子ども理解)
藤田 和佳 2年
13 48190080 ミキ リヨウヤ 教育学校発達支援(子ども理解)
三木 稜也 2年
14 50190032 アライ シズカ 農学部植物生産環境科学科
新井 静 2年
15 54200210 カキタ エイキ 農学部畜産草地科学科
柿田 英希 1年
16 54200287 クニモト レイナ 農学部畜産草地科学科
國本 怜奈 1年
17 61180180 カメガワ リヨウタ 工学部環境応用化学科
亀川 凌太 3年
18 61190232 サトウ ミユ 工学部環境応用化学科
佐藤 未唯 2年
19 61190346 タニグチ アリサ 工学部環境応用化学科
谷口 愛里沙 2年
20 61200177 キヨカワ シヨウゴ 工学部環境応用化学科
清川 昌吾 1年
21 63200027 イイヤマ タカト 工学部環境ロボティクス学科
飯山 貴冬 1年
22 63200463 ヤマカワ ケンシン 工学部環境ロボティクス学科
山川 健伸 1年
23 64190228 コバヤシ ケイト 工学部機械設計システム工学科
小林 恵土 2年
24 65200267 ジョウシタ トウヤ 工学部電子物理工学科
丈下 桐弥 1年
25 65200296 スワ リヨウセイ 工学部電子物理工学科
諏訪 亮成 1年
26 66200183 タムラ リユウスケ 工学部電気システム工学科
田村 竜佑 1年
27 67180080 キタムラ ケイスケ 工学部情報システム工学科
北村 圭佑 3年
28 67180230 タチヤマ カイト 工学部情報システム工学科
立山 魁人 3年
29 67200276 シオカワ ジユン 工学部情報システム工学科
塩川 諄 1年

11月17日(火)5-6(1:30-3:00)6回目でした。

対面を希望する人はメールで知らせてや。多そうなら、次回提案するね。今日も南アフリカ概論(7-8)対面の2回目をやったけど、充分にいけそうやけどね。

 

クラス名簿(Campusmateからダウンロードしました。)

2020年後期 クラス名簿(127名)(2020年11月6日現在、確定名簿)

1 30190238 カイ ヒロト 地域資源創成学部 地域資源創成
甲斐 大翔 2年
2 30190511 ソエジマ ケンゴ 地域資源創成学部 地域資源創成
副島 健吾 2年
3 46190185 サタ カズマ 教育学校小中一貫小主免(数学)
佐田 一真 2年
4 46190765 ノウトミ タカシ 教育学校小中一貫中主免(数学)
納富 崇 2年
5 50180050 イリエ アン 農学部植物生産環境科学科
入江 安 3年
6 50190180 オノ ユウタ 農学部植物生産環境科学科
小野 憂太 2年
7 50190247 コガ キミアキ 農学部植物生産環境科学科
古賀 公章 2年
8 50190357 ノグチ ケイスケ 農学部植物生産環境科学科
野口 圭佑 2年
9 50190388 ヒダ エイジ 農学部植物生産環境科学科
日田 瑛士 2年
10 50200072 ウト リョウタ 農学部植物生産環境科学科
宇都 僚汰 1年
11 51180250 ジゲ マサヒロ 農学部森林緑地環境科学科
地下 昌宏 3年
12 51180310 タカハシ エイコウ 農学部森林緑地環境科学科
高橋 英行 3年
13 51190080 オノダ シン 農学部森林緑地環境科学科
小野田 深 2年
14 51200035 アベ ユウナ 農学部森林緑地環境科学科
阿部 悠南 1年
15 51200071 イワサキ タツヤ 農学部森林緑地環境科学科
岩崎 達哉 1年
16 51200121 オオヤ リュウノスケ 農学部森林緑地環境科学科
大矢 龍ノ介 1年
17 51200288 サクライ ユミ 農学部森林緑地環境科学科
櫻井 宥実 1年
18 51200314 シノハラ コウイチ 農学部森林緑地環境科学科
篠原 弘一 1年
19 51200343 タケウチ マユ 農学部森林緑地環境科学科
竹内 万結 1年
20 51200406 ハマスナ モモカ 農学部森林緑地環境科学科
濱砂 桃果 1年
21 51200420 ハルヤマ サヤカ 農学部森林緑地環境科学科
春山 明香 1年
22 51200468 ホンブ ユウカ 農学部森林緑地環境科学科
本部 結夏 1年
23 51200479 マエダ リナ 農学部森林緑地環境科学科
前田 莉菜 1年
24 52190320 トクナガ シュン (農)応用生物
徳永 駿 2年
25 52200234 カワハラ トモ (農)応用生物
川原 朋 1年
26 53200082 カワシマ ナミキ 農学部海洋生物環境学科
川島 愛生 1年
27 53200097 キグチ キョウカ 農学部海洋生物環境学科
木口 京香 1年
28 53200150 ドトウ スズカ 農学部海洋生物環境学科
土塔 涼華 1年
29 53200181 ニシカワ ソウタロウ 農学部海洋生物環境学科
西川 颯太朗 1年
30 53200291 マツシマ サホ 農学部海洋生物環境学科
松嶋 紗穂 1年
31 53200303 ミヤギ ナオカ 農学部海洋生物環境学科
宮城 尚佳 1年
32 54200304 ササキ コトノ 農学部畜産草地科学科
佐々木 琴乃 1年
33 54200313 ササキ ユウト 農学部畜産草地科学科
佐々木 悠斗 1年
34 54200432 トウダ コスズ 農学部畜産草地科学科
当田 香涼 1年
35 54200467 ナカハラ ナナミ 農学部畜産草地科学科
中原 七海 1年
36 54200526 ミヤモト サクヤ 農学部畜産草地科学科
宮本 咲耶 1年
37 55190136 コンドウ ミズホ (農)獣医
近藤 瑞保 2年
38 55200031 イシダ タケル (農)獣医
石田 岳 1年
39 55200077 オ インジ (農)獣医
呉 仁志 1年
40 55200103 カツヤ ナオ (農)獣医
勝冶 奈央 1年
41 55200112 クマガイ リサ (農)獣医
熊谷 りさ 1年
42 55200127 サトウ ノブ (農)獣医
佐藤 暢 1年
43 55200130 ジュウバシ アカリ (農)獣医
重橋 あかり 1年
44 55200141 シラハマ リョウ (農)獣医
白濱 遼 1年
45 55200217 トヨサキ ユウスケ (農)獣医
豊﨑 祐介 1年
46 55200222 ニシオ ユウト (農)獣医
西尾 勇人 1年
47 55200301 マツモト マサト (農)獣医
松本 真和 1年
48 55200325 ヤマウチ ヒカル (農)獣医
山内 光 1年
49 61190409 ナガヤマ オウスケ 工学部環境応用化学科
永山 欧佑 2年
50 61190485 フクモト ケンタ 工学部環境応用化学科
福元 健太 2年
51 61200067 イノウエ マイカ 工学部環境応用化学科
井上 舞香 1年
52 61200128 オノダ イツセイ 工学部環境応用化学科
小野田 一成 1年
53 61200285 ツチヤ シユウト 工学部環境応用化学科
土谷 修史 1年
54 61200340 ナカタ ミサト 工学部環境応用化学科
中田 三智 1年
55 61200465 ヒカリ リヨウタロウ 工学部環境応用化学科
光 遼太朗 1年
56 61200562 ヤノ カイリ 工学部環境応用化学科
矢野 海竜 1年
57 62190033 イソ ユウキ 工学部社会環境システム工学科
磯 祐有樹 2年
58 62190079 カケハシ カズマ 工学部社会環境システム工学科
桟 一馬 2年
59 62190404 ヒグチ コウダイ 工学部社会環境システム工学科
樋口 公大 2年
60 62200228 クラヤマ チホ 工学部社会環境システム工学科
倉山 千穂 1年
61 62200280 ツキアシ メイ 工学部社会環境システム工学科
月足 天衣 1年
62 62200543 ヤマダ シヨウケン 工学部社会環境システム工学科
山田 尚賢 1年
63 63190072 ウオズミ リュウタロウ 工学部環境ロボティクス学科
魚住 龍太郎 2年
64 63190146 キムラ トモカ 工学部環境ロボティクス学科
木村 友佳 2年
65 63200076 ウチダ ユウイチロウ 工学部環境ロボティクス学科
内田 裕一朗 1年
66 63200234 コガ リヨウタ 工学部環境ロボティクス学科
古賀 亮多 1年
67 63200245 スモト ユウタ 工学部環境ロボティクス学科
須本 雄太 1年
68 63200319 ナカシマ リク 工学部環境ロボティクス学科
中島 陸 1年
69 63200324 ニシカワ テル 工学部環境ロボティクス学科
西川 輝 1年
70 63200355 フジノ ユウタロウ 工学部環境ロボティクス学科
藤野 祐太朗 1年
71 63200410 ムラカミ ユウタ 工学部環境ロボティクス学科
村上 裕太 1年
72 63200449 モリミツ ユウマ 工学部環境ロボティクス学科
盛滿 優雅 1年
73 64180340 ナガミネ ダイゴ 工学部機械設計システム工学科
長峯 大護 3年
74 64190024 アライ キイチロウ 工学部機械設計システム工学科
荒井 貴一郎 2年
75 64190123 オゴシ ケイタロウ 工学部機械設計システム工学科
生越 奎太朗 2年
76 64190321 タケダ レン 工学部機械設計システム工学科
竹田 蓮 2年
77 64190334 ツカモト シュンキ 工学部機械設計システム工学科
塚本 駿希 2年
78 64190370 ニシ ユウマ 工学部機械設計システム工学科
西 佑真 2年
79 64190383 ヌキ タツノリ 工学部機械設計システム工学科
貫 辰徳 2年
80 64190408 ハマサキ カイヘイ 工学部機械設計システム工学科
浜崎 海平 2年
81 64190435 フナコシ リヨウタ 工学部機械設計システム工学科
舩越 涼太 2年
82 64190460 マツオ リオ 工学部機械設計システム工学科
松尾 理央 2年
83 64190567 ワタナベ ユウマ 工学部機械設計システム工学科
渡邊 悠馬 2年
84 64200095 オオハシ リヨウタロウ 工学部機械設計システム工学科
大橋 遼太郎 1年
85 64200158 カイ タクミ 工学部機械設計システム工学科
甲斐 拓海 1年
86 64200165 カイ ワタル 工学部機械設計システム工学科
甲斐 渉 1年
87 64200222 カミヤ ヒョウ 工学部機械設計システム工学科
神谷 彪 1年
88 64200260 コウ ケイイチロウ 工学部機械設計システム工学科
高 敬一郎 1年
89 64200356 ニシダ ツバサ 工学部機械設計システム工学科
西田 大翼 1年
90 65160230 セキヤ ブンタ 工学部電子物理工学科
関谷 文太 4年
91 65180380 ハヤシダ コウヘイ 工学部電子物理工学科
林田 滉平 3年
92 65190502 ムラカミ タツヤ 工学部電子物理工学科
村上 達也 2年
93 65200010 イワシタ タイセイ 工学部電子物理工学科
岩下 大晟 1年
94 65200038 ウラノ ショウタ 工学部電子物理工学科
浦野 翔大 1年
95 65200063 オオクボ アツヒロ 工学部電子物理工学科
大久保 敦広 1年
96 65200137 カドヤ コウスケ 工学部電子物理工学科
角谷 昂亮 1年
97 65200162 キヨタケ リクウ 工学部電子物理工学科
清武 陸空 1年
98 65200186 クロギ アヤミ 工学部電子物理工学科
黒木 彩心 1年
99 65200205 コジマ シユンスケ 工学部電子物理工学科
児島 俊介 1年
100 65200346 ツダ モモハ 工学部電子物理工学科
津田 桃華 1年
101 65200353 ナカジマ カイヤ 工学部電子物理工学科
中島 魁耶 1年
102 65200371 ナガタ ジユンペイ 工学部電子物理工学科
永田 惇平 1年
103 65200506 ヤマモト コウヘイ 工学部電子物理工学科
山元 康平 1年
104 66190031 アラカキ ユウト 工学部電気システム工学科
新垣 裕都 2年
105 66190059 イケハタ ユタカ 工学部電気システム工学科
池畑 勇威 2年
106 66190127 オオタニ ソラ 工学部電気システム工学科
大谷 宙 2年
107 66190194 キダ ゲンキ 工学部電気システム工学科
木田 元気 2年
108 66200084 カジタニ レイ 工学部電気システム工学科
梶谷 伶 1年
109 66200099 カヤシマ ヨシヒロ 工学部電気システム工学科
茅嶋 義博 1年
110 66200134 シイハラ ヨウ 工学部電気システム工学科
椎原 陽 1年
111 66200239 ナガノ リユウマ 工学部電気システム工学科
永野 流磨 1年
112 66200406 マツモト ユウヤ 工学部電気システム工学科
松本 佑哉 1年
113 66200468 ヤマグチ ケンシロウ 工学部電気システム工学科
山口 謙志朗 1年
114 66200479 ヤマグチ ヒロト 工学部電気システム工学科
山口 寛人 1年
115 66200482 ヤマダ タイガ 工学部電気システム工学科
山田 大雅 1年
116 67190113 カワムラ コウキ 工学部情報システム工学科
河村 航希 2年
117 67190128 キサカ リヨウタ 工学部情報システム工学科
喜坂 僚太 2年
118 67190166 サイトウ コウキ 工学部情報システム工学科
斉藤 功樹 2年
119 67190261 タニアイ コウセイ 工学部情報システム工学科
谷合 晃誠 2年
120 67200146 オシカワ リヨウ 工学部情報システム工学科
押川 陵 1年
121 67200315 タカサキ クウガ 工学部情報システム工学科
高崎 球宇我 1年
122 67200379 ナガイ マミ 工学部情報システム工学科
永井 真美 1年
123 67200434 ホマン コウダイ 工学部情報システム工学科
穂満 晃大 1年
124 67200470 ヤノ コウセイ 工学部情報システム工学科
矢野 晃成 1年
125 67200483 ヤベ ミズノ 工学部情報システム工学科
矢部 瑞乃 1年
126 67200513 ヤマモト ユウヤ 工学部情報システム工学科
山本 裕也 1年
127 67200542 ワタナベ ケイスケ 工学部情報システム工学科
渡部 敬恭 1年

南アフリカ概論(火5-6)

11月24日(火)5-6(1:30-3:00)7回目でした。

<今日>は

①「遠い夜明け」最後まで

②映画の感想

③課題と課題図書の解説を繰り返し

④発表:アパルトヘイト政権の誕生のみ(岩崎くん、森林緑地)

アパルトヘイトとアフリカ人の解放闘争について詳しく書かれている野間さんの著書

<次回は>

発表:アパルトヘイト政策(岩崎くん、森林緑地)、1955年のクリップタウンの国民会議(豊崎くん、獣医)、1960年シャープヴィルの虐殺(内田くん、環境ロボ)

②映像(テキストに沿って)、ジンバブエの話の続き

「遠い夜明け」のロケが行なわれたハラレの街中

来週、また。

クラス名簿(Campusmateからダウンロードしました。)

2020年後期 クラス名簿(127名)(2020年11月6日現在、確定名簿)

1 30190238 カイ ヒロト 地域資源創成学部 地域資源創成
甲斐 大翔 2年
2 30190511 ソエジマ ケンゴ 地域資源創成学部 地域資源創成
副島 健吾 2年
3 46190185 サタ カズマ 教育学校小中一貫小主免(数学)
佐田 一真 2年
4 46190765 ノウトミ タカシ 教育学校小中一貫中主免(数学)
納富 崇 2年
5 50180050 イリエ アン 農学部植物生産環境科学科
入江 安 3年
6 50190180 オノ ユウタ 農学部植物生産環境科学科
小野 憂太 2年
7 50190247 コガ キミアキ 農学部植物生産環境科学科
古賀 公章 2年
8 50190357 ノグチ ケイスケ 農学部植物生産環境科学科
野口 圭佑 2年
9 50190388 ヒダ エイジ 農学部植物生産環境科学科
日田 瑛士 2年
10 50200072 ウト リョウタ 農学部植物生産環境科学科
宇都 僚汰 1年
11 51180250 ジゲ マサヒロ 農学部森林緑地環境科学科
地下 昌宏 3年
12 51180310 タカハシ エイコウ 農学部森林緑地環境科学科
高橋 英行 3年
13 51190080 オノダ シン 農学部森林緑地環境科学科
小野田 深 2年
14 51200035 アベ ユウナ 農学部森林緑地環境科学科
阿部 悠南 1年
15 51200071 イワサキ タツヤ 農学部森林緑地環境科学科
岩崎 達哉 1年
16 51200121 オオヤ リュウノスケ 農学部森林緑地環境科学科
大矢 龍ノ介 1年
17 51200288 サクライ ユミ 農学部森林緑地環境科学科
櫻井 宥実 1年
18 51200314 シノハラ コウイチ 農学部森林緑地環境科学科
篠原 弘一 1年
19 51200343 タケウチ マユ 農学部森林緑地環境科学科
竹内 万結 1年
20 51200406 ハマスナ モモカ 農学部森林緑地環境科学科
濱砂 桃果 1年
21 51200420 ハルヤマ サヤカ 農学部森林緑地環境科学科
春山 明香 1年
22 51200468 ホンブ ユウカ 農学部森林緑地環境科学科
本部 結夏 1年
23 51200479 マエダ リナ 農学部森林緑地環境科学科
前田 莉菜 1年
24 52190320 トクナガ シュン (農)応用生物
徳永 駿 2年
25 52200234 カワハラ トモ (農)応用生物
川原 朋 1年
26 53200082 カワシマ ナミキ 農学部海洋生物環境学科
川島 愛生 1年
27 53200097 キグチ キョウカ 農学部海洋生物環境学科
木口 京香 1年
28 53200150 ドトウ スズカ 農学部海洋生物環境学科
土塔 涼華 1年
29 53200181 ニシカワ ソウタロウ 農学部海洋生物環境学科
西川 颯太朗 1年
30 53200291 マツシマ サホ 農学部海洋生物環境学科
松嶋 紗穂 1年
31 53200303 ミヤギ ナオカ 農学部海洋生物環境学科
宮城 尚佳 1年
32 54200304 ササキ コトノ 農学部畜産草地科学科
佐々木 琴乃 1年
33 54200313 ササキ ユウト 農学部畜産草地科学科
佐々木 悠斗 1年
34 54200432 トウダ コスズ 農学部畜産草地科学科
当田 香涼 1年
35 54200467 ナカハラ ナナミ 農学部畜産草地科学科
中原 七海 1年
36 54200526 ミヤモト サクヤ 農学部畜産草地科学科
宮本 咲耶 1年
37 55190136 コンドウ ミズホ (農)獣医
近藤 瑞保 2年
38 55200031 イシダ タケル (農)獣医
石田 岳 1年
39 55200077 オ インジ (農)獣医
呉 仁志 1年
40 55200103 カツヤ ナオ (農)獣医
勝冶 奈央 1年
41 55200112 クマガイ リサ (農)獣医
熊谷 りさ 1年
42 55200127 サトウ ノブ (農)獣医
佐藤 暢 1年
43 55200130 ジュウバシ アカリ (農)獣医
重橋 あかり 1年
44 55200141 シラハマ リョウ (農)獣医
白濱 遼 1年
45 55200217 トヨサキ ユウスケ (農)獣医
豊﨑 祐介 1年
46 55200222 ニシオ ユウト (農)獣医
西尾 勇人 1年
47 55200301 マツモト マサト (農)獣医
松本 真和 1年
48 55200325 ヤマウチ ヒカル (農)獣医
山内 光 1年
49 61190409 ナガヤマ オウスケ 工学部環境応用化学科
永山 欧佑 2年
50 61190485 フクモト ケンタ 工学部環境応用化学科
福元 健太 2年
51 61200067 イノウエ マイカ 工学部環境応用化学科
井上 舞香 1年
52 61200128 オノダ イツセイ 工学部環境応用化学科
小野田 一成 1年
53 61200285 ツチヤ シユウト 工学部環境応用化学科
土谷 修史 1年
54 61200340 ナカタ ミサト 工学部環境応用化学科
中田 三智 1年
55 61200465 ヒカリ リヨウタロウ 工学部環境応用化学科
光 遼太朗 1年
56 61200562 ヤノ カイリ 工学部環境応用化学科
矢野 海竜 1年
57 62190033 イソ ユウキ 工学部社会環境システム工学科
磯 祐有樹 2年
58 62190079 カケハシ カズマ 工学部社会環境システム工学科
桟 一馬 2年
59 62190404 ヒグチ コウダイ 工学部社会環境システム工学科
樋口 公大 2年
60 62200228 クラヤマ チホ 工学部社会環境システム工学科
倉山 千穂 1年
61 62200280 ツキアシ メイ 工学部社会環境システム工学科
月足 天衣 1年
62 62200543 ヤマダ シヨウケン 工学部社会環境システム工学科
山田 尚賢 1年
63 63190072 ウオズミ リュウタロウ 工学部環境ロボティクス学科
魚住 龍太郎 2年
64 63190146 キムラ トモカ 工学部環境ロボティクス学科
木村 友佳 2年
65 63200076 ウチダ ユウイチロウ 工学部環境ロボティクス学科
内田 裕一朗 1年
66 63200234 コガ リヨウタ 工学部環境ロボティクス学科
古賀 亮多 1年
67 63200245 スモト ユウタ 工学部環境ロボティクス学科
須本 雄太 1年
68 63200319 ナカシマ リク 工学部環境ロボティクス学科
中島 陸 1年
69 63200324 ニシカワ テル 工学部環境ロボティクス学科
西川 輝 1年
70 63200355 フジノ ユウタロウ 工学部環境ロボティクス学科
藤野 祐太朗 1年
71 63200410 ムラカミ ユウタ 工学部環境ロボティクス学科
村上 裕太 1年
72 63200449 モリミツ ユウマ 工学部環境ロボティクス学科
盛滿 優雅 1年
73 64180340 ナガミネ ダイゴ 工学部機械設計システム工学科
長峯 大護 3年
74 64190024 アライ キイチロウ 工学部機械設計システム工学科
荒井 貴一郎 2年
75 64190123 オゴシ ケイタロウ 工学部機械設計システム工学科
生越 奎太朗 2年
76 64190321 タケダ レン 工学部機械設計システム工学科
竹田 蓮 2年
77 64190334 ツカモト シュンキ 工学部機械設計システム工学科
塚本 駿希 2年
78 64190370 ニシ ユウマ 工学部機械設計システム工学科
西 佑真 2年
79 64190383 ヌキ タツノリ 工学部機械設計システム工学科
貫 辰徳 2年
80 64190408 ハマサキ カイヘイ 工学部機械設計システム工学科
浜崎 海平 2年
81 64190435 フナコシ リヨウタ 工学部機械設計システム工学科
舩越 涼太 2年
82 64190460 マツオ リオ 工学部機械設計システム工学科
松尾 理央 2年
83 64190567 ワタナベ ユウマ 工学部機械設計システム工学科
渡邊 悠馬 2年
84 64200095 オオハシ リヨウタロウ 工学部機械設計システム工学科
大橋 遼太郎 1年
85 64200158 カイ タクミ 工学部機械設計システム工学科
甲斐 拓海 1年
86 64200165 カイ ワタル 工学部機械設計システム工学科
甲斐 渉 1年
87 64200222 カミヤ ヒョウ 工学部機械設計システム工学科
神谷 彪 1年
88 64200260 コウ ケイイチロウ 工学部機械設計システム工学科
高 敬一郎 1年
89 64200356 ニシダ ツバサ 工学部機械設計システム工学科
西田 大翼 1年
90 65160230 セキヤ ブンタ 工学部電子物理工学科
関谷 文太 4年
91 65180380 ハヤシダ コウヘイ 工学部電子物理工学科
林田 滉平 3年
92 65190502 ムラカミ タツヤ 工学部電子物理工学科
村上 達也 2年
93 65200010 イワシタ タイセイ 工学部電子物理工学科
岩下 大晟 1年
94 65200038 ウラノ ショウタ 工学部電子物理工学科
浦野 翔大 1年
95 65200063 オオクボ アツヒロ 工学部電子物理工学科
大久保 敦広 1年
96 65200137 カドヤ コウスケ 工学部電子物理工学科
角谷 昂亮 1年
97 65200162 キヨタケ リクウ 工学部電子物理工学科
清武 陸空 1年
98 65200186 クロギ アヤミ 工学部電子物理工学科
黒木 彩心 1年
99 65200205 コジマ シユンスケ 工学部電子物理工学科
児島 俊介 1年
100 65200346 ツダ モモハ 工学部電子物理工学科
津田 桃華 1年
101 65200353 ナカジマ カイヤ 工学部電子物理工学科
中島 魁耶 1年
102 65200371 ナガタ ジユンペイ 工学部電子物理工学科
永田 惇平 1年
103 65200506 ヤマモト コウヘイ 工学部電子物理工学科
山元 康平 1年
104 66190031 アラカキ ユウト 工学部電気システム工学科
新垣 裕都 2年
105 66190059 イケハタ ユタカ 工学部電気システム工学科
池畑 勇威 2年
106 66190127 オオタニ ソラ 工学部電気システム工学科
大谷 宙 2年
107 66190194 キダ ゲンキ 工学部電気システム工学科
木田 元気 2年
108 66200084 カジタニ レイ 工学部電気システム工学科
梶谷 伶 1年
109 66200099 カヤシマ ヨシヒロ 工学部電気システム工学科
茅嶋 義博 1年
110 66200134 シイハラ ヨウ 工学部電気システム工学科
椎原 陽 1年
111 66200239 ナガノ リユウマ 工学部電気システム工学科
永野 流磨 1年
112 66200406 マツモト ユウヤ 工学部電気システム工学科
松本 佑哉 1年
113 66200468 ヤマグチ ケンシロウ 工学部電気システム工学科
山口 謙志朗 1年
114 66200479 ヤマグチ ヒロト 工学部電気システム工学科
山口 寛人 1年
115 66200482 ヤマダ タイガ 工学部電気システム工学科
山田 大雅 1年
116 67190113 カワムラ コウキ 工学部情報システム工学科
河村 航希 2年
117 67190128 キサカ リヨウタ 工学部情報システム工学科
喜坂 僚太 2年
118 67190166 サイトウ コウキ 工学部情報システム工学科
斉藤 功樹 2年
119 67190261 タニアイ コウセイ 工学部情報システム工学科
谷合 晃誠 2年
120 67200146 オシカワ リヨウ 工学部情報システム工学科
押川 陵 1年
121 67200315 タカサキ クウガ 工学部情報システム工学科
高崎 球宇我 1年
122 67200379 ナガイ マミ 工学部情報システム工学科
永井 真美 1年
123 67200434 ホマン コウダイ 工学部情報システム工学科
穂満 晃大 1年
124 67200470 ヤノ コウセイ 工学部情報システム工学科
矢野 晃成 1年
125 67200483 ヤベ ミズノ 工学部情報システム工学科
矢部 瑞乃 1年
126 67200513 ヤマモト ユウヤ 工学部情報システム工学科
山本 裕也 1年
127 67200542 ワタナベ ケイスケ 工学部情報システム工学科
渡部 敬恭 1年

英語 Ta2(8)

11月24日(火)3-4(10:30:-12:00)7回目でした。

<今日>

①エボラとコンゴのまとめを英語で。内容は前回書いたブログを見ながら英語で。↓

奴隷貿易で蓄積された資本で産業革命(Industrial Revolution by capital accumulated through the slave trade)→ヨーロッパの産業化(Industrialization in Europe)→植民地争奪戦(Scramble for Africa)→世界大戦の回避のためにベルリン会議・植民地分割(Berlin Conference and the Division of Africa to avoid world wars)→二度の世界大戦(two world wars)→第三世界の独立(Independence of the Third World)→最初は押さえ込みにかかるも戦略を変更(Strategic change from suppressing colonies at first)、独立の過程を邪魔して後に軍事政権を樹立して間接支配(At first interrupting the independence process, later setting up and controlling military puppet regime)、この過程にアメリカが介入(American interfering with this process )、今日話をした辺りについては、書いてまとめたのがあります。配れなかった資料を末尾に添付しときます。エボラとコンゴをやった今なら読めばわかると思うけど。→Zaire’s turmoil(英語と日本語訳、長~いけどね)

②映像:コンゴの独立・コンゴ危機→ベルリン会議・植民地分割・強制労働・ヨーロッパ世論・アンゴラの綿花栽培→ウガンダの水→エチオピアの旱魃・飢餓(BBCも)ウガンダの水に関連してガーナの初代首相エンクルマの伝記『アフリカは統一する』で書かれている田舎の水の話→エンクルマの伝記(日本語とリンク)

クワメ・エンクルマ(小島けい画)

<次回は>

①映像:単一作物を押しつけられたガーナのローリングスとタンザニアのニエレレの言い分

 

ニエレレ

②映像:ライブエイドの音楽

③トーイックPart 1(残り)、Part 5 (Reading)→Zoomトーイック3_R_P5解説_文法.zipを置いてるんで自分で予めやって来るとわかりやすいと思います。問題は資料①の中にもあるよ。

④時間があれば、アフリカの曲とアフリカシリーズ冒頭

来週、また。

Zaire’s turmoil

Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage (『アフリカ、その末裔たち 2  新植民地時代』)written by Tamada Yoshiyuki Edited by William Nikolai (Yokohama: Mondo Books, 1998)

Chapter 3  Contemporary issues:  第3章  今日的諸問題

Zaire’s turmoil 2 ザイールの苦難

The 1995 Ebola virus outbreak put Zaire into the world spotlight again. Reuters reported from Kinshasa (May 16, 1995):

1995年のエボラウイルスの発生によって、再び世界中がザイールに目を向けるようになりました。1995年5月16日、キンシャサからロイター通信が報じています。

The Ebola virus outbreak in Zaire has refocused attention on the vast nation of 40 million people in the heart of Africa that has lurched from one crisis to another since independence from Belgium in 1963 (sic).

The virus, for which there is no known cure or vaccine, has killed at least 64 people.

Many Zaireans are openly angry at the government of President Mobutu Sese Seko, who has ruled unchallenged for most of the past 30 years and, according to critics, salted a way a personal fortune estimated in billions of dollars.

ザイールでエボラウイルスが発生したために、1963年(原文のまま)のベルギーからの独立以来次々と起こる危機に揺れ動くアフリカの中心部にある四千万人の広大な国に再び世界の注意が向けられました。

治療法もワクチンも知られていないため、そのウイルスによって少なくとも64人の死者が出ました。多くのザイール人がモブツ・セセ・セコ大統領の政府に公然と腹を立てています。批評家によると彼は、過去30年間(の大半を、誰の挑戦も受けずに継続的に支配し、推計で数十億ドルもの個人の資産を貯め込んだと言われています。

Two years later in May, 1997, Mobutu fled Kinshasa to Morocco and Laurent   Kabila and his rebels proclaimed victory in a seven-month civil war. The victory was cheered by Zaireans tired of the corruption and economic stagnation, and internationally accepted. Kabila renamed Zaire the Democratic Republic of the Congo and began to take office as head of the state, promising to hold elections in April 1999 and to bury the legacy of ousted Mobutu Sese Seko.

2年後の1997年5月に、モブツはキンシャサを追われ、モロッコへ逃亡しました。ローラン・カビラとカビラを支持する反体制勢力は7ヶ月の内戦における勝利を宣言しました。勝利は、腐敗や経済不況にうんざりしていたザイール人に歓迎され、国際的にも受け入れられました。カビラはザイールをコンゴ民主主義共和国と改名し、国の首長として指揮をとり始め、1999年4月に選挙を実施し、排除したモブツ・セセ・セコの負の遺産を葬り去ることを約束しました。

Joseph-Desire Mobutu was born as the son of a hotel cook and grew up in a poor village on the northernmost stretch of the River Congo. He belonged to a minority ethnic group. After a mission school education, he was by turns a soldier and a journalist and worked for a while in Belgium. As independence approached, he approached the colonialists. In June 1960, he became a government minister under Patrice Lumumba. Within months of independence he was at the forefront of an army coup and soon became commander-in-chief.

ジョセフ・デザイヤー・モブツはホテルの料理人の息子として生まれて、コンゴ川流域の最北の貧しい村で育ちました。彼は少数民族に属していました。ミッションスクールを出た後、兵士やジャーナリストをやり、しばらくの間はベルギーで働きました。独立が近づくにつれ、彼は植民地主義者に接近しました。1960年6月に、彼はパトリス・ルムンバの下で政府の閣僚の一人になりました。独立して数ヶ月以内に、彼は軍隊のクーデターの最前線にいて、間もなく最高司令官になりました。

The CIA plotted with Mobutu to eliminate Lumumba, whom Washington misread as pro-Soviet, giving Mobutu $1 million to buy the loyalty of his troops. Lumumba was deposed in August, 1960 and killed by soldiers six months later.

CIAとモブツは、ワシントンがルムンバを親ソ連派だと読み間違えたのですが、ルムンバの失脚を画策し、モブツに100万ドルを渡してモブツ軍を買収しました。ルムンバは1960年8月に退位させられ、その66ヵ月後に兵士によって殺されました。

After U.N. peacekeepers left in 1964, rebels set up an alternative government and soon controlled two-third of the country. Mobutu expelled, imprisoned, and executed his political opponents and rivals, then the U.S. endorsed his 1965 coup. He ended civilian rule and started a nearly 32-year reign over the country with more than 250 ethnic groups scattered over an area equivalent to most of Western Europe.

1964年、国連の平和維持部隊が去った後、反体制派は暫定政府を設立し、すぐに国の3分の2を支配しました。モブツは政敵やライバルを追放し、投獄し、処刑しました。その後、アメリカは1965年のクーデターを支援しました。民政を終わらせ、ほぼ西ヨーロッパと同じ広さに散らばる250を超える民族集団を持つこの国のほぼ32年間にわたる支配を始めました。

He declared his Popular Revolutionary Movement the sole legal party in 1967 and went on to remake the country. He called it Zaire and renamed Josef-Desire into Mobutu Sese Seko Kuku Ngebendu wa za Banga, “the all-powerful warrior who because of his endurance and inflexible will to win  sweeps from conquest leaving fire in his wake.”He was routinely elected by 98 per cent of the country and his critics were either bribed, driven abroad or imprisoned. He enforced his rule with imprisonment, torture and murder.

モブツは1967年に、自身の国民革命運動が唯一の合法的な党であると宣言し、国の再建を続けました。モブツは国をザイールと呼び、ジョセフ・ディザイヤーを、モブツ・セセ・セコ・クク・ゲ・ベンドゥ・ワ・ザ・ベンガ、「忍耐と勝利への不屈の意志故に、征服地を颯爽と突き進み、通り過ぎた跡に火を残して行く全知全能の戦士」と改名しました。国民の98%から慣例的に選ばれ、批判する者は買収されるか、国外に追放されるか、投獄されました。投獄と拷問と殺人を武器に支配を強行しました。

Little or nothing was spent on maintaining ports, roads, railways, riverboats, schools, hospitals and mines while millions of dollars were spent  transforming his native village into a city. Today the roads in much of the country are so inadequate that the simplest journey can take days.

彼の生まれた村を都市に変えるために数百万ドルが費やされましたが、港、道路、鉄道、汽船、学校、病院および鉱山を維持するためにはほとんど何も費やされませんでした。今日、国のほとんどの道路はひどい状態なので、簡単な旅をするのにも日にちがかかります。

We are taught how most Zaireans were forced to suffer under Mobutu’s regime by a memoir by an American who applied to become a Peace Corps volunteer in 1984 and spent two years in rural Zaire. His article in the Washington Post, included in the Daily Yomiuri (June 6, 1997) shows us his nightmarish experience in the country:

私たちはほとんどのザイール人がモブツ政権下でどのように苦しみを強いられたかを、1984年に海外協力隊に応募して、二年間ザイールの田舎で過ごしたアメリカ人の伝記によって知ることが出来ます。[デイリー・ヨミウリ(1997年6月6日)]に載ったワシントンポストの記事は、その国での悪夢のような体験が記されています。

For two years I was a volunteer in the Kasai region of central Zaire, amid mud huts and barefoot people and poverty as heartbreaking as any on the planet…

二年間、私はザイール中部のカサイ地区でヴォランティアをしました、この地球上の他のどの地域よりも痛ましい、土の小屋と裸足と貧困のまっただ中で・・・

I saw with my own eyes, in the late 20th century, people forced into slavery at gunpoint, compelled to grow cotton to fill the coffers of now deposed dictator Mobutu Sese Seko….

20世紀の後半に、人々が銃に脅されて奴隷のように、綿摘みを強要され、今は失脚しているモブツ・セセ・セコの金庫を一杯にするのを、私はこの目で見ました。

My job in Zaire was to help children stricken by protein deprivation…. I built village fish ponds, bringing supplemental nutrition to rural communities so poor that a single aspirin taxed family budgets. But my work was purely symbolic. The poverty was too profound, too widespread, too deep-and the American aid dismissively small. I helped a few individual families….

ザイールでの私の仕事はたんぱく質の欠如によって病気にかかった子供たちを助けることでした。・・・村の養魚池を作って、田舎の地域に栄養補給をすることでしたが、田舎の地域は貧しくてアスピリンの一錠が家計を圧迫する惨状でした。しかし、私の仕事はまったく象徴的なものでした。貧困はあまりにも深く、広範で深刻すぎました。そしてアメリカの援助はあまりにも小さすぎました。私はそれぞれ何軒かの家族の手助けをしました。

God (or his absence) is in the details. Details like the sobbing faces of village people who came to my house looking for help with their rotting teeth. Even by African standards, medical care in Zaire has been appallingly bad, almost nonexistent. Medicines donated by the United States and other Western countries were routinely hijacked by Mobutu’s forces and resold on the black market at prohibitive prices. Even when aid reached targeted groups there were no guarantees. I once saw an overweighed Zairean soldier – clad in a mismatch of French and American military clothing – take a cup of UNICEF rehydration formula from the hand of a girl suffering from diarrhea and drink it himself….

神(あるいは神の不在)は細部に潜んでいます。腐りかけの歯を何とかしてもらうために私の家に来た村の人々の泣きじゃくる顔のような細部にです。アフリカの基準から言っても、ザイールの医療は驚くほど酷く、ほとんど存在しません。アメリカや他の西側諸国によって寄贈された薬は、モブツ軍によって慣例的に強奪され、法外な価格で闇市場に転売されました。目的の場所に援助物資が届いた時でさえ、保証はありませんでした。私は、以前不釣り合いなフランスとアメリカの軍服を着た兵士が、ユニセフが配給した粉ミルクを溶いてこしらえた飲み物を下痢で苦しむ少女の手から取り上げて、自分で飲んでしまう光景を目の当たりにしました。

In my tiny village, when people were ill, I gave what little I had: aspirin, malaria pills, bandages. And when they came with aching teeth, I gave them what they asked for: gasoline. I’d pour a half-inch shot from my motorcycle carburetor and then watch the 70-year-old woman or 15-year-old boy put the gas to their lips, pour it in and swish it around. By the grim standards of Zaire, this constituted dentistry. A little gas this way, according to the locals, helped kill the infection and reduce the pain. The idea repulsed me, but people kept coming and coming to me -some walking tens of miles, crying, begging, mouths swollen. So I became a tooth doctor. It was better than nothing, I suppose….

私のいた小さな村で、人々が病気になった時、私は持っていたアスピリン、マラリア用の錠剤、包帯などどんな僅かなものでも与えました。また、村人たちが歯痛のため私の所へ来た時には、求められたガソリンをその人たちに与えました。私は、オートバイのキャブレターから半インチのガソリンを注ぎました、そして70歳の女性と15歳の男の子がガソリンを唇にたらし、そのガソリンを口に含んで、シュシュと音を立てるのを見ました。ザイールの容赦のない基準では、これが歯の治療だったのです。地元の人々によると、このように使う僅かなガソリンは感染を防ぎ、痛みを和らげる手助けをするということでした。私はその考えに拒絶反応を見せました。しかし、人々は私の所へ来続けました。口を腫らして、泣きながら、頼むから何とかしてくれと言って、数十マイルも歩いてくる人もいました。だから私は歯医者になりました。何もないよりはいいと思ったのです。

In central Zaire where I lived, it was particularly important for villagers to stay healthy so they could meet the government’s demand for conscripted labor. Every adult male, already struggling to cultivate enough food for his family, was required to plant roughly half an acre of cotton and sell it to the government. Those who wouldn’t or couldn’t plant cotton risked severe fines and savage rifle-butt beatings from soldiers sent out to enforce the rules. It was a system transplanted wholesale from the Belgian colonial days. A Mobutu-controlled monopoly set cotton prices at artificially low levels, then routinely rigged the scales at purchase time to cheat villagers again. I know all this, because in my village the cotton sales were held in my front yard. I watched it all including the myriad beatings, from my doorstep…

私が住んでいたザイール中部では、政府が求める強制労働の要求を満たせるように、村人は健康でいることが特に重要でした。家族の十分な食料を得るために耕すの為に既に充分苦労していたすべての成人男性は、綿をおよそ半エーカー植え、その綿を政府に売るように要求されました。綿を植えない人、または植えられない人々には厳しい罰金や、凶暴なライフル銃の銃身で規則を守らせるために派遣された兵士から鞭打ちの刑を受ける危険がありました。それはベルギーによる植民地時代からそっくり受け継がれた体制だったのです。モブツは独占的に綿の価格を不自然なまでに低い基準に規制し、買い取る際にいつものように目盛りをわざと不正に操作し、村人を再び騙しました。私の村で、綿販売は私の前庭で行われていましたので、ことの子細をすべて知っています。私は無数の鞭打ちを含め、すべてを戸口から見たのです。

All this was made possible by U.S. and European support. In 1977, 1978 and 1984, the United States and France, directly or indirectly, helped rescue Mobutu’s regime from reformist uprisings similar to the one that finally toppled his government. Throughout the 1980s, the United States continued to provide military and economic support to the Mobutu regime, despite solid reports of corruption and gross human rights abuses. Mobutu made the best use of the Cold War, and extracted the maximum of aid from the neo-colonialists. In exchange he kept the Russians and the Cubans out, maintained a certain stability in his domain and produced minerals for the factories of the West.

これはすべてアメリカとヨーロッパの支援によって可能になりました。1977年、1978年および1984年にはアメリカおよびフランスが直接あるいは間接的に、最後にモブツ政府を倒した人たちに似た改革派による暴動からモブツ政権を救う手助けをしました。1980年代の間じゅう、アメリカは、腐敗や夥しい人権侵害についての信頼し得る報告書を入手していたにもかかわらず、モブツの政権に軍事援助と経済援助をし続けました。モブツは冷戦を最大限に利用し、新植民地主義者から最大の援助を引き出しました。見返りとして、モブツは、ロシア人とキューバ人を中に入れず、領土内の安定をしっかりと維持し、西洋の工場向けの鉱物を生産しました。

At the end of the Cold War his personal fortune and national debt reached $6 billion.

冷戦の終わりには、モブツの個人資産と国債が共に60億ドルに達しました。

As foreign pressure grew to stamp out corruption and human rights abuses, his grip on internal politics weakened. He bowed to foreign and domestic pressure for democratic reform in 1990. The 1994 Rwanda genocide, however, gave him a new lease of life, for the West needed him once again. On October 18, 1996, a revolt broke out in the eastern region. The Rwandan-backed rebels led by Kabila and the Alliance of Democratic Forces for the Liberation of Congo-Zaire routed Zaire’s poorly trained and demoralized army, capturing the major eastern border towns of Goma and Bulavu.

外圧によって腐敗や人権侵害が閉め出されるようになるにつれて、国内政治への支配力は弱まりました。モブツは1990年に民主主義的な改革にむけての内外の圧力に屈服しました。しかしながら、1994年のルワンダの大量虐殺でモブツはまた生き延びました。というのも、西洋がモブツをもう一度必要としたからです。1996年10月18日に反乱は東部地域で発生しました。カビラに導かれたルワンダ人の支持する反乱軍、およびコンゴ・ザイール解放民主勢力連合は、あまり訓練されずに士気のあがらないザイール軍を敗走させ、ゴマとブラブなど、東部の境界周辺の主要な町を占領しました。

Bill Clinton conveyed to Mobutu what Ronald Regan made clear to Ferdinand Marcos in the Philippines in 1986 – that there should be a peaceful transition to a new government. On May 17 rebel forces marched into the capital, and two days later Kabila swore the oath as the president of the Democratic Republic of Congo. In an address to the nation, he made clear he would bring democratic change to former Zaire.

ビル・クリントンはモブツに、ロナルド・レーガンが1986年にフィリピンでフェルディナンド・マルコスに明言したこと、つまり武力を行使しない形で平和裡に政権移譲を行なうべきだと伝えました。5月17日、反体制軍は首都に行進し、2日後に、カビラはコンゴ民主共和国の大統領として宣誓しました。国民への演説の中で、カビラははっきりと以前のザイールに民主主義な変化をもたらすと言いました。

Laurent Kabila, 56, somehow escaped death in murderous years of Mobutu’s rule, and vanished into the forests of the province of Kivu and its confines along the Rift Valley and its lakes; the few who went to look for him had little to tell. He had been involved in minor rebellions in Zaire since the 1960s, and longed to unseat Mobutu. In the current rebellion, he served first as a spokesman for the rebels, then was pushed to the front as their leader in October, 1996, perhaps because as a member of Zaire’s Luba people, he would appear to be a neutral party in Hutu-Tutsi conflicts. Now he is present again, and this time as the man to steer the vast country into peaceful waters. It is said that he sometimes said he would be president, but only for a short time and only if the people want him.

ローラン・カビラ(56歳)は、モブツの支配した残酷な時代に、辛うじて死をまぬがれ、キブ州とリフト渓谷沿いの境界線地区と湖畔地区の深い森の中に逃げ込みました。カビラを探した人もいましたが、その人たちからは何の情報も聞かれませんでした。カビラは1960年代からずっと小規模な反乱に参加しており、モブツの追放を切望していました。今回の反乱で初めて反体制の代表者を務め、1996年10月に、その人たちの指導者として前面に推されました。それはカビラがザイールのルバ人の一員として、フツ人とツチ人の間の紛争で、恐らく中立の立場にいる人に見えたからでしょう。今、カビラは再び姿を現わしました。そして、今回はこの広大な国を平和な流れに導く舵取りとして出現したのです。カビラは「人々が自分を求め、短期間である場合に限り、大統領になる」と言うこともあったと報じられています。

Kabila was internationally recognized, but many critics raise the questions of his leadership because of his own weak political base. Some observers think he still has no strategy for the future of Zaire. The United States and some Europeans have been demanding early elections. Julius Nyerere, former president of Tanzania, raises his strong opposition against this attitude (“Pushing Kabila on early election unrealistic" Cf. Chapter One, Section 5):

カビラは国際的に認められていますが、その弱い政治基盤のために、指導力に問題があると批評する人もたくさんいます。まだザイールの将来に対する戦略を持っていないのではないかと考える批評家もいます。アメリカとヨーロッパ諸国は、早期の選挙を要求しています。タンザニアの元大統領ジュリアス・ニエーレレは、早急に選挙をするように圧力をかけることに対して、強く反対しています。(「カビラに早期選挙を強いるのは非現実的」第1章の(5)を参照)

This demand for elections is wrong. People who want to see a democratic process in Zaire should not push Kabila. The country has been devastated and must be built up again from scratch. He has to start over completely. This will take time, just as it has taken time for President Musenveni of neighboring Uganda to recover all these years later from the ruinous legacy of Idi Amin.

この早期選挙の要求は間違っています。民主主義への推移を望むザイールの人々はカビラに無理強いをすべきではありません。国は荒廃し続けており、零から国を再建しなければなりません。つまり、カビラは完全にやり直さなければならないのです。これには、隣国ウガンダのムセンヴェ二大統領が、イディ・アミンが残した壊滅状態から回復するために長い年月を要したように、かなりの時間がかかるでしょう。

Musenveni, who has yet to hold elections after several years in power, may not be a bad example for Kabila. Musenveni has said that 'priority number one’ for Uganda is rehabilitating the country, not multiparty democracy. If Kabila were to say the same thing, I for one would support him. . . .

数年の間政権にいたのちに、選挙をする予定のムセンヴェ二も、カビラにとって悪い手本ではないかもしれません。ムセンヴェニは、ウガンダのために一番に優先すべきは複数政党制の民主主義ではなく、国を修復することであると言いました。もしカビラが同じようなことを言うなら、少なくとも私自身はカビラを支援したいと思います。

If early elections are held, as the United States wants, the parties with money, the parties of Mobutism, will win. So we should forget this nonsense.

もしアメリカが望むように早急な選挙が行われたなら、財力のある党や、モブツを支持する組織が勝つでしょう。だから、私たちは早期選挙などと言う愚挙は考えない方がいいのです。

All of us now in the region are interested in human rights and accountability. None of us, however, naively believe that unprepared elections will somehow accomplish this.

現在、この辺りでは誰もが、人権と説明責任に関心があります。しかしながら、周到な準備もしないで選挙をして、ことが達成すると単純に信じている者などはいません。

He criticized neo-colonial policies which have supported Mobutu:

ニエーレレはモブツを支えてきた新植民地主義政治を批判しています。

Frankly, the United States and Europe should have a little humility. They are not morally qualified to demand of Kabila that he hold elections within months when, for 35 years, they coddled and protected that despot in a tiger-skin cap. Without them, Mobutu would have gone long ago. He was virtually finished politically by 1994, when certain European powers revived him once again for the purpose of protecting their interests in the Great Lakes area, particularly after the Hutus were driven from power in Rwanda.

率直に言えば、アメリカとヨーロッパ諸国は少しは恥というものを知るべきでしょう。過去35年間も虎皮の帽子を被った暴君を甘やかし、支え続けた奴らに、数ヶ月以内に選挙をしろとカビラに要求する道義上の資格などありません。奴らがいなければ、モブツはとっくにいなくなっていたでしょうから。カビラは実質的には1994年までに、政治的には終わっていましたが、特にフツ人がルワンダの政権から追われた後、あるヨーロッパ勢力がタンガニーカ湖周辺の利益を保護する目的で、再びモブツを復活させました。

He adds some advice, both to Kabila and to us:

ニエーレレは、カビラと私たちにいくつかの助言をしています。

If we want to help, we should assist Kabila in establishing basic political structures in the country, including a transitional government and a new constitution, before even thinking about elections.

もし私たちが援助したいなら、選挙について考える前に、暫定政府と新憲  法を含む国の基本的な政治構造を設立していく中でカビラを援助するべきです。

To start with, Kabila has to organize his own political base. What has happened? He has not so much organized a take-over of power as he has been sucked into a power vacuum. He can’t just suddenly have elections. His own group has no money, but others have money, including the scores of political parties already in existence, all of which were organized and funded by Mobutu. . . .

まず第一に、カビラは彼独自の政治基盤を形成しなければなりません。事態はどうなっているのか。権力構造の真空状態に吸い込まれてしまっているので、カビラは組織としての権力の引き継ぎをうまく行なっていません。ですから、早急な選挙は出来ないのです。自分たちの取り巻きに金はありませんが、金のあるグループもありません。既存の多数の政党も含め、そのすべてはモブツが組織し、資金を出したのです。

Basil Davidson regards Zaire’s current turmoil as an invitation to an African solution. He points out that the Belgian colonial power dispossessed the peoples not only of their land and its wealth, but also of their self-esteem and self-responsibility; all power of decision passed into European hands. This dispossession brought disaster. The decolonization of 1960 was supposed to reverse this dispossession, but what happened was that dictatorial structures of government passed into the hands of local agents of foreign interests. This independence was a fake. Over the past ten years or so, widely in Africa, we have seen the rise of a real opposition to this fake independence. This indicates a movement for genuine democracy, i.e., a shift away from centralized government and bureaucracy in favor of local and direct forms of self-administration. Davidson regards Zaire’s case as an example:

バズル・デビッドソンはザイールの今の混乱を、アフリカの問題解決へつながるものとみなしています。デビッドソンはベルギーの植民地勢力がその土地の人々を追い出し、その富を奪うだけでなく、自尊心と自己責任なども侵害したと指摘しています。すなわち、すべての意思決定の力がヨーロッパ人の手に渡ってしまったのです。この意思決定の剥奪が大惨事をもたらすことになりました。1960年の独立で、この意思決定の剥奪を取り戻す予定でしたが、政府の支配構造が外国の利益を優先するアフリカ人職員の手に渡っただけでした。独立はまやかしだったのです。過去10年か10数年の間、アフリカの広い地域で、このまやかしの独立に対する本当の反対運動が沸き起こるのを見てきました。これは本当の民主主義を求める運動、つまり、地方自治と直接的な形態の自治のための中央政府と官僚からの権力移行です。デビッドソンは、ザイールの事例がよい見本だと見ています。

Kabila is good news for African self-respect, even very good news. This may seem a far-out view, but it is based on two strong probabilities. One is that no external major power has anything to gain, in this region, from another long bout of uproar and mayhem. The brutal frenzies of the Cold War are over and done with. The other probability is that this country called Zaire no longer exists as a safe source of plunder. The many and various peoples of Zaire, in short, may at last be within sight of being able to govern themselves for their own benefit. The wasted years that began in these parts a century ago and more may be approaching their end. . . .

カビラはアフリカ人の自尊心にとってという点ではよい知らせで、本当に とてもいい知らせです。奇抜な観方かも知れませんが、その観方は二つの強い見込みに基づいています。一つは、外部の主要な勢力ももはや、また別の騒乱と荒廃を経たのちにこの地域で得られるものがもはや何もないということです。冷戦の残酷な狂乱は過ぎ去り、すべての処置も終わりました。もう一つの見込みは、ザイールと呼ばれるこの国はもはや安全な搾取源として存在していないということです。つまり、ザイールの多くの人々は、ついに自分たちの利益を自分自身で管理することが出来るかもしれないという可能性が見えてきたのです。一世紀前、それよりも数十年前にこの地で始まった無益な歳月は、終わりに近づいているのかもしれないのです。

Davidson’s view is optimistic and he notes that this movement toward local and effective democracy has already begun to show impressive results, such as in Eritrea. He concludes:

デビッドソンの見解は楽天的で、地方重視の、効率的な民主主義に向けた運動が、すでにエリトリアで見られるように印象的な結果を示し始めていると言っています。そして以下のような結論を出しています。

. . .We can look for more evidence of this kind if a Kabila government proves competent in Zaire .

カビラの政府がザイールで仕事が出来るかどうかの証拠をもっと見つけるのは可能です。

The problem in Zaire may, in practice, prove less tough than it must seem. If so, it will be because the sheer incompetence and outrageous corruption of the Mobutu dictatorship have left long-abandoned populations to run their own affairs as best they can. Who, after all, has been running the affairs of the wide province of Kivu – unless local people themselves – during all the years when Kabila had his refuge there? (“Zaire’s Turmoil Invites an African Solution," Cf. Chapter One, Section 5)

実際上、ザイールの問題は見かけより厄介でないとわかるかも知れません。そうであるとしたら、それはモブツ独裁制のひどい堕落と全くの不適格さ故に、長い間見捨てられた人々が出来る限り自分たちのことは自分たちでやれる体制が許されてきたからでしょう。結局、もし、カビラが逃げ延びていた間じゅう、地方の人々が自分たちのことを自分たちでやっていなければ、一体誰が、広大なキブ州の切り盛りをやってきたと言うのでしょうか。(「ザイールの艱難、アフリカ的解決に誘(いざな)う」。第1章の(5)を参照)

Kabila’s success might bring hope for bigger social change and wider economic cooperation, for Zaire, which borders nine countries, created a great economic hole under Mobutu’s rule. A functioning Congo could provide a central infrastructure for business in a large portion of sub-Saharan Africa. The country’s railways and roads could be crucial links between Kinshasa and Cape Town, Maputo and Luanda, Nairobi and Brazzaville, between economic centers north and south, east and west. If Congo’s minerals, which range from diamonds to copper, could be mined efficiently again, the country could grow rich. As Nyerere points out, “If under Kabila, the thinking in what he calls the Democratic Republic of the Congo becomes as integrative as its geography, bringing all the potential wealth to bear – it could be the leader with South Africa of what (South African Deputy President) Thabo Mbeki calls 'the African renaissance."'

カビラが成功すれば、より大きな社会変化とより広範囲の経済協力に希望を見いだせるかもしれません。というのも、九つの国と境を接するザイールは、モブツ支配の下で巨大な経済的の空洞をつくり出していたからです。コンゴが機能的に働けば、サハラ以南のアフリカの大部分のビジネスのための中心となるインフランストラクチュア(基幹施設)が供給される可能性があります。また、国を横断する鉄道と道路が出来れば、キンシャサとケープタウン、マプートとルアンダ、ナイロビとブラザヴィルといった東西、南北の経済の中心地間を結ぶ決定的な交易網になり得ます。もし、ダイヤモンドから銅まであるコンゴの鉱物資源を再びうまく採掘できれば、国が豊かになる可能性もあります。ニエーレレが指摘するように「もしカビラの下で、カビラの言うコンゴ民主共和国での理想が、地理的な面だけでなく、あらゆる面で統合が可能であり、潜在的な富を現実の富に変えることが出来るのであれば、タボ・ムベキ(南アフリカ大統領代行)が『アフリカ・ルネッサンス』を提唱する南アフリカとともに、新生コンゴは指導的役割を果たす国になり得ると思います。」

エンクルマの伝記

イギリスの植民地政府庁がわが国を統治していた全期間に、農村の水の開発がまともにおこなわれたことはほとんどなかった。これがなにを意味するかを、栓をひねるだけで良質の飲料水がえられるのを当然とみなしている読者に伝えるのは、容易ではない。(中略)暑い湿気のある畑でつらい一日の仕事をおえると、男や女は村に帰り、それから、手おけか水がめをもって二時間ものあいだ、とぼとぼと歩いて行かなければならなかった。行きついたところで、沼とほとんど変わらないようなところからでも、塩気のある、ばい菌だらけの水を、そのおけやかめにくめたら、幸運なのだ。それから長い道のりをもどる。洗ったり飲んだりする水、たいていは病気のもとになる水の、とるにたりないほどの量をえるのに、一日に4時間!

国じゅうのほとんどが、ほんとうにこのような状態だったのだ。

前後は→「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」第55号26-32頁
クラス名簿(Zoomではある方がよさそうやから、学生支援課でもらったファイルからコピーしたよ。)

2020年後期 クラス名簿(48名)(2020年10月6日現在)

61200043 イケムラ ヒロト 工学部環境応用化学科
池村 広飛 1年
61200254 ソネ ケンセイ 工学部環境応用化学科
曽根 健聖 1年
61200375 ニシムラ ハルヒ 工学部環境応用化学科
西村 春陽 1年
61200430 ハマカワ コウヘイ 工学部環境応用化学科
濱川 光平 1年
61200441 ハヤシダ カズヤ 工学部環境応用化学科
林田 和也 1年
61200476 ヒダカ ユウセイ 工学部環境応用化学科
日高 祐誠 1年
62180110 カワノ シヨウヤ 工学部社会環境システム工学科
河野 匠哉 3年
62200062 イワモト ソウマ 工学部社会環境システム工学科
岩本 颯真 1年
62200109 オオツカ コウキ 工学部社会環境システム工学科
大塚 恒輝 1年
62200213 クラヅメ トシナリ 工学部社会環境システム工学科
倉爪 駿成 1年
62200259 サトウ リヨウセイ 工学部社会環境システム工学科
佐藤 瞭成 1年
62200471 ミヤジ ユウト 工学部社会環境システム工学科
宮地 優人 1年
63200027 イイヤマ タカト 工学部環境ロボティクス学科
飯山 貴冬 1年
63200030 イガラシ レン 工学部環境ロボティクス学科
五十嵐 廉 1年
63200319 ナカシマ リク 工学部環境ロボティクス学科
中島 陸 1年
63200373 ホリタ ヒデオミ 工学部環境ロボティクス学科
堀田 英臣 1年
63200401 ミヤ ヨシエ 工学部環境ロボティクス学科
宮 佳恵 1年
63200425 モタニ ケンタ 工学部環境ロボティクス学科
茂谷 健汰 1年
63200508 ワタナベ タクヤ 工学部環境ロボティクス学科
渡辺 拓哉 1年
64200222 カミヤ ヒョウ 工学部機械設計システム工学科
神谷 彪 1年
64200271 ソノダ コウダイ 工学部機械設計システム工学科
園田 高大 1年
64200299 タカハシ コウジ 工学部機械設計システム工学科
高橋 輝至 1年
64200356 ニシダ ツバサ 工学部機械設計システム工学科
西田 大翼 1年
64200387 ハヤシ ジユンヤ 工学部機械設計システム工学科
林 隼矢 1年
64200518 ヤガサキ リユウヘイ 工学部機械設計システム工学科
矢ケ崎 龍平 1年
64200523 ヤマガ トモヤ 工学部機械設計システム工学科
山鹿 友也 1年
65160180 サイトウ タイチ 工学部電子物理工学科
齊藤 太一 4年
65200186 クロギ アヤミ 工学部電子物理工学科
黒木 彩心 1年
65200371 ナガタ ジユンペイ 工学部電子物理工学科
永田 惇平 1年
65200384 ナカタケ キヨウタ 工学部電子物理工学科
中武 杏太 1年
65200409 ハシグチ リト 工学部電子物理工学科
橋口 理斗 1年
65200418 ヒグチ レン 工学部電子物理工学科
樋口 蓮 1年
66190222 キリハラ ヒロキ 工学部電気システム工学科
桐原 拓希 2年
66190253 クリタ ワタル 工学部電気システム工学科
栗田 亘 2年
66200060 オゼキ タイセイ 工学部電気システム工学科
尾関 泰正 1年
66200183 タムラ リユウスケ 工学部電気システム工学科
田村 竜佑 1年
66200288 ニシカワ リヨウ 工学部電気システム工学科
西川 遼 1年
66200332 ヒガシ コウシロウ 工学部電気システム工学科
東 香士朗 1年
66200451 モリ カイヤ 休学 工学部電気システム工学科
森 海也 1年
67200018 アマキ ダイスケ 工学部情報システム工学科
天木 大介 1年
67200146 オシカワ リヨウ 工学部情報システム工学科
押川 陵 1年
67200184 カワバタ アオイ 工学部情報システム工学科
川畑 葵 1年
67200212 クシマ リュウヤ 工学部情報システム工学科
櫛間 龍也 1年
67200230 コバヤシ リヨウスケ 工学部情報システム工学科
小林 良輔 1年
67200294 スギモト ダイチ 工学部情報システム工学科
杉元 大地 1年
67200333 タナカ シンノスケ 工学部情報システム工学科
田中 慎乃介 1年
67200368 トダカ ヨシヒコ 工学部情報システム工学科
戸高 快彦 1年
67200528 ヨシオカ シユン 工学部情報システム工学科
吉岡 駿 1年