つれづれに: 大学5:無意識の「常識」
植え替えて少し大きくなった小葱
葱も冬野菜の一つである。去年も秋口に何度か種を蒔いたが、気温が高かったせいか芽が出なかった。それが11月に入ると、しっかりと芽が出て大きくなるから不思議である。去年種を採ろうとしたが、小葱は葱坊主になる前に終わってしまったし、太葱は出来た葱坊主が長雨で腐ってしまった。今年は種採りに、再挑戦である。まだ植え替えが終わってないものもあるので、何とか植え替えたいものである。葱はにおいもきついので以前はさほど食べなかったが、今は毎食の味噌汁に入れて結構な量を食べるようになったので、細かく刻んで冷凍保存していつでも使えるようにしている。
植え替えられないままの小葱
今回も、偏差値や大学の序列などについての無意識の「常識」の続きで、3年生の時のクラスメイトについてである。1、2年生の時は社会活動ですることが多く、特に学校に関心が向かなかったからか教室でもほとんどしゃべらなかったが、3年生では学年全体も席の周りも受験を意識していたせいか、前と左隣の3人でわりと話をしたように思う。1クラス55人で7列、北側から3列目の前から二番目が私の席だった。私は相変わらず受験勉強は出来ないままだったが、二人は普通にやっていたようだ。前の席のクラスメイトは相当な自信家で、最初から関学に行くつもりで3科目に絞っていると言っていた。文科系の場合、英国社で受験する人が多いが、社会の代わりに数学を選択していた。数学には特に自信を持っているようだった。親が警察官でかなり厳しく育てられたらしい。元々無口で人と話しているところを余り見たことはなかったが、なぜかよく後ろを向いて話しかけて来た。そこへ左隣のクラスメイトが口を出してくることが多かった。陽気で、いつもにこにこしていた。学校には可能な限りいたくなかったので、休めるときは色々口実を作って学校に行かなかった。普段は始業の10分前に出て、放課後は十分後に家に着いていた。いっしょに社会活動をしていた同級生や下の学年の誰かが家に来ることが多かったこともある。宮崎医科大学でも研究室に必ず定期的に学生が何人も来てくれたが、同じような状態だった。何か特別な話をしたわけでもないが、来たら必ず2時間か3時間は話をしてから帰って行った。どちらの場合も、自分のことで一杯一杯だったが、喜んで話し相手をさせてもらった。
情に流されたのか、放課後、自転車を押しながら前の席のクラスメイトを駅まで送っていった時期がある。駅まで10分余りの距離である。日南線のような1時間に列車が1本あるかないかのダイヤのローカル線で、家が2駅目の駅のすぐ近くにあったらしい。「つれづれに」で学校帰りに近くの寺に時々寄っていたと書いたが、放課後すぐに家に帰らずに寄り道したのはその二つだけである。→「高等学校2」(2022年1月19日)
よく通った寺の観音像があったと思われるお堂
ある時、いっしょに高知受けへんか、と前の席のクラスメイトに言ったことがある。関学に行くと言ってたから、まさかとは思ったが、それもええなと言ってくれた。もちろん国立大の1期校だったので社会も理科も要る。受験勉強もしてないのに、国立を受けるなら社会2科目かと考えている時に、1科目にしたら楽そう、とどうも思ったらしい。それでつい言ってみたら、いっしょに受けに行く流れになってしまった。当日、もうすぐ結婚するらしい二人目のお姉さんまでついて来てくれた。旅行ついでにいっしょに行くと言ってくれたらしい。今はなくなった宇高連絡船(宇野←→高松)の上で少ししゃべった記憶がある。偏差値はそう高くなかったと思う。私は落ちて当然だったが、英数に相当自信を持っていたのに私といっしょに落ちたのはなぜだったのか。二人はどちらも関学に行った。隣の席の方は社会学部から兵庫県庁に、前の席の方は法学部から兵庫県警に就職した。卒業後に会ったのはそれぞれ1回きりで、警官になった方とは、当時住んでいた家の近くの朝霧駅のプラットホームで偶然会った。「この前テレビに映ったんやけど、犯人より人相が悪いと妻と子供に言われて」、と苦笑していた。すっかり警察官の顔だった。もう一人とは電車の中で会った。「俺ら出来悪い劣等生やったもんな」、と卑屈そうな表情で言われて「へぇー、そう思(おも)てたんか、他のやつらもたいしたことなかったやん」、と言い返してしまった。「出来悪い劣等生」には違いなかったが、卑屈な思いを受け入れる気にはなれなかったからかも知れない。それ以来、消息も聞いていない。
次回は、教師についての、無意識の「常識」か。
高校ホームページから