2000~09年の執筆物

概要

多剤療法によりエイズは延命可能な病気にはなりました。しかし、南アフリカでは高価な抗HIV薬は実際には使えず、政府は「コンパルソリー・ライセンス」法を成立させて安価な薬の供給を試みましたが、米国副大統領ゴアや欧米製薬会社に妨害されました。

アフリカ人労働力を基盤とする基本的な搾取機構は温存されたままでアパルトヘイトを廃止した政府には、感染の拡大を防げませんでした。将来医療人となる医学生には必要な、そういった歴史認識の重要性と現状認識の大切さを論証しました。

本文(写真作業中)

医学部学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬

宮崎大学医学部                           玉田吉行

<Summary>

This paper aims to show how important it is for medical and nursing students in the ‘global age’ to understand the AIDS crisis in Africa, especially in Southern Africa, through the analysis of the relationship between South Africa and the AIDS drug issues.

The AIDS situation in Africa is now devastating, so we might easily understand from the data on life expectancy below that the ‘AIDS epidemic chokes the life out of Southern Africa.’1

The consciousness of medical and nursing students in Japan seems not to be ready to understand the harsh realities of the AIDS situation in a fundamental sense. But such students are in an advantageous position to be able to get an accurate grasp of the situation because they can understand the infection mechanisms of the disease. And Japan, as well as the ‘developed’ countries, is responsible for the neo-colonial system imposed under the guise of ‘aid’ and ‘development’ which has been one of the main causes of poverty and ignorance in Africa. We cannot deny the fact that we are on the side of the robber and, consciously or unconsciously, have benefited from the present system.

It has been a long time since the relationship between intellectual property and the WTO on the AIDS drug issue was discussed, but the realities of the disease remain primarily unchanged, perhaps having become even worse.

The AIDS crisis is a global issue that we are facing and cannot avoid, especially medical and nursing students. I hope this paper might motivate them to think about AIDS issues more deeply as something connected to their own lives.

南部アフリカとエイズ

アフリカのエイズの惨状が報じられるようになってから久しいが、事態は改善されず、むしろ悪化している。ほぼ10年前に、イギリスの日刊紙インディペンダントはジンバブエの報告記事で、エイズ流行病が、かつてイギリス人入植者が北方向に切り開いて築き上げた幹線道路を反対方向に辿る形で、1980年代の初め頃から南下し始めてジンバブエに至ったことや、次の標的が南アフリカであること、その当時約55歳だったジンバブエの平均寿命が2010年までには40歳以下に落ち込むことなどを予測した。2

インターネット上に公開されているCIA – The World Fact Book によると、事態はその予測をも上回っている。下の表は、その資料から、主な南部アフリカ諸国と「先進国」の平均寿命、成人のHIV感染率を抜き出したものである。(平均寿命は2004年の推計、感染率は2003年の推計、ジンバブエ、イギリス、ドイツ、ロシアの感染率は2001年の推計である)

国名 全体平均寿命 成人HIV感染率 (%)
南アフリカ 44.19 21.5
ジンバブエ 37.82 33.7
ザンビア 35.18 16.5
ボツワナ 30.76 37.3
モザンビーク 37.10 12.2
マラウィ 37.48 14.2
ナミビア 40.53 21.3
アンゴラ 36.70 3.9
アメリカ合衆国 77.43 0.6
イギリス 78.27 0.1
フランス 79.44 0.4
ドイツ 78.54 0.1
カナダ 79.96 0.3
ロシア 66.39 0.9
日本 81.04 0.1 以下

昨年末に、ドイツ在住の疫学研究 (Epidemiology) の最前線にいる研究者から、ホームペイジ上に載せているエイズ関連の私の文章についての感想を述べたメイルが届いたが、そのメイルには「実際にかつてイギリスの直接支配を受けたアフリカ諸国のHIV/AIDS事情は最悪で、疫学的見地から見れば、特にマラウィと南アフリカは未曾有の人口の激減に直面しており、最貧国(多分、マラウィかコンゴ)は二十年以内に倒壊すると思われます」、4 と書かれてあった。

大半がアフリカに文学があることも知らない日本の医学部の学生が5、この深刻な状況をどこまで理解出来るかは心許ないが、日本が、「開発」や「援助」の名の下に、国連や世界銀行などで維持をはかる体制(新植民地体制)の上に「繁栄」を続ける「先進国」の一つである限りは、人ごとで済ますわけにはいかない。新植民地政策の名の下に金を貸して利子を取る現行のシステムを継続させようにも、エイズによる人口激減により、やがてはそれもかなわず、例外なく「先進国」は早晩の構造変革を迫られているのだから。

しかし、医学部の学生はHIVの複製や免疫不全の仕組み、それに性感染症の怖さを誰よりも理解出来る立場にいる。だからこそ、その有利な立場からエイズ事情の深刻さを理解して、何らかの形で状況の改善に寄与すべき責任がある、とエイズの問題を医学部の英語の授業で取り上げながら、考えるようになった。

今回は、南部アフリカとエイズ治療薬をめぐる問題に焦点を絞ろうと思う。

「アフリカの蹄」

NHKドラマ「アフリカの蹄」6 の中で、主人公の日本人医師作田信がスラムの診療所で反政府活動家のアフリカ人青年ネオ・タウに突然殴られる場面があるが、残念ながら、その青年の微妙な心理を読み取れる日本人はそう多くないだろう。

その時の作田とネオの認識は、どう違っていたのか。

作田は大学の上司とそりが合わずに「心臓移植の研修」の名目で、偶々南アフリカに飛ばされた優秀な心臓外科医だが、南アフリカについての知識は、一般の日本人と大差はなく、動物の保護区や豪華なゴルフ場、ケープタウンやダーバンなどの風光明媚な観光地、世界一豪華な寝台列車くらいで、作田にとっての南アフリカは、「日本から遠く離れた、アパルトヘイトに苦しむ可哀想な国」にしか過ぎなかった。

しかし、ネオにとっての日本は違う。日本は、1960年のシャープヴィルの虐殺以来、アパルトヘイト政権を支えてアフリカ人を苦しめ、貿易で莫大な利益を得てきた経済最優先の国であり、その日本からやって来た作田は、貿易の見返りに「居住区に関する限り白人並みの扱いを受ける」恥知らずな日本人だった。

世界の経済制裁の流れに逆行して1960年に「国交の再開と大使館の新設」を約束した日本政府は、翌年には通商条約を結び、以来、先端技術 (ハイテク) 産業や軍需産業には不可欠なクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属やその他の貿易品から多くの利益を得てきた。石原慎太郎が旗を振った「日本・南アフリカ友好議員連盟」や、大企業の「南部アフリカ貿易懇話会」などに支援されて、日本は1988年には最大の貿易相手国となり、国連総会でも名指しで非難されている。

当初、作田にもその理由はわからなかったが、ネオが本当に殴りつけたかった正体は、南アフリカと深く関わり利益を貪りながら、加害者意識のかけらも持ち合わせない一般の日本人とその自己意識で、ネオには、作田もそんな日本人に他ならなかった。

では、日本が支援し利益を貪ったアパルトヘイト体制の実体とは何だったか。

出稼ぎ労働

アパルトヘイト体制は、紛れもなくヨーロッパからの入植者が編み出した一大搾取機構であり、その根幹は、土地政策と、17世紀の半ば頃にやってきたオランダ人と遅れて移住して来たイギリス人が考え出した南部アフリカを中心とした出稼ぎ労働制度 (migrant labour system) にある。その制度は、1505年のキルワの虐殺のような一時的な略奪ではなく、アフリカ人から土地を奪って課税をし、大量の安価な労働者を生み出すことによって、恒久的な搾取体制を目論んだヨーロッパ人入植者が、永年に渡って築き上げたものである。土地を奪われて無産者となったアフリカ人は、税金を払うための現金収入を求めて村を離れ、鉱山や農場の賃金労働者として、或いは白人家庭の召使いとして、家族を支えるには不充分な賃金で働くことを余儀なくされた。

入植当初、南アフリカはインドへの中継地でしかなかったが、19世紀の後半に金とダイヤモンドが発見されてから、産業的にも軍事的にも重要な拠点となった。オランダ系入植者とイギリス系入植者は金とダイヤモンドの利権をめぐって戦争を繰り広げたが、アフリカ人を搾取するという妥協点を見つけ出し、1910年に「南アフリカ連邦」を設立した。国家設立と言っても、既に築き上げていた支配体制を法制化しただけに過ぎず、1913年に原住民土地法を制定し、人口の75 % 強のアフリカ人を全土の僅か7.3 % の不毛の土地「リザーブ」に押し込め、必要な労働力だけを白人の近くに住まわせた。アフリカ人は通行証(パス)を持たされ、行動の自由を奪われた。その後、「リサーブ」は「バンツースタン」、「ホームランド」と名前が変わったが実体は同じである。ホームランド政策では、アフリカ人は「外国人」の扱いを受け、パスは文字通り、国家が管理するパスポートになった。

アパルトヘイト体制が出来たのは1948年である。2つの大戦で白人の総体的な力が低下した第2次大戦直後、世界各地で差別撤廃や地位向上の運動が展開された。南アフリカでもアフリカ民族会議 (ANC) の青年同盟が中心となり、盛んにストライキなどを行なって賃上げを要求した。イギリス系の統一党に変わって、1948年の白人だけの総選挙では、人種差別を前面に掲げ、白人の特権を保証することをうたうアフリカーナー(オランダ系)の国民党が政権を取った。白人(総人口の15%)の60%を占めるアフリカーナーの大半が、台頭するアフリカ人労働者にその地位を脅かされ社会の低辺層に沈みつつある自分達を救ってくれる唯一の道だと信じて国民党に投票したからである。国民党は、法律で人種による賃金格差をつけ、アフリカ人を技術を要する仕事 (skilled labour) 、つまり給料の高い仕事には就かせなかったのである。

インドの独立、エジプトのスエズ運河封鎖、ガーナの独立などの動きに刺激を受けて、1950年代、南アフリカでも抵抗運動は激しくなった。ヨーロッパ勢力の復興が少し遅れ、アフリカ人側が分裂していなければ、ヨーロッパ支配を覆す歴史の分岐点になっていたかも知れない。しかし、そうはならなかった。アフリカ人自身による戦いの路線を掲げた理想主義的なロバート・ソブクエと、融和路線を取るネルソン・マンデラが衝突して、ANCが分裂したからである。

その歴史の分岐点で、西ドイツと日本は、アパルトヘイト政権に荷担した。作田に対してネオが取った行動には、そんな歴史的な背景が潜んでいたのである。

ソブクエは1960年から、マンデラは1962年から監禁され続け、欧米と日本の支援を受けたアパルトヘイト政権は、体制を強化していった。不要なアフリカ人はバンツースタンに閉じこめ、使用可能な労働力は、安価な賃金労働者として、鉱山や農場や白人家庭で扱き使ったのである。

鉱山労働者の実態を、鉱山労組書記長ラマフォサ氏は1989年に放映された「ニュースステーション」の中で、次のように解説している。

この国では、ダイヤモンドと金の発見以来百年以上も、鉱山会社は安価な労働力を使って来ました。ずっと、黒人労働者を使ってきました。会社は家族を充分に養っていけないほど安い賃金しか払わずに、ずっと黒人労働者を搾取してきました。現在、白人労働者は、黒人が稼ぐ6倍もの給料を稼いでいます。しかも、南アフリカの鉱山は世界一危険で、毎年800人もの犠牲者が出ています。家を離れ、鉱山にやって来なければならない黒人労働者は、丸1年の間、家族とは会えません。白人は鉱山の近くで家族と暮らせますが、黒人労働者は鉱山の近くで家族と暮らすことを法律上許されていません。年に一度、配偶者に会う場合でも、わずか2週間にしか過ぎません。7

鉱物資源の豊かな南部アフリカでは、村を離れて集まったアフリカ人労働者は、鉱山の近くの粗末な「コンパウンド」と呼ばれるたこ部屋に、(1回の契約期間は、パートタイムとしては一番効率のいいと言われる14ヶ月)一年近く寝泊まりをする。

安価な賃金労働者が扱き使われるという点では、アフリカ大陸のどこへ行っても基本的には同じである。1992年に在外研究で訪れたジンバブエでも同じだった。

不動産事情は極めて悪いと言われていが、運よくスイス人の老婆から月額10万円の家賃で家を借りた。500坪ほどの敷地があったが、老婆に「ガーデンボーイ」として雇われていたショナ人ガリカーイ・モヨさん(通称ゲイリー)が北の小さな部屋に寝泊まりしていた。すぐ仲良しになった。月給が4000円余り、1年の大半は家族と離れて暮らしていた。休みに入ってゲイリーの子供たちが来て、私の子供たちとボールを蹴って遊んだが、その値段が1個5000円ほどだった。

イギリス人入植者がハラレに来たのは1880年代の後半で、目的は金だった。ケープ植民地相セシル・ローズは、現ジョハネスバーグに次ぐ第2の金鉱脈を夢見て、私設の軍隊を送りこんだ。豊かな鉱脈は見つからなかったが軍隊は立ち去らず、アフリカ人から土地と家畜を奪って居座り続けた。後に大量の移住者が流れこむようになる。1920年代に南アフリカとの合併を拒んだが、安価なアフリカ人労働力、豊かな鉱物資源などによって、南ローデシア(現ジンバブエ)は第2次大戦を境に一大工業国になっていた。その後60年代には、イギリス政府の意向を無視して独自の路線を歩む。1966年にはソ連と中国の支援を受けて独立闘争を始め、経済を欧米や日本に依存したまま、1980年に独立を果たして今に至っている。

ハラレで出会ったゲイリーも父親も、白人の貨幣経済の渦中に投げこまれ、現金収入を得るために村を離れることを余儀なくされた、典型的な安価なアフリカ人賃金労働者だったのである。

この出稼ぎ労働制度が、エイズの温床になっている。HIV感染率が南部アフリカで特に高いのも、その制度が感染拡大の大きな要因になっているからである。1年近く男ばかりが住むコンパウンドに、そのおこぼれに与るために売春婦が通う。そこで感染した男性労働者が、期間が過ぎて村に戻り、その配偶者に感染させる。先に引用したジンバブエの記事は「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」8 と報告している。

平均寿命36歳(当時の推計)のボツワナで、「コンパウンド」でHIVに感染した短期契約の鉱山労働者が帰郷後配偶者に感染させて死亡、残されて途方に暮れる配偶者を現地取材する映像が放映された。9

エイズ治療薬をめぐって

NHKスペシャル「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地 ~南ア・ジンバブエ」では、南アフリカのエイズの現状が次のように報告されている。

この国を直撃しているエイズは、アパルトヘイトと深い関係があると言われます。現在、エイズ感染者は500万人、6人に1人、ここソウェトでは3人に1人が感染しています。アパルトヘイト時代、鉱山で隔離され、働かされていた単身者が、先ず、売買春によって感染し、自由になった今、パートナーに感染を広げているのです。10

番組では、月に1度、国立病院に薬をもらいにくる末期のエイズ患者が紹介されている。その女性患者が手にしたのはエイズ治療薬ではなく、抗生剤とビタミン剤だけだった。ウィルスの増殖を防ぐ抗HIV薬は1人当たり100万円で、その年の末に、南アフリカは欧米の製薬会社と交渉して10分の1の価格で輸入出来るようにはなったが、薬の費用を政府が負担する国立病院では、感染者があまりにも多すぎて薬代を政府が賄うことが出来なかったからである。感染者すべてに薬を配るとすれば、年間6000億円が必要で、国家予算の3分の1を当てなければならない、と報告している。

従来の逆転写酵素阻害剤と、新たに開発されたプロテアーゼ阻害剤とを組み合わせる多剤療法により1996年は「エイズ治療元年」11 と言われたが、1998年にウィーンで開かれた世界エイズ会議では、多剤療法の副作用の症例報告や、ワクチンの開発がむしろ後退している現状報告に、会場は重い空気に包まれた。更に、2000年の会議開催国南アフリカから出席していたダーバンの医師が「ダーバンの大きな黒人用の病院で治療にあたる子供たちの40パーセントがエイズ患者ですが、今まで私は抗HIV薬を使ったことはありません。病院には治療薬を使う経済的な余裕はありませんから」と付け加えて、アフリカの厳しい現状を参加者に突き付けた。12「アフリカ21世紀」の映像は、この医師の発言を裏打ちする形で、私たちに迫って来ている。

1999年の夏、アメリカの副大統領ゴアと通商代表部が、南アフリカ政府が1997年に成立させた「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めて物議をかもした。13 感染者が抗HIV薬の恩恵を受け易いように、安価な供給を保証するために提案された同法の下では、南アフリカ国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価な薬を生産する免許が厚生大臣から与えられる(その法律には、他国の製薬会社が安価な薬を提供できる場合は、それを自由に輸入することを許可するという条項も含まれる)が、ゴアや欧米製薬会社は、開発者の利益を守るべき特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定 (TRIP’s Agreement) 14  に違反していると主張したのである。しかし、その協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に、コンパルソリー・ライセンスを認めており、エイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」に当らないと実質的に主張したゴアが、集中砲火を浴びたのである。

「アフリカ21世紀」にも映し出されたように、「10分の1の価格で輸入出来るように」なっても、抗抗HIV薬がたいていは患者の手元に届かないのに、欧米の製薬会社は「知的財産所有権の保護」を楯に、その決定の時期を延ばしに延ばした。欧米の製薬会社と世界貿易機関 (WTO) の間で交渉に尽力した世界保健機構 (WHO) のベラスカ医師は命を狙われる妨害を受けている。1999年のシアトルでの会議の成果も反故にされ、2001年10月、回を重ねてやっとこぎ着けた最終妥協案も、アメリカとスイスが拒否したために成立しなかった。15 会議を重ねて合意はしても、履行しないまま時間稼ぎをしていたのである。その辺りの事情が、『アフリカの蹄』の続編として2004年に出版された『アフリカの瞳』の中に詳しく描かれている。抗HIV薬をめぐる経過を、南アフリカ国内から見た点が特に興味深い。

『アフリカの瞳』

『アフリカの蹄』で天然痘の拡大を防ぐのに命を懸けた医師作田が、結婚したパメラやスラムの診療所の医師サミュエルや細菌学者のジュリアン・レフと協力して、ダーリー市で開かれたエイズ学会で、欧米の製薬会社の横暴と、その製薬会社と結託する政府の無策を告発したあとの次の一節である。

こうした動きとは別に、フランスの〈ル・モンド〉が日曜版の特集で、製薬会社がエイズ治療薬の知的所有権をいかに主張してきたかを詳細に報道した。ひと月前のことだ。製薬会社はこの十数年、ひとつのエイズ治療薬の開発費が最低でも三億ドルから十億ドルにのぼるのを理由に、知的所有権を譲れないと強調し続けてきた。貧しい開発途上国が、価格の大幅値引きとコピー薬の製造あるいは輸入の許可を世界貿易機関に訴えても、毎回否決され続けた。今ではエイズ治療には多剤併用が中心なので、ひとりの患者が一年間に使う薬剤費は平均して五千ドルから一万ドルだ。それは開発途上国の一人あたりの年収の十倍から二十倍に相当する。つまり現在の薬価を十分の一に下げたところで、貧しい国の患者には手の届く額ではない。それなのに、世界貿易機関は去年の八月、いかにも大英断のような顔をして、コピー薬の製造認可と、正規薬の薬価の十分の一での輸入を認めた。しかしこれは全くの御為ごかしであり、貧しい国の患者の救済にはほど遠い。〈ル・モンド〉の記事内容を翻訳紹介した英字新聞を読んだとき、作田はこれまでの自分の主張がそのままそっくり認められたような気がした。ところが記事は、さらに二歩も三歩も踏み込んだ論調を繰り広げていたのだ。記者たちは、エイズ治療薬によって得た各社のこれまでの利益を細かく計算して、具体的な数字を出していた。それによれば、十数年前に発売されたエイズ治療薬による収益は既に開発費の七、八倍に達し、開発途上国での価格を現在の千分の一に下げても、充分採算がとれていた。16

製薬会社が時間稼ぎをして暴利を貪っていた絡繰りが手に取るようにわかる。作田は、安価な偽薬抗HIV薬ヴィロディンを5年間も販売し続けた南アフリカ政府の無策を次のように締めくくる。

これまで、欧米の製薬会社は知的所有権を楯にして、治療薬の価格を下げようとしませんでした。多くのHIV感染者・エイズ患者が貧困の中であえいでいるのを知りながら、買えるものなら買ってみろと、高い治療薬を私たちの前でちらつかせる態度をとり続けてきました。ある国がたまりかねてコピー薬を作り、安く国民に配布しようとしたのにも反対し、世界貿易機関に訴えてやめさせる暴挙さえしました。これが破棄されたのは、世界の良識ある人々の抗議によるものです。昨年夏ようやく、発展途上国は特別割引価格で薬の提供を受けられるようになりました。しかしそれでも、価格はヴィロディンより高いのです。

私は人類の英知として、特定の国、つまりHIV感染が蔓延している国では、治療薬を無料にすべきだと訴えたいのです。無料化の財源は世界規模で考えれば、どこかにあるはずです。戦争が仕掛けられ、数百億ドルの戦費がただ破壊のためだけに空しく費やされています。その何分の一かの費用を、エイズに対する戦いにあてれば、私たちは確実に勝てるのです。

この国の政府はヴィロディンに頼り過ぎて、まだ何ら効果的なエイズ対策を打ち出していません。コピー薬の製造が可能になって半年は経過するというのに、政府が製造を開始したという話もきかないし、輸入したという情報もありません。私たちが訴えるべきなのは、ヴィロディンの製造販売の即時中止と、本物のコピー薬の製造と輸入です。そして無料配布に向けて、私たちの声を全世界に高らかに響かせることです。これこそ、大統領が唱えるアフリカン・ルネッサンスの実現なのです。17

南アフリカ政府の無策については、「アフリカ21世紀」の中でも、バラグァナ病院のグレンダ・グレイ医師が次のように痛烈に批判している。

アパルトヘイト政府は、エイズに何の手も打ちませんでした。黒人の病気だからと切り捨てたからです。新しい黒人政府も、対策を講じない点では同罪です。感染の拡大は止まりません。これはもう、大量虐殺です。

医療に携わる人間として

アフリカ人の安価な労働力を基盤にしたアパルトヘイト体制から利益を貪ったのはヨーロッパ人入植者の子孫だけではなく、その体制に荷担した欧米や日本である。南アフリカで戦争が起きれば、社会主義国家の後押しを受けて国土は灰燼に帰す可能性もあった。東西冷戦も終了したあと、その戦争を回避するためにネルソン・マンデラが釈放され、アパルトヘイトが廃止された。しかし、アフリカ人労働力を基盤にする基本的な搾取機構は温存されたままで、それが政府の無策の最大の原因である。

「南アフリカとエイズ治療薬」を通じて浮き彫りにされるのは、南アフリカや日本といった国の枠をはるかに超えた余りにも大きな問題である。感染力が弱く、精液や血液によって伝播されるHIVの性質やそのメカニズムを知れば、予防が可能だと思えそうだが、現実には、感染は拡大し続けている。

その現状認識は必要である。「アフリカに文学があることも知らない」や「ODAを通じてアフリカに支援している」では、国際的な相互理解はかなわない。現状を認識した上で、出来ることはある。作田医師が言うように、「世界の良識ある人々」の一員にもなれるし、「無料化の財源」への協力も可能である。日本国内でも、アパルトヘイト政権を積極的に支持した石原慎太郎に反対票を投じることも出来る。医者や看護師になれば、上昇しつつあるHIV感染率を下げる手助けも出来るはずである。

歴史認識を踏まえ、専門的な知識を再認識しながら出来るところからやって行く、それが将来は人の生き死に携わる医療人としての、また、最高学府に学ぶ知識人としての務めだろう。

1 Karl Maier, 「エイズ流行病、南部アフリカの息の根を止める」“Aids epidemic chokes the life out of Southern Africa,” Independent (July 30, 1995)

2 同上のKarl Maierの記事。

3 URL: http://www.cia.gov/cia/publications/factbook/index.html

4 “….I agree the biggest importance is to feel and struggle in the real field. Although I’ve not been to South Africa, once I’ve helped the work of my friend in Zimbabwe. In these British African countries of your interests, we see the worst situation of HIV/AIDS. From the epidemiologic point of view, South Africa and Malawi is experiencing even the demographic impact (population loss) due to AIDS. I guess some of least developed countries (maybe Congo or Malawi) will be collapsed because of AIDS epidemic within 20 years.” A private e-mail (December 21, 2004) from Dr. Hiroshi Nishiura, one of the graduates of Miyazaki Medical College.

2004年度担当の新入生にアンケートを行なったところ、アフリカに関心を持つ学生が少なからずいたが、ほとんどの学生はアフリカ文学については知らなかった。

「アフリカに関心がありますか。」の問いに、(医学科97名)1. 非常に関心がある。(13名)、2. まずまず関心がある。(39名)、3. どちらとも言えない。(28名)、4. あまり関心がない。(10名)、5. 全く関心がない。(7名) (農学部51名) 1. 非常に関心がある。(3名)、 2. まずまず関心がある。(23名)、 3. どちらとも言えない。(19名)、 4. あまり関心がない。(6名)、 5. 全く関心がない。(0)

「アフリカ文学を知っていますか。」の問いに、(医学科97名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(1名)、 3. あまり知らない。(12名)、 4. 全く知らない。(74名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(10名) (農学部51名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(0)、 3. あまり知らない。(14名)、 4. 全く知らない。(34名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(3名)との解答を得た。アンケートは初回に無記名で行なった。

6 2003年2月25日(NHK総合)放映。帚木蓬生の同名小説原作、矢島正雄脚本、大沢たかお主演のドラマ。「心臓移植の研修」の名目で南アフリカに飛ばされた医師作田信が、偶々少年を助けたきっかけでスラムに出入りするようになり、極右翼グループが画策する天然痘によるアフリカ人殲滅作戦に巻き込まれるが、アフリカ人医師のサミュエルや恋人パメラたちと協力して、その陰謀を阻止する、という話である。原作でも映画でも、南アフリカの実名は出ていない。

7 「白いアフリカ 南アフリカ共和国 緊急報告 アパルトヘイトは変わったかー」、朝日放送「ニュースステーション」(1989年9月23日、24日)

8 同上のKarl Maierの記事。

9 NHKスペシャル「エイズ・世界はどう立ち向かうべきか」(2003年12月1日NHK総合テレビ)

10 NHKスペッシャル(1989年9月23日、24日)

11鍛冶信太郎「新薬承認で迎える『エイズ治療元年』 高い薬代の軽減急げ」、朝日新聞(1997年3月20日)

12 Lawrence K. Altman, “World AIDS Conference Ends Pessimistically, With No Cure in Sight,” International Herald Tribune (July 6, 1998)

13 “Gore’s humanitarianism loses out to strong-arm tactics,” Nature (July 1, 1999) 及び、池内了「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」、「朝日新聞」(1999年8月6日)

14 TRIP’s はthe Trade-Related Intellectual Property Rights (Agreement) の略。抗HIV薬の場合、1994年から最低20年間の権利を保障されるという合意があった。

15 アルテフランスCAPA製作「“Profits or People” (HIV感染症治療薬 コピー薬普及への戦い)」(2003年、英語・日本語2ヶ国語放送)、NHK衛星第1プライムタイム(2004年12月29日再放送、)

16 帚木蓬生『アフリカの瞳』、講談社(2004年)、411-412ペイジ。『アフリカの蹄』の続編小説。

17 『アフリカの瞳』、398-399ペイジ。

執筆年

2005年

収録・公開

「ESPの研究と実践」第4号61~69ペイジ

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医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬

2000~09年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文(写真作業中)

医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』

 

「ESPの研究と実践」第3号(2004) 5~17ペイジ

Summary

The aim of this paper is to show how and why I used Nice People in my English class for second-year medical students.2

Nice People is a novel by a Kenyan writer published in 1992. I selected the book as a textbook for the class because it is unique and important in three ways. Firstly, it depicts the dawn of the AIDS epidemic of the early 1980’s, which serves as a precious history. Secondly, it focuses on the richer class who held many privileges in the exploitative system during the neo-colonial stage. Thirdly, it is written from the point of view of a doctor, which will interest medical students.

I hope the novel will show the future doctors of Japan the unknown realities of how Kenyans were panicked by the emerging infectious disease and forced to fight against the outbreak, which I hope will motivate them to learn more and provide hints to them as to how to cope with an unexpected crisis.

The AIDS crisis is a global issue that we are facing and cannot avoid, especially medical students. It is important for us to know what students need in English classes, and that it is necessary to prepare suitable materials which will motivate them. That is why I chose Nice People in my English class for second-year medical students.

はじめに

医学科学生の英語の授業を担当するようになって17年目になるが、試行錯誤が続いている。初めは一般教養科目として、1993年の大学設置基準の大綱化以降は、基礎教育科目と位置づけて授業を担当してきたが、授業に関して基本的に変わらない点と、変わった点があるように思う。

変わらないのは、英語を手段に授業を価値観を問い直す機会にと願う姿勢で、アフリカやアフロ・アメリカの問題を意識的に取り上げているのはその視点からである。

変わったのは、出来るだけ英語を使うようになったこと、発表などを含め学生が積極的に関わる時間が増えたこと、それに医学的な問題も取り上げるようになった点である。すべて、学生から授業の感想や意見、要望などを聞いたり、希望者との面接をしながら、自然の流れのなかで変化してきたものである。3

当初は、基礎医学、臨床医学の担当者には出来ないものを、文科系の視点からしか出来ないものをと考えたりしたが、膨大な量の基礎医学をこなす学生の実情も考え合わせて、教養的な問題に関連させて医学的な問題も授業の中で取り上げるようになった。

エイズ

今回、2年生のリーディングに焦点を当てた授業で、ケニアの小説『ナイス・ピープル』を取り上げたのも、そういった流れの中からである。

受講した2年生は、1年の前期で、アフリカとエイズに関して全般的な話には触れているので、小説の舞台ケニアが政治的には抑圧的で「野生の王国」だけではないことや、エイズの状況が極めて危機的であることは認識している(と思う)。マスメディアを通じて植え付けられたアフリカの負のイメージを疑わない学生も多かったが、授業を通して少なくともアフリカにも文学があることは知ってもらえたと思う。4

アフリカに関しては、イギリスの歴史家バズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」5 の映像を軸に、侵略を始めた西洋諸国が奴隷貿易で暴利を得て、その資本で産業革命を起こし、作った製品の市場獲得のためにアフリカ争奪戦を繰り広げ、結果的には2つの世界大戦を引き起こしたあと、大戦後は戦略を変え、「開発」や「援助」の名のもとに、国連や世界銀行などに守られながら新しい形の支配体制(新植民地体制)を築き上げている歴史を概説した。

エイズに関しては、基礎医学への橋渡しとして、HIV複製のメカニズム6 や免疫機構7 について触れ、HIV発見の歴史8 と、エイズ治療薬の知的財産権をめぐる製薬会社と南アフリカの問題9 を取り上げたあと、1996年のジンバブエに関する新聞記事10 を読んだ。南部アフリカのエイズ事情が深刻で、鉱山などの出稼ぎ労働者用のコンパウンドと呼ばれる「たこ部屋」が、売春婦を介して、エイズ蔓延の温床となり、期間が過ぎて村に戻る男性労働者が配偶者に感染させるために「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」とまで言われるほどで、その状態が続くと55歳のジンバブエの平均寿命が2010年までには40歳以下になることと11、次のエイズ蔓延の標的が南アフリカであることが予測されているという衝撃的な内容の報告記事である。12

「出稼ぎ労働」は、ヨーロッパからの入植者がアフリカ人から土地を奪って課税をして作り上げた一大搾取機構で白人支配の根幹をなす制度である。その制度の下で、搾取される側の大多数のアフリカ人が貧しさとエイズに苦しめられていて、先進国と呼ばれる日本もその一員である私たちも、現実には搾取する側にいると結論づけた。

ケニアも南アフリカからの白人入植者がアフリカ人労働者を基に搾取機構を打ち立てた国である。激しい闘争の末に独立は果たしたものの基本構造は変わらず、大統領となったケニヤッタもモイも、先進国と組んで体制維持をはかってきた。少数の金持ちと大多数の貧乏人という歪な世界で、日本はよき貿易のパートナーである。13

エイズはそんな歴史にはお構いなしで、ウィルスは金持ちにも貧乏人にも感染する。

『ナイス・ピープル』

『ナイス・ピープル』はたまたまケニアの友人14 に借りたものである。

横浜で第10回国際エイズ会議が行なわれた頃から、HIV複製のメカニズム、CD4陽性T細胞の受容体、マジック・ジョンソンの告白、血液製剤による薬害問題、多剤療法、エイズコピー薬とWTOなど、様々な問題を授業で取り上げてきた。98年にHIV複製のメカニズムとジンバブエの報告記事を軸に “AIDS epidemic” 15 を書き、2000年に「アフリカ:放っておけば死にゆく大陸」の記事を軸にアフリカの深刻なエイズ事情を「アフリカとエイズ」16にまとめた。本格的にエイズを主題に据えた小説『最後の疫病』17 が出版されたのは、その頃である。

著者のメジャー・ムアンギは、グギやアチェベほどの国際的な評価は受けていないものの、厳しい抑圧の時期も国内で作品を書き続けてきた中堅の作家である。ケニアの経済的な危機とエイズの差し迫った状況を誰よりも感じているはずである。18 エイズ患者が社会問題となってから十年ほどでウィルス増幅のメカニズムが解明され、治療薬が開発されたあと、作家に咀嚼されて本格的なエイズの小説が出るのはそれから数年後だろうと考えていた矢先に、 『最後の疫病』が出版された。コンドームを配って感染の予防の手助けをする未亡人とその女性を助ける獣医師の青年と村の人たちとの諍いをめぐる話だが、「割礼」をめぐってグギが『川をはさみて』19 で描いた西洋的な価値観とアフリカ的な価値観の衝突が大きな主題の一つである。国の経済を支える農民や労働者の話で、国内で踏みとどまった作家にしか書けない世界である。

そういった予測のもとに、「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」で、2003年度の科学研究費補助金を申請した。「エイズ」を正面から取り上げている作品はまだ多くないが、『最後の疫病』を軸に、英語によるアフリカ文学が「エイズ」をどう描いているのかを分析し、病気の爆発的な蔓延を防げない原因や、西洋的な価値観とアフリカ的な見方の軋櫟などを明らかに出来れば、また、英語の授業でエイズの問題を取り上げ、エイズの小説を読む立場から見える何かが見つかるかもしれないと考えたからである。今までは英米文学以外はすべて「その他外国語文学」という分類分けだったが、2003年度からイギリス文学、アメリカ文学の次にアフリカ文学の領域が加えられてこともあって、科研費が交付された。20(アフリカ文学を知らない学生の実態を紹介したアンケートとはあまりにもかけ離れ過ぎているが。)

しかし、『ナイス・ピープル』の出版年を見て驚いた。1992年である。読んで、また驚いた。主人公の医者の目を通して書かれた小説で、内容も私の予測を超えていた。

『ナイス・ピープル』は三つの点で意義深い小説である。

一つ目は、エイズ患者が出始めたころの混乱した社会状況が描かれている点で、文学という切り口で書かれた貴重な歴史記録でもある。

二つ目は医者を含めた少数の金持ちに焦点が当てられている点である。『最後の疫病』のように虐げられた側に焦点を当てた小説は少なくないが、支配層に焦点が当てられたものは珍しく、その点でも貴重である。

三つ目は、主人公の医者の目を通して小説が描かれている点で、医学生の興味をひく作品である。

大学卒業後すぐに私設の診療所で稼ぎながら国立病院で研修を受ける鷹揚な医療制度、未知の(エイズ)患者を隔離している特別病棟、売春が社会の必要悪で治療こそが最優先と結論づける性感染症をテーマにした卒業論文とその審査過程、売春婦など社会の底辺層が通ってくる診療所での日々の診察風景、金持ちの末期エイズ患者に快楽を提供して稼ごうと目論むホスピス、雑誌の症例から判断して担当の患者をエイズと診断したことなど、数年のちには同じ立場で患者と向き合う可能性の高い医学科の学生には、興味の尽きない内容が盛り沢山で、興味津々の内容に加えて医学用語なども含めて専門的な知識も含まれており、まさにうってつけの題材である。

早速授業で使うことにした。21

「1984年:謎の疾病」

主人公ジョセフ・ムングチ (Joseph Munguti) は、ナイジェリアのイバダン大学の医学部を1974年の6月に卒業したあと、直ちにケニア中央病院「Kenya Central Hospital (KCH) 」で働き始めたという設定である。卒業論文のテーマに性感染症を選んだこともあって、先輩医師ギチンガ (Waweru Gichinnga) の指導を受けながら、ギチンガ個人が経営する診療所で稼ぎながら勤務医を続ける。ギチンガは国立病院では扱えないような不法な堕胎手術などで稼ぎを得ていたようで、やがては告発されて刑務所に送られてしまう。10年後、ギチンガから譲り受けた診療所の看板に「性感染症専門医」と記して、ムングチは念願の売春婦などを相手にひとりで診療を継続する。

1984年12月、「ケニアでは指折りの性感染症専門医であり、診断を下せない性感染症はない」と自負するムングチの元に、年老いたコンボ (Kombo) と名乗る中国人がやってきた。「やあ、先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。2万シリング持ってきた。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか」と言って、大金を残して去った。

法外な大金に戸惑いを見せて一度は辞退するものの、格安の料金で社会の底辺層を相手に性病の治療を続けるムングチには、断る理由もなく、謎の病気の正体を突き止めることになった。最初はトラコーマクラミジアにより生じる性病性リンパ肉芽腫かと思ったが、どうも違うようである。その日から、ケニア中央研究所 「the Kenya Medical Research Institute (KEMRI)」の図書館に入り浸り、2日目にようやく、同年12月にアメリカで発行された以下の症例報告に辿り着く。

あらゆる抗生物質に耐性を持つ重い皮膚病の症状を呈し、生殖器に疱疹が散見される。下痢、咳を伴い、大抵のリンパ節が腫れる。極く普通にみられる病気と闘う抵抗力が体にはないので、患者は痩せ衰えて、やがては死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと類似しているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性の同性愛者が数人、その病気にかかっている。(『ナイス・ピープル』、140ペイジ)

老人の症状から判断して診断に確信を持たざるを得なかったが、元同僚の意見を求めた。大学でも講義を持つケニア中央病院の2人の医師は、未知のウィルスによって感染する新しい性感染症の診断に間違いはなく、すでに同病院でもアメリカ人2人、フィンランド人1人、ザイール人2人が同じ症状で死亡しており、3人のケニア人の末期患者が隔離病棟にいる、と教えてくれた。

興奮気味の心を抑えながら、隔離病棟に出向いたムングチは、改めて死にかけている老人の症状を確かめる。

私は調べた結果と比較して患者を見てみたかった。目的を説明すると、看護婦は3人が眠っているガラス張りの部屋に連れて行ってくれた。私たちを怪訝そうに見つめる救いようのない3人を見つめながら、私は言いようのないわびしさを感じた。そのとき、その老人が目に入った。私の患者、コンボ氏に違いなかった。口から泡を吹き、背を屈め、ひどく苦しそうに繰り返し咳き込んでいた。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていた。老人には私が誰かは判らなかったが、隔離病棟の柵を離れながら、後ろめたいほろ苦さを感じた。(『ナイス・ピープル』、141ペイジ)

患者コンボ氏は、実は以前ムングチの診療所を訪ねてきたルオ人女性の鼻を折った張本人で、ナイロビ市の清掃業を一手に引き受ける大金持ちだった。ルオ人の女性は清掃会社の就職面接でコンボ氏から裸になって歩き回るように命令されたが抵抗したために暴力をふるわれたのだが、噂では、肛門性交嗜好家の異常な行動の犠牲者が他に何人もいたようである。ムングチは、コンボ氏の死に際の哀れな姿を思い浮かべながら、神が犠牲者たちに代わってコンボ氏の蛮行への鉄槌を下されたに違いないと結論づけた。

元同僚の医師Dr GG (Gichua Gikere) は、「スリム病」と呼ばれるこの病気については既に知っており、唯一薬を提供出来るだろうと「ウィッチ・ドクター」と呼ばれる地方の療法師・呪術師を紹介してくれたが、実際の役には立ちそうにはなかった。

こうして、性感染症専門医ムングチのエイズとの闘いが始まるのである。

「ナイス・ピープル」

コンボ氏と同じように、医者のムングチも金持ちの階級に属しており、「ナイス・ピープル」とはそんな金持ち専用の次のような高級クラブに出入りする人たちのことなのである。

ムングチも、今では、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員だった。クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。(『ナイス・ピープル』、146ペイジ)

「開発」や「援助」の名の下に、西洋資本と手を携えて大多数の人たちから搾り取る現代のアフリカ社会は、一握りの金持ちと大多数の貧乏人で構成されている。資本を貯め込める中産階級が極端に少なく、大抵はいつでも国外に追放できる外国人で政府はその階級を埋めている。

「ウィルスは金持ちにも貧乏人にも感染する」と書いたが、実は、病気の治療を担う側の医者や官僚などの専門職の人たちも多数 HIVに感染しており、その感染率の高さを作者は問題にしている。冒頭の「著者の覚え書き」からその深刻さが伝わってくる。作者がオーストラリアに留学していた時に読んだ以下の新聞記事である。

著者の覚え書き

『ナイス・ピープル』でどうしても書いておきたかった一つに1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」の切り抜きがあります。3年のち、ここでその記事を再現してみましょう。

ハーデン・ブレイン著「アフリカのエイズ:未曾有の大惨事となった危機」

(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の四分の一がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。

この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。

病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的にかならず混乱が起きることは誰もが認めています。

世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では、研究者が驚くべき割合と記述するような率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。

第3世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ジョン・ティンカー氏は、「死という意味で言えば、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。

しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」

基本的に同性愛者間の触れ合いや静脈注射の回し打ちや輸血を通してエイズが広がってきた世界の多くの国とは違って、アフリカでは主に異性間の触れ合いを通して病気が広がっています。

70年代後半から80年代前半にかけてアフリカで病気が始まって以来、男性も女性も数の上では同じ割合で病気にかかっています。

アフリカでは性感染症を治療しないままにしている割合が高く、その割合の高さがエイズの広がりの大きな要因になっている可能性が高いと多くの研究者が主張しています。

WHOのエイズ特別企画の責任者ジョナサン・マン氏は、一人当たり平均約1.75米ドル(2.40オーストラリアドル)しか医療費を使わないアフリカ諸国の保健機関にてこ入れをし、教育への直接の国際支援と血液検査を行なえば、病気の広がりを抑えることが出来ると発言しています。(『ナイス・ピープル』、Ⅶ~Ⅷペイジ)

 

幼馴染みのメアリ・ンデュク (Mary Nduku) の愛人イアン・ブラウン (Ian Brown) も Dr GG の娘ムンビ (Mumbi) の愛人ブラックマン (Blackmann) も、ムングチが高級クラブで出会った「ナイス・ピープル」である。

南アフリカからの入植者を祖父に持つブラウンは、高級住宅街に住む34歳の青年で、ジャガーを乗り回し、一流のゴルフ場でゴルフを楽しむ。勤務する大手の「スタンダード銀行」で秘書をしているンデュクと愛人関係にある。エイズを発症し、イギリスで治療を受けるために帰国しようとするが、航空会社から搭乗を拒否されて失意のなかで死んでゆく。

ブラックマンはモンバサの売春宿でムンビと出会い、常連客の一人となったフィンランド人の船長で、結果的には、2人の間に出来た子供を連れてヘルシンキまで押しかけてきたムンビを引き取ることになる。エイズに斃れたムンビの亡骸は、ケニアに送り返される。

高級住宅街に住むマインバ夫妻も「ナイス・ピープル」である。妻のユーニス・マインバは、ある日、額から夥しい血を流しながら病院に担ぎ込まれる。その傷が夫の暴力によるもので、のちに、夫とメイドとの浮気の現場を見て以来、精神的に不安定な症状が続いていることが判り、精神科の治療を受けるようになる。数ヶ月後、コンボ氏と同じように肛門性交を好む夫が、かかりつけの医者からHIV感染の疑いがあるので血液検査を薦められていると、ムングチに訴えにやって来る。

性感染症専門医と性

HIVは血液と精液によって感染するのだから、治療に比べれば予防は簡単だと思われがちだが、現実にはそうは行かない。性感染症専門医ムングチの診療と日常生活が、性感染症の恐ろしさと感染対策の難しさに加えて、複数婚が続くケニア社会と今の日本社会との、性や売春行為に対する社会通念の違いを教えてくれる。

ムングチは、メアリ・ンデュクとユーニス・マインバとムンビと、同時に関係を持つ。幼馴染みのメアリ・ンデュクとは高級クラブで再会し、イアン・ブラウンの愛人であることを承知で関係を持ち、一時は同居している。アパートで鉢合わせになったブラウンと大げんかをして別れている。ブラウンはエイズを発症して死んだ。

ユーニス・マインバはムングチが担当した患者である。性的な関係を持つようになり、中年マダムのお供をして週末毎に豪華な小旅行に出かけた時期もある。夫がHIVに感染した可能性が高いと相談され、恐ろしくなって別れた。

ムンビとは父親を訪ねて来たときに私設の診療所で出会ったのだが、モンバサで娼婦をしているのを承知で恋人関係になった。一時期同棲をして、子供を身ごもったことを告げられたとき結婚を決意する。ムングチの働いていたホスピスでムンビは出産するのだが、生まれてきた子供はムングチの子供ではなく、売春宿の常連客ブラックマンの子供だった。ムンビは逃げるようにヘルシンキへ渡るが、エイズを発症して果てる。

ムングチは、のちにエイズで死ぬ愛人を持つメアリ・ンデュクと、HIVに感染したと思われる夫を持つユーニス・マインバと、異国の地でエイズを発症して死んだムンビの3人と同時に性的な関係を持っていたことになる。

ムングチは、売春行為を社会の必要悪と捉え、性感染症については治療を優先すべきで、社会の底辺層には国が無料で治療活動を行なう義務があるという趣旨の卒業論文を書いた。私設の診療所では、最低限の料金でその人たちの性感染症の治療に専念した。性感染症の怖さを充分に承知していたわけで、ムングチを始めとする「ナイス・ピープル」の性や売春に対する考え方を思い合わせれば、この小説の冒頭に載せられた「アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないか」という記事が、真実味を帯びてくる。

南アフリカからの入植者によって侵略されたケニア社会は、かつての自給自足の豊かな農村社会ではない。複数婚も乳児死亡率の高い中で子孫を確保したり、農作業や老人・子供の世話を分担する労働力を確保する、などの必要性から生み出された制度だろうし、西洋社会が批判する割礼にしても共同体全体で次世代を育てるための教育の一環だったと思う。しかし、土地を奪われ、無産者にされて課税される農民や、都市部で働かされる賃金労働者に、旧来の制度を踏襲し発展させる力はない。割礼や複数婚の制度が残っていても、かつての共同体を基盤にして機能していた制度とは全くの別物である。

大多数の農民や労働者は食うや食わずの生活を強いられ、国全体も、西洋資本と手を組む一握りの貴族やその取り巻きの豊かさと引き替えに、背負いきれないほどの累積債務に喘いでいる。そこにHIVが出現し、猛威をふるい始めたわけである。2003年の推計では、ケニア全体の平均寿命は45.22歳にまで落ち込んでいる。22

 

おわりに

当然のことながら、学生の英語の授業に対する要望や必要性は様々である。その多様性に応えるのは難しい。回りには結構いるのだが、今だに教科書1冊を読んでひたすら訳すだけ、テープを聞いて選択肢の答えを当てさせるだけのような授業を続けている人もいる。テープを再生する機械を持たない人が増えている現実にも気づかないで、カセットテープしか用意出来ない人もいる。授業をする側にも受ける側にも大切な時間なのだから、お互いに最低限の努力はしたいものである。言葉が手段である限り、手段を使えるような工夫はすべきであるし、基礎教育や一般教育としての授業なら、自分や社会について考える機会を提供できるような材料を準備すべきだろう。

ケニアを始めとするアフリカ諸国の危機的なエイズ事情と、ケニアに「援助」して協力していると考える大半の日本人の意識との格差は、大き過ぎる。

第2次世界大戦後、欧米や日本は世界銀行や国連などを設立して直接的な植民地支配から、「開発」や「援助」の名の下に資本を提供して利子をとる新植民地方式に戦略を変えた。ケニアへのODAの予算の大半は日本の大手の建設会社が請け負い、日本の大手金融機関、造船会社、運輸会社、商社などを経て日本に還元する仕組みになっている。ケニアも重債務国だが、ケニア政府は債務の帳消しには反対である。債務が帳消しになると一握りの貴族が困るからである。

日本政府は1993年から東京でアフリカ開発会議を東京で始めた。23 このエイズ事情が進めば、外交政策に支障をきたすのが予測出来たからだろう。資本を提供する相手から利子を取ろうにも、エイズによって死者が増加すれば絞り取る相手の人口自体が減ってしまうのだから。ほとんどの人がアフリカ文学の存在も知らないような状況で、科学研究費の分類項目に「アフリカ文学」が突如出現したのも、そういった国策と決して無縁ではない。

2年前、本学医学科の学生が『ナイス・ピープル』にも登場するケニア中央研究所(KEMRI)に、国際協力機構(JAICA)の専門家を訪れている。24 夏休みを利用してケニアやタンザニアでボランティア活動に従事する学生もいる。途上国で医療活動に従事したいと考える学生も多く、アフリカもかつてほど遠い所ではなくなってきている。

国の構造改革の一環として大学改革を迫られ、学生の満足度や効率を求められることが多いが、教育は効率だけでははかれないし、短期的な視野だけで見てはならないだろう。生理学や生化学などの膨大な量の基礎医学をこなさなければならない2年生に英語に割ける時間がどれだけあったかは心もとないし、授業時の反応が必ずしも満足の行くものではなかったが、短期的な判断は禁物である。いつか、授業で出会った学生の一人が、KEMRIの専門家になるとも限らないのだから。25

試行錯誤は、続きそうである。

1 Wamugunda Geteria, Nice People (Nairobi: African Artefacts, 1992)

2 横山彰三「医科大学における英語教育とESP」(本誌第2号70-77ペイジ)に紹介されている後期開講の選択必修クラスで、56名が選択した。後期は基礎医学実習が組み込まれているので授業回数が制限されるが、Nice Peopleの他に、元NBA選手マイケル・ジョーダンの伝記 – “Michael Jordan” in Michael Jordan Magic Johnson by Richard J. Brenner (New York: Paradise Press) – を題材に選び、どちらも関連の映像を組み入れて授業を行なった。

例年、一学年百人中20人から40人程度の希望する学生と授業時間外に、それぞれ1~2時間程度の個人面接をしている。英語に限定していた時期もあるが、最近は限定していない。英語での面接は1割程度で、前半は英語、後半は日本語でという場合もある。特に決めた話題はなく、雑談から進路相談まで百人百様である。授業の最後には、大学が行なう授業評価アンケートとは別に、記名式で授業の感想や意見を書いてもらっている。

4 2004年度担当の新入生にアンケートを行なったところ、アフリカに関心を持つ学生が少なからずいたが、ほとんどの学生はアフリカ文学については知らなかった。

「アフリカに関心がありますか。」の問いに、(医学科97名)1.非常に関心がある。(13名)、2.まずまず関心がある。(39名)、3.どちらとも言えない。(28名)、4.あまり関心がない。(10名)、5.全く関心がない。(7名) (農学部51名) 1. 非常に関心がある。(3名)、 2. まずまず関心がある。(23名)、 3. どちらとも言えない。(19名)、 4. あまり関心がない。(6名)、 5. 全く関心がない。(0)

「アフリカ文学を知っていますか。」の問いに、(医学科97名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(1名)、 3. あまり知らない。(12名)、 4. 全く知らない。(74名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(10名) (農学部51名) 1. よく知っている。(0)、 2. まずまず知っている。(0)、 3. あまり知らない。(14名)、 4. 全く知らない。(34名)、 5. アフリカに文学があったことも知らない。(3名)との解答を得た。アンケートは初回(4月第2週目)に無記名で行なった。

5 イギリスMBTV制作「アフリカ8回シリーズ」(NHK総合、1983年)

6 Geoffrey Cowley, “Targeting a Deadly Scrap of Genetic Code,” Newsweek (December 9, 1996) 学生は一年次必修科目「生命科学入門」で読む Human Biology  (An Imprint of Addison Wesley Longman, Inc., 2001) の中の “Immune deficiency: The Special case of AIDS” で少し専門的に触れるので、専門との橋渡しの意味で一般の雑誌記事を選んだ。

 

7国立大学保健管理施設協議会特別委員会編『エイズ 教職員のためのガイドブック’98』(国立大学保健管理施設協議会特別委員会、1998年)からの抜粋を使用した。

 

8 “History of AIDS discovery,” The Daily Yomiuri (August 6, 1994) 1994年の横浜での国際エイズ会議の特集記事の一つである。

 

9池内了「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」、「朝日新聞」(1999年8月6日)の中で言及のあった “Gore’s humanitarianism loses out to strong-arm tactics,” Nature (July 1, 1999) を取り上げた。

 

10 Karl Maier, “Aids epidemic chokes the life out of Southern Africa,” Independent (July 30, 1995)

 

11 留学経験から考えると、国税調査が必ずしも信用出来るとは思えないので、55歳という元の数字を疑わざるを得ないが、WHO(2002年推計)によれば、ジンバブエの平均寿命は男性37.7歳、女性38.0で、既に40歳を切っている。 http://www3.who. int/whosis/country/compare.cfm?country=ZWE&indicator=strLEX0Male2002,strLEX0Female2002&language=english 2003年の推計で総人口39.01歳というデータもある。http:// www.cia.gov/cia/publications/factbook/geos/zi.html

 

12 NHKスペシャル「エイズ・世界はどう立ち向かうべきか」(2003年12月1日NHK総合テレビ)で、この記事に描かれたように、平均寿命36歳のボツワナで、「コンパウンド」でHIVに感染した短期契約の鉱山労働者が帰郷後配偶者に感染させて死亡、残されて途方に暮れる配偶者を現地取材する映像が放映された。

13 外務省のHP: http://www.mofa.go.jp/region/africa/kenya/index.html 1986年以来、日本はケニア最大のODA供与国である。

 

14 体制に批判的な立場を取る友人は、2002年の暮れに現キバキ政権が誕生する前は、事実上20年以上も帰国できなかったので、在外研究で滞在した時か、国際会議に出席した際に、イギリスか南アフリカかジンバブエかで入手したようである。

 

15 “AIDS epidemic” in Africa and Its Descendants 2 Neo-colonial Stage (Yokohama: Mondo Books, 1998), pp. 51-58.

 

16 「アフリカとエイズ」、「ごんどわな」22号、2~13ペイジ、2000年。http://tamada.med. miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/africa/index.html に公開している。

 

17 Major Mwangi, The Last Plague (Nairobi: East African Educational Publishers, 2000)

 

18 グギの亡命の経緯と亡命中のケニアの荒廃ぶりについて “Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy,” Studies in Linguistic Expression, No. 19 (2003) にまとめhttp://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/tamada/works/ngugi/index. html で公開している。

 

19 Ngugi wa Thiong’o, The River Between (Nairobi: Heinemann, 1965) 北島義信訳『川をはさみて』(門土社、2002年)

 

20 学術研究協力部発行の広報誌「宮崎大学における研究活動紹介」(現在校正中)に研究内容の紹介文を書いている。公共機関に配布され、大学のホームペイジにも公開される予定である。すでにhttp://tamada.med.miyazaki-u.ac.jp/ には公開している。

 

21 原文は絶版で手に入らないので、スキャナで取り込んだ。全文(188ペイジ)は時間内には読み切れないので、B5版36ペイジに編集した。研修第一日目、私設診療所、卒業論文審査、エイズ発症騒動、ホスピス騒動など、そのまま残した箇所以外は要約に書き換え、分量的に数回で読み切れるように編集した。希望者には、別途、全文を用意した。

 

22 http://www.aneki.com/facts/Kenya.html 全体で45.22歳(男性45.02 / 女性45.43)

 

23 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ticad/tc_0.html

 

24長田裕明、小野香奈子、庄司健介「ケニア滞在記」、宮崎医科大学「学園だより」第87号14-15ペイジ(2002年12月31日)

 

25 表紙に日本国宮崎医科大学玉田先生様と書かれた絵はがきが舞い込んだことがある。かつて授業で出会った農学部の学生が、海外青年協力隊の理科の教師としてガーナに行って、「授業中に見た『ルーツ』のシーンを思い出しました」という内容の葉書だった。

 

執筆年

2004年

収録・公開

「ESPの研究と実践」第3号5~17ペイジ

ダウンロード

医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』

2000~09年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文(写真作業中)

アフリカのエイズ問題 制度と文学    玉 田 吉 行

 

宮崎大学医学部すずかけ祭シンポジウム「アフリカと医療」

はじめに

 

こんにちは。本日は、ようこそおいで下さいました。誠にありがとうございます。どうか、よろしくお願いします。

玉田と申します。旧宮崎医科大学は十月に統合されて、宮崎大学医学部になり、ここは清武キャンパスと呼ばれています。その清武キャンパスで英語の授業を担当しています。四月からは、旧宮崎大学の木花キャンパスで、「南アフリカ概論」や「アフリカ文化論」などの授業も担当することになっています。

この大学に来て今年で16年目になりますが、毎年、新入生の英語の授業でアフリカの問題を取り上げています。その授業の中で紹介した本のご縁で、山本さんが来て下さり、お誘いしたムアンギさんからも快諾を得、シンポジウムを企画した国際保健医療研究会の人たちの尽力もあって、今回のシンポジウムが実現しました。

今日は、山本さんとムアンギさんの話を受けて、限られた時間の中で、現状を生み出している制度と、社会の現状を映し出している文学を切り口に、僕の現在いる立場からしか話せないようなお話ができればいいなあと思っています。

これからお話する社会制度のように巨大な、マクロの世界も、1ミリの1万分といわれるエイズの原因となっているウィルスの世界も、目の前に見えるわけではありません。それらの本当の姿を見るためには、見ようとする意思や想像力がいるのです。

今日は普段考えたり授業で取り上げたりしている、

 

  • アフリカのエイズの現状、
  • それを生み出している制度、
  • 1992年にいったジンバブエでの体験、
  • 制度の生み出した現象やその中で暮らす人々の心のひだを描き出した文学について、

 

時間の許すなかで、お話したいと思います。

 

 

  • アフリカのエイズの現状

最近は授業でエイズの問題を取り上げ、イギリスの新聞「インディペンダント」のジンバブエに関する報告記事を毎年紹介しています。入り口で販売してもらっている英文のテキスト Africa and its Descendants 2 でも紹介し、今日お渡ししました資料に抜粋していますが、雑誌「ごんどわな」22号の「アフリカとエイズ」という記事の中でも紹介しています。

1995年7月ですからもう八年も前の記事ですが、50%を超えているといわれる軍隊や売春婦の感染率の高さ、子供や老人の世話と農作業を担っている女性の人口が急激に減って、田舎では社会的に、経済的に深刻に見舞われていることなどが報告されています。出稼ぎに出た夫が売春婦からHIVを持ち帰るので、「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」とも書かれています。更に、「数年後には平均寿命が、現在の68歳から40歳になるだろう」、「次の標的は南アフリカだろう」という予測で結ばれています。68歳という数字が大丈夫かなという心配はありますが、先日、インターネットで調べてみましたたら、2002年推計のジンバブエの平均寿命は、予測をすでに上回り、全体で36.5歳、女性35.1歳、男性37、87歳でした。ちなみに、ムアンギさんの国ケニアは、全体で45.22歳、南アフリカは45.43歳、日本は80.91歳でした。

去年の3月にNHKで紹介された番組でも、南アフリカ最大の都市ジョハネスブルグのアフリカ人居住区では3人に一人がHIVに感染していると報じられていました。このままいけば、国が滅びるのではないかと予測する人もいます。数字の信憑性はともかくとして、深刻な事態であるのは間違いありません。

 

2)それを生み出している制度

僕はたまたまリチャード・ライトというアフリカ系アメリカ人の作家がきっかけでアフリカの問題を考えるようになり、読んだり書いたりする空間を求めて大学にたどり着いたのですが、その中でいろいろ考えました。

なかでも、15,6世紀に大規模に始まった西洋による侵略の歴史が、形を変えて今も続いており、国連を無視して行われた今回のアメリカによるイラク攻撃も、基本的にはその延長上にあると考えるようになったのは衝撃でした。14世紀末にマルコ・ポーロが中国から持ち帰った火薬を武器に変えた西洋社会は、右手に銃を、左手にキリスト教を掲げて侵略を始めました。やがては人間を売買して大きな富を蓄え、その富を資本に生産手段を手から機会に変えて今日の大量生産の基礎を気づきました。産業革命によって人類が使い切れないほどの製品を作り出した人たちは、その製品を売りさばく市場とさらなる製品を生産するための原材料を求めて植民地争奪戦を繰り広げました。アフリカは狙われた市場の一つです。

植民地争奪戦は激烈を極め、世界戦争が懸念されて植民地の取り分を決めようとベルリンに集まりました。一番多くの分け前を取ったのがイギリス人で、その人たちの言葉が今は国際語と言われているわけです。結局、二度の世界大戦を回避出来ずに、日本人も交えて白人たちは殺し合いをしました。第二次世界大戦後は、戦争であまり被害を受けなかったアメリカが主導で、国連や世界銀行などを作り、今度は国際援助、資本投資の名目で金を貸して利子を取るという戦略を始めました。しかし、先ほど紹介した平均寿命から考えても、搾り取るにも相手がいなくなる、という事態にまできてしまいました。

南アフリカは植民地支配の極端な形を取りました。最初はオランダ人が、次いでイギリス人が入植しました。当初はインドへの中継地でそれほど重要なところではなかったのですが、19世紀に金とダイヤモンドが発見されてから状況が一変しました。武力でアフリカ人を支配したオランダ人とイギリス人は金とダイヤモンドを奪い合って戦争しましたが、決着は着かずに、南アフリカ連合連邦という連合政権を作りました。1910年のことです。そのころにはアフリカ人支配の構図は出来上っていました。その人たちは、出来るだけ長く続く搾取体制を作り上げようとしました。アフリカ人から土地を奪って課税するという形を取りました。無産者となったアフリカ人は税金を払うために家族と離れて働きに出ざるを得ませんでした。その人たちがいわゆる出稼ぎ労働者です。白人の経営する鉱山や大規模な農場の労働者として、あるいは都会の白人家庭のメイドやボーイとして、奴隷のように働かされました。家族を支えるだけの十分な給料ももらえず、一年中家族から遠く離れた土地で暮らさざるを得ませんでした。大量の、安価な賃金労働者を基盤にした産業社会という人もいますが、実際多くのアフリカ人から掠め取る奴隷制とも言える過酷な仕組みです。

 

3)1992年にいったジンバブエでの体験

アフリカの問題を考えるようになってから、いつか家族でアフリカに暮らしてみなければと思うようになりました。1992年に2ヶ月ほど首都ハラレで暮らしました。本当は南アフリカに行くはずだったのですが、当時はまだ南アフリカとの文化交流が禁止されていましたから、南アフリカには行けませんでした。ムアンギさんにも相談して、ジンバブエ大学に行くことにしました。『遠い夜明け』のロケ現場とは地続きですし、主人公のスティーブ・ビコが立っていた赤茶けた大地を見たいと思ったからです。

一握りの貴族と大多数の貧乏人しかいないので不動産事情が悪くホテル住まいを覚悟していたのですが、スイス人のお婆さんから運良く十万円の家賃で家を一軒借りることができました。行ってみてわかったのですが、敷地は500坪、ガーデンボーイに番犬までついていました。

アフリカ人の生活が知りたくて行きましたから、ガレージの隅の狭い小屋に住んでいるガーデンボーイのゲイリーとはすぐに仲良しになりました。資料のなかにも紹介していますが。毎日同じ敷地内でいっしょに住んでいて、ゲイリーは給料が一月400円ほどで、一年の大半は家族と離れて暮らしていることがわかりました。一月ほどして冬休みを利用して奥さんと3人の子供たちがやってきました。普段はおばあさんがいていっしょに住めないということでしたが、1ヶ月ほど家族5人で暮らしました。僕の二人の子供と入り乱れて毎日いっしょに遊んでいましたが、その蹴っていたボールは一個5000円くらい、ゲイリーの給料より多かったのです。休みが終わって田舎に戻った2人の子供の小学校に寄せてもらったのですが、そこでは大半の人がゲイリーのように小学校を終えたら街に出稼ぎにゆくようでした。ゲイリーの家は、最初に紹介したジンバブエの報告記事そのままで、男は出稼ぎに、女性が農作業をやり、老人や子供の世話をしていました。

ジンバブエには百年ほど前に南アフリカの移住者が軍隊を連れて、第2の金鉱脈を求めてやってきました。金鉱脈は見つかりませんでしたが、その人たち帰らずに、アフリカ人から土地や家畜を奪って国を作り、居着いてしまいました。それまで自給自足の生活をしていたゲイリーのおじいさんたちは、出稼ぎに行くようになりました。

ジンバブエに居る間、搾取する側にいる思いで胸が苦しかったのですが、日本に帰ってくると、ものは豊かでもその繁栄の一部が他者の搾取によるものだという思いはつのるばかりです。

 

4)制度の生み出した現象やその中で暮らす人々の心のひだを描き出した文学について

ゲテリアの『ナイス・ピープル』(この部分については次回に掲載する予定です。)

 

最後に

アフリカの問題を材料にして、新入生には、今まで培ってきた自分の価値観やものの見方が大丈夫かという問いかけをして、自分は何をしたいのか、自分に何ができるのかを考えられる機会が提供できればと思って、授業をしてきました。

アフリカの話をして多くの新入生が、自分は何も知らなかった、アフリカかわいそう、日本に生まれてよかった、自分に何か出来ることはないか、せめて事実を知らないと、そんな反応が多いです。しかし、長いこと授業をしてきて、本当にそうかなと思います。授業で考える機会があってもあくまで人ごとで自分にとってそれが何なのかを考えない学生は、授業が済むとすっかり忘れます。きのうもムアンギさんと大阪工業大学でごいっしょしていた17,8年前の話をしていたのですが、アルファベットで名前も碌に書けない学生に単位を出さない現状を嘆いておられました。医学部の授業でも、たくさんの人が授業に来ないし、来ても寝ているし、現にこの教室でもたくさんの人が熟睡しているらしいです。僕自身は、親の援助なしに夜間の大学に行ったせいもありました、寝ている人たちをみますと、親に出してもらって車乗り回して遊んでばっかりいないでちょっとは勉強したら、将来生死にかかわる患者を相手にするのに、自分の体調も管理できないで風邪ひいててどうする、風邪を治療する人が風邪引いて大丈夫か、といいたくなりますが、どうもその思いが充分伝わるとも思えません。だから、そんな学生からアフリカかわいそうと言われても、と思ってしまうのです。

深刻な現状を考えれば考えるほど、将来の希望が見いだせません。だから、授業の最後にいつも、結論は、ため息しかでないなあ、と言葉をつぶやくしかないのですが、それでも、未来ある若者に将来を託すために、ため息をつきながら、せめて、あきらめずに語り続けようと思っています。いつか、思い出して考えてもらえる機会になればと願っています。

執筆年

2004年

収録・公開

未出版

ダウンロード

「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム草稿)

2000~09年の執筆物

概要(作業中)

2003年11月23日(日)に宮崎大学医学部すずかけ祭で開催されたシンポジウム「アフリカと医療」で行なった講演の記録で、国際保健医療研究会の葛岡桜さんがして下さったテープ起こしの原稿に手を加えたものです。テープ起こしの原稿を見ながら、我ながらあまりの日本語のひどさに悲しくなりました。美しい日本語の会会員などと称していることに後ろめたさも感じました。そして、普段の話し言葉も、話し方も考えなくてはと思いました。これからは、美しい日本語の会準会員を名乗ります。

当日は、時間の関係で、当初予定していた内容を変更して話をしました。当日の内容に手を加えたものがこの「アフリカのエイズ問題―制度と文学」で、その前に、事前に配られたパンフレットの表紙とその内容を載せました。

予定していた原稿につきましては、ずいぶんと遅くなりましたが、手直しのうえ「アフリカとエイズと文学」と題して、近々ホームペイジに掲載の予定です。

ご一緒した山本さんとムアンギさんの話は、ホームペイジには掲載できませんでした。

(パンフレットの表紙)

 

 

第28回すずかけ祭医学展

宮崎大学医学部

シンポジウム「アフリカと医療」

~世界で一番いのちの短い国~

 

●国際医療ボランティア・派遣医師

山本敏晴

「世界で一番いのちの短い国」

…本当に意味のある国際協力とは?…

 

●四国学院大学社会学部教員

Cyrus Mwangi

「アフリカにおけるエイズとセクシュアリティ」

 

●宮崎大学医学部英語科教員

玉田吉行

「アフリカのエイズ問題―制度と文学」

 

日時 2003年11月23日(日)1時~4時

主催 宮崎大学医学部国際保健医療研究会・英語科

場所 宮崎大学医学部臨床講義棟205教室

 

主な対象者; 発展途上国での医療活動やボランティア活動などに従事することも含め、その分野に深い関心のある医療関係者、医療系学生、将来そういう分野で活動したいと考える中学生や高校生、および、国際保健活動に関心のある方々。◆

 

本文(写真作業中)

アフリカのエイズ問題―制度と文学     玉 田 吉 行

玉田と申します。よろしくお願いします。旧宮崎大学と旧宮崎医科大学が(10月に)統合して、こちらは清武キャンパス、向こうは木花キャンパスと呼ばれています。実際には(統合後の最初の授業が始まるのは)4月からなんですが、(今は)こちらの方で英語を担当しています。4月からはさっきお話にありましたように、アフリカ文化論とか、南アフリカ概論とかの名前で、(木花キャンパスの方でも、主題教養科目の)授業を担当する予定です。

今回のシンポジウムは、わりと準備していたんです。一応、こういうタイトル(『アフリカのエイズ問題―制度と文学』)で、初めに少し挨拶をして、それからアフリカのエイズの現状を少しお話してと、本当はそういうつもりでした。

病気でもそうですが、(たとえば)喉が痛いとか、それは(それで)原因があるわけです。西洋医学の場合だと、対症療法で熱を下げましょうとか、薬を与えましょうとか、まあ、そういうことになるわけですが。本当は、免疫力があれば、病気にならない確率が高いわけで、「ちゃんと良く寝ましょう」、「規則正しい生活をしましょう」、「むちゃくちゃ飲まないようにしましょう」、そういうことが一番大事だと思うんですが、そのためにはやっぱり何が原因かというのを知らなければなりませんし、出てきた症状から、病気の場合だと、診断しなければいけません。

実際に、エイズの惨状は、今日ムアンギさんがお話されましたように、大陸が滅びるかもしれないという可能性を含んでいるほどだと、ぼくは思っているんですが。それは、HIVだけが原因というわけではなくて、それを生み出した原因というのはもっと大きな所にあると思うからです。

ぼくは、たまたま読んだアフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライトの祖先が奴隷貿易で連れてこられたという縁で、アフリカに辿り着きました。その人はアメリカから追われるような形パリに渡った人で、常に「自分は何か?」を問い続けていました。生まれながらにして、肌の色が黒いというだけで疎外されていましたから。同じような意味で、ぼく自身もいつも「自分は何か?」を問い続けていました。生まれてくるとわけのわからない親でしたし、子供もたくさんいて貧乏だったですし、大学入試はすべって行く所はないし、学校へ行っても腹が立つし、地域社会にも腹が立つし。そんな状況でしたから、自分の居場所というか、つまり疎外された状況のなかで、自分はいったい何ができるんだろうか?とか、どうしたらいいんだろう?とか、そんな事ばかり考えていました。リチャード・ライトがアフリカの問題を取り上げていたのがきっかけで、僕自身も自然にアフリカについて考えるようになりました。

ですが、そこで考えて、(ぼくはここの英語の授業でもアフリカの話をずっとしてきたんですが。ここに来て16年になります。その前の5年間も含めますと、20年以上にもなりますが。)最後にたどり着いた地点は、山本さんとか、ムアンギさんとはだいぶ違うとは思うんですが、なんかため息しか出ないというか、希望的な観測が全くもてないというか。それもありますし、それから実際に長いあいだ授業をしていますと、この部屋でもそうですが半分以上寝ている中で授業が行われていますし、(学生は)あまり来ません。ほかの大学でもそうですが。以前いました大阪工業大学とかだと、授業の一番初めに出席をとって、ぱっと見上げたら前半分全部いないんですよね。それで、おかしいなぁと思って、出席を後からとるようにしたら、最初あまり来なくて、終わりの方に(たくさん)来ましたね。(非常勤としてご一緒した)ムアンギさんは、アルファベットで名前書けない奴にどないして単位だすねん、とぼやいてましたね。大阪工大は、(偏差値でいうと)関関同立(関西学院大学、関西大学、同志社大学、立命館大学)の次くらいだと言われている大学です。(ムアンギさんも僕も)ひどいところで授業をやっていたわけです。ここでも実際に授業をやってみますと、(学生は)授業には来ませんし、(来ても)半分くらいは寝ていますし。今、(その時の学生が)二人くらい(会場に)来ているんですが、その学年のときの話です。ぼくは一年間一生懸命話をしてきて、(それでも大体半分くらいは寝てましたけど)すごく頑張って(まとめの話を)やりだしたのに、ふと見ましたら前の方で漫画を読んで、パンを食べている学生がいるんです。腹が立って、こんなやつは絶対に医者にしたらあかんと思って、授業やめて出てきたんです。医学部でさえそうですから、別に医学部でなくてもいろんなところでそんな状況があるのが実際のようです。授業中に夢中になって携帯電話をしている人もいますし、すこし進歩的な話をしたら寝てしまいますし。ま、そういうのが現状のようです。

どちらかと言いますと、(授業で)アフリカのことをしながら日本にいて、その狭間に立って、その希望を託すべき、有能な若者と実際に授業をやりながら、その合間に立ってみますと、いろんなことが見えてきて、やっぱり最終的に、授業の最後で「いや申し訳ない、もうため息しか出ない」という感じになってしまうんです。でも(そのような状況でも)20年間ずっと話し続けてきたのは、そこにしか希望はないんじゃないかなと思っているからなんです。ですから、今日もそうですが、やる事に対しては、やはり準備もしますし、それなりにやります。ですが、人のためにやっていますと、例えば、「なんで授業に出てこれんのや?」とか、「なんで寝てしまうねん?」と思うかもしれないんですが、でもその人がいつかこの話を思い出して、医者になったときに、ああ、あんなことをいってたなと思ってくれること…まぁこれは実際にあるんですが…そのほうが一番大事で、ひょっとしたらそういう希望があるのかもしれません。でも、実際にはそんなに希望があるわけでもないし、だけどやっぱり喋り続けないといけない、みたいな(感じです)。そういう狭間で、ぼくは毎日少しずつ…。あ、もちろんこのシンポジウムはなかなか大変で。最初、授業でアフリカの話をしていたときに、山本さんの本(『世界で一番いのちの短い国』)を課題図書で紹介しました。一年生の石崎さんが、私知ってるよ、みたいな感じで。すぐメールを打って山本さんに「講演をお願いします」と頼んでみたら、山本さんからすぐ返事が来て、「それじゃ玉田先生に相談してみてください」、と(いうことになりました)。それで(講演が実現しましたので)、今日はぼくとムアンギさんは二人とも、付け足しみたいなものです。国際保健医療ですから、山本さんの話に関連して話をするので、ムアンギさんも来ませんかみたいな感じで電話したわけです。で、はじめの話では、前半、半分以上(山本さんに)やってもらって、ムアンギさんとぼくとで残りの時間を分けるつもりだったんですが、もうほとんど終わりであと(残り時間が)5分くらいしかない。(一同笑)で、一応ぼくがここで今言いましたように、普段考えてきて授業の中で言っているような話をした後、実際に1992年にジンバブエに行ってみて、「ほー、やっぱり同じやった」みたいな話をして(と考えていました)。

実際には、ぼくらは大学にいる(知的な欲求を満たしやすい環境にいる)わけですから、ほかの人の事(実際には行けない外国のことなど)を知るために、例えば、山本さんの話を聞いたり、ムアンギさんの話を聞いたり、そういう部分も大事ですが、制度(についてだけ)じゃなくて、実際に生活している人のことを書いているとか、文化(について書いてる)とか、そういうものを読めればそれにこしたことはないと思います。例えばエイズの話でも、1991年に、エイズが問題になり始めた時期のケニアの混乱した状況を描いた小説をゲテリアという作家が書いています

ぼくは今、(本学の)2年生で授業をやっているんですが、実際に授業やっていましても、2年生は忙しいからと、あんまり来ませんし。授業では、そんな深刻な問題を話していても、半分くらい寝ていますけど。

そういう風な本の内容をみてみますと、例えばケニアの場合など、実際に今日お話しましたように、植民地(支配)で、それから新植民地(支配)で、その侵略は今も続いてるんですが。ですから、極端に言いますと、日本のように、中産階級がいるわけではなくて、一握りの貴族と西洋の人たちが手を結んで長い事(新植民地体制を)引きずってるわけで。で、ごく一部ですよね、その(支配階級に属している)人たちは。その人たち以外はほとんど全て貧乏人で。そういう構図の中でHIVにこの人達もたくさん感染しているんです。いっぱい。その小説は、『ナイス・ピープル』というタイトルですが、こっちの方の人たち…治すものの側(の人口)がものすごく減ってきてるわけで。こっち側(支配される側)の方は、そこにムアンギさんが持っていらっしゃいますが、メジャー・ムアンギという人が書いている本 [『最後の疫病』(2000年)] では、そのHIVに関して、一般的な人たちが西洋文明を、受け入れるか – つまり、HIVは精液や血液で感染しますから、原因がわかっているはずですよね、だけど実際には抑えられないみたいな、それのせめぎ合いみたいなところが書いてあるわけです。その中で、どういう風な感じで人間の尊厳を保つかみたいな、そういう部分も書いてあるわけです。

僕自身はもともと、文学を志して、30ぐらいで高校(の教員)を辞めて、それから書いたり読んだりするには大学しかないって思って、5年間ほど(通算にしたら9年位)浪人してるんですが。ですから、ここが初めて(の大学)で、それ以来で、16年目になります。そういう感じで生きてきました。

文学は、生き死にの問題が優先される場合…戦争をやっているときには文学は(直接には)役に立たないかもしれませんが、やっぱりものすごく大きな役割を持っています。根本的なことになるんですが、人間が人間に何か教えられるかと言うのは、非常に疑問で。その事を一年間ほど考えて、棒に振ったことがあります。結論は、やっぱり分からないというか。例えば今授業で先生をやっていますけど…何年か前に生まれてきて、先に少しだけ多く覚えて、それを言ってるだけですから。そういうことを考えていましたから、中学や高校では、こいつ何言ってんねん、そんなもん教科書に書いてあるやないか、といつも腹立てていたんです。だけど、そういう側面はどうしてもあるように思えますので、人のために教えてやるというのは、少し違うかな、と思っています。そんなことを考えながら、もんもんと授業をやっているんです。

ですから、ここで一番いいたかったのは、やっぱり、そのアフリカの問題を授業の中で取り上げているのも、大学の時代がやっぱり大事(な時期)だと考えているからだ、ということです。なぜかと言いますと、知的な欲求は、(今は物が豊かで、なんか無理やり勉強やらされて、その中でそがれてる部分もものすごい多いと思うんですが)本来は、何か知りたいとか、何かやってみたいというところから始まります。知的な欲求が、人間にはすごくあると思うんです。だから、そういう欲求を満たすには、(大学に)入ってきて、その中でいろいろ話を聞いて……。そのときに、人生が方向付けられる事があるかもしれないですし。ですから、そういう意味では、ぼくは大学入ってきた人たちに、できるだけ、「今まで持ってきた価値観は大丈夫か?」みたいな揺さぶりのための材料として、アフリカの事をずっと話したりしてきたんですが。ぼくがその中でよくするのは、14、15世紀ぐらいから、中国から持ち帰った火薬を武器に、西洋社会が銃(武器)を作って、それから侵略を始めたという話です。当初は、東アフリカを略奪したりしていましたが、もっと恒久的に略奪しつづける方法はないかと考え出して、結局は片方(の手)に聖書、もう一方に銃を持って侵略を始めたんです。南アフリカなんか、オランダ人に侵略されたんですが。1972年にマジシ・クネーネいう南アフリカの詩人が来て、多分あのときだと、日本の文学者の野間宏とか針生一郎とか、その辺の人に案内してもらったと思うんですが。その人がオランダの出島を見て、「日本人てえらいなぁ」と言ったそうです。実際に、南アフリカはオランダ人に侵略されましたからね、「(オランダ人を出島に閉じこめた)日本人はえらいなあ」という意味でしょうが、そういうことを、ぼくは雑誌で読んだことがあります。実際に、南アフリカはそういう形で侵略されていったんですよね。そのうちに、今度は人間を売買し始めて、ものすごく片一方(西洋)は富んだわけで、その資本で、今度はもっと儲ける方法を考え(始め)たのです。つまり、奴隷貿易は、大きな損失(リスク)もありますよね。(逃亡とか反乱とかの)リスクを伴いますから。だからもっと効率よく儲ける方法、つまり今まで手でやっていたことを機械でやるようになって。ものすごくたくさん作って、それを売り始めたわけです。売るための材料をもっと手に入れるために、植民地化を始めます。その勢いはとても大きかったわけです。そのときにあつかましく、たくさんの植民地を取ったのは、英語をしゃべっていたアングロ・サクソン系の人達です。特に文明のあったケニア、ガーナや、ナイジェリア、南アフリカ、ジンバブエなど。とにかく、文化の発達していた所ばかり狙ってたわけです。その人達は自分の言葉を押し付けました。押しつけられた国は数多く、(今も経済的に結びつきが強い)Common Wealth countriesは、確か51か52あると思いますが。その人達は、(国として)英語をしゃべるようになってるわけです。ですからジンバブエに行った時もそうでしたが – ジンバブエはショナ人がほとんどなんですが – それが、キャンパス内で(ショナ人同士が)英語でしゃべっているのです。みんながそうなんです。自分の子供に母国語のショナ語を教えないで、英語を教えている人が増えているようです。名前もAlexや、そんな名前ばっかりです。そういう傾向は顕著で、インドもそうらしいです。小田実さんがインドで行われている英語支配は、だいたい形を変えた侵略じゃないかのかねとあるインドの友人に尋ねたら、何を言ってる、侵略そのものだ、と言い返されたと言ってましたが。そんな状況になっているようです。

いまさっき、山本さんがシェラレオネ(の平均寿命が)34歳とおっしゃったんですが、何日か前、インターネットで調べてみましたら、ジンバブエの場合、36.5歳でした。1995年の記事ですが、イギリスのインディペンダントという新聞を授業で読んだことがあります。その記事は、2010年くらいまでには平均寿命が55歳くらいから40歳くらいに落ち込むだろうと予測していました。 55歳(という元の数字)が、そんなに高くないとぼくは思いますけれども。ここ(提示したグラフ)でみてもらったら分かりますが、ムアンギさんのケニアも、南アフリカも、45歳ぐらいです。日本は80歳こえていますから、このあたりのところは、(原因が)絶対あると思います。そういうふうなことを考えると、形態は変わっても(侵略は)ずっと続いているのです。

実際に知的なものを考えて世の中をなんとかしていかないといけないという大学生でさえも、知的な好奇心が薄い(人も多い)ですし。それから、政治とか、社会的なことをあんまり考えません。今ぼくがお話したようなことが、その侵略の延長だとしますと、アメリカなんかずーっとそれを続けているわけです。その国が国連を無視して、イラクを侵略した事を、ぼくらは止めることもできなかったわけです。そういうふうなことに対して、そういうことを考えもしないと言いますか。その辺りのところに対してぼくはどういう風に話しかけたらいいのか。すごく、とまどいながら。それでもやっぱり言わないといけないな – そういうところで過ごしていますね。

南アフリカに関して言いますと、ジンバブエで…ジンバブエに行って、家を借りました。今言いましたように(ジンバブエには)貴族と貧乏人しかいませんから、ほとんど借家はないんですが。でも、たまたまみつけてもらって。10万円の家賃ですと言われて、行きましたら、500坪ですよ、これくらい。ちゃんとガーデン・ボーイ付きでした。知り合って、いろいろ話を聞きましたら、その人の給料は4千円くらい(ひと月ね)。子供たちも(その人の子供たちと)一緒に遊んだのですが、遊びに使ったボールがひとつ5千円くらいでした。実際はそんな中で生活をしていて、その人の田舎のほうに行ったんですが、(写真をうつしながら)こういうところに住んでいて、ジンバブエに関しての新聞にあったように。大体、田舎のでは女性が農作業と、それから老人や子供の世話をしてるんですが。HIVで、みんな倒れていくんです。

ヨーロッパ人がやって来たときにどんな侵略の形態を取ったかと言いますと、つまりアフリカ人の土地を奪って課税したんです。課税されて、その現金を払わなければなりませんから、みんな出稼ぎに出ざるを得ませんでした。たいていは鉱山か、農場か、白人の家か、工場か。たいがいそれは短期契約…つまり(労働単価の)一番安いパートタイムです。男ばっかり集めてコンパウンドという、まぁ、日本で言うたこ部屋ですね。そこに売春婦が入りますから、そこで感染します。こんどは、1年に2回ほど田舎に帰って、奥さんにうつすんです。アフリカの場合、特にそれが極めて多いのです。英語では「マイグラント・レイバー」、いわゆる季節労働とか、出稼ぎ労働とかいわれます。そういうシステムがあるわけです。それは今さっきも言いましたが、実際に、ぱっと略奪するのではなくて、永遠に略奪し続けるというか。だって、奴隷みたいに、大の大人が24時間中拘束されて、ひと月4千円ですよ。今(写真に映っている)ここで子供達が遊んでいましたが、ここはスイスのおばあさんが持ってるところで、そこの人達(ショナの人たち)は子供が遊びにきても、ぼくらがたまたまいたので子供たちもいましたけど、普通はそこに入れてもらえなくて。家族とほとんど一年離れて(暮らしているんです)。(田舎に)帰ったら、家も大きく土地もあるんですが。だから、そういう状態ですよね。それは、いってみれば奴隷と一緒じゃないですか。経済の配分は、システムは……。それが基礎なんです。あまりそういうことは言われないんですが、安価な労働力によって、人が生産したものを掠め取ってるわけです。実際に例えば、ここ(臨床講義室)の電力でも、そうですよね。南アフリカとか、ナミビアとかその辺りの安い労働力で、(ウランが)掘られて運ばれ、(日本では)安い電力が供給されているわけです。そういうことを考えてきますと、ぼくらは、完璧に加害者なわけです。そのことを山本さんも、ムアンギさんも言われてましたが。それが問題なのです。何が問題かというと、(たいていの人が)その事にも気が付いていないことなんです。

そんなことを考えてみますと、自分の自己存在も肯定できるのかなと思います。やっぱり生きる自信が持てないと思いながら。(授業で)そんな話をすると半分くらい寝てしまいます。もう、ひどいのになると、授業終わった後、あー、なんてあくびして。あーもう(受験勉強で詰め込んだ)英語も忘れてしまった、なんて言って。授業終わった直後に言われますと、さすがに、がっくりときますが。でも、現実なんですよね。

アパルトヘイトがあったときに、(ヨハネスブルグの)日本人学校に(取材に)行って、(朝日テレビの)「ニュースステーション」がインタビューをして、日本人学校の校長は(管理職だから)、「いやー、もう危険だから、(安全確保のために、もっと)フェンスを高くしないと」、と言ったんですが。せめて、「将来を託す子供達だから、知らない所に来てぼくらにできないことをやってもらいたい」くらいは言ってもらいたいですよね。企業の特派員の子供達が大きな顔をして、「あの人達とは生活が違うから雇ってあげなくちゃいけないですよね」と言うんです。「せっかく一緒に友達になったんだから、もう帰りたくない」くらいは、せめて(その子供たちに)言って欲しいですよね。

良く分かりませんが、現状がどうであれ、受験勉強で疲れて、何もものを考えないようになって大学入ってきたとしても、例えばぼくらみたいに授業する立場の人間が、「もうしゃーないから」といって諦めてしまう、そうなったら終わりじゃないですか。そう思っているんです。しかし、今の状況でぼくらが何かが言えるかといったら、いやー、あまり自信がなくて、何かぶつぶつ言いながら、「ぼくは英語嫌いです」とか、「外国人が苦手です」とか言いながら、最後にぼそっとと「いやー、ため息しか出ない」としかいえないんです。ですが、人のためだけにやっているわけではありませんので、ぼくは、最初にも言いましたが、自分が読んだり書いたりする空間を求めて大学にも来ましたし、授業をもつことで実際に生活もしているわけですから、その責任として、やっぱり、それでもきちっと準備をして、ぶつぶつ言いながらでも、しゃべりかけないといけないと思っています。とくに、医者になる人が多いですので、ぼくは、「医者になる人が風邪をひいていてどうする?」と、いつもそれだけは言うんです。(高校の教員をやっていたときにもあったのですが)ここ(宮崎)の人なんかもそうですが、自分はたばこを吸いながら、「お前たち、たばこ吸うな」、なんて生徒指導でやっている人がいますけど、そんなの(元々)信用できるわけがありませんから。医者(の場合で)もそうだと思うんです。だから、今はどうか分かりませんけど、いつか気が付いて、(患者の)いのちを預かるときになって、山本さんもお話されましたように、勉強するのは大事だということを思い出して、自分のために考えてもらえればいいなぁ、と思います。

今回、たまたまこういう形でやったわけなんですが、アンケートの中にもお書き下されば、今日お話できなかったこととか、興味がおありの方に、ホームペイジとか或いは印刷物とかを通して、連絡が取れると思います。

もう13年にもなりますが、アパルトヘイトが廃止される前の年に、この下の105(臨床講義室)で、南アフリカの作家をお呼びして講演会をしたとき、またやったらどうだって言われたんですが。もし、機会があれれば、誰かをお呼びしてまたやろうかな、と思っています。予定していた事が充分にはできなかったんですが、わざわざ足を運んで下さって、有り難うございました。

執筆年

2004年

収録・公開

出版(私製)

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「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム報告)