つれづれに:家庭教師3(2022年4月21日)

つれづれに

家庭教師3

とまとの柵(工事中?!)

 夜半過ぎから雨になり、今も雨が降っている。夕方過ぎまで続きそうである。雨を嫌うとまとの柵を作るのに思いのほか苦心している。竹を編んで拵えればいいのだが、腐らず長持ちするように工夫しようと考えたのがそもそもの始まりである。小さな温室のようなものを作ろうと考えて量販店で探している時に、屋根の部分の円形の支えと側面の支えを組み合わせる鉄製の部品を見つけて、これにしようと2回に分けて持ち帰った。結構長いので、自転車で運ぶのも大変である。さっそく組み立て、屋根になる部分の骨組みを他の支え棒で固定したが、これがどうもうまく行かない。土の部分が平行でないから捻じれるのかとも思いながら色々やってみたが、屋根の部分に固定した細い支えの棒がねじ曲がってしまった。ねじれ方が尋常でないので、初めて気が付いた。支え棒の長さが違うのではないか。調べてみたら、最初に買って来た4本と2回目の4本の長さが10センチほど違っていた。道理でうまくいかないわけだ。あした雨の降る前に買って来るか、そう思っていたら、夜半から雨が降り出した。あしたは白浜だから自転車に乗ると運動し過ぎてしまうし、仕方がない、土曜日か。雨に当たらないように、植えたとまとの苗にバケツを4つ被せとくか。思い付きの応急処置、やれやれである。

左側の買って来た苗と種からの苗

 100点の中学生、頭のいい二人の中学生、茶と琴を習いに行った先の高校生、それにコーチまがいの毎日、文字通り大学に行っている暇もないくらい忙しくて、2年留年をした。しばらく後でまた二人、今度はそれぞれ高校生の母親から頼まれた。慣れとは恐ろしいもので、「受験勉強もしなかったから、まさか家庭教師を頼まれるとは思ってもみなかったが」(→「家庭教師1」、4月10日)と後ろめたい気持ちを持っていたわりには、さも受験勉強でもしたかのような不遜な振る舞いだった。
一人は私立高校の一年生で、すでに高校生になっていた「頭のいい二人の中学生」のうちの一人がテニス部の「先輩」だと言っていたから話を聞いたのかも知れない。子供の前で母親が少しおどおどしていた。子供は母親を少し鬱陶しく思っているようで、何となく不合格が尾を引いている感じだった。私といっしょに同じ高校を受けて不合格となり私立高校に行くことになった時に同級生が見せた物悲し気な表情が思い浮かんだ。通り道だったので毎朝迎えに来てくれていた同級生が行ったのも同じ私立高校だった。その時期(多感な時期、田舎でもあり今ほど進学する人が多くなかった時期)に地元の進学校に行けなくて、諦めて私立高校に通う本当の気持ちは、当事者でないときっとわからないだろう。後に大学院のゼミでいっしょになった人も同じ私立高校だったが、そんな感じは微塵もなかった。高校時代は野球でも有名だったチームでエースだったらしく、現役で同志社に行き、教員再養成向けの大学院に現役入学。担当教授の感化を受けてイギリス文学、それもキーツに関心を持ち、いたく教授に気に入られて楽しそうで、「物悲し気な表情」とは無縁のようだった。県立高校が二つしかなく、三番手は隣の市の県立高校を選んでいた田舎町とは違って、神戸に近い明石市の中学校だったので進学先の選択肢の幅が格段に広かったという進学事情が背後にあったかも知れない。

2列目左端がキーツくん、黒髭だが周りは教官並みに老けた「大学生」だった

 2年ほど家に通っていろいろ話もしたが、少しは役に立ったのか。親子関係はうまく行ってるんやろか。私が教員になって中途半端のまま終わってしまったが、高校受験の傷が大学入試で少しでも恢復していればと願うばかりである。

河川敷近くに家があった(→「作州」、3月14日)

 もう一人はコーチまがいのことをしていた2年目のチームのキャプテンだった男子生徒の姉で、地元のもう一つの県立高校の2年生だった。弟は背は高くなかったが負けん気が強く、スポーツ向きだった。当然のような顔をしてキャプテンをしていたが、あまり勉強向きではなかったらしく、隣の市の三番手の高校に行っていた。語学にも向いてなさそうだったが、なぜか私立の外国語大学に行ったと聞く。私とコンビを組んでいた背の高いチームメイトも勉強は苦手だったらしく、その弟と同じ高校だった。市を跨いで通えるようにしていたのは単なる制度上の問題である。どういう政治的な経緯があったかは知らないが、こちらから行けるのだから、当然、成績のいい人が向こうからも入学して来る。数は多くなかったが、隣の市から通っていたクラスメイトもいたと思う。社会活動で仲の良かった一つ年上の人は成績がよくて地元に残った口である。高校の時は社会活動で忙しく浪人をしてしまったが、一浪して神戸の法に行って判事となり、最後は大阪高裁の判事だったらしい。高裁の判事になる時に「東大、京大以外で、と驚かれたで」と得意そうに言っていた。世評とは無関係に、優秀な人もいたわけである。
本人は弟とは違って体が元々強くなかったようで、控え目でおとなしい性格だった。大きな紡績会社で働いている父親も含めて家族四人で職員用の社宅(↓)に住んでいた。私立高校に通っていた生徒と同じように、2年ほど家に通っていろいろ話もしたが、少しは役に立ったのか、そんな思いが残っている。卒業してから何年か後に、たぶん高校の教員をしている頃に家まで訪ねて来てくれたことがある。少し先に結婚することになったと話をしてくれていたが、少しも嬉しそうではなかった。私が何かを言うのを待っていると感じたが、敢えて何も言わなかった。生きてせいぜい30くらいだろうという思いが先に立ったからだと思う。それが二人が会った最後である。

紡績会社の社宅(→「引っ越しのあと」4月1日)

次は、家庭教師4、か。