つれづれに:反体制ーグギさんの場合3
つれづれに:反体制ーグギさんの場合3
小島けい挿画(『アフリカとその末裔たち』)
反体制ーグギさんの場合の続き、今回は言語についてである。グギさんは母国語のギクユ語で書き始めた。それまでジェームズ・グギの名で作品を書き、欧米でも評価を受けてきた。しかし、考えればおかしな話である。日本人が日本語で書かずに英語で書いて評価を受ける、実際にはそんな状況は考えられない。しかし、第二次世界大戦では台湾や韓国で日本語を強要しているし、アメリカに英語を強要さる可能性がなかったとは言えない。北海道はロシア語、本州は英語などという案もあったそうだから、荒唐無稽という話でもない。ハラレ(↓)のジンバブエ大学で出会った学生(「アレックス」)に、日本は経済力があるのだから日本語をしゃべらせればいいのに、と言われたことがある。私が滞在した1992年の百年前にはほとんど白人がいなかったのに、南アフリカケープ州から私設の軍隊を引き連れて第2の金鉱を探しに来たイギリス人入植者にそのまま居座られ、家畜や土地を奪われた末、侵略者の言葉である英語を強要された。私が滞在した大学では、9割がアフリカ人なのに、授業は英語で行われ、アフリカ人同士が英語でしゃべっていた。僅か100年の間の変わりようである。
1949年生まれの私は戦後の急速なアメリカ化(→「戦後?①」、2021年11月24日)→「牛乳配達」、3月30日)に馴染めず、英語は侵略者の言葉で抵抗があった。まさか英語をやって教員になるとは思ってもいなかったが、考えれば、英語の教師の定員が多かったから、職の間口が広かったから可能性が大きかったわけである。言い換えれば、学校での英語の時間の占められる割合が多かったから、職の間口も広かったからに他ならない。大学の職を探した時も30を過ぎてから院に行き、非常勤をしながら専任が見つかったのが40前だが、それでも英語だったからである。元々職の定員が少ければ見つけようがない。東京外大のモンゴル語を出て、そのまま修士、そのあと早稲田で博士号を取っても、短期の助手の口はあっても、専任にはなれずにいる人もいる。
前回紹介したケニアの文化状況(→「反体制ーグギさんの場合2」、6月3日)でも、侵略者の言葉も含め、毎日の生活でいかに外国資本に食い物にされているかが力説されていた。『作家、そのの政治とのかかわり』の五章「ケニアの国民文学と文化の基礎としての民族語」でグギさんは文学と言語について次のように書いている。
グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』
「これまで英語でケニヤ(↓)の作家によって生み出されてきたものは、決してアフリカ文学ではありません。それはアフリカ系サクソン文学であり、フランス語、ポルトガル語、イタリア語、スペイン語などの外国語でアフリカの作家が創作した文学の体系の一部でしかなく、正確にはアフリカ系ヨーロッパ文学と呼ぶべきものなのです。
ケニアの国民文学は現代ケニアを構成する諸民族の言語によって創作をすべきです。すべてのケニア民族の言葉によって受け継がれてきた豊かな文化や歴史の国民的伝統をうまく使うことによってはじめて、国民の血肉を得ることが出来るのです。つまり、ケニアの数民族のそれぞれの大多数が所属する階層であるケニア農民大衆の豊かな言葉と文化と歴史の源に至るならば、そのとき初めてケニアの国民文学は成長もし、力強く発展もするのです。
しばらくの間、この言葉の問題についてお話しさせて下さい。どんな言語も物質的な生活を支える人々の生産に社会的な基盤を置いています。つまり、衣食住という生活のための物質的な手段を作り出すために自然と格闘する労働での人類の協力や伝達という実際の活動に基盤を置いているのです。労働、つまり富の生産や交換、分配においては、口頭での手がかりという体系としての言語は、人々の相互伝達の産物であるのです。言語は歴史的にみて、社会的に必要なものとして生まれます。
しかし、やがて口頭での手がかりというある特定の体系が、自然と社会の産物をめぐるふたつの闘いについてのある一定の歴史的な意識を反映するようになります。その人たちの言葉は長年の総体としての闘いの記憶装置となるのです。こうして、言葉はその歴史的な意識のなかの継続性と変化の双方を具現するようになります。言葉が神秘的な自立の源になると考える人がいるのもある一定の民族の総体としての記憶装置としての言語のこういった見方に依るのです。その人たちに共通する主体性の基盤を形成する過去の業績や失敗の民族の総体としての記憶装置を殲滅されるにも等しいという理由から、自分たちの言葉が殲滅されたり、他の言語に完全に同化させられたりしないように、色々な国や民族が武器を持って立ち上がるのも同じ観点に依るのです。それは歴史からその共同体を根こそぎにしてしまうに等しい行為なのです。
歴史はそれぞれ異なった世代の継続に過ぎません。それぞれの世代は前の世代から手渡されたものや資本基金や生産力を利用します。そして、一方では全く違った状況の中で伝統的な行為を継続しながら、他方では、古い状況を全く違った活動に修正するのです。(カール・マルクス)
言葉は、それぞれ違った世代のこうした継続性の産物であり、生活つまりは文化の手段を預かってくれる銀行員でもあり、生産の総体としての経験のそういった修正を反映しています。イメージの中で考える過程としての文学は言葉を利用し、その言葉の中に具現された総体としての経験つまり歴史に迫ります。書くときには、すべての囁きや叫び、泣き声、それに過去の声が発した数々の愛憎を聞かなければいけません。そういった声は決して作家に外国語で語りかけたりはしないのです。
というのも、私たちケニアの作家はもはや『私たちの文学が誰の言葉と歴史に迫るのか?外国語によって伝達された外国の言葉と歴史と文化なのか?あるいは、ルオ語、スワヒリ語、ギクユ語、ルヒヤ語、カンバ語、マサイ語、ギリアマ語などによって伝達された国語と歴史と文化なのか?』という問題を避けることが出来ないからです。
その問題を考えれば、おのずと読者の問題に戻ります。もしケニアの作家が農民と労働者に語りかけたいと思うなら、その人たちが喋る言葉、つまりケニア諸民族の言葉か、ケニアの国語のスワヒリ語で書かなければなりません。そうではなくて、もし外国人や外国語をしゃべる人たちとの意志疎通をはかりたいと望むなら、英語やフランス語やドイツ語のような外国語を使用しなければなりません。もしケニアの作家が過去現在の多くの国民の声から創造的な刺激や活力を得たいと願い、ケニア国民の主流の中にいたいと望むなら、ケニアの民族語を使うべきです。もし外国人の声から創造的な刺激や活力を得たいと願い、外国の主流の中にいたいと望むなら、その時は外国語を利用すべきです。自らが選択を行なうとき、外国語による支配に抵抗するケニア民族語の闘いが帝国主義支配に抵抗するケニアの国民文化のより広範囲な歴史的闘いの一部であることをケニアの作家は忘れてはなりません。」
グギさん
グギさんは手始めに母国語のギクユ語で描き始め、ギクユ語で書かれた脚本で、農民とともに演劇を始めた。
次回は、グギさんの場合4演劇、か。その前に、受験英語、に戻るかも知れない。