つれづれに:ミシシッピ(2022年7月27日)

2022年7月27日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ミシシッピ

 「ライトシンポジウム」(↑、7月22日)でファーブルさんに会えたものの自分の思いが伝えられずに悔しい思いをしたので、英語をしゃべる努力をすることにした。(→「リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」、2019)その直後に伯谷さん(↓)から「MLA(Modern Language Association of America)」での発表を誘われて、勢いで引き受けてしまったが、英語での発表を考えると英語に慣れる必然性を感じた。その意味でも、もう一度アメリカに行きたくなった。1981年に初めてアメリカに行った時は、「サンフランシスコ」(6月19日)→「シカゴ」(6月20日)→「ニューヨーク」(6月21日)の後にライトの生まれたミシシッピに行くつもりだった。しかし、ニューヨークの 「古本屋」(6月22日)で本を買い過ぎて、予定を変更せざるを得なくなり、セントルイス経由で帰って来てしまった。前回は資料探しが中心だったのでそれでよかったとは思うが、今度こそはライトの生まれ育ったミシシッピを見ながら英語にも慣れる、それでいくことにした。1986年7月、シンポジウムがあってからまだ一年も経っていなかった。3回目の渡米だった。

 西海岸から東海岸までは遠いので今回もサンフランシスコ経由でニューヨークに行き、そこから深南部の一つルイジアナ州のニューオリンズ(New Orleans)空港に降り立った。その時はまだブラック・ミュージックについてはよくは知らなかったが、デキシーランドジャズで有名なフレンチクォーターにだけは足を延ばした。ニューオリンズから州都ジャクソン(Jackson)に行き、プロペラ機でライトの生まれたナチェズ(Natchez)空港(↓)に飛んだ。そこからはグレイハウンドバスに乗って移動した。ナチェズだったか、鉄道線路のそばを歩いている時に、同じくらいの背の高さの黒人が急にかけ寄ってきて「金をくれ(Give me Money)」と言ったので少しびっくりしたが、ノーと言ったら、何もなかったように離れて行った。概して鉄道線路脇の住まいはみすぼらしかった。

 ナチェズからライトが一時住んだというグリーウッド(Greenwood)にはバスで移動し、ホリデイ・インに泊った。到着したとき、バス停が乗客の乗り降りで混雑していたので、しばらくぶらついて戻ってみたら待合室のシャッターが下りていた。次のバスまでの間は閉まるものらしい。ホテルに電話するにも電話機が見つからないし、少し歩いていたら警察署が見えたので中で聞いてみた。電話機もタクシーもないそうで、結局パトカーで送ってもらった。日本では、風貌が学生運動の過激派に似ていただけの理由でパトカーが止まって職務質問されたことはあるが、乗ったことはない。とにかく、ホテルまでは着いた。真夏の陽射しがきびしかったが、折角なのでミシシッピ川を見たくて、タクシーを呼んでもらうことにした。フロントで頼んだら、タクシーはないそうだった。車社会なので、田舎のホテルにバスで来る人はいないらしい。フロントの人に聞いてみたら、歩ける距離みたいだったので、歩いて行くことにした。ミシシッピ川の堤防(↓)まで小一時間かかったと思う。

 ニューオリンズからこの辺りを遡ってメンフィス(↓)まで奴隷たちが炎天下の大農園で摘まされた綿花が船に乗せられて移動したわけである。この辺りはコトンベルト(cotton belt)と呼ばれたらしい。

 グリーウッドからミシシッピ大学のあるオックスフォードまでバスで移動した。大学ではシンポジウムを主催したメアリエマ・グラハムさんの研究室を訪ねた。シンポジウムの時は主催者で責任もあったので緊張した表情をしていたが、研究室では「あら、また来たの?」という感じで気軽に接してくれた。下の写真はその時もらったものである。翌日の地方紙と一か月後の研究誌の特集号にも載った写真である。真ん中に映っている人(↓)で、私の隣がその人の先輩のマーガレット・ウォーカーだそうだ。大学に推薦してくれた女性(→「女子短大」、7月23日)が喜んでくれるかとお土産にサインを頼んだが、嫌な顔で断られた。頼み方がよくなかったのか、後味の悪さが残った。

 近くのスクウェアブックスという本屋さんにもまた寄ってみた。アメリカの本屋は古本も扱っていて、『千二百万人の黒人の声』(↓)をたしか二万五千円ほどで買った。1941年の初版本だったから高かったと思うが、私の頭の中の円とドルの換算機能が壊れているので、つい買ってしまった。いっしょに行っていた本の虫のような人でも、さすがに買うのをためらっていたが、知らぬが仏である。古本に関心があるわけではないので、その初版本は裁断してデータにした。残っているのはその際の残骸だけだから、古本の価値はない。折角来たので、2年後のMLAの話をして発表予定のラ・グーマに関するいい本があったら送って下さいと頼んでおいた。リチャーズさんという笑顔の素敵な温和な青年だった。

 オックスフォードから今回はバスでテネシー州のメンフィス(↓、Memphis)に寄った。前回はその日のバスがすでになくて、タクシーを捕まえてオックスフォードに行っただけだったので、しばらく街をぶらついた。三時過ぎだったと思うが、向かいから歩いて来ていた2メートル近くある黒人が、上から「ペーパー?」と突然聞いてきた。「ペーパー?」と不思議に思って首を傾げていたら、今度はゆっくりと「あいむはんぐり I’m hungry.」と口に人差し指を入れながら、怒った声で吐き捨てた。Give me a favor、つまり鉄道線路脇で聞いたと同じ「金をくれ」という意味だったようである。大都市のまだ明るい時間に、それもそれなりの身なりの人から、突然「金をくれ」と上から言われるとは思わなかった。アメリカである。f も v も日本語にない音(おん)だから、favorがpaperに聞こえたわけだが、街の真ん中で知らない人に「紙」はないだろう。想像力の欠如の問題で、先が思いやられる。サンフランシスでの発表は大丈夫?
3回目のアメリカも、英語に慣れるという点では成果があったのではないか、そんなことを考えながら帰国した。
次回は、ラ・グーマ、か。