つれづれに:ほぼ初めての春の花(2022年8月30日)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:ほぼ初めての春の花

 春には一斉にたくさんの花が咲く。もちろんどこでも同じだが、「明石」や神戸と地面の締める割合が格段に違うので、咲く花も多彩だ。今まであまり見かけなかったきんぽうげについては「花を描く」で書いたが、薊もほぼ初めての春の花の一つである。川の堤防を行けば咲いていたと思うが、記憶に薄い。街中では見るのは難しい。大学に行く途中で渡っていた清武川の堤防や途中の田んぼやキャンパスの周りなどにかなり大きな薊が咲いていた。棘が刺さるので、摘むのに細心の注意が必要だが、摘んで来てよく花瓶に差した。よく摘むので、棘を取るのもずいぶんと手際よくなった。研究室にも大きな花瓶を置いて、投げ入れて飾っていた。昔もこの辺りには薊も多かったようで、山頭火(→「 なんで山頭火?」、→「山頭火の生涯」)の日記にも薊の句がよく登場する。「薊鮮やかに朝の雨上がり」は「あ」を最初に並べただけの遊びうただが、有名である。今の家に引っ越してきてからも、公園脇や池の周りや加江田川の堤防に薊を採りに出かけることも多い。

薊:「私の散歩道2009」5月(企業採用分)

 同じ頃に遠くの山の方を見ると、ぼんやりと藤色に見える個所が点在している。山藤(↓)である。よく見ると、近くの道端の樹や公園にも藤の蔓が絡んで、藤色のきれいな花が垂れ下がっている。初めてだった。きんぽうげや薊に比べると、枝や蔓も含めて大型で迫力もある。咲き初めの藤色の色合いがなんとも言えない。初めて県道わきの繁みで山藤を見つけたときは、絵に描いてもらおうと、思わず大きな枝ごと自転車に積んで家まで運んだが、すぐにぽろぽろと散ってしまった。モデルになるのがとても嫌らしい。

 少し違うが、絵に描くには藤棚から拝借するしかない。公園やキャンパスの藤棚から昼間に頂戴するのはさすがに気が引ける。夜中にこっそりと藤棚に忍び寄って、辛うじて絵になった。(↓)冷や汗の結晶である。山藤とは趣が違うが、藤棚に垂れ下がる藤の房も見事である。公園やキャンパスに藤棚を作りたくなる気持ちもよくわかる。昼下がりに藤棚の下のベンチで語らう光景は人の心を和ませる。

「私の散歩道2011~犬・猫・ときどき馬~」5月(企業採用分)

 宮崎は柑橘類の宝庫である。明石にいるときは、近くの和歌山、四国の愛媛と関東の静岡がみかんの名産地と思いこんでいた。春になるとあちこちで柑橘類の甘酸っぱい香りが漂う。種類も豊富だ。みかん、夏みかん、甘夏、たんかん、ぽんかん、きんかん、だいだい、最近は鹿児島の晩白柚の大きな実を見ることもある。今のところ宮崎にしかないのは日向夏である。好きな人がいて毎年冬場か春先に送っている。毎食日向夏を半分ほど絞って野菜にかけて食べている。甘酸っぱい味がいい。今年は買わなかった。散歩をしている途中で拾えるからだ。樹から捥いだことはない。途中に何本かの樹があるが、たくさん実をつけても、毎年誰も採らない。残ったままの樹に花が咲いていることが多い。そんな樹から落ちた実を拾って帰る。落ちるときはたいてい食べごろである。5月辺りに一斉に片づけられて実がなくなる時があるが、それでも何個かは残っている。草の繁みに隠れて、まだ2個残っている。しかし、採らずに落ちるか枯れるかしそうである。少し前にすだちが送られてきたからだ。小粒だが、日向夏より酸味があって、小粒半分でも充分である。9月の半ばくらいまでもちそうである。最近はへべずとかかぼすとかも出ているので、日向夏が出始めるまでの心配は不要である。

 ねじばな(↓)も都会では見かけなかった花である。漢字では捩花と書き、ラン科の多年草らしい。右巻きと左巻きがあるらしく、中にはねじれないのや途中でねじれ方が変わるものもあるらしい。右巻きと左巻きが半々だそうだが、巻き方を意識して見たことはない。もじずり(綟摺)とも言うようで、百人一首の「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」はなぜか覚えていて、この花を見ると「しのぶもぢずり 誰ゆゑに」のところだけが思い浮かぶ。なぜだろう?
 次は、春の花、か。