『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1
概要
エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の9回目で、エイズ治療薬と南アフリカ(1)です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)
『ナイスピープル』(Nice People)
本文
エイズ治療薬と南アフリカ(1)
1996年はエイズ治療元年と言われます。それまで有効な治療の手段がなかったエイズも複数の薬を使って効果的な治療が出来るようになったからです。
「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」(「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)でも書きましたが、免疫機構(外部から侵入してくる細菌やウィルスなどの異物を排除する仕組み)を調整するCD4陽性T細胞の染色体に組み込まれたHIV(ヒト免疫不全ウィルス)を除去する手立ては今のところありません。しかし、従来の逆転写酵素阻害剤と新たに開発されたプロテアーゼ阻害剤を組み合わせる多剤療法によって発症を遅らせることが可能になりました。HIVの増殖を抑えて免疫機能を保つために継続的にたくさんの薬を飲まなければなりませんが、HIVに感染してもウィルスを抱えたまま普通の生活が出来るようになったというわけです。
それまではHIVに感染すれば死を覚悟するしかなかったのですが、多剤療法のお陰でエイズは死の病ではなくなったのですから、画期的な変化です。
米国のテレビドラマ「ER緊急救命室」の第2シーズンに、母子感染でHIVに感染した男の子に逆転写酵素阻害剤AZTによる治療を続けるかどうかで悩む母親が登場しています。「ER緊急救命室」は1994年の9月に開始されたシカゴを舞台にしたドラマで、この話は恐らく1990年代前半、多剤療法が始まる以前の状況を描いたもので、今となっては貴重な歴史的な資料だと思います。当時、エイズ治療には有効な薬はなく、辛うじて逆転写酵素阻害剤AZT(アジドジブジン)が使われていましたが、副作用も極めて強かったようです。腰椎から大量に薬を入れる時に伴う苦痛も激しく薬の効果も不確かで、治療に当たった小児科医ロスの薦めで治療を始めたものの、毎回激痛に耐える子どもを見るのが耐え難くなり、グリーン医師から見込みのない治療を続けるよりは残された時間を大切にする方がいいと助言された母親が治療を断念して我が子を家に連れて帰る決断をするという話です。子供にHIVを感染させてしまったという自責の念と、苦痛に耐える子供を見るに忍びない母親の苦悩がひしひしと伝わって来ますが、多剤療法が可能になったもう少し後の時期なら、母親の苦悩も軽減されていたのに、と思わずにはいられませんでした。
1996年がエイズ治療元年になったのにはわけがあります。最大の理由は、当時のクリントン政権が多額の予算を投入して薬の開発がし易くなったからでしょう。治験に応じる患者が多かったことも新薬の開発には有利だったようです。それまでのレーガンとブッシュ政権はほとんどエイズ問題に手をつけませんでしたが、クリントンは1992年の大統領選で、縦割り行政ではなく責任者を決めて国が積極的に包括的な関与をすべきだとするマンハッタン計画をスローガンの一つに掲げました。1993年に大統領になるとさっそく責任者を決めて計画を推し進め、研究予算を3倍に、治療の予算も2倍にしています。
クリントン大統領
臨床治験の参加者ウィリアム・W・ドッジ氏は当時の状況を次のように語っています。
大量の薬を飲みました。3種類の薬を1度に20錠も。もの凄く副作用の強い薬で、かなり具合が悪くなりました。・・・退院するときウィルスが検出出来なくなるまでどれくらいかかるかと聞きました。すると、もう検出出来なくなっている、投与を始めてから5日目にはねという答えが返ってきました。驚きましたよ。でも、喜びを友人と分かち合うことは出来ませんでした。私は病気の発症を免れましたが、友人には発症している人もいるんです。誰でも治療を受けられるわけではありません。自分が歴史の転換点にいるように感じました。私より前のHIVの世界と私より後のHIVの世界はまるで別の世界でした。(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)
米国アーロン・ダイヤモンド・エイズ研究所のマーティン・マーコウィッツ氏とデヴィド・ホー氏は、HIVがあまりうまく複製出来ないウィルスで頻繁に突然変異が起こって薬に耐性が出来てしまう点に注目しました。そして、複数の薬で同時にウィルスを追い詰めるとHIVがすべての薬に対して同時に耐性を作ることが極めて難しいことを突き止め、プロテアーゼ阻害剤を含む3種類の薬で臨床治験を行ないました。その結果を1996年のカナダのバンクーバーでの世界エイズ会議で発表しました。複数の薬を同時に処方するこの治療法はカクテル療法(多剤療法)と呼ばれるようになり、HIVの感染が死の宣告だった時代が終わりを告げました。
同じ会議に招待されたエイズ患者のザンビア人の母親が「滞在費を出して下さってありがとうございます。それは私の3年分の家賃と同額です。航空運賃を出していただき感謝します。子どもたちが大人になるまで食べて行ける金額です。ありがとうございました。」と虚ろな表情で謝意を述べました。会議では薬が途方もなく高額なことには触れられませんでしたが、いくら新薬が開発されても薬代を出せない人には何の意味もないと訴えたのです。南アフリカから参加していたクワズール・ナタール大学のサリーム・アブドゥール・カリム氏は「その年のテーマは、一つの世界、一つの希望だったと思います。会議の終わりに私は本当にがっかりしていました。一つの世界なんて夢のような話です。私たちには希望のかけらもありませんでした。南アフリカであんな高価な薬を手に入れられる人はほとんどいません。」(「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と嘆いています。
抗HIV製剤
1997年、南アフリカ政府は急増するHIV感染者が新薬の恩恵を受け易いように、薬の安価な供給を保証するために「コンパルソリー・ライセンス」法を制定しました。同法の下では、南アフリカ国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価な薬を生産する免許が厚生大臣から与えられるというものでした。(その法律には、他国の製薬会社が安価な薬を提供できる場合は、それを自由に輸入することを許可するという条項も含まれていました。)
しかし1999年の夏に、アメリカの副大統領ゴアと通商代表部は、南アフリカ政府に「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めました。開発者の利益を守るべき特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定(TRIP’s Agreement)に違反していると主張したのです。しかし、その協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に、コンパルソリー・ライセンスを認めており、エイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」に当らないと実質的に主張したゴアは、国際社会から集中砲火を浴びることになりました。
HIV
次回は欧米の製薬会社と南アフリカの状況と、2000年のナタール州ダーバンでの世界エイズ会議について書きたいと思います。
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執筆年
2009年12月10日